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2014年6月30日月曜日

京都建仁寺塔頭の両足院に 半夏生を愛でる

 半夏生(はんげしょう)とは七十二候の一つで、夏至から11日目の7月2日がそうである。昔はこの日までに田植えを終えなければならないとされていたそうだ。暦は稲作農耕文化を反映している。このころ白い尾っぽのような花芯と半分白くなった葉っぱを付けるドクダミ科の植物が見られるようになる。この季節にちなんでハンゲショウ(半夏生、あるいは、半分白く化粧したように見えるので半化粧)という。

 両足院は、建仁寺の塔頭の一つで、このハンゲショウの群生する池泉回遊式「書院前庭」が有名である。普段は非公開であるが、梅雨のこの時期のみ特別公開している。緑豊かな庭に、白く化粧したようなハンゲショウで縁取られた池が見事なコントラストを見せ、池辺を散策する人で賑わう。今回初めて行ってみることにした。

 建仁寺は臨済禅の開祖栄西が開いた京都最古の禅寺である。以前、栄西の足跡をたどる旅で、今津の誓願寺、博多の聖福寺、鎌倉の寿福寺とともに、本坊を訪ねたことがあるが、この両足院は初めての参詣だ。日曜日の午前9時に行ったら、まだ開門になっておらず、10時の開門まで建仁寺本坊の双竜図や風神雷神図屏風、庭園を鑑賞した。以前に来たので2回目だが、禅寺の庭と言うのはいつも心落ち着くものだ。

 さて、午前10時の開門とともに両足院に入る。結構な人出だが、朝一番なのでまだ比較的ゆったりと庭園を鑑賞できた。別料金を払えば庭に降りて近くでハンゲショウを鑑賞できる。有名な「水月亭」「臨池亭」で抹茶をいただきながら二畳半の空間から庭園美を愛でる。一服したら、池に出て、間近で写真もゆっくり撮影できた。しかし、庭から引き上げる時間には、庭に降りたい人が順番待ちになっており、早めに来ててよかった。

 ハンゲショウは実に不思議な植物だ。白い尾っぽのような花芯に、その周りの葉っぱが緑から徐々に白くなって花弁のように寄り添う。全体的は白い花が咲いたように見える。こんなに群生しているのは初めて見た。見事だ! 割に丈夫な植物だそうで、株分けでどんどん増えるという。ドクダミの一種だから、近づくとそんな匂いがする。ちなみにハンゲショウを読んだ歌は万葉集にない。何時頃こうした庭園で愛でられるようになったのだろうか。先日訪れた奈良の吉城園にも茶室の前庭に楚々として佇んでいいた。書院と茶室と回遊式庭園のハンゲショウ群生。今まで体験した事のない不思議な空間だ。



            半夏生 初孫誕生 ジジとなり!
















2014年6月27日金曜日

奈良の庭園を巡る(2)依水園


 吉城園の隣に位置する依水園もやはり興福寺塔頭であった摩尼珠院(まにしゅいん)の跡地に開かれた庭園だ。吉城園とは吉城川(といっても小さな小川だが)とフェンスによって仕切られているが、元は一つの敷地であったものが「分譲」されたのだろう。依水園は国の名勝に指定されている。

 ここは「前園」と「後園」の二つに分かれており、それぞれ作庭された時代が異なっている。「前園」は寛文12年(1673年)に晒職人であった清須美道清の作庭で、茶室「三秀亭」がシンボル。「後園」は明治時代に実業家関藤次郎が築いた築山式の池泉回遊式庭園で、作庭は裏千家十二世又妙斎宗室による。寧楽の都をモチーフとし、若草山や東大寺南大門などを借景とする。いずれも大和川支流吉城川(よしきがわ)の水を引いている。海運業で財を成した中村家が1939年に買い取り、前園と後園を合わせた形に整備した。1969年には、中村家所蔵の美術品を展示するため、寧楽美術館を建設して一般公開している(Wikipediaからの引用)。

 依水園も敷地は奥深く、茶室や水車小屋があったり広い庭内を散策するのが楽しい。梅雨のこの時期は睡蓮や菖蒲が咲き誇る。何と言っても若草山や南大門を借景とした「後園」の雄大さが見事と言わざるを得ない。季節に応じて様々な花や新緑や紅葉を楽しめるお気に入りの場所だ。その割には観光客(特に団体さん)があまり押し掛けない静かな場所であることがさらにうれしい。

