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2020年7月12日日曜日

「世界史」と「日本史」の遭遇 〜栄枯盛衰は一炊の夢〜

イングランド艦隊、スペインの「無敵艦隊」(Invincible Armada) を撃破する
「アルマダの海戦」1588年

最近、BBCのドラマシリーズ「Wolf Hall」邦題「愛と陰謀のイングランド」を観た。16世紀のイングランド、ヘンリー8世の時代を、彼の側近であったトーマス・クロムウェルの目で見た物語だ。イングランド王ヘンリー8世は、カトリック国で当時最も強大であったスペイン王室から嫁いできたキャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、彼女の侍女であったアン・ブーリンと結婚するために、離婚を認めないローマカトリック教会から離脱してイングランド国教会を創設。ローマ教皇に代わって自らがイングランドにおける宗教権威のトップに立つとした話だ。またUniversal映画「Mary Queen of Scotland」邦題「二人の女王」(メアリーとエリザベス)も併せ観た。こちらは英米合作の映画だ。ヘンリー8世の子、エリザベスが王位継承争いに勝ちイングランド女王に即位する。ライバルであるスコットランド女王メアリー・スチュアートを処刑して絶対王政の基礎を築く。この殺戮と陰謀の時代をスコットランド女王メアリーの目を通して描いて見せている。登場人物の心模様を静かに描く英国演劇のスタイル。その重厚で言葉を大事にするストーリー展開と歴史的な出来事を感情を抑えて表現するドラマタイズ手法は観るものの知的好奇心をおおいに刺激してくれる。一方、史実としては様々な解釈の余地があるが、時空トリップして16世紀のイングランドを垣間見ることができる面白さがある。ドラマ、演劇として可視化される映像には、当時の世界に想像力を膨らませてくれる力がある。

この16世紀のイングランド激動の時、地球の裏側の日本はどうしていたのだろう。我々はこうした出来事を学校教育では「世界史」として習った。しかし、一方で同じ時代を、もう一つの教科である「日本史」としての出来事と対比してみる習慣がなく、アッチはアッチ、こっちはこっち。ウチとソトの「二分法」で見がちである。すなわち同時代性を感じることなく、全く別の物語として記憶させられてきた。しかし、後述するように地球の歴史はユーラシア大陸の東の果てと西の果てで起きていることが無縁ではないことを知る。いや、無縁どころかしっかりと連動し、共振していることを知る。歴史を地球規模で俯瞰するのはおもしろい。


16世紀のイングランド王国

この頃のイングランドは、まだ弱小国で、ローマ教皇を頂点とするキリスト教世界ではスペインやフランス、神聖ローマ帝国が絶対的な優位を持っていた。特にスペインはポルトガルを併合し、多くの植民地を支配し、富を独占する世界帝国になっていた。大陸外縁の島国であるイングランドはスペイン王家や神聖ローマ帝国との政略的婚姻関係で、隣のスコットランドはフランス王家との政略婚姻関係によるアライアンスで、その王権の保証と国の存続を担保するという有り様であった。言うまでもなくローマ教皇は絶対の宗教的権威で、キリスト教国であれば国王が統治権威を守るためにはローマ教皇の認証が必要であった。王位の継承はカトリック王家同士の婚姻関係により、その正当性と承継順位が決められる。ローマ教皇の逆鱗に触れれば国王であれ破門され、それは王権の滅亡を意味した。そうした中でのイングランド王ヘンリー8世によるローマカトリック離脱である。それも王妃キャサリンオブアラゴンを離婚し、その侍女であるアン・ブーリンとの結婚するためである。これに反対して処刑された側近がトマス・モアであり、王の意を体して動いたのがトマス・クロムウェルであった。1534年首長令で国王が最高の権威であり、イングランド国教会を創設しイングランド王がその長であることを宣言した。ローマカトリック教会からの決別を宣言したわけである。

一方で、中世を通じて確立されたローマ・カトリックの権威は、長い時間が経つにつれ綻びが出ていた。「免罪符」の販売に代表されるような神の名を借りた世俗的事業の追求など教会内の腐敗が進行する。15世紀後半から始まるマルチン・ルターやカルビンの唱える宗教改革が16世紀には広まりを見せ、ローマ・カトリックの権威が徐々に衰えてくる。中世から近世のはじまりである。がまだ、そうした改革派は力が弱く、当時のプロテスタントはカトリックの宗教裁判や異端審問にかけられて断罪され、国ではカトリックの王による弾圧に苦しんでいた。


エリザベス1世の時代 絶対専制国家へ

ヘンリー8世の死後は、最初の妻キャサリンとの間にできた娘メアリーが王位を継ぎ、再びカトリック化を進め、イングランド国教会やプロテスタント勢力を弾圧し、王国内に軋轢を生じさせた(後世、血塗られた女王という意味でブラッディーメアリーと呼ばれる)。その後を継いで1558年に即位したエリザベス1世は父の打ち立てたイングランド国教会を復権し、国王の優位性、絶対王政をすすめた。後述するスペインの無敵艦隊を破って、世界へ躍り出たイングランド、やがて世界に冠たる大英帝国へと成長させる第一歩を築いた女王として知られる。しかし、周辺のカトリック勢力からの圧力や、スコットランド女王メアリーとの王位正統性争いなどで不安定な出足であった。やがて、メアリーを処刑し王権を確実なものとした。ヘンリー8世からエリザベス1世治世のこの頃のイングランドは王位継承を巡り、政略婚、権謀術数、陰謀と殺戮が繰り返される殺伐とした時代であった。ロンドン塔の血塗られた歴史は主にこの頃の「反逆者」として処刑された幾多の王族、貴族や臣下の呪いの歴史である。エリザベスの母アン・ブーリンもここで処刑だれた。忠臣トマス.クロムウェルもまたロンドン塔で処刑される。その中でエリザベスは比較的穏健な統治を行ったとも言われる。またシェークスピアやマローンなどが活躍し、文芸や演劇が盛んになった時代でもある。

