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2019年4月27日土曜日

今年の日比谷公園はネモフィラが主役!




今日も頑張る働きバチ
 


 あわただしく桜の季節が過ぎ去ると、都心のオアシス、日比谷公園にはチューリップが植えられ、ハナミズキと木々の早緑を背景に咲き誇るというのが例年の景色なのだが、今年は、チューリップに代わってネモフィラが一面に植えられて可憐な青の絨毯を演出してくれている。

 ネモフィラが、こんなに人々の間で愛でられる様になったのは比較的最近のことではないだろうか。昔はあまり聞かなかったし、目にする機会も少なかった様な気がする。もともとはアメリカ西海岸原産の一年草で、その爽やかな青の花弁からBaby Blue Eyesと呼ばれている様だ。なるほど青い目の小さな子供を彷彿とさせる可憐な花だ。日本でネモフィラといえば、国営ひたち海浜公園や、国営昭和記念公園、国営海の中道海浜公園などの広大な丘のアンジュレーションを利用した一面のネモフィラ景観が有名だ。思いがけず、我が日常的な仕事場テリトリーである都心の日比谷公園でこのようなネモフィラの青を楽しむことができるなんて嬉しいことだ。青い空をバックにした丘陵とは異なるが、都会の一隅に広がる新緑の木立の中の青い絨毯もまた美しい。かつて過ごしたロンドンの郊外、ケントの自宅の裏の森に、この時期になると一面に咲き誇っていたブルーベルの群生を思い出す。ブルーベルの森の散策は、まるでこの世の天国を彷徨っている様な気分にさせてくれたものだ。
BlueBells in Kent, England


 この日比谷公園の真正面に、我が仕事人生を過ごした日比谷本社ビルがある。しかし、ついに昨年暮れにこの建物は閉鎖され、間も無く解体再開発される予定である。日比谷公園を望むビルで仕事した思い出はいつまでも消えない。かつて自分が過ごした思い出の建物が次々に取り壊されてゆくのは時の流れとはいえ寂しいものだ。建学以来100余年の伝統を誇る我が母校の旧本館もキャンパス移転に伴い、その重厚な近代建築遺産が惜しげもなく解体されて更地にされてしまった。文化とアカデミズムの殿堂のはずの大学であるにも関わらずなんという文化リテラシーの低さ、という識者の嘆きを尻目に。歴史と伝統を未来に承継していくということは難しいのであろうか。相変わらず新しいビルを建てたり、広大なキャンパスを新たに造成したりバブル時代の発想の経済エコシステムを信奉している。これからの超少子化高齢化社会、縮小均衡経済に向けて、もっと今あるものを大事に活用することを考えた方がいいのではないだろうか。経済合理性、技術合理性優先のプレハブ構造物は、いずれまた解体されて消えゆくことになる。日本も文化大国になるにはまだまだ修行と覚悟が足りない。「文化財守れる人が文化人」。またしても奈良の今井町に掲げられていた標語が心に浮かんでくる。







松本楼
噴水広場
秋の紅葉も良いが青モミジも美しい
ハナミズキとネモフィラ

旧日比谷本社ビル
間も無く解体再開発される






2019年4月13日土曜日

万葉集とは? 〜歴史書なのか文学書なのか〜

 

大伴旅人の万葉歌碑
坂本八幡宮境内
背後には太宰府政庁跡が広がる

坂本八幡宮
大伴旅人の居館跡
ここで万葉集巻の五の「初春の梅の宴」が催された。


  山本周五郎の講演集に印象深いものがあった。いわゆる時代小説について語ったものだ。曰く、今我々が知る関ヶ原の戦いも大坂の陣も、権力者、為政者の視点で語られた歴史的資料に基づく知識である。こうした歴史書は出来事を淡々と(客観的にではないが)記述して記録してゆく。一方で、こうした豊臣一族の運命を揺るがすような出来事が起きている大坂城の外では、道修町の商家に奉公する丁稚はその大坂城を見上げながら、田舎の父母を思い、日々の暮らしの中の喜びや悲しみに日々を過ごしている。そうした時代背景における日常の私的な出来事と私人の心情を描くのが小説であり文学である。歴史書には庶民の生活や私的な出来事は一切語られない。これが歴史書と文学書の違いだ、と。

