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2021年4月14日水曜日

古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日本日記完全版」:The Complete Journal of Townsend Harris  〜伊豆下田玉泉寺から江戸麻布善福寺へ タウンゼント・ハリスの足跡をたどる旅〜




麻布善福寺にある
タウンゼント・ハリス、初代米国公使館跡碑
益田孝、藤原銀次郎が献納し朝倉文夫が彫刻した

裏面


今日は一日雨模様。コロナ感染もいよいよ第四波が来て不要不急の外出は憚られる。こんな日は以前にゲットした古書を読んで過ごそう。そして自宅「時空旅」に出よう。

今回の古書を巡る旅はタウンゼント・ハリス:Townsend Harrisの「タウンゼント・ハリス日記」:The Complete Journal of Townsend Harrisだ。本書は、日本滞在中に書き記した日記をニューヨークシティーカレッジ(ハリスが来日以前に創設した学校で現在のニューヨーク市立大学)の前学長マリオ・コセンザ:Dr. Mario E. Consenzaが採録、編集して1930年に出版したものだ。ハリスの死後、彼の姪からニューヨークシティーカレッジに寄贈されたハリス直筆の日記や関連書類が原典になっている。その後1959年に第二版(改訂版)、そして1968年に第三版が出されている。今回、1959年の第二版をも同時に入手した。この第二版には当時の駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世:Douglas McArther IIが序文を寄せていることが印象的である。その中で、マッカーサーは、日米関係の発展に貢献したコセンザと笠井重治に触れている(後述する)。この1930年初版の編者コセンザによる献辞には「To The Peace of The Pacific」とある。この年は重要な歴史的意味を持っており、この時期にハリスの日米友好親善に果たした功績に思いを致すことの意義を考えてみるべきであるというメッセージが込められている。1930年(昭和3年)はニューヨーク証券取引市場の大暴落(世界大恐慌の始まり)、日本は満州事変前夜、泥沼の日中戦争に突入するキナ臭い時代の幕開けの年である。振り返ると日本はペリー来航、ハリスの来日による開国から明治維新による近代化を果たし「一等国の道」を歩み始めた。しかし「富国強兵」路線にのって日清、日露の戦役に勝利してからは満州の荒野に戦火を拡大していった。そして軍国主義の道をまっしぐらに突き進むこととなる。こうした日本の有り様とその行く末を心ある人々は危惧していた。ハリスの日記をここで持ち出して、そのメッセージに仮託しこの時代の暗雲漂う空気に解き放った編者の日米友好親善の思いには並々ならぬものがあっただろう。なおこの本の日本語訳は「ハリス日本滞在日記(上)(中)(下)」坂田精一訳 岩波文庫があるが、絶版となっており古書でしか入手できない。

タウンゼント・ハリスは、日本史の教科書でも有名な人物なので改めて紹介するまでもないが、1854年、ペリーが結んだ日米和親条約に基づき、初代米国総領事として下田に赴任。続いて1858年の彼自身が全権代表として結んだ日米修好通商条約に基づき初代駐日公使となった人物。激動の幕末に日本にやってきて、徳川幕府との通商条約締結、通商のための開港を交渉したアメリカの全権代表である。大老井伊直弼の違勅(朝廷の勅許を得ない)による条約締結(1858年)、これに伴う攘夷運動の激化、そして安政の大獄(1858年)。桜田門外の変(1860年)で直弼暗殺と、ハリスは激動の幕末を生きたアメリカ側の歴史の証人である。ハリスは生まれも育ちもニューヨーク。生粋のニューヨーカーであり、教育者であり、上海で貿易に携わる民間人であった。職業外交官ではない。

彼の人物像や、下田における活動ぶり、通訳のヒュースケンや唐人お吉の物語、日本初の米国領事館が置かれた玉泉寺訪問記などについては以前書いたブログを参照願いたい。2020年10月7日「伊豆下田の玉泉時日本初の米国領事館跡を探訪する」今回は謂わばその続編である。

