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2021年7月23日金曜日

緊急事態宣言下の東京2020オリンピック開幕! 〜1964年とどう変わった?後世どのように評価されるのか?〜

1964年10月10日東京オリンピック開会式(朝日新聞アーカイブスより)


2021年7月23日の空


残念ながら五輪はすぐに風に流されてしまった

無観客、と言われてもね〜...
自宅でテレビ観戦が今回の王道?

一見、無観客に見えない会場。隈研吾マジック!こうなること予想してたのかな?

青い地球が浮き上がる演出
ドローンを使っているとか

大坂なおみが聖火点灯

聖火も点灯!大団円!ということでお開き


1964年10月10日、秋晴れの雲ひとつない青空の下、東京国立競技場でアジアで初のオリンピックが開会式を迎えた。あの真っ青な秋晴れの空にブルーインパルスの編隊飛行が描く五輪のマークがくっきりと浮き出た、今でもその光景が目に焼き付いている。古関裕而のオリンピックマーチが耳の底に響く。ワクワク、ドキドキする感動を与えてくれた東京オリンピック。中学生であった私に今でも鮮やかな記憶として残っているあの日。

19年前の惨めな敗戦から目覚ましく復興し、高度経済成長が始まった1964年の東京でのオリンピック。首都高速や環七、モノレールや豪華ホテルが次々現れる首都改造、新幹線開業、国立競技場、日本武道館やオリンピックプールなど華麗なオリンピック競技場が次々に建設され、日本が輝いていた時代だった。世界に誇れる「一等国」になったと皆がナイーブに信じた。世界に恥ずかしくない「公徳心」とか「公共マナー」が話題になり、ゴミ捨てマナー、整列乗車、交通マナー、公衆衛生など「民度」の向上にも努めた。舗装道路が少なく砂ぼこりまみれで交通渋滞が激しく、ゴミが散乱する汚い街東京が変わるきっかけになった。今は東京は世界一綺麗で安全な大都会だ、なんて言われているが、昔は違っていたのだ。その一方、古い東京、江戸の面影は消えてゆき、江戸下町の人情も紙のように薄くなってしまった。まあ、日本が一生懸命前進しようと頑張り、そのためには街が壊されても、自分の家が取り壊されても、掘割が埋められて水都江戸が姿を消しても、そして人情が薄くなっても「やむを得ない」と諦めた。オリンピックが大義となって全ての破壊も挑戦も許された時代だ。みんなが前を向いて進むことしか知らなかった。与えられた目標にむかってみんなで突っ走る。日本人の得意とする「集団成長モデル」が確立した瞬間だ。開高健の言葉、「満員電車で通勤して夜遅くまで働くので勤勉かと思えば朝からパチンコ屋が満員!」「近代的なビルがあると思えばその横には小さな建物が苔のようにびっしりへばり付いている」これが1964年頃の東京であった。

 そして東京2020オリンピックがついに今日、2021年7月23日に開会式を迎えた。1964年のオリンピックから57年後のことである。コロナパンデミックによる一年の延期という前代未聞の事態をへて今日を迎えたわけだが、今年になってもコロナは一向に収まらないどころか、変異株の登場で新たな感染爆発に見舞われる世界。こんなパンデミックのさなか、開催か、中止かとの論議の末(開催ありきであまり議論したとも言えないが)、IOCの恫喝と政治の思惑により開会強行(というか、なし崩しで開催)とあいなった。国民の55%が開催には反対。70%が政府の説明に納得しない、といっているのも関わらずだ。ただし観客を入れない無観客という前代未聞のオリンピックになってしまった。この間、開催国国民の不安と疑念をよそに、政府の思惑、IOCの独善性が露呈し、「そうだったのか!」が次々と明らかになる事態を目の当たりにして、頑張ってきたアスリートには気の毒だが国民のオリンピック熱はすっかり覚めてしまったようだ。「こんな時に何故オリンピックやるんだ?」「誰のためのオリンピックなのか?」という疑問符と、このオリパラを機に感染拡大中のパンデミックはどうなるのか?医療は大丈夫か?という不安と。公道での聖火リレーはほとんどが中止。とても歓迎ムードやお祭りムードでないことだけは確かだ。64年の時のワクワク、ドキドキはどこへいってしまったのか。

