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2021年9月26日日曜日

50年ぶりのトマス・アクィナスとの邂逅 〜キリスト教神学とギリシア哲学の融合「なぜいまトマス・アクィナスなのか?」〜

 

St Thomas Aquinas (1225~1274)
トマス・アクィナス像

大学時代、私は法学部の学生であったが実定法にはあまり興味が湧かず、学部選択を間違えたかなと思ったものだった。しかし、手島孝先生の憲法学、伊藤不二男先生の国際法、グロチウス研究など、西洋哲学や思想史にかかる講義は大変面白かった記憶がある。なかでも水波朗先生の法哲学の講義には不思議な魅力に惹きつけられて聞き入った。もっとも難解で理解できたとは言えない。その理由の一つが、常に言及されていたトマス・アクィナスという13世紀の中世神学者/哲学者の思想と理論であった。永久法と自然法と共通善。人定法という概念を説いた。一言で言うなれば人が定める立法「人定法」である法律や規範の基礎に、誰もが理解する「人間はこうあるべき」という共通理念たる「自然法」や「共通善」という概念があるという考えである。しかしなぜ中世キリスト教神学者のいう「自然法」なのか?水波先生はカトリック教徒であったからキリスト教神学者の思想を説いているのだと、当時は考えていた。それにしても法学部の講義にトマス・アクィナスの「神学大全」が引用されるのか不可解であった。同じ大学には稲垣良典教授もいた。私は習わなかったがこのこの先生は「神学大全」の翻訳にも携わった日本におけるトマス・アクィナス研究の第一人者だ。浅学非才な私にとってはあまりにも世界が違う。法律学と神学/哲学がどう結びつくのか、キリスト教の信仰や形而上学とは程遠い自分には、その距離感が全く掴めなかった記憶がある。水波先生は非常に学生に慕われる先生で、ご自宅には多くの学生が集まっていた。私も友人と先生のお宅にまでお邪魔して色々な話を伺った。難しい研究課題のような話ではなく、気楽な談話会のようだった記憶がある。その会話の中で、結局は世の中を最後の一線で規定しているのは「自然法」「共通善」的な理解であるということを知ったような気がした。それがキリストやムハンマドやモーゼやブッダが説く一神教的な信仰や思想とは別に、いやあるいはそれらを横一線に貫く観念であることをなんとなく理解したつもりであった。また、神への信仰を前提としなくとも人間の理性を前提とした自然法をいうものがありうるとも考えた。英米法の基礎にあるコモンセンス:common senseにも通じるものがあるとも考えた。それにしても当時の70年安保闘争、新左翼系学生運動華やかなりし頃の我々学生には、エンゲルスの弁証法やマルクス、エンゲルスの上部構造、下部構造概念こそ世の中をうまく説明してくれる理論であると考えていた。そこへトマス・アクィナスという中世のキリスト教神学者が登場するわけだから驚いた。宗教は、マルクスが言う上部構造に属する「麻薬」だとして、一部の学生は「ナンセンス!」と拒否する者もいたが、今となればまさに「浅学非才の徒」と言わざるを得ないだろう。あの当時の九州大学といえばマルクス経済学のメッカで、経済学や法学の領域ではとりわけ「新左翼」思想の中心的大学であった。一方でそうした面ばかりがハイライトを浴びていて、こうした中世哲学研究の重要な拠点の一つであることに気づいていなかった。偏狭な視野と不勉強とは恐ろしい。

あれから50年。大学を卒業し、企業人も卒業し、水波先生の法哲学の講義を聞いてから半世紀が経過した。就寝前に聴くリタイアー老人のお楽しみ、NHKラジオの聞き逃しサービス「らじるらじる」。ここで東大山本芳久教授の歴史再発見「愛の思想史」の講義シリーズがあり、その中でトマス・アクィナスが語られていた。懐かしいその中世キリスト教神学者の名前に出会って、あの時の水波先生の講義の記憶が蘇ってきたという訳だ。トマス・アクィナスは中世においてキリスト教思想が、古代のギリシャ哲学とどう融合するのかを説いた。それを教会や修道院でではなく、当時盛んに創設された教会附属のラテン語神学校(スコラ)や大学(パリ、サラマンカ、ボローニャなど)で、学生との討論(Q&A)という形で説いた。いわゆる「スコラ哲学」と言われる所以だ。驚くことに現代ではヨーロッパ文明の基礎とみなされている古代ギリシャ文明が、中世においてはヨーロッパではあまり知られていなかったことである。古代ギリシャ哲学をヨーロッパキリスト教世界に持ち込んだのは、イスラム教徒である。イスラム神学者であり、イスラム哲学者であった。それまでソクラテスもプラトンもアリストテレスもヨーロッパ世界では忘れられた思想家、哲学者であり、むしろイスラム教徒に占領されたイベリア半島や、イスラムとの戦いであるレコンキスタ、数次に渡る十字軍の遠征を通じてイスラム世界から伝えられた。それをラテン語に翻訳して広められていった。これは哲学思想に限らず科学技術についても同様である。この頃はイスラム世界はヨーロッパキリスト教世界にはるかに卓越した文明世界であり、後世のヨーロッパ文明のカタリストであったわけだ。

