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2021年2月26日金曜日

今年の河津桜祭り中止。されど花見客多し!の巻 〜そして、さらば特急「踊り子」185系!〜

 

満開の桜を見ながら河津駅に進入する伊豆急「黒船電車」

伊豆急線が一番輝く季節!
 

春は春とて「緊急事態宣言」が3月7日まで東京、神奈川、埼玉、千葉に出ている。したがって、不要不急の外出は自粛するようにと、首都圏の住民は基本的には「巣ごもり」が推奨されている。しかし、去年の5月の第一次「緊急事態宣言」時と違って、何か緊張感がないのも事実。「緊急事態」と言いながら、経済は止めてはいけない、との「配慮」で政府の「要請」もどこかメリハリに欠けていて中途半端。したがって国民の方もどう対処して良いのかブレまくっている。「二兎を追うもの一兎を得ず」の例え通りになりそうで心配だ。現に渋谷や新宿、品川駅などのターミナル駅周辺は普段通りの人出で混雑し、電車もそれなりの時間帯は混み合っている。住宅最寄駅の界隈のスーパーやショッピングモールは買い物客で「賑わって」いる。経済活動の停滞は起こっていないのか?「巣篭もり需要」売り上げが急増しているのはネットショッピングサイトだけではないようだ。いっぽうで飲食店は夜8時以降の飲酒を伴う提供は「自粛」するようにとのことである。とくに「袖触れ合うも多生の縁」が売り物の居酒屋など、ソーシャルディスタンス2m取れ!と言った途端に商売成り立たず。こちらは自然と客足が遠のき、店によっては休業したり廃業したり。ここが一番影響を被っている。ワクチン接種も日本は欧米諸国に比べるとはるかに取り組みが遅いし、年初から接種が始まっている欧米では早くも供給量不足の直面し、奪い合いとなっている有様。接種開始が遅れている日本に回ってくるのか心許ない。その供給量の確保もどこまでなのか不確かだ。そもそも科学大国、医療大国のはずの(はずだった)日本が、自前でのワクチン開発も、製造もできず、欧米のメーカーからの輸入に頼らざるを得ない状況。そして医療逼迫というが、その医療体制は欧米の10%以下というお粗末さ。みんなで気をつけてくださいね〜。自己責任ですよ!自助、共助で頑張るよう「お願いします」。公助はあんまり期待しないでくださいね〜 国民にお願いしかしない政治リーダー。どうなっている?まったく「緊急事態」感が伝わらなく、ずるずると「巣篭もり的生活」が期待される状況が続いてる。そろそろ「気の緩み」という爆発が起きそうだ。

そんな中、毎年恒例の伊豆、河津の「河津桜祭り」は中止となった。静岡県は緊急事態宣言外だが、東伊豆への観光客の大部分が首都圏からの客で占めているのだから仕方ない。去年は、「河津桜祭り」は行われたが、その後の全国の「お花見」の季節の宴会は自粛要請。「同調圧力」という無言のプレッシャー、「自粛警察」の目が光っていてで静かな(寂しい)桜の季節となった。一年たった今年もまた同じ事態の繰り返しとなっている。しかし、人間が勝手に企画したり、中止したりする「祭り」とは関係なく、自然は今年も見事な河津桜を咲かせてくれた。祭りが中止だからと言って、満開の見事な桜を人が見に来ないはずがない。案の定、河津町は「想定以上の」花見客でごった返している。まるでコロナ自粛の鬱憤を晴らすかのように、例年にも増して人出が。連休中の今日は慌てて町役場も職員を現地に出して、花見客の検温に乗り出していた。職員が見回り「検温済みステッカー」を貼っていないと何度でも「検温してください」と声かけられる。花見客の全員がマスクしている光景が今の事態を象徴している。露天などの出店もそれなりに出ていて賑わっている。自粛、自粛といっても、花が咲けば人は出る。人が出れば店も出る。河川敷でブルーシート敷いて宴会というのは流石に見かけなかったが、春が来れば啓蟄は自然の理(ことわり)だ。

この早咲きの河津桜は東京都心のあちこちでも見かけるようになった。いや最近は全国区になっているようだ。ソメイヨシノを待たず、一ヶ月早く桜の季節の訪れを告げる。気がつくと、河津桜や寒緋桜のような早咲きの桜は最近結構人気と見えて、SNS上にインスタ映えする写真が次々アップされている。梅、河津桜、ソメイヨシノと、1月末から4月上旬まで花の季節が長く楽しめるのは良い。とくにこの鬱陶しい時節に賑やかで結構なことではないか。その河津桜の原木はここ河津町の民家に庭にある。大切に育てられている。大島桜と寒緋桜の交雑変異種だと言う。元は河原に生えていた一本の小木から始まった。



河津駅前の「伊豆の踊り子像」

「河津桜祭り」は中止だが、駅からは次々と河津川土手の桜並木へ人の波

伊豆急線路沿いの桜並木と菜の花のコラボが人気

新型車両の特急「踊り子」が鉄橋を渡る

河津川

天城山系を背景に河津川土手



満開の桜の下、一人ポツネンと佇む人も...

河津川土手の遊歩道には出店も








奈良本 水神社の桜

熱川温泉の河津桜


そしてもう一つのニュース:

さらば特急「踊り子」185系。国鉄時代からの生き残り電車特急が3月13日のダイヤ改正で引退する。車両がリニューアルされ新しい「踊り子」が登場する。長い間東海道線と伊東線、伊豆急線を、モーター音を唸らせながら疾走していた姿も見納め。下田行きと修善寺行きがあった。さすがに車両の老朽化は覆い隠すべくもなく、リプレースは時間の問題だと思われていた。首都圏からの人気路線の主力列車にしてはが、なかなか新車両に更改されないのを不思議に思ってた。しかし、いざ引退となると後ろ髪を引かれる思いだ。去年、特急「スーパービュー踊り子」が引退したのに続く(こちらの方が若いのに)。この「スーパービュー踊り子」の後継列車は新造車による「サフィール踊り子」となった。こちらは全車両グリーン車、うどんバー(!?)がある超豪華列車(!)となった。ちょうどデビューがコロナパンデミックの時期と重なり、人気沸騰で乗客が押しかけたなどという話は聞かない。バブル時代じゃあるまいし、いまさらこんな短距離路線に別料金払って、うどん食うために豪華列車に乗る客がいるのか... なあんてイヤミの一つでも言ってみたくなる。なんか古武士のような風格の185系が惜しくなってきた。