感染者数はここへ来て東京で千人を超える日が続き、22日時点で1979人。全国的にも急速に感染が拡大し、再び5000人を超えた。ついに第5波到来である。世界的にインド由来の変異株中心に爆発的な感染拡大が始まり、日本でもオリンピック期間中、開催都市である東京で4度目の「緊急事態宣言」: State of Emergencyが発令となった。しかも選手他オリンピック関係者の感染者も次々と確認され22日時点で106人となっている。しかし、それでもオリンピックはやる(IOCコーツ副委員長は「緊急事態:State of Emergencyでもやる!」と恫喝)。日本はワクチン接種が遅れていて。いまだに国民の20%しかワクチンを打っていない。急速に進めてきた接種は、突然ワクチン供給不足を理由に、急ブレーキ。にもかかわらずオリンピックはやる。オリンピックやりたいというなら、何故それに合わせてワクチン接種を進めなかったのか?誰でもわかることができなかったのは何故?「頭の良い人たち」が集まって下した「頭の悪い結論」の結果だ。一番の課題は医療体制の崩壊の危機だ。感染しても入院して治療してもらえない人の数が急増する。自宅で適切な医療処置がないまま死亡する人が現に出ている。保健衛生や医療の現場にとってはオリンピックどころではない戦時体制といって良い状況だ。そんな事態なのにオリンピック関連の感染者や熱中症患者の受け入れ要請をしてくる組織委員会に医師会は反発している。国民の命と健康を守れない可能性が高まっている。政治家も行政も医療専門家も口では危機感を言い募っているが、実際の意思決定と行動はその危機を回避する方向にはなされていない。「オリンピックはやる!」という意志だけは明確だが。

どうしてこんな合理的とはとても言えない意思決定ができるのか、みんなが「おかしい」と言いながら、コトはズルズルとなし崩しで進んでいく。街は今日から始まったオリンピック4連休の人出で溢れかえっている。わざわざこの時期に設定した4連休。新幹線や飛行機も久しぶりに帰省客で混雑状況だ。無観客の開会式が行われる国立競技場の周りは、少しでもオリンピックの雰囲気を味わおうと大勢の群衆が取り囲んでいる。東京は8月8日まで緊急事態宣言中じゃないのか?県を跨る移動は「自粛」するんじゃないのか?出かける人の意識が低いというのか?無観客なのに何故オリンピックだからと言って4連休にするのか?そうしておいて「不要不急の外出は控えよ!」と同じ人物が言うのは何故?全く支離滅裂としか言いようがない。

そもそもこのオリンピックは招致の時から混乱の極みであった。政治主導の迷走劇。方針の撤回と、運営責任者の辞任の連続。運営責任者に人権、人間の尊厳と歴史観への理解と配慮がない人物が多すぎる。結局は面白おかしいお笑いネタのノリでイベントとして捉える人間が中心のプロデュースに成り下がっていたわけだ。それが世界に通用すると思っている。しかもそれをチェックするマネジメントの見識も体制も責任者も不在(いや責任者はいるのだが、その適否を判断できる人ではなく丸投げ)。さらに用意周到とは無縁の粗雑なプロセス。日本品質はどこへいったのだろう?

国立競技場設計デザインの変更(2015年)

オリ/パラロゴエンブレムデザイン盗用疑惑で差し替え(2015年)

東京招致贈収賄疑惑で竹田JOC会長辞任(2019年)

暑さ対策でマラソン、競歩の札幌開催への突如変更

コロナパンデミックで開催の一年延期(2020年3月)

総合プロデューサー野村萬斎辞任(2020年3月)

森大会組織委員会会長の女性蔑視発言で辞任(2021年2月)

開会式演出プロデューサーの女性タレント容姿揶揄問題で辞任(2021年3月)

開会式直前に楽曲担当の過去の「いじめ」問題で辞任(開会式3日前)

反ユダヤ揶揄で開会式ショーディレクター解任(なんと開会式前日!)

まさに迷走の末の傷だらけのオリンピックだ。

「そんなこと言ったって始まってしまえばみんなオリンピックを楽しむんだよ」という人の心を見透かしたような米国三大ネットワークの一つ、NBCの会長の言葉。それがオリンピック放映権を牛耳る金権黒幕の言葉であるだけに、なんともやりきれないが、人々は結局はアスリートの活躍に狂喜乱舞し感涙するのは間違い無いだろう。開会式のお祭り騒ぎがが始まっただけで、スイッチがコロナからオリンピックに切り替わったような反応がSNS上に表れている。頑張るアスリートが悪いわけではない。素晴らしい競技に感動するのが悪いわけではない。祭りを求める庶民が悪いわけでもない。複雑な気分だ。1964年の時も、オリンピックに懐疑的であった作家、評論家も、一旦始まってしまうと「感動」を書き綴り始める。「テレビに齧り付いている民衆を見て「自立した抽象性」が人々を感動させる」と、芥川作家石川達三が書いている。東洋の魔女のストイックな戦いをテレビで観戦した有吉佐和子もその感動を激白している。まさに無観客、自宅でのTV/ネットでの観戦が主体となる今回の大会においては、その「自立した抽象性」に感動し酔いしれる人が増えるのだろう。しかもSNSで感動を共有するという、57年前には無かった事象が出現する。それが現代のリアリティーだと感じさせるデジタルテクノロジーの進化なのだから。しかしそれはそれでリアリティーを喪失した世界に別の危惧を抱かせるように思う。本来なら競技場でアスリート/観客一体となって感動を共有するはずのものなのだが。

