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2019年9月24日火曜日

勝海舟記念館オープン! 〜ネオゴシックの近代建築遺産 旧「清明文庫」建物〜〜





 以前、2019年5月14日のブログでご紹介した洗足池の「勝海舟記念館」が9月9日に開館した。これはこの地にあった旧「清明文庫」をリニューアルしてオープンしたものだ。意外にも勝海舟を顕彰する記念館はこれまでどこにも存在しておらず、これが初めてだそうだ。なぜ洗足池なのか?ブログにも紹介したように、海舟晩年の終の住処「洗足軒」がこのすぐ隣にあったこと(現在の大田区立第六中学校)、夫妻の墓所もこの地にあることから、その隣接地に設けられた。

 勝海舟については、咸臨丸での渡米、江戸無血開城、明治新政府のご意見番等々、その日本の歴史に残した数々の事績の説明をここで繰り返すことは不要だろう。しかし、私にとって今回の展示を見ていくつか目からウロコの新発見もあった。

 その第一は、展示にあった彼の人物相関図を見て感じたことは、長州人脈が少ないことだ。彼は維新前後に幅広い人脈を有しており、徳川宗家、幕府は言うまでもなく、朝廷、薩摩、土佐、越前、水戸、さらにはアーネスト・サトウなど海外を含む多彩な人脈を形成していたことは驚くことではない。しかし意外にも長州人の名前があまり出てこない。佐久間象山の弟子として吉田松陰との同門の繋がりはあるが面識はないし、明治新政府になってからも、木戸孝允、井上聞多(馨)以外は繋がりが薄い。日清戦争に関しては伊藤博文に対しては批判的であったし、元老山縣有朋に至っては名前も出てこない。幕末の長州の尊王攘夷テロまがいの活動家に批判的な感情を引きずっている所為なのか。あるいは維新後の長州閥による陸軍の動きに批判的であったせいか。まあそんな感情で人を判断するような人物ではなかっただろうとは思う。また幕府内でも小栗上野介(忠順)(新政府軍への徹底抗戦を主導したと言われる)とは合わなかった。要するに問題解決に当たって、すぐに武力を用いる主戦論者や、和平戦略もない徹底抗戦論者、維新後の海外への拡張主義者など、戦争へ導く人物には批判的であったようだ。一方で、越前藩主松平春嶽や横井小楠(肥後藩出身で春嶽に招聘された)や土佐の坂本龍馬との交流はよく知られる。函館まで落ち延びて徹底抗戦した幕臣の榎本武揚を、維新政府に出仕するよう説得した話題も初めて知った。幕臣として長崎海軍伝習所を率い軍艦奉行まで務めたにも関わらず、武張った軍事優先ではなく、戦略的かつ開明的な進取の気性に溢れた「軍人」であった様子がよくわかった。だから幕府内の守旧派から海軍伝習所を閉鎖され、軍艦奉行を解雇されたり、一時は冷や飯を食わされたのかもしれない。

 そして第二は、西郷との江戸無血開城談判についての視点。これも、基本は戦争回避である。それは江戸を戦火から守ることであったように言われているが、彼はむしろ、談判決裂時には江戸を自ら焼き尽くす手を考えていたと言われている(江戸庶民を周辺へ避難させる手立ても考えていたとは言われるが)。しかし、西郷を納得させたのは、江戸の戦火からの回避でも、慶喜の恭順、朝敵回避を理解したわけでも、武装解除の担保があったからでもない。朝廷だ、幕府だ、新政府だと日本人同士で争ってても、結局は薩摩を支援するイギリス。幕府を支援するフランス。その代理戦争をやることになる。すると結局はどちらが勝っても、廃墟の中から新生日本を主権国家としてスタートさせることはできないという危機感であった。どちらかというと主戦論(武力倒幕)派であった西郷を、「それじゃあ日本はオシメイだぜ」と論破したのが海舟だったといいう訳だ。それを理解して新政府側を説得できた西郷の偉大さも光る。だからこそ終生の友となったのだと。

