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2022年6月20日月曜日

千葉公園に大賀蓮を愛でる 〜2000年の時空を超えて開花した古代蓮に会いにゆく〜





今回は2000年の時空を超えて開花した古代蓮「大賀蓮」に会いに千葉へ行った。

「大賀蓮」とは、東京大学の検見川演習農場で見つかった縄文遺跡(落合遺跡)から発掘した蓮の実を苦労の末発芽開花させたもの。この古代蓮の発見、開花に貢献した植物学の大賀一郎博士(1883〜1965)にちなんで「大賀蓮」と命名されている。

大賀博士は東京帝大理学部を出て、八高教授、満鉄調査部をへて、戦後は蓮の研究者として活動をした。日本で縄文時代の蓮を開花させたことは当時、国内外で話題になり、アメリカの雑誌「ライフ」にも大きく取り上げられた。しかし、日本ではこれを疑う人もあり、大賀博士は種子が出土した場所から発掘された木片の年代鑑定をアメリカ・シカゴ大学に依頼し、放射性炭素年代測定法により2000年前のものであるという結果が出、縄文晩期の蓮であることが証明された。大賀博士は苦労の人であった。満州事変を機に満鉄調査部を退職し戻った日本では、決して恵まれた研究環境にあったとは言えず、戦後はいろいろな大学の非常勤講師などを務めながら蓮の研究を続けた(発見当時は関東学院大学非常勤講師)。こうした地道な研究は、今も昔もなかなか世間の日の目を見ないもので、研究者として厚遇されることもなかった。しかし、アメリカで認められたことで日本でもようやく研究成果が認められることとなった。こうした話は戦後の日本の貧弱な研究環境や研究者の評価制度にありがちなエピソードだ。

一方で、大賀博士の快挙は地元の千葉の人々の協力がなければなし得なかった。発掘には大勢の学生や地元の人々が参加し、まずは縄文遺跡から蓮の実を探し出すところから始まった。しかし、なかなか発掘成果が現れず挫けそうになる中、1951年(昭和26年)に、ボランティア参加の地元中学生がようやくハスの実1粒を見つけた。続いて2粒が見つかり計3粒となった。しかしその開花はさらに困難をきわめる。大賀博士の地道な努力のおかげで1952年(昭和27年)に、その最初の1粒からようやく発芽、開花させることに成功する。現代の「大賀蓮」として全国に広まった古代蓮は、この原種から分けられたものの子孫である。その最初の一株がここ千葉公園に移植された。発芽/開花から今年でちょうど70年。ちなみに蓮は千葉市の花である。千葉公園には最初の一株から分かれて生育した古代蓮900株が植えられている。ちょうど6月中旬から7月にかけてが開花のピークであり、ベストタイミング。勇んで出かけた。その甲斐あって今回の「時空トラベル」はついに2000年の時を超えた。その一種気高さをも感じる蓮華を愛でることができた。なんという幸運であろうか。














(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4 + Nikkor Z 70-200/2.8)



大賀一郎博士(1883〜1965)
Wikipediaから



2022年6月12日日曜日

古書を巡る旅(22) The Works of Laurence Sterne  〜奇人による奇書を手に入れるという奇行の巻〜

The Works of Laurence Sterne 10 volumes




Laurence Sterne (1713~1768)


イギリスの小説家ローレンス・スターンと言われても知らない人が多いだろう。 ディケンズやジョンソン、シェークスピア、チョーサーについては多少の知識があってもスターンは知らぬ。英文学の研究者でもない限り馴染みのない作家であるといっても良いかもしれない。