前園の睡蓮
三秀亭

赤白の睡蓮

若草山、春日山と東大寺南大門を借景にした後園










奈良の庭園を巡る(1)吉城園

 奈良に名園有り。奈良には神社仏閣だけでなく素晴らしい日本家屋と庭園がある。その一つが吉城園(よしきえん)。もう一つはすぐ隣にある依水園(いすいえん)。近鉄奈良駅から左手に県立文化会館、県庁を見ながら、東大寺門前に向かう登大路、左手に折れて静かな通りに入るいつもの散策コースの途中にある。この辺りは白壁塀が続くお屋敷街。素晴らしい門構えの奈良県知事公邸などもある。実はこうした庭園巡りも私の時空旅の定番コースなのだ。

 吉城園(よしきえん)は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院である摩尼珠院(まにしゅいん)があったところとされている。明治に奈良晒で財を成した実業家の邸宅となり、大正8年(1919年)に現在の建物と庭園が作られた。園内は「池の庭」、「苔の庭」、「茶花の庭」からなり、「池の庭」は江戸時代からの地形の起伏、曲線を巧みに取り入れ、建物と一体となるように造られている。「苔の庭」は、水門町という町の名前にもあるように周辺一帯は地下水脈が豊富に流れているといわれ、杉苔の育成に適し、全面が杉苔におおわれた庭園。「茶花の庭」は、茶席に添える季節感のある草花などが植えられ、素朴で潤いのある庭園だ。今は奈良県が管理している。

 梅雨の季節の今は,紫陽花が盛りだ。苔の庭も瑞々しい緑が美しい。珍しい半夏生もみえる。入口から想像するよりも遥かに奥深く広大な敷地にこのような三つの庭がそれぞれの個性を競っている。京都の南禅寺界隈の別荘邸宅街も、往年の関西経済力の底力を見せつけられるエリアであるが、奈良にも関西財界人の趣味人としての懐の深さを十分に感じるさせる邸宅がある。

 興福寺は明治の廃仏毀釈でその広大な境内にあった堂宇をことごとく失った。現在残っているのは五重塔と東院堂くらい。最近ようやく失われた金堂の再建が進められている。
境内にあった数多くの塔頭も、このように明治以降、資産家の屋敷や別荘になったり,大乗院のように奈良ホテルになったりした。現在の広大な奈良公園は、元は興福寺の境内であった。


春日山、若草山、東大寺南大門を正面に、左右に豪邸が連なる登大路町あたり
珍しい二連茅葺き屋根
池の庭
苔の庭
(吉城園に咲く梅雨時の花)








2014年6月24日火曜日

明日香村細川の棚田 談山神社から飛鳥石舞台への道


 明日香村には稲淵や細川に美しい棚田がある。稲淵では、秋に案山子祭りが開催され家族連れに人気スポットになっているが、ここ細川は、西に傾く太陽が棚田を赤く照らす夕景が人気。晴れた日の夕刻にはスゴイ数の写真愛好家が列をなして撮影に訪れるという。この辺りは多武峰談山神社から飛鳥石舞台へと続く冬野川沿いの谷あいに広がる棚田だ。狭い傾斜地に稲作を実現させて来た先人の苦労が忍ばれる見事な棚田だ。さらに、これを今に伝える農家の方々の努力も大変なものである。大和棟の古い農家は少なくなったが,美しい瓦屋根の民家が点在する棚田風景は,飛鳥の歴史の奥深さと相俟って、貴重な風景遺産である。遠くに葛城/金剛山、二上山を望む棚田は日本の原風景だ。

 多武峰談山神社は藤原鎌足を祀る,藤原氏縁の神社。その背後にそびえるのは御破裂山(おはれつやま)。何ともすごい名前だが、もともと火山であったそうだ。ここで中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏打倒の密議を交わしたと伝えられており、かたらい山(談山)の名前の由来となっている。確かにこの山の頂に立つと、足下にそのクーデターの現場、板蓋宮が見える。蘇我氏の居館のあった甘樫丘も、法興寺(飛鳥寺)も手に取るように見渡す事が出来る。

 その多武峰からこの谷筋の道を下ってくると,そこには嶋の大臣蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳がある。古代の二大権勢家を結ぶ因縁の道だ。今は、棚田と民家の美しい景観が広がり、平和でのどかなこの谷あいの道も、時代を動かした人々の足跡が残る道である。路傍の一木一草に古代人の息づかいすら感じる。






明日香村細川の棚田
御破裂山(談山)からの眺望。二上山と手前は畝傍山
                路傍に咲き誇る季節の花々...














