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2022年10月29日土曜日

横浜旧外国人居留地探訪(2)「山手居留地」編 〜名建築家の歴史的建築を堪能する〜

 

べーリック・ホール
J.H.モーガン設計


山手居留地と洋館街

山下居留地が人口増で手狭になったため、新たに造成。主に住宅街となったのが「山手居留地」である。文字通り「山手」に造成された住宅街で緑豊かで眺望のきく素晴らしい環境だ。Bluff:崖・高台と呼んでいたようだ。各国の公使や領事公邸や軍隊駐屯地、病院が設けられたので、現在でもフランス山、イギリス山、アメリカ山、イタリア山などと呼ばれている。「港の見える丘公園」は、かつてのイギリス山、フランス山に設けられた展望公園である。

ここも関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が破壊されてしまった。震災後は外国人居住者がこの地を去り、旧山手居留地の面影、景観は失われていった。残念ながら幕末、明治の居留地時代の遺構は殆ど残っていない。現在の山手景観地区を形成している建物は、他から移築されたり、復元再建されたものが多く、山手オリジンでも関東大震災以降の復興住宅であり、大正、昭和初期の建築が中心である。神戸の北野地区の明治期の洋館の残存率の高さと異なるところである。さらに周辺環境に合わせた洋館風の新築建物や、観光用に改築された建物も見られる。しかし、山下居留地に比べると多くのエキゾチックな洋館が、緑濃い山手の通りに沿って並んでおり、幕末からの歴史がある外国人墓地の存在と相俟って「異国情緒豊かな」観光地としても人気のエリアとなっている。またカトリックや英国国教会系の教会、フェリス女学院や横浜雙葉学園などのミッションスクールの存在も、この界隈が独特の雰囲気を醸し出す要素となっているのだろう。ちなみに、日本の多くのミッションスクールの発祥の地は、東京築地居留地である。青山学院、立教女学院、明治学院、女子聖学院、関東学院などが築地居留地生まれである。雙葉学園ものちに横浜山手から東京築地を本拠地とした。

旧山手居留地のもう一つの特色は、日本の建築文化に大きな足跡を残した建築家、アントニン・レーモンドやJ.H.モーガンなどの建築作品が多く残されていることである。フランク・ロイド・ライトの助手として来日したレーモンドは、後にライトの影響から脱皮して「モダニズム建築」をリードしてゆく。日本でレーモンド設計事務所(現在も活動中)を立ち上げ、前川國男、吉村順二、ジョージ・ナカシマなどの著名な建築家を育てた。彼らの住宅作品をじっくり見学できることも旧山手居留地散策の楽しみである。もうひとり、日本人の建築家、朝香吉蔵の残した洋館も2棟残っている。震災復興住宅としての外国人向け住宅を手掛けた建築家であるが、彼に関するデータがネット検索しても出てこない。こんな素晴らしい洋館を設計した朝香吉蔵とはどのような人物であったのだろうか。

今回は早周りで外観だけを見て回った。またイタリア山地区には足を踏み入れていない。大抵の洋館は、館内が今流行りのカフェやレストランになっていて昭和老人がノコノコ中に入ってゆくのが憚られる雰囲気であった。神戸の北野異人館街や長崎のグラバー園ほど観光客向けの施設として用意されているいるわけではないが、歴史的建物に興味のあるものにとっては、どこか入るのが億劫な感じである。むしろ緑濃い山手本通りに沿って並ぶ洋館の佇まいをブラブラ見て回るほうがブラパチ「時空トラベラー」には心地よい。この日も風景画の同好会であろうか、中高年の一団が通りに面した広場で絵筆を奮っていた。街の景観を楽しむ。ウデはともかくこうした趣味は良いものだ。とはいえ建築史を学ぶべく内部見学ができるところも多いので、次回は建物内部をじっくり見学してみたい。


1)横浜市イギリス館

元英国領事公邸

1937年(昭和12年)現在地に建設

上海大英工部総署設計

鉄筋コンクリート造り2階建ての堂々たる建物。英国の在外公館の中では東アジア随一の規模を誇る。ジョージ6世の国王章が壁面に掲示されている。隣接するバラ園がイギリス庭園風でよく建物とマッチしている。1969年(昭和44年)横浜市が取得。公開施設となった。港の見える丘公園(イギリス山)にある。