ローレンス・スターン:Laurence Sterne (1713-1768) は18世紀イギリスの小説家、ヨークシャーの聖職者。1713年に英国軍人の息子として父の任地、南アイルランドに生まれた。曽祖父はケンブリッジ、ジーザスカレッジの学寮長、ヨーク大主教であった人物で名門の家系。彼もケンブリッジを出るが平凡な田舎の牧師としてあまり目立たない人生を送る。のちに小説家としてデビューするのは、1760年に彼の代表作「トリストラム・シャンディー」を書き始め第一巻を出版する頃から。これが一躍人気小説となり売れ行きが伸び、文壇やロンドンの社交界でもて囃されるようになる。しかし、巻を重ねるにつれ、後述のような表現手法に起因する難解さと徐々に間伸びしたせいか、売上がどんどん下降して行く。1767年の第九巻を最後に未完のまま終了。その翌年1768年ロンドンに没す。

このスターンの代表作「トリストラム・シャンディ氏の人生と意見」The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentlemanという長編小説は、ヨークのトリストラムという男が、あるとき自分の半生をを記録しておこうと思い立ち自伝をまとめ始める。いわばスターンの自分史的な側面もある作品だ。1760年に書き始め1767年の第九巻を最後に未完のまま終わる。ところが、その文体や表現手法が奇妙で、自伝なのにいつまでも本人が登場しない(生まれてこない)。主人公が生まれる前の父母やその周辺にまつわる人物描写と彼らの会話が延々と続く。しかも話があちこちに飛び、相互関連もなく、どこが初めで、どこが終わりか不明。一向に本題に戻ってこない。全く奇妙奇天烈な長編小説である。やっとこの世に生を受けた主人公が途中でどこかへ行ってしまい本題とならないまま未完で終わる。何が言いたいのか。作者の問題提起もない。小説としての感動もない。スリリングな緊張感もない。モチーフも不明。爽やかな読後感も考えさせられる教訓もない。そんな小説がなぜ英文学の傑作の一つに挙げられるのか?彼はいわゆる奇人と言って良いだろう。またこの小説は奇書と言って良い。明治期にロンドンに留学してスターン作品に触れた漱石も「どこが頭で尻尾かわからない海鼠のような小説」と表現している。全くもって意味不明の小説で、あらすじを聞いて(もっともあらすじなど書きようもないが)この作品を読んでみようという気にすらならないだろう。最後まで読み切るには相当な忍耐が必要である(と言われている)。ましてこんな全集を英語原文の古書として手に入れるなど奇行以外の何ものでもない。しかし手に入れてしまった。なぜなのか。単純に「珍しいから」としか言いようがない。王道を行く古書ハンティングとも言えないかもしれない。しかし歴史的な遺産、奇書/稀書として後世に残すべきだからだ。いや、やっぱり奇行だ。

結局、スターンの小説は、一貫したストーリーを持ち、巧みな文章表現力と編集力によって生み出されたフィクションではなく、一見無関係な事実や事象が次々とリンクされる、いわば現代のネット世界のファクトやフェイクや素性のわからない事象が散乱している状態を18世紀の長編小説上に手法として憑依させたと考えるしかない。すなわちサイバー空間に散らばるさまざまなウェッブサイトやブログをリンクさせてまとめ読みする、それをあたかも一つのストーリーとして表現するような、一種ハイパーテキストの先駆けに見えてしようがない。そう考えるとこれは類を見ない傑作であるかもしれない。なんと250年以上も前にWWW:WorldWideWeb、HTTP,TCP/IPとクラウドの世界、サイバー空間におけるネットサーフィンの快感(?)を提示してみせたことになる。時は18世紀末の啓蒙思想と百科全書時代。彼は、当時の理性や知識偏重や合理主義に対するアンチテーゼを提示し笑い飛ばしたのだろう。現代における既存のメディアや情報の価値や権威を壊してみせたような「ネットの世界」のメタファーが、実にイギリス産業革命の黎明期。アメリカ独立戦争、フランス革命前夜という時代に出現した。だとすれば、彼の小説は主流とならなかったとしてもすごいことだし、歴史は繰り返すということの証明でもある。19世紀に入ると彼の作品は、一種の通俗的なユーモア小説と見做され、文壇の主流と評価されることなく忘れられた存在となっていった。しかし20世紀に入ると、ジョン・ロックの「観念の連合」「「連想作用」の理論に基づく「意識の流れ」手法、すなわち人物の思考を無秩序で絶え間ない流れとして描く表現手法がブームとなり、スターンの小説はその先駆的な作品と見做され、ジェームス・ジョイス、マルセル・プルースト等によって「再発見」された。今では英国を代表する作家の一人として評価されている。