今回は東京から下田まで、車窓から外を眺めていると沿線に多くの鉄道ファンがカメラ構えて「撮り鉄」やっている姿が印象的であった。伊豆急線の各駅にも引退を惜しんで、185系の最後の勇姿をカメラに収めようとホームで鉄ちゃんが奮闘していた。なかでも河津駅は、満開の河津桜を背景に、とてもフォトジェニックな一枚をゲットする格好の舞台。若者のファンが多かったようだ。185系は彼らが生まれる前から走っていたのだ。このおじさんも慌ててカメラを持取り出し、にわか「撮り鉄」に。せっかくだから熱心な「撮り鉄」ファンを入れてパシャ!伊豆の風土にしっくりくる電車特急だ。


特急「踊り子」185系電車(河津駅にて)
引退を惜しんで最後の勇姿を写真に収めようという「撮り鉄」ファン群がっていた。
ちょうど河津桜が駅ホームからよく見える

ボディーの斜めストライプが印象的
たしかオランダで乗った電車が同じようなデザインだった


河津駅をでて下田方面へ向かう「踊り子」号の勇姿

伊豆急下田駅にて

車内
白いリネンの枕カバーが国鉄特急の名残
窓も開けられる。

豪華特急「サフィール踊り子」

伊豆急下田駅にて

(撮影機材:Nikon Z7II + Nikkor Z 24-70/2.8 S, Nikkor Z 70-200/2.8 S)

2021年2月20日土曜日

西欧文明とのファースト・コンタクトは何をもたらしたのか? 〜「破壊的イノベーション」は起きたのか?〜


ファースト・コンタクト
ポルトガル船の長崎来航


セカンド・コンタクト
アメリカペリー艦隊(黒船)の江戸湾来航


今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一。明治維新の主人公といえば坂本龍馬や西郷隆盛のような維新の英傑、あるいは新撰組のような敗者のヒーローがこれまでも大河の主役になったが、今年は「日本の資本主義の父」である。渋沢の著作「論語と算盤」が脚光を浴びるなど、資本主義が見直しの時期に来ている点では渋沢が注目されるのは合点がいく。ともかく19世紀の黒船来航に端を発する、強烈な西欧文明との遭遇に伴う驚きと恐怖。それに比べ日本の「前近代性」への焦り。これを原動力とした幕末から明治日本の「殖産興業」「富国強兵」「文明開花」という近代化の歴史。この記憶が21世紀になっても「大河ドラマ」の主人公に当時の英雄を選ぶという行動につながっている。この一点をとっても、いかにこの時の西欧文明との遭遇(コンタクト)が日本人に強烈なインパクトを与えたかを物語る。長い低迷の時代から脱する術を知らぬまま、茹でガエル状態になっている21世紀の日本。コロナパンデミックもあいまって先行き不透明で、新たな「維新」を期待する空気が横溢する中に、またしても「明治維新型の英傑」の登場に何かを求めようとする。「欧米先進国」という追いかけるモデル、ゴールが明確であった時代の英傑像。それは目指すモデル、ゴールが不透明で、答えが無いこれからの時代の英傑像と同じなのだろうか。いつまで「明治維新型の英傑」なのか。そこから脱し得ないところに今の日本の課題が凝縮されている。イノベーションにおける「外圧」、西欧列強モデルに学ぶ、という強迫観念から逃れることができないのだ。

「破壊的なイノベーションは外からやってくる」。日本の歴史はそう教えているように見える。外来のイノベーションを「受容」し、それを咀嚼して日本的に「変容」する。そうして歴史のパラダイムシフトを繰り返してきた。稲作の伝来、仏教の伝来、白村江の戦い敗北。キリスト教伝来、黒船来航、そして敗戦。その度に「外からきたイノベーション」で日本は大きく変わっていった。なかでも我々の記憶に鮮明に残っているのが「敗戦」とそれに至るまでの19世紀の西欧文明との遭遇であったことは今述べた通りだ。しかし西欧諸国との遭遇はこの時が初めてではなかった。煙を吐く蒸気船、黒船を見て腰を抜かした当時の人々は、この時すっかり忘れていたようが、ペリーの来航から300年ほど以前、戦国時代真っ只中の1543年(天文12年)種子島にポルトガル人がやってきた(漂着した)。これが初めてのヨーロッパ人との遭遇である。これに続いて1549年(天文18年)カトリックのイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。そして次々と宣教師がやってきて、時の権力者だけでなく庶民ともキリスト教を通じて接触を持った。今度は正式にポルトガル人も交易のために平戸、長崎にやってきた。南蛮人の来航だ。1600年にはオランダ船リーフデ号が豊後沖に漂着し、イギリス人ウィリアム・アダムスがやってきた。、そしてプロテスタントのオランダ人やイギリス人がやってきた。これが紅毛人の来航だ。これが西欧諸国とのファースト・コンタクトである。しかし、程なくキリスト教は禁止されて宣教師や西欧人は国外追放され、日本人の海外渡航や帰国も禁じられた。キリスト教や西欧人との濃密なコンタクトは100年足らずで終わった。そして徳川幕府は徹底して「遭遇の記憶」の抹殺に力を注いだ。唯一滞在を許されたオランダ人は長崎の出島に押し込まれて、庶民との接触を禁じられた。200年にわたる「鎖国」でファースト・コンタクトの記憶はすっかりかき消されていて、19世紀になって列島沿岸に出没した欧米諸国の蒸気船に驚愕した。まるで初めて見る異人であるかのように畏怖した。これがセカンド・コンタクトである。

しかし、このファースト・コンタクトとセカンド・コンタクトは、その時代背景や、日欧両サイドに与えたインパクトはまるで違う。どう違うのか?ファースト・コンタクトはどのような「破壊的イノベーション」を日本にもたらしたのだろうか。


1)「ファースト・コンタクト」の時代 16世紀の世界は?