玄関

門からの展望



バラは英国の国花

正面

庭園側 バラ園につながる

英国王ジョージ6世のエンブレム

「港の見える丘公園」展望台
イギリス山(イギリス軍兵舎跡)とフランス山(フランス領事館跡)の一部を整備してできた
「山手」がかなりの高台であることがわかる



2)フランス領事館跡

フランス山にあったフランス領事館跡。

1896年(明治29年)フランス人技師サルダ設計

レンガ造り2階建ての建物。のちに関東大震災で倒壊し再建されなかった。往時を偲ぶタイルの壁や階段が遺構として残されているが、むしろその廃墟ぶりが哀れに見える。幕末にはフランス軍の駐屯地や武器庫などがあった。山の上なので水道がなく井戸が掘られ、また揚水用の風車が用意されその遺構を今も見ることができる。

領事館跡全景
後ろに揚水用の風車(復元)が見える







「トマソン芸術」的な階段

フランス山の井戸の跡

創建当時のフランス領事館


3)山手111番館

米人両替商ラフィン邸

1926年(大正15年)

J.H.モーガン設計

鉄筋コンクリート造りスパニッシュスタイルの瀟洒な住宅。赤瓦屋根に白い壁、三連アーチを取り入れるなど、美しく凝った意匠で、さらに高低差を利用して2階と3階を視覚的に違和感なくデザインしている。庭園の花が美しく彩りを添えてるモーガンらしい邸宅作品。









館の一部はカフェになっている



噴水広場





4)山手十番館

1967年(昭和42年)に明治100年を記念して、山手十番館跡に新築された洋館

居留地由来の建物ではない。フレンチレストラン・カフェ、結婚式場





5)山手資料館

山手十番館の隣に、1909年に本牧に建てられた中澤邸の洋館部分を移築したもの。

こちらは横浜市指定歴史的建造物





6)横浜山手聖公会教会 クライストチャーチ

英国聖公会の教会として建てられた。

1863年 最初の礼拝施設が山下居留地に創建

1901年 山手235番に移転。ジョサイア・コンドル設計 赤レンガ・ヴィクトリア様式

1923年 関東大震災で被災、倒壊

1931年(昭和6年) 新聖堂再建 J.H.モーガン設計 ノルマン様式

1945年(昭和20年)戦災

1946年(昭和21年)修復・再建 英国聖公会から日本聖公会に移管

イングランドの街角でよく見かけるノルマン様式の教区教会(parish church)建築を彷彿とさせる建物だ。この風景は懐かしい。












7)山手234番館

1927年(昭和2年)

朝香吉蔵設計

関東大震災後の外国人向け震災復興共同住宅として日本人建築家の設計により建設された。山手地区の現在地に建てられた数少ない洋館遺構の一つ。表面の見事な列柱とテラスの組み合わせが洒落ている。玄関を中心に上下、左右に対称にアパートメントが配置されている。戦時中は英米人の収容施設の一つにもなったようだ。


このファサードのデザインは秀逸で日本人建築家作品と思えないセンス



隣家とのスペースの佇まいがヨーロッパの街角を彷彿とさせる



緑濃い山手通りに欠かせない建物だ


最近トント見なくなった公衆電話ボックス(自働電話!?)