選手団や関係者が続々と来日している。しかし、組織委員会が用意する検疫体制や日本人との接触を徹底的に避けさせる「バブル」と称する感染隔離対策に色々問題が発生している。基本は来日した選手/関係者をオリンピック選手村とホテルに隔離し、複数回のPCR検査を実施し、陽性者は出場させない。濃厚接触者も一定時間試合から隔離する。基本的に競技会場との間を行き来する以外、外出を許さない。違反すると関係先入場IDを没収する。報道関係者も同じ隔離政策が適用される。ところがこの措置に対する関係者の批判が相次いでいる。電車やバス、タクシーなど公共輸送機関に乗れない。コンビニで買い物すらできない。特に報道関係者は開催国の街の様子の取材ができないとクレームが。しかし一方で当然こんなルールなどものともしない連中は必ずいる。日本人のように言われたことを粛々とやる人間ばかりではない。マスクもしない、ワクチンも打たない。ルールで強制されることを絶対拒否する人間が必ずいるのだ。実際に外出やショッピング、飲食を楽しむものが出ている。逃亡して日本で働きたいと姿を消した選手も出てきた。いちいち組織委員会も監視などできないのだし。それに対し事務局はGPSによる監視体制の強化で対抗する。もういたちごっこの喧嘩だ。そして、想定通りというかオリンピック選手/関係者に感染者/陽性者が相次いでいおり、すでに100人を超えている。。

この来訪者をめぐる事態は我々日本人にとって、ある時代の混乱と迷走をデジャヴとして蘇らせる。すなわち幕末に黒船来航で開国したが、外国人を居留地横浜に押し込め、外出を制限し、日本人との接触を制限したやり方を彷彿とさせる。外国人を歓迎してに門戸を開いたのか、それともやはり本音は鎖国なのか?幕府のやり方は右顧左弁して徹底せず、それでも外国人はどんどん日本へやって来るし、来れば居留地にじっとはせず外へ出かけ、時に日本人とトラブルを起こす(その際たるものが生麦事件だ)。しかも、開国とともにコレラや天然痘などの感染症が日本に蔓延し、生活物資の買い占めなどで物価高を引き起こし、こうしたことが庶民を不安にしていった。これが開国反対、外国人襲撃という「攘夷」の根底にあった。攘夷は何も「神国日本を夷狄に蹂躙されてはならぬ」という尊王攘夷思想とか、「みやこに夷狄を入れるなんてもってのほかや」という孝明天皇の御意と関係なく、庶民にもわかりやすい形で不安と脅威を与えた。まさかこのグローバル時代の現代に!そんな攘夷だなんて、と思うかもしれないが、日本人に根強い「ウチとソトの二分法」による区別という思考様式が、こういうことをきっかけにムクムクと蘇り、外国人を見たら警戒せよという理不尽なルールがまかり通る瞬間である。あるホテルが「外人用」「日本人用」とエレベータを分けたことから大騒ぎになった。現在のオリンピック選手、競技関係者、報道クルーにたいする「バブル規制」はまさに現代の居留地である。コロナパンデミック、緊急事態だから仕方ないだろうという意見もあろうが、そもそもそんな状況で世界から人を招いてお祭りイベントやろうというのだから無理がある。その無理筋の結果、また「日本は特異な国」という悪評が蘇ることにもなりかねない。海外からの観戦者を受け入れないという決定はしたものの、本来海外からの歓迎すべき賓客であるはずが、まさかの「不良外国人」扱いされて「攘夷」の対象と化している。どこが「おもてなし」なのか?つまらないいざこざを惹起してコトをあらぬ方向に持っていってしまう。こんな異常な状態で開催強行するコトで、オリンピックが目指す本来の「平和の祭典」「友好の祭典」「多様性の祭典」で無くなってしまうのでは開催の意義はない。本当に「誰のためのオリンピックなのか?」残るのは不信感と後味の悪い思い出だけなんてごめんだ。