いっぽうで、 スペインの植民地であったオランダは1588年には長年のスペイン支配から独立し、海洋王国として世界へ進出する。この頃のイングランドはオランダと同盟を組んでスペイン/ポルトガルと対抗し、世界への進出を試みる。のちにオランダ船リーフデ号が日本の豊後にたどり着いた時、乗っていたのはウィリアム・アダムスで、徳川家康に外交顧問として士分で召抱えられ三浦按針と名乗った。彼はイングランドのギリンガム出身の航海士でイギリス人である。この辺が、この頃のオランダとイギリス(イングランド)の関係を示していて面白い。


イギリスと日本 歴史の同期とデジャヴ

実は、このイングランドにおけるエリザベス1世の治世(1558〜1603年)の時代は日本における「天下統一」の時代とぴったり重なる。戦国乱世の時代から抜け出した織田信長が天下統一を目指し(1560年桶狭間の戦い、1575年長篠の戦い))、本能寺の変(1582年)で野望が挫かれ、その後を継いだ豊臣秀吉が1585年関白そして太閤という天下人となる。しかし、1600年徳川家康が関ヶ原で勝利すると征夷大将軍として江戸幕府を開く。この信長、秀吉、家康という3人の英雄の時代である。徳川家康は1615年の大阪の陣で豊臣家を滅ぼし天下統一を果たした。日本人なら誰でも知っている戦国乱世と天下統一の物語である。ちょうどエリザベス1世が、1588年「アルマダ海戦」スペイン無敵艦隊を破りイングランドの統一と繁栄の基礎を築いた時期と重なる。ユーラシア大陸の東西両端の島国で、時を同じくして「天下統一」を果たした。現代の日本では「大河ドラマ」で最も人気のある時代でもある。

またこれに遡る1534年はエリザベス1世の父、ヘンリー8世が首長令を発し、先述のようにローマ法王の権威を排した年である。宗教的にも王権的にも独立を宣言した年である。この時期は、日本では下克上、群雄割拠の戦乱の時代で、天皇家/朝廷の権威、室町将軍家の権威が著しく衰微した時期である(1535〜50年)。これまた時を同じくしてユーラシア大陸辺縁で、既存の権威が衰微し新しい秩序が生まれた。こうして天下統一、王権の確立、国の繁栄、海外進出の動きが、まるで共振するように起きた時期である。中世から近世へと歴史が大きく舞台転換した時代である。

このイングランドが世界に進出する大きなきっかけとなったのが、前出の1588年エリザベス1世の時代の「アルマダの海戦」による勝利だ。すなわち世界を支配する大帝国スペインがイングランドに差し向けた「無敵艦隊」(Invincible Armada)を英仏海峡でイングランドの艦隊が撃破したという歴史的事件だ。フェリペ2世が艦隊を出した理由はイングランドの王位継承争いに介入するとともに、イングランドの私掠船、すなわち海賊がスペインの商船を襲い掠奪が横行したためだと言われる。この時のスペイン艦隊は大型の艦船を集結させたとはいえ寄せ集めの船団で、相手の艦船に兵が乗り移って奪取すると言う古式に則った戦法をとっていた。一方のイングランドの方も寄せ集めである点では大同小異であったが、小さくて機動力のある艦船で近寄っては銃撃、砲撃により火をつけて逃げるという、後世の砲艦戦法をとっていた。とはいえイングランドの艦隊はその兵力の点でとても勝ち目はなかったが、スペイン艦隊は結局は大嵐に遭い大打撃を受け撤退を余儀なくされた。こうして弱小であったイングランド艦隊は、幸運な嵐の力も借りスペインの「無敵艦隊」を撃退した。こののちフェリペ2世はは艦隊を立て直すが、これをきっかけに大帝国スペインの退潮が顕著となる。一方のイングランドはこの事件でスペインの制海権を奪い、閉塞されていた英仏海峡を脱し、ビスケー湾から大西洋へ抜け出すことが可能となり、勇躍、世界の七つの海へと進出して行った。エリザベス1世からの勅許を得た冒険的商人(海賊とも言う)フランシス・ドレイクや、ジョン・ホーキンスなどの優れた航海者の活躍があったなればこそであった。

ところでこの話、どこかの国の歴史的出来事を思い出さないだろうか。 そう、1901年、まだ東洋の弱小国であった日本の東郷平八郎率いる連合艦隊が、世界でも最強のロシアのバルチック艦隊を破った「日本海海戦」である。こうして日露戦争に勝利し、世界有数の海軍国になった。これをきっかけに日本は帝国の版図をアジアに広げてゆく。まだある。時代を遡ると13世紀の元寇の時にモンゴルと高麗の遠征軍が大挙して博多に攻め込んだときに嵐にあって壊滅し、国難を回避できた話と同じではないか。またスペインは倭寇(海賊)に手を焼いた明朝のようでもある。大陸の辺縁にある海洋国家が大陸国家の覇権を破って、独立を保ち、海外進出する時のストーリーは似ている。洋の東西を問わず歴史の転換点には似たような事件が起こる。デジャヴである。


