ページビューの合計

2021年1月27日水曜日

オスカー・ワイルド「幸福の王子」へのオマージュ


 ショートストーリー:「ハトとおじさん」


(ハト)「おじさん、冬空に一人ボッチでヒマそうだね〜」

(おじさん)「そういうおめえだって高いところに一人ボッチでヒマそうじゃねーか」

(ハト)「ハトが忙しいわけないだろう!」

(おじさん)「いつも大勢集まって忙しそうに首振ってマメ食ってっるんじゃねえのかい?」

(ハト)「最近そういう生活に疲れたのさ」「おじさんもそうなのかい?」

(おじさん)「バカ言っちゃいけねえよ!コロナで仕事無くなったし、行くとこもないし...」

(ハト)「人間は大変だねえ〜。ハトはコロナにかからないから関係ない」

(おじさん)「ハトはいいねえ、羨ましい」

(ハト)「じゃあ、おじさんもハトになるかい?」

(おじさん)「やめとくわ。だって首あんなふうに振れないし...」

(ハト)「人間でも上手なのいるよ。鳩首会談って、アレ人間だろ?」

(おじさん)「いっぱい集まって頷いてるアレ?」「やっぱりハトやめとくわ」



しながわ区民公園にて



公園を散策していてこの場面に出会った時、ふとオスカー・ワイルドの「幸福の王子」という童話が脳裏をよぎった。幼いときに読んでもらったこの話がなぜか心に深く刻まれたとみえて、こんな年になってふと思い出した。このベンチのおじさんは多分気高く慈愛の心を持った「幸福の王子」ではない。フェンスに止まっているハトも「幸福の王子」の心のメッセンジャーの「ツバメ」ではない。むしろ「幸福の王子」の眼差しの先にある世の中の理不尽に苦悩する人々を象徴する一人であるし、南に帰るアテもツモリもない都会のはぐれハトである。しかしその視点の対比がより現実が抱える問題をビビッドに浮き立たせているように思えた。こんな時代だからこそ「自己犠牲」の物語が美しく心に響く。しかしこの「幸福の王子」と「ツバメ」の話は、人の痛みを知る慈愛の心の持ち主にだけ問題の解決を期待する空気に警鐘を鳴らすものだ。自分さえ良ければという人々、他人に無関心な人々、責任を取らない為政者などの空疎な心と対比させることで、困難に立ち向かう時に大切なものを照らし出して見せた。オスカー・ワイルドらしい皮肉が効いている。そして冬空の下、公園のベンチにポツネンと佇むこのおじさんの寂しそうな後ろ姿と、我関せずで虚空を見つめるハトの姿が、この物語をもう一つの側面から描いているような気がする。


オスカー・ワイルド「幸福の王子」
Wikipediaより






2021年1月16日土曜日

クラシックカメラ遍歴(9)Robotという名のカメラの物語 〜AI+Roboticsはここに始まった?〜

 

Robot Royal 36, Sonnar 50mm/2, Xenogon 35mm/2.8, Tele-Xenar 75mm/3.8



「ロボットは写真の世界で何ができるだろうか?」
50年代当時はユニークな問いであっただろう。
デジタル時代の今、この問いの答えは...


RobotはドイツのOtto Berningが1931年にドイツで創業したカメラメーカー。ゼンマイ式のスプリングモーターを用いてフィルム巻き上げ、連写ができるユニークな機構を有するカメラとして人気がある。今でこそ連写機能は当たり前で秒速何コマという速度を競っているが、当時はライカが底部に速写用巻き上げレバー(ライカピストル)を装着可能として、その速写性を謳っていたが、ゼンマイを用いた連写機能の内蔵は革新的であった。これに追随していくつかゼンマイ式連写カメラが世に出たが、これほどの人気と持続性をもって世に評価されたカメラは稀有だ。しかも、そのオール金属製の堅牢でずっしりした作り、一部のスキもガタもない緻密なメカがなんといっても魅力だ。もとは24×24のスクエアーフォーマットからスタートしたが、18×24のハーフサイズフォーマットや、戦後は24×36のライカ版(フルサイズ)フォーマットのカメラも出した。戦争中はドイツ空軍向けRobotを製造(Lufftwaffen Eigentum)し、そのコンパクトさと連写機能が評価されてメッサーシュミットなどの戦闘機に搭載された。同じドイツ製でもライカやコンタックスとは違った佇まいのカメラだ。