 古代倭国、日本に思いを馳せ、時空を超えて旅する我が身を振り返ると、その時代を知るよすがとなるものは、主に歴史書や文書(もんじょ)史料、または考古学資料であることに思いが至る。それらの歴史書に記されている出来事と、大和路や筑紫路を旅して見る風景を重ね合わせ、当時の人々の心象風景を求めようとする。しかし、そこには山本周五郎が言う様に、庶民の暮らしや思いを見出すことはできない。歴史書に名を残す高位の身分の人々であってもその私人としての心情に触れる機会は少ないことに気づく。そのような事どもを文字で記された「文書資料」はないものか?7世紀〜8世紀の古事記や日本書紀といった「歴史書」は、「天皇」(この称号もこの時期生み出された)による「日の本」(倭国改め)統治の正当性を内外に訴えるために編纂された。すなわち権力者、為政者による彼らのための正史である。これまでの中華王朝への朝貢、冊封体制に入ることで倭国の統治の権威を保証してもらうという、東アジア的世界秩序(大中華宇宙)から脱して、(唐の文化と律令システム、統治機構、都城経営とを必死にコピーしながらも)唐からは独立した「日の本」(小中華宇宙)を作ろうとした。内外に、我が国は中華世界において朝貢/冊封で成り立つ国ではなく、天神の子孫に依り建国された(中華帝国とは別の起源を持つ)国である、ということを宣言した「政治的な文書」である。

 では同じ時期に編纂されたという万葉集はどういう文書(もんじょ)なのか。歴史書なのか、文学書なのか。その成立には謎が多い。舒明天皇の時代7世紀初頭から、乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱という歴史的事件の時代を経て、平城遷都、律令制の整備、奈良時代中葉までの約130年の間に詠まれた歌、約4500首20巻を撰録している。とりわけ巻一、二は天皇の御代に沿って時代順に編纂されている。天皇の治世や大和国の讃歌が多い。しかし国家の統治理念や為政者の天下国家に関する意思や理念の表明の書という体裁ではない。全体としては天皇から名もなき庶民まで多様な読み手の歌が採録されている(「詠み人知らず」が約2000首ある)。歌は「雑歌」が多く「相聞歌」「挽歌」となり、天皇讃歌だけではなく恋の歌や死者を悼む歌など私的な心情を歌ったものが多い。しかもそれほど体系的に編集されていない。後になるほど、別の選者が編集し、しかも前の編集を改変せず、いわば後から建て増ししたような構造になっている。万葉集は誰のイニシアチブで、どういう意図のもとに撰録され、編纂されたのか不明な点が多い。誰が「万葉集」と命名したのか不明であるし、「万葉」の意味するところも、悠久の時間の流れを言っている、とか。多くの言の葉を意味しているとか、後世色々な解釈がなされている。そもそも、のちの古今和歌集のように、編者の意図や年代が述べられた「序文」がない。少なくとも古事記/日本書紀のような「歴史書」が、当時の時代背景の下で意図を持って編纂されたのとは異なる成立経緯を持っていそうだ。

