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2018年1月24日水曜日

私的Nikon D850使用インプレッション 〜人気が止まらないワケ!〜


Nikon D850
Nikon HPより

 昨年9月の発売以来、ニコンD850の人気が止まらないのだそうだ。年末にはバックオーダーを解消すべくニコンも増産に力を入れたが、年明けてもまだ品薄状態で予約順番待ちが捌けないようだ。私はラッキーなことに発売日にゲットできた。(昨年9月9日のD850入手時のブログ )成長が鈍化したデジタルカメラ業界にとっても久々の大ヒット商品になった。経営が苦しいニコンにとっても起死回生のホームランだ。

 それもそのはず、D850はなかなかの優れものである。使うたびに益々その感を深くする。下記の作例をご覧いただきたい。なにかこれまでとは別次元の画質になっているのが感じられる。もちろん優秀なニッコールレンズ群あってのものではあるが、そのレンズ性能を遺憾なく発揮させてくれる最高のボディー登場と言える。
 雪の夜道はISO25600という高感度で撮影しているが、降雪によるボカシ効果があるものの全体のノイズ感は少ないし、あっても不愉快なものではない。夜道の街路灯の照明と反射した雪道、歩く人のシルエット、その顔の表情のディテール、雪道の轍のパターン。全体の階調が豊かで、雪景色にありがちな白黒の硬いコントラストではなくふんわりとむしろ温かみを持って再現されているているのに驚いた。
 また紅葉の写真は、やはり全体に光がまわり朝靄の森を背景に紅葉が過度に自己主張せずに表現されている。これまでの自分の紅葉写真とは異なる表現ができたと感じる。拡大すると対岸にいる見物客の一人一人の顔もはっきりと確認できる。高解像度と階調の豊かさという、これまでは二律背反と考えられていた要素を同時に実現できている。これはすごいことだ。

 D850は4575万画素という高画素機だ。一般に高画素だと画素ピッチが小さくなり、階調/ダイナミックレンジに不利であったり、高感度ノイズが目立ちやすくなるのだが、D850の階調は素晴らしい。作例のように高感度ノイズもかなり抑えられており、ノイズがあっても実用レベルで不快な画にならない。ニコンの総力を挙げて生み出した、最高レベルの画質を達成したデジタル一眼レフと言って良い。さらに高画素ながら高速連写機能も強化されて、スポーツ写真などにも対応できる。もっとも私「時空トラベラー」はもっぱら「風景写真」「情景写真」なので高速連写は使わないが。

 最高の「お道具」が今手元にある。私の感性をわしづかみにする異次元のイメージを創出してくれるカメラ。この友とますます撮影旅行に出かけようとうずうずしている。これは所有していることを喜び、磨きながら床の間に飾って愛でるカメラではない。ドンドン撮影現場に持ち出して、ガンガン使い倒すカメラだ。かつてデビッド・ダンカンやユージン・スミスなどのプロフォトグラファーのニコンFとニッコールレンズ機材が傷だらけで、歴戦の勇士の風格満点であったことを思い出す。使い傷こそニコンの勲章。それでも狂いもなくプロの要求に応えるタフさと繊細さ。まさにDependable, Durable Nikonだ。今回、技術のニコンが満を持して世に問うた最高機能満載機!惜しみない最高性能のパッケージがリーズナブルな価格で手に入るというコストパフォーマンス。人気となることは不思議ではない。日本の製造業の底力と、世の中の良い「お道具」を評価する眼に改めて驚嘆する。もちろん私の眼力にも狂いはなかったんだと嬉しくなる。



雪の通勤路
1/125 f.4.8  ISO25600
AF-S Nikkor 80-400
RAWで撮影、LightRoomでポジプリセット現像


後楽園の紅葉
1/1000 f.2.8  ISO125
AF-S Nikkor 24-70
RAWで撮影LightRoomでポジプリセット現像

後楽園の紅葉
1/500 f.2.8  ISO125
AF-S Nikkor 24-70
RAWで撮影LightRoomでポジプリセット現像


秋の街路樹
1/60 f.4 ISO 100
AF-S Nikkor 24-120
JPEGで撮影


秋の蘇峰公園
1/500 f.4  ISO 100
AF-S Nikkor 24-120
RAWで撮影LightRoomでポジプリセット現像



2018年1月17日水曜日

纏向遺跡の居館はなぜ東西軸なのか?