そして中世ヨーロッパ世界でキリスト教神学(信仰)とギリシャ哲学(理性)を融合し中世哲学として体系化したのがトマス・アクィナスであった。これは当時のカトリック教会から見れば異端とも見做されかねない画期的なことであった。現に、晩年と死後に異端審問を受ける危ている。最後は聖人に列せられたが。彼は膨大な著作集を残した。そのひとつがこの「神学大全」である。この書は、先述のように学校(スコラ)で神学生向けの神学入門書として著された。神学生の多くの問いに対する答えを記述するという形式(いわば質疑応答集)で編纂されている。大部の著作である。そのなかで「法」についての質疑があり、永久法、自然法、人定法という概念を説いた。故に水波先生の法哲学の講義で「神学大全」が盛んに引用されたということが理解できる。法律(人定法)は人間の、国家の思想的、政治的価値観の表明であるのだが、人が制定する法律が法規範として機能するその根底には、明確に意識されないが誰もが共有する「自然法」や「共通善」があるのだと。そしてその前提として神の摂理/意思たる「永久法」があるとする。ここはキリスト教の「信仰」から来る考え方だ。ただ、キリスト教神学者だけでなく、イスラム神学者、ユダヤ神学者も盛んにギリシャ哲学のアリストテレス形而上学を研究し神学・哲学に取り入れており、神の法、自然法を説いているではないか。「なぜトマス・アクィナスなのか?」という疑問を呈する哲学研究者もいる。もっともだ。しかしルネッサンス以降の西欧キリスト教文明発展の文脈の中で考えれば、その後の西洋哲学思想の発展に果たしたトマスの役割は否定できないと考える。トミスト(トマス・アクィナス研究者)は何も無理やりキリスト教の信仰や思想の絶対性を主張し、そこに誘導しようとしていると考える必要はないと思う。人間にとって「神学:信仰」と「哲学:理性」の総合的な理解は宗教の違いに関わらず普遍的な意味を持つ。このギリシャ哲学(大自然の理法)から中世キリスト教神学/哲学(神の摂理/意思)、そこから経験主義や、カントの批判主義を経て近代哲学(人間そのものの本質)へと変遷してゆく。その中で自然法も「神の意思」から「人間の持つ本性」へとその基盤が変遷してゆく。日本では、トマス・アクィナスなどの中世哲学の研究者は、明治以降、欧米から取り入れた「西洋哲学思想」はデカルトやカントなど近世以降の哲学者の思想であり、中世を哲学暗黒の時代として無視してきた。その前はいきなり古代のギリシャ哲学に遡るとして批判する。確かに、西欧諸国では一般的である中世哲学研究が、日本において再評価され、西洋哲学に新たな視点を与えてくれることは興味深い。ただ、この「神学:信仰」と「哲学:理性」という緊張関係をトマス・アクィナスは、「哲学は神学の僕」、「信仰なくして理性なし」、「理性が信仰へ導く」としており、結局、彼の哲学はキリスト教の一神、三位一体の神の存在、それへの信仰を抜きにしては語れないことも明らかである。

実家の書棚に学生時代の蔵書がわずかに残っているのを発見した。その一冊が尾高朝雄の「法哲学概論」である。ハンス・ケルゼンの「純粋法学」横田喜三郎訳も出てきた。きっとこれだけはと処分せずに取っておいたのだろう。後年の水波先生の著作「トマス主義の法哲学」は見つからなかった。どこかに隠れているかもしれない。尾高著作が法哲学を、文字通り概観し、歴史を俯瞰してみる視点を与えてくれたように思う。その中にトミズム中世哲学の位置づけが明確に記述されている。そのページを開くと、懐かしいあの時代の空気がいっぱいに湧き出てきた。鉛筆で棒線や、書き込みが随所に見られる。メモやノートの切れ端がはらりとこぼれ落ちてきた。みるとびっしりと細かい字で論点を纏めてある。我ながらあの頃はよく勉強していたものだと感心する。その向学心をすっかり失ってボーッと生きている現在の自分を、まるであの頃の若き学生の自分が叱責しているような感情に支配される。これだけ勉強したはずが、今ほとんど覚えていない。のちの人生に生かしていない証拠だ。この50年何をしていたのだろう。この思索と思考プロセスはどこへ消えてしまったのだろう。しばらく読み耽ってしまった。少しずつ蘇ってきた。一念発起。改めて、水波先生の著作と「神学大全」稲垣先生翻訳を読んでみようか。しかし、後者は日本語訳だけでも四十五巻に登る大著である。まさにこれからかじりつくには「日暮れて道遠し」だ。しかし、私的には50年前に有耶無耶にしたトマス・アクィナス評価について、いま人生の終盤に差し掛かって再考察してみるのも面白い。いや単に懐かしく思い返すにとどまるのだろうが、それでも良い。

「今頃気が付いたか!遅い!」と水波先生は彼岸で笑っておられることだろう。


Summa Theologica 1596年版
「神学大全」表紙
1265~1274にかけてトマス本人と死後は弟子によって著された


2021年9月23日木曜日

お江戸日本橋の復活へ 〜いよいよ「橋上橋を架す」の愚を解消することに!?〜


「日本橋」に覆いかぶさる首都高速
戦後長く東京を代表する景観となってきた

銀座サイドからの景観
右は野村證券本社

日本橋室町サイド三越側からの景観
最近の若者はこの高架が「日本橋」だと思っているようだ

高速道路架橋の間にあまりデザイン的にもシンメトリカルでない形で
道路元標が設置されている。

「日本橋」のたもとに立つオリジナルの道路元標

日本橋三越が橋の袂に


「西河岸橋」から見る日本橋

「常盤橋」の頭上を走る首都高速

「日本橋」の親柱も高架橋の間で肩身が狭い

東京都の紋章を持つ獅子
「日本橋」は徳川慶喜の筆になる


1964年の東京オリンピックを目指して、東京が大規模な都市改造に夢中であったときに、この日本橋の上に高架道路橋が架せられた。東京の慢性的な交通渋滞を解消するための首都高速道路建設のためだ。都心の住宅やビルが密集している地域で用地買収がいらない、建設コストが安く済む、工期が短くて済む、そういった事情から道路上に橋脚立てて、川を埋め立て、堀割に沿って蓋するように高架橋が建設され、都心をくねくねと蛇のように進む首都高速道路が生まれた。これが現代の東京都市景観の特色となっていて、その土木建設技術の高さを誇る近未来的な都市構造の創出であるとみなされてきた。しかし、その日本の建設技術の素晴らしさと、経済便益への期待とのトレードオフで、水の都江戸の面影を残す景観と情緒、水辺に暮らす人々の生活環境が消えた。日本橋川の中空に巨大な高架橋が建設され、人々に歌われた「お江戸日本橋七つ立ち」の五街道の起点にして、日本の中心(道路元標)としてのシンボル、日本橋がこの巨大な大蛇のようなな構造物で汚されたと感じた人が多い。しかし当時は「お国のためにはやむを得ない」と、オリンピック優先、経済優先がまかり通った。まるで戦前の国威発揚なら「やむを得ない」と戦争進めた時代そのままに、何も変わっていない日本人の思考様式を感じさせる諦めようであった。当時は古き佳き江戸の、さらには近代国家の帝都東京のシンボルとしてのノスタルジアよりも、戦後の高度経済成長のシンボルとして受容された。だれも「屋上屋を架す」ならぬ「橋上橋を架す」愚とは考えなかった。むしろ経済合理性を考えれば、金に換算できないぬ景観や情緒など無くなっても「やむを得ない」と、それ以上考えなかったといったほうがいいかもしれない。

