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2020年9月15日火曜日

ヤン・ヨーステン(耶揚子)とは何者か? 〜ウィリアム・アダム以外のリーフデ号生き残りのその後〜

日蘭修好三百八十周年記念碑
日蘭修好三百八十周年記念碑
ヤン・ヨーステン像とリーフデ号が刻まれている



  前回紹介したオランダ船リーフデ号の日本到着(漂着)の話。あまりにもイギリス人航海士ウィリアム・アダムス/三浦按針が有名過ぎて、その他の乗員のことはまるで話題になっていない。せいぜい同乗していたオランダ人ヤン・ヨーステンの名前は教科書にも出てくるが、彼とてもその人物像や事績は驚くほど知られていない。まして他の乗員はどうなったのか。ほとんど言及がないというか関心が持たれていない。まるで日本に漂着したのはこの二人だけであるかのような扱いである。アダムスの記録によれば日本に漂着した時点で24名の乗員がいたはずである。彼らにも彼らのその後の人生があった。忘れられたリーフデ号乗組員の物語だ。そのことは後述するが、まずは謎のオランダ人ヤンヨーステンのことだ。

ヤン・ヨーステン(耶揚子)とは何者だったのか?

本名はヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン:Jan Joosten van Lodensteyn。ヤン・ヨーステンはファーストネームだ。ウィリアム・アダムスとともに1600年、リーフデ号で豊後佐志生に漂着したオランダ人である。徳川家康に重用され、アダムスとともに士分に取り立てられ江戸に屋敷を与えられたとされている。そしてアダムスと同様、日本人の妻を迎え「耶揚子」と名乗った。しかし、それ以上の彼の生涯がどのようなものであったのかを知らなかった。ウィリアム・アダムスが小説や映画のモデルにもなり、日本語を含む多くの研究書まで登場しているのに比べて影が薄い。せいぜい東京の「八重洲」という地名の由来として知られているくらいで、実際に彼はどのような人物で、日本到着後どのような活動をしたのか。その生涯はどのようなものであったのか明らかではない。教科書でその名前は知ったが、実は「何者か」知らない謎の人物である。

最近、森良和氏の著作「リーフデ号の人々〜忘れられた船員たち〜」(2014年学文社)に出会った。同氏は今年出版された「三浦按針その生涯と時代」東京堂出版の著者としても知られる近世日欧交流史、比較文明/文化史の研究者だ。本書ではイギリス人ウィリアム・アダムス以外の、ヤン・ヨーステンほかオランダ人船員の消息が紹介されている。リーフデ号に関する数少ない貴重な研究著作である。以下この書籍に基づいてヤン・ヨーステンの秘密を読み解いていきたい。

彼は1556?生まれ〜1623死去。オランダ(当時はスペイン領であった)のデルフト出身である。あの陶器で有名な町だ。同郷の画家フェルメール、国際法学者グロチウスとほぼ同時代人。この頃のオランダは独立戦争や宗教弾圧で不安定な状況であった。そうした中でヤン・ヨーステンの一族は町の市長や議員を務める有力者であったし、親族がデルフトのオランダ東インド会社の重役を務めるなど要職にあったようだ。彼の弟ヤコブも、後にオランダ東インド会社の船で平戸に帰港し、兄ヨーステンと涙の再会をしている。結婚はしていなかったようで、妻の名前も、子供の記録もない。40歳独身でリーフデ号に乗船しロッテルダムを出港したようだ。ただリーフデ号における役割の記録はない。


ヤン・ヨーステンは日本で何をしたのか?

次に日本で彼はどう生き、何をしたのか?。実は1600年に日本に上陸して10年は彼がどのような活動をしていたか記録がなく不明である。何時頃から家康に重用されたのか明らかではないという。ある時、長崎の豪商で長崎代官を務める村山等安が、駿府の家康に長崎にいたヤン・ヨーステンを引き合わせたとされている。ということはヤン・ヨーステンはこの頃長崎にいたことになる。1610年、家康は、ノビスパン(スペイン領のメキシコ)との通交を企図していた(アダムスに伊豆伊東で西洋船を建造させている)。この頃ヤン・ヨーステンは家康に謁見が許され、海外情勢について様々な解説をしたと言われている。これがきっかけでヤン・ヨーステンは家康に重用され始める。既に家康に重用されていたアダムス/按針は旗本に取り立てられていて活躍していた。その事実はオランダやイギリスにも知れ渡っていおり、アダムスは内外の有名人であったが、ヤン・ヨーステンの方はまだ無名であった。この頃江戸に屋敷を与えられ妻をめとり娘をもうけたたようだ。また長崎に所領地を与えられたとされているが、アダムスの場合と異なり、そうした正式の記録が見つかっていない。家康が亡くなる前年の1615年に外交顧問になったとされている。このようにアダムスに比べ、7〜8年遅れて家康、秀忠に重用されるようになった。