 先述のように、舒明天皇から、天武/持統帝の時代の初期の巻にはそこには統治者、すなわち天皇やその宮廷への賛美の歌は多いが、後の時代になるに従って、恋や別れ、人生の喜びや悲しみなど詠み人の私的心情を歌ったものが断然多くなる。万葉歌人として登場する代表的な詠み人たちは、初期には額田王のような宮廷歌人である。さらに天武朝時代の柿本人麻呂、平城京遷都の後の山部赤人などもそれほど身分の高い貴族や高位高官ではなく、天皇行幸に付き従った下級官僚や地方官僚である。しかし彼らは、いわば歌のプロフェッショナル「宮廷歌人」として天皇や朝廷、その治世を寿ぐ歌を多く歌った。中期になると大納言太宰帥の大伴旅人、筑前国守の山上憶良(遣唐使帰りの知識人であった)、さらに後期になると旅人の息子の大伴家持などの高級官僚(しかし藤原仲麻呂との争いに巻き込まれ越中や地方に左遷された)が中心となったが、「詠み人知らず」の歌も多く採られている。彼らは主に下級官僚や、名もなき庶民であろう。特に東国の東歌や、東国から徴発された「防人」の歌が家持によって撰録された。こうした撰録、編集に大伴家持の果たした役割は大きく(家持は軍事部門の高級官僚であった)、万葉集を最終的にまとめたのは家持ではないかとも言われている。「ひらがな」「カタカナ」もない時代、漢文、漢籍の素養がなければ言葉や歌を文字に表すこともできない時代にまとめられた万葉集である。漢字の訓読みで和語を表現する、漢文とも和語ともつかない、用法もバラバラな「万葉仮名」の和歌集である。5−7を基本とし、長歌では、これを繰り返し、最後を5−7−7で締めるという和歌の形式を生み出しているのだが、何とも雑然としていて洗練された感じではない。むしろ素朴さが残る歌も多い。のちの「ひらがな」「カタカナ」が発明された平安時代前期に撰録された古今和歌集のように、勅撰で整然と編纂され、洗練された流麗な文体の和歌とは異なる。

 万葉集の後期(家持の時代)になると「万葉集」に求められる役割、その編集方針に大きな変化が現れるようになったと言われる。宮廷において万葉仮名による和歌が徐々に衰退し、漢文のよる漢詩が主流になっていった。このため、先述のように後半になるにつれ万葉集には宮廷讃歌のような歌よりも、私人の目線での心情を歌う個性的な歌、防人や庶民の歌が増えてきた。このころの撰録には家持の果たした役割が大きい。しかし、晩年の家持の歌は一首も残っていない。平城京での政争(藤原仲麻呂との)に巻き込まれた家持の政治的な抹殺のせいだとも言われているが、謎の一つである。最期は赴任先の多賀城でひっそりとこの世を去っている。そして「万葉集」は、はやくも平安時代になると「万葉仮名」を解読できる歌人すらいなくなっていたため、勅命で「万葉集の解読」作業が進められたほどである。和歌が再び宮廷で読まれるようになるのは平安時代の古今和歌集の時代になってからだという。このように万葉集は「歌による歴史書」という側面と、最初期の「歌の歴史書」という面を併せ持つ歴史文書(もんじょ)とも言えよう。一方で私人の心情を歌った日本初の詩歌集、和歌集であることから「文学書」とも言える。初期においてこうした詩集の編纂に何かしらの意図があるとすれば、中国には古来より五言絶句のような漢詩があり、日本の当時の教養人も漢詩を読んだ。しかし一方で日の本にもこれに相当する独自の詩、歌があるべきだと考えたのかもしれない。これまでの歌は定型詩ではなく、古事記などに見える素朴な不定形の口承による歌謡であった。そこで新たな5−7調の定型詩を生み出し、漢字を和語の音に当て字として文字で表現する。これを広めて撰録し、歌集としようと考えたのだろう。そこに「近代的文化国家」日の本を宣言しようという意思があったのかもしれない。しかし、見てきたように時代を経るに従って、そうした国家の意図を離れた「文学作品」へと変遷していったように思える。

 新元号、令和はこの万葉集巻の五、太宰府大伴旅人の館で催された新年の「梅の宴」の歌三十二首の序文から採られた。

 「天平二年正月十三日に、帥老の宅に萃まりて、宴会を申べたり。時に、初春の月にして、気淑く風らぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は颯後の香を薫らす。(続く...)」