 第三に、維新後の海舟は、新政府から政権への参加を強く求められながらも、距離を置きながらの政府批判者に徹した点だ。それは旧幕臣だから、徳川家への配慮云々といった狭量な視点ではない。後の政党政治における「正しい」野党の役割を果たそうとした感がある。晩年には枢密顧問官に就任しているが、その立ち位置は変わっていない。特に、西欧列強との関係について、単純に「脱亜入欧」などどと舞い上がるのではなく、清国や朝鮮との連携と同盟を進めて、いわば「地域安全保障」を目指したと考えられる。日本だけでは東アジアの安定を守れないと考えた。こうして視点から、大久保利通の台湾出兵や、朝鮮への出兵に反対し、日清戦争後の領土割譲を求める伊藤の講和方針に批判的であったという。結果、三国干渉で日本は欧米列強に屈服させられて遼東半島を手放さざるを得ないことになる。海舟の指摘は間違っていなかった。この後日本は日露戦争、満州事変、日中戦争へとアジアにおける戦争の道をまっしぐらに突き進むことになる。海舟は明治31年(1899年)、こうした「戦争の20世紀」の到来を目にすることなく世を去った。一方、維新後の海舟の眼差しは、徳川家の名誉回復、旧幕臣の生活の安定、そして西郷隆盛の遺族の支援など、大きな時代の流れの中で心ならずも敗者となっていった人々へ注がれていた。こうした大義に殉じた人々へのレスペクト、そして無私の心が勝海舟という人物の本質であったと思う。

 これが私が今回の展示から得た新たな海舟像である。これらの評価が正しいものかさらに批判的に検証してみる必要はある。しかし、彼が一貫して国内外の戦争回避に努めてきたこと。明治新政府の対外戦争には極めて批判的であったことは事実であろう。「日清戦争」開戦に際し、「兄弟同士のケンカはやめておけ」と語っているなど私には新しい発見である。海舟の口伝である「氷川清話」が残されているが、あまり維新後の海舟の言説が近現代史において取り上げられることはなかったように思う。歴史を多面的角度から評価し直して真相に迫る必要がありそうだ。維新後の日本が何故「富国強兵」から「強兵」「戦争」の一本道に邁進してゆくことになったのか。そして、なぜ維新からわずか78年で、惨めな敗戦に直面し、300万を超える同胞を失い、アジアの同胞に甚大な被害を及ぼし、あんなに恐れていた外国軍隊に日本が占領されて独立を失なう事態になったのか。戦後75年経ってもいまだに近隣諸国から不信の眼差しを投げかけられ続ける事態になったのか。海舟は草葉の陰からこうした「維新後の日本」をどのように見ているのか。彼の視点からの総括が必要だと感じた訪問であった。


 ところで話をこのリニューアルされた建築遺産の方に移そう。

 この素敵な建物は、昭和3年(1928年)、ちょうど江戸城開場60周年の年に竣工した。昭和8年(1933年)4月から、勝海舟の業績を顕彰し、「洗足軒」「墓所」の永久保存と、海舟の事績を伝える資料の保存、関連図書収集、閲覧、啓蒙啓発の講演会を行う目的で財団法人「清明会」によって運営開始された。その後、財団法人が解散し、昭和10年(1935年)活動が終わってしまった。しかし、その後も昭和12年には海舟を師と仰ぐ徳富蘇峰による海舟と西郷の事績を顕彰する講演会が開催されている。建物は東京府に寄付され、地域の公会堂として利用されたという。戦後の昭和29年(1954年)には学習研究社(学研)が取得する。「清明文庫」は「鳳凰閣」と改称され、文化施設、研修施設として活用された。平成12年(2000年)に国登録有形文化財となり、平成24年(2012年)に太田区の所有となった。ちなみに収蔵資料、蔵書の多くは寄付者に返還され、一部が文教大学図書館に収蔵されているそうだ(勝海舟記念館図録より)。

