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2023年2月27日月曜日

古事記の神話は「文字の起源」をどのように語っているか? 〜「漢文」「変体漢文」「万葉仮名」から「平仮名・片仮名」へ〜


古事記 寛永版板本(江戸時代)




「文字」を使う、ということはどういうことを意味するのか?

音声による「言語」は、誰かが作ったり、使わせたりしたものではなく、人々が感情や情報や意思を「伝える」ために「発声」し、それを聞くという「聴覚」によるコミュニケーションツールとして自然発生的に生まれたものである。「言語」を持つ、すなわち、言葉を話すという行為はホモサピエンスが他の生物と一線を画すものの一つである。しかし、一方で「文字」は、その「言語」の発展過程で誰かが作り、決めて、ある目的のために使わせた記号である。書き記し、読むという「視覚」によるコミュニケーションツールである。「話し言葉」と同じように「伝える」ために創造されたのだが、自然発生的に生まれたものではない。発生起源的に言えば、優越的地位にある者が、一族や地域や国家の統治、支配のために作り出した記号の体系、あるいは支配のための社会インフラである。「文字」により成文法を制定し、税制を定め、歴史を記録する。「文字」が「国家」を生み出した。すなわち「文字による国家」の出現である。例えば、ヒログリフはエジプト王朝が、またローマ字、ラテン語はローマ帝国が、漢字、漢文は中国王朝が、統治のインフラとして作り出した。「読む」「書く」は、しばらくの間、一部の人々にだけ与えられた能力/権能であった。「文字を使える者」と「使えない者」という格差があった。それはすなわち「支配する側」と「支配される側」という階層の存在を表わしていた。庶民が日常のコミュニケーションの道具として読み書きを「学び」「用いる」のは、ずっと後の時代のことである。そして、「文字」は人間の脳の外部記録装置として、「記録として残す」「後世に伝達する」ためにも使われてきた。これも「支配する側」にのみ可能な行為であった。然り而してその記録は主に為政者によって残されたものであった。現在にあって過去を知る手掛かりが得られるのも「文字」による記録があればこそである。しかし、ホモサピエンスはその10万年以上の長い進化の歴史の中で、93%の時間は文字がない時代を過ごしたと言われている。文字を用いるようになったのはわずが直近の5〜6000年のことだ。例えば、漢字は3000年ほど前の、中国中原に現れた甲骨文字に由来する象形文字が起源だと言われている。その漢字が中国王朝の歴史を延々と語り繋いで来た。では、日本では「文字」はいつ頃から用いられたのか?古事記が日本初の「文字」による歴史記録であると言われているが、それ以前に」文字」は存在せず、用いられなかったのか?


第一ステージ:漢文

列島における文字の最初の出現はどのようなものであったのか。それは、中国の史書である後漢書に記述のある奴国、あるいは三国志魏志の邪馬台国など、1世紀〜3世紀の中国王朝の朝貢冊封体制における通交のなかで、中国皇帝から倭の王に与えられた、冊封の証である金印(漢委奴國王)や、威信財として下賜された鏡(銅鏡百枚)などに刻まれた文字として現れた。すなわち、すでに1世紀には倭国で文字が使われていたのである。と言ってもそれは中国から与えられた文字、漢字であり、中国王朝への朝貢、冊封関係の中でのみ使われた。すなわち、印綬を用いて漢文で国書を書く必要に迫られて漢字を使用するという、倭国の対外関係(いわば外交で)で使われていたに過ぎない。奴国や伊都国、邪馬台国など倭国内部の統治や、王権内部における通信といったものに文字が使用された形跡はない。まして人々の日常生活におけるコミュニケーションに文字・漢字を使用することはなかった。少なくとも漢文・漢字を操れる人は、後漢王朝や魏王朝との通交、交渉に携わるほんの一部の人であった。おそらくは大陸からの渡来人であったのだろう。そういう意味で、倭国にはその当時の国内事情を窺い知ることができる文字史料はない。少なくとも現時点では見つかっていない。ただ、硯の破片ではないか、という遺物が、北部九州の3世紀前半の遺跡から見つかっており、今後、何らかの「文字」にまつわる考古学資料が出てくる可能性はある。