 2009年11月に発表された纒向遺跡における居館跡発見は世間を沸かせた。ついに「卑弥呼の宮殿」発見か?と。しかし、卑弥呼がいたという証拠は見つかっておらず、邪馬台国近畿説の期待感先行の騒ぎようであった。私はそれよりも3世紀の初期ヤマト王権の遺構であろうと考えるし、むしろ驚いたのは纏向遺跡の4棟の建物が、全て東西軸上に配置されていることであった。これまでの弥生倭国の遺構で、このような「方位」を明確に意識した建物配置は見つかっていなかったからだ。もしかすると、「初期ヤマト王権を打ち立てたのは誰なのか」という疑問を解くカギがここにあるかもしれないと感じ始めた。このころ既に北部九州の国々では朝鮮半島や中国との通交が活発に行われ、歴代の中華王朝への朝貢/冊封関係を通じて先進的な思想や文物、技術がチクシ倭国にはもたらされていた。早くから後漢や魏に使いを出していた奴国、伊都国、邪馬台国は中国の皇帝(天帝)が「方位」を重視して壮麗な都城を南北軸で造営していることを知っていたはずだ。しかしチクシ倭国の王たちはこの中華帝国の「方位」思想を取り入れた都城作りはしなかったようで、相変わらず弥生農耕集落伝統の深い堀を巡らした円形の環濠集落(吉野ヶ里遺跡にみられるような)に暮らしていた。ところが3世紀になると近畿ヤマト倭国には、「方位」を意識した居館、神殿を奈良盆地三輪山山麓の纏向に営んだ王が出現した。南北軸ではなく東西軸ではあるが。

2009年11月の纒向遺跡現地説明会



遺跡の真西向き

纏向の居館遺跡から眺めると、11月の太陽は二上山のやや西南、
葛城山金剛山方面にに沈んでゆくように見える。


纏向宮殿/神殿発掘図
東西軸に対し5度ずれている。
桜井市HPより


纏向遺跡の俯瞰図
真東に山を背負い、右手に箸墓古墳、その背後に三輪山、左手の集落の中に纏向居館/神殿建物跡が
吉野ケ里遺跡のような環濠集落形態とは異なる「方位」を意識した都邑となっている。
桜井市HPより



 時代を下った6世紀以降の飛鳥の宮殿や都城は南北軸という「方位」に則った設計思想で造営されたことはよく知られている。この頃伝来した仏教の寺院(飛鳥寺、四天王寺など)建築も全て南北軸で設計されている。これは中国の北辰、すなわち北斗星を定点とする宇宙観に基づく都城設計の思想によるものである。すなわち「天子は南面し、臣は北面す」の考え方を取り入れた宮殿を中心とした都市設計である。8世紀の平城京や平安京がこの南北軸秩序に習って造営されていることは言うまでもないだろう。

 ではなぜ、3世紀の初期ヤマト王権の中心的な施設である纏向の居館は東西軸なのか?どのような宇宙観から設計されたのか? 先述のように、中国の都城の「方位」南北軸が不動の北極星を起点とした北辰思想に基づくものであるのに対し、東西軸は、農耕社会に見られる太陽信仰に基づくものと考えられる。纏向遺跡の宮殿/神殿は、三輪山を東に、二上山を西に、ちょうど日の出、日の入りという太陽の運行軸上に配置された設計となっているわけだ。しかも環濠集落ではなく、農耕の痕跡も生活臭もない、人工的な、いわば「都市」建造物として設けられた。同じ自然崇拝、太陽信仰に基づくこれまでの弥生的な農耕集落、邑、国とは一線を画するイデオロギーを感じさせる。いわば「方位」概念を強く意識した「王都」然としている。

 弥生農耕集落である環濠集落形式をその特色とした国(九州の吉野ヶ里を想像してみてほしい)にも「方位感」はあったに違いない。吉野ヶ里遺跡を見ると、北に死者を埋葬する墳墓群が検出されている。一方で伊都国王墓平原遺跡は高祖山を東に見る東西軸で営まれ、被葬者(女性であるようだ)は西に頭を向けて埋葬さている。紀元前の早良国王墓遺跡も神奈備型の飯盛山を西に背負う東西軸に「甕棺ロード」が形成されている。東西という「方位感」は稲作農耕社会の弥生の人々の自然観、宇宙観として受け入れられやすい。太陽神信仰が世界でも共通の初源的な自然崇拝、信仰形態であることも東西軸重視の考え方が特異なものではないことを説明しやすいだろう。しかし、このころのチクシには王の居館や神殿を東西軸上に配置するという構造は想定されていなかったようだ。

