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2021年12月28日火曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第二章「カピタンの世紀」①  〜阿蘭陀人の日本見聞録〜


ファン・ノールト艦隊が東インド海域で出会った日本のサムライ


ウィリアム・アダムス(三浦按針)像



ファースト・コンタクト第二章「カピタンの世紀」とは

時代は17世紀に入る。1600年のオランダ船リーフデ号の豊後漂着が、世紀の転換を象徴するように、ファースト・コンタクト第二章では、ポルトガル人、スペイン人(南蛮人)に加えてオランダ人やイギリス人(紅毛人)が日本にやってくるようになる。そして、キリシタン禁教令とバテレン追放令など一連の徳川幕府の政策により、南蛮人の宣教師(バテレン)が追放されて、紅毛人の「東インド会社」(商館長カピタン)が主役の時代になっていった。「バテレンの世紀」から「カピタンの世紀」への「遷移」が始まったわけである。今回の主役は、ポルトガルやスペイン人ででも、キリスト教の宣教師でもなく、プロテスタント国オランダ人、イギリス人。冒険的航海者や、商業的な交易を目指してやって来た株式会社「東インド会社」とその出先である商館である。そういう意味で日欧交流関係史の主役が「バテレン」:宣教師から「カピタン」:艦長/商館長へと交代してゆく。ただ、その「遷移」は、「フェーズ転換」でも「パラダイムシフト」でもなく、実はオーバーラップしながらの漸変的フェードイン、フェードアウトであった。オランダ人、イギリス人と日本の接点は、やはり先行したポルトガル人、スペイン人と日本の邂逅、その交流の中に求められる。本国でのカトリックとプロテスタントの争い、オールドパワーからニューパワーへのシフト、そのアジアにおける出現による「遷移」であったのだが、それは新世紀到来と共に「フェーズ転換」したわけではない。オランダやイギリスの東洋進出のレールはポルトガルとスペインという先行者によって引かれていたのである。特に、長くスペイン王家の植民地の地位に甘んじていたオランダは、独立を果たし、勇躍世界へ歩を進めたが、それはスペイン帝国のレガシーの上に果たされた。


「カピタンの世紀」の主役とその著作、記録の出版

前回の「バテレンの世紀」とは異なり、「カピタンの世紀」の登場人物は、ポルトガルやスペインの宣教師や聖職者(バテレン)が影を潜め、このようにオランダやイギリスの冒険的航海者(カピタン)や東インド会社の商館長(カピタン)が主役として登場してくるのだが、実はそれだけでなく、それらの活動記録を集めて編纂し出版する出版者や、こうした記録に基づいて物語に仕立てる職業的な作家なども登場する。これは17世紀に入るとヨーロッパで、多くの旅行記や冒険談、異国の地理風土を知りたいという読者の熱望が湧き起こり、多くの書籍の刊行を促したことによる。こうした一種の旅行記出版ブームがあったこともこの時代の特色である。それだけに、イエズス会や東インド会社の書庫に収められた記録や日記や手紙などの原資料に加えて、人に読ませることを目的とした出版物も多く、歴史研究の観点からは一次史料、二次史料ともに豊富であると言える。それをどのように批判的に解読するかが文献史学的には課題となるのだが、とりあえず「時空の旅人」である我々にとっては、面白い本を選んで読んで見たい衝動に駆られる。なるべく原典に遡ってその時代の空気を読むそのワクワク感は、知識と欲望の空間的広がりの中で、「未知との遭遇」を求めた当時のヨーロッパの読者の心境と相通じるものがある。現代の我々には、そこに現在/過去という時間距離が加わる。まさに「時空トラベル」である。

ところで、この時代の登場人物といえば1600年に豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海士で、のちに徳川家康の外交顧問として重用された「青い目のサムライ」、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を忘れるわけにはいかないだろう。ちょうど世紀の変わり目という格好のタイミングに登場した。ところが、今回取り上げたオランダ人の記録や書籍を検分してみると、リーフデ号については度々言及されるが、ウィリアム・アダムスの名があまり登場しないことに気づく。我々日本人とって彼は歴史上の重要人物であり、日欧交流史の主役級の人物だと見做しているのだが、オランダ人の目から見るとどうも脇役(ないしはただの生き残り船員の一人)としか見られていない印象だ。イギリスにおいてさえ、彼の生まれ帰郷ケント州ギリンガムには小さな記念碑こそあれ、ほとんど人が彼の事績を知らない。せいぜいエキゾチックでロマンチックな小説や映画の主人公のモデルとしての認知度しかない。これはどうしたことであろうか。家康の外交政策に大きな影響を与えたことは特筆すべきことであり、彼の日欧関係の歴史に果たした役割については誰も疑いようのないものだが、日本側から見るだけではなく、イギリスやオランダ側からの視点で評価してみる必要もありそうだ。これはまた別途考察してみたい。

今回は、オランダ人のリンスホーテン、ファン・ノールト、コメリン、カロン、そしてモンターヌスを取り上げた。どれも日本人には馴染みの薄い名前ばかりだが、彼らは17世紀「カピタンの世紀」に日本に強い関心を寄せて、ロッテルダム、アムステルダムから勇躍出帆し、冒険航海を生き抜き、日本にたどり着き、そこで生き、あるいは日本の資料をかき集めて研究し編纂し、ヨーロッパに発信した人物ばかりだ。その日本との邂逅の記録だ。彼らの著作や記録を読めば、「彷徨えるオランダ人」:Flying Dutchmanの、怨念にも似た好奇心と欲望、そして未知の世界との邂逅によって湧き起こる驚きと感動を強烈に感じることだろう。

日欧交流史という領域の研究では国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス教授の著作が大いに役に立った。特に参考にさせていただいたのは「十七世紀のオランダ人が見た日本」臨川書店、「ウィリアム.アダムス」筑摩新書、この2冊である。また日文研のHPに掲載の日欧交流史書籍/史料データベースや教授の講演集で勉強させていただいた。また玉川大学の森良和教授の著作「リーフデ号の人びとー忘れ去られた船員たちー」は、ウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤンヨーステン(八重洲)しか教科書で習わなかった我々に、リーフデ号に関わるそのほかの人物の存在と活躍、その時代背景を知る機会を与えていただいた。


 (1)ヤン・ホイヘン・ファン・リンスホーテン:Jean Huygen von Linschoten(1563〜1611年)

ヤン・ホイヘン・ファン・リンスホーテン像

「東方旅行記」:Itinerario1596年、「ポルトガル人東方旅行記」1595年、「アフリカ/アメリカ地誌」1596年の三部作。 

1596年初版。1598年英訳版、1599年ラテン語版、フランス語版、オランダ語版再版1604〜1644年。


リンスホーテン「東方案内記」大航海時代叢書 岩波書店

初版の表紙

インド地図

この三部作は、ポルトガル人のトメ・ピレスの「東方諸国記」(1515年刊行)以来、初めてオランダ人によって表された体系的なインド/アジア案内記である。ヨーロッパ各国で人気の旅行記として読まれた。リーフデ号が参加したマヒュー艦隊、ファン・ノールト艦隊などのオランダの東洋進出に際して、ほとんど唯一のアジアに関する情報源となった書籍である。またオランダだけではなく、各国で翻訳され、イギリスにとってもアジアへ向かう航海の指針となった。日本との関係で特筆すべきは、オランダ人による日本に関する記述の初出であるということ。

リンスホーテンは、ハプスブルグ朝スペインの植民地支配下にあったオランダ・ハーレムで、1563年にカトリック教徒の家に生まれた。当時オランダはスペインと独立戦争中であったが、カトリック教徒のオランダ人には自由な商業活動が許され、彼はスペインのセビリアでスペイン語を学んだのちに、1580年にスペインに併合されたポルトガルのリスボンに移り、1583年にポルトガルのインド拠点ゴアに移住した。ここでの滞在期間中、多くのポルトガル人や彼らに雇われたオランダ人からアジア全体についての知識を得ることができた。1592年にオランダ・エンクホーゼンに戻り、そこで友人たちの勧めで、ポルトガルの東洋進出状況を詳細に報告した最初の記録、「東方案内記」(1596年)、「ポルトガル人東方旅行記」(1595年)、「アフリカ・アメリカ地誌」(1596年)の三部作を書き上げ、アムステルダムで出版された。当時、ポルトガルの東航路ルートの実態やインド/東インドにおける交易、植民活動の実態は一切情報が非公開で、いわば国家機密であった。とくにポルトガル商館記録は門外不出となっていた。そこで彼がゴアで見聞したポルトガルの活動状況や、人脈を通じて得られたイエズス会宣教師、ポルトガル商人の記録、地図をオランダ帰国後にまとめたものである。これはスペインに植民地支配されていたオランダや、スペインの脅威にさらされていた弱小国イギリスにとっては垂涎の書であった。やがて、この情報をもとにオランダはポルトガルが拓いた東インド/アジア市場に進出することとなる。このようにポルトガル海上帝国は、オランダ海上帝国の揺籃であった。

日本に関する記述は、第26章で「ヤパン島について」として独立の章を設けている。ゴアで出会ったオランダ人ディルク・ヘリツゾーン(長崎のポルトガル商館に雇われていた)の長崎滞在体験談、イエズス会の歴史家マッフェイの著した「インド史」を参照したと言われている。このマッフェイの「インド史」も、もとはイエズス会宣教師ヴァリニャーノやフロイスの日本からの報告書や手紙の記述を利用している。リンスホーテン自身も日本や中国には行っていないし、日本人と交流したこともない。しかし、ゴア滞在中にで日本から来た天正遣欧使節(1582〜90)と出会ったことを記述している。このエピソードは日本についての情報としてだけでなく、イエズス会が自分達の日本における権益と成果をアピールするために日本人を利用している、という批判として彼の考えを展開している。当時、日本における布教活動はイエズス会が独占しており、実績も上げていたのでローマ教皇もそれを認めていた。リンスホーテンのローマ教皇庁批判は、こうした他教団、修道会からの批判が高まっていたことの反映であろう。ゴアからの帰国後、リンスホーテンはプロテスタントへ改宗している。