極東における宗教戦争とイギリス

これに先立つ15世紀は「大航海時代」の幕開けの時代だ。この時の主役はイベリア半島のカトリック国、ポルトガルとスペインであった。ポルトガルは1488年にアフリカ最南端にバーソロミューディアスが希望峰を発見し、さらにバスコ・ダ・ガマが1498年からインドカリカットへ到達。東回りルートでアジアへ進出した。そこを拠点にマラッカ。マカオと、アジアへ一早く進出を果たす。一方のスペインは大西洋を西に向かい1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達する。そして新大陸を植民地化してゆく。1519〜22年、マゼランは世界一周航路を開拓。

しかし、彼らが日本に到達するのはもう少し時間がかかった。まずポルトガルが日本に「遭遇」したのは1543年。マカオを出た中国のジャンク船が種子島に漂着した時であった。この時に同乗していたポルトガル人が島に上陸した。日本人とポルトガル人が初めて遭遇した瞬間である。意図してやって来たというより偶然の到達であった。その際、日本に鉄砲を伝えた。それが戦国の戦いを大きく変え、鉄砲を戦術的にい生かしたものが乱世を終わらせ天下を統一した。この時期、ローマカトリック教会は、ヨーロッパ諸国での新教勢力との争いの中で信者を失い、カトリック教国を減らし続けた。法皇は失地を回復して新たな信者拡大を目指し、イエズス会のようなアグレッシブな海外布教集団を組織し、スペインやポルトガルの植民地獲得に歩調を合わせて海外へ出かけて行った。そうしてそのイエズス会の宣教師がマカオで出会ったポルトガル人や日本人から話を聞き日本にやってきた。

日本との関係を少し時系列的に整理してみよう。

1543年、ポルトガル人、種子島に漂着。鉄砲伝来。
1549年、ローマ・カトリック教会のイエズス会のフランシスコザビエルが布教のために鹿児島に上陸。以降、各地で布教活動を行う。
1555年、倭寇が明国に侵入。南京に侵入する。
1567年、ポルトガル船が長崎に来航。
1569年、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが信長に謁見(「日本史」)
1582〜90年、天正遣欧使節4人の少年がローマ法皇に謁見(バリニャーニよる「東方三賢人」の発見と信者獲得というプロパガンダ)
1588年、豊臣秀吉の倭寇の禁止。朱印状発行。日本人の南方進出始まる(マニラ、アユタヤに日本人街。日本のグローバル化)
1596年、スペイン船サンフェリペ号土佐に漂着
1587年、秀吉のバテレン追放令、キリシタン弾圧
1600年、(関ヶ原の戦いの5か月前)オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、イングランド人ウィリアム・アダムスとオランダ人ヤン・ヨーステンが家康に仕えることに。
1609年、バタビアのオランダ東インド会社が平戸に進出。
1613年、イングランドの東インド会社も平戸に進出(1623年には撤退)
1624年、スペインの来航禁止
1637〜38年、島原の乱
1639年、ポルトガルの追放。
1641年、オランダを長崎出島に遷す。鎖国開始

カトリック国スペイン/ポルトガルのキリスト教布教と一体となった植民地的支配権の拡大、という「陰謀説」が、これらの国に敵対する新教国オランダ、イギリスから吹き込まれる。まさにカトリック教会とプロテスタントの争いが日本に持ち込まれた。しかしオランダやイギリスは布教には関心を持たず、交易のみを求めた。その結果、徳川幕府によりキリスト教(カトリック)は禁教となり、バテレン追放令、キリシタン弾圧へと進む。1615年の大阪の陣で徳川方はオランダ、豊臣方はスペイン/ポルトガルの支援を受けたが、豊臣家滅亡とともに。スペイン/ポルトガル(カトリック勢力)が駆逐される。

と、ここまでは歴史の教科書で学んだ通りである。キリスト教禁教令は、厳しいキリシタンの弾圧の悲劇を生んだが、結果的には日本がスペインやポルトガルに征服されるのを防いだことになる。ちょうど、アメリカ大陸に進出したスペイン、ポルトガルにキリスト教布教とともにインカやアステカ、マヤが滅ぼされ、アジアではフィリピンが植民地化(1565年)されたような事態を防ぐことができたのかもしれない。日本におけるキリシタンの殉教の歴史は悲劇として記憶されているが、新大陸では多くの現地文明が抹殺され先住民族が苦難の歴史を記憶に刻んでいる。宗教対立はヨーロッパではさらに苛烈な異端審問、異教徒弾圧を生み、多くのプロテスタントが殺された。のちにはピューリタン(清教徒)が新大陸へ脱出することへと繋がる。日本がこのようなキリスト教国(旧教国)による略奪帝国主義的な支配の手に落ちなかったことは幸運であり、キリシタン弾圧という悲劇があったが、宗教対立による殺し合いが国内に持ち込まれなかったことは僥倖であった。ある意味で当時の日本の為政者は先見の明があったのかもしれない。