 建物は関東大震災後から昭和初期に一般建築に多く取り入れられ始めた鉄筋コンクリート造りの建物で、ネオゴシック様式の外観に、アールヌーボー様式の内装となっている。一階に閲覧室、二階に講堂と貴賓室、講師控え室。二階建ての書庫がつながっている。元々は木造で設計されてたが、途中から鉄筋コンクリート造りに変更されたそうだ。外観は何と言っても正面の4本の尖塔状の柱。左右対称、上下三分割のシンメトリックなファサードが魅力。正面玄関と窓にはアールヌーボー様式の幾何学的な模様が取り入れられている。比較的こじんまりした2階建ての会館ビルだが、いろいろなところに意匠を凝らした珠玉のような建物だ。こうした建築遺産が惜しげも無く取り壊され消えたゆく昨今、戦争や所有者の変遷を経たものの見事に再生されて残ったことは嬉しい。ちなみに設計をした建築家の名前は残っていないようだ。洗足池の畔の洗足軒、海舟夫妻の墓所、西郷隆盛顕彰碑と、これらをつなぐ海舟ゆかりの「清明文庫」が今こうして「勝海舟記念館」として保存再生され、開館につながったことは大いに意義あることだと思う。


ネオゴシック様式の正面ファサード


ネオゴシック様式の4本の尖塔型の柱とアールヌーボ様式の窓のコラボ



本館の隣に記念館事務棟が新築されている


内装はアールデコ様式の意匠が随所に取り入れられている。



玄関


玄関ホールの床タイル

テラコッタタイルの内壁


階段室

アールヌーボー様式の幾何学模様


勝海舟胸像




二階講堂


講堂入口


貴賓室
寄木造りの床となっている
中央にはオリジナルの床が保存されている

講師控室入口

講堂の窓は高くとってあり採光に配慮されている


貴賓室天井


玄関ドア
アールヌーボー様式の意匠が取り入れられている

本館左奥には書庫

勝海舟夫妻の墓



アクセス:東急池上線 洗足池駅下車。徒歩3分

(撮影機材:Leica CL + Super Vario Elmar TL 11-23/3.5-4.5)




2019年9月18日水曜日

天王洲アイルというパラダイムシフト 〜第四台場/御殿山台場の今〜



 1853年のペリー来航に慌てた鎖国日本。急遽、徳川幕府が江戸防衛に備えて品川沖に砲台/台場を築いた話は有名だ。当初は11箇所設置する計画であったが、予算の都合がつかなかったのか実際には7箇所となった。そのうち現在でも残っているのは、お台場の海岸線とつながっている第三台場と、レインボーブリッジの下の第六台場の2箇所だ。しかし、もう一つの人気のウォーターフロント地区、天王洲アイルが第四台場跡であることを知る人は意外に少ない。こちらは完成しないうちに不要となり、現在では天王洲アイルのシーフォート地区(第一ホテル辺り)に当時の石垣がわずかに残されているのみである。さらには御殿山の海岸べりに陸続きの「御殿山下台場」設置された。こちらは現在周辺が埋め立てられて、かつての敷地の半分は小学校となっている(品川区立台場小学校)。その小学校を取り巻く周辺道路に五角形の台場の痕跡を残している(当時台場に設置されていたという洋式灯台のレプリカが小学校前に置かれている)。ここは江戸時代には品川宿の漁師町、須崎であったところで、目黒川河口の半島状の洲になったところの沖を埋め立てて造成された(下記の地図を参照。広重の浮世絵にはまだ表されていない)。このさらに沖に第四台場(現在の天王洲アイル地区)が完成するはずであった。しかし、ペリーが1854年、開国の返事をもらうために再び江戸湾に来航した時には、すでに幕府は開国の方針を決めていて神奈川条約(日米和親条約)を結んだ。結局、第四台場を完成させる必要もなくなり、かつ砲台が火を吹き、「異国船打払」により首都防衛機能を果たすことはなかった。

