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2020年10月1日木曜日

江戸高輪の東禅寺 最初のイギリス公使宿館跡を探訪す 〜攘夷運動の直撃を受けた禅宗寺院〜



高輪 東禅寺
「最初のイギリス公使宿館跡」


東禅寺山門

 

1858年に大英帝国のエルギン卿全権使節団と幕府の間で日英修好通商条約が締結され、江戸に最初の英国公使館を設置することとなった。公使館は品川御殿山に建設されることとなるが、それまでのあいだ仮の公使宿館が高輪の東禅寺に設けられることになった。東禅寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で、仙台藩伊達家、岡山藩池田家、日向飫肥藩伊東家など多くの大名家の菩提寺にもなっている古刹(1603年創建)である。しかし、幕末に初めての英国公使館となったことで、歴史の波に翻弄されることになる。品川駅から歩いても5〜6分のところにあり、近所の泉岳寺のように観光客や忠臣蔵ファンの参拝で賑わう「名所」ではないが、知る人ぞ知る幕末の歴史の舞台である。都心には貴重な静謐な境内に佇み往時に思いを巡らせてみよう。


初代公使オルコック着任(1859年)

初代の駐日総領事はラザフォード・オルコック:Ruterford Alcock(1809~1897)。彼は医者で外交官。1844年清国の福州領事、1846年上海領事、1855年広州領事を経て、1859年に初代の駐日総領事として開国間もない江戸に赴任する。のちに特命全権公使に昇格。

アヘン戦争の後の中国での15年の赴任期間中、租界の管理や領事裁判権など、英国の植民地政策の遂行、権益確保と拡大に成果を上げたと言われる。また上海領事時代にはさらなる英国の権益拡大のため、次の戦争を本国に提言し、のちのアロー戦争のきっかけを作ったと言われている。とまあ、かなり帝国主義的権益拡大の尖兵として活躍した人物だ。

江戸に赴任した時の当面の日英間の外交課題は、まず、兵庫、新潟、江戸、大阪の開港であった。しかし国内事情がそれを許さず、ことは容易に進展しなかった。これは朝廷と幕府の間で開港に関する合意が全くなされなかったことによる。やがてオルコックはこうした事情を理解し、幕府の釈明のための遣欧使節派遣を支援し、開港開市延期覚書を締結する。と同時に徳川幕府の統治能力の低下を感じ取った。幕府との関係強化に力を尽くすが、しだいに日本における情勢の変化、すなわち外国人排斥といった攘夷運動の激化。そして倒幕へとフェーズ転換してゆく様を見て取っていた。1862年、のちにジャパノロジストの一人として活躍するアーネスト・サトウ:Ernest Satowが通訳生として江戸に赴任してくる。

オルコックは1863年、本国へ一時帰国し「大君の都」をロンドンで出版する。日本は清潔で豊かな国であると絶賛する一方、日本人は異教徒、偶像崇拝者で神を信じない。我々とは異なり地獄へ落ちる「劣等民族」とも評している。これは当時のキリスト教徒の異教徒に対する定番の評価であったであったろうが、ちと現代の多様性尊重の価値観から見ると人種差別主義者に見えてしまう。

1865年、下関事件(馬関戦争)の後処理をめぐって駐日公使を解任される。中国での経験に基づき、強硬に軍事的な圧力をかけるよう本国に進言したが、日本まで兵站を伸ばす余力はないとして拒否された。しかし、清国公使に転出(栄転)。後任には彼の清国駐在時代の元の部下ハリー・パークス:Harry Smith Parkesが着任する。時代は、1867年の慶喜の大政奉還、1868年の鳥羽伏見の戦いと、日本の政治情勢の舞台転換が劇的に進み、徳川幕府の瓦解と、薩摩/長州連合を軸とした維新政府樹立の動きが明確になってきた。こうしてフランスは幕府を支援したが、英国は薩摩/長州側に立つ方向へ転換する。