 こうしたことから、わが国初の和書からの出典だと話題になっている。一方で、いやいやこれとて漢詩の「蘭亭序」の形を真似たものだ、とか、マスメディア、SNS上にいろんな解釈が出て、それぞれにいろんな政治的な意図を読み取ったり、歴史観をを言い募ったり、なかなか賑やかだ。まあ、選定にあたっては我々には計り知れぬ色々隠されたストーリーはあるのだろう。しかし、今回は、同じ和書であっても、先述のように為政者の政治的な意思の表明としての「歴史書」である古事記/日本書紀からではなく、日本最初の和歌集「万葉集」からの出典だという点は親近感が持てる。かと言って伝統の漢籍からの出典でないことへの過剰な好感や反感、いずれにも与しない。もともと日本の古代の文書は、古事記にせよ、日本書紀にせよ。万葉集にせよ。漢字を用いて書かれているのだし、背景には日本人が倭人時代から尊敬し、学び続けてきた中華文化の影響が色濃くあることは否定できない。そもそも万葉集にも多くの漢詩や漢文の序文が記述されており、この「令和」も、先述のように梅花の宴の歌三十二首「序文」から引用されたもので、これは漢文で書かれている。今更「漢籍の影響を排した」ということは当てはまらない。そもそも「元号」自体、これまでも説明してきたように中国の歴代王朝の元号制度を我が国に導入したものではないか。しかも、我が国は、今も漢字を用いる漢字文化圏の国だ。ヨーロッパ諸国がギリシャ語やラテン語文化圏の国であるという文化的なルーツを共有しているのとどこが違うのか。現在の国家観で感情的になること自体ナンセンスだ。

 しかし、それはそれとして、令和は佳き元号だと思う。英語に訳すと「令:beautiful, 和:harmony」だそう。元号は皇帝が自分の支配する国家/人民/時代に対して為政者の目から国家理念を訴えるものである、というこれまでの伝統を考えると、今回の令和にはそうした意味合いは感じられない。「和を命令する」と読めるから「上から目線」だと評している人がいたが、それは引用元の意味を十分に理解していない恣意的な解釈だろう。

 都を遠く離れた筑紫の太宰府。大宰の帥(長官)大伴旅人の館で、初春の令月(麗しき月)に山上憶良、沙弥滿誓など太宰府官僚、国司等の面々が集う。庭には中国からもたらされた外来の梅が咲き誇り、「諸君、庭に咲く梅の歌を歌いたまえ!」との旅人の促しを皮切りに、和やかに歌い交わす。そんな「梅花の宴」の歌会の場面である。そこには父親の赴任に同道したまだ少年であった旅人の息子、家持も同席していたに違いない。彼らは時として旅人の館に集まり、酒を酌み交わし、楽しく談笑し、はるけき都平城京や、生まれ故郷の飛鳥に想いを馳せる。亡くなった妻への思いをうたう。旅人と親しかった筑前国守として太宰府に赴任していた山上憶良は筑紫で見て回った庶民たちの暮らしの貧しさに心を寄せ、庶民の日常に目を向けた歌を多く読んだ。その中から子を思う心を「子等を思ふ歌」に託す。太宰府で詠まれ、万葉集に採録された歌は200首に及ぶ。万葉筑紫歌壇と言われる所以である。そこには権力中枢にいて上から目線で天下国家を論じる空気はない。中央権力を離れた地方に身を置き、「歴史書」には描かれない情感の世界が語られ、太宰府官僚ではあるが一人の歌人の姿があるだけだ。まさに「令和」はそういった文学作品としての万葉集からの引用だと言って良いと思う。もっとも元号選定にあたった現在の政権中枢の人々に、どのような古典に対する理解と造詣があったかは不明であるが。

 これから「時空の旅人」には万葉集が離せない旅の友になるだろう。詩歌は和歌であれ漢詩であれ、当時の人々にとって不可欠のコミュニケーション手段であった。特に高級官僚や貴人にとっては詩歌の素養と表現力は絶対的に求められる基本能力であった。今で言えばメール、ブログ、SNSのようなメディアを想起させるが、この短い言葉による簡潔なメッセージには単なる情報だけではなく情感や暗喩、さらには霊力まで込められているとさえ考えられていた。言霊の力が我を古代史の真実へと導き給うであろう。

 「磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ 真幸(まさき)くありこそ」 

柿本人麿


大宰大弐紀男人の万葉歌碑
梅花の歌三十二首の冒頭の歌
「正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅を招きつつ楽しき
終へめ」