まず結論から述べると、1543年(天文12年)ポルトガル人が種子島に漂着したことに始まる日本と西欧諸国とのファースト・コンタクトは、日本人がセカンド・コンタクトの時に味わったような、西欧列強諸国の経済力と軍事力、科学技術への驚愕と恐怖、羨望の出会いではなかった。16世紀〜17世紀の世界は、アジアは経済的文化的先進地域、ヨーロッパは世界の辺境地域であった。その差は圧倒的であった。イスラム教国に圧迫されていたヨーロッパは、イスラム世界を通らなければならない陸路を迂回して海路を取り、豊かなアジア(初期においてはアジア全体をインドと理解していた)を目指してその繁栄のおこぼれに与ろうと遥々海を渡ってきた。その頃繁栄していたインド洋交易圏、さらにアジア交易圏は外来者に開かれた市場であった。地元の頭目にテラ銭さえ払えば誰でも交易に参加できた。まずそこへ進出してきたヨーロッパ人はレコンキスタでイスラム世界から失地回復を果たしたばかりのポルトガルだった。人口150万の小国であった。彼らはアフリカ西海岸を南下し、希望峰を周回してインド洋に出て、インドのカリカットに到達した。一方、同じイベリア半島のスペインは東航路をポルトガルに先を越されたので、西回りでアジアを目指した、そして新大陸(アメリカ)を発見した。当時のアジア世界は、強大なオスマントルコ帝国、サファヴィ朝ペルシャ帝国、インドムガール帝国、そして中国の大明帝国といった超大国がひしめいていた。こうしたアジアの大帝国にとって臨海部に上陸して交易拠点を設けようとするポルトガルなど、巨大なパイに群がる蟻のような存在であったことだろう。海路でやってきたポルトガルの冒険商人が内陸深く進出し商圏を広げることはなかったし、そもそも彼らは豊かなアジアに売れるような産物を持ち合わせていなかった。キリスト教布教にしてもそうだ。イスラム教やヒンズー教、仏教、儒教を駆逐する勢いはなかった。現にほとんど帝国の内陸にまで布教が広まり信徒を獲得することはできなかった。オスマントルコもペルシャ帝国、ムガール帝国も大明帝国も、版図内の土地と人民を支配することに最大の関心を寄せる大陸国家であり、海を目指した海洋国家ではなかった。ポルトガルの船団がカリカットやゴア、マラッカ、マカオを拠点に海で交易活動に参入しようと、宣教師がやってきて海岸べりでキリスト教を布教しようと、そうしたヨーロッパ人の動きは帝国の核心的利害とは無関係であったと言っても過言ではない。そもそもユーラシア大陸の西端のヨーロッパは、イスラム教徒に圧迫されて呻吟するキリスト教徒の地域で、ようやくイスラム教徒から奪還したイベリア半島にスペインやポルトガルが起きたわけだ。その一方、当時のヨーロッパ人が忘れかけていた西欧文明のルーツであるギリシャやエジプトの文明は、イスラム教徒から伝承された。そうした先進的異文化の桎梏から脱出すべく、イスラム世界の向こう側のアジアへ生き残りの旅に出た。これが後世「大航海時代」とか「大発見:Great Discovery」とか称される西欧中心歴史観の実相であった。

ちなみに、アジアを目指して西へ向かったスペインは「幸か不幸か」アジアの強大な帝国に遭遇することはなかった。当初夢見たアジア/インド/ジパングとの交易利権を手にすることはできなかったが、その代わりに思いも寄らない「手付かずの」新大陸に到達し、そこのインカ、アステカ、マヤなどの現地文明をコルテスやピサロなどのわずかな手勢で滅ぼして植民地化した。アフリカから送り込んだ奴隷を使い現地から金やそのほかの資源を、奪えるだけ奪って本国へ持ち帰るという、双方向の交易を伴わない「略奪帝国主義」の実行者となった。そして現地住民の素朴な太陽信仰、祖霊信仰を破壊し、強制的にキリスト教に改宗させた。世俗の欲望と、キリスト教世界の拡大、という動機に突き動かされて東へ向かったポルトガルと、西へ向かったスペインは、ある意味明暗を分けることななったわけだ。歴史の皮肉だ。


2)「ファースト・コンタクト」その時日本は?

ファーストコンタクトは日本にセカンド・コンタクトと同様に「破壊的イノベーション」をもたらしたのであろうか? 16世紀にポルトガル人「南蛮人」がやってきた頃の日本は14世紀の南北朝時代から続く戦乱がいまだに終わっておらず、天皇や将軍の権威が失われて、各地に割拠する武力集団(戦国大名)の中から頭角を表し始めた信長、秀吉、家康が天下統一を果たしてゆく過程の時代であった。先ほど豊かな「経済文化先進地域アジア」と言ったが、日本はインドや中国に比べるとさしたる資源もなく、魅力的な産物もない(マルコ・ポーロの描いた伝説の「黄金の国ジパング」とは程遠い)のが実体であった。人々の生活は戦乱で疲弊しており貧しかった。石見に銀が産出するまでは、ポルトガル人もスペイン人のマゼランも、近海まで来ておりながらもスルーしていた国であった。それが、偶然にもマカオから中国のジャンク船に乗って航海中のポルトガル人が種子島に漂着して、初めて「ここがあの噂のジパングか!」と忘れられていた「ジパング伝説」を思い出した。。この時「鉄砲」がもたらされたわけである。資源もなく貧しいと考えられていた日本は、実は(貧しいのだが)200年に亘る戦乱で練度の高い軍事組織(武士/さむらい)を有する強大な軍事国家であった。そこにポルトガル人のもたらした鉄砲が戦国時代の勢力地図を塗り替え「天下統一」を加速した。戦略兵器「鉄砲」を制したものが覇者となった。鉄砲伝来以降、わずかな期間に日本はたちまちその保有数において世界でも屈指の国になっていた。当時の日本の人口は3000万ほどといわれ、人口が高々150万人のポルトガルや、遅れてルソンからやってきたスペインなどの南蛮人は日本の敵ではなかった。当時の為政者(信長、秀吉、家康)ははるばる世界の果てからやってきたヨーロッパ人を見て、風変わりな風俗に心を奪われ、エキゾチックな文物に魅了された。もちろん鉄砲にはすぐに食らいついた。また彼らが乗ってきた外洋航海を可能にする大型船にも興味を示して建造させた。しかし19世紀幕末の時のような軍事的脅威や、経済的な豊かさへの怨嗟や、植民地化される恐怖などは感じなかった。もちろん後から来たプロテスタント国のオランダ人やイギリス人の「侵略の先兵カトリック宣教師」という反カトリックプロパガンダはあったものの、ポルトガルやスペインが艦隊を派遣して日本を占領するなどという危機感に現実味はなかった。むしろキリシタン禁教の直接的な原因は、西国キリシタン大名の「天下統一」からの離反の恐れと、オランダの交易利権独占を保障することによる幕府の管理統制貿易政策であった。

