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2020年10月7日水曜日

伊豆下田の玉泉寺 最初の米国領事館跡を探訪す 〜ハリス、ヒュースケンそしてお吉の物語〜

伊豆下田の玉泉寺
初の米国領事館が置かれた場所
米国領事館跡の碑とともにロシア艦ディアナ号水兵墓所の碑も建っている


前回は最初のイギリス公使客館が開設された高輪の東禅寺を訪ねたが、今回は伊豆下田の玉泉寺を訪ねた。ここは初めてのアメリカ領事館が開設された日米交流史にとって記念すべき寺だ。英国公使館開設に遡る4年前、1854年米国ペリー提督と幕府の間で締結された「日米和親条約(神奈川条約)」に基づき開港された下田が米国領事館開設の地となった。日本にとっては鎖国時代を打ち破る「開国のシンボル」とも言うべき史跡である。今回はこの舞台に立った3人の人物を紹介しよう。ハリス、ヒュースケンと、お吉だ。タウンゼント・ハリスの幕末日本における活躍と日本の新しい時代を作り出した役割については、ここで改めて詳説するまでもないが、彼は民主党支持のニューヨーカーである。そして知られざるもう一つの顔、すなわち出身地ニューヨークにおける教育者としての姿についても知ることになる。あのニューヨーク市立大学の創設者なのである。そして彼がこの舞台の主役であるとすれば、彼を取り巻くいわば脇役たちの物語も興味深い。


タウンゼント・ハリス:Townsend Harris(1804〜1878年)

1804年、ニューヨーク州サンデーヒル(現ハドソンフォールズ)に生まれる。ウェールズ系移民の子として育った。
1847年、苦学の末、ニューヨーク市教育委員会委員長に就任。この時に庶民でも高等教育を受けられるようにフリーアカデミー、現在のニューヨーク市立大学:City College of New Yorkを創設。自らもそこで教鞭を取った。地元ニューヨークでは市立大学創設者として知られている。
1849年、貿易商として上海に渡る。このころから東洋に強い関心を抱くようになり、奇しくも日本に開国交渉に向かう途中のペリー艦隊に遭遇。このデレゲーションに加わるべく交渉するが軍人ではないとの理由で断られ断念。
1854年、清国寧波領事に就任。
1854年、のペリーの日米和親条約締結に伴い、米国領事館を設置することとなったことを知り、ニューヨーク時代の人脈を通じて各界に根回ししたのち、1855年ついに当時のピアース合衆国大統領によって初代日本総領事に任命される。
1856年、初代駐日総領事として下田に赴任。この時ニューヨークで出会ったヘンリー・ヒュースケンを通訳として伴い米艦サン・ジャシント号で下田に上陸。玉泉寺に領事館を開設した。
1857年、日米和親条約の改定である下田協定を締結、このなかで領事裁判権を認めさせた。同年、江戸に参府して13代将軍家定に謁見、大統領親書を渡す。
1858年、彼が全権代表となって日米修好通商条約(14カ条)を締結。これが彼の最大のミッションであった。幕府はこれを機に五カ国と修交通商条約締結(安政五カ国条約)。これが朝廷の勅許を得ずに大老井伊直弼の独断で締結され、安政の大獄、桜田門外の変へとつながっていったことは知られているとおりである。。
1859年、日米修交通商条約を受けて江戸の善福寺に米国公使館を開設。ハリスは公使に昇格し下田から移る。
1861年、ヒュースケン暗殺。これ以降攘夷派のテロ相次ぐ(東禅寺事件など)
1862年、帰国(体調不良が理由と言われる)
米国への帰国後は公職にはつかなかったが、彼のこれまでの功績により議会決議で給付された年金で暮らした。
1878年、フロリダで死去。ニューヨークのブルックリン、グリーンウッド墓地に埋葬。
民主党支持者。聖公会の敬虔なクリスチャン。生涯独身を通した。