ポルトガルにとって日本との貿易は、日本の銀、銅を得て、中国の絹織物、絹糸、香木などを日本に売るという、三角貿易(当時の明朝は倭寇のせいで日明の直接交易を禁止していた)で大きな利益を得ていた。しかし一方で、当時の日本は、スぺイン/ポルトガルにとって佐渡や石見などの銀資源が魅力的であったが、その他にさしたる資源もなく、遥か本国から離れた極東の島を植民地にするインセンティブがあったかどうか疑問なしとしない。さらには植民地化を阻止できた主な理由の一つはおそらく、当時の日本は世界で最も大量の鉄砲を保有する有数の軍事大国になっていたことであろう。日本を中南米大陸におけるピサロやコルテスのような少数の現地派遣部隊で制圧することは困難であった。島原の乱でも、大量の火器で武装した幕府軍の前にポルトガル船もスペイン船もキリシタンの救助には現れなかった。また日本各地のキリシタン大名と言われる地方武士団やその配下の住人がキリスト教に帰依したとしても、スペイン国王に臣下の礼をとることはない。信長、秀吉、家康と「天下統一」が進み、国が戦国乱世/群雄割拠状態から脱していて統治の安定が実現しつつあった。宣教師たちは仏教勢力を異教徒、邪宗とみなしてたびたび宗教論争して戦ったが、衰微したとは言え上古からの「宗教権威」、当時の武家政権にとって「統治権威」である天皇の存在を過小評価していたと思われる。ローマ教皇やスペイン王の威光もここでは通じなかっただろう。こうして秀吉や家康、家光が宣教師を追放し、キリスト教を禁止し、ポルトガル/スペインを締め出すのは時間の問題であった。そこへ新教国のオランダ/イギリスがやってきたわけだ。特にウィリアム・アダムスの出現は、偶然の出会いとはいえ家康の意思決定に大きな意味を持ったと考える。

ちなみに戦国乱世が終わって天下太平になると活躍の場を失い失職する武士(サムライ)が増え、あるいは主家を失った敗者側の残党(大坂城脱出組)が世にあふれた。彼らはあらたな戦いの場を求め傭兵としてオランダ船で海外へ渡ったと言われている。彼らがオランダの海洋植民帝国の拡大に貢献した。記録が少なく正確には解明されていないがもう一つの歴史を担ったサムライたちがいたことを記憶しておきたい。もともと秀吉の頃から朱印船貿易の拡大で末次平蔵、茶屋四郎二郎などの大商人をはじめ、多くの日本人が海外へ進出し、アユタヤ、ルソン、ジャワ、台湾等々に日本人街を形成した。当時の日本人にとって、海外進出は(我々が今思っているほど)稀有なことではなく、こうした時代は徳川体制下での「鎖国」まで約100年続いた。ヨーロッパ人の極東進出がきっかけとなり、日本人も積極的に東南アジアへ出てゆくまさに「グローバル化」の時代であった。それが徳川政権初期のいわゆる一連の「鎖国」政策により、日本人の渡航が禁じられ、海外からの帰国も禁じられる。こうして海外に置き去りにされた日本人が多数いたことは想像に難くない。これから240年の長きにわたる幕府による管理貿易体制(「鎖国」体制)が、すっかり日本人をグローバルな活動から遠避けてしまった。日本人の海外進出とその後。これからの研究テーマである。


ウィリアム・アダムスが果たした役割

ウィリアム・アダムスは、前にも述べたようにオランダ船リーフデ号でやってきたがイギリス(イングランド)人である。まさにエリザベス1世治世下のイングランド、ギリンガムに生まれた。1597年オランダのロッテルダムから5隻のオランダ商船艦隊が東洋に向けて船出した。彼はこの艦隊に航海士として加わった。西回りでマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、日本の豊後沖に到着(ほぼ漂着に等しかった)した時には難破船状態のリーフデ号一隻になっていた。アダムスは過酷な航海の末、ヤン・ヨーステン等数名のオランダ人(その詳細が不明であるがメルヒオール・ファン・サントフォールというオランダ人が日本人と結婚して家族を持ったという記録が見つかっているようだ)とともに大坂へ連行され、幕府の尋問を受けた。その後、徳川家康の信任を受け、彼の外交顧問としてヤン・ヨーステン(耶楊子と名乗り、のちの八重洲となる)とともに士分に取り立てられる。彼は江戸日本橋に屋敷を、そして三浦半島の逸見に知行を与えられて三浦按針と名乗る。アダムスはヨーロッパで起きている旧教/新教の宗教対立、旧教国ポルトガル/スペインの帝国主義的野望を家康に説いただけでなく、プロテスタント布教を抜きにしたオランダやイングランドの東インド会社の日本進出には積極的に助力し、家康もポルトガルの貿易独占に対する対抗軸としてオランダを利用するという、したたかな外交戦略を取るようになる。その結果、平戸のオランダ商館が開設される。これ以降、商館が長崎に移ったのちも幕末までオランダの独占的な出島貿易が続くことになる。

このように、リーフデ号日本到達。オランダ人、イングランド人が日本で生存、のニュースは、思ったより早く本国に到達し(それだけ多くの船、人、物の海上流通/情報ネットワークが日本近海で成立していたことに驚かされる)、オランダもイングランドも日本への進出のため船団を送り出す。しかし、アダムスはその後にやってきた母国イングランドの東インド会社のジョン・セーリスとはウマが合わず、平戸にイングランドの商館が開設されたが、アダムスはあまり協力的ではなかったと言われている。セーリスは気位の高い上流階級出身の人物。アダムスは庶民階級の航海士。そうした身分的な背景が影響したとも言われるがそれ以上のものがあった。セーリスがイングランド国王ジェームス1世(エリザベス1世が亡くなり跡を継いだ)の名代として駿府にいた(皇帝)家康に謁見を申し出て、アダムスがそれを取り次いだが、アダムスはすでに家康の家臣、三浦按針であり、プライドを持った日本のサムライとして生きていた。それがセーリスには違和感というか、不快感というか、誇り高きイングランド国王の勅許を得た東インド会社の代表としては受け入れ難かったようだ。一方のアダムスは、久しぶりに会う母国人の異国の地における傲慢な態度に、「わかってないな、それは違うだろう」と感じた。結局アダムスはセーリスが帰国する時にクローブ号にアダムス用に船室が用意されたにもかかわらず乗船せず帰国しなかった。ちなみにこのクローブ号には15名の日本人が乗船してイングランドまで行ったと航海記録がある。初めてイングランドに到達した日本人だ。彼らはその後帰国を果たしたらしい。この他にもイングランドのキャベンディッシュ艦隊にも日本人が乗船していたらしい記述がある。こうした歴史に名を残していない日本人が書いた手紙などの記録が見つかれば、新たな海外交流史が解明されるだろう。