シャッターは最速が500/1秒のロータリー式の金属リーフシャッター、全速シンクロ。フィルムは専用マガジンに装填して撮影する。レンジファインダーは戦後のRoyal model III以降搭載された。全機種がレンズ交換式で、次のようなトップ光学機器メーカーからレンズの供給を受けた。どれも秀逸な高品位レンズである。

Carl Zeiss (Tessar, Sonnar, Biotar)

Meyer Goelitz (Trioplan, Primotar, Telemegor)

Schneider-Kreuznach (Xenar, Xenon, Xenogon, Tele-Xenar)

Rodenstock (Heligon, Radiator)

驚くのは、こうした戦前の欧米のカメラメーカーは、戦後は日本製のカメラに淘汰されて消滅するか、カールツアイス社のようにカメラ事業から撤退した会社が多いが、ライカ社とともに現在も存続し事業継続している。デュッセルドルフでRobot Visual Systems GmbHとしてアウトバーンなどの交通系監視カメラ、産業用モニターカメラメーカーとして、最新のセンサー技術、AI連携のロボットカメラとして活躍している。戦前のゼンマイモーター連写フィルムカメラ「ロボット」が、文字通り最新のAI + Roboticsのスタートポイントであったとは驚いた。

... というような説明は、いいろいろな専門書が出ているので、詳しく知りたい方はそちらを参照願いたい。ちなみに私のネタ本はこれ。


Cyclope社刊1996年

ところで、私にとってこのRobotは、クラカメにズブズブとのめり込むきっかけになったカメラである。有楽町にあった(今でもある)Dカメラで、店主が弄っているカメラを見て、目が釘付けになった。なんとかっこいいメカニカル精密カメラだ!聞くとロボットだという。一目惚れした!触らせてもらった。すごい!ずっしりと手応えがあり、しっかりと厚みがあるダイキャストボディー。メッキの質感がマットで貼り皮のざらざら感の官能的なこと。レンジファインダーのビューファインダー窓と測距窓の位置がレンズ中心線に対して正対称に位置している。アクセサリーシューもそうだ。ということは外付けファインダーを装着したときに、ちょうどレンズの真上に位置し、視差が生じない。ライカで気に入らないのはこの辺が無視されていることだ。デザイン上もなんか収まりが悪い。ロボットのこの合理的にバランスされたボディーデザインも一目で気に入った(下記の比較写真)。もちろんゼンマイモーターのジーッという巻き上げ音がたまらなかった。レンズはカールツアイスのゾナーがついている。これをみて一発で撃沈だ!ロボットはシステムカメラとして「ロボットエコシステム」を形成していて、色々な優秀なレンズやアクセサリー類が出ている。もっともライカに比べると希少種であったことも確かで、なかなかカメラ自体もレア物の部類である。したがって交換レンズやファインダーなどのアクセサリー類のお宝ハンティングにも苦労することとなる。おかしなもので、それが惹きつけられる理由の一つでもある。無いとなると欲しくなる。これがコレクターの基本的な病的症状である。ともあれこれまでロボットに関する予備知識があったわけでもないく、研究したのちに惚れ込んだわけでもない。まさに一目惚れである。大体カメラに限らず私の一目惚れに狂いはない。私が最初に引かれたものはまず間違いなく良いものであり後悔したことはない。目利きとカンには自信がある。このロボットもそうした自信に基づくコレクション(!?)の一つである。


Robot Royal model III
レンズ中心線に対しレンジファインダー窓、外付けフィンダー
さらにはシャッターダイアル類が左右対称に配置されている。

Leica IIIf
レンジファインダー窓、測距窓、外付けファインダーは
レンズ中心線と無関係に配置されている



コレクション1)Robot I (1934~ )

ゼンマイ式モーター内蔵の26mm スクリューマウントカメラの第一号だ。このマウントは1938年には改良版のRobot IIが出た。また戦後の1950年にRobot Starが市場投入された。しかし、このオリジナルのI型が一番デザイン的にも、メカ的にも気に入っている。ビューファインダーは横向けに回すことができる。これは被写体に気づかれないよう撮影するスパイカメラ的な撮影を可能ならしめる。また、撮影枚数をカウントするダイアルがユニークだ。一見すると乱数表のようなダイアルだが、一枚撮るごとに円盤が回転して矢印が正確に枚数を指し示す。誰が考え出したんだろう。しかしなんといっても軍艦部のゼンマイ巻き上げノブが目立つ。これは堅牢で巻き上げやすいサイズになっている。カチカチと正確に巻き上げてくれゼンマイが切れることはなさそうだ。信頼感がある。ドイツだ!戦後のソ連製の(ライカコピー機)レニングラードもゼンマイ巻き上げ式だったが、手に入れて2日目にはゼンマイがボディー内でブチ切れて、ものすごい音がして一巻の終わりであった。ソ連だ!もっとも価格もびっくりするくらい安かったので笑って済ませた。