この本は彼が日本滞在中に書いた日記を編集したものである。日本の印象や出会った人々への思いだけではなく、アメリカ側から見た当時の日米交渉の実態を生々しく記述している点で貴重な歴史文書である。日本での記録は1856年8月21日の伊豆下田上陸、柿崎の玉泉寺での米国領事館開設から1858年6月9日で終わっている。したがって同年7月29日の江戸での日米修好通商条約交渉/締結、1859年の麻布善福寺での米国公使館開設、ヒュースケン暗殺(1861年)の前で途切れている。この歴史の画期ともいうべき江戸での出来事(4年滞在している)の模様の記録が、なぜか彼自身の言葉で書き綴られた資料として残っていないのは不思議でもあり、残念でもある。編者のコセンザ博士によると、以降の日記は遺族から寄贈された中には存在しないし、彼が晩年を過ごしたニューヨークの下宿からも発見されなかったという。ハリスが、この重要な時期の出来事を日記に記さなかったとは考えられず、おそらくハリスの遺品整理のどさくさで散逸してしまった可能性がある、としている。これらが発見されれば文字通り新たなページを追加することができると。しかし、既存日記だけでもその交渉過程と下田と江戸での日々の記述が、まるでその時代にタイムスリップしたような鮮やかさで蘇る。ハリスは健康上の理由で1862年には駐日公使を辞し帰国した。帰国申し出に際しては、ハリスとの個人的な信頼関係を築くことができた幕府要人側からも強い慰留があった。まさに欧米列強諸国に先駆けて日本に駐在し、幕府と交渉し、尊王攘夷運動で命を狙われながらも、米国のために全権代表としてミッションを完了させた。と同時に日本の新しい時代への幕を開けた人物と言ってよい。

ハリスは日本側の資料やその後の歴史小説などでは、列強の力を背景に開国を迫る強権的な異人の代表のように語られ、排外的な尊王攘夷運動の引き金となった人物として描かれることが多い。今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」でも悪辣な異人「ハルリス」として尊王攘夷派の憎悪の対象であり、「異人を江戸に入れるな!」というスローガンの対象として登場する。また交渉に当たった幕府側役人は無知蒙昧、優柔不断で、「異人の言うなりの」弱腰官僚と描かれがちで、水戸や薩摩や長州の尊王攘夷派が、如何に開明的で先進的であったかを強調する歴史観を表明する舞台回しに使われることが多い。しかし当時の幕府は日本の外交窓口を独占しており、諸藩以上に海外事情に明るく、ある意味開明的で、先進的な考えを持った有能な幕府官僚を有していた。上述のような一方的なステロタイプ「幕府像」「異人像」は、のちに明治維新を、さらには薩長藩閥政府を正当化する視点によるものであることは、後世の歴史検証で明らかになっている。歴史は「善と悪」というような二項対立を軸にした勧善懲悪小説のような見方では正しく理解できないものである。ハリスという人物の評価も見直されてしかるべきであろう。例えば、下田における「唐人お吉」の物語など、ハリスを好色な異人と描くことで、面白おかしい物語にして小説本の売り上げを企図する出版社の思惑や、昭和初期の戦争に向かう時代に入ってからは、反米感情を煽る世相の反映であろうと考えられる。彼の日記にはお吉のことは触れられていない。彼はその堂々たる体躯や強靭な意思の持ち主であるという評価に反して、日本に来てからは体調を壊し、病弱な面を見せていた。このため看護できる医者か看護師を幕府に要請していた(ヒュースケン日記に記述がある)。それを下田奉行所の役人は下衆な忖度で何人かの女性を領事館に派遣し、その一人に吉がいたとされる。が、彼女は3日で返されている(下田奉行所側の記録)。また彼の出身地であるニューヨークにおいては教育者、教育行政に携わった人物としての名声(前回のブログで紹介したように現在のニューヨーク市立大学の創設者である)や、聖公会に属する厳格なクリスチャンとして生涯独身を貫き、高潔な精神の涵養を生涯追及したことなど、ほとんど日本の歴史書では紹介されない。ハリスが時にはかなり強引な手法で交渉を進めてことは事実であろう。幕府にとって手強い交渉相手であったことは想像に難くない。それはアメリカ全権代表として外交交渉では当然のことで非難すべきことではない。丁々発止やり取りするのが国を背負った外交交渉である。幕府もしたたかな外交交渉でハリスを困惑させていた様子が彼の日記から読み取ることができる。むしろ当時の日本における過激な攘夷思想こそ、倒幕のスローガンとしては機能しても、新しい日本の再生スローガンとしては機能していない。その歴史的な意味を見直す必要があると考える。そろそろ攘夷派中心の幕末歴史観を改める必要がある。もっとも一種の通過儀礼ではあるが、隣の清国の過激な排外運動/攘夷運動の結果を日本人はすぐに学習し、欧米流近代化へと舵を切っていったことは正しい判断と選択であった。ただどこかで道を間違えて戦争まっしぐらの道を選択してしまうが。先述のようにそのような時期にこの本が出されたことの意義は大きいだろう。