アダムスはのちに平戸のイングランド商館員となるが、イングランドはオランダとの競争に敗れ日本から撤退することになる。これがのちの大英帝国が日本植民地化へと食指を伸ばす動きを封じ込めた可能性がある。少なくとも行動を起こす時宜を失わしめたと考えられる。平戸撤退後、東インド会社ロンドン本社では再び日本へ進出する動きがあったが、当時の平戸イギリス商館の生き残りの人物が、再進出に消極的アドバイスをしたと言われている。彼に影響を与えたのはアダムスで、日本は統治がうまく行っている大国であり植民地化するには難しい国であることを語ったとも言われている。大英帝国にとって、かつてのスペイン帝国同様、はるか極東の島国日本を植民地化するインセンティブがどれくらいあったかは別として、やはりサムライウィリアムス、三浦按針の影が、その日英両国の歴史的な意思決定の背後にはチラチラと見え隠れする。彼自身が残した資料は十一の手紙くらいしか残っていないが、彼に関する記述はオランダ商館日誌や手紙、イギリス商館日誌、手紙などに見ることができる。これらの資料の批判的な解読によりに、さらにアダムスが果たした役割についての研究を進める価値があるように感じる。ちなみに今年は三浦按針没後400年になる。


その後のイギリスと日本

16世紀におけるポルトガル/スペインやそれに続くオランダ/イギリスと、日本との出会い(ファーストコンタクト)の時点では、決して日本がヨーロッパ諸国と比べて文化的に野蛮であるとか、劣っているということはなかった。いや、異質な文化で理解に困難さを伴うものではあったかもしれないが、むしろユーラシア大陸の西の辺縁に位置し、イスラム世界に閉塞されていたヨーロッパよりも広大なアジアの方が人口の点でも経済的な規模、文化的な成熟度でも優位な位置にあった。中世を通じてヨーロパを圧迫し続けていたイスラム世界は言うに及ばず、インドのムガル帝国や中国の明朝は世界の文明国、先進国であったし、日本もその東アジア世界でその文化圏、経済圏の中にいた。であったからこそヨーロッパは、そうした経済圏に進出しようとした。これが、後世(しかもヨーロッパ人が)「大航海時代」とか「大発見時代」とか称した時代なのだ。先述のようにイギリスはヨーロッパの中でも後発国であったが、しかし16、17世紀が終わると、この後イギリスは植民地獲得闘争に明け暮れ七つの海を支配する大英帝国となり、産業革命を経て世界最強国となる。一方の日本は国を閉ざして、240年戦争のない独特の江戸文化花咲く、世界史の奇跡のような国になる。そして19世紀後半になって、ふと眠りから覚めた日本はイギリスの強大さと隆盛に驚き、尊敬する隣国、清国の香港の現状から日本が植民地化されることを恐れ、イギリスに追いつき、追い越そうと努力する(これがセカンドコンタクト)。20世紀に入ると二つの世界大戦で大英帝国はアメリカというかつての植民地に成立した新興国に凌駕され、また日本にもアジアの帝国植民地での戦いで軍事的は敗北を期し、最終的に戦勝国になったものの、多くの植民地を失なう。そして戦後は経済成長で日本に追い越されてしまう。しかし、その日本も未曾有の敗戦を期しすべてを失った。しかし戦後の復興は目覚しく高度経済成長、GDP世界第二位の経済大国の道を歩むが、その繁栄はまさにあっけなくバブルと弾け20世紀末期から21世紀にかけて高度経済成長の時代が終わりを迎え、これまで尊敬はするが遅れた文明の象徴とみなされていた中国に追い越される。早くも日本はイギリスの後を追い老大国の道を歩み始めた。大国の興亡はめぐりめぐる。

こう見てくるとユーラシア大陸の東西の両端にあった島国の栄枯盛衰、その歩んできた歴史は大きく異なるように見えるが、実は奇しくも共鳴しあって、ある意味左右対象の相似形のように世界史にその足跡を記して来た。両国が統一国家としてのまとまりが形成された16世紀から400年余りという、長い歴史のようで、ほんの瞬きに間の出来事だ。イギリスと日本という島国。世界的な覇権を握ったタイミング、時間の長短の差こそあれ、まさに栄枯盛衰「一炊の夢」である。


参考文献:

「バテレンの世紀」渡辺京二
「クアトロ・ラガッツィ」若桑みどり
「さむらいウィリアムズ」ジャイルズ・ミルトン
「三浦按針 その時代と生涯」森良和
「航海者 上・下」白石一郎
「日本史」ルイス・フロイス
「MAGI」日本TBS映画
「沈黙」マーティン・スコセッシ監督


過去のブログ:

2009年12月28日「大航海時代 東と西の遭遇 ウィリアム・アダムスの生きた時代」

2019年1月31日「仏教伝来とキリスト教伝来〜グローバル化の受容と拒絶〜


16世紀という同じ時代を生きた人々の肖像:


イングランド王ヘンリー8世 (1491-1547)
イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603)

スコットランド女王メアリー・スチュアート (1542-1587)

ウィリアム・アダムス (1564-1620)


織田信長 (1534-1582)

