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2023年6月28日水曜日

静嘉堂文庫美術館@丸の内 〜後藤象二郎がヴィクトリア女王から拝領したサーベルを見にゆく〜


エントランス

ロビー



岩崎弥之助・小弥太父子

展示会のフライヤー
真ん中がヴィクトリア女王から拝領のサーベル

静嘉堂文庫美術館のウェブサイトから


今回は、丸の内に移転した静嘉堂文庫美術館で、「サムライのおしゃれ」展が開催され、そこに後藤象二郎がヴィクトリア女王から拝領したサーベルが展示されていると聞き、早速見学してきた。NHKなどテレビでも紹介され話題になっているこのサーベルとはいったいなんなのか?なぜ後藤象二郎に下賜されたのか?その故事来歴を少し追ってみよう。

明治天皇謁見に向かう途上の英国公使ハリー・パークス襲撃事件

王政復古の大号令が高らかに出され、世は明治へと転換した其の年、1868年(明治元年)3月23日、駐日英国公使ハリー・パークスが京都で明治天皇に拝謁しようと内裏に向かう途上、二人の攘夷派刺客に襲撃された事件である。同行していた新政府の土佐藩士後藤象二郎、薩摩藩士中井弘が奮戦してパークスを守った。この事件の模様を、横浜のイギリス人ジャーナリスト、ジョン・ブラックは関係者に取材し記事にした。のちに彼の著作「ヤング・ジャパン」で次のように語っている。パークス一行は、宿舎の知恩院から御所へ向かう狭い通りで、突然、隠れ潜んでいた刺客に襲われた。幸いパークス自身は無事であったが、派遣団の随行員10名ほどと警護のサムライ数名が重症を負い、応戦した中井弘も傷を追ったが、後藤に助けられて果敢に反撃し、襲撃した一人は後藤に切り捨てられ、もうひとりは重傷を負って取り押さえられた。この時、随行員の中にはミットフォードとサトウがいたが幸い難を逃れた。たまたま一行に公使館付きの医者のウィリス:Dr. Willisが同行しており、犯人を含む負傷者の手当てを行い、この素早い処置で負傷者は一命を取り留めることができた。捕えられた襲撃者は、尋問の後に斬首刑になり、二人の首が晒された。後藤と中井の奮戦ぶりと、馬上のパークスの落ち着いた振る舞いが印象的であったとブラックは記述している。サトウの日記によれば、明治天皇はこの事件を聞き、文書で遺憾の意をパークスに伝えた。謁見は三日後に延期されたが、その際パークスにあらためて深い遺憾の意を表し、怪我をした随員への見舞いをした。ブラックは、いまだに攘夷浪士がこうした事件を起こしたこともさることながら、明治天皇の遺憾の意表明に(あの尊王攘夷テロが吹き荒れ、天皇:Mikadoは禁裏にあって外国人を避けていた)日本がこれほどに変わったのかと感慨を持って述懐している。イギリス側も、この事件が無計画な暴漢によるものであったこと、後藤や中井の奮闘、明治天皇と日本政府が丁重な遺憾の意を示し、被害者への賠償を申し出たこと、すみやかな犯人の尋問と真相解明、処刑を行ったことで、これ以上の外交問題にしなかった。この事件に関しては、パークスの伝記を始め、公使館員であったミットフォードの回顧録やサトウの日記において、詳細に顛末が語られている。また事後の日英関係への影響についても分析されている。もちろん現場で襲撃された外交官たちの記録であるから、其の筆致に生々しさが伝わってくるのは当然であるが、一方でこのブラックの事件の記述も、彼自身が居合わせたわけではないにも関わらず、まるで現場からの報告であるようなリアリティーにあふれており、「ジャーナリストの仕事はかくあるべし」が感じられる。それにしてもこの事件、「最後の攘夷事件」と言われる割には、日本史の教科書にも取り上げられず、我々の記憶にあまりないのはなぜなのだろう。ミットフォード回顧録やサトウの日記、ブラックの「ヤング・ジャパン」を読むと、我々が教科書で知っているヒュースケン暗殺や東禅寺事件、生麦事件などの「攘夷事件」だけでなく、当時は実に多くの外国人殺傷事件が在ったことがわかる。より多くの史料を多角的な視点で読む必要があると感じる。