ハリスは、同時代に日本に駐在したオルコックなどのイギリス人と違い、キャリア外交官ではない。独立から100年も経っていない新興国アメリカ合衆国は、キャリアとしての連邦政府官僚や外交官を育成、保持する官僚制を持たず、海外現地に駐在している貿易商などを領事に任命した。高等教育を受けたエリート官僚や外交官ではなく、民間人が官僚や外交官になる。これは、大統領が変わると、選挙キャンペーン支持勢力(資金提供者)から各国大使やワシントンの連邦政府各省トップを指名する(いわゆる猟官制)という、現在まで続くアメリカの特色である。それにしても、ニューヨーク市での功績はあるにしても、一介の上海の貿易商に、このような重要な国の外交ミッションを与えるという米国の人材登用システムのダイナミズムには驚く。英国のオルコックやパークス、サトウらが職業外交官であるのと大きな違いだ。ちなみに日本に赴任してきたオルコックとオリファントは、長崎から江戸へ艦隊で向かう途中、下田に寄港し、ハリスとヒュースケンに会っている。記録にはハリスから日本の事情を聞き、解説を受けたとある。この出自がまるで違うイギリス人とアメリカ人、二人はお互いどのような印象を持ったのだろうか。やがて江戸で幕府と修好通商条約交渉に入るわけだが、この時どんな会話をしたのだろう。興味がある。

彼は聖公会派の敬虔なクリスチャンであり、厳格な性格の人物であった。米国領事、米国公使というオフィシャルな立場からだけでなく、自らの出自から来る庶民目線を失うことなく日本を日本人を観察している。彼が残した「ハリス日本滞在記」( 'The Complete Journal of Townzend Harris' in 1930)には随所に彼の目線でのエピソードが語られている。なかで日本は文明国で、この上もなく清潔で快適な国だと絶賛している。ことに下田がいかに庶民にとって平穏で豊かに暮らせる街であるか記述している。ただ、この国がこれからやがて近代化への道を歩むことで、日本人にとって幸せな事態が訪れるのかは幾ばくかの不安を感じた。彼がこの地に初めて星条旗を掲揚した時の日記には、「疑いもなく新しい時代が始まる。敢えて問う、これが真の日本の幸福になるであろうか?」と。ちなみにペリー艦隊の報告書で有名になった「下田混浴」については、「なぜこのような醜悪で不道徳な習慣があるのか」と嫌悪している。彼の外交官としての視線は、むしろ国家と国家ではなく人と人であった。これは江戸に遷り米国公使なったあとも変わりない。階級意識、エリート臭、プロトコル重視のアリストクラチックなところがなかったので条約交渉にあたって、幕府の高官は扱いにくかったであろう。しかし、ペリー来航のインパクトに続き、日本に乗り込んできたハリスの辣腕が日本がさらなる欧米各国との通商開始、開国へと進む原動力となったことは記憶に留めるべきである。と同時に、ハリスが原型を作った日米修好通商条約が、各国との「不平等条約」の一種の雛形になったことで、その解消に明治新政府がどれだけの苦心をしたかについても改めて記憶すべきことであろう。もっとも清国での大英帝国による恫喝とも言える交渉で香港が割譲され、多くの都市で排他的な租借地や居留地が設けられて植民地化されていったことを考えると、ハリスはそうした日本の植民地化につながる条件を条約に取り入れなかった。当時の幕府側の交渉力とハリスの対日外交政策が、列強の植民地化政策を防ぐ役割を果たしたとも言える。こうした「外交官」としての辣腕ぶりばかりが日本では話題になるが、彼の出身地ニューヨークでは、先述のように、庶民のための高等教育機関を創設した功労者として記憶されていることを忘れてはならない。後述する。


晩年のハリス


ヘンリー・ヒュースケン:Henrry Heusken(1832〜1861年)

アムステルダム生まれのオランダ人。のちに米国へ移民。貧困の中様々な職業を転々としていたが、人の勧めもあって日本に赴任するハリスの通訳募集に応募。英語とオランダ語の通訳として採用される。
1856年、ハリスとともに下田に赴任。玉泉寺の米国領事館に通訳官として着任。
当時の日本は英語がわかる役人が少なく、オランダ語で幕府とは交渉し、それを英語に翻訳するという交渉スタイルであった。彼はオランダ語、英語だけではなく、フランス語やドイツ語も堪能で、滞在中に日本語も習得している。したがって他国領事館からも重宝され、引っ張りだこで幕府との交渉にに駆り出されたという。
1859年、日米修交通商条約に基づき、江戸の麻布善福寺に米国公使館開設。ハリスとともに下田から移転する。
1861年、プロイセン公使館からの帰りに攘夷派「浪士組」の薩摩出身者の襲撃により殺害される(享年28歳。港区光林寺に埋葬され墓碑がある)。