リンスホーテンがゴアで出会った、ディルク・ヘリツゾーンも、先述のようにポルトガル船に雇われたオランダ人である。アジアに24年滞在し、そのうち1585〜1586年までは2度日本の長崎で過ごしたとされている。ルーカス・ヤンス・ワーへナールの「航海宝鑑」1592年刊(ヨーロッパ各地への航路解説書。付録に中国、日本などのアジア情報が記載されている)にその記録が掲載されている。ポルトガルの東洋進出にあたっては慢性的な人手不足があり、またオランダはヨーロッパにおける商工業、物流、海運で栄えた地域であったことから、度々オランダ人が雇われていた。このようにリーフデ号以前にも、ポルトガル人と共にオランダ人が日本に行っていたことになる。また彼は中国、日本の市場としての価値を帰国後も説いており、リンスホーテンも彼の話を聞いて大きな影響を受けた。ヘリツゾーンはその後、マヒュー艦隊のリーフデ号に乗船して3度目の日本行きに参加する、しかし、航海途中で司令官マヒューの病死があり、艦隊指揮系統の交代があり、ヘリツゾーンは同じ艦隊のボートスハップ号船長となる。しかし、航海途中でスペインの捕虜となり日本には辿り着けなかった。なかなか数奇な運命に翻弄されたものだが、なんと逞しい人生なのか!

「東方案内記」における日本についての記述をまとめると、「日本は寒い国、食事は米。家畜の肉を食べない。魚を食う。豪華な服装をしている。銀山がありポルトガル人がその銀で中国と絹や陶磁器などの交易をしている。刀剣や茶器、書画などの高品質な工芸品が驚くほど多数存在している。」「日本人は頭が良くて学習能力が高い。一般民衆も優雅で礼儀正しい。武器を上手に扱う。切腹という名誉の死刑がある。」「日本人はもともと中国人であった。中国王朝への反逆者一族が島流しにあったのが日本人となった。そのため日本人と中国人は憎み合うようになった。習慣も全く反対である。」これらはメンドーサの「シナ大王国誌」を典拠としている。また日本人の服装や習慣についてはマッフェイの「インド史」から引用しているが、これらはフロイスやヴァリニャーノの報告書や手紙の記述を転用している。このように多くの伝聞による不確かな「日本観」が披瀝されているが、「日本は他のインド、東インド諸国と異なり寒い国だ」という記述が、のちのマヒュー船隊が日本でヨーロッパ産の毛織物を売ろうと企画した根拠になっていると考えられている。彼のそうした観察、評価の適否はともかく、アジア進出の新しいターゲットとしての日本を取り上げている点は重要である。ヘリツゾーンの日本での見聞が影響を与えたのであろう。また、この章ではヤパン島(日本)周辺情報として、「コレア島」、「レキオ島」についても言及している。「コレア」(現在の朝鮮半島)については、その存在は認識されていたものの当時まったく情報がなく、ここが島であるのか、半島であるのかも分かっていなかった。またレキオ(琉球)については、中国との往来交易があり、中国人も住んでいる、として海洋国家として存在感を示していた様子が描かれている。ただし、台湾を「大レキオ島」、沖縄を「小レキオ島」と認識している。

オランダは当初、モルッカ諸島の香料貿易をポルトガルから奪い取り独占することが目的で、アジア進出を企図したが、やがてポルトガル人がやっている、中国、日本との貿易(絹、陶磁器、工芸品など高付加価値な財物)が大きな利益を上げることに気づき、東インドから北上して中国、日本を目指すようになる。そういう意味でもリンスホーテンの「東方案内記」は時代の画期をなす著作である。彼の名は、イギリスのハクルート協会に倣い設立された、オランダ・リンスホーテン協会にその名を残しており、今でもオランダの海上帝国開拓者の先駆者の一人として顕彰されている。


(2)オリフィール・ファン・ノールト:Olivier van Noort( ?  )


オリフィール・ファン・ノールト肖像

「世界一周紀行」:Beschryvinghe vande om den geheelen werelt cloot, Rotterdam

1601年初版。1602年第4版最終版。


初版本の表紙
ロッテルダム出港のシーン

ボルネオ沖で日本の商船に出会い拿捕しようとした
しかし金目のものがないので諦め、乗船して情報交換に努めた。
オランダ船と日本船の交流の第一歩である。

ノールト隊が出会った日本人。
サムライであろう。
鉄砲や刀で武装し、優雅な衣装に髷を結う気高い姿との印象を記している

ファン・ノールト艦隊は、オランダで初めて世界一周に成功した艦隊として歴史に記憶されている。またオランダ艦隊として初めて航海中に日本船と遭遇し、直接に日本人と接触、交流しその記録を残した。本書は帰国後にロッテルダムで出版された。

前出のように、スペインからの独立を果たしたオランダは、リンスホーテンの「東方旅行記」に刺激され、またこれをアジアへのガイドブックとして、多くのオランダ艦隊が次々とアジアへ向けて出港していった。この間の様子は、後述のコメリンの「東インド会社の起源と発展」に詳しいが、その船団の中に、1598年、ロッテルダムから出港した二つの艦隊があった。一つはビーテル・フル・ハーフェン会社によって派遣されたマヒューとコルデス率いる5隻の艦隊。これがあの日本に到達したリーフデ号が所属する艦隊である。もう一つは別会社によって組織されたファン・ノールト率いる4隻の艦隊。マヒュー艦隊の1ヶ月遅れでロッテルダムを出港した。いずれも西回りルートでマゼラン海峡を通過して東インド、中国、日本を目指した。当時、イギリスのドレイク艦隊、キャベンディッシュ艦隊が相次いで世界一周航海に成功しており、これに大いに刺激されたものだ。イギリス艦隊は、南米やカリブ海などのスペイン領、ポルトガル領や、海上のスペイン船、ポルトガル船を襲撃して財物を奪い、それを東インド・モルッカ諸島で香料と交換して利益を上げるという「ビジネスモデル」(私掠船モデル)で成功し莫大な利益を上げた。要するにスペイン、ポルトガルの船を襲って積荷を略奪し、それを売るという海賊商売である。もともと海運や流通に強いオランダもこの「ビジネスモデル」を真似て艦隊を出そうという話になったわけである。航海士には経験あるイギリス人(そう!リーフデ号のウィリアム・アダムスもイギリス人航海士)が多く雇われた。しかし、いざ実践してみると、マヒュー/コルデス艦隊は、ベルデ岬付近を航行中に司令官のマヒューが熱病で病死し、コルデス指揮下で指揮系統の変更を余儀なくされ、またマゼラン海峡付近で、猛烈な嵐に見舞われ途中で船団はバラバラになり、スペインやポルトガルに拿捕されたり、旗艦へローフ号は難破してかろうじてロッテルダムに引き返したり、ホープ号のように太平洋で行方不明になるなど、当初の目的を果たすどころか悲惨な結果をもたらす航海であった。しかし、その一隻リーフデ号だけがかろうじて日本の豊後に到着(漂着)した。オランダ人が初めて日本に到達した歴史的な出来事となり、やがて平戸、長崎を拠点とした商圏を開くきっかけとなった。一方のノールト艦隊は、多くの人員や船を失いながら、かろうじてロッテルダムに帰着し、オランダ艦隊として初めて世界一周を果たした。しかし、航海から上がる利益という点ではなんの成果を上げることもできなかった。このように両艦隊共に当初の利益目的(ビジネスモデル)は達成できなかったものの、その冒険航海は、オランダの歴史の一ページを書き加える成果を残すことになった。こうした経験から、オランダでは各社が都市ごとにそれぞれに艦隊を派遣して競争しても無駄が多く、事業として成果が期待できないことに気づき、1602年、紆余曲折を経た上で、各都市ごとにあった関連各社を統合した「連合東インド会社」の設立へと繋がってゆく。これがは初めての株式会社だと言われている。ちなみに。オランダはスペインからの独立後は、絶対君主を持たず、都市ブルジョアジーたる商工業者が、自治権を持った組合を作り、自衛組織をもち、交易活動を行なった。こうした中から共同出資会社たる株式会社が生まれた。ちなみに、オランダを代表する画家、レンブラントの絵画には、王侯貴族の肖像画は登場せず、こうした都市の商工業者組合の集団ポートレート(「夜警」に代表される)が主流となる。これが当時のオランダの政治体制、社会構造を象徴している。ライデン博物館(旧東インド会社の建物が現存!)には東インド会社のメンバーの集合写真(ポートレート)が飾られている。これ以降、オランダのアジア進出は、組織的になり本格化してゆく。