「尊王攘夷」の嵐吹き荒れる

オルコックの在任中は、外国人にとっては大きな危険が伴う時代であった。1854年の米国ペリー提督との間で結ばれた日米和親条約で長崎、下田、函館が開港され、ついで横浜が開港。さらなる開港と通商の拡大を目指して1858年の安政の五カ国条約(英米仏露蘭各国との間で修好通商条約)が締結された。これにより欧米各国が日本に進出し在外公館を江戸に開こうとした。しかし時の孝明天皇は、先の米国との「和親条約」は別として、「夷狄」である外国人が「神国日本」に足を踏み入れる「通商条約」締結には真っ向から反対。「異人を入れるなんてもっての外や」と嫌悪感を示した。この辺りは清朝の「中華思想」「華夷思想」に基づく外国への対応と同類のスタンスであった。しかし幕府は勅許なしで条約締結を強行する。時の幕府大老井伊直弼の独断先行、反対派の弾圧「安政の大獄」、大老暗殺「桜田門外の変」、幕府権威の失墜、と繋がって行った歴史は誰もが知るとおりである。英国のアヘン戦争に始まる中国における欧米列強の植民地化への道、という隣国の事態を目の当たりにして、かねてから幕府の急速な開国の動きに反発していた尊王攘夷派の活動が活発になり、駐在してきた外国の外交官や商人を襲撃する事件が多発するようになる。1861年には麻布の善福寺にあったアメリカ領事館(タウンゼント・ハリス:Townsent Harris)の通訳ヘンリー・ヒュースケン:Henrry Heuskenが攘夷派浪士と思われる侍に殺害される事件が起こり衝撃が走る。英国を代表してやってきたオルコックとオリファントにとってのここ東禅寺を拠点とする日本での第一歩は、波乱と苦難の時代の始まりでもあったし、また彼らの存在がこうした攘夷運動のきっかけとなったともいえる。命を狙われる日々であった。しかし、排外運動と外国人襲撃に満ち満ちた清国で大英帝国の先兵として修羅場をか掻い潜ってきた彼らにとって、そんなことは想定内であったことだろう。


東禅寺事件(第一次:1861年5月28日)(第二次:1862年5月29日)

攘夷派が最初のターゲットとした外国人高官は英国公使オルコックであった。水戸藩出身の浪士14名が、彼を狙って英国公使宿館となっていた東禅寺を襲撃する。彼らは品川宿に結集し、船で海からから東禅寺に押し入った(当時は海岸近くに立地していた)。この時辛うじてオルコックは難を免れるが、一等書記官のオリファントと長崎領事のモリソンが重傷を負った。やがて二人とも本国へ送還となる。この時、東禅寺の警備に当たっていたのは郡山藩、西尾藩、そして幕府講武所の総数200名ほどとされる。彼らは果敢に応戦し警備兵1名が殺害され数名が負傷した(応戦せず傍観したという説もあるが、彼らはこの時の奮戦を評価されて幕府から褒美をもらった記録がある)。14名の浪士たちはその場で討死したもの、逃亡途中で自刃したものが出たほか、ほとんどが捕縛されて処刑された。数名が逃走したものの、その後坂下門の襲撃事件で死亡したり、天誅組の決起で死亡し、明治以降まで生き残った人物が2名ほどいると言われている。オルコックは厳重抗議し、幕府は賠償金を払い警備兵を増強することでまずは一件落着となった。これを機にオルコックは公使館を横浜に移した。そしてその翌年、1862年5月29日(丁度一年後)に、こともあろうに英国公使宿館の警備にあたっていた松本藩の侍が、自分たちの役割への不満から東禅寺の代理公使や英兵を襲ったが取り押さえられる事件が起きる(第二次東禅寺事件)。此の時はオルコックが本国へ一時帰国中で、代理公使のニールが横浜から東禅寺に公使館を戻していた。こうした公使館や英国人の安全確保のために、英国水兵の公使館への増強と常駐、英国軍艦の横浜港常駐を幕府に認めさせた。中国で排外運動や外国人殺害事件ののちにとった措置と同様なものである。そんななかまたしても大事件が起きる。


The Illustrated London News, 0ct.21, 1861
乗馬用の鞭で応戦するオリファント
(Wikipediaより)


生麦事件(1862年)と薩英戦争(1863年)

1862年9月14日の「生麦事件」である。オルコックが本国へ一時帰国している最中の出来事であった。東海道の神奈川生麦あたりで、江戸から京都へ向かう薩摩藩の島津久光の行列に、横浜居留地の英国民間人4名が乗馬のまま、脇にも避けもせず突っ込んで行き、行列をかき乱した挙句、制止を振り切った逃げようとした。警備の薩州兵がそれを排除しようとして一名が殺され2名が負傷。この事件は、当時の欧米の新聞では、日本の貴族に敬意を払わず無礼な行動に走り、現地の法も秩序も理解しない無作法な英国人が引き起こした事件と報じられた。外交官や公館を狙った東禅寺事件と異なり、当初は民間人の不注意が引き起こした事件と捉えられていたが、この事件は攘夷派を激昂させ外国人襲撃を正当化する口実を与えたほか、幕府や薩摩藩側の事件処理の不手際から、英国、幕府、薩摩藩の政治問題に発展する。それが決着しないうちに、1863年7月に英国艦隊が鹿児島に押しかけ、それを薩摩藩が砲撃したのを皮切りに薩英戦争となった。鹿児島城下が英国艦隊の艦砲射撃で焼かれ、薩軍の軍艦、砲台も壊滅的な打撃を受けたが、薩摩藩も果敢に反撃し、英艦隊も数隻の軍艦を失うなどの損害を出した。