また日本人もこの時期、積極的に海外へ進出して交易や傭兵として参加していた。後世の鎖国のイメージが強く、日本人の海外進出などイメージされにくい嫌いがあるが、倭寇の例を待つまでもなく、もともと海洋国家である日本は、その周辺の中国や朝鮮などとの交易(海賊行為も含めて)、琉球王国を介した南方貿易に関わってきた。権力者も海外交易利権に目をつけ朱印状を発行して莫大な利益を得ようとした。当時はルソンや中国沿岸部、マラッカ、シャムには大きな日本人の居留地ができていた。アジアに進出してきたポルトガル人、スペイン人やオランダ人、イギリス人との海外拠点での邂逅も多く、交易に従事したり、商船を襲ったり、彼らの私掠船に乗り組んだり(イギリス船に乗組み、ロンドンまで行って帰ってきた日本人の記録がある)、日本人が傭兵として英蘭の戦闘に参加した記録が残っている。この時代、日本人はグローバルに活動していた。もっとも、博多や堺などの大商人が出資して船団を組み海外に出かける(英蘭の東インド会社のような)ことや、政治権力者が朱印状(貿易許可)を冒険的商人に与えて大船団のパトロンになると言った試みは家康まではあったが、国家単位で組織的に取り組まれるまでには至らぬまま「鎖国」してしまった。「破壊的イノベーション」を忌避する時代へ突入した。

ところでポルトガル人は鉄砲を伝え、これが戦国の世の戦闘形態に「破壊的イノベーション」をもたらしたのは確かである。しかし、それ以外に大きな利益を生むような魅力的なヨーロッパからの産物をもたらしはしなかった。鉄砲とてすぐに日本人は自国生産を始めたので交易品としての利益を生むことはなかった。したがって本国との交易よりは、むしろ日本の銀を手に入れて、それで中国の絹や陶磁器、茶など高価な財物を買いつけ、それを日本に運んで売ると言う「三角貿易」で莫大な富を生み出した(当時、明は倭寇対策で日本との通交を禁止していた)。しかし、このファースト・コンタクトにおける重要なインパクト・ファクターは交易ではなかった。それはポルトガル海洋帝国の拠点つたいにローマ・カトリックのイエズス会の宣教師がもたらした外来宗教、キリスト教であった。彼らは珍しい西欧文物をもたらすとともに、戦乱の世の中で一気に30万もの信徒を獲得した。しかし、やがて徳川幕府はキリスト教を禁じ、宣教師、司祭を国外追放して「鎖国」が始まる。すなわち「外からやってきた破壊的イノベーション」の受容は拒否され、徹底的にキリスト教は抹殺され、人々の記憶から消し去られてしまう。この「受容」と「変容」の問題は後で触れるが、200年後の幕末において、「黒船来航」に驚いた時には、この300年前のファースト・コンタクトの記憶が呼び起こされることはなかった。


3)「セカンド・コンタクト」への道

このファースト・コンタクトがあった16世紀後半から17世紀前半から、セカンド/コンタクトのあった19世紀に間にヨーロッパは大きく変わった。徐々にスペイン、ポルトガルといったカトリック国の凋落が始まり、新興のプロテスタント国であるオランダやイギリスがヨーロッパにおける覇権争いに勝利する(英国艦隊のアルマダの戦い、ホランド、フランドルのスペインからの独立)。そして「南蛮人」に変わり「紅毛人」が海外進出により強力な海洋帝国を築き始める。アメリカ植民地開拓やアフリカ、インドへの進出を皮切りにアジアへも進出する。オランダ/イギリス東インド会社の創設である。さらに18世紀後半からイギリスでは、産業革命と言う「破壊的なイノベーション」が起き、蒸気機関の発明により農業や工業製品の生産力が飛躍的に増大し、鉄道や蒸気船の発明により移動流通が革命的に発展していった。海外植民地から綿花などの安い原材料を仕入れて、本国で綿製品などに加工して、さらに人口の多い植民地へ売りつける。加工貿易で巨大な富を蓄積し始める。政治的にはアメリカ独立戦争、フランス革命による王政の打倒という市民革命、共和制移行が起きた。この頃「資本主義と父」と言われるアダム・スミスが現れ、重商主義的な経済政策から大きな転換を果たして行った。ヨーロッパ諸国がこうした経済的、技術的、政治的なイノベーションにより、大きく発展する時代ヘと進んだ。そしてイギリスはアメリカ植民地を失ったものの18世紀に入ると、バタビア、シンガポールを領有し、19世紀にはムガール帝国滅亡とインド併合(1858)、アヘン戦争により香港割譲(1842)などアジア、植民地化を進めた。そして七つの海を支配する大英帝国としてパクス・ブリタニカの時代を迎える。一方、イギリスからの独立を果たしたアメリカは、いわばヨーロッパの出店として、新たな世界進出プレーヤーとして登場してくる。またヨーロッパの後進国、北方のロシアも領土的野心を剥き出しにして、黒海やアジアにおける不凍港を求めて南下してくる。こうした時期に鎖国日本の近海に現れたのがイギリス船であり、ロシア船でありアメリカ船であった。これが西欧とのセカンド・コンタクトなのだ。この時期のヨーロッパ、アメリカは、軍事的にも経済的にもはるかにアジアの旧勢力を凌ぐパワーに成長していた。あのムガール帝国はイギリスの植民地となり、大明帝国のあとの清朝中国はイギリスとの争いに敗れて香港を奪われ植民地化の道を辿る。こうしたアジア情勢の激変を知った日本にとっては、目の前に現れたアメリカの黒船来航は「太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜煎)、たった4杯で夜も眠れず」であった。ファーストコンタクトから300年。200年欧米諸国との国交を閉ざしている間にアジアを取り巻く情勢は大きく変容し、日本の周辺の景色はすっかり変わってしまっていた。これがセカンド・コンタクトであった。そしてこれに驚き恐怖を抱いたことに端を発する「破壊的イノベーション」、パラダイムシフトが明治維新であった。


4)キリスト教の受容と変容はなぜ起きなかったのか?