金印
福岡市博物館


第二ステージ:和様への変化の兆し

次に列島に文字が表れ、それが列島内部で意味を持つようになるのは、5世紀になってからである。奴国の金印から400年後、邪馬台国卑弥呼の「景初4年」の銅鏡から約200年後のことである。それは和歌山県の隅田八幡宮鏡銘、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣、熊本県の江田船山古墳鉄剣などに刻まれた文字(金石文)である。これはヤマト王権の大王が倭国の統治の権威を示すものとして、地方の豪族に下賜した権威の証、ないしは「威信財」と考えられている。すなわち「ワカタケル大王」(すなわち雄略天皇のことを指すと考えられている)が、地方豪族に王権の役職である「杖刀人」や「典曹人」などの職位を与えたものと考えられている。列島全域を支配下に置きつつあったヤマト王権が、地方豪族を支配・統治する道具として文字・漢字を使った初出である。これは中国王朝の朝貢冊封体制を、倭国/列島内部に転用したものである。文字による国内統治の始まりである。用いられたのは漢字であるが、中国の漢字とは少し異なる字体に変化している。また漢字という表意文字を倭語の表音文字として一音に一字をあてて用いたものである。この頃から、徐々に漢字が楷書などの中国伝来の形態から、少し描きやすく崩した、「倭人の感性にあった」形態に変化していると考えられている。後の仮名へと繋がる変化の萌芽と言えよう。

そして6世紀の仏教伝来(538年ないし552年)の時期、文字は仏典の写経に用いられた。またこの解釈、布教のためにヤマト王権の中枢や寺院で用いられた。用いられたのは漢語、漢文で、きちんとした楷書で記述されている。この延長線上に7世紀初めの聖徳太子の十七条憲法などの文字で表された「法制度」があると考えられている。しかし、原本、写本は現存しておらず、後の日本書紀に、全文引用した、とされるものが唯一今に伝わる十七条憲法である。従って、その存在を疑う偽書説や、日本書紀において初めて文字化されて記述された、とする説などがある。


稲荷山鉄剣
埼玉古墳博物館



第三ステージ:変体漢文

7〜8世紀初期の律令制国家の整備とともに、文字(すなわち漢字)が国内政治の重要な統治ツールとして用いられるようになる。稲荷山鉄剣や江田船山鉄剣の時代から200年ほど後の時代だ。言い換えれば、律令国家は文字によって成り立つ「文字の国家」である。成文法を持ち、文字によって国家機構を定め、税制を定め、記録し、国を運営する。この律令国家「ヤマト王権」の支配が全国に及ぶにつれ、文字が一気に広まって列島全域をカバーするようになる。このことは藤原京、難波京、平城京跡のみならず地方官衙跡から大量に発掘される木簡の文字からもわかる。そうした事情を背景として、ヤマト王権の統治権威の源泉と正当性を記述する「正史」である「日本書紀」、あるいは統治者たる天皇の「物語」である「古事記」が生まれた。この前にも、おそらく文字を用いた帝紀、旧辞などの記録があったとされる(古事記の序文に記述)が現存しておらず、645年の乙巳の変で蘇我宗家が滅んだときに焼失してしまったのではないかと言われている。また。古事記の序文によれば、古事記は稗田阿礼が誦習したものを太安万侶が文字化したものである、とある。しかし、単純に口承を文字化したということではないだろう。稗田阿礼が誦み習った元の記録(帝紀、旧辞など?)は確かにあったであろう。しかしそれは阿礼の誦習を伴わなければ日本語として用をなさないものであったし、それをさらに文字に書き記すということは、表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにする。そのような創造的な作業が伴うプロジェクトであったはずだ。すなわち古事記は「漢文のようで漢文ではない」ものである。「変体漢文」などと言われているが、それは漢文の変種ということではなく、漢文を離れて日本語として漢字を用いたものである。その「日本語化」の営みこそ、律令体制の中での「文字の国家」日本を表現することであり、古事記はその象徴的な作品であったと言える。したがって、古事記は古来からの伝承の延長にあるのではなく、律令国家の世界観を漢字を用いた「日本語」で創造し作品化したものである。この点が、中国、朝鮮半島の王朝を意識して漢文で書かれた「日本書紀」と異なる点だ。