彼は2隻のジャンク船を所有し、長崎を拠点に1612年から家康の朱印状を得て10数回にわたってインドシナ半島との間を行き来して「ビジネス精神旺盛」な貿易家として活躍した。この頃の貿易家、海商は、いいわば海賊と紙一重で、そのアグレッシヴな手法はイギリス商館とのトラブルや、ポルトガル船への略奪行為(この頃の私掠船は貿易の一環だたが)、平戸藩主とのトラブルなど、豪腕な冒険的商人としての活動が様々な軋轢を生み出していたようだ。幕府は海賊行為を禁じていた。1616年に大御所家康が死去すると、将軍秀忠は早くも1616年5月には海外との貿易制限を始め、彼の商売だけでなくオランダ、イギリスの交易活動に逆風が吹き始める。ここでも彼は強引な手法で将軍に制限撤回を画策工作し、将軍や幕臣の不興を買ったようだ。やがて友好関係にあった平戸のイギリス商館のコックスとの間も不仲となり、それでも中国貿易に活路を見出そうと長崎を拠点に交易販路拡大に望みを繋いだ。しかし最後はバタビアからの帰途、1623年に南シナ海パラセル諸島府付近で遭難し果てた。

このようにヤン・ヨーステンは大胆で強引な手法を多用する、借金も儲けも多い「ハイリスクハイリターン」型の一種の冒険的商人であったようだ。それだけに敵も多かったのだろう。最後には将軍秀忠に疎まれた。彼の事績を評価しない歴史観が出来上がっていったのかもしれない。しかし、一方で彼には仲間の人望もあり、苦境に立たされたり、処刑されそうになった仲間を体を張って助けたという記録も残っている。後世のオランダ側の資料では、彼の死後1637年バタビア総督は彼を、サントフォールトとともに日本におけるオランダ人コミュニティーの中心人物と評価している。また長崎の日本人の間でも「和蘭陀の頭目」として記憶されているという。

先述のようにヤン・ヨーステンはオランダデルフト出身であり、彼の一族には東インド会社の重役もいたので、日本へ進出してきたオランダ東インド会社、平戸オランダ商館などとの関係があったと思われるが、アダムスほどには記録がなく不思議な存在である。オランダの日本進出も、イギリスの進出も、アダムスの存在、彼の果たした役割が大きい。彼が日本に到達し、「皇帝」(家康)に重用されていることはすでに本国に伝わっていた。一方、この時点でのヤン・ヨーステンの存在は故国オランダにどの程度伝わっていたのだろうか。オランダ東インド会社が日本にやってきた来たとき何をしていたのだろう。あまり存在感が伝わっていない。そもそも初期のオランダ商館日誌等の記録がほぼ残っていないことが原因かもしれない。一方、オランダに5年遅れて平戸に進出してきたイギリス商館の初代館長コックスの日誌や手紙には彼の名前がアダムスとともに頻繁に登場してくる。こうしたいくつかの資料が主な彼に関する主な情報源であるようだ。まだまだ未知の部分が多い人物だ。

ちなみに、ヤン・ヨーステンは「砲術師」であったので、関ヶ原の戦いの時に、小早秀秋の陣へ放った「問い鉄砲」や、大坂の陣で大坂城天守に大穴を開けた大砲(カルバリン砲)は、このリーフデ号の大砲で、彼が砲撃指揮したとするエピソードが伝わっている。大坂の陣での大砲はイギリスから調達したものだと考えられているが、ヤン・ヨーステンやリーフデ号の乗組員が戦闘に参加したとうい話は、ありそうで面白いのだが、これらは資料的にも、また戦史の観点からも検証はされていない。


江戸の屋敷はどこにあったのか。「八重洲」とはどこか?