あれから57年、コロナパンデミックで世界中が大騒ぎのなか、東京で二度目のオリンピックが開催された。東京も世界的なパンデミックの例外ではないのだが、多くの国民が不安視するなか開催は強行された。しかし、時代はすっかりは変わった。1964年の時のような高揚感は、コロナ禍がなくとも既になかった。日本はもはや戦後ではない。高度経済成長の時代も終わり、バブル崩壊後の失われた20年も取り戻すことなく過ぎてしまった。GDP世界第二位の地位も中国に奪われた。産業資本主義からマネー資本主義の時代となり、これだけは不動と信じた「技術立国」の幻想が儚くも消え去る事態を迎えた。デジタルトランスフォーメーションの潮流もリードするどころか乗り遅れてしまった。少子高齢化が進み、人口の三分の一は65歳以上という超高齢化時代。人々は国の経済成長よりも、個人の生活の質を求めるようになった。もはやオリンピックが国威発揚だなんて誰も考えない時代になった。それだけ日本人は、日本社会は成熟したと言える。そうなると経済効率優先の高速道路よりも、安心で安全で心地よい生活環境を求める。そんな価値観の変遷がこの半世紀に起こった。こうしてこの日本橋も、中空に覆いかぶさるモンスターのような高速道路橋を撤去して、豊かな水辺の生活と親しみやすい景観を取り戻そうという動きが出てくる。そしてついにい、去年、2020年に高速道路高架橋を撤去することが決まった。高架橋の代わりに地底深部にトンネルを掘り高速道路を通す、という新しい技術がそれを可能にした。空から地下へ!今度は地下鉄や高速道路、地下街、上下水道、通信ケーブル洞道など、地下に都市インフラが網の目のように張り巡らされる時代を迎えた。

日本橋は江戸時代には日本の五街道の起点として。明治には近代化日本のシンボルとして。戦後は戦後復興とそれに続く高度経済成長のシンボルとして、それぞれにその姿を変貌させてきた。今、日本橋はその姿を再び新たにする時を迎えた。新しい時代に応じた人々の価値観の多様化を反映させるように。日本橋は「橋の下の橋」から再び陽の光を浴びてその美しい姿が人々の視界に蘇ることになる。そして日本橋川は、日の当たらない地下構造物的な扱いから、再び、都心の親水エリアとして生活にうるおいを与える場所となる。こうして振り返ると日本橋は日本の近現代の歴史と人々の暮らしを写す鏡のようだ。高速道路の橋脚の撤去と、新しい日本橋エリア完成は2040年だそうだ。まだ20年も先だ。いかに長寿社会になったとはいえ残念ながら我々世代でこの完成を見る人は限られるだろう。なんとか頑張ってカメラ持って駆けつけたいものだ。人の一生を超えて都市の輪廻転生はとどまることを知らない。それが現し世の姿である。


(日本橋の過去と未来)

昭和初期と思われる日本橋の姿

明治の架替前の木造の日本橋

(国土交通省関東道路整備局古写真より)

2040年完成予想図(三井不動産より)

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/.5 5.6)

2021年9月11日土曜日

9.11同時多発テロの悲劇から20年の今日 〜「テロとの戦い」の20年はなんだったのか?〜

ラガーディア着陸のときに見えるマンハッタンの姿(2002年)。
WTCのツインタワーがなくなり景色が一変した。


9.11の数カ月後にANA機から展望したロワーマンハッタン
WTCのツインタワーがなくなっている!
2021年9月11日
Reuterより

9.11同時多発テロの悲劇から今日で20年。あの衝撃的なニューヨーク、ワールドトレードセンタビル:WTCへの旅客機突入とその後の壮絶な倒壊は一生忘れることはできない。あの時私は東京にいてテレビでその瞬間を観た。最初は何を放映しているのか理解できなかった。飛行機が事故でビルに衝突したらしい、とかワシントンのペンタゴンやペンシルバニアでも飛行機が墜落したらしいとか、状況の把握ができていない様子の報道が続いた。しかし、徐々にこれは同時多発テロ攻撃だということが明らかになってきた。それにしても目の前で旅客機がWTCに激突する瞬間が放映されている。やがてその二棟のタワーが跡形もなく粉塵とともに倒壊してゆく。こんな悲劇を自宅のテレビでライブで見るなんて恐ろしい時代になったものだと戦慄した。ビルで働いていた人々、飛行機に搭乗していた人々、救援に駆けつけた消防、救急隊、警察の人々。2977人が犠牲となり、行方不明者が未だに多数いる模様だ。犠牲者の中には日本人の駐在員や学生も24名含まれていた。取引先であったM銀行のNY支店もこのビルに入居しており多くの犠牲者が出た。改めてご冥福をお祈りしたい。

私は2001年のこの時期、会社の海外事業の立ち上げで東奔西走していた。実はこの数日後にニューヨークへ出張予定であったが、日本からのNY便がすべてキャンセルとなり、この未曾有の事件で一時米国内の飛行が全面禁止されるなど大混乱となった。したがって出張は急遽延期。それでもクローズ直前の重要案件であったので、米国の航空規制が解除されるとともにニューヨークへ向かった。搭乗したANA機JFK便は、ほとんど乗客なし。CAのほうが多い貸切状態であった。ANA機はマンハッタン上空に近づき着陸態勢に。冬空の下、ロワーマンハッタンが眼下に見渡すことができた。上空から見るニューヨークマンハッタン島は、一見いつもと変わらぬ風景であったが、一つ大きな景観の変化があった。WTCのツインタワーが見当たらないのだ。やはりそうなのだと、その異様さにショックを覚えた。

JFKに到着すると、入国管理は意外に厳しくなく、到着客も少ないのでむしろスムースに入国できた。すぐに空港からカウンターパートのダウンタウンのオフィス、WTCすぐ隣のワールドファイナンシャルセンターに向かう予定であったが、電話で確認するとそこも被災していたので、急遽ミッドタウンの仮オフィスに向かった。ハドソン河畔の倉庫街のようなところに彼らは仮住まいしていた。彼らは、こういうタイミングで日本から駆けつけてくれたことにえらく感激して、涙ぐみながら固い握手をしてくれたことが印象的であった。日頃、強がりの権化でタフネゴシエーターを自認するのような大男が、弱音とも優しさともつかぬ感情を、思わず表してしまったようだ。こちらもクロージングを急ぐ当方側の事情で来ただけなのだが。ただ交渉そのものは相変わらずタフであった。ビジネスは、文字通りビジネスライクで止まらないのである。その日は空いているホテル(確か北野ホテルだった)に一泊して翌日のフライトで東京へ帰った。あの頃は元気いっぱいであった。