ちなみに、現在目にすることが出来る古事記も、編纂から660年後の室町時代に書き写されたいわゆる「真福寺本」が、現存する最古の写本とされていいる。それ以前の写本は残っていない。書写は、書き写しの間違いや、脱落、解釈違い、故意の改変(構成の取捨選択)などが介在するので、正確にオリジナルの内容が後世に伝わっているかは疑問である。後世になればなるほど、書写した人の意思や解釈が介在して変容している可能性が高い。古事記を読んでいて、筋が通らない箇所や、矛盾するエピソード、話題が飛ぶ箇所などが多いのは、こうした後世の繰り返された書写のせいだと考えられる。


古事記 真福寺本 書写本(室町時代)


第四ステージ:万葉仮名

奈良時代になると日本初の詩歌集である万葉集が編まれる。750年ころの編纂と考えられている。編纂の意図を記述した序文も、編纂者の記録もない不思議な詩歌集であるが、約7000首が撰録されている。漢詩も多く掲載されているが、七五調を基本とする長歌、短歌を集めた和歌集である。詠み人は天皇から、中央の高級官人、地方官人、専門的な宮廷歌人、そして名も知れぬ防人や庶民まで含まれている、という稀有な和歌集である。しかし、これは、この時期には庶民まで「文字」を使って歌を詠んだということではない。歌の撰録は、大伴家持のような高級官人が行い、口承を文字にして書き記した。万葉集も漢字が用いられたので一見漢文のように見えるがそうではない。また、先述の古事記や木簡に見えるような「変体漢文」とも異なる。いわゆる「万葉仮名」と呼ばれた文字、いわば「日本語」で記述された。これは漢字の音だけを借用して一音一字で(表音文字として)日本語を記述するもので、後の平安時代に生み出された平仮名や片仮名のルーツともいうべきものである。正倉院文書にも万葉仮名が見え、公式な文書にも用いられた。また、難波宮跡から出土した、659年と思われる木簡には、後世の古今和歌集にまで歌い継がれる著名な「和歌」が認められており、万葉集編纂以前から漢字の音を用いて一音一字で綴った和歌が詠まれていたことを示す貴重な発見である。漢文、漢詩は宮廷の高官、官人の必須教養であったが、徐々に日本語の和歌が新たな文書行政手段、表現手段として認知された時代でもある。歌の世界が漢詩から和歌へ、漢字の日本化、篆書、楷書、行書から草書、さらに崩した唐様から和様への変遷が起こった時代である。


万葉集 元暦校本版


第五ステージ:平仮名、片仮名

その後、9世紀の平安時代に至り、漢字から変化した、日本独自の表音文字、「平仮名」(漢字を崩したもの)、「片仮名」(漢字の一部を取り出したもの)が生み出されて、漢字仮名混じり文という独特の「日本語」表記が生まれた。しかし、これまで見て来た通り、いきなり平安時代になって仮名が考案されたわけではなく、漢字伝来から800年、「変体漢文」、さらに「万葉仮名」などの日本語化のプロセスを経て徐々に形成されていったと考えられている。ひらがな/カタカナは、最初は女性が使うものとされ、紫式部の源氏物語や、清少納言の枕草子のような平仮名文学が生まれた。また紀貫之の土佐日記のように男性が平仮名を用いて書く作品も現れた。やがて、勅撰和歌集である古今和歌集、新古今和歌集が編纂され、11世紀初め頃には流麗な平仮名文字が全盛を迎え、平仮名文学という日本固有の洗練された世界が広がってゆくことになる。いわゆる国風文化の時代を迎える。ただ、依然として男性の貴族や官人は、漢文、漢詩が必須の言語スキル、教養の基本であり続けた。一方で、この頃には万葉集で用いられた万葉仮名を解読できる人がいなくなり、万葉集が読まれなくなっていた。藤原定家を始めとする「古典解読チーム」が編成され、万葉集研究が進められたたほどである。また、漢文で書かれた日本書紀は、平安時代にも貴族の間で定期的な講義が行われたが、変体漢文で書かれた古事記は徐々に読まれなくなっていったと考えられている。