このヒューケンの殺害事件は各国にとって衝撃の出来事であった。外国人が排外的な集団に襲撃され殺害される事件が起きはじめて7件目の事件であった。しかし、ヒュースケンは先述の通り、幕府からも各国公使館からも信頼される人物であり、外交交渉において重要な役割を担った外交官であり、その殺害のインパクトは多大であった。また、人柄が多くの人々に愛された。この時もいつものように赤羽橋のプロイセン公使館に出かけて麻布の米国公使館へ戻る途中であった。幕府側から付けられていた護衛隊が付き添ってたが、その間隙を狙って赤羽橋付近で襲撃された。彼の葬儀は、幕府からは新見豊前守、小栗豊後守はじめ5人の幕閣が参列し、各国の公使や外交官も参列する盛大なものであった。各国の軍楽隊が葬列に付き、彼の棺は星条旗で覆われ、オランダ海兵隊員により運ばれた。幕府からもハリスに対して弔意が示された。幕府はヒュースケンのオランダにいる母親に弔慰金を払っている。ハリスはもとより各国公使館は幕府に厳重抗議する。これをきっかけに各国は公使館を横浜へ移すべく外交団の間で論議が沸き起こったが、ハリスだけは江戸に留まろうとした。このころは江戸に駐在する外国人外交官の数が増え、また民間人も横浜の居留地を勝手に出るものや、傲慢で不遜な態度を取るものもいて、日本人の反発が懸念される状況になっていた。特に中国に駐在経験を有する彼らが、日本に赴任してくるケースが多く、植民地化された地域の中国人に対するの尊大な同様の態度で日本人に接することが排外運動の火種となりうる、とハリスは懸念していた。そういう意味でもヒュースケン殺害事件は、そのハリスの懸念が現実のものとなった事件であった。これ以降、攘夷派による外国人襲撃事件が多発(同年の英国公使館襲撃の東禅寺事件など)。薩英戦争、馬関戦争まで尊王攘夷のテロ活動が吹き荒れることになる。

ヒュースケンの人柄は、ハリスが厳格な性格であったのに対し好奇心旺盛な若者で、人に好かれる性格であった。下田の領事館で女性の召使を要求したのも彼だと言われている。下田の混浴を見にいったり、人々の日常の生活に興味を持って庶民と交流したと言われる。彼が残した「ヒュースケン日本日記」(岩波文庫で翻訳されている)は貴重な幕末史料の一つであるが、堅苦しい外交官の記録というよりは「若者が見た日本」、といった読み物としても興味深い。そのなかで将軍の謁見のためハリスとともに出かけた江戸参府の旅模様が出てくる。150名くらいの大行列であったようで、天城峠越えの苦労。そしてそれより高い箱根越えで富士山を見て感激した様子が約2ページにわたって記述されている(下田港から海路でなく天城越えの陸路で行ったことも驚きだ)。また、ハリスの日記と同様、日本が近代国家へと変貌してゆくことに、本当に日本人のためになる近代化なのか、との不安を吐露しているところが目に止まる。こうした観察と感想は、当時の多くの来日外国人の日記に見られる。彼らがはるけき日本にやってきて出会ったもう一つの文明国。人々の純朴さと、秩序が保たれ清潔で穏やかな生活が、やがて西欧文明に汚染されて、壊されてゆくことを懸念する感情だ。その後の日本を知る我々には示唆に富む記述だ。彼らが出会い新鮮に感じた、異国ユートピア観へのノスタルジアと片付けられない何かが感じられる。彼が生きていたら、どのような日本を見たのだろう。どのような日米関係を築いたであろう。そうしたヒュースケンが江戸で攘夷派の浪士に襲撃されて非業の死を遂げたことは日本にとっても痛恨事である。


下田時代に日本人が描いたと言われるヒュースケン騎乗図(作者不詳)

ヒュースケン襲撃の図(作者/年代不詳)


お吉(斎藤きち)(1841〜1890年)

ハリスが病気になった時に領事館へ看護師役として奉行所から派遣された女性である。当時17歳のうら若き女性であった。条約交渉に行き詰まっていたハリスは体調を壊し、医者か看護師を奉行所に要求した。奉行所は、妾の要求と考え、かつ交渉を有利に進めようと彼を籠絡すべく芸者を送り込んだ。ハリスはこれを嫌悪し吉を3日で解雇した(腫れ物があったという理由とも伝わる)。その後、お吉は「外人の妾」になった女として、人々から偏見と蔑みの目でみられるようになる。一時下田を離れるが明治に入ってからは下田で「安直楼」という小料理屋を営んだ。現在もその店が残っているが営業はしていない。のちに「唐人お吉」として小説になり、歌、演劇や映画にも度々取り上げられた。