2014年6月22日日曜日

梅雨空の飛行 一瞬の夕陽が房総半島を射す

 分厚い雲が空を覆っていて,どんよりした梅雨の季節、機上の人となり上空に舞い上がると,空は別の顔を見せる。相模湾上空にさしかかり,機が降下し始め、分厚い雲を突き抜ける。一瞬だが、西に傾いた夕陽が,雲間から海上を赤く射している光景が眼前に広がる。降り注ぐ光芒の有様は、神は天から地上に降り立ったとする神話に説得力を待たせる光景だ。機は間もなく羽田に着陸だ。房総半島、館山の海を赤く染める。弓なりの海岸線をシルエットに。

相模湾上空の光芒。左は伊豆大島。


房総半島上空


館山の海岸線が

Leica T+Vario Elmar18-56mmによる撮影。こういう光のグラデュエーション表現は、諧調の豊かなLeicaシステムの真骨頂だ。軽量コンパクトなシステムでLeica Worldが楽しめるのは嬉しい。着陸態勢に入るアナウンス、「全ての電子機器の電源をお切り下さい」の前に,夢中でシャッターを切った。


2014年6月19日木曜日

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 大航海時代 東と西の遭遇 〜ウィリアム・アダムスの生きた時代〜

「時空トラベラー」大航海時代 東と西の遭遇 〜ウィリアム・アダムスの生きた時代〜: 久しぶりにSamurai William(Giles Milton)の和訳本「さむらいウィリアム−三浦按針の生きた時代ー築地誠子訳)を読んだが、原著が読みたくてAmazonで注文。届いた「Samurai William The Englishman who opened Japa...
リーフデ号

2014年6月16日月曜日

「時空トラベラー」 : アンティークブックショップ巡り ニューヨーク、ロンドン

「時空トラベラー」 : アンティークブックショップ巡り ニューヨーク、ロンドン: ニューヨークにいた時、35丁目とMadison Avenueとの角に、その名もThe Complete  Travellersという古書店を発見。 ウエッブサイト(http://www.ctrarebooks.com/)で見る限り、旅行に関する結構な稀書コレクションを持っており、...

東洋文庫モリソン書庫


2014年6月14日土曜日

「時空トラベラー」: 倭国の「神」と「仏」 〜「倭国」から「日本」へ〜

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 倭国の「神」と「仏」 〜「倭国」から「日本」へ〜: 1)八百万神という多神の世界 「倭」の神は弥生以来の水稲耕作社会を基盤とした農耕神である。その自分たちが生きる土地に豊穣をもたらす穀霊神、土地と一族を守る産土神である。それはまた一木一草に神宿る自然崇拝であり、一族の祖先を祭る祖霊崇拝でもある。すなわち多神教世界である。八百万...

2014年6月12日木曜日

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 50年前のニューヨークへ時空旅 ーNew York City 50 years time diffe...

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 50年前のニューヨークへ時空旅 ーNew York City 50 years time diffe...: 我が思い出のニューヨーク。我が社のアメリカでの事業拠点ニューヨーク。苦闘と栄光の町。この町を今から50年程前に父と母が訪ねた。  当時、父はワシントン郊外のベセスダにNIH(National Institute of Health)の客員研究員として赴任していた。母と学会でニ...



50年前のGrand Central Terminal


2014年6月10日火曜日

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 飛鳥古京散策 ー飛鳥時代とは?ー

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 飛鳥古京散策 ー飛鳥時代とは?ー: 飛鳥時代は、大和の飛鳥の地に天皇の宮殿がおかれた、6世紀末(592年)の推古天皇治世から、8世紀初頭(707年)の持統天皇時代までをいう。この時代は天皇が替わるたびに宮が建て直されて、狭い飛鳥の地を転々と遷った。この遷都遷宮の習慣は、以前の崇神天皇に始まる三輪王朝時代、応神天皇...

2014年6月9日月曜日

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 下関・長府散策 ー長門國國府のその後ー

「尊王攘夷」に関連して、2012年に訪問した下関・長府で、「攘夷」決起の史跡を散策した時のブログを再掲します。


「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 下関・長府散策 ー長門國國府のその後ー: 長府は今や下関市の一部になっているが、その名の通り、奈良時代に長門國の国府がおかれた所で、府中とも呼ばれた時代もある。この町には思った以上の多彩なドラマと豊かな時間が流れている。  戦国時代の中国地方の覇者、毛利家は、関ヶ原の戦いではで石田三成の西軍に立っていた。毛利輝元は西...