万葉仮名から平仮名へ


最後に、古事記は「文字の起源」をどのように語っているか?

古事記は、我が国最初の「文字」で書かれた「歴史書」であるとされている。日本という国の成り立ち、古代史を知る上で、この7世紀末から8世紀前半に成立した古事記、そして日本書紀が、中国の正史である一連の史書を除けば、国内に現存する唯一の文献資料ということになる。それ以前の列島の有様や、倭国、日本の歴史を知るには中国の史書、文献資料に頼るか、考古学的資料(金石文を含む)しかないのである。

その我が国初の「文字」による歴史書ないしは物語である古事記は、「文字」が葦原中国にもたらされた経緯について、どのように語っているのだろうか。「文字」も、稲作のようにアマテラスやスサノヲ、あるいはニニギによって高天原から葦原中国にもたらされたものであって、決して大陸から伝来したものではない、などと語っているのであろうか。ニニギが漢字を携えて筑紫の日向の高千穂に降臨して来た、とでも書いてあれば話は別であるが、そんな記述はない。古事記神話は、そのストーリーの中で、この物語を書いた「文字」すなわち「漢字」の由来については何も語ってはいない。そもそも漢字を使って古事記が記述されていることで、漢字という外来の文字の存在が議論の余地のないものとして取り扱われている。しかしこの件に関しても、1世紀に中国皇帝から倭の奴国王が下賜された金印や、3世紀に邪馬台国女王が貰った銅鏡に記されていた漢字、漢文の存在については一切触れていない。漢字を用いて記述していながら、中華世界的秩序からの脱却、日本のオリジナリティー、アイデンティティーを主張していることは奇妙なパラドックスであるようにも思える。

あらためて整理すると、古事記という物語の成り立ち、特に神話部分は、新しく生まれた律令国家「日本(ひのもと)」が初めて「文字」を用いて創出した作品であるということである。表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにした、「変体漢文」などと言われる「未完成日本語」で書かれた国家のアイデンティティーの物語である。それは「漢文のようでいて漢文ではない」。その中国由来の文字、漢字の「日本語化」の営みこそ、「日本」が、文字を持たない「倭国」から、「文字の国家」となったことを表現することであり、古事記はその象徴的な作品なのである。繰り返すが、古事記は律令国家の世界観を「日本語」で物語ったものである。すなわち、この古事記という物語の誕生そのものが、列島における「文字・漢字」の受容と変容を象徴している。その所以は、まさに「序文」に記述されていると言って良い。その序文は誰がいつ書いたものなのか不明で、議論の余地があるとされているが、図らずも、漢文で書かれていたらしい古文書を阿礼が日本語(倭語)で「誦み習い」、それを安萬侶が漢字を用いて日本語で「書き記す」、という漢文の日本語化のプロセスが語られている。古事記は、本文には「文字の起源」の由来話はないが、序文でそれを語っている。