8)カフェ「えのきてい」

1927年(昭和2年)朝香吉蔵設計の外国人向け住宅 

隣の山手234番館と同じ日本人の設計者の手になる震災復興建築。英国式のオリジナルの姿を留める。朝香吉蔵の作品はこの他にも2〜3棟あったようだ。





9)山手80番館遺跡

関東大震災で破壊された住宅跡。レンガ作りの基礎構造物やタイル張りの台所跡が残る住宅遺構。こうした山手オリジナルナルを残していることに拍手を贈りたい。





10)エリスマン邸

スイス出身シーベルへグナー商会支配人エリスマンの邸宅

1926年(大正15年)

日本に「モダニズム建築」の大きな影響を与えた建築家、アントニン・レイモンドの設計の住宅。山手127番にあったものであるが、マンション建設に伴い解体され、ここ元町公園内に移築された。白壁に緑のアクセントという木造モダニズム建築の代表的な作品の一つ。















11)ベーリック・ホール

英人貿易商B.R.べーリックの邸宅

1930年(昭和5年)

J.H.モーガン設計

モーガンらしいスパニッシュスタイル、鉄筋コンクリート造りの豪壮な邸宅。建築学的にも価値ある建物と評価されている。山手111番館(ラフィン邸)と同様、三連アーチの玄関を備えるなど、ファサードの意匠が凝っている。敷地面積は約600坪、山手地区最大規模の邸宅。戦後は所有者からカトリック・マリア会に寄贈され、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていた。2001年横浜市が取得し、敷地を元町公園として整備、建物も一般公開している。







三連アーチの玄関




元町公園門柱


12)外国人墓地

正門はJ.H.モーガンの設計。横浜で没したモーガン自身もここに眠っている。

内部は非公開(土日祝日を除く)。40カ国、4400人の外国人が眠る。元は真言宗増徳院の境内墓地であった。ペリー艦隊の事故死した水兵の埋葬が最初(1854年)で、後に幕府が1861年(文久元年)に外国人専用埋葬地として定めたことが始まりである。




J.H.モーガン設計の正門

英軍戦没者碑



ケルトの十字架


(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)



(参考1)横浜のミッションスクール

フェリス女学院

1870年 アメリカ改革派教会の宣教師M.E.ギダーにより、居留地39番館に創設。校名は米改革派教会のフェリス父子の名にちなむ。戦時中は一時「横浜山手学院」と改称。

横浜雙葉学園

1872年 フランス・カトリック系サンモール修道会(バレ神父の「幼きイエス会」)の修道女マザー・マチルド他4名が横浜上陸。1900年、横浜雙葉女学校の前身横浜紅蘭女学校を設立。1909年東京築地に雙葉高女開校。そのご、現在の四谷、田園調布、横浜、静岡、福岡の雙葉学園へと発展。



(参考2)横浜にゆかりの建築家

アントニン・レーモンド:Antonin Raymond

1888年オーストリア・ハンガリー帝国ボヘミア王国(現在のチェコ)生まれ

1919年(大正8年) フランク・ロイド・ライトの助手として来日

1976年米国ジョージア州ニューホープ没

フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル設計・建設に伴い来日

モダニズム建築の作品を数多く残す

聖路加病院、東京女子大本館他、聖心女子学院修道院、イタリア大使館日光別邸、アメリカ大使館旧館(現存せず)、リーダーズ・ダイジェスト東京支社、などなど。横浜山手には「エリスマン邸」がある

弟子に、「レーモンド設計事務所」の前川國男、吉村順二、ジョージ・ナカシマ等がいる。

第二次大戦中は米軍のカーチス・ルメイの東京大空襲に協力し、焼夷弾投下の日本家屋への効果実験を行う。日本の建築界に大きな功績があったが、こうしたことから日本人建築家からの批判がある。


アントニン・レーモンド


J.H.モーガン:Jay Hill Morgan

1873年 アメリカ・ニューヨーク州バッファロー生まれ

1920年(大正9年)来日

1937年(昭和12年) 横浜で死去

アメリカの大手建築設計会社のメンバーとして来日。

日本での作品:丸ビル、郵船ビル、香港上海銀行横浜支店ビル、チャータード銀行神戸支店ビル、東北学院、関東学院、立教学院の校舎など

横浜での作品:べーリック・ホール、山手111番館ラフィン邸、横浜山手聖公会教会、横浜外国人墓地正門、横浜競馬場正門、ホテル・ニューグランド増築など

藤沢に自宅「モーガン邸」1931年(昭和6年)スパニッシュスタイル(放火と思しき火事で焼失)

J.H.モーガン

藤沢にあったモーガン邸(焼失)