豊臣秀吉 (1537-1598)
徳川家康 (1543-1616)
 肖像画、絵画はWikipediaからの引用。



2020年7月1日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか(第五弾)〜考古学はどのように語っているのか?〜

三輪山
この山麓に「おおやまと」という「クニ」が生まれた

2009年三輪山山麓で古代居館跡が発見された
纒向遺跡である

箸墓古墳
「おおやまと」の初代の王の墳墓だと考えられる
三輪山を背景に


これまでは中国の史書、そして日本の文献史料「古事記」と「日本書紀」を読み解き、文献史学的アプローチから「初期ヤマト王権」をプロファイリングしてきた。そして考古学的アプローチからその姿をあきらかにすることができないものかと考えていたところに、興味深い本を見つけた。坂靖氏による「ヤマト王権の古代学」(「おおやまと」の王から倭国の王へ」)2020年1月新泉社刊、だ。氏は奈良県立橿原考古学研究所で長く県内の発掘調査に携わってきた考古学研究者である


「俯瞰的」研究アプローチ

著者は橿原考古学研究所による大和盆地各地の長年の、かつ広範な考古学的発掘調査の成果をもとに、北部九州や近畿地方の発掘成果をも広く取り入れて、かつ中国の史書、日本書紀、古事記にも言及し「ヤマト王権」の出自、発展の過程を描いている。この多様なソースにアクセスしながら「俯瞰的」に見ると言う視座が重要だと思う。文献史学研究者はともすれば、自分の研究領域に関する資料にあまりにも固執して全体を見ない傾向に陥りがちであるように感じる。一方の、考古学研究者はさらにその傾向が強く、自分のテリトリーの地域や対象の成果物を中心に置き、そこから全体を判断しがちだ。こうしたアプローチの仕方、思考回路を断ち切って全体を「俯瞰」し、距離をとって客観視する。その中に専門領域の研究成果を位置付け、評価してみる。そう言う研究手法が大事だと思う。

本書は、奈良盆地という地理的範囲、考古学という研究領域を超えて「ヤマト王権」の実像に迫っている。結論から言うと、まずは邪馬台国は北部九州にあり、近畿に発生したヤマト王権とは別のものであるとする。この時代は日本列島にはいくつかの地方勢力が分立した状態であり、いまだ統一的な政治勢力や「王権」は存在しなかったと。その上で「ヤマト王権」の出自を奈良盆地の三輪山山麓の「おおやまと」地域の首長であるとしている。以前考察したような「チクシ勢力のヤマトへの移動」という仮説を支持してはいない。土着の勢力が発展したとしている。これまでも述べてきたように、邪馬台国北部九州説については異論はないので、その論考をここで改めて紹介しないが、著者も相変わらず邪馬台国近畿説が多数説であると注釈している。邪馬台国がヤマトにはなかったことをこれだけ考古学的にも証拠立てて説明し、その論旨は極めて明確であるにもかかわらず、いまだに近畿説が優勢であるといわざるを得ない事情が何かあるのだろうか。地元の(所属していた)橿原考古学研究所的立場がそうなのだろうか?つい余計な邪推をしてみたくなる。


邪馬台国時代(3世紀前半)のヤマトの姿

3世紀前半(弥生後期)に、中国王朝と通交(朝貢/冊封)をもった勢力は大和にはなかったとする。北部九州に多く出土する楽浪郡系の土器も大和盆地には検出されない。この頃奈良盆地には巨大な環濠集落遺跡、唐古・鍵遺跡が見つかっているが、弥生時代を代表する大きな集落であることは否定しないものの農耕生産の地域集落であり、「国」と呼べるような政治勢力ではない。また同時期に「おおやまと」地域に纏向をはじめとする大小いくつかの地域勢力としての「クニ」が認められるし、その首長である「オウ」の存在が認められる。その墳墓が大和古墳群の大型古墳であるとする。しかし、その遺構(纒向遺跡)の規模は(古墳は巨大であるが)、同時代(庄内式土器期)の北部九州チクシの奴国王都とされる須玖・岡本遺跡や比恵・那珂遺跡、伊都国王都と考えられる三雲南小路遺跡や井原遺跡、あるいは、河内の中田遺跡群や加美・久宝寺遺跡群などに比べても規模の小さいものである。また朝貢/冊封による統治権の認証の証拠たる「威信材」に至っては、北部九州にのみ検出されており、箸墓古墳や行燈山古墳、渋谷向谷古墳などの大型古墳が並ぶ「おおやまと」古墳群においても見つかっていない(宮内庁が陵墓指定している古墳の調査はできないが)。すなわち政治勢力としての「国」、その統治者である「王」の存在の証拠は大和盆地には見つかっていないことになる。むろん「邪馬台国女王卑弥呼」の存在を示す「しるし」も見つかっていない。

奈良盆地の三輪山の麓に広がる「おおやまと」地域に発生した地域勢力「クニ」が発展して国になり、その首長「オウ」が「王」になって勢力を拡大していくのだが、この時点(3世紀前半)では北部九州チクシ倭国に優越する「国」の存在はヤマトには認められない。しかし、この後その「クニ」が、3世紀後半〜4世紀には「国」となり、古墳時代を生み出し、5世紀の雄略大王(倭王武)の時代にはに列島各地に勢力を伸ばし朝鮮半島にも進出、6世紀継体大王の時代に、のちの飛鳥朝の天皇制という血縁による王統/皇統を形成していった。「ヤマト王権」の血縁系譜が始まったのは6世紀以降と言ってよい。著者は「ヤマト王権」の出自は奈良盆地の三輪山麓「おおやまと」であるとする。ではどのように「おおやまと」の地域首長「オウ」は政治的集団の「王」になっていったのか?