あれから今日でちょうど20年。これがきっかけとなったアメリカの「テロとの戦い」は、アルカイダやタリバンというテロリストの巣窟とされたアフガニスタンへの出兵、タリバン政権の打倒。大量破壊兵器を隠し持つと言われたイラクへの戦争とサダム・フセイン殺害。9.11同時多発テロの首謀者とされるオサマ・ビンラディンの殺害。次々と軍事力にものを言わせて他国に介入していった。こうした戦いは今年の8月31日の混乱のアフガニスタン首都カブールからの米軍の撤退で終わった。米軍撤退決定からあっという間にアフガニスタン政府と政府軍は瓦解し、大統領や政府高官は大金とともに国外脱出。壊滅させたはずのタリバンが速やかにカブールに侵攻し、20年ぶりに首都奪還、政権を取り戻した。あの9.11から始まった「テロとの戦い」この20年は何だったのか。アメリカや海外からの援助は政府高官や政商が懐に入れ、国民には行き渡らず、治安も国民の生活も守れないそんな腐敗した政府を米軍が守る。さすればそんな政府は国民の信頼を得ることができず、タリバンしか我々を守ってくれないと信じるようになる。テロはなくなるどころかこうして生き残り、世界に拡散し、イスラム国:ISISのようなウルトラ過激テロ集団まで跳梁跋扈する始末だ。今回もタリバン制圧下のカブールに突如現れ、国外脱出で混乱するカブール空港周辺に自爆テロを敢行して多くの人を殺害し、恐怖に陥れたテロ集団こそタリバンと敵対するISISだ。在留外国人とその家族、アフガニスタン人スタッフとその家族は、タリバンの首都制圧でパニック状態となり、次々空港に殺到。国外脱出を試みる群衆でカオス状態となった。離陸する米軍輸送機に群がる群衆の必死の形相はショックだ。デジャヴだ。ベトナム戦争のときのサイゴン陥落。米大使館屋上からのヘリでの脱出、タンソニェット空港の飛行機にしがみつく群衆。あのときの悲劇の再来だ。あれは「共産主義との戦い」であった。ソ連は崩壊したが、どっこい中国共産党と朝鮮労働党は生きている。より大きな脅威となって存在感を増している。

米国はじめ、イギリス、ドイツ、フランス、カナダ、オーストラリア、韓国は自国民の救出とアフガニスタン人スタッフ救出のため、軍用機やチャーター機を派遣して、次々と国外へ脱出させた。米国は軍も大使館も31日の撤退期限の最後までカブールにとどまり約2万人の民間人、アフガニスタン人スタッフとその家族を救出した。イギリスも英国大使が現地に留まって、最後まで救出作戦の陣頭指揮をとった。アフガニスタン人とその家族には英国入国ビザを発給し続け、6000人を英国に送り込む姿が世界に報道されて印象的であった。それでも全員の救出はできず非難されている。一方でこうした米英はともかく、我が日本はいかに。大使は不在。大使館員15名は全員が8月中旬には早々と英国の救援機で国外に脱出し、カブールの日本大使館を閉鎖(外務省の公報でも発表)。在留邦人の救援機は、ほとんどの各国救援機が飛来したあと、最後の最後に派遣されてきたが、遅れてきた自衛隊機はカブール空港での自爆テロで着陸できず、隣国パキスタンで待機。救援を待っていた在留邦人、大使館、JICAなどのアフガニスタン人スタッフその家族500人ほどは結局、救出されることなく、自衛隊機はわずか日本人1人を含む崩壊したアフガニスタン政府関係者10数名人を載せて飛び立ってしまった。日の丸を背負った自衛隊機が救出に失敗して飛び立ってゆく姿を、取り残された在留邦人やアフガニスタン同胞はどんな気持ちで見ていたのか。在留邦人や同胞を救出し、一番最後に現地を離れるべき在外公館職員がいないのだから、自衛隊機との救出連携も取りようがない。また大使館の輸送支援がなければ、テロで混乱し、公共輸送機関などあてにもできない在留邦人が空港に行くことすらままならぬ状況であることはわかっていたはずだ。政府の自衛隊機派遣も、意思決定が遅すぎる。結局、ほぼなんの成果もなくカラで引き上げてくるなど失態と言わざるを得まい。救援は失敗した。アフガニスタンの友人を失い、そして国際的な非難を浴びる結果となったしまった。ちなみに中村哲医師の遺志を継ぐペシャワール会の医療メンバーは現地に残り、引き続き診療に携わっている。頭が下がる思いだ。

日本という国は危機管理が弱い、「平和ボケ」だなんて言っている場合ではない。9.11は決して対岸の火事ではない。アフガニスタンのタリバン復活も、ミャンマー国軍クーデタ、民主勢力の弾圧も、香港の民主主義抹殺も決して対岸の火事ではない。もちろん台湾の民主主義を守る民衆の戦いも。このアメリカ軍のアフガニスタン撤退劇を観て、これからもアメリカが同盟国とその国の人を守ってくれるという幻想を持つことはできない状況が見えてきた。「自由と民主主義」「法の支配」「自由競争市場経済」といいう「普遍的価値観を共有する」はずの同盟者アメリカは、大統領がトランプからバイデンに代わっても「自国優先主義:America First」をはっきり打ち出している。自力救済しない、できない国は同盟国でも助けない。アフガニスタン政府の他力本願に嫌気が差したので、手を引いたらあっという間に崩壊した。これはアメリカにとっては極めて重要な教訓だ。かつてアフガニスタンに手を突っ込んだ大国は、みな統治に失敗して撤退し、そしてその後は自国が衰退している。イギリスも、ロシア(旧ソ連)も、そしてアメリカも...自分で自分のこともできない人のことにかまっている場合ではないという空気が流れ始めている。軍事力では人の心は制圧できないことも。そして「普遍的価値」が通用しない世界があることも。日本はコロナパンデミックのバタバタで露呈した、有事、非常時の意思決定プロセス、体制、心構え、指導力の欠陥をキッチリ総括して修復しておく必要がある。コロナ対策に限らない。これからは東アジアにこうした有事がありうることを肝に銘ずる必要がある。有事における在留邦人の保護と救出。自国権益の保全。それができないでどうする。あの満州国崩壊に伴う難民と化した日本人開拓団の悲劇以来何も変わっていないではないか。いざというと米軍頼みでは、崩壊したアフガニスタン政府と同類になってしまう。それは決して憲法を改正して軍事力を強化することで解決する問題ではない。政治における国民の命と財産と生活を守る目線の回復だ。その憲法で「健康で文化的な最低限の生活」が保証されている(生存権)はずである。国民がいざというときに「公助」に期待できず、「自助」「共助」しかあてにできなくなったら政府はいらないということになる。国民にお願いしかしない政治、いざとなっても国民を助けてくれない国。肺炎になって高熱が出ても医者に見てもらえず自宅待機という名の「放置」がまかり通る医療先進国。テロや有事に在留邦人や味方の友人を助ける前に早々と脱出する平和国家の在外公館。それで良いのか。日本は有事対応や外交が不得手だ、なんて反省ばかりしてないで「平和ボケ」から目を覚ますときだ。折しも自民党総裁選が始まる。もっぱら自民党内の派閥争いや長老政治という、世の中に全く通用しないロジックで選挙が動いている。しかしこの国難は、そんな過去の論理を壊して大胆な改革に向かうキッカケにならなければならない。目を覚ませ自民党、怒れ主権者!