 第四台場跡は、明治に入ると民間に払い下げられ、徐々に周囲や沖合いが埋め立てられていった。戦後は東京湾の重要な港湾倉庫街として戦後復興と経済成長を支え発展してきた(現在の京浜運河、天王洲運河に囲まれたエリア)。ここが「天王洲アイル」として再開発され、東京モノレールの駅が出来、やがてりんかい線の駅も出来た。殺風景な倉庫街が、新たなオフィス街や、さらにはオシャレなアートディストリクトに変身して行くことになる。こうした動きは、世界の大都市の例から見ても不思議ではない。かつて住んだことのあるロンドンや、ニューヨークのウォータフロント地区の再開発のケースが、天王洲アイル再開発のストーリーとオーバーラップした。


 (ケース1)ロンドン バトラーズ・ワーフの場合

 ロンドンのテムズ川南岸のタワーブリッジ麓にあるバトラーズ・ワーフ(Butler's Wharf)も、かつては殺風景でちょっと危険な波止場地区、廃墟となった巨大な倉庫であった。それが今やロンドンでもオシャレな地区になっている。日本でもコンランショップで有名なテレンス・コンラン卿(Sir Terence Conran)のレストラン、La Pont de la TourやChop Houseがある。またデザインミュージアムも彼の手になる。私がロンドン勤務していた90年代には、観光の定番のロンドン塔、タワーブリッジに加えて、橋を渡ってテムズ南岸にちょっと足をのばせばたどり着く新しい観光名所として脚光を浴び始めた時期だった。コンラン卿プロデュースのこうしたモダン.ブリティッシュのレストランがオープンしたばかりであった。日本からの来客をもてなすには話題性もあって最高であった。今では巨大な赤煉瓦の倉庫の廃墟がショッピングモールになっている(横浜の赤レンガ倉庫のような開放感はない)。古いドックがあったセント・キャサリンズドック(St. Kathryn's Dock)趾も新しいビジネス&エンタメ地区に変身し、我が英国法人オフィスもシティーからここへ移った。かつてテムズ南岸のサザーク(Southwark)やランベス(Lambeth)、キルバーン(Kirburn)地区は北岸のシティー(City)やウェストエンド(West End)のような華やかなロンドン中心街とは異なり、ディケンズやマルクス、オーウェン、ウエッブ夫妻が描く世界、すなわち階級闘争に喘ぐ労働者が集まる地区であった。しかし、これをさらに南へ下ると、夏目漱石が下宿していた閑静な住宅街や、ガーデンオブイングランドと呼ばれるケントの高級住宅街が広がる。川と道路隔てて天国と地獄が共存する町ロンドン。これはニューヨークも同じだが。産業革命以後の急速な経済発展と人口の都市への集中、植民地からの移民の急増、大英帝国の光と陰をまざまざと見せつけられるこの貧富の差である。これは現代にも通じる課題で解決されているようで何も変わっていない。最近は再開発と都市化の波で町の様相が大きく変わったものの、新たな移民流入で再び格差が広がっている。バトラーズ・ワーフはその境目に咲いた華なのかもしれない。