筑前守山上憶良の万葉歌碑
「子等を思ふ歌」
学業院跡

大伴旅人居館があった地区は大宰府の上級官僚の居宅街であった。
今は「花屋敷」という小字名を持っている
「梅は鏡前の粉を披き...」
大伴旅人居館跡界隈

「遠の朝廷」の栄華を偲ぶ大宰府政庁正殿跡の礎石

大宰府政庁跡
政庁正殿から南面す
大宰少弐小野老の万葉歌碑
この有名な歌は大宰府赴任中の小野老が寧楽の京師を偲んで歌ったものである
大宰府政庁跡



2019年4月10日水曜日

飛鳥山の旧「渋沢栄一邸」訪問 〜新一万円札の顔に!〜



青淵文庫
渋沢栄一の揮毫による扁額

閲覧室

晩香廬


 びっくりした! 先週の5日(金)に、桜満開の飛鳥山の渋沢栄一の旧邸跡「渋沢庭園」を訪問したばかりであった。そしてその4日後の9日(火)に、2024年から発行される新一万円札の肖像に渋沢栄一が登場することが発表された。なんらかの予知能力が働いたのだろうか。飛鳥山に呼び寄せられたような気がする。もちろん知っていたから行ったわけでもない、単なる偶然だが嬉しい気持ちになった。ちなみに5000円札は津田梅子、1000円札は北里柴三郎。20年ぶりのデザイン刷新だという。新元号、令和の時代に新たに発行される新紙幣である。また一つの時代が終わり新しい時代へ変わってゆく。渋沢栄一は「近代日本経済の父」、「日本の資本主義の父」とも言われる。明治初期から昭和初期にかけて、第一国立銀行(のちのみずほ銀行)や東京証券取引所など金融、製造、物流等、500社の創業に関わった。そのほかにも社会事業や、教育にも力を入れ幾多の学校の創立にも取り組んだ。これだけ起業、創業を手掛けておきながら、渋沢が他の実業家と異なる点は、決して「渋沢財閥」を作らなかったことだ。これは後述する彼の「道徳経済合一論」の理念に基づくものであったのだろう。これまでも何度か紙幣の表を飾る肖像の候補に挙がったが、今回ついにデビューとなった。


Wikipediaから
お札の写真よりもこちらの方がいいと思うが...


 渋沢の実業家としての理念、哲学を表す著作がある。1916年(大正4年)に「論語と算盤」を表した。そこで「道徳経済合一説」を唱えている。曰く、

 「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」
 「事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。」
 
 すなわち西欧流の、人間の欲望の赴くままに動けば「神の見えざる手」が経済を回してくれる(レッセフェール)、あえて言えば私利私欲が基盤となっている「資本主義」観念とは異なる、明治日本的な仁義道徳的「資本主義」を唱えた。私企業における事業活動の持つ公益性、事業家に求められる道理・道徳。資本主義に内在する矛盾を乗り越える理念と知恵を訴え実践した。この中華文明のレガシーである論語の観念と、西欧文明のレガシーである資本主義の観念を合一したところに、日本の歴史の底流に流れる「外来文明の受容と変容」の一種の典型を見ることができる。さらには経済や経営の「理論」を「道」に仕立ててゆく典型がここにも表れているように思う。この頃の日本人の教養や知性の背景には論語があり、仁義道徳をわきまえた教養人でなければ偉大な政治家にも実業家にも官僚にも軍人にもなれない。そうした実践は容易なことではないが、そんな基礎的な素養が当然のように求められて時代であった。折しも同じ日に保釈中の我が身についてビデオを通じて自己主張をした元経営者がいる。現代においては自己主張は否定されるべきものではないが、そこには仁義道徳に裏打ちされた主張がなければならない。洋の東西を問わず、会社の金を私物化して、「道理にかなわぬ」ことを「自己のために」やっておきながら、「陰謀だ」と喚いているようにしか見えないのでは人々を納得させることはできない。渋沢の「道徳経済合一説」をこの自動車会社中興の祖といわれた元トップに聞かせたいものだ。どこかで「道」を間違えてしまったのだろう。こうした精神的なバックボーンが失われた時代にこそ、渋沢の経営哲学と実践を改めて学ぶべきであろう。