参考文献:日本古典文学全集「古事記」山口佳紀、神野志隆光 校註・訳



2023年2月22日水曜日

池上梅園に春が来た! 〜「梅は咲いたか桜はまだかいな」〜

 今年もようやく梅が咲き誇り始めた。

コロナ騒ぎも少し収まって、池上梅園では4年ぶりに26日に「梅まつり」が開催される。人混みの嫌いな小生はそれに先立って、平日の人出の少ない時間を狙って出かけた。当日は、春の訪れというには北風が吹きすさび、厚手のジャケットを羽織るような気候であったが、お天気には恵まれ、中高年世代を中心に思ったより多くの人出で賑わっていた。早くコロナ禍の「巣篭もり」から解放されたいという気分の高まりからか、皆んな春の訪れと梅の開花を待ちきれない様子で駆けつけたのであろう。梅は白梅、紅梅ともに約30種類が植えられていて、枝垂れ梅など一部の木はすでに満開に、多くの木は七分咲きという様子であった。また、本門寺階段の河津桜も例年通り開花し、こちらも七分咲きといったところだ。


「梅は咲いたか桜はまだかいな」

日本では長くて寒い冬がようやく終わり、春を寿ぐ気分だが、ロシアのウクライナでの侵略戦争は24日で一年となる。だが、まだまだ戦闘が終わる気配がない。大義なき戦争でウクライナに侵略し、無差別に破壊し、ウクライナ人を殺し、ロシアの若者も大勢徴発して死地に向かわせる。戦況は一向にロシアに有利には動いていないし、ウクライナ国民の士気は驚くほど高い。北朝鮮とイラン以外の世界はロシアに味方しないが、独裁者の意地とメンツと権力保持のためだけで行う戦争はまだ続く。消耗戦、殲滅戦に持ち込めば、最後に生き残るのはロシアだ!プーチンは「大ロシア」の不滅を叫んでいるが、ますます誰のための戦争なのか。時代錯誤な誇大妄想の独裁者の運命がどうなったか、歴史の教科書に書いてあり、誰でも知っている。ウクライナに一日も早く春がやって来ることを祈念したい。


30種類の梅が植えられている

65歳以上は入場無料



枝垂れ白梅は満開





陰翳礼讃
茶室清月庵



春よ来い!




池上本門寺階段の河津桜も七分咲き



(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

2023年2月19日日曜日

亜欧堂 田善 〜Who is AEUDOO DENZEN ? 江戸のオランダ人画家?〜

  

「フローニンゲン新地図帳」オランダ語版 1791年 表紙
亜欧堂田善の模刻

オルテリウス「世界の舞台」英語版 1606年 表紙

コメリン「オランダ東インド会社史」1646年 表紙



千葉市美術館の「亜欧堂田善」展 没後200年記念、江戸の洋風画家・創造の軌跡 を鑑賞してきた。先週のNHK「日曜美術館」でも「日本に生まれたオランダ人」として紹介された。この亜欧堂田善の作品140点と、彼の画業に関する日欧の作品250点が一堂に展示されるという圧巻、充実の企画展である。

亜欧堂田善(あおうどう でんぜん、本名は永田善吉 1748年寛延元年生まれ、1822年文政5年没)は現在の福島県須賀川市生まれ。47歳のときに白河藩主松平定信の命を受けて腐食銅版画技法を習得し、主君の庇護のもと、日本初の銅版画による解剖図「医範提鋼内象銅版図」や、幕府が初めて公刊した世界地図「新訂万国全図」などを手がけた。いっぽうで西洋版画の技法を取り入れた江戸名所シリーズや肉筆油彩画も手がけるなど、多くの傑作を残している。 須賀川の商家に生まれ生来画を好んだという田善は伊勢国の画僧・月僊の画を学ぶも、絵師としては生計を立てられず、兄とともに染物業を営んでいた。田善に転機が訪れたのは、1794年に白河藩主の松平定信に見出されたときだ。以後、定信が重用する谷文晁に師事し、画業の道を歩むこととなる。画号の「亜欧堂」は、藩主松平定信が、アジア(亜)とヨーロッパ(欧)を眼前に見るようだ、と称賛して彼に与えたと伝わる。

 やがて、田善は江戸に召し出されて本格的に銅版画技法の習得を命じられる。当時を伝えるものとして注目したいのは、田善の《洋人曳馬図》(1802)とヨハン・エリアス・リーディンガー《トルコの馬飾り・諸国馬図》(1752)の比較展示だ。《トルコの馬飾り・諸国馬図》は田善が最初に目にした西洋版画のひとつであるが、田善がこうした西洋版画から構図をはじめ多くの引用をしながら絵馬や画を制作していたことがわかる。