ヴィクトリア女王から贈られたサーベル

のちにパークスはじめイギリス外交使節一行を守った後藤象二郎と中井弘に、ヴィクトリア女王から感謝の印としてサーベルが贈られた。しかしその後、このサーベルの存在が忘れられ、長く行方がわからなかくなっていたが、最近になって、後藤象二郎に贈られたものが世田谷の静嘉堂文庫で見つかった。今回そのサーベルが、丸の内の静嘉堂文庫美術館で一般公開されたというわけだ。英国陸軍様式の儀仗刀(刃がついていない)で、ロンドンのC. Smith & Son製。刀身全体に見事な唐草模様が施され、柄は象牙彫刻、柄頭には獅子の頭が彫られている。大英帝国の威厳を著した威風堂々とした逸品である。また刀身には、「PRESENTED TO GOTO SHOJIRO IN MEMORY OF THE 25TH MARCH 1868」と刻まれている。後藤象二郎の肖像画とともに、鞘とベルト、ケースも併せて展示されている。この襲撃事件の顛末は、先述のようにパークス伝、サトウの日記、ミットフォードの回顧録に詳細に記述されている。ヴィクトリア女王から後藤、中井へのサーベル下賜を伝えているのは、ミットフォードの回顧録と、それを引用したパークス伝、この取材を行ったブラックのヤング・ジャパンである。中でもブラックの記述が一番詳細である。おそらく後藤象二郎にインタビューし、このサーベルを見せてもらったのだろうか。刀身の刻印を引用して紹介している点が興味深い。今回、世田谷の静嘉堂文庫で見つかったというのだが、なぜ後藤象二郎拝領のサーベルが静嘉堂文庫に秘蔵されていたのか?岩崎弥之助の妻は後藤象二郎の娘であり、弥之助は彼の娘婿にあたるという縁からだろうか?その存在が長く不明であったという事実にも何かこのサーベルの流転の物語が秘められているのかもしれない。残念ながら、展示品の写真撮影は禁じられており、ここで掲載できないことを断っておく。

ちなみにこの美術館の目玉である 国宝「曜変天目」も展示されていたが、前回見学した時と違って人だかりはなかったので、こちらもゆっくり見学できた。今回はもっぱら「後藤のサーベル」が主役で、見学者の人気を独占していた。世田谷区岡本の静嘉堂文庫美術館の探訪記については、以前のブログ2016年7月19日「静嘉堂文庫美術館探訪」を参照願いたい。この美術館は、静嘉堂文庫創設130年を迎えた2022年に、世田谷から、丸の内の明治生命館に移設された。


静嘉堂文庫美術館が入居する明治生命館

以前、お堀端の重要文化財、明治生命館を訪問したのは、静嘉堂文庫美術館が移転する前の2014年であった。あれから9年になる。今回は、このサーベル展示見学を機に再訪。改めて外観と、その素晴らしい館内を探訪することができた。かつて営業室であった一階の一部が美術館に転用されている。まさに美術館のベニューにふさわしい建物と言えよう。この重要文化財についての解説は、重複を避ける意味でも下記ブログを参照願いたい。2014年9月2日お堀端に帝都東京の面影を残す「明治生命館」


1)エクステリア編










2)インテリア編



























(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)

2023年6月22日木曜日

千葉公園に大賀ハスを愛でる の巻 2023年版

 去年の6月20日に千葉公園で大賀ハスを楽しんでから、ちょうど一年になる。早いものだ。今年も一斉に咲き誇る古代からの使者の様子が、千葉に住む畏友のフォトアルバムで紹介され、その美しさにいても立ってもいられなくなり、梅雨の晴れ間を狙って、今年も千葉まで見に来てしまった。去年の同時期に比べ、開花している花が多いように思う。大賀博士の種子の発見と特定、そして開花の苦労を偲び、地元千葉の人々によるたゆまぬ育成の努力が文字通り実って、このような美しい古代ハス園ができた。我が家の近所の廃校となった小学校の小さなハス池にも、その子孫の大賀ハスが咲き始めている。千葉公園は、いわばその実家である。東大検見川演習農場の縄文遺跡から見つかったハスの種子が、こうして毎年美しく咲き誇り、2000年の時空を超えて現代に蘇る。その古代の美しさに、ただただ心を奪われる。去年の大賀ハスの様子は、2022年6月20日「千葉公園に大賀ハスを愛でる」をご覧頂きたい。





























ご近所の廃校のハス池に蕾を付けた大賀ハスの子孫

(撮影機材: Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4、Nikkor Z 70-200/2.8)