我々日本人が1964年に感じた東京オリンピックへの高揚感、ワクワク感、選手の活躍の感動、憧憬、スポーツの果たす役割といったものが、この56年でどこかへいってしまい、利権と政治の手段に堕してしまった感のあるオリンピックへの倦怠感があるのも事実だ。このきっかけとなったのはロスアンジェルスオリンピックだ。商業主義によるオリンピック興行成功は当時評価されたが、金と権力は腐る。結局はこうした世界がパンデミックに見舞われても金と政治を優先する。IOCは金儲けと政治プロパガンダを請け負う興行主に成り下がってしまった。IOCが近代オリンピックの原点に戻らないのであればもうオリンピックはいらない。クーベルタンはあの世で嘆いているだろう。どうも今回の一連の事態がIOC(ともう一つWHO)の評価を決めたようだ。一方で中国の新華社は北京冬季オリンピック開催を前にして、「日本は国威発揚の機会を失った!」などとコメントしているが、これこそオリンピックの開催意義を履き違えた国家の時代錯誤を露呈させてしまったようなコメントだ。彼らにとって北京冬季オリンピックは、結局「偉大なる中国共産党」の威光を世界に遺憾無く発揮するための政治的なプロパガンダの場なのだ。そうして人民の愛国心と党への忠誠心を高める。そのためには(前車の轍を踏まないよう)絶対成功させなくてはならないと言っている。我々日本は違う。「国威発揚」なんて時代はおかげさまで何十年も前に通過した。ナチスドイツのベルリン大会じゃあるまいし。戦前の日本の「お国のための愛国心」じゃあるまいし。あくまでも世界中から集うアスリートの活躍を祈るのみである。

1964年の東京オリンピックは日本にとって一つの時代のプロローグであった。戦後復興が終わり輝かしい未来に向かう「高度経済成長」と「グローバル化」という、日本にとっての右肩上がりで前進あるのみの「ある時代」の幕開けを飾るにふさわしい国家的イベントであった。新幹線、高速道路などの社会インフラ整備、建築遺産となりうる競技施設、ホテルなど、目に見えるレガシーを多く残した。しかし56年後の2020年の東京オリンピックはどうなのか?、皮肉にもコロナパンデミックがそれに加わって、その「ある時代」の賞味期限が来ても足踏み状態(空白の30年)が続き、それを乗り越えられないビジョンと目標を失った日本を象徴するイベントとなるように思えてならない。すなわち「ある時代」のエピローグである。実はコロナパンデミック、これこそ逆説的ではあるが現代に吹き渡る「神風」なのかもしれない。このオリンピックというノスタルジックな1964年の栄光の思い出に浸り、それに現代の状況を重ね合わせながら強行する東京2020。それにコロナパンデミックという先行きの見えない危機が覆い被さったこの嵐がまさに「神風」なのだ。しかし、この「神風」は、日本人が大好きな「根拠のない僥倖による奇跡」を引き起こしてくれるものではない。ようするに「八百万の神々の警告」だ。普段、日本の神は教えを説かないが、今回は国難に際して「災い転じて福となせ」「それはあなた自身がやることだ」と説いている。このエピローグは新しい時代の始まりを予感させるものでなければならない。東京2020が残すレガシーは決して新幹線や高速道路や競技会場などの物理的構造物ではないだろう。日本の政治体制にも、幕末の徳川幕藩体制と同様の運命が待ち受けている。攘夷から討幕へ。庶民の鬱積した感情のマグマが動き始め、やがては大きなパワーとなって噴出する。コロナパンデミックと変則オリンピックは日本に混乱をもたらすが、同時に中期的には変革をもたらすだろう。成熟国家への道といっていいかもしれない。黒船騒動は、最初は徳川幕府の緊急事態への対応の混乱が問題となったが、のちにそれが幕藩体制そのものが抱える根本的な問題に関わっていることに人々は気づいた。今回もこれを機会に「ある時代」の旧弊を捨て去り、「来るべき時代」を創造するムーヴメントに繋げなくてはなるまい。黒船が攘夷を引き起こし、やがてそれが倒幕という旧体制の打破へと転換し、新しい時代を創造する明治維新へと転変していったように。

とは言いつつも、オリンピックの喧騒が終わり、いつしかコロナも終息すると「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。諸々の迷走と混乱は人々の記憶から消え去る。まるで何事もなかったかのように。人は歴史に学ばない。カミュの「ペスト」の最後は「ペストは消え去らない。人間が忘れた頃、思わぬところで再び人間を襲う」。そのように結ばれている。




