 田善は銅版画技術の習得のみならず、その過程で透視遠近法や陰影法といった手法も西洋画から学んだ。油彩画においてもその力量が発揮され、例えば、透視図法を用いた絹本油彩の《江戸城辺風景図》(1789〜1801頃)は、江戸城の石垣と堀の描写が、独特の空間表現として見るものに強い印象を残す。いっぽう、重要文化財である《浅間山図屛風》(1804〜18頃)は江戸時代最大の油彩画と言われているが、本作で田善は西洋画法をよく理解しながらも、ただ模倣するのではなくあえて写実性を排して装飾的な迫力を表現している。

 華やかな浮世絵とはまた異なり、実利実用の側面も強かった田善の仕事だが、その技術の高さや多彩な表現を豊富な作品群で見ることができる。「美術」という言葉がまだなかった時代のひとりの絵師の多様な仕事を、いまに生き生きと伝える展覧会だ。

(以上、「美術手帖」ウェブサイトから一部を引用)

千葉市美術館における「亜欧堂田善」没後200年記念展についての詳細については我が畏友のブログ「東京異空間」をご参照いただきたい。


銅版エッチング作品について

今回は特に。西洋銅版画との比較で、田善の腐食銅版技法を駆使した作品に注目した。先述のように、白河藩主の松平定信に、西洋で作られた世界地図や解剖図のような実用的な銅版画の製作技術を身につけるよう命じられたことから始まった。田善は、そのためにはということで西洋絵画を学び、油彩画にも取り組んだ。そして銅板エッチング作品に取り組んだ。その結果が、多くの絵画・版画作品を生むこととなり、最終的には世界地図と解剖図を完成させることで藩主の期待に応えることができた。そのプロセスで生み出された様々な作品に見られる模写、模刻の力は卓越しており、モノマネが得意な日本人、コピーがうまい日本人、と揶揄されるのも故なしとは言えないと感じるが、それにしてもこれだけ高度な模写・模刻できる技術・技量は驚嘆に値し、誰もがまね出来ることではない。もちろんヨーロッパに留学したわけでもなく、オランダ人画家・版画家に手ほどきを受けた訳でもない。鎖国下の日本での話である。長崎のオランダ商館を通じて得られた限られた西洋画や書籍を見ながらの模写・模刻であるから驚きである。寛政年間には司馬江漢など一部で腐食銅版画の制作が成功していたが、松平定信から見るとまだ細密さにかけており、満足の行く出来ではなかった。田善は卓越した技法を身に着け、銅版画の創始者は江漢であるとしても、その大成者としての地位を確立した。それ故に司馬江漢をして田善を「日本に生まれたオランダ人」と言わしめたほどである。更にそれにとどまらず、田善自身の感性による銅板版画の咀嚼と止揚で、遊び心に満ちた独自の世界を生み出した。まさに日本文化の「受容」と「変容」プロセスの典型例だとも言える。

さて、ヨーロッパで刊行された17世紀から19世紀中までの書籍には、その挿画に銅版エッチングが多く用いられた。肖像画や、建物、風景、地図、または装飾的な表紙のイラストなど、油彩画や木版画と異なり、小さな画面に精密に描写できること、繰り返しプリントできることから書籍の出版に適しており、写真がない時代のビジュアルメディアとして重宝がられた。成熟期のエッチング作品は、工芸品、更には芸術作品としての価値も高く、著名な作者も現れて作品としても洗練されていった。故に、現代まで愛好者、コレクターが多く、ロンドンなどの古書店でも古プリントとして取引されている。ちょうど日本の浮世絵のような存在と言ってよいだろう。透視遠近法や陰影法が用いられていて立体感があり、奥行きのある写真のようなリアリティを感じる作品が魅力的である。私もこうした銅版エッチング作品の魅力に虜になった一人である。であるからこそ、日本の江戸時代(文化文政年間)の田善のエッチング作品との出会いには衝撃を受けた。