2021年9月8日水曜日

古書を巡る旅(14)"Blake Poetical Works" 「ウィリアム・ブレイク詩集」 〜BBC Promsとそのフィナーレを飾る愛国聖歌Jerusalem!〜

BBCより

 今年も英国はプロムス:Promsの季節である。BBCの毎年恒例の夏の音楽祭で、国中が盛り上がる一大イベントだ。今年は7月30日に始まり9月11日に最終日フィナーレを迎える。去年に続いて今年もコロナ感染で開催が危ぶまれたが、一部オンライン、そして会場のロイヤル・アルバート・ホールは無観客で開催することになった。無観客だと、例年のような(写真は2018年のプロムスのフィナーレ)盛り上がりには欠けるだろうが、これも致し方ない、コロナパンデミックはこうした伝統のプロムスの歴史にも異例の出来事として記憶されるであろう。

この最終日にエルガーの「威風堂々」や「Rule Britania」と国歌「God  Save the Queen」と共に合唱される「エルサレム:Jrusalem」。プロムスのクライマックスを飾る聖歌で、英国民はユニオンジャック打ち振りながら感極まり「英国人で良かった!」と感じる瞬間である!そうしたことからGod Save the Queenに次ぐ第二の国歌と言われる。これはウィリアム・ブレイク:William Blakeの詩に、著名な音楽家ヒューバート・パリー卿:Sir Hubert Parryが曲をつけたもの。映画「炎のランナー」Chariot of Fire (Hue Hudson 監督、1981年)でも、映像の最初と最後の主人公エブラハムの葬儀のシーンで、彼への敬意とその功績を讃えて流れる。この映画のプロローグとエピローグを飾る感動的な聖歌である。イングランドの不屈の精神と理想を賛美するこの聖歌は、あらゆる場面で歌われる愛唱歌でもある。以前から感じていたことであるが、こうした愛国歌を心置きなく会場全体で合唱し、国旗を打ち振りながら全員が愛国的歓喜の渦に身を委ねるなんてなかなかないことだろう。愛国心は一歩間違えば、と気に病むのは日本人ぐらいなのだろうか。あのときの戦争の戦勝国と敗戦国の違いをいつも感じる。

かつてロンドンのLSEに通っていた時、ストランドのセントクレメント教会から時々この聖歌Jerusalem が聞こえてきたのを覚えている。そもそも教会から聞こえてくる賛美歌や聖歌の調べは、特に我々のような東洋の国からやってきた人間にはエキゾチックに感じるものだ。しかしその時はなんという聖歌なのか、どういういわくのある歌なのか知らなかった。のちに映画「炎のランナー」:Chariot of Fireで、その冒頭と最後に流れる聖歌が、あの時ストランドで聴いたことのある曲であることがわかった。心が震える思いがした。歌詞を知って日本人の私ですら、妙に愛国的気分が高まり感極まる思いがしたものである。それが詩人ウィリアム・ブレイク:William Blakeとの出会いであった。

ところでエルサレム:Jerusalemを書いた、そのウィリアム・ブレイク:William Blakeとは何者なのか?今ではイギリスを代表するロマン派詩人と見做されているが、日本人にはそれほど馴染みのある詩人ではないかもしれない。彼は1757年ロンドン、ソーホーで生まれ、1827年ロンドンのストランドで世を去った。生粋のロンドンっ子である。彼は画家、銅版画家として活躍し生計を立てた他、詩人、神秘主義のアーティストで、難解な作風で幻想的な詩が多く、生前は認められることが少なく不遇であったという。しかし、彼の死後、その評価が見直され現代に至るまで様々なアーチストに影響を与えた。いわばビジュアルアートと文学をあわせて表現した先駆者であり、神秘主義的、象徴主義的な表現メッセージが再評価されたとも言われている。特に彼の預言書、長編詩集「ミルトン」の序章の一節エルサレム:Jerusalem(1818年)が先述のように様々な場面で取り上げられるようになり、曲が付けられるに及んでついには第二の英国国歌とさえ言われるようになった。「ブレイクといえばエルサレム」と固定観念化された感がある。ところで彼にはこの「ミルトン」とは別に「エルサレム」という長編詩もあるので混同されがちであるので要注意だ。この預言書、長編詩「ミルトン」は偉大なる詩人ジョン・ミルトン:John Miltonを主人公とした詩集である。彼はミルトンをギリシア、ラテンの剣の奴隷に毒された預言者と批判しつつ、一方で彼自身にミルトンを投影するような神秘主義的な作品である。その序章に掲げられた「エルサレム」は古典的な伝統主義や近代的科学万能主義の双方を批判した詩となっている。

彼は英国ロマン派詩人と言われているが、自由主義、反戦主義、人種差別反対、奴隷制廃止、女性解放 そして産業革命時代の科学万能主義に抗う歌や作品を数多く描いた。かといって必ずしも政治的なスローガンを前面に出した反体制詩人というわけでもない。神秘的な題材を借りて象徴主義的な表現で語った。この「エルサレム」の歌詞にも産業革命、科学万能時代のシンボルたる煙を吐く工場を「悪魔の工場」に見立て、再び緑豊かなイングランドの丘に理想郷、エルサレムを打立てるのだ!と歌われている。「工場」を英国を覆うあらゆる権威主義、科学的合理主義や自由を束縛するものどものシンボルとし、これと戦う意志の表れとされるが、彼の表現はなんとも幻想的、象徴主義的であり、アナーキーなものを感じる。一方で、イングランドこそ聖なる都エルサレムが建設されるべき「選ばれた地」であるという選民意識の表れとも解釈される。ここが「愛国歌」として持て囃される所以なのだが。