2021年7月10日土曜日

古書を巡る旅(12)Things Japanese:「日本事物誌」 〜「古事記」を英訳したバジル・チェンバレンが描いたニッポン〜

 バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlainは英国人で、明治期の御雇外国人として日本に38年間住み、海軍兵学校の英語教師として、のちに日本語と言語学の教師として東京帝国大学に奉職した。偉大な言語学者として名声を得ており東大時代に彼の薫陶を得た英才も数多い。しかし、いかに明治の御雇外国人とはいえ、少々奇異な感じがするであろう。英国人が東大で英語教師ではなく日本語教師として教鞭をとったとは。彼は東大の文学部国文学科の祖と言われている。アーネスト・サトウ:Ernest Satow, ウィリアム・ジョージ.アストン:William George Astonとともに最も有名な英国人ジャパノロジストの一人である。ラフカディオ・ハーンとも親交があり往復書簡集が残っている。 チェンバレンは世界で初めて古事記を英訳したことで知られる。これをはじめとして日本の古典に精通しており、いくつもの研究成果を発表している。戦後のジャパノロジスト、サイデンステッカーやドナルド・キーン、ロナルド・ドアー、最近のロバート・キャンベルの先達と言って良い。今回取り上げるのはThings Japanese :日本事物誌(1890年初版)である。これはチェンバレンが初めて日本を紹介するために取りまとめた書籍で、ヨーロッパで人気となり彼が日本を離れてジュネーヴに転居してからも第6版が出版されている。 日本語訳は平凡社から東洋文庫シリーズ「日本事物誌」I, II 高梨健吉訳として出版されている。

以前のブログにも記したように、チェンバレンはラフカディオ・ハーンに大きな影響を与え、彼が日本、日本の文化に惹かれるきっかけを与えた人物の一人である。奇しくもこの二人は生まれが1850年の同い年。しかし、その生い立ちや背景が大きく異なる。この二人を巡る話を後半で取り上げる。

2020年6月12日古書をめぐる旅(2)ラフカディオ・ハーンを訪ねて


左からLafcadio Hearnの'Glimpses of Unfamiliar Japan', Basil Chamberlainの'Things Japanese'
そしてその和訳「日本事物誌」高梨健吉訳


バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlainの略歴




1850年 英国ポーツマス郊外に生まれる。父は海軍提督(少将)、母はスコットランド貴族で、初めて琉球王国に寄港し、「朝鮮・琉球航海記」を表したバジル・ホール海軍大佐の娘。チェンバレンはホールの孫ということになる。母の死後、フランスベルサイユに住む父方の祖母、叔母に育てられフランス語、ドイツ語で教育を受ける。ブラジル大使など国際的に活躍する一族の中で育った。大英帝国、ビクトリア朝時代の英国人のエリートの姿を象徴するようなバックグラウンドといっても良い。しかし体が弱く、オックスフォード入学を断念。1869年に療養を兼ねて3年間の外遊に出る。マルタ、イタリア、スイス、ギリシアなどを訪れたのち、東洋へ向かうテルモビレー号に乗船して長い航海に出る。そして1873年に日本にたどり着く。

1873年(明治6年) 御雇外国人として来日(23歳の時)