しかし、彼の著作は日本では夏目漱石や、伊藤整によって取り上げられ、また英文学者朱牟田夏雄によって翻訳され紹介されているが、ほとんど英文学の代表作品として省みられていないと言っても良いかもしれない。岩波から文庫本が出版されているが現在でも入手可能なのだろうか。図書館で日本語訳英文学全集を開いてみても彼の作品は出てこない。まして彼の著作の原典、英語の全集などは神保町の古書店でも出回らないし、ネット検索してもヒットしない。買い手もつかないのだろう。しかし北澤書店が珍しくも仕入れてネットで公開した。1796年版の初期本で、スターン自身による巻頭言と自伝が掲載された全10巻揃いの貴重なものだ。装丁もオリジナルの革装である。売れないことは分かっていたがこれも文化財。散逸させるのは勿体無い。それなりのプライスで出せば買い手は付く、という北澤社長の判断だったそうだ。慧眼である。私はそれに見事に引っ掛かった。珍しい物好きの奇人がここにいた。引っ掛けた釣り人もすごいが、そんな釣り人に釣られた魚もえらい!と自画自賛している。しかし、もっとすごいのは明治期に夏目漱石がこの難解な英語原書を読み、評論を加え日本に紹介していることだ。私がスターンの名を知ったのも漱石からである。本家イギリスでも、先述のようにこの時期忘れられたていたスターンに着目した。「吾輩は猫である」に大きな影響を与えたと言われている。なるほどそういう視点で「猫...」を読み返してみるのも面白いかもしれない。20世紀に入ってイギリスでもスターンの再評価が始まった訳である。伊藤整の著作「得能五郎氏の生活と意見」はさらに戦後になってのことである。明治期の知識人は実に貪欲に多くの西欧文学作品を読み研究した。漱石のような偉才が生まれ育った。このように漱石はロンドン留学中にシェークスピア研究者のクレイグ先生に師事してあらゆる古典作品を探し求め読んでいる。そりゃ貧乏にもノイローゼにもなるだろう。こうした明治人の知識への熱量は現代の日本では忘れられてしまったのか。北澤書店の社長は、今や大学の文学部や図書館からもこうした古典書に対する引き合いがないという。日本は大丈夫なのか。知のラビリンスはどこへ行った。古典を学ぶことによって養われる歴史の想像力、知の力がかなり衰えてしまったようだ。



Laurence Sterne肖像と表紙 第一巻 1793年版



この全集の大半(第八巻まで)は、代表作「トリストラム・シャンディ:The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman」と「フランスとイタリアへのセンチメンタル・ジャーニー:Sentimental Journey through France and Italy」、「ヨーリック氏の説教:The Sermons of Mr. Yorick」であり、あとは書簡集である。彼のもう一つの大作「フランスとイタリアへのセンチメンタル・ジャーニー」もフランスは出てくるがついにイタリアは出て来ないまま終わる。まあとにかく、他の文豪の小説とはまるで異なる奇想天外な文体や挿画に驚かされる。以下にその例をいくつかご紹介したい。挿画は、当代きっての人気画家ウィリアム・ホガースのものが数点含まれているのも興味深い。