「オウ」と「王」は何が違うのか?

著者は、先に引用したように政治的権力を有する「王」と、その前段階の地域首長「オウ」、政治的まとまりである「国」と、その前段階の地域集団「クニ」とを区別して使っている。これは発展段階的な区分で使用しているのだろうと考えられる。しかし、「オウ」と「王」の違いは、その政治的な統治権威が誰に認証されているかの違いである。「オウ」は地域「クニ」の開発(農地の拡大、水路の確保)に実力を発揮し、地域「クニ」の民に押された「むらおさ」的な首長であるが、「王」はより上位の権威によってその「王」たる「国」の統治権威を与えられなくてはならない。その権威の象徴としての(上位権威から下賜された)印綬、鉄剣や玉や銅鏡といった威信材を保有している必要がある。こういう観点から北部九州チクシ王権の「王」たち(奴国王、伊都国王、邪馬台国女王)は、中国王朝の皇帝から統治権威を認証された(朝貢/冊封体制と言う形で)。その証左として印綬や銅鏡、鉄剣などを下賜され、それらが遺跡や墳墓からは検出されていることで彼らが「王」であったことが「証明」されている。

それに対しヤマト王権の「オウ」たちは、誰に(何によって)その統治権威を認証されて「王」になったのだろうか。少なくとも3世紀前半(弥生最晩期)、庄内式土器期、すなわち邪馬台国時代には、大和盆地からは、中国皇帝の威信材は全く出土していないことが明らかになっているわけであるから、この頃のヤマトの「オウ」たちは中国皇帝に朝貢/冊封して「王」となったわけではないということになる。するとだれがヤマトの「オウ」を「王」にしたのか?著者はこの点に関しては触れていない。考古学者としての推測を排した客観的、科学的姿勢なのでああろう。

しかしこの点は重要だ。すなわちヤマトの「オウ」は、自力で(いくつかの有力首長との同盟関係を得て)統治権威を周辺の勢力(と言ってもせいぜい最初は奈良盆地内)に認めさせていったのであろう。まずは大和盆地内、そして河内、摂津、和泉など畿内、さらにはその周辺に勢力を拡大してゆき、政治的な権威/権力を地方の首長たちに認めさせていった。しかしその場合、その権威/権力の源泉は、中国王朝からの冊封という外的権威でないとしたら、稲作の生産力や富の蓄積、鉄などの資源であったのか、それに伴う地域の祭祀を執り行う権威であったのか。そこを明らかにする必要がある。その統治権威のシンボルが3世紀後半に始まった大型古墳であったのだろう。こうした葬送儀礼にまつわる大型の建造物築造の背後にあるものはなんだったのか。考古学的な年代表現で言えば、庄内式土器期の次の時代の布留式土器期のこととなる。4世紀になると中国の文献史料に倭国との通交の記録が出てこないいわゆる「空白の4世紀」となる。これは中国王朝の混乱(五胡十六国)が主因であり中華世界の権威、朝貢/冊封体制が混乱したせいであろうが、一方で倭国側にも政治的な混乱があったことが考えられる。すなわち中国の朝貢/冊封体制下にあったチクシ倭国が(中国王朝の混乱で)衰退し、ヤマトが倭国の中心に成長した世紀であったと考えられる。このころのヤマトでは大型古墳が築造されるが、先述のように大陸との通交を示すような(あるいは威信材のような)副葬品は出ていない。おそらく中華王朝の権威とは独立した倭国支配の「統治権威」が生み出されていったのだろう。その後、5世紀の「倭の五王」が中国の南朝に朝鮮半島の軍事的支配権などを求めて朝貢しているが、必ずしも倭国内の統治権威の認証を求めたわけではない。その時の上表文で倭王武は父祖の時代から倭国内の勢力を討伐し(おそらくは同盟し)、平定していった様子を述べている。「そでい甲冑を貫き山川を跋渉し寧所にいとまあらず」である。すなわちチクシの倭王たちのように中国皇帝に倭国の統治権威認証を求めず、自力で支配権を広げていって「倭王」になったと言っている。やがてこの後は、徐々に中国皇帝に朝貢して冊封を求める統治権威認証の獲得をやめ、倭王自身が「統治権威」の源泉となり、地方の豪族や首長にその地域の統治を認める、倭王武(雄略大王)の「治天下大王」宣言と大王が官職を与える「官職制」を打ち立てていった様子が見て取れる(稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣に刻まれた銘文)。6世紀の継体大王の時期になると、血統による王統の継承、世襲制という観念が取り入れられ(それまでは血統による世襲や、皇統などといった概念は存在していなかった)、その権威を証明するための皇祖神創設、祭祀、神話の体系化、へと進み、さらに7世紀末から8世初頭ににかけて中国風の律令国家建設へと進んでいったと考えられる。その反映が、すなわち正史である「日本書紀」や天皇の記である「古事記」であり、その記述に、そもそもヤマト王権と繋がりのない朝貢/冊封国家、チクシの邪馬台国や女王卑弥呼の記述を避けることにつながっていったと考える。


「おおやまと」の「オウ」はいかにして「ヤマト王権」になったのか?