Tessar 50mm/3.5, Tele-Xenar 75mm/3.8

軍艦部には左から
ビューファインダー、ゼンマイ巻き上げノブ、シャッターボタン、撮影枚数カウンター


シャッター速度設定ダイアルが下部に


大きなゼンマイ巻き上げノブと
ユニークな機構の撮影枚数カウンター(一見乱数表のような円盤!)
シャッタが不用意に落ちないよう安全装置がある

非常にコンパクトなカメラ!



コレクション2)Robot Royal model III (24×24)  (1953~ )

戦後のロボットはバヨネットマウントになった。そしてレンジファインダー式となり正確なピント合わせが可能になった。連写機能付きである。I, II型に比べてサイズが大きくなった(この前にビューファインダー(距離計なし)のRobot Royal model IIが出た)。しかし、このサイズ感もカメラをしっかりホールドして撮るには必要だ。なんでも小さくすれば良いというものではない。そしてなんといっても、今流行りのインスタグラム御用達のスクウェアーフォーマットだ。ローライやハッセルブラッドと同様のスクウェアーを35mmフィルムで採用するなんて先見の明があったのだろうか? だが、残念ながら、今このロボットでインスタ投稿する人はいないだろうから、時代が早すぎた?のか。先述のようにボディー正面から見ると、レンズ位置に対して、ビューファインダ窓、距離計窓、さらにアクセサリーシューが正しくシンメトリカルに配置されてる。さらにシャッターダイアルと連写モードダイアルも綺麗に左右対称の位置に鎮座している。この技術的合理性とデザイン的な整合性がなんといっても精神衛生上たまらなく良い。レンジファインダーカメラはこうでなくちゃいけない。



Tele-Xenar 75mm/3.8付き

Xenongon 35mm/2.8付き

シンクロ接点はX, Mが正面左下に用意されている


軍艦部
I、II型にあったゼンマイ巻き上げノブが無くなった
メッキの質感はマット調でざらりとしている

ゼンマイ巻き上げレバーは底部に移された
Make sense !


連写切り替えレバー


スクエアーフォーマット
フィルムは専用カートリッジに入れて装填する


外付けスポーツファインダー
スクエアーフォーマット用

この外付けファインダーには画角の選択機能、パララックス補正機能が装備されている


大口径のXenogon 35mmレンズ
このレンズの作りは工芸品と言って良い美しさがある。
レア物で、探してすぐ見つかるものではない!

バランスのとれた美しい工芸品の佇まい!


コレクション3)Robot Royal 36 (24×36) (1955~ )

フルサイズフィルム版。連写機能は省かれている。フルサイズフィルムでは無理があると判断したためか? 連写レバー跡にはRoyal 36のエンブレムがエレガントに鎮座ましましている。この後、連写機能を付加した改良版が出されている。また距離計窓が四角から円形に変更された。ちょっとシンメトリーなデザインが損なわれた感じで残念だが... しかし、メカニカルで技術的な合理性を重視したデザインのIII型に比べ、少しエレガントで洗練された佇まいとなった感じがする。ロボットも身なりを気にし始めたようだ。

この後、ロボット社は交通監視用、防犯用のカメラを次々市場に投入し、この業界のリーディングカンパニーに成長していった。もちろんフィルム送出動力は、ゼンマイから電気式のモーターへ代わり、そのフィルムがなくなりやがてデジタル化してカメラは激変し、加えて顔認証やAIを活用したバイオメトリクス認証へと進化したゆく。まさにロボットはAIとともに知能を持ったロボットとなって行った。しかし、知能を持って進化したロボットよりも、戦後50年代のゼンマイで動くメカニカルなロボットのほうが、より愛着を感じるのは、同世代人の単なる懐古趣味、ノスタルジアなのだろうか... 