 渋沢はまさにそうした明治の教養人であり知識人であった。そういう素養を持った実業家であった。そしてそれを実業の中で実践した。彼は論語を読み、漢詩を詠み、書籍を丹念に収集しそれをのちに青淵文庫に収めんとした。残念ながら建物はできたが、収蔵すべき論語集は関東大震災で焼失してしまった。彼の考え方、合理性、精神性の基礎にあった論語の体系が消失してしまったこと、そして文庫という建物だけが残ったこと。これらが戦後のポスト渋沢時代を暗示する出来事のように見えるのは考えすぎだろうか。


 さて、そろそろ「旧渋沢庭園」散策に話を移そう。

 1879年、渋沢は飛鳥山の地に賓客接待用の別邸を構えた。敷地面積は28,000平米あり、庭園内を整備しここを「噯依村荘(あいいそんそう)」と命名した。庭園内に、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設した。渋沢は1901年からはここ飛鳥山の邸宅に移り住み、1931年91歳で亡くなるまで本邸として使用した。1945年4月の空襲により、建物の多くを焼失したが、青淵文庫、晩香廬などが残った。現在は、旧渋沢庭園に隣接する飛鳥山公園に渋沢史料館が開館され、彼の生い立ちや業績を偲ぶことができる。


渋沢史料館

 青淵文庫(せいえんぶんこ)(国指定重要文化財):

 1925年竣工。設計:中村/田辺建築事務所。施工:清水組

 渋沢の傘寿の祝いと子爵昇格の祝いに竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈した建物。ちなみに青淵(せいえん)は渋沢栄一の雅号。渋沢のコレクションである論語を中心とした漢籍を収める文庫として建設された。煉瓦構造、鉄筋コンクリート構造の二階建で、鋼鉄製の書架などを備える堅牢かつ荘厳な建築物となっている。外装や内装には渋沢家の家紋をモチーフにしたオリジナルタイルがふんだんに用いられている。窓にはガラスのパッチワークで「寿」「竜」「柏の葉」がデザインされた凝ったつくりになっている。閲覧室内部は、チーク材を床や壁面、ドアに用いた荘厳なしつらえである。1923年(大正12年)の関東大震災で建設中の建物も被災し、さらには保管先で論語やその他の漢籍が焼失してしまう。渋沢にとっては無念極まりない出来事であった。その後再建された文庫は、収められるべき書籍を失い、賓客の接遇用に使われた。一階の閲覧室は美しいステンドグラスの間で、図書閲覧室というよりは応接スペースというたたずまいである。二階の書庫は公開されていないが書架があるそうだ。二階へ上がる階段は螺旋階段となっており、失われたとはいえ渋沢の「和魂洋才」の基礎たるべき「和魂漢才」の殿堂へと誘うワクワクするような時空ゲートになっている。

旧渋沢庭園のアプローチ
正面ファサード

家紋をデザインしたタイルとステンドグラスの凝った造り

一階閲覧室エントランス
重厚なドアのリフレクションが美しい





「寿」「竜」「柏の葉」がデザインされている

閲覧室に装備されている電気ヒーター




一階閲覧室全景

二階の書庫へ通じる螺旋階段

折からの桜が満開

旧庭園の遺構



晩香廬(ばんこうろ)(国指定重要文化財):

 1917年竣工。設計:田辺淳吉。施工:清水組

 1917年、渋沢の喜寿の祝いに清水組(現在の清水建設)が贈呈した洋風茶室。清水組が経営顧問としての渋沢の貢献に感謝しての寄贈であった。名前の由来ははっきりしないが、渋沢の漢詩の一節から採ったとも。また「バンガロー」の当て字だとも。主に賓客をもてなすために利用された。庭園内には和風茶室「無心庵」があったが戦災で失われた。こちらは裏千家流の茶室で益田鈍翁の弟で茶人の益田克徳の作であるといわれる。その待合い「邀月台(ようげつだい)」(焼失)からは、渋沢が創立した王子製紙の工場が展望できたという。それにしても洋風茶室とは珍しい。とは言っても茶室が中にしつらえられているわけではなく、暖炉のある談話室である。木造平屋建てのこじんまりした建物であるが、細部はとても凝った意匠が施されている。内部は栗の木とレンガ風タイルを用いたインテリアで、照明器具や火鉢にいたるまで遊び心に溢れた小物で満たされている。残念ながら内部は撮影禁止のためここでは紹介できない。