2014年6月8日日曜日

「尊王攘夷」はなぜ日本の近代化スローガンだったのか?



 明治維新は、鎖国政策を基本とした旧弊な幕藩体制を倒して、近代的な国家を建設しようとした動きだと捉えられている。その運動の初期のスローガンは「尊王攘夷」であった。しかし、「尊王攘夷」はどう見ても近代的な国家建設のための政治経済社会体制の変革を進める「革命」のスローガンには見えないではないか。極めて保守的で国粋的なスローガンである。「尊皇」とは日本古来からの天皇を尊び、(天皇の臣民でしかない)武家の幕府政権を倒そうというスローガン。一方、「攘夷」は外国人を排除し、鎖国を継続すべし、というもの。ナショナリズムそのものだ。

 明治維新の英訳は「The Meiji Revolution」ではなく「The Meiji Restoration」だ。決して「革命」ではない。あくまでも「復活」である。なんの「復活」なのか?「王政復古」なのだ。1200年前、ヤマト王権がようやく確立した、いわゆる「大化の改新」、天武持統帝の天皇親政の時代に戻した、という事だ。で、「尊皇」スローガンによる「倒幕」は達成できた。しかし、「攘夷」はどうであろう?

 16世紀、スペイン/ポルトガルに始まる大航海時代の波は、19世紀になると、新興のオランダ、イギリス、フランスといった西欧列強諸国によるアジアの植民地化にまで進んでしまった。日本がスペイン/ポルトガルなどカトリック国から国を閉ざす鎖国をして250年もの平和を楽しんでいる間に、いつの間にか周りからスペイン人もポルトガル人もいなくなり、世界は様変わりしていた。

大和五條の天誅組本陣跡
幕府五條代官所を襲撃するが
鎮圧され壊滅する
しかし、時の政権担当者であった徳川幕府は、必ずしもただ「太平の眠り」についていたわけではなく、現実的な世界情勢の収集、分析が出来ていたと思う。少なくとも京都の公家よりは日本を取り巻く現状の認識があった。外国船を追い払い、鎖国政策を維持したいが、もはやそれも時間の問題だ、と。特に清朝中国の現実、衝撃的なアヘン戦争の結末、欧米列強によるアジア諸国の植民地化。日本沿岸に押し寄せる外国船と海防の必要性。押しとどめることの出来ない西欧優位の近代化の流れ。徳川幕府はそれ等を良く認識していた。長崎という狭い窓ながら情報はかなり入って来ていたし、日本近海に出没する外国船の実態を見れば嫌でも分かった。

 一方、京都のお公家さんたちは、そうした現実から隔絶され、あるいは眼をそらし、古来からの「有職故実」に明け暮れる世界から一歩も出なかった。幕末に海の外で起こっている現実にも、出来れば関わりたくない、という消極的姿勢で貫きとうしていた。孝明天皇の「異国嫌い」「鎖国継続」に象徴される空気が京都に横溢していた。「京に異人を入れるやなんてもってのほかや」が究極の本音であったろう。最後の最後まで「攘夷はいつやるのや?」と十五代将軍慶喜に外国人排斥決行を迫っていた事実からも,「とにかく異人を追い払え」であった。それが「攘夷」であった。

 一方、幕府も現実を見た開国方針が拙速で、世論をうまく纏めることが出来なかった。幕府はペリーとの日米和親条約締結にあたって、「朝廷の勅許」などという責任転嫁を画策し、それが間に合わず締結が先行したので、国内保守勢力、すなわち「尊王攘夷」勢力は倒幕へと向かった。それに対する弾圧(安政の大獄)が、さらに「尊王攘夷」の火に油をそそいだ。開国は時代の流れであったが、もちろん幕府はすでに米中心の重農主義経済終焉に直面し、それに伴って財政破綻に瀕しており、新しい世界秩序に対抗するのに旧態依然たる幕藩体制ではどうにもならないことは自明である。いずれ倒幕につながるのは避けられなかっただろう。

 特に、江戸時代末期のこの時期には下級武士層の徳川幕藩体制への憤懣は臨界点に達していたから、彼等にとって、全く住む世界の違う人々であっても、天皇や朝廷、その側近集団である公家が長い歴史の中で,政治の世界からすっかり遠ざかり、京都で歌舞音曲、詩歌をたしなむ生活に日々を過ごすようになって久しかろうとも、幕府に替わる政権交代スローガンとして「尊皇」を旗印として掲げる。自らが「勤王の志士」となる事に何の躊躇もなかった。そして、その皇祖神天照大御神を頂点とし、その子孫で万世一系の天皇が連綿と統治する世界に稀な「神國日本」を蹂躙する夷狄(外国人)を排除する。「攘夷」を「尊皇」と不可分の旗印とすることは何も不思議な事ではない。政治スローガンとは,国内の矛盾と外からの脅威を分かりやすく言い表す「四文字熟語」のようなものだ。