また、このノールト艦隊の「世界一周紀行」は、オランダ人が初めて日本人と直接遭遇し、それを記録していることでも重要である。艦隊はマゼラン海峡経由で太平洋に出て、1600年にボルネオ沖で日本のジャンク船(ポルトガル人が船長で、航海士は中国人、乗組員は日本人)と遭遇し、これを拿捕(要するに海賊行為)しようとしたが、めぼしい財物がないので、相手船に乗り込みお互いに情報交換して別れた。さらに翌年1601年に再び日本船と遭遇し、そこでマヒュー艦隊のリーフデ号が去年(1600年)日本の豊後に漂着し、数人の乗組員が日本で生存していることを知る。1603年にはノールト艦隊はロッテルダムに帰り着き、本国にリーフデ号の日本到達を伝えるという歴史的役割を果たした。こののち1609年になってオランダは日本に将軍宛の親書を携えた艦隊を派遣し正式に交易を開始、平戸に商館を開く。リーフデ号漂着から9年、ノールト艦隊世界一周から6年後のことであった。それにしてもこの頃は、日本の船や日本人がアジアの海で大勢活躍していたことを物語るエピソードではないか。スペイン船がフィリピン近海でイギリスのキャベンディッシュ艦隊に拿捕された時、そのスペイン船の乗組員であった日本人がそのままイギリスまで行き、プリマスに上陸した記録もある(次回のブログで紹介する)。イギリスに行った初めての日本人である。このほか日本のサムライがマラッカやボルネオ海域でオランダの傭兵として戦闘に参加して活躍した記録もある。そういう日本人の海外での動向の記録がオランダや、イギリスの文書には残っているが、日本側の記録が残っていないことにも驚きを感じる。いずれにしても日本人が島国に閉じこもっているイメージは「鎖国時代」以降に形成されたものである。日本人は閉鎖的な「島国根性の民」ではなく、海外に羽ばたく「海洋民族」であった。


(3)イザーク・コメリン:Isaac Commeline (1598〜1696年)


「東インド会社の起源と発展」:Begin Ende Voortgangh van de Oost Indische Compagnie 全4巻

1644初版〜1646年三版


表紙
初版本を正確に復元したファクシミリ版

オランダ連合東インド会社社章



アジアの女神の足元で、ポルトガル人と争う姿(左)と魅力的な財物に群がるオランダ人(右)が描かれている

編者のコメリンはアムステルダムの著述家であり出版事業者である。本書は、オランダ人の数々の航海を年代順に編纂したアジア航海記録集とオランダ東インド会社の内部資料に基づく活動記録集である。前者はすでに刊行されていたものを含むが、後者は、非公開であったはずのオランダ東インド会社の内部文書が含まれている。いわば「オランダ東インド会社40周年記念誌」的な記録集となっている。しかし、本書の巻頭にこの本の成立に関する事情を説明した記述はない。また東インド会社が正式に出版したものではないし、本書刊行にあたってそのような承認や協賛をした記述もない。いわばコメリンという出版を生業とする人物の企画出版物と見做されている。印刷は地図制作でも著名なヤン・ヤンソニウス。注目すべきは日本に関する記録が豊富であること。特にヘンドリック・ナーゲルの「東インド紀行」で引用されている東インド会社内部資料や、初代平戸商館長スペックスの駿府参府記録や、リーフデ号乗組員の日本での活動記録、平戸商館長カロンの「日本大王国誌」始め、内部文書引用に基づく詳細でかつ質の高い日本関連記事が収録されている。

第1巻は北回り航路(北極航路)探検記録。ヘンリー・ハドソンによる探検航海記(ハドソン湾発見など)。後半は東周りで初めてアジアに至った(バンタムに到達)コルネーリス・デ・ハウトマン艦隊(1595年)の旅行記ほか。1598年のヤコブ・ファン・ネック艦隊のアジア遠征(莫大な利益で成功)記録が掲載されている。オランダでは1595〜1602年の間で65隻がアジアへ向かい、このわずか5〜6年でアジア香辛料貿易で大きなシェアーを占めるようになった。

第2巻には、西回りマゼラン海峡経由で東洋へ向かう各艦隊の航海記録。中国、日本が新たなターゲットとなり、リーフデ号が参加したマフー艦隊の航海、ファン・ノールト船隊の世界一周航海記録「世界一周紀行」(1598)などが掲載されている。先述のノールト艦隊の日本船との遭遇記録がある。

第3巻はハーゲン艦隊、フェルフーフ艦隊の日本航海記録、1602年に連合東インド会社が設立され、日本とも1609年に正式国交が成立。初代平戸商館長ヤン・スペックスの駿府参府日記1611年、リーフデ号乗組員クワッケルナック、サントフォールトの日本での活動に関する記録が収録されている(日本人に馴染みのウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンの名が見当たらないのは何故なのか?)。

第4巻には日本向けの荷物の記録や、詳細な取引記録が掲載されている。出典は東インド会社の社内記録である。部外秘のはずの社内記録がどのようにして公開されることになったのかは不明であるが興味深い資料である。最後にはヘンドリック・ハーゲナールの「東インド紀行」が掲載されている。ハーゲナールは1634年から3回日本に渡り平戸に一年以上滞在し、江戸参府にも同行している。その付属資料として、5点が収納されている。その一つが平戸オランダ商館長フランソワーズ・カロンの「日本大王国誌」の元となったバタビア商務総監向け日本報告書(1645年)。ガイスベルトゾーンの「日本殉教史」、クラーメルの後水尾天皇行幸見聞記などが掲載されている。このように、第4巻は東インド会社の記録をもとに日本に関する重要で質の高い情報が記載されている。


(4)フランソワーズ・カロン:Francois Caron(1600〜1673)


「日本大王国史」:Recht Beschryvinge van het machtigh koninghrijck van Ippan.:1661年ハーグで刊行。

A True Description of the Mighty Kingdom of Japan 1671年英訳版。続いてドイツ語版、スウェーデン語版、フランス語版が出された。


ハーグ版の表紙
「ハラキリ」シーンが表紙となっている

バタビア商務総監フィリップ・ルーカスゾーン肖像
平戸商館長カロンから彼への社内報告書がもとになっている。

英訳板表紙

イギリスの東西交流研究者 C.ボクサーが編纂した復刻版1935年Argonaut Press刊

収納されている日本地図

将軍謁見の図


これは先述の1645年初版コメリンの「東インド会社...」に掲載されていたハーゲナールの報告書の付属資料として掲載されたカロンの日本報告書の刊行版である。オリジナルは、平戸商館長カロンからバタビアの商務総監フィリップ・ルーカスゾーン宛の報告書という社内文書であったもの。「日本大王国誌」として1648年アムステルダムで出版。1649、1652年に再版されている。またカロンがオランダに戻った後に改めてハーグで(1661,1662年まで三版)再版された。これはカロンがアムステルダム版にあるハーゲナールの注釈や訂正を嫌い、それを批判する意味で注釈/訂正を削除したものを改めて出版したものと研究者は指摘する。1727年にケンペルの「日本誌」が出るまでの70年の間、日本に関する基本書となった。ケンペルもカロンを盛んに引用している。

カロンはユニークな経歴の持ち主。彼はフランスのユグノー教徒であったがオランダに亡命。オランダ東インド会社に30年以上勤務。最初は東インド会社の船に料理助手として乗船。1619年、オランダ平戸商館に配属された。以来、1641年まで20年以上日本に滞在、日本人の妻との間に6人の子供をもうけた。日本語が堪能で、通訳などを担当し商務員となった。商館長の江戸参府に数次に渡って同行するなど日本事情に精通したカロンは、1638年に平戸商館長に昇進。幕府との交渉で活躍した。離日後は1647年にバタビア商務総監にまで上り詰めた人物。帰国後はフランス東インド会社長官(1667〜1673年)となる。このように一介の料理人助手から実力でのしあがった叩き上げの人物で、20年以上の長きに渡って日本に滞在し、商館長として幕府との交渉、数次の江戸参府、日本人の妻や親族との親交を通じて、日本の社会や文化に精通し、日本を内側から観察した。その記述は詳細でリアリティーに満ちている。

カロンは、台湾交易で日本船とオランダ船が対立するというタイオワン事件で一時オランダ商館閉鎖の危機という、苦難の時代を乗り切った。また第三代将軍家光の時代、日蘭貿易摩擦問題が起き、オランダの貿易独占を警戒した家光は、平戸オランダ商館のカピタンの任期を一年とし、また平戸商館、倉庫の破却と、長崎への商館移転(ポルトガル人を追い出した後の出島に移転)を命じた。いわゆる、一連の「鎖国政策」の一環である。この時オランダ東インド会社は、一時、日本撤退も検討したが、カロンはこれに反対し、幕府の突然の政策変更対して冷静に対応し、命令に従うことで家光との摩擦を避けた。その結果幕末まで、オランダが長崎を拠点に独占的に日本との交易を担うことになり、一方で幕府にとっては唯一の西欧社会との窓口をキープできた。


(5)アーノルダス・モンターヌス:Arnoldus Montanus(1625〜1683)

オランダ・アムステルダム生まれ。ライデン大学で神学を修めプロテスタントの牧師となった(カルバン派)、世界の歴史、伝記、地理などの著述家にして、当時のベストセラー作家。

モンターヌスの「東インド会社遣日使節紀行」:Gedenkwaerdige gesantschappen der Oost-Indisch maestschappy in 't Vereenigde Nederkland, aan d kaisaren van Japanm Amasterdam :  1669年アムステルダム刊。