ところで、彼が家康から拝領されたという屋敷はどこにあったのか。一般にヤン・ヨーステン(耶揚子)が住んだ場所が、彼の名前に因んで「八代洲」「八重洲」と呼ばれるようになったと言われているが、その「八重洲」とはどこなのか?東京駅八重洲口一帯、すなわち現在の中央区八重洲がそうだと理解されているが、このあたりの町名が八重洲と称されるようになったのは実は戦後のことだ。もとは八重洲河岸は内堀沿い、すなわち現在の千代田区丸の内の和田倉門から馬場先門の日比谷通りあたりだと言われている(戦前には丸の内に八重洲町という地名があった)。昭和初年に東京駅の東口が開業されると八重洲口と呼ぶようになり、これが「地名の移動」のきっかけとなったようだ。現在、丸ビル南側の通りの地下駐車場入り口の際にオランダから送られたリーフデ号のモニュメントが飾られている。このあたりが彼の屋敷のあったところではないかと言われている。ちなみに現在、ヤン・ヨーステン(耶揚子)の記念碑、肖像は東京駅八重洲口に2箇所ある。八重洲中央通りの日本橋三丁目交差点の中央分離帯に1箇所。八重洲地下街にもう1箇所。しかし、これらは先述のように彼の屋敷跡を示すものではない。いずれも戦後、地名の由来としてのヤン・ヨーステン(耶揚子:八重洲)に因んで、日蘭修好の記念に設置された記念碑だ。なんだか紛らわしい。ところで、アダムス/按針が日本橋に旗本として屋敷を拝領しているがここは町人町だ。その一方ヤンヨーステンの屋敷は、大大名や有力旗本が住む武家地。この違いはなんなのだろう。アダムス/按針の日本橋の屋敷「あんじん丁」の記載のある江戸の古地図「武州豊島郡江戸庄」にも「やえすがし」の名はみつからない。いずれにせよヤン・ヨーステン/耶揚子が住ったという「八重洲」の謎はまだ解けてはいない。


このほかのリーフデ号の人々

このように振り返ると、冒頭に述べたようにウィリアム・アダムス/三浦按針とヤン・ヨーステン/耶揚子の名は後世に伝わっているが、そのほかの船員の消息に関してはさらに情報が乏しい。まるで他にリーフデ号の生き残りはいなかったかのような扱いだ。森良和先生の「リーフデ号の人びと 忘れられた船員たち」によれば、リーフデ号がロッテルダムを出港したときには110名の乗組員がいたが、日本の豊後に到着したときには24名になっていた。到着の翌日に3名が亡くなり、その後上陸後しばらくして3名が亡くなった。したがって18名が生き残り(その人名リストが掲載されている)日本で暮らした。一時、皇帝(家康)からの贈与金の分配を巡って仲間割れし、散り散りに日本の各地に去っていったが、その後はお互いに連絡を取りあっていたようだ。しかし、アダムス/按針やヤン・ヨーステン/耶揚子は別として、それぞれがどこに住んだかは確かではない。断片的にわかるのは最初に連れてこられた堺や、浦賀、平戸、長崎など、やはり海につながる街に住んだようだ。このなかで商館の日誌や手紙など様々な情報を集め、多少なりとも記録を追える次の二人のオランダ人を森先生は紹介している。

メルヒオール・ファン・サントフォールト:Melchior van Santvoort (1570?~1641)
リーフデ号の書記であった。生まれや生い立ちは不明である。日本人(イサベラ:江戸の大工の娘と言われている)と結婚し娘(イサベラ、スザンナ)をもうけた。長崎で過ごし、幕府ともオランダ商館とも一定の距離を置いた私人として貿易に従事した。一時、後述のクワッケルナックとともに出国しマレー半島のバタニに渡るが、再び日本に戻った。アダムスやヤン・ヨーステンのように、家康に気に入られて士分に取り立てられたり、屋敷や領地を与えられはしなかった。しかしオランダ東インド会社の平戸進出時には通訳を務めたり、駿府への旅をアレンジしたり、商館設立や交易開始に貢献したことがいくつかの手紙などの資料に残っている。またイギリスの平戸進出に際してもジョン・セーリスや商館長コックスとの交流もあったらしく手紙が残っている。しかし、彼はあくまでも独立の私人として活動した。おそらくアダムスとの連携もあったのだろう。しかし、アグレッシヴなヤン・ヨーステンとは異なり、私利私欲にとらわれない温厚な人物で信頼感を持たれていたようで、英蘭双方から高い評価を得ていた。長崎では日本人の豪商との付き合いも多く、日本人の船頭を抱え、人々の間でもヤン・ヨーステンとともに「和蘭陀の頭目」として一目置かれていたと言う。バテレン追放令に伴い、やむなく1640年に家族で台湾に去り、その後バタビアへ移った。そして2年後にそこで死去した。結局漂着以来40年ほど日本に滞在し、リーフデ号生き残りの中では最も長く滞在した人物となった。アダムスやヨーステンの倍近くを日本で過ごしたことになる。晩年は日蘭関係をよく知る人物として親しまれた。また彼の娘は二人とも、後にオランダ商館員と結婚し、その子供たちがのちに長崎出島のオランダ商館長一家として赴任してくる。このように彼は日蘭関係史という視点からも重要な役割を果たした人物であり、なぜこれまで歴史の表舞台に登場してこなかったのか不思議だ。もっと評価を得ても良いのではないかと感じる。今後もう少し研究してみたい。