晩香廬




桜花舞い散る

庭園の桜の樹
向こうには茶室「無心庵」、「邀月台」などがあった



2019年4月7日日曜日

江戸名所「飛鳥山花見乃圖」〜今も花見の真っ盛り!〜



飛鳥山の桜
お花見


 今年のお花見は、皇居乾通り、千鳥ヶ淵、御殿山、目黒川ときて、飛鳥山へ。今年の東京は3月21日の開花宣言、27日の満開宣言、と前倒しで桜の季節を迎えたが、開花宣言とともに急に冷え込み、桜の花持ちが良い。満開から10日経った今でも、飛鳥山の桜は見事な咲きっぷりである。江戸の五大桜名所踏破とはいかないが、桜名所をいくつも回れるほど花期が長い。残念ながら京都、奈良をめぐる時間は取れなかったが、今年は花のお江戸を満喫した。少々桜酔いの感もあるが満足感が心に満ち満ちてくる。

 飛鳥山は昔から江戸の桜の名所として知られているが、これまで一度も行ったことはなかった。京浜東北線の王子駅前の高台でアクセスは便利であるのだが。やはり城南の品川っ子には縁の薄いところであった。かつてのお江戸の桜花見名所、品川御殿山の歴史を知ってからだった。そんなら飛鳥山も行かにゃならんだろう!と思い立ったのは。来てみると意外に品川からは近い。何しろ乗り換えなしの一本だ。駅のホームからすでに飛鳥山裾の桜が連なって見える。しかしそれにしてもここの桜は見事だ。これはこれはの全山満開。標高25.4mの山上に登るとあたりには家族連れが集まって和気藹々と花見の宴を楽しんでいる。なんとも和やかな空気が漂っていて気持ちが良い。

 江戸時代、王子は日光御成街道の第一番目の宿場町で交通の要衝であると共に、江戸の北の郊外の一大行楽地であった。こうした立地は東海道の第一番目の品川宿と似ている。江戸の切絵図を見ると飛鳥山の周辺には「此辺料理屋多シ」「茶屋多シ」とある。春の桜見物と日光街道中、王子権現、王子稲荷参詣とにぎやかであったことだろう。飛鳥山公園は、江戸時代、享保年間。八代将軍吉宗によって品川の御殿山とともに、飛鳥山に桜を千本以上植えて、江戸庶民の遊興の地としたのが始まりである。大体の遊興地は神社仏閣の近くにあることが多い。参詣の後のお楽しみという訳だ。ここも例外ではない。飛鳥山の隣には王子神社がある。創建は不詳だが、昔から熊野三山の神々を勧請して祀った社があった。江戸時代になると徳川将軍家の崇敬篤く、地元では王子権現と呼ばれた。特に八代将軍吉宗は出身地の紀州に由来を持つ王子神社に心を寄せ、この飛鳥山を寄進したのだという。そこに千本以上の桜を植えて、現代まで続く庶民の花見名所が生まれたという訳だ。その後、明治新政府は西欧諸国の「公園」制度に倣って、1873年(明治6年)に太政官布告により帝都内の五つの「公園」を指定した。芝公園(増上寺境内)、上野公園(寛永寺境内)、浅草公園(浅草寺境内)、深川公園(富岡八幡境内)。そして飛鳥山である。飛鳥山だけが、王子神社の寄進地ではあったが、寺社境内ではない「公園」であった。品川御殿山がその後の、激動の歴史に翻弄される中、消えていったのに比べ、こちら王子飛鳥山は今でも東京のお花見の人気スポットで有り続けていることは嬉しい。「暴れん坊将軍」吉宗さまありがとう。