端正な姿のRoyal 36

Sonnar 50mm/2付き
バルサム切れが発生しているが写りに問題はない。流石のゾナーだ!
連写切り替えレバーがなくなり、Royal 36のエンブレムが

レンズのピントリングには指掛かりがあり、操作しやすい配慮が

軍艦部はIII型モデル(24×24)とほぼ変わりない


シャッター速度設定ダイアル


TEWE製の外付けズームファインダー
28mmから200mmまでカバーする
ライカと違ってレンズの中心線上に位置するのが好ましい

昔のカメラはファインダーの覗き穴が小さい。

珍品レンズEnna Lithagon 24mm/4
当時としては超広角レンズ



(撮影機材:Leica SL2 + Sigma 45/2.8 DGDN。このシグマ標準レンズはコンパクトで近接撮影にも活躍してくれる万能レンズだ。ボケも悪くない。ただ開放2.8にすると独特のハロが出るので、それが嫌な場合は2/3段ほど絞れば解消する。歴史に名を残したレガシーカメラを最新の若造カメラがレスペクトを持って撮る。これもまた善きかな。)




2021年1月7日木曜日

コロナパンデミックと「民主主義」の運命 〜2021年年頭の憂鬱〜

連邦議会に乱入し一時占拠するトランプ支持者 CNNより


2021年元日の富士山
東京の元日は快晴であることが多いのだが...


2021年がスタートした。毎年この時期になると越し方行く末を思い、ブログにしたためるのが「昭和老人」の行事となっている。昨年2020年の年頭には「欲望の資本主義」を振り返り、その道徳を忘れた「利己的な資本主義」から「利他的な資本主義」への軌道修正を思い、中国の経済成長に伴い忍び寄る「民主主義」の危機について考えた(「欲望の資本主義」の行く末「民主主義」の運命〜2020年の年頭に妄想する〜 )。しかし、その後2月には、その中国武漢における新型コロナウィルス感染発生と感染爆発が世界を震撼させ、あれよあれよという間に世界中に想像もつかないコロナウィルスパンデミック(COVID=19) が起きてしまった。そんなことで2020年はコロナコロナで一年があっという間に過ぎ去り、気づくとはや年の瀬を迎えていた。、そして年が明けた今も収まるどころかますます感染者は増加の一途をたどり、重症者、死亡者の数も急増している。今日はついに東京で感染者が1500人を超えた(1月6日現在)。全国では6000人を超える勢いである。まさに、第一波、第二波への優柔不断の対策とこれからくる侮りと油断と、経済活動優先、GoToキャンペーンのツケがこの第三波感染爆発を招いたと言って良いだろう。これは日本に限ったことではなく、感染者が一番多いアメリカも全く感染は収まっていない。ヨーロッパやアジアでも感染は収まるどころか、再び拡大に転じている。イギリスでは新種の変異ウィルスが見つかって新たな感染拡大が始まった。ワクチンの接種がアメリカやイギリスで始まったが日本はまだだ。その一方、感染発祥の地、中国では抑え込みに成功して新たな感染者は出ていないと(中国共産党政府は)発表している。その結果、いち早く経済活動も再開されて、他の国が経済活動の停頓に苦しむ中、高い経済成長率を達成していると、その一人勝ちぶりをアピールしている。

2021年の今年はその資本主義の行く末と同時に、昨年も懸念した「民主主義」の行く末を案じなければならない事態となった。人類が長い闘争の歴史の中で獲得した民主主義という理念と価値観に対する懐疑的視点の増長と、密かに進行する全体主義/権威主義の伸長である。あるいは科学的合理性に対する反発や不信感、反知性主義が「陰謀論」なる妄想を広めつつある事態。コロナパンデミックがそのきっかけを与え。加速させている。

特にコロナパンデミックという人類を襲う危機への対応をめぐって起きる政治リーダーシップへの信頼感の話である。ここでも全体主義的、独裁的な統治体制の方が、自由で民主的な体制よりもよりスピーディーで有効な感染防止対策をとれる。その結果、いち早く経済成長を取り戻すことができるとその体制の優位性を中国共産党は強調する。すなわちアメリカを中心とする民主主義モデルの対極モデルを誇示して見せている。経済成長とコロナ克服という上潮ムードを強調し、国際世論の反発をものともせず、傲慢とも思える手法で、なんの躊躇もなく香港の市民の言論を弾圧し、身体を拘束し、国際的な合意である「一国二制度」を破棄し、さらに「次は台湾だ!」と恫喝する。まるで我が物顔で「なにか文句あるか!」と言わんばかりの対応である。危険なのは、今はそれを批判的に見ている自由主義、民主主義国家の人たちが、コロナで揺らぎ始め、自信を喪失して、ある時点で、コロッとそうした全体主義的な体制の支持者に転換してしまう恐れだ。これは中国型の全体主義だけではない。極右的、排他的な独裁主義にも言えることだ。いとも簡単に、しかもあっという間に対極にある世界に変わる。こうしたことは想定外の出来事ではないことを歴史が示している。