しかし、この「唐人お吉」の物語、真実は如何に。市井の庶民だけに残された資料も少なく諸説あって確かなことは不明である。奉行所の記録によれば領事館に飯炊きなどの召使に派遣された娘たちは吉を含めて5名いた。ハリスの看病のためとして派遣された吉は、先述のように3日で解雇されている。他の4人の出仕期間は、ヒュースケンの召使の福は6ヶ月、あとはまちまちだが長くて1年ほどの出仕であった記録されている。しかし、そのなかで3日で解雇された吉だけが、人々にこのような偏見と好奇の目でみられ、差別と戦い次第に追い詰められて酒に溺れ身を持ち崩した晩年を送った。最後は稲生沢川で溺死体として発見される(入水なのか事故なのかこれも諸説ある)。彼女の遺体は宝福寺の住職によって寺に手厚く埋葬された。しかしこの理不尽さは何なのだろうか。後世に「唐人お吉」としてフィクションの世界で語り継がれたのはなぜか?この実在の人物である吉の物語は、如何にも結末が哀れであり、事実が不明な分だけフィクションとしていくらでも後世に「作り話」を加えられる要素があった。結局は後世の人々が「史実」と「作り話」のないまぜ潤色物語を創出していったのだろう。昭和初期には多くの小説、映画や、講談、演劇と、手を変え品を変えて「哀れな女の悲劇」を語り継いで行った。またハリスをまるで好色な米国人に描き、反米感情をも掻き立てるという、時代の要請、受けを狙ったのもあったのだろう。こうした吉に対する言われなき中傷とゴシップ、彼女に苦悩の人生を強いた世の中の好奇心。そしてハリスの名誉を傷つけるストーリーに、玉泉寺の住職は激しく反発している(「唐人お吉物語」その虚構と真実、玉泉寺住職村上文樹氏)。先述のようにハリスは経験なクリスチャンで高潔な人物であった。日本への赴任前には、貧しい階層向けの高等教育機関を創設するなど、ニューヨークでは偉大なる教育者として名を残している。そして生涯独身を貫いた。

お吉の墓がある宝福寺の「お吉記念館」に掲げられている写真が彼女の肖像として有名である。いかにも可憐で憂を含んだ表情には「唐人お吉物語」の悲劇性を彷彿とさせるものがある。しかしその真偽は不明である。現在では、撮影時期の年齢の相違や、庶民が肖像写真を撮ることはないことから、これはお吉ではないと考えられている。おそらく明治期に横浜の写真館で外国人向けの土産として売りに出されていた日本女性の写真(ブロマイド)「Officer's Daughter」が何らかの成り行きで「お吉」とされていった可能性があると言う。いずれにせよ、彼女が世間の下衆な好奇心や、それによる後世の作り話によって悲劇の主人公に仕立てられていったことは間違いない。ネット時代以前からこうしたゴシップや、根拠のない誹謗中傷で苦しむ人がいることに心しておく必要がある。

のちに創作されたプッチーニのオペラ「蝶々さん:Madam Butterfly」は長崎を舞台にアメリカ人海軍士官ピンカートンと日本人女性の悲恋物語だが、こちらは欧米の男の勝手な異国ロマン物語だ。当時、来日する外国人男性の間で密かに話題になっていた日本人女性との恋愛体験、現地妻「ゲーム」、「Nagasaki Marriage」をオペラ仕立てにしたものである。欧米男性はエキゾチックな夢を見て楽しみ、時間が来ればさっさと帰国する。悲恋を味わって哀れな最期を遂げるのは残された日本人女性だけと言う身勝手な話だ。これに対し、この「唐人お吉物語」は日本人が創出したもう一つの悲劇である。当時の日本人の外国人に対する穢れ観、その妾になった女性蔑視という全く不合理で理不尽な前提から、現実に存在した女性をモデルに物語を創出し、その哀れな女の一生に涙する。やはり悲劇を味わって人生を狂わせたのは女性だけ。いずれにせよこんな話が、後世に語り継がれる古典的名作になっているというのが不思議でたまらない。どちらも好みの作品ではない。小説や演劇や歌劇は必ずしも美しいものや正義の感情だけを描き出すものではないことを知っているつもりだが、なんともそのモチーフの残酷な現実を思い知らされることか。


お吉とされる写真
しかし...