先述のように、ファーストコンタクトのもっとも重要なインパクトはキリスト教の受容の問題であった。結局キリスト教は日本に根付かなかったと評価する見解も多い。遠藤周作の「沈黙」においても、日本は結局キリスト教が根を下ろすことができない「沼地」である、と登場人物の棄教した宣教師フェレイラに言わせている。また芥川龍之介の「神神の微笑」においても、かつてこの国に来た「仏陀」もこの国の霊力により何か別のものにつくりかえられてしまった。デウスもこの国の土人に変わるだろう、と、宣教師オルガンチーの前に現れた幻に言わせている。すなわち多神教世界に乗り込んできた一神教は根付かない、と。キリスト教布教は無理なのだと。そうなのであろうか?外来の宗教が在来の宗教との間で受容と変容を遂げる姿は、別に日本における神仏との習合に限らない。世界に広くある数々の自然神信仰、祖霊神信仰など地元の古来からある多神教的信仰、宗教との間でもあった。非キリスト教世界においての布教では必ず直面する課題であるはずである。日本におけるキリスト教布教固有の課題ではない。ヒンドゥー教のような多神教世界においても同様であろうし、ましてイスラム教のような一神教世界においておやである。

ポルトガル人もイエズス会宣教師もオランダ人も、当時は日本が未開の国であると言う認識は持っていなかった。文化的に違いがあるものの、日本人は「道理」を重視する極めて合理的思考の人々であるとフランシスコ・ザビエルもルイス・フロイスも記録している。アフリカ大陸や新大陸においての未開の習俗のままの原住民を教化するする手法は日本では通じなかった。仏教や神道など既存宗教との合理的な宗教論争が必要であった。多神教世界の信仰が「道理」となっている人々に「世界を創造した唯一絶対神」概念を理解させなくてはいけなかった。ヨーロッパにおいてプロテスタンティズムからの挑戦を受けたカトリシズムにとって、新たに組織したイエズス会という戦闘的「合理的」布教集団は、他宗教との論争にも十分耐え得る理論武装をしていた。しかし、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に初めて布教を開始してからからわずか100年足らずという時間は、多神教が当たり前の人々に一神教に対する「道理」を理解させるにはあまりにも短すぎた。この点が同じ外来宗教である仏教の受容と変容のプロセスと大きく異なる点だ。6世紀に伝来した仏教の受容にも、当初。倭国古来の「八百万の神々」との「習合」の問題に直面した。その後の歴史の中で鑑真のような高僧の渡来や、空海や最澄、栄西などの日本人留学僧の活躍で、その難解な教義を学び日本に伝え、咀嚼して日本に根付かせる。まさに「受容」と「変容」の長い歴史があったことを思い起こす必要がある。そうして支配者階層からやがては庶民にまで、日本人の日常に定着してゆく歴史を辿った。この間「廃仏毀釈」の嵐にも見舞われている。そしてここまで何百年もかかっている。日本におけるキリスト教は、その根底にあるスコラ哲学=神学の「理論的普遍性」を理解し、これを説く日本人の高僧や司祭が育たなかった。育つ間も無く根絶やしにされてしまった。布教活動初期においてイエズス会宣教師は、日本人の司祭を育成することの難しさを記録している。これはラテン語をまず習得する必要があるというだけでなく、こうした西欧キリスト教世界で共有されていた普遍的世界観を理解する日本人が生まれなかったことによる。仏教受容と変容のようにその時間も与えられなかった。しかしそれは日本や日本人が特殊なわけではなく、どこの世界にも異なる世界観、異なる神を持つ人々がいて、それぞれに「普遍性」を主張している。彼らのいう世界観の「普遍性」、神学の「理論的普遍性」「神学的合理性」とは何か?それぞれの異なる世界観や神の習合が進むことこそ「多様性を受容する普遍性」ではないのか。日本におけるキリスト教の「受容」と「変容」がこれからどのように進んでいくのか。そしてその成否は後世の人々が評価するだろう。

しかし、禁教令とキリシタン弾圧で宣教師も司祭もいなくなり、信徒が弾圧されて多くが殉教しても、生き残って地下に潜り、隠れキリシタンとなって、島々に潜んで信仰を守り繋いだ人々がいることを忘れてはならない。禁教から200年後の明治になって、新たに創建された長崎の大浦天主堂に現れた日本人の信徒が、日本では「根絶やしにされた」はずの、「根付かなかった」はずのキリスト教の信仰が迫害の中にあっても民衆の間で生き延びていたことを示した。この「信徒発見」?は、明治になってやってきた宣教師ドロ神父や、その報告を受けたローマ教皇にとって感動的な事件であった。もちろん200年にわたってローマ・カトリック教会の司祭による礼典も告解もなかったわけであるから、宗教指導者のいない土着の信仰形態「おらしょ信仰」と化していたのではあるが、キリスト教が、まさに日本に受容され変容されて根付いていたことを明確に示している。信仰とはまさにこうしたことである。


参考過去ログ:

2019年1月31日「仏教伝来とキリスト教伝来〜グローバル化の受容と拒絶〜



参考文献:「バテレンの世紀」渡辺京二著 新潮社

2021年2月2日火曜日

古書を巡る旅(8)サミュエル・ジョンソンとジェームス・ボズウェル 〜英国紳士必読の書「サミュエル・ジョンソン伝」とは?〜

 