牧師ヨーリック氏の死を悼む墨塗りのページ

挿画は当代きっての人気画家ウィリアム・ホガース

「私の著作の象徴」として掲示する墨流しマーブル模様
19世紀の本の見開きによく用いられた


以下は、文中にしきりに用いられる不思議な文字列や記号








この本には、第一巻目の見開きに所有者の流麗な筆記体のペン書きメモが記されている。「1799年、ジェームス・ロッホ氏からの贈り物」とある。この全集の出版年は1793年なので、出版の6年後に贈呈されたものということになる。

ところで、このJames Loch氏とは何者なのか? 試しにネットで検索してみた。Wikipedia英語サイトで一件ヒットしたほか、いくつかの英文ウェッブサイトも引っかかってきた。1780年スコットランド、エディンバラ郊外に生まれる。1855年ロンドンで没。ブロンプトン墓地に埋葬。スコットランド出身の法律家(Scotish Adovocate:スコットランド法廷弁護士、Barrister:リンカーン法曹院法廷弁護士)、資産管理委員、ホイッグ党の下院議員(Member of Parliament)、のちのスコットランド労働党の幹部Sir Thomas Dalyell)1932~2017)の先祖、曾曾祖父。イギリスにおける運河網や鉄道網の建設にも関わり、ロンドン大学の創設メンバーの一人でもあった。18世紀のスコットランド出身の法律家にして政治家として後世に名を残した人物であったようだ。ロンドンのNational Portrait Galleryに彼の肖像画が残されている。彼が生きた1780~1855という年代から、この本にペン書きされているジェームス・ロッホ氏とは多分この人物であろうと推測する。同姓同名の人物が他にもいるのかもしれないが。もしこのロッホ氏であれば、彼が19歳の時のプレゼントということになる。まだ法律家としても下院議員としても功成り名を上げる以前と思われる。どのような交流関係のもとで、誰にこの当世話題の人気作家スターンの全集をプレゼントしたのか。この全集には蔵書票も署名もないので所有者が誰なのかはわからないが興味深い。そして、その後この全集がどのような経緯を辿って21世紀の東京の神保町の書肆の棚に並んだのか。その250年の流転の旅路の物語を想像すると感慨深いものがある。これだから古書ハンティングはやめられない。




A present from James Loch Esq. 1799

James Loch (1780~1855)
National Portrait Galleryより




2022年6月3日金曜日

惜別 伊豆奈良本の「隠れ家」 〜「作右衛門宿山桃茶屋」の思い出〜


盛業中の時の「作右衛門宿山桃茶屋」入口

伊豆奈良本の隠れ家「作右衛門宿山桃茶屋」が廃業してしまった。コロナ禍と高齢となった女将の体調不良が理由だという。3年ほど前にご主人が亡くなって以来、女将が一人で切り盛りしてきた。。そして後継者が見つからない。去年の3月に店と宿を閉める決断をしたという。去年は2月に伊豆へ行って以来、コロナ規制による外出自粛や家内の骨折などで、結局一度も伊豆の第二の棲家と隠れ家へ足を運ぶ機会がなかった。年が明けて5月になってようやく出かけることができた。一年半ぶりに山桃茶屋を訪ねようと電話したら、女将が出て「去年閉店してもうやってないんですよ」と申し訳なさそうに言う。コロナコロナでちょっと時間が空いてしまったので嫌な予感がしていたが、それが現実のものになってしまった。閉店になってから残念がっても後の祭りだ。行かないのが悪い。特に家族でお世話になった女将には申し訳なかったと悔悟の念が湧いてきた。もちろん我が家だけのために店を開けてくれていたわけではないし、そんな偉そうに言えるほどの贔屓にしていたパトロンでもない。しかし家族の長年の思い出が詰まった山桃茶屋の閉店は心にポッカリと大きな空白を生み出すことになった。また一つ、我が時代が終わったと感じた。