著者は「ヤマト王権」は奈良盆地の三輪山の麓の「おおやまと」地域に発生して成長し、勢力を拡大していった王権であるという。しかし、3世紀のチクシ王権の時代から、次のヤマト王権への移行過程は依然として見えてこない。なぜ、そのような奈良盆地の片隅にいた「おおやまと」地域勢力「クニ」が倭国を支配する「国」に発展していったのか。「オウ」が「王」になり、さらに「大王」になっていったのか。歴史学では「空白の4世紀」と言われる部分だが、考古学的にもこの間の事情を物語る遺物は少ない。その中で、4世紀後半に百済王から倭王に贈られたと言う「七支刀」が数少ないヤマトに残された有力な遺物である。これは倭国(おそらく初期のヤマト王権)が朝鮮半島へ進出した証であると考えられている。と同時に、この頃はすでにヤマト王権がチクシ王権に変わって倭国の有力政権であると、朝鮮三国(とりわけ百済)に認識されていた証拠でもある。あるいは、東晋、百済、ヤマトという、それぞれの地域王権が連携し、分裂した東アジア情勢を同盟で乗り切ろうとした証とも言える。しかし、チクシ倭国の邪馬台国の女王壱与の晋への遣使から100年余りの時間経過の間に何が起きたのか。この頃のヤマトに大陸との交流を物語る決定的な考古学的な発見は多くはない。しかし、ヤマト王権が大陸との通交なしに発展したとも考えにくい。黒塚古墳などの初期古墳から見つかる三角縁神獣鏡などの中国の影響を受けた鏡の出土はそれが舶載鏡ではないとしても、その(コピー)製造(量産)をヤマトのどこかで行っていた可能性が強い。また「おおやまと」地域の大型古墳の築造に大陸の影響は全くなかったのであろうか?著者は「ヤマト王権」は邪馬台国の持つ中国正史に記述された外交関係とは別の大陸(中国だけでなく朝鮮半島諸国)との外交関係や交流を持っていただろうと言う。ただ、大陸から離れた奈良盆地に発生した土着の地域勢力が、いかにして勢力を伸ばし、列島全体をを支配下に置き、さらに朝鮮半島まで歩みを伸ばすことができたのか。「おおやまと」の勢力は大陸との交流をどのように行っていたのか。意外にもこうしたことが未解明である。すなわち4世紀に朝鮮半島の3国間の紛争に百済に誘われて出兵しているが(好太王碑文)、この頃の倭国の支配権を誰が握っていたのか?ヤマトとチクシの関係はどのようなものであったのか依然として謎である。「空白の4世紀」と言われる所以である。おそらくこの間に倭国全体の支配力に関して、チクシ王権からヤマト王権への実力の移行があったのであろう。チクシ王権は中国王朝の混乱により統治権威の輝きは失われていて、伸びてきたヤマト王権の「実力」の前に、徐々に衰退し、地方勢力(依然として大陸に近いと言う地の利を生かして優位性を保ってはいただろうが)になっていったのだろう。と同時にヤマト王権は、混乱の中国王朝に変わって朝鮮半島諸国(特に百済や伽耶)との通交関係(朝貢・冊封関係とは別の)を深めてゆき、そして列島内の勢力を拡大していったのだろう。すなわち中国王朝との「朝貢」「冊封」体制からの離脱が始まり、いわば「自力」統治権威認証と権力の集中が始まったと考える事ができるのではないか。


しめくくり

筆者は最後にこう述べて締めくくっている。「ヤマト王権の時代とは何かと問われたとき、「おおやまと」の王として出発したヤマト王権の王が、倭国の王としての国家体制や秩序を徐々に形成し、6世紀にそれを完成させた時代であると結論づけることができよう。」(引用)。著者の論考は、私の持論を考古学的な観点から実証し、いくつかの点を支持するものであるので大いに読んでいて納得であった。しかし、結局はなぜ、どのように「おおやまと」の地域首長「オウ」が「王」となり、さらに「大王」として他の有力首長(豪族/氏族)を抑え(同盟し)倭國を支配下におき、朝鮮半島に進出しうる(支配したとは考えないが)統治権威と権力を得ていったのか。その力の源泉は何だったのか。著者が指摘するような生産力の拡大と強さだけでそうなったのか。それに加える力の源泉が何かあったのか。一方で、多くの考古学的な証拠が見つかっていないものの大陸との通交なしには考えられないとも指摘している。「おおやまと」土着の首長「オウ」が倭国の「大王」になってゆくその過程で、なにか大きなパラダイム変換(外来勢力のヤマト侵入など)はなかったのだろうか?土着の勢力がリニアに列島内に勢力を伸ばしていったとすることには少し無理があるように思う。大陸の周辺部に位置する列島国家という地政学的な立ち位置から、倭国/日本は常に大陸との関係性の中で生きてきた。東アジアの政治的、文化的影響を免れることなく生成され発展してきた。「おおやまと」の「オウ」「王」も例外ではないであろう。大陸との通交による対外的要因でなく6世紀までに列島内に勢力を伸ばしていったのだとすれば、それは何なのだったのか?あるいは大陸と通交していたとすればどことであったのか(三国志の時代の呉か?五胡十六国時代の朝鮮半島の役割はいかなるものであったのか)。大陸に近いチクシ勢力との関係は全くなかったのか。その答えに肉薄できなかったのが残念というほかない。もっともこれは考古学的アプローチだけでは解明できないだろう。文献史学、歴史学領域研究との協業が不可欠である。


唐古・鍵遺跡
弥生後期の環濠集落跡
箸墓古墳遠景

箸墓古墳
黒塚古墳頂上部からの展望




纏向居館跡発掘現場
2009年
現在は埋め戻されて史跡公園になているようだ

龍王山山頂から展望する「おおやまと」地域
左に大和三山と箸墓古墳、中央部に行燈山古墳、右に渋谷向山古墳
纒向遺跡はほぼ中央部に

(参考書籍)
ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ-坂-靖