ヤコブ・ヤンスゾーン・ファン・クワッケルナック:Jacob Quaeckernaeck( 1554?~1606)
リーフデ号の3人目の船長。ロッテルダム出身。アダムスと同様、故国に妻がいる。一族には東インド会社に関わる親族がおり、彼もランクの高い船員であった。日本上陸時にはかなり衰弱していて指揮を取れなかったのでアダムスが代わりに指揮をとった。早くから帰国を望んでいたらしく家康に一番初めに帰国を許された一人。1605年にサントフォールトとともにバタニに渡るが、オランダ東インド会社の就職支援を得ることが出来ず(進出したばかりで人がいない開店休業状態であったようだ)、サントフォールトは再び日本に戻り、クワッケルナックはジョホールへ行く。そこで、彼の貴重な経験を買われ来航中のオランダ艦隊に所属して船長になった。しかしマラッカでポルトガル艦隊との交戦中戦死する。こうして世界を就航した経験のある航海士、船長にして、極東の日本にたどり着いた冒険者は南海に散っていった。


「彷徨えるオランダ人」の逞しさ

このほかにも、その後の消息が詳細記録に残っていない「リーフデ号の人々」がいた。先述のように、リーフデ号の生き残りは、日本上陸ののち家康に留め置かれ(出国を許されず)、それぞれ堺や浦賀、平戸、長崎などで生活し、日本を拠点に船乗りとして貿易商人として活躍したものと考えられている。そして、結局は誰一人、故国に帰ったものはいない。もともとそうした野望を持ってロッテルダムを出てきた冒険魂あふれる「野郎ども」である。地獄のような航海を生き残った屈強な男たちである。苦難の末にたどり着いた場所で一花咲かせようとした。人が行かないところへ行って成功してやろうと!命を賭けて世界の果てにたどり着いた。彼の地で「望郷の念止みがたし」で帰国を強く望んでいたかというと、必ずしもそうでもないところが興味深い。母国が戦乱と異端迫害の混乱の中にあったことも大きな動機になったかもしれない。が、我々日本人の感覚で言うと、はるけき異国の地に漂着し、毎晩故国を夢見ながら、いつ帰国できるか指折り数えながら惨めで寂しく生きた、と考えたいところであるが、彼らは、日本で拾った命を「神の恩寵」として最大限生かし、平戸や長崎などを拠点としてジャンク船を使って海外貿易にのりだしている。ある意味「念願かなって」チャンスを掴んだと考えた。故国に帰る時は成功者として「錦を飾る」のでなければ帰らないと。もちろんその後は鎖国政策により、迫害されたり、家族もろとも国外に追放されたり。穏やかな老後とは無縁の後半生が待っていた。「彷徨えるオランダ人」や「アングロサクソン」の逞しさ、シタタカさである。国外追放になっても結局一人も故国へ戻ったものはいない。歴史の闇の中に消えていったものもあるが、先述のように華々しく南海に散っていったものもある。日本人として生き、そこに屍を埋めたものもある。のちに残した子孫がバタビアの東インド会社で活躍するものも現れる。そして長崎出島の商館長としてに舞い戻ってくる。まさに「人生至る所青山在り」。である。幕末の土佐人中浜万次郎:ジョン万次郎のような日本人もいたが、えてしてそうした逞しさは我々日本人にはないのだろうか。この頃のイギリス人やオランダ人の「世界を股にかける」ということの意味を見つめ直す機会となるエピソードである。

「故郷は遠きにありて想うもの そして悲しく歌うもの よしや異土のかたい(乞食)となるとても 帰るところにあるまじや」室生犀星

日本人のセンティメントとは違うと感じるが、この歌を彼らに捧げたい。


東京駅八重洲口から伸びる八重洲中央通りの日本橋三丁目交差点
に設置されている「日蘭修好380周年記念碑」


1989年4月20日の日付


東京駅八重洲地下街のヤン・ヨーステン像




壁面の一角で気づかず通り過ぎてしまいそう


東京駅丸の内口
丸ビルの南側に設置されている
「オランダ船リーフデ号」モニュメント


ヤン・ヨーステン屋敷跡と推定されている



和田倉門から馬場先門を望む日比谷通り
この内堀沿いに「やえすがし」があったとされる



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