そして、今回、これまでのお礼とお見舞いを兼ねて女将を訪ねた。何よりもお元気なのか顔を見たかった。大きな山桃の木があった入口の看板が板で覆われてしまっていた。いつもなら手入れの行き届いた庭と玄関の植木も伸び放題になっていた。なんとも哀れだ。女将は元気そうであったので少し安心した。久しぶりの再会を喜んでくれた。しばし思い出話に花が咲いた。しかし何と言っても40年以上続けてきた宿と店を閉めた虚脱感に苛まれているという。ひとりぼっちでやることも無くなってしまった...とポツリと語る女将が気の毒であった。女将は同じ伊豆の蓮台寺の出身で、ここ奈良本の庄屋の家に嫁いできた。以前に聞いた話だが、ここ伊豆という土地の歴史というか土地柄というか、当時は蓮台寺の親戚からは「なぜ奈良本に嫁に行くのか」と反対されたという。我々には窺い知ることはできないが、どうやら蓮台寺の実家は名家で、たとえ奈良本の庄屋であろうと家格が違う、ということなのだろうか。女将が小さいころ、実家では奥さんは「お方さま」と呼ばれていたと語っていた。言葉使いがみやこ風で優雅だったと語っていた。伊豆らしいエピソードだ。歴史上も、以前のブログで紹介したように、伊豆は古代から中世にかけて奈良、京都からの政治闘争に敗れた人々の流刑地であった。従って多くの「貴種」がみやこからやってきた土地である。特に蓮台寺あたりには「大津皇子の謀反」事件の時に舎人であった土岐の道作り(箕作)が流されてきたとされているし、箕作の地名が今も残る里にその末裔が住み着いたとの伝承がある。彼を祀る神社が里人によって守られている。また古代、中世に開基された小さな古刹があちこちにある。また奈良本も、その名の通り奈良から移り住んで来た人々が開いた里である。地元の氏神様である水神社の縁起に記されている。みやこから見れば遥けき東国、さらに山と海に隔てられた辺境の地であったのかもしれないが、風光明媚で温暖かつ豊かな土地柄である。彼の地を新たな定住の地として選び、子々孫々まで家系が続いたとして全く不思議ではない。きっと女将も世が世なれば貴種であった家系の末裔に違いない。その風貌佇まいにはどことなく漂う気品がある。今はこのお屋敷に一人で暮らしているという。思い出話に花が咲いているうちに、宅配弁当屋さんが弁当を届けにきた。女将の今夜の夕食だという。あんなに盛業で多忙な料理旅館を切り盛りしていた女将が、今は一人で弁当... なんか悲しかった。そう思うのは失礼なのだろうか。

山桃の大樹が玄関に聳える主屋は築100年を超える堂々たる古民家。ここが山桃茶屋として開放されていた。池越には伊豆独特の海鼠塀の蔵屋敷がある。ここは一日二組限定の温泉宿として提供されていた。先述の通りここは江戸時代には代々奈良本の庄屋屋敷で、明治になると一時は村役場になったこともあったそうだ。その庄屋家の末裔夫婦が、戦後は、熱川温泉の観光客誘致を掲げる町役場の要請もあり、40年以上に渡って「蔵の宿」と「山家(やまが)料理」の料亭として屋敷を開放し、観光客だけでなく地元にも愛され親しまれた。ある意味では古民家活用ビジネスの先駆けであったとも言える。一時期はテレビや雑誌にも取り上げられて話題になったが、かといって、幸いにも海岸沿いの熱川温泉街からは離れた山間の里であるため、観光客でごった返す「人気スポット」的な俗化やオーバーツーリズムを免れて、知る人ぞ知る「穴場スポット」、「隠れ家」として事業継続してきた。こうして地元に愛され、ツウに愛され、家族親戚で切り盛りするファミリービジネスモデルを続けてきたのでである。