Butler's Wharf

Butler's Wharf

コンラン卿プロデュースのレストラン「Chop House」
テムズ川に臨むテラス席が人気だ

Design Museum



 (ケース2)ニューヨーク ハドソンエリアの場合

 ニューヨークのハドソン河畔のチェルシー(Chelsea)、ミートパッキング・ディストリクト(Meat Packing District:その名の通り食肉加工場や倉庫があった)や旧高架貨物線跡ハイライン(High Line)は、かつての工場や倉庫が連なる汗臭い町から、今や、アートギャラリーやスタジオ、しゃれたレストランやショッピングモールが次々オープンするトレンディーな地区に変身している。もちろん観光客が大勢訪れる人気エリアである。ホイットニー・ミュージアムの新館もオープンした。つい最近ミッドタウン寄りのハイライン終点(ペンステーションの西側)には巨大なショッピングコンプレックス、ハドソン・ヤーズ (Hudson Yard's)がオープンした。あのランドマークとなる巨大なオブジェ、ベッセル(Vessel)が辺りを睥睨している。こうしてハドソン河畔はミッドタウンからダウンタウンにかけて、今やニューヨーカーだけでなく観光客にとっても憧れのおしゃれエリアとなっている。ハドソン河畔のマンハッタン側はかつては大西洋航路の大型客船や貨物船が頻繁に出入りする港湾地区であった。外航船が何隻も接岸できるピアー(波止場)が河畔に沿って並び、欧州からの移民が自由の新天地アメリカへの一歩を印した玄関口であった。船が自由の女神を見ながらニューヨーク港に入り、やがて大桟橋に着岸する。新しい人生の始まりを祝福する舞台装置が用意された場所であった。そして沖合のエリス島に移民局があった(現在は記念館になっている)。川沿いに大型の倉庫群が軒を連ね、大型船の煙突からは黒煙がいく筋も上がる。貨物線は南北に走り物資を運ぶ。アメリカの歴史と繁栄を支えてきた地区である。しかし、戦後は、航空機の発達とともに港は寂れ、この地域は衰退しスラム化していく。私が最初にニューヨークにいた80年代後半から90年代はじめは、犯罪が多発する危険な場所として、立ち入りが憚られる地域であった。もちろん行く用事もないところであったが。今や再び時代は巡り、新しい価値を創造する地区として再開発され、新しいニューヨークのアートやポップカルチャーの発信地となっている。ちなみに2004年にはミートパッキングディストリクトのレンガ作りの市場の建物の二階には野球のメジャーリーグのスタジオ(MLB Studio)があり、何度か訪ねたことがある。一見、古色蒼然たる古建築だが、一歩中へ入ると最新設備が配置されたオシャレなオフィスとスタジオが広がっていてびっくりしたものだ。こうした地域の再開発のキッカケはロンドンのバトラーズ・ウォーフとは少し異なる。市当局は再開発に当たって、古い建物を取り壊して、高層のコンドミニアムやオフィスビルを誘致しようと考えていた様だが、その前に古い倉庫や、工場跡に若いアーティストやミュージシャン達、さらにはベンチャー創業家たちが住み着き、ロフトとして使い始めた。ブルックリンのBUMBOも同じ様な経緯をたどっているところがニューヨークだ。特に、ハイラインはその高架鉄道橋全体の撤去が決まっていたが、地元の住民の地道な保存運動が、当時のブルンバーグニューヨーク市長を動かし、この廃線の保存と再開発を促した。2013年に一般公開されて、ダウンタウンからハドソン川を展望しながらチェルシー、ミッドタウンのハドソンヤーズを結ぶ回遊性ある新しいニューヨークの名所として生まれ変わった。もちろん地域一帯の治安も著しく改善された。


Chelsea Market

内部


1950年代の港湾風景

High Line
旧高架鉄道跡の緑化も大きな景観変化を生み出した


High Lineの夜景

High Lineから見るMeat Packing District
やや古い写真なので廃墟感も漂う


Hudson YardsのVessel

内部は階段を歩いて登る展望台になっている



 (ケース3)東京 天王洲アイルの場合

 ロンドンやニューヨークから遅れて経済成長し、繁栄を経験し、やがては産業構造の急速な変容で寂れゆく道を歩む東京ウォーターフロント。まだまだ港湾機能の重要性は失われていないとはいえ、先達の経験と軌跡に学ぶことは大きい。スラム化や治安の悪化に伴って放棄され、廃墟化する道を歩まずにうまく転換を進めることは後発の都市として望ましいことだ。