James Boswell [The Life of Samuel Johnson LL.D.] 4 volumes 6th Edition 1811



 「ロンドンに飽きたものは人生に飽きたものだ」。「燕麦はイングランドでは馬に食わせるが、スコットランドでは人間が食う」などの言葉をどこかで聞いたことがあるだろう。これらはいずれも18世紀後半の英文学の大御所、サミュエル・ジョンソン:Samuel Johosonの言葉である。彼はイギリスで初めての体系的で「完全」な英語辞典を編纂したことで知られる。すなわち英語のレジェンドの言葉なのだ。彼の辞書には多くの皮肉とウィットに富んだ言葉が収録されていて、彼の「独断と偏見」によって編纂された辞典はジョンソン色に染まったものだという。また彼の伝記である「サミュエル・ジョンソン伝」には多くの彼の言動、警句について記述されている。これは彼のいわば弟子ともいうべきジェームス・ボズウェルによって著された

 イギリス人の独特の言語表現や思考様式はこのあたりが起源となっているようだ。私のイギリスとアメリカの両方で暮らした経験による「独断と偏見」に満ちた観察でも、イギリス人独特の皮肉っぽいジョーク表現と、アメリカ人のなんのヒネリもないストレートなジョークとの違いに同じ英語なのにこうも違うのかと驚きを感じたものだった。アメリカ人にとって「Yes」は「Yes!」以外の何ものでもないが、イギリス人にとっては「Yes indeed, but...」であり、アメリカ人の「Good !」はイギリス人の「Not so bad...」である。人にものを尋ねるときの「Could you possively excuse me to ask you a question ?」などものすごくへりくだっているようで、「君には答えるのが難しいこと聞く私を許してくれる?」と馬鹿にされているようでもある。I have a question!と言えば済むのに... 仮定法を用いて婉曲に表現をヒネらないと気が済まないのは、日本人の謙遜や返事の曖昧さと似通う点があるようにも感じるがそうでもない。日本人は謙遜ばかりしてYseかNoかはっきりしないし、京都人の「いけず」が本音と建前を区別できない余所者を婉曲にバカにするのと違い、イギリス人は意思ははっきりしているがストレートにそう言っては、自分がバカみたいで損した気がするだけなのだ。またイギリス人の愛するユーモア、ギャグもなかなかに奥が深い。BBCのかつての人気番組Monty Pysonの上品とは言わないがヒネリの効いた辛辣なジョークの根源は何か?オックスブリッジ出身者でスクリプトと演技をこなす「知的」な番組の「笑いネタ」、Ministry of Silly Walkは何を言いたいのか?オウムやスパムがどうしていつもテーマとして出てくるのか?など真面目に悩んでしまう日本人にははなはだ理解できない。彼らの発する嫌味も秀逸である。LSEの学生の時、ゼミでの討論中に英語の不自由な私が、用意したカンペを見ながら論点を述べると、すぐにチューターの教授が私のカンペ指差しながら「君が今読んだメモの第二パラグラフのところをもう一度読んでみてくれ(read it again)!」などと嫌味ったらしい質問をくれた。討論の時は自分の言葉で即応せよ!ということだが、今の論点をもう一回説明せよ!、メモを読むな!と素直に言わないのか?気の弱い日本人留学生は、言われた通りにもう一度メモを読み上げた。ゼミが終わったあとでウェールズ出身のゼミ仲間が「あれがイングランド人の教養とやらいうものだ」と、これまた皮肉たっぷりに私に囁いた。こうした皮肉のやり取りは時に上質でニヤリとすることもあれば、嫌味にしか聞こえないこともある。真の教養人として感心することもあれば単なるエセ教養人、すなわちスノッブ:snobとして失笑すべきこともある。イギリス人のこうした表現スタイルの根源を追いかけると、どうもこの「ドクタージョンソン」なる人物に行きあたるようだ。彼の英文学史において果たした役割と、その後継者たちのレガシーが今のイギリス人の言語表現や思考様式を形作っていることに気がつく。

 なかでもボズウェルの「ジョンソン伝」:Boswell's "The Life of Samuel Johnson"はイギリスの教養人の必読書と言われている。伝記文学の最高峰と評されイギリスの英語による文学や教養の基層に位置付けられている。これを読んでみようと翻訳本を探したが、日本語に翻訳された「ジョンソン伝」や彼の警句集は意外に少ない。古くは岩波書店版があるが絶版になっているようだ。あとはみすず書房版。日本では英文学の古典といえばシェークスピアやディケンズは多く研究され翻訳されているがジョンソンはあまりポピュラーではないようだ。そもそも日本語化したものをパラパラと拾い読みしてみたが何かピントこない訳文が多い。というか難しい表現になっている。研究者、訳者のそれぞれの受け止めであるから非難すべきことではもちろんないが、そりゃそうだろう!英語表現の持っている比喩や皮肉を読み解くには、その背景の理解がなければなるまい。なかなか他言語には簡単には翻訳できない。ところでAIはジョークや比喩をどのように翻訳するのだろう?興味深いテーマだ。それはそれとして明治の西欧文化ならなんでも食らいついてみようという時期には大学や旧制高等学校ではジョンソン伝やジョンソン英語辞典が幅を利かせていたようだ。きっと帝大のお雇い英国人教師たちが英文学の基礎として持ち込んだのだろう。その時の漢文調の翻訳がそのまま現代まで承継されている感じがする。これでは漢学の素養も英語の素養もない現代人の我々には理解できるわけがない。イギリスではジェントルマン、教養人の必読書と言われる「ジョンソン伝」も日本では敷居の高い難解な書籍と化しているようだ。やはり原書に当たってみることが肝要と考えた。かと言って私は英文学者でも、翻訳家でもないのだから原書を読んで日本にこれを広めてやろうなどとは考えていない。しかしイギリスを改めて知るためにも18世紀という時代に「時空旅行」して、この頃の空気を吸ってみたい気にはなる。なのでこの「ジョンソン伝」は以前から気になっていた。そしてこの、James Boswellの「The Life of Samuel Johnson LLD」6th editionの原書に出会った。1811年にロンドンで出版された4巻からなるセットである。




見開き
左にSamuel Johnson肖像、
右が表紙であるが経年変化で肖像が転写されてしまっている


初版のJoshua Reynoldsへの献辞の最後に
My dear Sir, Your much obliged friend, And faithful humble servant,
という英国らしいへりくだり表現
London, April 20, 1791, James Boswell



第6版の改訂に携わったE.M.すなわちEdmond Maloneの告知。
Foley-Place, May 2, 1811, E.M.