長府にある高杉晋作像
長州藩内の勤王派クーデタ
「回天義挙」の碑も近くにある
先に述べたように、「尊王」はもともと天皇の征夷大将軍,即ち武家の棟梁で在る徳川氏の幕府政権を倒し、大政奉還させ、日本古来の天皇中心の政治体制に戻す、すなわち「王政復古」(restoration)である。天武持統天皇時代の天皇親政、公地公民、律令体制に戻すことだ。天照大神を皇祖神とし、記紀の神話を史実とした神国日本の再現だ。江戸時代後期の国学の流行により、分国化された藩とそれを束ねる幕府(幕藩体制)という構造から、ようやく日本(ひのもと)という国家としてのアイデンティティーとナショナリズムを意識し始めた事が大きく影響している。この「王政」は、維新後制定された明治憲法で、天皇を国家の主権者とする立憲君主制(英国式ではなく、プロイセン式の)という形をとることで、太平洋戦争に敗北するまで生き残った。

 一方、「攘夷」は、まさに夷荻(野蛮な外国人)を排除する、早くいえば排外主義だ。清国の義和団などと通じる国粋主義的なスローガンだった。鎖国の方が良い,と言ってる訳だから、開国交渉などもっての他である。欧米列強の帝国主義植民地化により独立を失ったアジア諸国の実情を見るにつけ、神国日本の心ある志士たちの心情はそうであっただろう。しかし、そういった後ろ向きの排外主義では,もはや通用しない事を認識させられることになる。やがて「攘夷」は西南雄藩の開明的な君主や若き武士たちによって修正されて行く。特に薩英戦争や,馬関戦争で「攘夷」が頑迷固陋で非現実的なスローガンである事を身を以て体感し、やがて西欧列強に追いつけ,追いこせ、「富国強兵」「殖産興業」という「近代化」に向けたスローガンへと変換してゆくことになる。「日米通商修好条約」締結では遂に天皇の勅許が降り、「攘夷」の名目も無くなった。

長州の前田砲台を占領するフランス軍。
長州藩の「攘夷決行」は、
四国艦隊との圧倒的な力の差を見せつけられて挫折する


 しかし、古来より日本人のDNAとしての「異なる人、モノ」に対する警戒感、外来思想に対する違和感と、排除の心理がぬぐい去られた訳ではない。稲作農耕文化の伝来、仏教伝来、キリスト教伝来、西欧文化伝来、黒船来航、敗戦、日本はシルクロード交易の時代においても、大航海時代でも、常に「文明の終着点」であった。文明が頭の上を通過して行く事はなく、入ってくるものは国内に留まる。だから都合の悪いものは、はじめから入れないようにしなくてはならない。また都合良く入って来たものは自分たちが古来から守って来たものと矛盾が生じないように咀嚼改変する。ある意味で自分流にマネージすることで独自の世界を守って来た。まさに外来文化の「受容」と「変容」の歴史である。

 明治維新以後の近代国家化のなかで「攘夷」という排外主義スローガンは表向きは消えていった。むしろ、「近代化」とか「欧化政策」というスローガンに変えたとたん、「舶来」を積極的に導入し、新たな解釈を加え、日本化して我がものにして行った。しかしその背後には依然として「内」と「外」、「国内」と「国際」の二元論が生きている。そして、常に「攘夷」をモヤモヤとした暗黙知とする「国内派」が近代化を主導するのである。経済、市場がグローバル化している今日ですら、「外国かぶれした危険な国際派」をある時は利用しつつ、イザとなれば排除しながら良いトコ取りする。そういう「国際化」だ。常に「国内」ロジックが優先される。もちろんどこの国でも多かれ少なかれ事情は変わらない。国を開かねばならないが、自国の経済も守らねばならない。一国の経済規模が大きければ大きいほどその傾向は強いので、ある意味では致し方ないのかもしれない。しかし、今の日本はそういった「内なる攘夷」が歪んだナショナリズムと結びつき、再び「内なる鎖国」に向う恐れはないのか。「内向き思考」という反グローバリズムが。