原著、翻訳版共に入手できていないため、日文研の古書アーカイブスから図版と解説を借用。


表紙




モンターヌスの本書は、コメリンの出版から20余年後に出された大部の日本紹介の書籍である。17世紀後半になると「鎖国」政策の影響が現れ始め、日本関係の新しい情報が乏しくなる。カロンの1661年ロッテルダム再版に続いて出てきたのが、このモンターヌスの「東インド会社遣日使節紀行」1669年アムステルダム刊である。しかし、これまでの日本関係書とは異なる性格の本である。これまでは、実際にアジアで、日本で、日本人と出会い、日本に滞在し、仕事をし、生活しそこから得られた情報を日記や報告書として記録にしたものであった。いわば布教活動や商業活動などの仕事上の記録や報告書、手紙などを編纂したものであって、出版を目的としたものではなかった(リンスホーテン「東方案内記」出版を除く)。執筆者も著述を専門とした作家ではなかった。しかし、このモンターヌスはカルバン派の聖職者ではあるが、同時に職業作家であり、当時のベストセラー作家であった。日本に一度も行ったことも、日本人に会ったこともない。しかし、日本からの最新情報が入りにくくなっていた時期に、網羅的に日本を扱った初めての書籍である。本書の企画は地理書の出版社として知られるヤーコブ・メウルスが日本に関する本の執筆をモンターヌスに依頼したもの。メウルスは1665年に「東インド会社遣清使節紀行」(「中国誌」)を刊行し、ベストセラーとなっていたので、その第二弾を狙ったようである。内容は徳川将軍へ派遣された数次のオランダの使節団の旅行記(商館長の江戸参府日記)を基にした日本紀行である。これらはオランダ東インド会社の機密文書であったはずなので、どうやって詳細を知り得たのか疑問に思うところである。公式記録である商館長の日記や報告書ではなく、側近の私的な日記や写本を集めて利用したのであろうと言われている。また過去のイエズス会の書簡集、報告書類や、コメリン、マッフェイ、リンスホーテン、カロン、からも多くを引用している。これらを旅行記仕立てで編集し、モンターヌス独特のその場にいるような臨場感溢れる描写が読者を惹きつけた。またこの本には100点近くの図版が挿入されている。これらの図版は、来日したことのない画家や版画家の手になるもので、日本を実際に見聞して写実的に描いたものではない。今見ると現実とはかけ離れた奇妙で、エキゾチックな姿に描かれている。しかし全くの想像で描かれたものとも言い切れず、不思議な写実性も備えているところが驚きである。平戸、長崎、京都や大阪、江戸の都市図や地理についても具体的で詳細な描写である。おそらく商館員のスケッチなどを参照した上で想像を膨らませて描いたものと考えられている。こうしたモンターヌスの構想力、想像力、描写力によって人気のベストセラー旅行記となり、ドイツ語、フランス語、英語に翻訳され、日本がヨーロッパ人にとってとっても身近な存在に感じられるようになっていった。一方で、現代の日本人にとっては、当時の「ヨーロッパ人が見た日本」という、ユニークで物珍しい印象の稀覯書として珍重されることななる。しかしこれ以降のまとまった日本関係情報は、ケンペルの「日本誌」1727年の英文版出版まで途切れてしまう

2021年10月26日「古書をめぐる旅(16)ケンペル「日本誌」


締めくくり

今回は、オランダ人の目で見た日本を紹介した。原資料はゴシック体(ブラックレター)のオランダ語であるので解読に苦労した。またオランダ語自体も古い時代のもので、現代のGoogle翻訳では訳出不能な記述が多いが、幾分かは推測可能である。しかし英語版や日本語訳されたものを参照しながら内容を推理するのも楽しかった。また、国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス教授の著作「十七世紀のオランダ人が見た日本」、日文研ウェッブサイト、古書アーカイヴスが非常に有益で役立った。もちろんもう一方の紅毛人であるイギリス人が見た日本についても紹介せねばなるまい。しかし、これはまた稿をあらためて取り組みたい。まだまだ日欧交流史は、足を踏み入れれば入れるほどに、終わりのない道のりが続く「底なしの沼」なのである。ボチボチやりたい。参考までに私にとって興味深い「カピタンの世紀」におけるイギリス人の「日本見聞録」関連を数点、下記にあげておく。次回以降、彼らの「日本見聞録」を読み進めてみたい。今度は英語なので少しはマシな読み進めができるのではないか。


ウィリアム・アダムス:William Adams

言わずと知れたオランダ船リーフデ号で豊後に漂着したイギリス人の航海士。のちに家康の外交顧問として重用されて「三浦按針」として生きた「青い目のサムライ」である。

彼に関する過去のブログは:

2020年9月5日「ウィリアム・アダムスの江戸屋敷を探す」

2009年12月28日「ウィリアム・アダムスの生きた時代」

「アダムス11通の手紙」彼が残した書簡集

「ウィル・アダムス伝」:Will Adams the First Englishman in Japan(1861年William Dalton著)伝記小説

ジョン・セーリス:John Saris

1613年にイングランド国王ジェームス一世の親書を携えてクローブ号で日本にやってきたイギリス人。平戸に初めてのイギリス商館を開く(リチャード・コックス商館長)。アダムスとの交流と確執の物語を持つ人物。

「日本航海記」:John Saris's Voyage to Japan(1900年アーネスト・サトウ編、ハクルート協会叢書)

ジョナサン・スウィフト:Johnasan Swift

「ガリバー旅行記」:Gulliver's Travels Several Remote Nations of the World 1726年初版

世界中で愛読されている風刺小説。1699〜1715年までの架空の国々への旅行記。1709年には日本に滞在、将軍に会ったとしている(唯一現実に存在した国)。

2021年12月12日日曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第一章「バテレンの世紀」 〜ポルトガル人/スペイン人の日本見聞録〜


フランシスコ・ザビエル
日本で描かれた肖像画
大正9年に大阪府茨木市の民家で発見された


ポルトガル船入港




「バテレンの世紀」から「カピタンの世紀」へ

ヨーロッパと日本の最初の出会い(ファースト・コンタクト)は、1543年のポルトガル人の来航(種子島漂着、鉄砲伝来)、それに次いで1549年のイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日とキリスト教布教に始まる。その16世紀中葉から17世紀中葉のキリシタン禁教令、バテレン追放令までの約100年は、ポルトガル人と共にやってきたイエズス会の宣教師(バテレン)が日本と出会い、日本人と濃密な交流を持ち、30万人のキリスト教信者を獲得し、彼らがヨーロッパに日本情報を盛んに発信した時代だ。これを渡辺京二は「バテレンの世紀」と呼んでいる。この時代の主役はポルトガル人とスペイン人であった(日本では「南蛮人」と呼んだ)。なかんずくバテレンによるキリスト教布教が日欧のファーストコンタクトのエポックであった。これに入れ替わるように、1600年のオランダ船リーフデ号(ウィリアム・アダムス等)の豊後漂着を皮切りに、17世紀初頭にはオランダ人、イギリス人がやってきた(日本では「紅毛人」と呼んだ)。彼らはポルトガルやスペインなどのカトリック教国と争う新興のプロテスタント国の人間だった。彼らはキリスト教布教よりも交易を望み、当時の日本の為政者(家康)に受け入れられた。オランダ東インド会社やイギリス東インド会社が平戸に商館を置いて以降、ヨーロッパと日本の交流の新たな主役となった。すなわち宣教師:バテレンに代わり、商館長:カピタンが主役となり、バテレンによる「布教」からカピタンによる「交易」が日欧関係の主題となる。したがって「バテレンの世紀」に対する「カピタンの世紀」と呼んでおこう。やがてイギリスは日本から撤退し、宣教師とともにポルトガル商人やスペイン商人は追放されて来航も禁止され(いわゆる鎖国)、日本とヨーロッパとの交流はオランダが独占することとなった。日本にとってはオランダが西欧文明への唯一のコンタクトウィンドウとなる。これが幕末まで240年続くわけだが、この話は次回以降にすることとして、まずは「バテレンの世紀」の話から始めたい。


世界史の視点で日本史を見直す

東西文明の邂逅、日欧交流史のファースト・コンタクトにおいて、その主役がバテレンからカピタンに入れ替わってゆく時代の日本を「ヨーロッパ人の目」という視座で少し追いかけてみたい。これは単に日本人が大好きな、「ウチとソト」意識や「外人は日本をどう見ているのか?」みたいな関心からではなく、日本の歴史を国内の史料中心の「日本史」という括りで振り返るのではなく、世界史的視野で振り返ること。そして「異なる視点による記録」が、日本の歴史の新たな側面を描き出してくれること。この二つの理由からだ。こうした視座をもって歴史を俯瞰してみると、例えばバテレンからカピタンの時代への変遷は、ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントの争いの日本における反映とだけに片付けられない側面を持つことに気づく。彼らの記録を読んでみると、こうした変遷は日本の為政者、家康の強かな外交戦略の反映であったことがわかってきた。スペイン人やポルトガル人が著した書物では、家康は残忍で強欲な暴君として語られているが、オランダ人やイギリス人が著した書物では、開明的でグローバルな視野を持った名君として語られている。家康は確かに残忍でもあり、開明的でもあったろう。その両面性に家康の統治者としての性格と意思が見えてくる。


記録化された情報という価値

この間の事情については、イエズス会もオランダ東インド会社も、日本での活動に関する膨大な記録を残している。これは幕末のセカンド・コンタクトの時の欧米人による数々の記録が残されているのと同様、ヨーロッパ人は、現地での日々の活動状況、見聞した出来事を日記に記述し、上層部へ報告書を送り、手紙を書いており、当時の生々しい記録として残している。こうした文字に記された記録は、バチカンやオランダ、イギリスの公文書館/大英図書館、ポルトガル、スペインの図書館に今でも保存されていて、貴重な第一次史料として歴史研究に欠かせないものとなっている。その情報量は、日本側の日欧交流史関係の文献の量をはるかに上回っているだけでなく、その質や内容も当時の日本に関する詳細な報告が残されている。こうした在外の文献情報はこの時代の日本史を研究する上でも重要な史料である。これらの文献や情報を分析研究することにより、日本のいわゆる「鎖国」政策の実情や、家康の外交戦略の実相が見えてくる。