また、彼の日記には条約締結交渉の進捗状況に関する幕府側への苛立ちや不信感を書き記してはいるものの、交渉相手であった幕府側の開国派の官僚、外交官である堀田正睦(閣老)、井上清直(下田奉行)、岩瀬忠震(江戸の外交官僚)、通訳官であった森山多吉郎などの人物評も興味深い。初期においては警戒感(嫌悪感と疑惑)をもって接していた様子が随所に読み取れるが、次第にその人物像、能力を評価し、しまいには相互に好感を持って接した様子がわかる。特にハリスが直接的に頻繁に条約締結交渉をした岩瀬忠震についてはただならぬ手強い外交官であると高く評価している(岩瀬忠震は小栗忠順、水野忠徳とともに「幕末三俊」と称された)。ハリスが日本に対してレスペクトをもって接したことの第一の理由には、こうした理非をわきまえた優秀な人物の存在があった。条約交渉では、いわゆる治外法権(問題になるだろうと身構えていていたが、幕府側が問題なしとしてあっさり認めたのでハリス自身がそれで良いのかと疑問視した様子が記載されている)や関税自主権(こちらも幕府側は税率そのものに固執して自主権の問題には触れなかった)など、後世に大きな課題を残したものもあるが、この当時の日本(幕府)が置かれていた立ち位置、幕府の力量としては(清国などと比べても)最小限の譲歩にとどめ、続く安政五カ国条約の雛形となり、列強の植民地化の芽を摘み取る結果となった。これは(後述する通り)ハリスの貢献が大きいのと、幕府側のギリギリの交渉が最後の砦を守った形になった。こうしたことから、岩瀬忠震は後にハリスに謝辞を述べてる。後世に漫然と伝えられているように、彼らは外交を知らぬ蒙昧で頑迷固陋な幕府官僚ではなく、訳のわからぬ幕府内のロジックだけで動くようなダラ官でもなく、まして問題を前にして思考停止してしまうような凡庸な人物でもない。高い目線と広い視野を持ったインテリジェンスあふれる手強い相手であった。このようなハリスと岩瀬の交渉と決着が、イギリスに先んじてその後の日本と列強諸国との外交関係のフレームワークを決める鍵となったと言っても過言ではない。激しい交渉を繰り広げた両国当事者の間に個人的な信頼関係が生まれたことは彼の日記の記述からも伺い知れる。