今回の展示の、腐食銅版画技法、透視遠近法、陰影法を用いた、西洋版画の模刻作品は、本家の原画を凌ぐほどであり、先述の解剖図「医範提綱内象銅版図」やわが国初の世界地図「新訂万国全図」の完成度は、田善のいわば技術者としての到達点を示している。一方、その実用的版画の完成域に到達する過程で生まれた、数々の版画・油彩画作品は、個性的な造形や構成力を遺憾なく発揮しており、芸術家としての田善の力量を示している。特に、小型の銅板エッチング作品である「東都江戸名所図会」には、新鮮な驚きを感じる。これまで広重や北斎の多色刷り木版画の浮世絵の世界に慣れ親しんできた我々にとって、同じ風景、同じ構図、同じテーマであるにも関わらず、全く違ったモノクロの世界で、より精密で、透視遠近法、陰影法を駆使したリアリティーあふれる江戸の街の風景が再現されていることに驚く。また、その空の描き方、雲の処理は、西洋の銅版画のそれを江戸時代の日本に復元したもので、「泰西名画」的なエキゾチシズムすら漂う。また、やや時代を下る幕末、明治初期のベアトや上野彦馬が写し出した江戸の古写真をも彷彿とさせる。日本の浮世絵が19世紀ヨーロッパの芸術運動・アールヌーヴォーに与えたインパクトと同様、西洋の銅版エッチング画が、19世紀初頭の江戸・文化文政期に、浮世絵に与えたインパクトも大きかったはずだ。しかし、これまで田善の画業があまり顧みられなかったことは不思議に感じる。今改めて彼の作品に光が当てられることは嬉しいことだ。この亜欧堂田善:AEUDOO DENZENの画業がヨーロッパでどのように評価されるのか。次の企画展をぜひオランダあたりでやって欲しいものだ。

以下に、田善の作品と、同時代の私所有のイングランドの銅版画作品を比較鑑賞してみたい。

(田善の掲載作品は展示会場で撮影許可されたもの)



1)小型の原版による風景画「銅版画東都名所図」(文化年間1804〜18年)


飛鳥山眺望

金龍山浅草寺

両国勝景

品川月夜図

三囲図

愛宕山

愛宕山眺望図

今戸焼ノ図

日本橋魚郭図

道灌山

不忍池図



2)田善の油彩画作品二点

油彩画「江戸城辺風景図」
寛政年間(1789〜1802)後期から文化年間(1804〜18)前期

「浅間山図屏風」六曲一隻 
文化年間・1804〜18年ころ





3)同時代のイングランド銅版画私有コレクションから

Black's Travel Guide Book 1856
スウォンジー市内鳥瞰図

Black's Travel Guide Book 1856
エジンバラ市街地図



彩色エッチング「ドーバーの白い壁」
1804年
銅板エッチングに水彩で彩色したもの

彩色エッチング「ロンドン・グリニッチ公園」
1805年

Dictionary of Geography 1856
「江戸図」
誰が描いたものか興味がある

Dictionary of Geography 1856
ロンドン・ウェストミンスター宮殿とテムズ川



4)ロンドン街角ガイドブック ”Up and Down The London Street 1867”より


Charing Cross

New Hall Hospital

Guildhall

Royal Exchange

St. Paul 聖堂内

Piccadilly

エリザベス一世肖像

シェークスピア肖像




5)江戸鳥瞰図

亜欧堂田善「東都名所図」
銅版画

鍬形蕙斎(1764-1824)「江戸一目図屏風」東京都立中央図書館
木版画


現代の東京
羽田離陸後の写真


6)実用銅版画としての解剖図・世界地図・日本地図



宇田川玄真「医範提鋼内象銅版図」1805年・文化2年


高橋景保「新訂万国全図」1816年・文化13年


日本地図