また、いわば組織としての「公式記録」のほかに、ヨーロッパから遥々やってきた数多くの航海者、冒険者(時には海賊)や、宣教師、商人などが、自分達が初めて訪れた未知の国々、地域での見聞や、人々との交流に基づく体験を記録として残している。こうした未知の国々からもたらされる「情報」は、そこからもたらされる産物や交易による富にも勝る価値を持っていた。ヨーロッパ人が世界に目を向け始めた当時の世相を反映して、こうした未知の世界への冒険譚は、本国では非常に人気があり、出版事業としても成功したと言われている。実際に現地へ赴いて体験した実録ばかりでなく、モンタヌスのような地理学者で大作家による探検物語もベストセラーとなった。また、ピントのような「冒険野郎」のどこまでが本当なのか不明な実録ものも人気を博した。スウィフトの「ガリバー旅行記」のようなフィクションもよく売れた。ともあれイエズス会、東インド会社に限らず、記録を重視する、「情報」が大きな価値を生むとする考えは、ヨーロッパ人に徹底しているように思う。また彼らの旺盛な知識欲にも驚嘆する。おかげで、歴史的な事実を複数の文献資料で多面的に比較研究することができ、より正確で信頼できる史実の検証が可能となる。紙に書いた書籍が後世に残ることで、書誌学的視点で振り返ってみることで歴史を追うこともできる。残念ながら、長い年月の間に消滅したり、散逸したりで全てを一次史料によることはできない。また残された公文書、直筆原稿や日記、手紙などは極めて貴重な歴史遺産であり、おいそれと手に入れたり、閲覧したりすることもできない。いきおい写本や改訂版、復刻版、英文版、日本語訳などの翻訳版を追いかけるしかない。


なぜヨーロッパ人はアジアを目指したのか?(おさらい)

ところでなぜ、ヨーロッパ人はインド/アジアを目指したのか。なぜ「大航海時代」は起きたのか、少しここで「おさらい」をしておこう。ユーラシア大陸の西の端に圧迫されていたキリスト教世界が、イスラム教徒との戦いに勝利することを願い、そして圧倒的なイスラム文明の圧迫から逃れようと、伝説の東方のキリスト教国の王「プレスタージョン」と同盟を結びたいという、宗教的な動機があったのはもちろんあるが、それだけではない。当時のヨーロッパとアジアの関係について「地球儀を俯瞰して」振り返って見る必要がある。ちなみに、当時のヨーロッパ世界では、アジアは「インド」だと認識されていた。「新たに発見された」マラッカやジャワ島、モルッカ諸島などの現在のインドネシア、フィリピン、琉球、そして日本を含めて「東インド」と呼んでいた。コロンブスが「発見」したとされる新大陸のカリブ海の島々は「西インド」だと認識されていた。

「大航海時代」と呼ばれる時代のムーブメントのキモは、「豊かなヨーロッパの産物を貧困なアジアに売りつける」ことではなく、まさに逆で「アジアの豊かな産物を仕入れてヨーロッパで売って儲ける」という交易をめざしたものであった。目指すはインドの綿織物であり、東インドのモルッカ諸島の香辛料であり、中国の絹や陶器である。彼らが東インド(アジア)に持ち込もうとした交易品はせいぜい毛織物くらいしかなく、しかも暖かい地域では売れなかった。この頃の世界は、イスラム世界、アジア世界こそ豊かな経済先進地域であり、ペルシャ帝国やムガール帝国、明帝国などの超大国の市場に、「西の辺境の地から、ポルトガル人が富を求めて出かけてきた」というのが実情である。事実、日本にたどり着いたポルトガル船も、遅れてきたオランダ船も、本国から持ち込んだ交易品(毛織物)は売れないことを悟った。私掠船として海賊行為をするために積んであった大量の鉄砲や大砲、弾薬だけが権力者の目に留まり、欲しがられたが。したがってアジアの財物(陶器、絹織物、刀剣)、資源(銀)を交易品として中国と日本で交換する「中継貿易」で儲けることになった、という事実が彼らの交易の実情をよく表している。彼らは、陸伝いではイスラム勢力という大きな壁に阻まれるので、海路、アフリカ希望峰からアラビア海、インド洋、ベンガル湾、マラッカ、南シナ海、琉球を経由して中国沿岸に達するというルートを取らざるを得なかった。この海は開かれた市場(インド洋自由交易圏)で、魅力的な交易品を持っているものなら誰でも参入できた。海から来たポルトガル人は、沿岸部のゴアやカリカットに拠点を築き、マラッカに進出し、マカオに居留地を求め、博多や堺、平戸や長崎に商館を置いた。アジアの大帝国にとってインド洋自由交易市場やマラッカに入ってきたヨーロッパの「ポルトガルなる国」の船など、巨大なパイに群がる蟻のような存在であったであろう。帝国の核心的利益は、海ではなく農業生産を主とする大陸内部にあったから、領土争いには血道を挙げるが、海岸部に群がってくる蟻たちには鷹揚であった。帝国沿岸部には商業都市が生まれ、ペルシャ商人やインド商人、中国商人、シャム、琉球の船が集まってきた。ポルトガルという異国の船もやってきた。しかしポルトガル商人が帝国版図の奥地まで進出することはなかったし、イエズス会宣教師が布教活動に出向くこともなかった。こうして彼らが300年前にベネチアの商人マルコ・ポーロが「東方見聞録」で描いた「黄金の国ジパング」こそ幻想であったが、そのインド/アジアの資源や産物とそこから得られる富をめざすという、経済的な動機が「大航海時代」を生み出したと言って過言ではないだろう。


この時代アジアは先進文明地域であった(おさらい)

こうしたヨーロッパとインド/アジアの経済格差が、この大航海時代/大発見時代を生み出したわけだが、文明度という点でもイスラム/インド/アジアの方が遥かに先進地域であった。これが19世紀のセカンドコンタクトの時代との大きな違いである。これは日本との関係においても同様である。当時の日本は戦国時代で、ほとんどの人々は決して裕福とは言えないし、産物も資源も豊富とも言えない(そんななか石見銀山が見つかったが!)。マルコ・ポーロの「ジパング」幻想は既に過去のものとなっていたが、ヨーロッパとの相対比較で言うと、文明的に劣っていたわけではない。むしろ宣教師や商人がこぞって驚嘆するように、高い東アジア的な文明的達成点にいた。すなわちセカンド・コンタクトの時と異なり、この時はアジア/日本がヨーロッパ文明に劣後する関係にはなかった。もちろん天文学(航海術、地図制作)や外洋船建造技術、鉄砲、本草学(医学、薬学)のようなヨーロッパ最新の科学的成果も入ってきて(これも元はと言えばイスラム世界からヨーロッパに伝わったものだが)為政者たちを喜ばせた。しかし都市の繁栄や人々の生活レベルは、彼らの本国を上回る規模と質であった。ただキリスト教世界から見ると異教徒世界であり(そういう意味で「野蛮」「未開」とみなしたが)、ヨーロッパとは異質の文明ではあるが、対等以上の関係であった。軍事面で見ると、日本は南北朝騒乱以来続く200年の戦乱状態は、国内に練度の高い軍隊(将軍を頂点とする)と、統制の取れた武装集団(武士団)を形成し、優秀な兵士(サムライ)を多く抱えた強大な軍事国家となっていた。さらにポルトガル人がもたらした鉄砲は、この戦国の世の軍事的バランスを一変させて、鉄砲保有数で勝る武装集団が天下の覇権を握ることとなった。鉄砲もポルトガル人の有力な交易品になるはずであったが、日本人は自分の手で大量生産を始め、この時代、鉄砲保有数において日本は、たちまち世界最大の国となった。こうした点をみても日本が軍事的にポルトガルやエスパニアに劣り、易々と占領されて植民地化される懸念など、為政者にはなかったであろう。むしろキリシタン思想による儒教的な社会秩序、価値観の置き替わりを懸念した。より具体的には西国の武力集団(キリシタン大名)が、徳川家を中心とする東国武士勢力のヘゲモニーと奪うことを恐れたことが禁教令のキモであった。天下を治めた家康は、日本では鎖国を始めた指導者と評価されがちであるが、彼らの記録を読むと、むしろヨーロッパや東インドとの交易を促進しようとしたことがわかる。エスパニアとの交易を求めてメキシコ経由で使節を送り、オランダ、イギリスとの朱印船交易に積極的であった。一方で、キリシタンのアグレッシブな態度に怒り、それに西国大名が結びついていることに恐れを抱いた。そしてキリスト教禁教令を発した。キリシタンとも密接であったポルトガルが交易を取り仕切るのではなく、代わってオランダを主役に仕立て、長崎出島に押し込め、幕府による管理統制貿易という対外政策を取ることとなった。これは換言すれば日本(徳川幕府)が貿易のヘゲモニーを握るということに他ならない。必ずしも全ての国交を閉じる「鎖国」ではなく、幕府が認めれば貿易関係を開く、というものであったが、次第に外国を締め出す「鎖国」になっていった。ちなみに「鎖国が祖法である」などというのは江戸時代末期の幕府官僚が外国船を追い払う方便(いいわけ)に持ち出した「お題目」である。

(参考ブログ)



「バテレンの世紀」の登場人物とその記録

歴史の「おさらい」が長くなったが、ここからは「バテレンの世紀」の主要な登場人物と、その日本との出会いの記録を紹介したい。彼らは、東回りでインドのゴア経由で、東洋へやってきたポルトガル人と、西回りで新大陸、フィリピン経由でやってきたエスパニア人である。日本では「南蛮人」と呼ばれた人たちのアジア/日本見聞録である。300年前のベネチアの商人マルコ・ポーロの「東方見聞録」で描かれた「黄金の国ジパング」に、ついに遭遇した彼ら。その現実の姿は彼らにどのように映ったのだろうか。イエズス会の布教の記録が多く残されていることは先述の通りであるが、宣教師(バテレン)の他にもポルトガル商人(ピレス)、冒険者(ピント)やエスパニア商人(ヒロンなど)の記録も残っている。こうした記録を読み合わせることにより、日本史が、そして世界史がより多面的に理解できるようなれば幸いなるかなである。



(1)トメ・ピレス: Tome Pires(1466?〜1524?)