「山家料理とは」伊豆ならではの山海の珍味を味わう家庭的な温もりある料理。田舎料理の素朴さと懐石料理の繊細さを併せ持つ。一品一品をコースとして出すのではなく、先付け以外はいっぺんに出てくるので誠に豪勢だ。自家製の山桃酒に始まり、天城山系で採れる猪肉や鹿肉が供されるかと思えば、伊豆稲取港、伊豆北川(ほっかわ)港で上がったばかりの金目鯛の煮付けや、鯵、雲丹、鮪、烏賊などの新鮮な刺身。タラノメ、ゼンマイ、タケノコなどの季節の山菜の天ぷら。女将丹精のバラエティーに富んだ漬物、らっきょうや梅干しもオーセンティックなツウの味。伊豆の名産わさび、そばはもちろん膳の主役だ。シメにはここの女将お手製の奈良本伝統の「へらへら餅」。これは自然薯を練って蒸しあげて餅状にしたものに胡麻と甘味噌のタレをかけていただく奈良本の隠れた名物。一時途絶えていたレシピをここの女将が復刻して再現した郷土の味だ。デザートのフルーツには伊豆定番の蜜柑や枇杷。こうした山海の珍味を、ゆっくりと時間をかけ、広々とした静かな古民家の座敷で堪能する。春から夏は蚊取り線香を焚き縁側で庭の山桃の木を眺めながら、晩秋から冬は囲炉裏端で、炭火の赤々とした炎と鉄瓶の湯気を眺めながら食事する。なんとも至福の時間である。贅沢な時間とはこういう時間のことを言うのであろう。

帰りには女将手作りの梅干し、漬物、山桃ジャムをしこたま仕入れて帰る。何よりも女将や板長さん、お手伝いのおばさんたちの暖かいもてなしと、地元の伊豆にまつわる話を聞くのが楽しみであった。女将はじめ土地の人々の人柄に触れることが大きな癒しになったことは言うまでもない。都会の論理と、生活テンポ、人間関係に疲れた人間にとっては、まるで故郷の田舎の実家に帰ったような安らぎと落ち着きを得ることができる場所であった。それがもう味わえないのかと思うと悲しい。役場の人からもせめて古民家カフェでもいいから開いてくれないか、と頼まれたと言うが、後継者もいないしもう決めたことと断ったらしい。勿体無いことだが、女将の年齢と体力を考えると、よくここまで頑張ってくれたとその労をねぎらいたい。ただ少なくともこの古民家は壊さずにどうにか次の世代に継承して欲しいものだ。なんとかならぬものかと思案中...

この山桃茶屋と我が家は、伊豆熱川に第二の棲家を得て以来、30年以上のおつきあいになる。思い返せば早いものだ。亡くなった父もここをこよなく愛した。母を乗せて大阪から車を飛ばしてやってきたものだ。私も米国赴任中に一時帰国して家内と息子、娘を連れて遊びに来たこの庭この座敷。結婚してニューヨークから里帰りした娘夫婦も、この日本の原点の極みのような時間と空間を楽しんだ。特に米国籍の娘の連れ合いはこの和の佇まいの中で冷酒を嗜む時間が至福だと気に入っていた。孫娘にとっても古民家を探検して過ごした時間が良い思い出となることであろう。家族が集まりリラックスできるかけがえのない場所であった。まさに故郷の実家のような存在であった。思い出の詰まった空間がなくなるということは、その思い出が時の流れとともに消え去るようで無性に寂しい。時の流れは人の大切な時間をそのままに保存してはくれないようだ。

「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」


主屋とシンボルツリー山桃の大樹

玄関

夏は蚊取線香焚きながらお庭を見物

冬は囲炉裏端で

名物「山家料理」

梅酒とアペリティーフ


奈良本の郷土料理「へらへら餅」

女将と愛猫

もう一人のこの家の老婦人

孫は珍しさもあってあちこち探検してはしゃいでいた






閉店してしまった「山桃茶屋」

玄関も閉じられたまま

蔵屋敷の戸も閉じられてしまった

玄関前の山桃の大樹も少し痩せてしまったようだ

主屋座敷縁側

蔵屋敷
温泉つきの作右衛門宿として利用された

惜別