第一次大戦中の1916年に、英国民の戦意を鼓舞するために、先述のように彼の詩に音楽家のヒュバート・パリー卿:Sir Hubert Parryが曲をつけたのがこの聖歌となった。しかしブレイク自身が国粋的な「愛国者」かといえば、前述のように、ある意味ではシニカルでアナーキーな反戦主義者であった。その彼の詩がなぜ、後世、国民の戦意を鼓舞する愛国歌とされたのか?ちなみに作曲をしたパリー自身も自由主義者で戦意高揚歌には抵抗があり、そういう点からブレイクの詩を選んだとも言われている。「愛国歌」であり「反戦歌」であるという、イギリス人には不思議な愛され方をしたものである。その証拠にこの聖歌は、先述のように第二の国歌として歌われるだけでなく、婦人参政権運動の応援歌として、イングランドのラグビー・クリケットチームの応援歌として、労働党の党歌として、あるいは極右グループの愛唱歌としても歌われるという多様な面を持っている。英国という国の持つ多様性というか、感性の複雑性というか、人々の愛国心も一様ではない、なかなか単色で理解がしにくいメンタリティーであると感じる。

日本では大和田建樹、柳宗悦、大江健三郎が ブレイクをロマン主義の詩人として紹介している。


Jerusalem:原詞と日本語訳

And did those feet in ancient time.
Walk upon England's mountains green:
And was the holy Lamb of God,
On Englands pleasant pastures seen!

いにしえの時
イングランドの緑の山々に
神の御足が降り立ったというのか
聖なる神の子羊が
清純なる緑野に顕れたというのか

And did the Countenance Divine,
Shine forth upon our clouded hills?
And was Jerusalem builded here,
Among these dark Satanic Mills?

雲立ち込める丘に
神の御顔が輝き出でたというのか?
こんな闇の悪魔のような工場の間に
かつてエルサレムが存在したのか?

Bring me my Bow of burning gold;
Bring me my Arrows of desire:
Bring me my Spear: O clouds unfold!
Bring me my Chariot of fire!

燃え盛る黄金の矢を我に!
望みの矢を!槍を!雲をけちらせ!
炎のチャリオットを!

I will not cease from Mental Fight,
Nor shall my Sword sleep in my hand:
Till we have built Jerusalem,
In Englands green & pleasant Land

心の戦いは決して止まず
剣は手の中で眠ることなし
イングランドの清純なる緑野に
エルサレムを再建するまでは!


BBCより

THE SUNより


会場となるロイヤルアルバート・ホール


2012年のBBCプロムスのYouTube動画はこちらから⇒ https://youtu.be/041nXAAn714


今回入手した「The Poetical Works of William Blake」は1890年の出版の小型の詩集で、いつもの神田神保町の「北沢書店」で入手した。彼の知人のWilliam Michael Rossettiの撰録、編纂であり、巻頭に長文の回顧録が掲載されている。ブレイクの作品の多くが彼の死後、価値が薄いものとして焼却されたり散逸したりしたようで、このロゼッティも、彼なりの評価で撰録し、捨てるものは捨てている。ロゼッティはブレイクの名誉を守るために、彼の名声を傷つけると感じた作品を処分したとしている。その取捨選択の適否はともかく、ブレイクはまだまだ奥深い彼独自の世界を持っていたようで、多くの未知の作品が現代まで残っていないのが残念である。20世紀になって、英国ロマン派の創始者として再認識され、BBCが英国の偉大なる芸術家100人の一人に選定するなど、再評価が進んでいる。本当の芸術家は死してその名を輝かすものなのだろう。



The Poetical Works of William Blake、1890年版
編者は彼の友人William Michael Rossetti

預言書「ミルトン」Jerusalemの一節


預言書「ミルトン」の序文
ここに詩「イェルサレム」が掲載されている

ブレイクによる装画


彼の描くアイザック・ニュートン
産業革命後の科学万能時代を批判する意図で描かれた

2021年9月5日日曜日

古書を巡る旅(13)Japan Day by Day:「日本その日その日」〜貝の採集に日本へ来た生物学者エドワード・モースは、そこで何を見つけたのか?〜

品川区立大森貝塚遺跡庭園のモース博士像

「品川区立」大森貝塚遺跡庭園である
大田区の皆さんごめんなさい

「アッ、見つけた!」

桜の季節


貝層の出現状況が保存展示されている


JR線の大森駅と大井町駅間の切り通しの小高い台地上に「大森貝塚遺跡庭園」がある。ここは明治にモース博士が大森貝塚を発見した場所で、その跡が今は区民憩いの公園になっている。春は桜が美しく、電車が見える公園として子供達にも人気である。大森貝塚は小学校の教科書にも登場し日本人なら誰でも知っている遺跡で、品川区の名所旧跡の一つである。日本の考古学発祥の地と言われる。しかしそのモース博士とはどのような人物なのか。意外に知ってるようで知らないことも多い。


1)エドワード・シルベスタ・モース:Edward Sylvester Morse(1838年〜1925年)の略歴

1838年 アメリカのメイン州ポートランド生まれ。

日本の生物学、博物学、考古学の父と言われる。もとは動物学者、腕足類(二枚貝の一種)の研究者。しかし、若いときはろくに学校も行かず退学になったり、仕事も転々としていた風来坊。ただ貝類の採集、標本には情熱を持っていて、新種の発見や希少種の収集の世界では有名であったようで、大学の研究者も標本の見学に来るほどであったという。このように大学出ではなく素人の研究者から出発。やがてハーバード大学アガシー教授の学生助手になり本格的な研究生活を始める。さらに学位がないにも関わらずボーディン大学の生物学教授やハーバード大学の非常勤講師をつとめるまでになる。日本の植物学の父と言われた牧野富太郎博士(1862〜1957年)を彷彿とさせる。

日本滞在期間は通算3年ほど。東大教授在任は2年ほどと短いが、後世に多くの功績を残した。もちろん大森貝塚の発見と発掘調査が彼を有名にしているが、実は。この頃西欧社会に大旋風を巻き起こしたダーウィンの「種の起源」(1859年)「進化論」を初めて日本にもたらした功績が大きい。また、大学の教員の質向上(専門的な御雇外国人の雇用、推薦)、研究者の育成、大学の研究レベルを上げるために、論文を海外雑誌(Nature等)に投稿し、学会、海外研究機関、研究者との研究交流を進めることの重要性を説き、自ら実践した。そして日本文化にインスパイアされて民具、陶器などのコレクターとなる。


1877年(明治10年)腕足類研究、新種の貝類採集のために来日する。特段、日本に興味があったわけではなく、多様な腕足類の存在に興味があったための来日であった。しかし.....