 3世紀にヤマトに新たな宮都纏向を営んだ王は、円形の環濠集落(チクシの吉野ヶ里遺跡やヤマトの唐子鍵遺跡のような)ではなく、「方位」をより重視し、軸上配置による「秩序」を意識した宮殿/神殿を整えた。しかし中国、朝鮮半島の都城のような南北軸ではないが、軸上に宮殿や神殿を配する考え方には大陸の影響が感じられるが、その思想には太陽神信仰の意識が現れているところに纏向の特色がある。「天子南面す」という北辰思想に基づいた南北軸が倭国/日本の宮殿/都城造りに取り入れられるのはさらに300年以上後になる。弥生的農耕社会において、太陽信仰という自然崇拝による祭祀を行う神殿を中心とした集落形成から、より「方位」を意識した王都形成へ、さらに中国的な宇宙観、方位観を取り入れた王都形成へと移行してゆく過渡的な姿ということなのだろうか。アニミズム的な自然現象を崇める原始農耕社会にあって重視される太陽の出入り(東西軸)よりも、不動の北極星を定点とする宇宙の姿を重視する。それを天下支配の正統性のモデルとする華夷思想、天帝思想。南北軸という秩序観は天下の統治秩序、すなわち中華皇帝(天帝)の徳を慕う蛮夷の王による朝貢/冊封という東アジア的世界秩序に重きを置いた、より文明の発展段階の進んだ「方位感」であったのだろう。

 ちなみにこの頃(3世紀)纏向遺跡周辺に出現した箸墓古墳などの前方後円墳は、その向きがまちまちで、統一した「方位」の概念、法則なく造営されているように見える。また纏向遺跡全体の構造も、居館建物以外はあまり「方位」を考慮した町割りになっていないらしいのも不思議だ。まだ全体の2%程度しか発掘調査が進んでいないので今後の調査結果次第ではあるが、当時の支配層には、建物造りに既に「方位」に対する意識があったことが推測されるものの、なぜ町割りや墳墓は方位に無縁なのか謎である。太陽神の神殿のみ東西軸に配置したのだろうか。すなわち「聖なる権威」の象徴たる神殿/居館と世俗世界、死後の世界を分けたのだろうか。

 それにしてもヤマトの王とは何者?どこから来たりし者なのか? このような纏向の建物配置は、東西と南北の違いこそあれ、「方位」意識とそれによるあらたな国や王権の「秩序」の考え方を表しており、大陸伝来の都城設計の影響を感じる。また纏向の神殿と思しき建物跡からは大量の桃の種が出土している。これは「桃の霊力」を利用する祭祀形態という中国の神仙思想や道教的思想を想起させる。このあたりが「チクシ倭国」の「王都」遺跡とは異なる特色である。3世紀の初期ヤマト王権は中華王朝との通交はあったのだろうか。あったとすれば、それはどの王朝とであったのか。おそらく「チクシ倭国」が朝貢した漢王朝や、三国時代の北方王朝である魏ではなかった可能性がある。南の王朝、魏と敵対していた呉であろうか? さらには中国江南の越族やさらにはタイ、ベトナムの古代王朝との交流があったのだろうか。ちなみにこれらの地域の神殿は東西軸で配置されている。朝鮮半島経由とは別の黒潮ルート(琉球、タネ/ヤク、南九州、紀伊半島という)による大陸との通交があったのかもしれない。少なくとも魏志倭人伝に描かれた邪馬台国をはじめとする倭国の姿とは異なるもう一つの「倭国」が列島内にはあったらしいことを示唆するように思う。


三輪山と箸墓古墳



(参考)吉野ケ里遺跡

 弥生農耕集落の代表的な遺跡「吉野ケ里遺跡」を見て比較していただきたい。広大な環濠に囲まれた集落で、首長の居館エリア(南内郭)と神殿エリア(北内郭)が分かれている。環濠の外にも高床式倉庫や交易場、小集落が見られる。水田も環濠の外にある。居館/神殿建築は「方位」を意識した軸上配置にはなっていない。「纏向遺跡」とは全く異なる「都市設計」思想で営まれた「邑」「国」であることがわかるだろう。

環濠内はさらに南内郭(王の居住地域)と北内郭(神殿地域)とがわかれている。
人々の居住地域であるムラと北の埋葬地域を含む大掛かりな環濠集落となっている。
環濠の外には交易のための倉と市が設けられている。
水田は環濠の外に広がっている。
吉野ヶ里歴史公園HPより引用



広大な環濠集落
外にも倉庫や市、小集落がある

環濠内の南内郭は首長一家のの居住地域であるが、家屋は比較的簡素な横穴式住居

南内郭の物見台から北内郭の神殿が見える

北内郭は深い濠に囲まれ、高い柵に守られた神殿地域
巨大な神殿建物の隣には物見台が設けられている。





2018年1月1日月曜日

2018年平成30年正月を迎えて

 
2018年の初日の出
東京は穏やかな新春を迎えた



2018年平成30年年頭所感。

 曇天、初雪の大晦日に比べ、2018年元旦は、一転、快晴の穏やかな1日となった。午前零時の大井埠頭の一斉汽笛とお台場の花火とともに明けた2018年。見事な初日の出を拝むことができた。