ポルトガルから初めて中国(明朝)へ送られた使節の大使。しかし交易開始交渉は失敗。マラッカで書いた
「東方諸国記」でポルトガル人として初めて日本に言及した。ただ、日本に来たことはない。

トメ・ピレス

ポルトガル領マカオ発行の切手
1955年


「東方諸国記」岩波大航海時代叢書

パリ版写本


ピレスはリスボン生まれのポルトガル人。生まれも生い立ちもよくわかっていない。薬種商人としてゴア、マラッカへ渡ったが、ポルトガル商館員として各地へ赴いたことが記録されている。1520年には、明国との交易を求めてポルトガル使節の大使として北京へ派遣されるが、交渉を拒否され皇帝に謁見できず、広東で投獄された。このようにポルトガルは中国という巨大市場への参入を目指したが失敗した。当時の明朝は朝貢以外の海外貿易を一切認めない海禁策をとっていた。日本も倭寇対策として明国への入港が禁じられていた。しかし、ポルトガルはこれで諦めたわけではなく、まさに巨大なパイに群がる蟻のように沿岸部で密貿易に従事、この過程で倭寇とも遭遇。また唯一寧波では日本の勘合貿易船が入港していたが、公的な貿易ではなく私貿易(海賊行為)に関わった。公的な交易関係を結ぶのはのちのことだ。しかし、ポルトガル人の日本に対する関心は低く、この時点では彼の地に向かおうという意図は感じられない。一方で中国のジャンク船は、私貿易船として九州を訪れていた。この頃ポルトガル人は中国人や倭寇と一体となって活動していたので、この中国のジャンク船に同乗して日本に接近する機会は既にあった。これがやがてポルトガル人の種子島漂着(鉄砲伝来)につながっていく。

「東方諸国記」: Suma Oriental que trata do Maar Roxo ate os Chins(「紅海からシナ人の国までを取り扱う東洋の記述」略して「東方諸国記」)は、ピレスが1515年にマラッカで著した地理書。ポルトガル人による初めての総合的なインド/アジア総論である。1595年にオランダ人のリンスホーテンが「東方案内記」を表すまでは、ヨーロッパ人にとっては唯一の全アジア案内書であった。とくにインド洋交易圏におけるイスラム/アラビア商人の活動エリア(アラビア海)、インド商人の活動エリア(ベンガル湾)、および中国商人の活動エリアについて詳説している。後発のポルトガルが、先発の交易集団活動実態の研究をしているわけだ。この中で日本についての記事が見える。これがポルトガル人が日本(Jampon/Jampom)について言及した最初の記録であるが、海洋交易を盛んに行っていた「レキオ(琉球)」に関する章の中でわずか数行コメントされているに過ぎない。「ジャンポン島」は「レキオ」よりは大きな島である。商品にも自然の産物にも恵まれない。ジャンク船を持たず海洋民族でない。中国皇帝の臣下である(足利義満の朝貢のことを言っている?)と。レキオ(琉球)はこの時代の東アジアの主要な交易プレーヤーとして認識されていたことが知れるが、一方でジャンポン島に関してはほとんど情報がない。レキオ(琉球)とジャンポン(日本)の区別が十分ついていないことも窺わせる。ともあれ、そっけない記述は日本には冷淡でほとんど関心が持たれていなかったことを示唆している。もちろんピレス自身は日本に行ったことも、日本人と接触したこともなかった。このように、「大航海時代」のきっかけを作ったとも言える、300年前のマルコ・ポーロの「アジアの黄金郷ジパング」の幻想は既に失われており、ヨーロッパ人は、より現実的にインド、東インド、そして中国という巨大市場を目指していた。マゼランも世界就航の際、日本近海を航行したにもかかわらず寄ろうともしなかった、その「ジパング」を「再発見」するにはもう少し時間が必要だった。



(2)フェルナン・メンデス・ピント: Fernao Mendes Pinto(1509?〜1583)

「遍歴記」: Peregrinacamを著し、その中で自分が種子島来航の初めてのポルトガル人であると自称した冒険家。本国では「法螺吹きピント」の冒険物語と言われるが、現地に出向いての実体験は、伝聞による記述とは異なり無視し難い説得力を持っている。


メンデス・ピント


「遍歴記」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙





ポルトガル人の冒険家。インド、アジア各地を遍歴した。その波乱の体験と見聞した事物を帰国後にまとめたのが「遍歴記」。彼の死後になって出版された。1663年刊

彼はこのなかで、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着したポルトガル人の一人である」、1549年の「ザビエルの日本布教を助け、アンジロウを引き合わせたのは自分」と主張している。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。その偶然の遭遇による「再発見」という出来事は、ヨーロッパ人にあの時の夢を思い起こさせたに違いない。ここが「あのジパングか!」と。ピントのそのドラマチックな出来事に関わったのだという主張(「現場からピントが報告いたします」的な)はインパクトを与えたことだろう。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であろうと考えられている。ザビエルの死に際してイエズス会に入会し、多くの財産を寄進したとある。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したとも語っている。しかし、話に誇張や事実と異なるエピソードが多く含まれており、むしろ「遍歴記」は冒険物語(フィクション)と捉えられた。事実、出版後はヨーロッパで人気冒険ばなしとして多くの読者にもてはやされた。本国では「法螺吹きピント」と言われた。こうしたことから史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いと見做されているが、全体としては彼のアジアでの体験、見聞に基づく記述が多く含まれ、日欧交流の研究史料として無視し得ない。当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観が描かれている点でも貴重な著作だと考えられている。

ポルトガル人の種子島上陸と鉄砲の日本への伝来に関する記録は、南浦文之(なんぼぶんし)の「鉄砲記」1606年、アントニオ・ガルバンの「世界新旧発見史」、エスカランテ・アルバラード報告書などがあるが、いずれも伝聞による記録である。しかしピントの記述は、自分の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、ピント自身が「その時」種子島にいなかったとしても全く根拠のない作り話とは言い切れない。東シナ海ではポルトガル人は中国人と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことは先述の通り。したがってポルトガル人が中国船ジャンクで日本沿岸を航行し、漂着し、やがては渡航することになることは不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達も中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。最初は公的な貿易関係ではなく、中国人と、日本人などとの私的な交易、海賊行為から始まったが、やがてはマカオを拠点にして平戸、長崎との間で中継貿易を始めることに繋がっていった。ピントもこのジャンク船で日本にも来ており、琉球列島や奄美諸島に行っていたことは十分考えられる。そうした公式記録に出てこない活動の実像を知るうえでも貴重な資料。



(3)フランシスコ・ザビエル: Francis Xavier(1506〜1552)

改めて説明するまでもない、キリスト教を初めて日本へ伝道したイエズス会宣教師。彼の事績は各国語に翻訳された「ザビエル伝 インド/日本への布教」: The Life of St. Francis Xavier Apostle of the India and Japanなどに記録されている。マラッカで出会ったアンジロウに日本人への布教の可能性を見、渡航を決意したと言われている。


フランシスコ・ザビエル

「ザビエル伝 インド/日本への布教」
1660年ジョン・ドライデンによる英訳




エスパニアのナヴァラ王国の上流階級の出身。イエズス会創設者のイグナチオ・ロヨラと同じバスク地方の出身で、両者は1529年にパリ大学で出会った。イエズス会はこれまでの修道会と異なり、黙想、研学を尊び伝道活動を実践するという戦闘的な修道会であった。宗教改革に対抗してカトリックの生命を生き返らせること、海外領土の異民族をキリスト教徒へ改宗させることが大きな目標であった。特に世界の全面的なキリスト教化の実動部隊たる性格が強かった。そのため軍隊的な規律と上命下達、上司への服従、定期的報告義務が課せられた修道会であった。そのイエズス会宣教師として、キリスト教布教のため初めて日本に上陸したのがフランシスコ・ザビエルである。

ザビエルは、マラッカで出会った日本人(薩摩藩士)アンジロウから日本の話を聞き布教を思い立ったとされる。彼は薩摩で罪を犯し逃亡してきたという。しかし、アンジロウという人物の旺盛な知識欲と怜理さに魅せられた。未開の地の異教徒への布教でも理性があれば迷信や偶像の闇を祓うことができると考えた。ザビエルは理性の力を信じる近代合理主義的精神を有した人物であった。ちなみに、このアンジロウは、洗礼を受け、キリスト教徒になった初めての日本人だとされている。1549年(天文18年)鹿児島に上陸。アンジロウ、トルレス、フェルナンデスとともに布教を開始した。鹿児島、平戸、豊後、博多、山口などを回り、大内氏や大友氏など、九州、山口の大名から庇護を受けたが、ミヤコでの布教を目指した。しかし、都は戦乱で荒廃し、ミカドは統治能力を失っており、その許可を得ることは叶わなかった。彼らの滞在期間だけでは、信者獲得という点では大きな成果を上げることはできなかった。1551年離日、いったんゴアに戻り、ロヨラの説得など、日本布教の戦略練り直しをはかった。滞在期間は2年3ヶ月であった。翌年、中国での布教を目指したが上川島で死去。この後、日本ではトルレスが布教長となりザビエルの遺志を継ぎ、カブラル(布教長)、コエリョ(準管区長)、ゴメス、パシオ、カルバーリョ(管区長)等々と布教活動が引き継がれてゆく。この間に巡察師ヴァリニャーノがゴアから三回に渡って来日している。ヴァリニャーノは天正遣欧使節を企画しローマへ送った。結局ザビエルにはじまったイエズス会の日本でのキリスト教布教活動では30万人の信者を獲得したと言われている。南蛮人との出会いのインパクトは、ポルトガル人による交易以上に、このキリスト教布教によるものが大きい。それが、のちに禁教令、さらにはいわゆる「鎖国」政策にまで発展することになる。まさに「バテレンの世紀」の始まりであった。

ジョン・ドライデン英訳の『ザビエル伝 インド/日本への布教」1688年、については2021年11月17日「古書を巡る旅(17)」ザビエル伝参照。



(4)ルイス・フロイス: Luis Frois(1532〜1597)