来日早々、横浜から新橋に向かう汽車のなかから大森貝塚発見。

乞われて東京帝国大学教授(生物学)に(2年契約)この間江ノ島に臨海観測施設を開設する。

同年11月米国における講演などの仕事のため一時帰国

1878年(明治11年)家族とともに再来日

1879年(明治12年)東大満期退職。帰国

1880年セーラムのピーボディ科学アカデミー館長に

1882年(明治15年)再再来日 今度は生物学者、考古学者としてではなく、日本の文化に強烈なインパクトを受けたコレクターとして、民具、陶器など美術/工芸品の収集のためにやってきた。

1883年(明治16年)離日 

1914年ボストン博物学会会長

1915年ピーボディ博物館名誉館長

1917年セーラムで「日本その日その日」:Japan Day by Day執筆、刊行

1925年セーラムで没す


2)ダーウィンの「進化論」とモース

1859年に発表されたチャールズ・ダーウィンの「種の起源」は衝撃的であった。生物は、その種が枝分かれして変異し、自然淘汰や適者生存で進化していったものだとする。この頃の「常識」、すなわちキリスト教的な理解では、種は神がそれぞれに創造した不変のものである。人間は神が初めから神に似せて創造したものであり、いわば猿が進化したものであるはずがない。これはキリスト教会の聖職者のみならず、一般の人にも信じられていた。さらに驚くのは19世紀、科学的合理性勃興の時代にあって生物学者にも、それを否定する、あるいは疑念を抱く学者がいたことだ。モースの恩師ハーバード大学のアガシー教授もその一人であった。モースはアガシー教授の反進化論を最初は支持。しかし、腕足類研究を通じて、どうしても「進化論」支持せざるを得ない事実を確認するに至り、モースは「進化論」者へと変わっていった。そして腕足類の種類が奇跡的に豊富な日本での採集と標本のために来日した。

こうして日本に初めて最新の「進化論」を持ち込んだのが他ならぬモースであった。彼は大森貝塚発見で有名だが、生物学者としては「進化論」をもたらした功績が大であるといわれている。モース以前にもドイツから来た外国人教授が進化論を説いたとか諸説あるようだが、彼の大学での講義と一般向けの講演が印象的で、当時の日本に大きな影響を与えたことは間違いない。マスコミにも大きく取り上げられている。ちなみに元々モースはアメリカでも多くの講演会を持っており、講演で稼げるほどの講演上手で人気があったようだ。ダーウィンの「進化論」発表から17年が経っていたが、まだまだ欧米のキリスト世界では完全に定着していたとは言えない中、彼はその最新の理論を説き、東大での講義には500人の受講者が集まったという。キリスト教の教義を第一義に自然界の成り立ちも理解してきた西欧諸国の衝撃と異なり、日本で進化論はどう受け入れられたのか? ハーバート・スペンサーの「社会進化論」を生み出した生物進化の理論は、日本では急速に進んだ明治維新後の社会の変容にも適用されると考えられた。とくに自然淘汰や適者生存の考えが受け入れられて、ハーバート・スペンサーが福沢諭吉、西周など明六社メンバーでもてはやされた。また政治思想家であり、のちの東京帝大総長となる加藤弘之などがモースの説くダーウィンの生物進化論講義を熱心に聞き、影響を受けたと言われている。それはスペンサーの社会進化論の源流としてであった。


3)大森貝塚の発見は何をもたらしたのか?

前述のように横浜から新橋へ向かう汽車が大森駅を出てすぐに、鉄道建設のために開削した切り通しの断面に白い貝殻の層を確認。これが古代人の生活の痕跡、いわばタイムカプセルとしての貝塚であることを発見した。東京帝国大学教授となっていたモースは早速発掘許可を得て調査した。その結果、この貝塚は3000〜3500年前の古代人の集落跡であり、人骨のほか、土器、石器、骨角器など261点が発掘された。考古学的な時代区分として新石器時代の遺跡であることを特定した。また縄目模様の土器が多数検出されたことから、のちに「縄文時代」と命名されることとなる。モースは、先述のように腕足類の貝の研究をしていたことから貝塚には強い興味を持っていたのだが、いざ掘ってみると貝殻の向こうに先史時代人の生活と文化を発見したというわけである。「日本の考古学発祥の地」の碑が大森駅にある。

彼は、この発見により腕足類貝の研究、進化論の研究から次のフェーズへ転換したと言っても良い。モースはこれまで考古学という概念、研究領域が明確に存在しなかった日本に考古学をもたらしただけではなく、世界に日本の「縄文文化」を知らしめることとなった。発見の功名争いもあった。ナウマンやシーボルト(あのシーボルトの孫で英国公使館書記官)と争い、彼が独占的に発掘権を得たと言われている。また発掘成果をまとめた研究論文を海外にいち早く発表するなど、国際的な研究交流を進めることの重要さを教えた。大森貝塚の出土品の一部は米国に送られた(現在ピーボディサセックス博物館に収蔵されている)が、代わりに米国から先史時代先住民の出土品などの多様な研究資料が東大に寄贈された(アメリカ先史時代先住民と東アジア先史時代人が同じルーツであるとの仮説を提唱している)。また多くの図書の贈与が日本側に行われ、現在の東京大学図書館の基礎となった。こうして大森貝塚の研究成果が、彼を通じて大学の国際的な研究交流、方法論の確立、人材育成につながっていったことは特筆すべきであろう。


4)なぜ大森貝塚碑は二つあるのか?

