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2010年12月24日金曜日

博多、聖福寺と今津浦 ー栄西の足跡をたどるー

 
聖福寺
博多御供所町

今津湾
渡唐船の風待ち港であった


博多は古代より大陸との窓口として栄えた商都であった。いま、来年の九州新幹線全線開業を目指して建設中の博多駅から大博通り沿いに走ると、祇園を過ぎて広い大通りの右手に壮大な寺院群が見えてくる。この辺りが御供所町だ。この辺りは博多における寺町であり、東長寺、聖福寺、承天寺などの壮大な伽藍が建ち並ぶ。

承天寺は宋の商人で博多を拠点に活躍した謝国明が建てた。また聖福寺は日本初の臨済宗の禅寺として宋から帰国した栄西が開いた。大陸から持ち込まれた、うどんや、喫茶、ういろうの起源もここに発すると言われている。舶来品発祥の地という訳だ。

このあたりは中世博多の時代には謝國明に代表される華僑、すなわち博多を拠点とした日宋貿易を動かしていた博多鋼主が多く居住した地域であった。1195年、帰国した栄西は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝より許しを得て、さらに博多鋼主の協力を得て華僑の居住地区であった博多百堂にに禅寺聖福寺を建てた。山門の扁額には後鳥羽天皇からもらった「扶桑最初禅窟」の文字が掲げられている。さらに栄西は後に京都で建仁寺を建立する。

博多の聖福寺は塔頭38院を数え、寺内町を形成する大寺院であった。その後、戦国時代の戦乱や、その戦後復興たる博多の太閤割により、その寺域は大幅に削られたが、今でも塔頭6院を数える博多屈指の大寺院である事には違いない。今は臨済宗妙心寺派の寺院となっている。

聖福寺は博多の東、石堂川ベリに位置しているが、この勅使門から真西に一本道が伸びている。その西の果てが博多総鎮守、櫛田神社だ。そう博多祇園山笠で有名な。聖福寺と櫛田神社を結ぶ線が、秀吉が後に行った太閤割り以前の博多浜の中心線であった。

栄西は、二度目の渡宋の機会を博多湾の西に位置する糸島半島今津浦で待っていた。今津浦は現在は福岡市西区今津となっているが、当時の博多湾には博多津以外にもいくつかの浦や津があって大陸へ渡る船の風待ち港になっていた。江戸時代に入って鎖国で博多が寂れても、筑前国主黒田氏は博多の五カ浦を貿易港に指定して内国貿易、流通の拠点とした。

話を戻して、栄西は渡宋の機会を待つ間に、その今津の誓願寺で発願文を起草している。今は静かな漁村であるが、当時はこのように大陸へ渡る僧や商人、船乗りが集まる国際港であった。今津のさらに北には唐泊地区があり、その名の通り、遣唐使が風待ちをする港であった所である。ここから向うはもう玄界灘。

今津のある糸島半島は知られているように古代伊都国の所在地であった。今津湾の入口にそびえる小さな山、今山は当時伊都国を中心に北部九州全域に流通していた打製石器(石斧等の)の産地であった。今山自体が巨大な玄武岩が露出した岩山だ。ここが倭国の文明の中心であった北部九州の弥生の農耕を支える、石器農具の一大生産地であり、その富により伊都国が経済的優位性を保っていたと言われる。

今津干潟は江戸時代に黒田藩が干拓を進めた後に残った今津湾とそれに付属する干潟で、カブトガニに自生地としても知られている。ここからは遠く糸島富士(可也山)を望むことが出来る。そして、箱崎から移転中の九州大学の新キャンパス、伊都キャンパスの一部が丘の上に望める。静かな干潟である。

話は変わるが、この今津湾と今津干潟の間にかかる今津橋には思い出がある。私が幼稚園の頃だろうか、父につれられて釣りに来た事があった。当時は今川橋に住んでいたが、釣りの好きな父は、今津橋がよく釣れるという話を教室の人から聞き、日曜日に一人息子を連れて筑肥線で今宿まで行き、そこから昭和バスに乗って行ったのだろう。昭和バス、というと当時は何か糸島の田舎のバス、という印象があった。

夏の熱い一日、父は釣れた魚を魚籠(びく)に入れて、橋の欄干から長いヒモを垂らして魚籠を下の水面下につけていた。まずまずの釣果であった。まだ小さな子供であった私は父の回りで駆け回るだけで釣りはしなかったと思う。しかしどんな魚が釣れたのか見たくて、その魚籠を引揚げて、中を覗こうとしたその時、水を吸って思いのほか重い魚籠は私の小さな手から滑り落ち、重みでヒモが切れてバッシャンと音をたてて水中に消えていった。流れは速くあっという間に魚籠は見えなくなった。父は向こうの方で麦わら帽子を被ってを無心に竿を垂れて、水面に漂うウキを見つめている。息子がトンでもないことしてくれた事も知らずに...

私は悲しくなり、父のところへ「魚籠を落とした。ごめんなさい」と泣きながら走っていった。
父は「ええっ!」と釣り竿をおいて、魚籠をぶら下げていた欄干の所までかけて来た。ヒモをたくし上げると、何の手応えもなくするするとヒモだけが上がって来た。
父のがっかりした顔、一日中釣ってずっしり重くなっていた魚籠が消えた。

「ばっさり」と一言。

父は叱りもせず、釣り竿を担ぎ私の小さな手をしっかり握って夕焼けの今津橋をとぼとぼと歩いて帰っていった。

今では立派な自動車専用橋と歩行者専用橋に分離されたコンクリート橋がかけられているが、当時は古い木造の砂利道の橋が頼りなげに一本架かっているだけであった。車なんぞ通っていた記憶もない。強い日差しと、ほこりっぽい砂利道と、潮風と、そして無情な水の流れだけが心に残っている今津橋。父をがっかりさせたという悔悟の念。それだけにやけに長い橋であったという印象がある。

栄西の足跡をたどる今津、魏志倭人伝の伊都国、そのような事を知るのはもちろん、ずっと後の事である。
























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