大英帝国の中国やインド、アジア諸国での振る舞いは幕末の日本にも伝わっており、英国の武力を背景とした理不尽な要求や暴虐ぶりが強く警戒されていた時期であった。むしろ「黒船」による「砲艦外交」と言われた米国ペリー艦隊による開国要求、日米和親条約の条件のほうが受け入れられやすいものであったと考えられ、孝明天皇の日米和親条約は黙認しても、英国をはじめとする通商条約を勅許しなかった背景にはこうした英国への強い警戒心があったと考えられる。しかし、薩摩藩はこれをきっかけとして急速に英国に接近してゆく。


御殿山英国公使館焼討ち事件(1863年)

そうしたなか、1863年1月31日、品川の御殿山に建設中であった英国公使館の建物が焼き討ちにあい焼失する。これは「攘夷」を決行しない幕府の態度に業を煮やした高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤俊輔(博文)ら長州の尊王攘夷派による犯行であった。先述のように東禅寺は仮の公使館であった。オルコックは幕府に本拠となる英国公使館の建設と貸与を求め、これに応じた幕府が日本人の棟梁に建築を依頼した。建物はオルコックが指示した洋風建築であった。御殿山は風光明美な江戸っ子の人気の行楽地で、春には桜の名所であった。お台場の建設のために山が崩されたとはいえ、江戸っ子に馴染みの場所を外国人に提供することには大きな抵抗感があったという。そうしたことからも攘夷派がシンボル的に焼討ちした可能性もある。これによりオルコックは東禅寺から移転できなくなり、安全を考慮して横浜へ公館を移した。のちには再び御殿山で建設が始まり、今でも東海道線/新幹線の海側線路脇にイギリス公使館跡のプレートが残っている。


馬関戦争と四カ国艦隊下関砲撃事件(1863年、1864年)

さらに長州藩は、1863年、関門海峡を航行する欧米の艦船に無警告で砲撃、大きな損害を与えた。いわゆる下関戦争/馬関戦争である。この背景には同年までには「攘夷決行」せよとの孝明天皇の将軍家茂への圧力があった。幕府は武力による「攘夷」ではなく、横浜居留地や公館の閉鎖という措置を考えていた(実行する気はなかったが)のに対し、天皇の意を体して長州藩は外国艦船への武力攻撃を実行した形だ。その翌年1864年には、その報復として四カ国艦隊が下関を砲撃する。この砲撃で長州藩の艦船と砲台は完全に無力化され、砲台が占領される。先述の薩英戦争と並び列強諸国の圧倒的な武力を目の当たりにする事件であった。停戦交渉では長州藩は彦島の割譲を要求されたが、高杉晋作が断固拒否して停戦条件には盛り込まれなかった。彼は、かつて見た香港島の有様のことを思い出した。


攘夷運動の終焉と薩長連合成立による倒幕運動

このように東禅寺事件を端緒とする日本国内に吹き荒れた排外的な「尊王攘夷」運動も、これ以降、長州藩も、薩摩藩も、武力による「攘夷」では問題は解決しないことを悟り、薩長連合による討幕に向かうことになることは知られている通りだ。清国における攘夷(排外運動、外国人殺傷)の嵐が、かえって欧米列強の清国内における軍隊の駐留(武力保持、行使)や、開港地における軍艦の常駐、外国人居留地(租界)拡大、領事裁判権の要求につながっていったこと。統治能力を失った清国政府の機能不全が国内の分断や政治空白を招き、それが植民地化を加速し、国家が瓦解に瀕していったことからおおいに学習した。そして、オルコックがいみじくも読んだように幕府が統治権威と権能を失い、ある意味で清国と同様の道を日本も歩む可能性があった。しかし、反幕府勢力は分裂せず、「小異を捨てて大同につき」連合を組んで倒幕に向かうこととなる。これが清国の悲劇的な事態とは大きく異なる点であった。これまで対立してきた薩・長両藩が同盟を結び、西南雄藩の中核となって討幕へと向かい明治維新を成し遂げることとなる。この頃(1865年)オルコックの後任として赴任してきたパークスは、前任者の視点と政策を引き継ぎ、薩長倒幕勢力、そして明治新政府との関係を強化してゆく。中国で、巧妙に清朝政府の弱点を突き、戦争を手段として大英帝国の権益をしたたかに拡大していった、腕っこきの職業外交官、オルコックもパークスも、日本では、こうした動きをよく見て戦略を変えてきた。自分たちの中国における「成功体験」に固執して、同じ打ち手を日本で無定見に進めることはしなかった。そこには試行錯誤もあったが、のちに日英同盟と日露戦争の勝利につながる大英帝国の戦略のしたたかさ、外交能力の高さを見せつけられる思いだ。とともに日本の維新先達の目線の高さと、視野の広さ、そして歴史と世界に学ぶ学習能力の高さに驚嘆する。マクロ的に俯瞰する視点を持ち、それにより有能で手強い「外交官」たちをも味方にしていった。これが国家の分裂と外国の植民地化を防いだ。