ところで、この大森貝塚遺跡の記念碑が二箇所あることをご存知だろうか。しかもたった300mしか離れていないところに2つ。ことの顛末はこうだ。

発掘から30年経過した昭和4年になって、モースの功績を顕彰する記念碑を建てようということになった、しかし、モースが発表した調査報告書に正確な発掘場所の記述がなかったこと、当時発掘に携わった人々の記憶が曖昧になっていたことから、発掘現場の位置の特定ができなかった。最終的に下記の二箇所が記念碑設置候補場所となった。結局、両方に記念碑が設置されることとなり、どちらがホンモノか長く論争となっていた。のちに当時の発掘届けの記録(東京市)が発見され、これにより、発掘現場は荏原郡大井村鹿島谷であることが判明した。すなわち現在の品川区大井6丁目の「大森貝塚碑」の位置である。現在はここに品川区立大森貝塚遺跡庭園が整備されている。もう一方は、大田区山王1丁目のNTTデータ大森山王ビル敷地内で、「大森貝墟」碑が立っている。大森は品川区ではなく大田区であるので、本来ならば「大森貝塚」ではなく「大井貝塚」と呼ばれてもおかしくないし、また近所の品川歴史資料館に発掘成果の一部の展示されている他、敷地内に大井鹿島谷遺跡(縄文集落跡)の一部が検出している。こちらも本来なら日本考古学発祥の地として「博物館」になっててもおかしくないのだがそうはならなかった。先述のようにモースの調査報告書に場所の正確な記述がなかったので、大森駅を出たあたりで発見した貝塚、ということから「大森貝塚」と認識されていたというわけだ。大森貝塚からの出土品は主に東京大学に保管されている。

第一現場)大森貝塚碑(昭和4年建立)品川区大井6丁目 大森貝塚遺跡庭園内




第二現場)大森貝墟碑(昭和5年建立)大田区山王1丁目 NTTデータ大森山王ビル敷地内


「日本電信電話公社」の文字が懐かしい


碑文に名を記している理学博士佐々木忠次郎(モースの弟子で、発掘に携わった)は、
大井の第一現場の石碑にも名がある。どちらが正しいのか迷っていたのであろう。


5)モースの日本滞在記、Japan Day by Day:「日本その日その日」(石川欣一訳)

進化論を日本にもたらし、衝撃を与えた生物学者。さらに大森貝塚を発見、発掘調査して縄文時代を日本と世界に知らしめた考古学者。それだけでも偉大な足跡を残したのだが、モースはそこにとどまることはなかった。彼の日本での研究活動、関心は第三のフェーズに転換してゆく。彼が招聘したフェノロサやビゲローなどと同様、日本の文化、生活様式に衝撃を受け、この西欧文化とは異なる「もう一つの世界」の新鮮さに目を開かされた。工芸品や、美術品のコレクションを極めた。能楽にも精通していた。フェノロサが廃仏毀釈の嵐の中で打ち捨てられてゆく仏像や仏教美術を惜しみ、岡倉天心と、破壊からの保護と救済に取り組み、日本美術の再評価の活動をしてきたことは知られている。しかし、一方、モースは庶民の生活の中で生まれてきた生活雑器などの民具、工芸に着目した。精力的に日本各地を旅行して、人々と交流し、好奇心旺盛に事物の観察を続け、民具や陶器の収集に努めた。これまで見てきたサトウやチェンバレン、フェノロサ、コンドルなどの明治期の来日外国人知識人に共通する「日本文明」の「発見」とそれへの憧憬と、それに触発された文化人としてのモースの姿があった。もともと生物学者としての観察力、収集癖(?)がむくむくと湧き起こり、彼の収集活動は膨大なコレクションを(モースコレクション)形成することになった。彼の日本滞在中の日記、旅行記がJapan Day by Day:「日本その日その日」である。滞在期間が短かった割には上下二巻からなる大部の書物で、その内容は生物学者、考古学者の域を超えている。

この”Japn Day by Day”は1917年セーラムにて執筆され出版された。彼が79歳の時である。掲載した写真はいつもの神田神保町の古書店「北沢書店」で見つけた初版本である。背表紙が少し傷んでいるものの装丁はしっかりしていて100年以上経過した古書としては良い状態だ。しかし、文化財級の古書を読み進めるにはやはり気を遣うので、リプリント版を入手してそちらを読んでいる。上下二巻からなる大部の著作で、1877年、1878〜79年、1882〜83年の3回の来日記録である。日本語版「日本その日その日」東洋文庫は米国でモースに学んだ弟子の石川欣一の翻訳による。

本書に収録されている彼自身のスケッチによる、当時の人々の日常生活、風景、文化、の紹介が興味深い。777点ものイラストが収録されている。彼は見たもの、気がついたものを子供のようにこまめにスケッチしたのであろう、さすが生物学研究者の観察眼と生き生きした描写力に驚嘆する。膨大なスケッチ、イラストをパラパラとめくって眺めるだけでも楽しい。またこの本に出てくる人々の姿は、西欧文明や科学技術文明に汚染される前の善良な日本人として描かれている。そのモース自身も古き良き時代の善良なアメリカ人であった。こういうものが消えてゆくことへの哀惜の念を示す書とも言える。この本はそういうことを感じさせる100年前の時代のタムカプセルである。

この時の日本滞在で、モースは膨大な古民具や陶器、書籍など美術/工芸品を収集した。その数は民具800点、陶器900点に及ぶと言われている。最近新たに当時の日本の古写真が発見され、モースコレクションの充実ぶりが再び脚光を浴びている(「百年前の日本 モースコレクション写真編」小学館)。おそらく多くが高価な美術品・工芸品ではないので、収蔵庫にまだ日の目を見ていないコレクションが眠っている可能性がある。民具は現在のセーラムのピーボディーエセックス博物館に、また陶器はボストン美術館に展示、保存されている。大森貝塚が3000年前の先史時代の生活の痕跡を止める遺跡だとすれば、モースコレクションは100年前の人々の生活の痕跡を今に残す文化財だ。どちらも「失われた日本」の再発見である。後者はたった100年前のことであるが。


まとめ

結局、生物学者モースは、腕足類という貝、ただそれだけを探しに日本へやって来た。そして3000年前の貝塚遺跡を発見した。しかし彼は、もっと多くのものを日本で発見した。明治日本という西欧文明に対する「もう一つの世界」を。やがて多くの文物を収集し持ち帰ることになった。そしてより多くのものを日本に残して帰った。とりあえず、私はモースを「研究界のわらしべ長者」と名付けておきたくなった。


Japan Day by Day in 1917





大森貝塚発掘の模様




Peabody Essex Museum
(from the Boston Globe)

ピーボディ・エセックス・ミュージアム(旧セーラム・ピーボディ科学アカデミー)
膨大なモースコレクションは圧巻。



(撮影機材:Leica Q2, Summilux 28/1.7)