1874−82年 海軍兵学校の英語教師

1882年 初めて「古事記」:KO-JI-KI or Records of Ancient Mattersの英訳を発表

1886年 東京帝国大学外国人教師(日本語学)に就任

1888年 「口語日本語ハンドブック」:A Handbook of Colloquial Japanese出版

1890年 「日本事物誌」:Things Japanese初版

1891年 マレー版「日本旅行ガイドブック」:A Handbook of Travellers in Japan アーネスト・サトウ共著の初版を引き継いだもの

1904年 箱根宮の下富士屋旅館に文庫を建て逗留 執筆活動に勤しむ

1911年(明治44年) 離日。 東京帝国大学名誉教師に ジュネーヴに居住 執筆活動を続ける

1934年 日本事物誌の改訂(第6版)を行う

1935年 ジュネーヴにて没す


チェンバレンの日本語研究者としての功績

こうしてみるとチェンバレンは23歳で来日し、61歳で離日。通算38年日本に滞在した。この滞在期間中、東京帝国大学では後進の指導にも尽力し、中でも直接の指導を受けた上田萬年(かずとし)は、チェンバレンの後任として東京帝国大学国語学教室主任教授となり、さらに文科大学学長、文学部長として日本の国語学、言語学の基礎を築いた。また直接の弟子ではないが佐々木信綱もチェンバレンから能楽、謡曲のインスピレーションを得たと言われている。彼の研究著作でやはり特筆すべきは古事記の英訳であろう。どうやって日本語を、しかも古典を学んだのか。古事記英訳に取り組んだのは日本に来て9年目のことである。彼は「私は外国語を学ぶことがいつも好きであった」と言い、すでにフランス語、ドイツ語で教育を受けているのでマルチリンガルではある。それにしてもいかにチェンバレンが数ヶ国語を使いこなすとはいえ、ラテン語系列以外の言語である日本語を古典から学び、さらには琉球語、アイヌ語にわたり学び研究している。これは大変ハードルが高い挑戦であったろうと推察する。その成果が評価されて帝大の「日本語学」の教師になっているのである。チェンバレンの最初の日本語教師は両刀を腰にたばさんだ老武士であったと述べている。最初に手がけた本が古今集。おそらく素読からスタートしてのであろう。これに含まれている「君が代」を英訳している。それ以外にも古典を数多く学んだ。さらに近代作品も読んだ。その後、古事記の英訳、「琉球語の文法と語彙に関する試論」「芭蕉と日本の俳句」「アイヌ研究より見たる日本の言語、神話、地名」等々を次々と発表した。このように琉球語とアイヌ語についても研究しているが、彼の研究アプローチはあくまでも日本語との関係を念頭に置いたそれである。その結果、琉球語は日本語とルーツを共有する姉妹言語。アイヌ語は似ているところもあるがルーツは異なるとしている(東京女子大の櫻井美智子氏の研究がある)。また万葉集に用いられる「枕詞」の研究も行なっていたようである。これに関しては現代の若手の研究者の論文(早稲田大学博士課程の高橋憲子氏)がネット検索で引っかかってくるので興味ある方は参照願いたい。こうしたあくなき好奇心と探究心、猛烈な語学力が、彼をしてジャパノロジストの巨人たらしめたのだろう。もっとも古事記に登場する天照大神、大国主命、イザナギ/イザナミをどう訳したのか。その訳が適切なものであるのか論争があるようだ。ギリシャ神話の神に擬えているという。これらは後世の研究者から批判されて、より適切な訳に変えられていったが、ともあれ西欧人による初めての翻訳であることの画期は色褪せることはない。彼の英訳「古事記」については日を改めて読んでみたい。


「日本事物誌」:Things Japanese

日本事物誌はそんな彼が取りまとめ出版した初めての日本紹介の本である。欧米からの日本に関する体系的な情報ソースへの期待に応える形で編纂された。A to Zという順で項目を記述する事典的な体裁をとっているが必ずしも事典ではない。トピックによっては紙幅を費やして詳細かつ熱心に彼自身の視点による分析と評価を記述しており、俯瞰的に日本を眺めることはできるが、客観的な記述とも言い切れない。彼の個性的な、まさに「事物」観察記録であるといった方が良い。

初版は1890年(明治23年)東京で出された。その後も版を重ね、1935年(昭和10年)に彼がジュネーブて死去する数ヶ月前に第6版が出された。彼は初版から45年経ったこの第6版の序文で、「この間に日本は大きく変わった。しかし、その変化も全てある定まった線に沿ってきたのである。それはあたかも、ほっそりした青年が成長して、肥満した中年の姿になったかのようである」と述べている。日本を見つめ解説してきた本書は、版を重ねてきたにもかかわらず、いくつかの項目の追加、統計数値のアップデートはあるものの基本的には変わらない(変える必要のない)人気の日本解説書であった。彼独自の視点による日本の文化や歴史、風俗に関する解説は、日本人の視点で読むと、近代化を加速する「イキがった若者」たる明治日本人に対する大人の警鐘でもあり、若者に対する愛ある眼差しでもあるように読める。明治以降の日本の有り様を解説した日本人研究者の書とは異なる視点を提供してくれるところが面白い。特に、彼の「仏教」「武士道」「儒教」「歴史と神話」の解説は興味深い。日本人のその道の専門家の聞き慣らされた講釈でないのが新鮮だし、国粋的な傾向も薄められ(新渡戸稲造のBushidoを批判している)、ある意味で日本人としての主観的な価値観に一定の距離を置き、この種の議論に付き纏いがちな右だ左だというレッテル貼りからも解放された簡潔でわかりやすい解説となっている。なかでも「歴史と神話」の項は古事記を研究し英訳したパイオニアであるチェンバレンのエッセンスが語られていると感じる。当時始まっていた皇国史観への批判的研究を規制する政府のありようにも批判的である。であるが故に国粋的立場に立つ研究者からは批判されるというオマケ付きだが。ただ第5版の序文の最後に彼は書いているが、「本書の主題は日本である。日本に対するヨーロッパ人の空想ではない。著者はただ、読者がさらに深く自分で研究できるように、問題に対する考え方を示したいと思って言及したわけである」と。ここでいうターゲットの読者はヨーロッパ人である。日本にロマンと幻想と偏った知識で偏見を抱いているヨーロッパ人である。そう、もともと日本人読者を意識した書いたものではない。それを読んで日本人がどう感じるかは、彼はあまり意識していないようだ。であるから、日本人に対する媚びへつらいや忖度はない。よってなお興味深い。