革装の背表紙が美しい

革装の背とマーブルカバーの装丁



まずは登場人物を簡単に紹介しておく必要があるだろう。

サミュエル・ジョンソン:Samuel Johnson (1709-1784)

 イングランド中部リッチフィールド生まれ。オックスフォードに学ぶが、家が貧しく中退。のちにオックスフォードから修士号を得る。英語辞書 (A Dictionary of the English Language) 編纂 (1755)、詩集編纂、シェークスピア作品集編纂で功績。チョサー、シェークスピアに次いで英文学の歴史に画期をなす大御所である。英語辞典は当時、イギリスにはドイツやオランダ、フランスに比べキチンを選定編纂された辞典がなく、ジョンソンがこうして声に動かされてスポンサーもないにも関わらず一人で短期間に編纂を完了した。その内容はかなり彼の独断と偏見に満ちたものが多くあるが、20世紀になってオックスフォード英語辞典ができるまで、最も権威ある辞典であった。また彼はさまざまな「警句」を残したことで有名。これらはボズウェルの「ジョンソン伝」で詳細に伝えられている。また彼が手がけたシェークスピア作品集はマローンによって継承された。

Samuel Johnson (1709-1784)

ジェームス・ボズウェル:James Boswell (1740-1795)

 スコットランド・エジンバラ生まれの法律家。エジンバラ大学、グラスゴー大学で学び、グラスゴー大学ではアダム・スミスの倫理学の講義を直接聴いた。若い頃には諸国遊学の旅(当時流行のGrand Tour)に出てオランダのライデン大学などでも学んだ。のちにロンドンのインナーテンプル(法曹学院)で学び弁護士資格を取得。弁護士としては不遇であったようだが、1763年にジョンソンと出会い、彼に傾倒してその後、伝記文学の最高峰、教養人の必読の書と評される「ジョンソン伝」:The life of Samuel Johnsonを書いたことで英文学の世界に名を残した。イギリスにおける伝記文学、日記文学の大御所と称されている。のちにBoswellianと呼ばれるれるような記録魔ボズウェルの一言一句の書き留めが「ジョンソン伝」を産み、サミュエル・ジョンソンの名を後世に残したとも言われる。

James Boswell (1740-1795)


エドモンド・マローン:Edmond Malone (1741-1812)

 同時代人でジョンソンと繋がりがある人物に、以前のブログで紹介したエドモンド・マローンがいる。彼はアイルランド・ダブリン生まれで法律家。ダブリンのトリニティーカレッジで学び、のちにロンドンのインナーテンプルで学び弁護士資格を得ている。ボズウェルと同じ時期に在籍しているが二人がそこで出会ったという記録はない。ジョンソンと出会い、彼のシェークスピア作品集の編纂事業を引き継ぎマローン版シェークスピア全集(下記ブログ参照)を出したことで知られる。また一方、マローンはボズウェルの死後は「ジョンソン伝」を引き継ぎ、第6版まで改訂を行なっている。さらにマローンの死後、彼の「シェークスピア作品集」はボズウェルの子、ジェームス・ボズウェル2世が編纂を引き継ぎ、現在のマローン版シェークスピア全集の完成を見ている。古書を巡る旅(4)エドモンド・マローンの「シェークスピア全集」の謎 2020.8.18

Edmond Malone (1741-1822)


 このようにジョンソンとボズウェルとマローンは同時代を生き交遊関係を結んだ。ボズウェルとマローンは年齢も同じで、父ほど歳の離れたジョンソンを太陽とした、いわば「英文学の宇宙」を生み出していった。またボズウェルはスコットランド人、マローンはアイルランド人でともにロンドンのインナーテンプルで学んだ法律家だ。それぞれの父親が法律家や政治家であったこともあるが、この頃は爵位を有する上流階級やジェントリー(大地主階層)の家系でもない限り法律家になることが立身出世の道であったようだ。しかし、どちらもそのような「末は博士か大臣か」の立身出世で名をなすのではなく、むしろそうした出世街道からはドロップアウトして文学の道で後世に名を残す偉業を達成したことになる。すなわち共にジョンソンと出会って「教養人」としての目が開かされ、シェークスピア作品集やジョンソン伝の編纂者となったわけだ。時代はイギリスが1770年代の産業革命の絶頂期に至り、1776年のアメリカ植民地13州の独立。1779年のフランス革命による王政の終焉、やがては1804年ナポレオン帝政の前夜であった。政治や経済や社会が大きくパラダイム転換してゆく世紀変わり目の激動期であった。これまでの価値観や考え方が通用しなくなっていった時期だ。なんだか今の時代に生きる我々にとってはデジャヴだ。イギリスはアメリカ植民地を失ったとはいえインド支配を広げ、産業革命で世界の工場となり、世界に冠たる大英帝国繁栄への道を直走っていた。ちなみに日本では江戸時代中期。徳川吉宗から家重、家治、田沼意次、松平定信、天明の大飢饉、平賀源内、青木昆陽、賀茂馬淵、本居宣長、与謝蕪村が活躍した時代だ。ある意味で日本独特の江戸文化が醸し出されてパクス・ジャポニカを満喫していた。

 最高の伝記文学書として広く認知されているボズウェルの「ジョンソン伝」初版は1791年四折判2巻として出版された。出版物の大量印刷、大量販売の始まる直前の時代である。ボズウェルの出版に対する意気込みは並々ならぬものがあっただろう。この初版本は、現在は大英図書館に収蔵されるような稀覯書となっている。その後ボズウェル自身により改訂(第2版)が行われた。1795年のボズウェルの死後は、盟友のエドモンド・マローンにより第3版(1799年)から第6版(1811年)まで改訂が行われた。のちのジョンソン研究の定本となる1934〜50年に出版されたいわゆるHill・Powell 版(全6巻)は、ボズウェル亡き後、マローンにより改定された第3版を定本にしたものと言われる。