アメリカはついに昨年11月4日の大統領選挙で民主党のバイデンが勝利した。科学的合理性を信じないトランプに対し、コロナパンデミックがバイデンに味方したと言っていいだろう。ともあれアメリカ国民は悪夢のトランプ時代にピリオッドを打つという賢明な選択をした。感染対策も経済対策も外交も、トランプの4年間の負の遺産を払拭して、再びアメリカを民主主義、法治国家の騎手として再生するきっかけができた。我々同盟国の人間にとっては、とりあえずアメリカという国、アメリカ人に失望しなくてもよくなった。しかし一方、トランプは敗北を認めず、選挙に不正があったと主張して訴訟を各州で相次いで起こし、証拠も提示しないので相次いで敗訴している。それでもホワイトハウスに居座る姿勢を崩していない。連邦議会の上下両院合同会議がバイデンの大統領選の勝利を確定する今日1月6日、トランプの「議会に押しかけろ!」という煽動に応じた支持者が選挙結果の無効を主張して暴動徒と化し、選挙結果確定審議中の議会に乱入した。一時議会を占拠し議事を妨害。死者まで出ている。選挙結果を覆そうと乱入した暴徒に議会が占拠されるなど前代未聞の醜態だ。民主主義への暴力による挑戦でありアメリカの歴史に大きな汚点を残すこととなった。さすがに民主党だけでなく共和党からもこの暴挙への非難声明が相次ぎ、ブッシュ元大統領やトランプの盟友ペンス副大統領、マチス元国防長官もトランプを非難している。皮肉にもこの暴挙はトランプの危険性を顕在化させる効果を持ち、共和党のトランプ離れを加速させる結果となる。民主主義、法の支配の旗手、アメリカがまるで、中南米のベネズエラのマドゥーロや、旧ソ連のベラルーシのルカシェンコなどの独裁大統領のような反乱扇動、クーデターや政権居座りのアジテータの様相を呈している姿は醜悪でみていられない。悪夢を見ているようだ。今日、大統領選挙結果はバイデンの勝利が確定した。そして上下両院でも民主党が多数を占めることになった。これもコロナパンデミックが与えた天の声だ。しかしアメリカには自己中心的で民主主義や法の支配の価値なんぞ認めない、排他的、人種差別的な思想を手放していない層が確実に半分は存在していることがトランプの登場で明確になった。極右暴力集団が大手を振って表舞台に登場してきていることも明らかだ。トランプはそうした歴史の闇に葬られてきたはずのゾンビを復活させた。バイデンが勝ってもアメリカの分断は傷は深く、傷ついたアメリカへの信頼の回復、修復には時間がかかるだろう。アメリカの終わりの始まりを予感させる。そんなトランプが中国共産党によるの強権的支配体制をいかに声高に非難しようとも説得力は全くない。その自由と民主主義と法の支配の唱導者であるはずのアメリカが危機に瀕している。その危機はトランプが招いた。

問題はアメリカだけではない。まさに我が日本も同様だ。このコロナパンデミックのような危機は、世界中の国のリーダーの資質の優劣を見事に炙り出して見せた。我が「言霊の助くる国」日本のリーダーの「言葉なき会見」。他人(官僚)が書いたメモを棒読みする「首相」。国会答弁で118回もウソをついた「前首相」。政治家は言葉こそが命であるのも関わらず、国民の心に響かない政治リーダーの口から出てくる言葉という呼気。息をするようにつくウソ。「躊躇なく」「俯瞰的に」「丁寧に」と、本来の意味を知っているのかと聞きたくなるような「副詞」を連発して喋るが、その意味の通りに実行された試しがない。意思決定が極めてスローで、しかも結果を出していない。もちろん国民への説明責任を果たしているとはいえない。打ち手はいつもtoo late too littleだ。国民に向かって「お願い」しかしない我が国の政治リーダーについて、塩野七生はこう言っている。「国民にお願いしかしない政治家は政治家ではない」と。政治家は国民の負託に応えうる「俯瞰的」ビジョンと強い信念を持ち、民情を見てリーダーシップを発揮して「躊躇なく」実行し、国民に「丁寧に」説明して説明責任を果たす。そして肝心なのは「一切の結果に責任を負う」。その覚悟を持って初めて政治家と言える。そうした意思決定の責任を明確にしない空気、根拠のない楽観主義、「赤信号みんなで渡れば怖くない」が、あの戦争を引き起こし、あの戦争の終わりを引き伸ばした。最後は「天の声」が日本を滅亡の淵から救った。このパンデミックも同様、誰が責任をもって意思決定するのか。首相は担当大臣の顔を見つめ、担当大臣は自治体の首長の顔を見、自治体の首長は首相の顔を見る。誰も自分が責任者として「決める」気がない。「責任を取る」気がない。あの戦争のように結局誰が責任者なのか有耶無耶のままカタストロフィーに突入してゆく。極東裁判で戦犯になった人を責任者にして幕引きを図る。いや、あれは戦勝国がやった一方的な裁判なのだから不当であると主張する人がいる。では連合国による極東裁判とは別に、日本人自らが、この300万を超える我が同胞を死に追いやった未曾有の戦禍に対する責任を総括したのか?こうした歴史に我々は学んでいると言えるのか。コロナパンデミックは日本人に今でも民主主義の担い手としての自覚を問うている。