 明治になると、王子には製紙工場が開設されこの地は近代工業発祥の地の一つとなる。1873年(明治6年)渋沢栄一により、設立された抄紙会社(のちに製紙会社、王子製紙)がここにわが国初の洋紙工場を開設した。1943年に休止するまで王子は製紙工業の町であった。明治7年にはその隣に紙幣寮抄紙局(のちの大蔵省印刷局)ができ、今は独立行政法人化して国立印刷局王子工場となっている。こうした歴史を偲ぶ施設として飛鳥山公園に「紙の博物館」がある。その明治の実業界の巨星、渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。元々は賓客をもてなす別邸であったが、1900年ごろからここを本宅として晩年を過ごした。残念ながら戦時中の空襲で多くの建物が消失した。しかし飛鳥山公園に近接する広大な邸宅跡(旧渋沢庭園)には、今も渋沢資料館、青淵堂、晩香盧がある。

 ところで、飛鳥山公園と王子神社の間には石神井川(ここでは音無川と呼ばれる)が流れており、この河岸が整備されて音無親水公園となっている。近代土木工学の粋とも言える見事な石橋である音無橋を下に潜ると、川の流れは水門で本流と分けられ、水量も調整され、緩やかな水路に沿って緑道が設けられている。観光客や花見客で混雑することもなく、満開の桜と新緑で美しい季節の散策を楽しめる。飛鳥山公園の陰に隠れた知る人ぞ知る北区の名所だ。この音無川も吉宗公が紀州熊野の音無川にちなんで名付けたものだという。当時からここも河畔に桜百本を植えて飛鳥山と並ぶ行楽地であった。

 もう一つの名物は都電荒川線(東京さくらトラム)。三ノ輪橋から早稲田までの路線だ。都内に残る唯一の路面電車となってしまった。振り返ってみると1964年の東京オリンピックを契機に、都電がどんどん町から消えた。高速道路が中空をうねり、地下鉄が地中に巣喰い、東京が大きく変貌した。ここには王子駅前、飛鳥山の停留所がある。この界隈はいまだに昭和の東京下町の雰囲気を残している。飛鳥山の歩道橋には大勢の「撮り鉄」カメラ小僧が長いレンズをくっ付けて砲列を敷いている。無謀にもスマホカメラでロングショットを狙うオバちゃん達も元気だ。花のお江戸、東京には、まだまだ知らないところがある。1000年を超える都、京都や奈良に比べると歴史の浅い東京ではあるが、お江戸から帝都東京の時代を経て、現代のグローバルシティーTokyoまで、400年に渡って首都としての歴史と、世界に冠たる大都会、江戸/東京の人々の生活の歴史が詰まっている。東京時空旅行もまた楽し。







都電6000系電車
懐かしい塗色だ




















飛鳥山頂上三角点
標高25.4mとある
江戸の最高峰、愛宕山より60cmほど低いようだ

飛鳥山山頂(!?)から王子駅を望む






都電荒川線(東京さくらトラム)
本郷通り




昭和五年に架けられたコンクリートアーチ橋、音無橋
ここから「音無水親公園」へ






音無橋
おちゃのみずの聖橋に似ている

舟串橋

水車



舟串橋

王子神社の大銀杏
王子神社(王子権現)

昔ながらの質屋。しかしここにもデジタルトランスフォーメーションの波が...

音無橋

飛鳥山に登るには「あすかパークレール」で。
並ぶ暇があったら歩いて登ろう!
JR王子駅から飛鳥山公園を望む



 国立国会図書館デジタルコレクション「錦絵」より。東京都23区内で愛宕山に次いで高い山である飛鳥山。ここからも昔は富士山が展望できたようだ。品川御殿山と違い、今も庶民の花見の名所であることは変わりない。音無川の堰堤も名所百景に選ばれている。


江戸名所「飛鳥山はなみ」歌川広重

江戸名所「飛鳥山花見乃圖」歌川広重

東都名所「飛鳥山全図」一立斎広重
江戸名所百景「王子音無川堰」歌川広重