入手した原著は1905年の第5版でロンドンで出版されたものである。


'Things Japanese' 5th Edition 1905 London



チェンバレンの英訳による「古事記」:The Kojiki or Records of Ancient Matters
 ペーパーバック版
表紙に用いられた絵柄は全く時代錯誤だが...


ラフカディオ・ハーンとの交流と離反

先述のようにラフカディオ・ハーンは、チェンバレンの「古事記」に触発されて日本に強い関心を寄せるようになった。ハーンとチェンバレンは同い年であるが、ハーンが日本にやってきたのは1890年。松江尋常中学の教師として松江に赴任した。この時すでに東京帝国大学の外国人教師であったチェンバレンの推薦もあり、1896年には東京帝国大学の英文学講師に就任している。

こうして親交を深めた二人であったが、やがて考え方の相違からかお互いに疎遠になってゆく。そしてハーンの死後(1904年)チェンバレンのハーン批判がピークに達したと言われる。もっとも、後世の研究者はこうした「対立」を殊更に面白おかしく捉えがちであるが、双方とも信頼関係、敬愛関係は強固であった。決してそれが破局したわけではないと考える。結局は二人の立ち位置や捉え方の姿勢の違いがその背景にあり、それぞれ異なる道を歩むこととなったと見るべきであろう。それぞれの評論や評価が間違いであると言い切れるものではなかったのではないかと思慮する。(参考「往復書簡集」)

ではどのように違っていたのか。まだ書簡集を読み、詳細を研究したわけではないが、少しだけ現時点での私見を述べてみたい。


ハーンの日本観と背景

フィールドワークを重視する、ジャーナリスト、文人であり学者、研究者ではない。日本文化と伝承説話への深い共感と愛が根底にあり、そこから日本を理解しようというアプローチ。

背景には、幼少期のカトリックへの違和感と反発、アイルランド古来のケルト的自然神への傾倒、キリスト教伝来以前の自然神信仰、祖霊神信仰への回帰。これが日本の仏教伝来以前の神話や多神教的宗教観への共感の下地になっていると思われる。

アイルランド、イングランド、ギリシャ、アラブという多様な血筋を受け継ぎ、その多様な文化と価値観を有する自分自身の生い立ちを意識無意識に感じていたのであろう。松江に到着して宿でひと夜を過ごした彼の記述によると、彼が夢見ていた日本と、現実の日本が寸分違わぬものであったことに感動している("Blimpses of Unfamilier Japan"の冒頭書き出しで述べている)。その後、日本が富国強兵を進め、近代化、西欧化して「一等国」への道を誇り始めるにつれ、彼が有する「日本のあるべき姿」との乖離が広がり、徐々に幻滅を感じ始めている。

2020年6月12日古書をめぐる旅(2)ラフカディオ・ハーンを訪ねて


チェンバレンの日本観と背景

書斎学派の視点、すなわち書籍を通じた研究者の視点、研究アプローチをとる。また西欧文明と対比する「未開の文明」への興味から来る比較研究的な姿勢が根底にある。

自身はマルチリンガルでコスモポリタンであるが、基本的にはアングロサクソンの視点に立ち、西欧文明、ラテン言語圏のイングランド、フランス、ドイツなどの中での話。しかもハーンのように、キリスト教徒としての世界観と価値観への懐疑に立脚するわけではなく、それを底流とした西欧文明、文化を基盤、立ち位置とし比較対象としての「異教徒の文明」、東洋観、日本観になっている。

チェンバレンは日本事物誌の中でも、深い日本への造詣に裏打ちされた観察から、ヨーロッパ人の日本への理解の浅さと、一方的な西欧中心的な価値観に基づいた観察、あるいはエキゾチシズムから来るロマン主義に警鐘を鳴らしている。日本は変わった。古い日本は死んだ、とまでいっている。しかしその一方で、日本の文学についてこう述べている「日本文学は、その文学性において、英文学の詩歌と比べ劣るものである」「古典作品においても、想像的才能、思想、論理的な把握力、深さ、幅、多面性に欠けている」「総じて狭小で偉大ではない」と。