 外国人観光客にも人気のお台場地区は戦後高度経済成長期の埋立地であるが、先述の通り天王洲アイルは幕末の第四台場跡。その後大正時代には造船所が設けられたり、さらには倉庫街に変身した街である。沖合はさらに大規模に埋め立てられて、重要な港湾施設、物流センターである品川埠頭地区になっている。1985年に地域事業者、地権者22社が集まり「天王洲マスタープラン」を作り、モノレールの天王洲アイル駅開設など町の再開発が進められた。今や運河沿いにはオフィスビルや商業ビル、マンションが林立する新都心的な景観を生み出している。現在でも倉庫やセメント工場があるが、うまくアーティスティックな街づくりに参加している。というより、この地元の企業でマスタープランメンバーの一社であるある寺田倉庫は率先して、自社倉庫をミュージアムやギャラリー、スタジオ、ブルワリーやレストラン、さらにはデータセンターに転換して、新しい街作りをリードしている。この様に地元企業が地域再開発に取り組んでいる点がロンドンやニューヨークの再開発ストーリーと異なる点だと感じる。特に、寺田倉庫:TERRADAは会社の理念として「モノを預かる」から「価値を預かる」へ。「文化創造企業」へ。地場の既存企業が自ら事業モデルのパラダイムシフトを主導して街を変えていく。そのため多様な企業、団体、個人とパートナリングを進めてゆくとしている。これからは「共創」の時代であり、これは一つのオープンイノベーションだ。廃墟になった巨大倉庫が、デザインプロデューサー、コンラン卿によって、全く違う性格のコンプレックスにコンバートさせられた歴史を持つバトラーズ・ワーフのケースと異なる点かもしれない。また地元住民が主体となって廃線となったハイラインを保存再生させ、若い起業家やアーティスト達がロフトかしたりしたニューヨーク・ハドソン地区のケースとも異なる。。日本の企業は、衰退、廃業する前に事業モデル転換ができる力と知恵を備えている様に見える。

 (寺田倉庫:TERRADAのHPからメッセージを引用)

 社会はいまだ、ダイバーシティ実現の手前で足踏みしている。私たちは文化創造企業として、この刻を進めたい。文化を豊かに花開かせること。それは、他の価値観を認めること。異なる考えに排他されることなく、それぞれの道を自由に歩んでいけること。これまでTERRADAが歩んできた道。保管する「モノの価値」の創造から、モノが生みだす「余白の価値」の創造へ。次の行き先は、人とつながり「共有知の価値」を創ること。築き上げてきたストレージ、IT、天王洲という場。これを意志あるパートナーと共有して未来をつくりたい。ともに学び、創り、成長する。文創を加速していく。
さあ、常識に縛られずに進もう。自分が自分でありつづけられる世の中を創ろう。


 素晴らしいメッセージだ。まさに今、企業のビジネスモデルイノベーション、持続可能な成長がどの企業にとっても重要な経営課題になっているのだが、「物」の流通である港湾倉庫業から、「情報」と「価値」の流通事業へと転換する。キーワードは多様性と共創。こうした事業パラダイムシフトを経営理念とし、それをその企業が持っている既存のリソースと融合させて次の成長戦略とする。見事だ。そこへ若い感性が共鳴して新しいカルチャーを共に創造する。それが今の天王洲アイルの魅力と活気を生んでいる。「鎖国/攘夷の砲台」、「貿易立国を支える港湾倉庫」、「新しい付加価値共創の拠点」。こういった天王洲という土地(いや海か)の変遷の歴史に学び、持続的に成長してゆく。これぞ賢者の道だ。天王洲は面白い!


レストランシップの波止場


オフィスビルや商業ビルが立ち並ぶ

クラシック専門チャネル「Ottava」のスタジオはここ

ボードウォーク



セメント工場の壁面

京浜運河

ライカ使い









東京都の「運河ルネッサンス構想」に基づき寺田倉庫が展開する「水上ラウンジ」Waterline



倉庫門扉を利用したファサード



人気のレストラン

倉庫壁面もおしゃれ

ふれあい橋
対岸は東京海洋大学



場所柄かランチタイムのカフェはビジネスパーソンが多い




首都高速とモノレール


広重「品川州崎」
まだ「御殿山下台場/も第四台場も描かれていない

幕末の品川宿地図
御殿山下台場が設けられている
この沖に第四台場が造営される


明治の品川町地図

現在の品川区北品川の地図
御殿山下台場は周りを埋め立てられてしまっている

(撮影機材:Leica Q2 Summilux 28/1.7。ロンドン、ニューヨークは一部ウェッブサイトから、また私個人の古写真アーカイブから引用)