ローレンス・オリファントの功績、アーネスト・サトウの登場

ところで東禅寺事件で負傷した「親日家」ローレンス・オリファントは、先述のように無念の気持ちを抱きつつ英国へ送還された。傷は完全には癒えなかったようで、後遺症に苦しんだと言われている。帰国後は下院議員になり日本から来た留学生(薩摩藩英国留学生等)の支援活動に従事して若手の育成に心を砕いた。一方で神秘主義的な宗教観に傾倒してゆき、アメリカのコミューンに移住したり、ユダヤ人の定住化に取り組んだりする。また彼の著した「エルギン卿遣日使節録」が、18歳の若きアーネスト・サトウの日本への憧れを呼び起こし、やがて彼は外交官として日本へ赴任する。そして、駐日特命全権公使へとキャリアアップの道を歩む。サトウは結局25年間に住み、日本で家族を持ち、明治期の日本に大きな足跡を残した外国人の一人となる。彼は多くの日本に関する著作を後世に残こし、ジャパノロジストの一人として日英両国に影響をあたえた。オリファントの無念と日本への愛惜の気持ちははこうして世代を跨って後輩に引き継がれ実を結んだと考えたい。


東禅寺の今

幕末に海外の公館として指定された江戸市中の寺院は、その後時間的な変遷を経てその様を変え、あるいは消滅してしまった寺院もあるという。今では信じられないことであるが、外国人に汚された寺として、檀家や菩提寺とする大名旗本が去ってゆくなど、衰退に瀕した寺院も多いという。そんな中で高輪の東禅寺は、周辺の都市化の影響で寺域の縮小や、建物の改変はあるものの、現在でもよく当時の姿を残していると言われる。都心にあって静謐な環境を維持する古刹である。特に英国公使宿館として利用された僊源亭(せんげんてい)や池泉回遊式庭園は、ほぼ当時の姿のままで残っているようだ。柱には東禅寺事件当時の刀傷や、鉄砲か槍でできたと思われる傷跡が残っていると言われている。残念ながら見学できるところは限られていて、山門脇に「最初のイギリス公使客館」の石碑と、説明板が設置されているが、境内は立ち入る人も少ない。客殿や僊源亭、庭園は公開されていないので立ち入れない。関東大震災や戦災にも遭わず残った貴重な遺構であり、国指定史跡にもなっているのに残念だ。往時をしのぶよすがは、その静寂に満ちた境内と、そこに漂うあの「時代」の空気くらいであろうか。たしかにオルコックもオリファントもここに立っていた。若きサトウもこの空気を吸ったのだと。ここから日本という国と人々を見つめた。そしてその鬱蒼とした境内の静寂の中から「分断は崩壊への一本道である」と言っている声が聞こえる。ここを死に場所と心得て切り込んできた攘夷の志士達の「排外的なテロでは問題は解決しない」という声もハッキリ聞こえる。激動の時代を振り返るにふさわしい静謐さである。


山門から境内へ続く参道

本堂
かつては海を望む場所に建っていたことを示す
「海上禅林」の扁額

三重塔


玄関周辺
創建当時のままだと言われている

都心にあって緑濃い境内


英国公使宿館として使用された「僊源亭(せんげんてい)」はこの奥


オリファント著「エルギン卿遣日使節記」
英国公使宿館と紹介されている

初代公使ラザフォード・オルコック
Rutherford Alcock

第二代目公使ハリー・パークス
Harry Parkes

ローレンス・オリファント
Laurence Oliphant

アーネスト・サトウ
Ernest Satow

参考図書:

ラザフォード・オルコック著「大君の都」幕末日本滞在記 上・中・下 岩波文庫

ローレンス・オリファント著「エルギン卿遣日使節記」新修異国叢書 雄松堂

アーネスト・サトウ著「外交官の見た明治維新」上・下 岩波文庫