またハリスは条約勅許が未だになされない状況を見て、統治権力のトップである江戸の将軍:Tycoonの他に、統治権威のトップである天皇:Mikadoの存在についても十分に理解し、その二重統治構造が国内の不安定化の原因になりかねないことも見通していた。したがって開港の遅れについても、その事情が幕府側から説明され、ハリスもその国内事情を理解し、性急にことを進め、交渉相手である幕府の立場を危うくするのは得策ではないとの判断を示している。一方で過激な尊王攘夷運動の高まりを見て、今は開港を急ぐ時期ではないとも判断し、その旨本国に報告している。この辺りは清国相手に武力を用いた強引な交渉(恫喝)で、アヘン戦争後の南京条約、アロー号事件後の北京条約を結ばせ、次々と開港、居留地を認めさせた(事実上植民地化した)イギリスの手法を、西欧諸国の東洋進出の歴史の汚点であり後世に禍根を残すものと考えた。このような清国やインドにおけるイギリスの振る舞いや、それに追従するフランス、ロシアの強引な行動をそのまま日本に持ち込めば、日本(幕府)はひとたまりもないと危惧した。また一方で、この「植民地化」の動きは、新興国であったアメリカにとっての太平洋航路開設と、東洋貿易(自由貿易)参入への中継地としての日本の重要性に鑑み、憂慮すべき事態となることとの判断であった。このハリスの情勢認識とアメリカの権益を守る全権代表としての義務感が、先述のような(不平等条約ではあるものの)日米修好通商条約を生み出した。そしてそれが雛形となった安政五カ国条約が生まれた。このことが結果的に日本を「植民地化」「アヘン貿易の毒牙」から守ることになったと評価することもできる。日記にはこの辺りの情勢分析と判断、なかなか連絡が取れない本国の説得(日本に着任してから一年以上ワシントンからの連絡がないという苛立ちを隠せない様子が記述されている)など、その苦悩と疑心暗鬼、それに打ち勝とうとする使命感などの心のうちが記述されている。その後、大老井伊直弼の就任と彼による、一橋派の堀田正睦や岩瀬忠震などの開国派官僚/外交官の解任(井伊自身は必ずしも積極的開国派ではなかったと言われる)。そしてその井伊直弼の暗殺と、幕府内が混乱し外交政策に空白が生じていく。これに幕府を重んじ、ある意味での対英仏蘭露交渉に当たっての外交顧問的な役割を果たしてきたハリスの帰国(1862年)が続き、やがては幕府の国内外の統治能力に大きな疑問符がつき始め弱体化が加速していったと言ってよい。そして最後の将軍慶喜により徳川幕府による統治体制の幕引き(1867年の大政奉還)の時代に入ってゆく。以降、対日外交が弱体化したアメリカに代わって外交主導権を握ったイギリスは、薩摩との繋がりを深め、討幕運動支援へと向かい、フランスは幕府とのつながりを深めていったことは歴史で習ったとおりだ。そして初めて日本を開国へと向かわせたペリー以来、ハリスの活躍で対日外交をリードしてきたアメリカは、国内の内戦(1861〜65年の南北戦争)の勃発もあり、その影響力が相対的に後退し、倒幕、明治新政府樹立に向けてイギリスの影響力が増してゆくことになる。先述のようにハリスの日記は1858年で途切れており、また1862年には離任し帰国しているので徳川幕府の末路について、彼の日記から読み取ることはもとよりできない。もし彼の日記の散逸した部分が発見されるとこれは興味深い資料となろう。ニューヨークに戻ったハリスはこうしたその後の日本の歴史の流れをどのように観察していたのだろうか。ハリスが去った後、外国側からの視点で幕末史、明治維新史を紐解く資料は、1861年に江戸に着任した駐日イギリス公使ラザフォード・オルコックの著した「大君の都」:The Capital of The Tycoonや、アーネスト・サトウ:Ernest Satowの一連の著作に引き継がれることになる。

ハリスの日記には開港地に関する交渉過程が詳細に記述されていて興味深い。彼は当初11カ所を開港するように要求していたが、岩瀬忠震との交渉で4カ所に絞られている。幕府側のギリギリの交渉に折れた形だ。既に開港されていた下田の他、1859年に開港された長崎、横浜(神奈川)、函館と開港が遅れた神戸(兵庫)の他に、江戸(品川)、大坂(摂津、堺)、新潟の名前が候補地に上がっている。ハリスは殷賑な商業都市である大坂(摂津、堺)にご執心であった様子だが、京都に近いことからそれが難しいことも予知していた、これが兵庫開港の遅れの原因であったことも理解していた。下田は横浜開港と共に閉港されることになった。ちなみに、なぜか古代より対外交易の重要港であった博多は一度も検討の候補に上がっていない点が興味深い。長崎に近いこととや、鎖国200年の間にすっかりその歴史的役割を終え今日的な価値が薄れてしまった様子が垣間見える。

また余談ではあるが、1858年からの江戸での滞在中の記録には毎日のように「地震」が記録されている。ハリスは、この経験したことのない天変地異にかなり動揺していた様子が手にとるようにわかる。のちになると揺れが小さいものは慣れて気にならなくなったようだが。この時期は1854年のペリー来航以前の嘉永年間から安政年間にかけて日本各地で大きな地震が頻発した。もちろん各地で大きな被害が出ている。1854年には伊豆戸田に寄港中のロシア艦ディアナ号が津波で遭難し、大勢の乗組員が死亡している(下田玉泉寺にその遭難下士官、水兵の墓所がある)。また1855年の江戸安政地震では江戸城が大きな被害を受け、水戸藩の藤田東湖も死亡している。ハリス江戸滞在中もこうした一連の安政地震の余波は続いていたことを表す貴重な記録である。