戦国時代の歴史に必ずと言って良いほど登場するイエズス会の宣教師。「日本史」: Historia de Japon、「イエズス会日本通信」、「日欧文化比較」など多くの著作、記録を残し、戦国日本の第一級歴史資料となっていることは周知の通り。


長崎横瀬浦公園のフロイス像

「日本史 キリシタン伝来のころ」 全5巻
平凡社東洋文庫

リスボン王立アジェダ図書館版写本


リスボン生まれのポルトガル人、イエズス会宣教師として日本にやってきた。

1548年、16歳でイエズス会に入会し、ゴアへ。そこでザビエル、アンジロウと出会う。
1561年ゴアで司祭に叙階
1563年(永禄6年)日本へ、横瀬浦(大村領)に上陸(31歳)平戸へ。
1569年 オルガンチノとともに安土で信長に会う。
1580年(天正8年)巡察師ヴァリニャーノと信長謁見
1583年(天正11年)〜イエズス会の活動記録事業に専念「日本史」執筆に取り掛かる
1590年(天正18年)天正遣欧使節 1592年(文禄元年)ヴァリニャーノと秀吉謁見(聚楽第)
1597年(慶長2年)二十六聖人殉教の記録を残し長崎で没す。

イエズス会の日本における活動記録の執筆を命ぜられたことから、1583年からこれに専念し、まとめられたものが「日本史」: Historia de Japon である。これが、このような貴重な詳細記録が残されることになった所以である。もっとも、18世紀に入ってイエズス会の活動休止と迫害に伴い、多くの記録や文書が破棄されたり散逸したため原文はほとんど残っていない。しかし、のちにフロイスの原稿を始め、多くの重要な記録の写本が発見されこれらに基づいて編纂されたものが「日本史」と呼ばれるものである。第一巻日本総論のみ現存、第二巻一部(1549〜1578年)第三巻二部(1578〜1589)第三部(1590〜1593)となっている。日本で翻訳されているのはこの第二巻一部のドイツ語訳版である(「日本史 キリシタン伝来のころ」柳谷武夫訳 平凡社東洋文庫)。

宣教師(ぱあどれ、バテレン)の視点で、布教活動、のちには禁教、殉教の模様を克明に記録しているのはもちろんだが、みやこや九州で起きた、政変や事件についての記録も興味深い。フロイスはヴァリニャーノの通訳として、信長や秀吉といった天下人とも会っており、戦国時代の歴史的な事件に遭遇した、その目撃者であり当事者ですらあった。日本に残る「信長公記」や「太閤記」、「徳川実紀」(いずれも江戸時代になってから編纂されたもの)などとは異なる視点からの記述であり、為政者ならびにその当事者の目線とは異なる目線での記述であるとともに、細かい現場のリアリティーを伝えており、一種「現場からのレポート」としての臨場感がある。。例えば、最近になって話題になっている、信長に仕えた黒人侍「やすけ」の話など、「信長公記」では触れられているが、フロイスの「イエズス会日本通信」に、信長と出会った時のことが詳細に語られているし、「日本史」では本能寺事件後の「やすけ」の消息を匂わせる記事も出てくる。時の権力者に忖度しない観察眼が新鮮だ。日本に通算して35年滞在し、キリスト教布教と弾圧の双方の時代を生きた。キリシタン布教史、日欧交流史という観点だけでなく、戦国日本史にとっても貴重な史料であることは言うまでもない。

このほかにも「イエズス会日本通信」、「日欧文化比較」1585年がある。この「日欧文化比較」は九州の加津佐で書かれた、いわば最初の日欧比較文化論として貴重である。すなわち日本では全てのことがヨーロッパの逆さまでるという、異文化間コミュニケーションでありがちなtopsy-turvydom、すなわちさかさま、あべこべ、の事例を挙げている。これは、300年後の明治期にお雇い外国人として日本にやってきた西欧人、バジル・ホール・チェンバレンなどが描いた日欧文化比較論に通じるものである。チャンバレンは「日本事物誌」:Things Japaneseでtopsy-turvydomについて項を起こし記述している。


ルイス・フロイス「日欧文化比較」
岩波大航海時代叢書




(5)ジョアン・ロドリゲス: Joao Rodrigues(1562?〜1633)

「日本教会史」: Historia da Igreja do Japao、「日本語大文典」/「小文典」: Arte da Lingoa de Iapamを著したイエズス会宣教師。フロイスを引き継ぎ、イエズス会の通訳として活躍。フロイスの「日本史」を補完する体系的で詳細な日本総論を展開した。300年後のセカンド・コンタクト時代に登場したジャパノロジストの大先達といえる。



ジョアン・ロドリゲス肖像


「日本教会史 上・下」岩波大航海時代叢書

ポルトガルのアジェンダ図書館に残る写本の一部

彼の自筆署名



ポルトガル人。通算して30年以上日本に滞在。母国ポルトガルでよりも日本で教育を受け日本語堪能

1577年 少年時代にマカオ経由で日本に
1580年 イエズス会入会。アレサンドロ・ヴァリニャーノ巡察師に見出されて、臼杵のノビシャド、豊後府内のコレジオに学ぶ。ルイス・フロイスを継いで通訳となる。
1595年 マカオで司祭に叙任
1596年 長崎に司教として赴任 布教活動に勤しむ中、サンフェリペ号事件(1596)、二十六聖人殉教事件(1597)に遭遇。
1598年 イエズス会日本管区会計係 イエズス会の経営再建に尽力した。
1601年 家康から貿易代理人(朱印状取得)に(イエズス会の赤字解消のために貿易に携わった)
1609年 岡本大八事件で国外追放 長崎奉行長谷川藤広、長崎代官村山等安 と対立?
1633年 マカオ市政、明朝への派遣などを経て、マカオで没す。

日本語能力を買われ、フロイスの後のヴァリニャーノの通訳として、秀吉や家康との交渉に携わった。また、この頃運営資金調達に困難をきたしていたイエズス会日本管区の経営にも関わり、絹貿易の許可を家康から得て、イエズス会の「経営再建」に活躍した。一方でまた日本語の文法家としても下記のような重要な著作を残し、いわば「バテレンの世紀」のジャパノロジストとして活躍した。

「日本教会史」は、ロドリゲスと原マルチノに日本の教会の歴史をまとめるようイエズス会本部より要請されて執筆に取り掛かったもの。岡本大八事件によるマカオの追放の後に、長崎への帰還を願いつつ失意のうちに執筆された。前半は日本の自然/風土、地理や哲学、社会習慣について詳細かつ多岐にわたって記述している。先達であるフロイスの成果である「日本史」を補完し、より完全で奥深い記述に努めた。当時の日本をリアルに描いており、いわば日本総論とも言える内容。後半は、日本におけるキリスト教布教活動と殉教の模様を詳細に記録している。フロイスの「日本史」は1593年で終わっているが、その後のサンフェリペ号事件や、それに伴って起きる長崎26世人殉教の模様が詳細に記述されており、ここから始まるキリシタン暗黒の時代の記録となっている。すなわち、天下人が家康となり、彼への接近と、オランダ船の来航(1600年のリーフデ号)に伴う家康の外交姿勢の変化。その後の長崎奉行、代官との確執、彼自身の国外追放という受難の時代が描かれている。前半のパートをとって、日本に関する最初の社会科学的研究書の一つであるとする研究者もいる。ロドリゲスはキリシタンの迫害と追放の中でも、異質なものに対する敬意と理解、公平無私な観察眼を失わず、西欧人の目で見、日本人の心で感じたと言われる。結局、彼の直筆原稿は刊行されることなく、写本のみがリスボン王立アジェダ図書館に残る。

一方で、日本語研究者としても優れた成果を残している。「日本語大文典」はポルトガル語による日本語の文法書。「日本教会史」執筆に先立つ1604〜1608年に長崎で刊行された。現在はオックスフォード大学ボドレイアン図書館に伝わる。「日本語小文典」は1620年マカオで刊行。ロンドン大学SOAS(アジア/アフリカ研究学院)とポルトガルアジェンダ公共図書館に伝わる。どちらもヨーロッパにおける初期の日本語の研究書で、19世紀セカンドコンタクト時代のバジル・チェンバレンの日本語研究書や日本事物誌の300年前の先駆けとも言える。キリシタン/バテレン受難の時代とはいえ、こうした人物が失意のうちにマカオに追放されたことが惜しまれる。



(6)ベルナディーノ・デ・アビラ・ヒロン: Bernardino Avila Giron(?〜1619?