晩年お吉が営んだ小料理屋「安直楼」
現在は営業していないが下田市の史跡になっている



玉泉寺

曹洞宗の寺院である。下田港のはずれの柿崎にある。創建時は真言宗の草庵であった。天正年間、1580年代に曹洞宗に宗旨替えとなった。1854年のペリー来航、下田条約締結後、米国人の休息所、船員の墓所に指定され、ペリー艦隊の水兵5名がここに眠っている。その2年後、1856年にハリスが総領事として赴任。日露和親条約の交渉や、プチャーチン提督の来訪もあり、安政地震津波で大破したロシア艦ディアナ号の犠牲者(3名)、アスコルド号犠牲者(1名)の墓所にもなっている。日本で初めての外国人墓地となった。海の見える丘の上の墓地に並ぶ墓碑を見ると、アメリカ、ロシア共に、ここに眠っているのはみな20代、30代の若者である。図らずも異国の地で命を失い、故郷に帰ることなくこの下田の土になった。人生至るところに青山ありと言うもののその無念の気持ちを思い魂の安らかならんことを祈る。

境内にはハリスの記念碑と星条旗掲揚のポストが残されている。またハリスが病気療養中に牛乳を取り寄せて飲んだことから「日本のミルク飲用発祥の地」になっている。一角にハリス記念館があり、ゆかりの品々が展示されている。昭和54年6月に第39代米国大統領ジミー・カーター夫妻、娘が来訪。その時の写真が掲示されている。伊豆急下田駅からは徒歩で30分ほど。途中伊豆漁協にある「道の駅」で新鮮な地元ネタの寿司を楽しみながら、ゆるりと散策すれば遠くはない。「ハリスの小径」と銘打った海べりの道を進むと、吉田松陰がペリー艦隊の黒船に乗船しようと小船を漕ぎ出した弁天島がある。そこから玉泉寺ははすぐだ。


ハリス記念碑
星条旗掲揚の場所

ペリー艦隊乗員5名の墓
はるかニューポートの地を離れ、故郷に帰ることもなく此の地の土となった若者の霊よ安らかなれ

埋葬されている一人、サスケハナ号軍医の墓碑


下田港を見下ろす丘の上のアメリカ艦隊水兵墓所
心は海鳥となって空を飛び故郷へ

玉泉寺本堂
ハリスが健康回復のために日本で初めてミルクを飲用した記念碑が建つ

記念館に残るハリスとヒュースケンの提灯
彼らが下田で作らせたもの

安政地震/津波で破壊されたロシア艦隊ディアナ号、アスコルド号犠牲者の墓
若き水兵の魂よ安らけくと祈る


「ハリスの小径」に地元の小学生の画が掲げられている。



ニューヨーク市立大学:City College of New York

1847年、NYC教育委員会委員長であったタウンゼント・ハリスによって創設された。
高等教育を受ける機会に恵まれない庶民や、当時、宗教上の理由でアイビーリーグなど東部名門校に入れない若者向けに、収入や人種、宗教による差別のない公立の教育機関として創設されたフリーアカデミーを起源とする。その後シティーカレッジ:City College of New Yorkへと改組し、それを中核としてニューヨーク市立大学:City University of New Yorkが形成され、全米でも有数の規模の公立大学に発展している。ニューヨーク、マンハッタン北西のウェスト・ハーレムに美しいキャンパスを有し、コロンビア大学も近い。私立優位のアメリカにあって、公立の大学として全米でも高い教育レベルを誇る。卒業生、在籍生には、ケネディー政権の国務長官のヘンリー・キッシンジャー:Henry Kissinger、ブッシュ政権の国務長官のコリン・パウウェル:Colin Powel、前ニューヨーク市長のエド・コッチ:Edward Koch、インテル共同創業者のアンドルー・グローブ:Andrew Groveなどがいる。ノーベル賞受賞者も9名にのぼる。



大学の紋章


大学に掲げられている
創設者タウンゼント・ハリス肖像
我々が知る姿よりは若々しく凛々しい


現在のキャンパス

1900年当時の本館


参考文献:

タウンゼント・ハリス著「日本滞在記」上・中・下 岩波文庫
ヘンリー・ヒュースケン著「ヒュースケン日本日記 1855−1861」岩波文庫