ところで先述のように1959年の第二版では、当時のマッカーサー駐日米国大使(あのマッカーサー元帥の甥)が序文を寄せているが、そこにこの本の編者であるDr. Cosenza:コセンザの長年の友人であるJiuji Kasaiなる人物の名が引用されている。この人物に関しては寡聞にして知識がなかったが、笠井重治(1886−1985)は戦前から日米友好に尽力してきた山梨県選出の衆議院議員であった。戦前に旧制山梨中学からアメリカのシカゴ大学に進学し、ハーバード大学の行政大学院(今で言うケネディースクール)卒業後、日米開戦前の排日運動盛んな米国で日米友好親善の重要性についての講演を続け、一方で、反米感情高まる日本でも講演を行い、太平洋の平和:The Peace of The Pacificを熱心に説いて回った人物である。米国に多くの友人を持ち、この本の編者Dr. Cosenza:コセンザもその一人であった。そしてこの「ハリス日記」の出版にも協力した。戦前の国会議員選挙に何度も出馬したが、大政翼賛会に属さなかったため何度も落選して苦労している。戦後、衆議院議員に当選した。GHQのマッカーサー元帥にも幾度も嘆願書や提案書を出し、日本統治のアドバイスや善政を引くよう要望し続けた。その時の縁で、マッカーサー駐日米国大使にその日米友好への努力が高く評価され序文で言及されている。日米文化振興協会の会長を務めた。故郷山梨県には彼の記念碑があるそうだ。ちなみに今回手に入れた1930年の初版本は、なんとこの笠井重治の蔵書であった(蔵書印と蔵書ナンバーがある)。彼は多くの日米関係史に関する蔵書を有していたようだが、そのいくつかが手放されて現在は古書店に並んでいる。中でも因縁深いこの一冊、彼の思いの詰まった一冊を不肖私が手に入れたというわけだ。まさにThe Peace of The Pacificを願う笠井とコセンザ。その記念すべき書籍。何故古書市場に出回ることになったのかは不明だが、なんという出会いであることか。これだから古書を巡る旅はやめられない。

2020年10月7日「伊豆下田の玉泉時日本初の米国領事館跡を探訪する」


上が1968年の第三版
下が1930年の初版

第三版の表紙デザイン




初版本の見開き表紙とハリス肖像


編者コセンザの献辞
"TO THE PEACE OF THE PACIFIC"
時代の転換点である1930年という年に向けたメッセージである


第3版に寄せられたマッカーサー駐日大使の序文
Jiuji KasaiとDr. Consenzaの名前が引用されている


初版本のJiuji Kasai:笠井重治の蔵書印



柿崎(玉泉寺のある)から見た下田の街

1856年に下田の玉泉寺に開設されたアメリカ領事館
日本で初めて掲揚された星条旗

現在の下田玉泉寺
米国総領事館跡と米艦隊乗員の墓地があるほか、ロシア艦ディアナ号遭難乗員の墓がある


下田玉泉寺の領事館跡記念碑
渋沢栄一の寄付になるもの

現在の玉泉寺領事館跡記念碑

アメリカ公使館が置かれた善福寺の写真
有名な大銀杏の説明もある




日本初の米国公使館が置かれた麻布山善福寺

827年、弘法大師の開山になる真言宗の寺であったが、のちに親鸞聖人により浄土真宗に改宗。現在は浄土真宗本願寺派の寺。東京では浅草寺、深大寺と並ぶ古刹である。境内の逆さイチョウが有名。昭和20年の東京大空襲でイチョウも大きな被害を受けたが復活。背後に建っている異形の高層マンションはバブル時代の元麻布ヒルズ。善福寺境内の一部をを森ビルが買取り建設された。「物欲煩悩留まるとこを知らず」の時代の遺物だ。

現在の麻布山善福寺参道
なんとも異様な光景だが...

善福寺唐門

今日は幼稚園の入園式

善福寺本堂

銀杏の樹下に佇むハリス記念碑

善福寺の逆さイチョウ
戦災で大きな被害を受けたが復活した
ハリスがいた時代から有名であった

福沢諭吉夫妻の墓


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60-3.5-5.6)