 今年は平成30年。平成を振り返る番組が正月から特集されている。今年が平成最後の一年になるからだ。これは我が国の歴史上画期的な出来事だ。なぜなら来年2019年5月に元号が変わることが事前にわかっているからだ。昨年、天皇陛下の退位のご意向が明らかになり、平成31年4月30日に天皇陛下は退位されることとなった。いわゆる生前退位である。ご高齢、象徴天皇としてのご公務継続に支障ということで、ご自身が退位の意思を表明された。皇太子が5月1日に即位され新天皇になられる。すなわち元号が改まる。平成は31年で終わることが事前に決まったというわけだ。そうか、もう振り返る「時代」に成ったのか平成は。平成生まれの若者は、小渕官房長官の「平成」という新元号を掲げる写真を「歴史の教科書」で見たことあると曰う。昭和なぞ、もうすでに「歴史」になってしまったわけだ。「ゆく年や昭和は遠くなりにけり」

 こうした改元は日本だけの事情であるが、元号がその時代を象徴するキーワードになる。「昭和」が「明治」の国家の近代化の行き着く所の無謀な戦争と無残な敗戦、奇跡の戦後復興と高度経済成長、という激動の時代であったのにたいし、「平成」はバブル崩壊、失われた20年の時代。日本が高度成長を終えて、低成長、少子高齢化、人口減少、の時代を歩み始めた時代である。世界を見渡すと、日本のアジアにおける19世紀後半の近代化のトップランナーとしての役割と経済成長牽引役は、21世紀に入り中国へと移り、さらにその中国が世界のリーダーアメリカにとって変わろうとする時代に入った。戦後レジームは大きく変わろうとしている。戦後をリードしたグローバリズムとリベラリズム、知性主義が後退し、自国ファースト、反移民、ポヒュリズム、反知性主義へ揺り戻しの時代へと大きくステージが変わりつつある。2016年のイギリスのEU脱退国民投票、いわゆるBrexitを皮切りに、欧州における反グローバリズムと反移民、極右勢力の伸張、11月にはアメリカはその憲政史上およそもっともふさわしくない人物を大統領に選択した。すなわちアメリカは自由と民主主義と資本主義の旗を掲げ、宿敵共産主義を倒し、正義と繁栄の戦後レジームを築いたリーダとしての地位と、その誇りをかなぐり捨てることを選択した。そして2017年は核兵器を弄ぶトランプと金正恩に振り回された年となった。

 2018年はどのような年になるのだろうか。日本では30年に及ぶ長い停頓の時代、平成が最後の一年を終えようとしている。日本も世界も負のスパイラルを変えることができるのか。日本は新たな成長と繁栄の時代を築けるのか。いままでのような平和を享受できるのか。残念ながらあまりポジティヴな展望が開けない気がする。為政者や国家の動きに任せていると、個人はどこへ連れて行かれるかわからないという不安がある。ポピュリズムや反知性主義は、すなわち国民の現行の国家や政治権力への不信の表れだ。しかし、その反作用としてリベラリズムやグローバリズムを否定するグループを支持するという誤った選択肢を選ぼうとしている。さらに大衆受けする政策のスピーディーな意思決定と実行、これまで営々と気づきあげてきたものを一気に否定する「分かりやすさ」が国民の熱狂を呼ぶ。しかし、ふとドイツの戦後復興(第一次大戦)を規定した理想主義的なワイマール体制への批判がナチスを生んだ状況が脳裏をよぎる。ナチスは、BOPだけでなく、政治無関心層であった中産階級や、裕福な上流階級にも一気に支持されていった。ナチスのスローガンの一つは「信頼の政治」「政治の効率性」だ。しかし政治や為政者を簡単に信頼することができるなら民主主義も自由主義も法の支配生まれてこなかっただろう。これらのシステムは、専制君主であれ、民主的に選ばれた指導者であれ、独裁者であれ「為政者への不信」が原点にあるものだ。政治を経営や経済のような数量的な合理性や効率性でのみ測ることはできない。民主主義とは結構めんどくさいものだ。「分かりやすい」説明には時として落とし穴があることを知っておくべきだ。多様な価値観の調整には時間がかかり、万人に分かりやすい仕事ではない。しかしそれを厭うことがあっては危険だ。二度の世界大戦を経験した世界はその歴史にまだ学んでいない気がする。こうなると人は国家という枠組みとは別に、世界市民として、グローバルヴィレッジの住民として、一私人として、平和で幸福な人生を歩める社会を目指して連帯して行くべきかもしれないとすら思う。もし国民が衆愚政治にも独裁政治にもならぬように為政者を監視する能力と忍耐を放棄するのなら、これからも国家という枠組みが私人の幸せを保証する枠組みであり続けるのか疑問を抱かざるを得なくなってしまう。


Super Moon
on 2nd January