このチェンバレンの日本の文学への評価を、ハーンは西欧文明とは異なる日本独自の文明に根ざした文学の基層を理解しない言説であるとして異を唱えている。その背景には、日本の文学作品はキリスト教世界観、思想に裏打ちされていない、所詮は「異教徒」の文化の限界である、という理解があると批判している。チェンバレンがヨーロッパ人読者に「無理解による誤解やロマン」を戒めていることを考えると皮肉に見える。後世のジャパノロジストにおいてもハーンと同様の批判が展開されているが、古事記をその後英訳した英国人研究者もチェンバレンの先駆的な役割を高く評価しつつも、多くの誤解と誤りを正している。おそらくチェンバレンのこの理解は、短期間に西欧文明を取り入れて消化したと称する明治期日本人の高揚感への皮肉と、西欧文明の範を示すべき西欧人としての反応であったのかもしれない(アーネスト・サトウの日本観にも共通するものが散見される)。また古事記に描かれた神話と神代と区分なく人代の歴史を語るストーリー展開も、これは何も日本だけが誇る独自の世界観ではない。そのストーリーが一貫せず矛盾に満ち満ちた筋立てであるのは、太平洋諸島、中国などの大陸諸国に伝承された神話の数々を8世紀の編纂当時に取り入れた結果であり、必ずしも日本独自の神話だけで統一性を確保できているわけではないからであると分析している。この辺りは戦後になって皇国史観への批判、古事記/日本書紀の批判的研究が解禁になってもたらされる研究の先駆けとなる分析、考察であろう。さらには古代ギリシャ神話にも共通するもので独自性があるものではないとした。各国に伝わる神話が世界的に類似したエピソードを共有していることや、それらが地域を超えて交流していたことは神話学、民俗学的にも証明されてきているが、しかしこうした理解は当時のハーンなどに言わせれば、ギリシャ哲学やキリスト教世界観を前提にした理解であり、そのほかの世界を十把一からげにして論ずる愚と指摘している。

一方のチェンバレンはハーンのこうした日本に対する共感と愛を基層とした理解を「sympathetic understanding of Japan:日本への共感的理解から出発するのは学者がとるべきアプローチではない」と批判している。いかにも近代の科学的合理性/客観性を重視する研究者の姿勢である。ここからもこの二人の日本研究へのアプローチの違いと、さらにはその生い立ちやその後の経験に基づく背景の違いが見て取れるだろう。この批判はハーンの死後に出されてものであるが、ハーンが生きていたら、「私は学者であったことは一度もない」と反論しただろう。まあ、そもそも学問や言論というものはこのような自由で闊達な批判と修正が繰り返されるところに成り立つものである。まさに知的で健全な論争というべきであろう。

日本人にとっては圧倒的にハーンの方が人気があり、チェンバレンはあまり知らない人が多い。また海外でもハーンは人気の作家である。しかし、その人気はハーンが日本に帰化した「日本びいき」であり、日本を深く愛してくれたからということばかりではない(チェンバレンもそういう意味では「日本びいき」であったし日本を深く愛していた)。ハーンの市井の庶民から聞き書きした説話や小説や評論を軸とした表現方法のほうが多くの人々には受け入れやすく、また海外においてはエキゾチックなストーリーテラーとしてのハーンが人気を博するのは理解できるだろう。一方のチェンバレンは、研究論文と学術的な書籍を主たる表現手段とし、先述のような科学的合理性を旨とするアカデミア:研究者としての観察姿勢を世に問うたわけである。確かにチェンバレンの日本論、その批評は、当時は斬新であり、西欧諸国においても、明治以降急速に西欧化してきた日本を理解する上での貴重な論文であり研究書であり参考書であった。しかし、それは先述のように言語学者、研究者としての、客観的/合理的アプローチに基づくものであり、庶民から説話を聞き取り、記録するといった現場を踏むアプローチによらない手法によるものである点が、ハーンとは異なる。どちらが正しくてどちらかが間違っているという類の話ではないように思う。ただ、より幅広く、多岐にわたって日本の事象をカバーしたのはチェンバレンのほうであろう。

チェンバレンの日本観と、ハーンの日本観。それぞれどのように読み取るのか、どう受け止めるのか。結局は読み手次第である。一つ言えることは、基本的にはどちらの著作も、必ずしも当時の日本人を読み手として想定して書かれたものではなく、欧米の読者を意識して書いたものである点だ。それだけに日本人がこれらを読むことで、日本人研究者とは全く異なる視点を持つことができる。こうした複数の視点で物事を見る習慣、それによって物事を判断する習慣を身につけておくことが、混沌として不確実な世の中にあって物事を一方的で間違った理解をしないために必要であることを改めて感じる。