民主主義国家と言われる国のリーダーが、全体主義国家の独裁体制を批判する。人権無視を非難する。それは間違ってはいないしその非難は正しいが、あなたのその言説に説得力はあるのか、自省して襟を正す必要があるのではないか?全体主義国の独裁指導者の美辞麗句やパフォーマンスに説得力を感じてしまう人に、どう民主主義に共感できるメッセージを届けることができるのか。戦争や経済恐慌、パンデミックのような先行き不透明な未曾有の危機に瀕した時に思考停止して言葉を失う民主国家のリーダーに幻滅する国民は、能弁な指導者につい傾倒してしまうことを歴史は教えている。救世主の登場を渇望する。そこに現れる能弁者を救世主だと勘違いする。ヒトラーは雄弁で「信頼の政治」を標榜して圧倒的な人気を博した。彼を打ち破れる政治家はいなかった。軍事力を背景にした軍人の勇ましい言葉、敵対感情剥き出しの「鬼畜米英」「一億火の玉」という愛国プロパガンダに政党政治家は沈黙し、不承不承か、積極的にか、いずれにせよついていった。フェイクを交えながら、封印してきた「本音」をあからさまに語るトランプ人気に共和党は乗っ取られ、彼の支持者がクーデタよろしく議会に乱入し占拠する。民主主義はいつも危険に晒されている。国民は魅力的な言説を弄するポピュリスト指導者に容易に傾く危険性を孕んでいる。民主主義はそもそも全体主義よりは非効率的で、意思決定に時間がかかる。主権者たる国民は獲得した権利を行使し、責任を果たすために普段に多様な情報を取捨選択し咀嚼してが面倒な意思決定義務を負うシステムだ。それを厭うと独裁者が現れることを知っておくべきだ。独裁者は有能であればあるほど危険だが、一方で凡庸で無能であるほど破滅的だ。政治リーダーを民主主義国においては主権者たる国民が監視しなくてはならない。香港の市民が為政者を監視し、批判する行動は民主主義体制下にあって市民の当然の行為だ。これを弾圧する独裁政権とその傀儡政府に抗議するのは当然である。こうした香港や台湾の人たちの「民主主義」「自由」「法による支配」という普遍的価値観を守る戦いをみて、我々日本人は何を感じているのだろうか。コロナの中で「巣籠って」いるだけなのか。

コロナパンデミックは当面終息しないだろう。ワクチンの普及も効果も未知数だし今年もコロナと付き合っていくことになるだろう。これまで当たり前だと考えてきた生活/行動様式や制度、規範、慣習を棚卸ししてみることが強いられる事態となっている。これを機会に、神が人類に与えし試練を、これからの良き世の中に生まれ変わらせるためにも、この際甘んじて受け入れて、出直さなければならない。カミュの「ペスト」の最後に描かれるように不条理は消えない。一旦収束しても「ペスト」は無くならず人々に不幸と教訓を与えるために形を変えて再びどこかに現れる。そんな中でも「民主主義」「自由」「法の支配」という普遍的価値を守るためにも、単なる「昭和老人」の「新春ぼやき漫才」で終わらせてはなるまい。


CNNの映像より









アメリカの民主主義の歴史に汚点を残す見たくない光景だが、アメリカの終わりの始まりにならぬことを祈りたい。