 今回入手した本書「The Life of Samuel Johnson」全4巻は1811年の第6版だ。エドモンド・マローンが改訂に携わった最後の版である。その第6版へのコメントで、インナーテンプルに在籍していたボズウェルの次男によって読み返されタイプミスや印刷の誤りが訂正された、また新しく発見された記事や手紙が加えられ、最も完全な版になったと述べている(前出の写真参照)。これが同時代のジョンソンのいわば愛弟子による最後の改訂版である。背は革装で、表紙/裏表紙はマーブルボード装丁の豪華な仕上がりの書籍である。構成はジョンソンの生涯における言葉や記事、資料を1735年から1756年まで時系列的に採録している。章立てや分類もないので読むのには辛抱がいる。年代でページにアクセスすることができるほか、53ページに及ぶ索引:Indexが巻末についている。ちなみにこのIndex、欧米の書籍には必ずと言って良いほど巻末についている。これの出来の良し悪しで本の値打ちが決まるとさえ言われるが、不思議なことに日本の本にはついていないことが多い。これは何故なのだろう?これもまた別に研究する必要がある。ともあれこの第6版が書誌学の専門家からみてどの程度画期的なものであるのか、希少価値があるのかよくはわからない。マローンによる改訂版であり、のちの復刻ファクシミリ版とは異なり、18世紀末から19世紀初頭の出版物へのこだわりと意気込みを強く感じる貴重なオリジナル本である。程度もかなり良い方だ。去年入手したマローンの「シェークスピア全集」全16巻、1816年版とともに我が家の貴重な洋古書コレクションであることは間違いない。古書の良いところは、ページを開くと、一瞬にしてその時代の空気が部屋に充満し、一気にその時代にワープできる点にある。少しカビ臭い匂い、古い活字、紙質の経年による劣化、シミ、たまの鉛筆での書き込み... 写真もない時代の銅板プリント等々、時の流れを閉じ込めたカプセルである。今回も神保町の北沢書店にお世話になった。いつものことだがこの書店の書庫はお宝の巣窟だ。イギリスへの旅行が躊躇われるこの時節、この東京神保町の「知のラビリンス」は「時空トラベラー」にとって願ってもないタイムトンネルの入り口である。この「時穴」を通り抜けて18世紀のロンドンへ旅をする。店主の時空旅への計らいにこの場を借りて感謝したい。


ドクタージョンソン語録

 先述のようにサミュエル・ジョンソンは、人々には親しみを込めて「ドクタージョンソン」と呼ばれ、後世に伝わる数多くの警句を残している。イギリス人の警句好き、比喩好き、皮肉、ブラックなユーモア、直接的な言い方ではなくて、持って回った言い方などはここにルーツがあると言って良いだろう。もっとも教養人ぶったスノッブな物言いにイラッとすることもあるが。かといってアメリカ人のあまりにもストレートで、ひねりのないジョークにもうんざりだが。上質なsense of humor, wittに富んだepigramは好きだ。いくつか私のツボにはまったジョンソン語録を紹介しよう。

「ロンドンに飽きたものは人生に飽きたものである。なぜならロンドンには人生で手に入る全てがあるからだ」when man is tired of London, he is tired of life; for there is in London all that life can afford.(サミュエル・ジョンソンといえばこれ。最も有名な言葉だ)

「老年期に思考が鈍くなってくるのは本人が悪いのだ。頭の使い方が足りないのだ」It is a man's own fault, it is from want of use, if his mind grows torpid in old age(仰せの通り。耳が痛い)

「幸せな人間が全くいないよりは少しの人間が不幸な方が良い。これが一般には”平等”という状態なのだ」it is better that some should be unhappy, than that none should be happy, which would be the case in general state of equality.(なんとに皮肉な...)

「あなたのいう平等主義者は上のものが自分たちのレベルまで下がってくることは望むが、下のものが上がってくることは望まない」your levellers wish to level down as far as themselves; but they cannot bear levelling up to themseives(この視点...)

「私はすべての人類を愛する。アメリカ人を除いて」I am willing to love all mankind, except an American(独立戦争の話をしてるとき「奴隷を使っている連中が、自由を!と叫んでいるんだ」と。)

「天国で召使いになるより地獄で君臨する方が良い」Better to reign in Hell, than serve in Heaven(鶏頭となるも牛後となるなかれ)

「地獄への道は善意で敷き詰められている」Hell is paved with good intentions(なるほど...)

「燕麦:イングランドでは馬に与える穀物、しかしスコットランドでは人間が食す」Oats: A grain in England is generally given to horses, but in Scotland supports the people(英語辞典)

これに対しスコットランド出身のボズウェルは「だからイングランドでは馬は優秀で、スコットランドでは人間が優秀なのだ」と反論した話は有名。この辺の本歌取り的なやり取りはセンスがあって好きだ。

 こうした多くの警句は英語辞典やこのボズウェルの「ジョンソン伝」に書き留められたものである。ボズウェルはジョンソンとの会話の中で、彼の発言を細大漏らさず一言一句を書とめ記録に残した。彼は「存在すること」は「記録されること」。すなわち「存在の証」として「文字で記述されること」と考えた。逆にいえば「文字に記録されていないものは存在しない」も同然、と考えた。なんだか「Googleで検索されないもの」は「この世に存在しないもの」と同義だ、というネットの覇者の言葉のルーツはここにあるのではと考えてしまう。ともあれボズウェルの記録がのちに多くのジョンソン語録を後世に伝えることになった。のちの人は、こうした記録魔、メモ魔を、尊敬の念を込めてBoswellianと呼ぶようになる。ジョンソン伝で頻繁に使われる「As Johnson said,」は、漢籍における「子曰く」に相当するイギリスの教養人の引用の常套句となっている。すなわち会話の中で「As Johnson said, ....」と始まり、正確に彼の言葉を引用して話をすることで教養ある人物とみなされ、仲間として受け入れられることが期待される。かつて海外の多くの外交官が「ジョンソン伝」を英語のテキストとしてを研修に取り入れたという。一方でこれが知ったかぶりのエセ教養人snobをも生み出すことにもなる。なるほど少しイギリスがわかってきた感じがする。が、なかなかイギリスも奥が深い。


ロンドンに現存するJohnson House
手前はジョンソンの愛猫Hodge the cat像
17 Gough Street, London, EC4A 3DE

(肖像、ジョンソンハウスの写真はWikipediaより引用。その他の写真はLeica SL2 + Apo Summicron 50/2で撮影)