「日本王国記」: Relacion del Reino de Nippon a que Ilman corruptamento Jappon(「転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告」略して「日本王国記」)を著したエスパニア人。長崎在住の貿易商。宣教師ではない世俗の人物の日本滞在記録として貴重。

(肖像不明)


「日本王国史」岩波大航海時代叢書


「日本王国記」エスコリアール版写本


エスパニア人。20年間、主に長崎に在住した旅行家、貿易商。しかし出生地や生い立ち、フィリピンに来るまでの経歴などは全く知られていない。

1590年ヌエバ・エスパーニヤ(メキシコ)からマニラへ(フィリピン総督に伴って)
1594年フィリピン総督が豊臣秀吉に宛ててフランシスコ会宣教師からなる使節団を派遣。この第三回目の使節団一行とともに平戸へ。その後、長崎に居住。薩摩、島原、口之津などを旅行。
1598年。マカオに渡航。長崎、マニラからアジア各国を転々とする。
1599年カンボジア、シャム旅行。そのご明、マカオに。
1600年インドへ。マカオ、シャムを遍歴したのち
1607年長崎に戻る。
1619年の記録では長崎にいて妻帯していたと言われるが、その後の消息は不明。

「日本王国記」1598年初稿はマカオで書かれたが原稿は未発見である。1615年第二版、1619年第三版が出された。写本を元に後年の1883年にスペインで公式出版された。

ポルトガル人ではなく、しかも宣教師でもない世俗の旅行家、貿易商人による日本の記録として珍しいもので、長崎を拠点に国内外を旅行し、
実体験に基づく記述は史料的な価値が高い。当時のエスパニアには新大陸ポトシの銀があり、フィリピン経由で直接、中国との交易を目論んでいたので、日本との交易には関心がなかった。わざわざ石見の銀を狙ってポルトガルの中継貿易に割って入るインセンティブはなかった。しかし、秀吉からの恫喝的な「朝貢」要請で(渋々)フィリピンから使節がやってきた。その三回目の一行の中にヒロンがいた。どのような経緯で彼が日本に住むことになったのか本文中にも語られていない。この「日本王国記」は日本に関する自然や文化、風習、言語、統治体制など総論的な記述に続き、1549年’天文8年)三好長慶から1615年(元和元年)大坂の陣まで記述。信長台頭、本能寺の変(1582年)、山崎の合戦、豊臣秀吉天下統一、バテレン追放(1587年)、朝鮮出兵、サンフェリペ号(エスパニア船)事件、二十六聖人殉教、大坂の陣、盗賊石川五右衛門処刑(彼の実在を証明する記述とみなされている)など、日本での重要な事件を記述している。内容の半分以上は布教と殉教の歴史を語っており、1597年の二十六聖人殉教、1614年高山右近、内藤如安の国外追放については詳細に記録。家康をキリスト教を弾圧した暴虐な君主としている。1600年にやってきたウィリアム・アダムスが、キリシタンに不利になる出鱈目な告げ口をしたので家康がキリシタン禁教に向かったと書いていおり、リーフデ号漂着事件に言及。新興国オランダ、イギリスの日本登場を記述している。。

また日本書紀などの古文書から天皇家の万世一系論の受容。神武天皇以来2270年経っている(西暦の紀元前660年建国)として、中国王朝と共に悠久の歴史を有するミカドの一族が統治権威として君臨しているとしている。。




(参考)ファン・ゴンザレス・メンドウサ: Juan Gonzalez de Mendoza(1545〜1618)

エスパニア人。軍人であったがアウグスチヌ会修道士、司祭となり。コロンビア、メキシコに赴任。1583年グレゴリオ13世の命で中国誌の編纂。1585年「シナ大王国誌」をローマで初版。ただ。メンドーサ自身は中国へ行ったことはなく、ジョアン・デ・パロスの「アジア史」などをもとに編纂した。当時としてはヨーロッパで初の(マルコポーロ以来の)中国総論として多くの知識人に読まれた。第三巻十四章が日本に関する一章である。ハポン島はシナ帝国の臣下であり続けた(古代倭国時代の朝貢冊封の話か?それとも足利義満の遣明船朝貢の話か?))が、最近は歯向かい続けていて、シナに災いをなしている(倭寇のことか)。
有力な王がいないが、信長という有力な人物が出てきて、王としての覇権を握りつつある。戦争ばかりやっていて貧しい。イエズス会の努力でキリスト教徒が増えていて、キリスト教伝道が成功している国だ等々の記事がある。もちろんメンドウサ自身は日本へ行ったことはなく、どれも伝聞による記述であるが、当時の中国側(明王朝)の日本観、ポルトガル人やイエズス会報告による日本観が伺えて興味深い。



(参考)17世紀後半までのいくつかの重要な出来事の年表を下記に示しておく。

1271〜95年 マルコ・ポーロの東方旅行(東方見聞録)

1488年 バーソロミュー・ディアス アフリカ大陸最南端、希望峰到達

1492年 クリストファー・コロンブス 北米大陸発見(サンサルバドル島到達)(スペイン人の西廻り航路)

1497年 バスコ・ダ・ガマ インド洋進出、カリカット到達(ポルトガル人の東廻り航路)

1519〜22年 マゼラン一行世界周航

1543年 ポルトガル人、中国ジャンク船で種子島漂着(鉄砲伝来)

1549〜51年 ザビエル/イエズス会日本に。キリスト教布教開始

1557年 ポルトガル人中国マカオ居住開始 日本平戸との貿易拠点に

1564年 エスパニアのフィリピン征服

1580年 エスパニアのポルトガル併合

1582年 天正遣欧使節ローマへ 本能寺の変

1590年 天正遣欧使節帰国 秀吉天下統一

1596年 サンフェリペ号事件

1597年 長崎二十六聖人殉教

1600年 オランダ船リーフデ号豊後漂着 ウィリアム・アダムス 関ヶ原の戦い


2021年12月6日月曜日

富士山絶景 晩秋の鎌倉散策 〜古我亭、鎌倉歴史文化交流館界隈〜

 

絶景富士

義父母の墓参に合わせて、久方ぶりに鎌倉を散策。お天気もクリアーで気持ちの良い散策日和であった。今回の収穫はなによりも眺望絶佳の高台にある霊園からの秀峰富士山の立ち姿である。この時期の清澄な空気感と、弧を描く由比ヶ浜との絶妙のコラボは、まさに絵に描いたような風景だ。ここからこれほどに美しく展望できるとは今まで気がつかなかった。あまりにも典型的な風景写真、されど感動的な風景写真となった。これまで忙しくそそくさと墓前での法事を済ませて帰るばかりであったが、少し心に余裕ができて、ふと気づくとこんな絶景があったんだ、と。亡き義父母に感謝だ。

高台から下り、街を散策する。今回歩いたのは扇ガ谷界隈。あまり観光客で混み合わうことの少ない地区で、閑静な住宅街という佇まいだ。少し足を伸ばせば寿福寺がある。まず、鎌倉に現存する洋館、いわゆる「鎌倉三大洋館」の一つである古我邸を訪ねる。門から母屋までの長いスロープを歩く。今回は中には入らなかったが、建物はオリジナルの仕様をそのまま修復保存した素晴らしいものだ。19世紀アメリカのシングルスタイルと呼ばれる様式だそう。左右非対称で、装飾を廃したシンプルなデザイン。ファサード全体が板片(シングル)で覆われている。元は大正3年に建てられた三菱財閥の重役の別邸だったが、現在は高級フレンチレストランになっている。ちなみに「鎌倉三大洋館」とは、この古我邸の他、前田公爵邸(現在の鎌倉文学館)、旧華頂宮邸だそうだ。

この古我邸から少し歩くと鎌倉歴史文化交流館に至る。建物はイギリスの著名な建築家Norman Fosterの建築事務所フォスター+パートナーズの設計になるもの。2004年に竣工した美術品コレクターの個人邸宅Kamakura Houseであったものが鎌倉市に寄贈され、2017年に改装して博物館施設として開館した。全く新しい建物だがこの建築自体がアートで、これから鎌倉の21世紀建築遺産として長く愛されることになるのだろう。展示は縄文時代から中世鎌倉、そして明治期以降の文豪まで、鎌倉の歴史や文化的な遺産を概観するには良い施設だ。ちょうど来年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」展をやっていた。小学生と中学生の社会科見学の一行で賑わっていた。鎌倉には歴史的な史跡だけでなく、こうした文化施設が整っていて羨ましい教育環境だ。

鎌倉はこのように近現代の建築遺産にも見るべきものがあることがわかった。「鎌倉三大洋館」はいずれ制覇しよう、また文人の邸宅跡が記念館にもなっているようだ。「馬込文士村」ならぬ「鎌倉文士村」だ。いろいろ街歩きの楽しみ方がある。今日の鎌倉は平日だったので、週末の喧騒というほどの人出はなかったが、帰りに立ち寄った小町通りなどは相変わらずの混雑ぶり。修学旅行か、社会科見学か、中学生くらいの団体が溢れていた。日本はコロナ感染者数が激減し、観光客の足が戻ったのは良いが、またオミクロン株騒ぎでどうなることか。まったく心休まる時がない。

鎌倉は関東にあっては古都の趣を蓄える美しい街である。武家政権発祥の地としての性格。臨済宗、日蓮宗などの鎌倉仏教発祥の地としての性格、そして明治以降の政財界、文人墨客のお屋敷、別邸の町としての性格。どれもが、周りを山に囲まれて正面を相模湾に面した狭い土地にぎゅっと凝縮されている。攻めるに固く守りには易い要害の地ではあるが、外に向かって発展するには不向きな土地柄。これが、のちに歴史の画期となる鎌倉幕府、すなわち武家政権の発祥の地とはなったものの、その後の幕府の拠点は、京の室町、江戸とめぐり、ついに鎌倉には戻ってこなかった理由の一つであろう。そして現代においては、休日ごとに繰り返される人出と車の渋滞。観光地としての魅力に誘われて繰り出す人の群れを受け入れる地形的な受容度には限りがある。静かな古都の雰囲気を味わうにはちょっと。京都もそうだが、ここでもオーバーツーリズムがやはり問題となる。そうでなければ老後に住みたい町の第一候補になるのだが。



由比ヶ浜、稲村ヶ崎、江ノ島のタワー、奥に伊豆半島の山々


古我邸


19世紀アメリカの「シングルスタイル」建築
ファサード全体が板片(シングル)に覆われる独特のスタイル


紅葉の鎌倉歴史文化交流館
イギリスのフォスター+パートナーズ設計


光ファイバーを組み込んだ人造大理石を壁面に用い明と暗を表しているという。


文豪の鎌倉

永福寺瓦

宋銭

縄文時代遺跡出土品の数々


やや紅葉は盛りを過ぎたが

中世の谷戸が敷地内に

展望台から鎌倉市内を眺める

こちらの紅葉は見事


 界隈は閑静な住宅街

小町通りへ出て駅に向かう


(撮影機材:Nikon Z7II + Nikkor Z 24-70/2.8 + Nikkor Z 70-200/2.8)