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2018年11月30日金曜日

2018年紅葉探訪 〜大阪城編〜




 大阪城公園は外国人観光客でごった返している。特に中国人観光客の数がすごい。ここはどこ?、私は誰?状態だ。光臨歓迎!聞こえてくる言葉も中国語ばかり。ワイワイガヤガヤ賑やかに近ずいてくるおばちゃんのグループの音量に、やはり「言葉がわからんと大声に感じるなあ」と思っていたら、なんや大阪のオバチャンや!。そんなこともあるのが大阪。大阪弁と中国語は韻と平仄が似ているのかもしれない。大阪のオバチャンも中国のオバチャンもカッコつけずおおらかですっきゃね〜! こうした賑やかな大阪城公園の意外な穴場は西の丸庭園。ここには大阪迎賓館と芝生広場がある。江戸時代には大坂城代屋敷があったところだ。結構な広さなのでイベントなので使われるスペースだ。この季節もなんだか電飾満載の夜間ライトアップイベントはあるようで、子供向けの電飾巻きつけられたフィギュア〜がいっぱい用意されていて日が暮れるのを待っていた。要するにイベントがない限りわざわざ入ってみようという観光施設ではない。しかも200円の入園料がいる。このコスパでは大阪人は絶対足を踏み入れない。欧米からの観光客は英語の「West Palace Garden」という魅力的な名前に惹かれて入ってくることもあるが、「金返せ!」とすぐに出てくる。私も大阪在住時、一度も足を踏み入れたことはない。今回、ある会合に向かう途中、時間調整で公園内を通り抜けるついでに、通りかかった西の丸庭園の受付で「中は何かあるんですか?」ととぼけた質問してみた。受付の女性は「中に茶室があってそこのイロハモミジが今真っ赤で綺麗ですよ!」と。聞いてみるもんだ。早速200円払って(ちなみにシニア割はない)初めて中に入った。なんとここからの大阪城天守閣の姿が最高に美しい。何より観光客が少なく、ゆったりしている。これが200円のコスパだ。そして、庭園の一番奥にある生垣に囲まれた茶室前にたどり着く。誰もいない。ここは松下幸之助翁の寄付による豊松庵である。なるほど大阪城を背景に今を盛りに紅葉が真っ赤に燃えている。なかなか見事だ。独り占め状態だ。京都の有名寺院で、行列して何千円も払ってもみくちゃになりながら紅葉見るよりいい。静謐なたたずまいも気に入った。茶室自体は門に鍵がかかっていてて、関係者以外立ち入り禁止。茶道の心得のある人以外お断り!みたいな無粋な看板が立っている。興ざめだ。禁止する方も、ズカズカ入ってゆく方もおよそ茶道の精神とは無縁の輩たちなのだろう。

 さはさりながら、ひととき晩秋のイロハモミジを堪能することができた。200円の入場料は無駄ではなかった。


豊松庵入り口





松下幸之助翁寄贈による茶室「豊松庵」




西の丸庭園からの天守閣が見事
大阪迎賓館

焔硝蔵
徳川大坂城の火薬庫であった
茶室の真向かいにある

西の丸庭園内の遊歩道



(撮影機材:Leica CL, Vario-Elmar-T 18-56 ASPH,  APO-Vario-Elmar-T 55-135 ASPH,  Super-Vario-Elmar-TL 11-23 ASPH)



2018年11月22日木曜日

旧公衆衛生院及び東京大学医科学研究所 〜近代建築遺産 内田ゴシックの再生〜





 久々に近代建築遺産を巡る旅に出た。と言っても都内の地下鉄三田線白金台から徒歩1分の旅。閉館となった旧国立公衆衛生院の建物が、最近リノベされて市民に開放されたと聞き出かけてみた。白金から目黒にかけては東京都庭園美術館や自然教育園があり、その目黒通り沿いに古色蒼然としたアカデミックな建築物が並ぶ一角があることには気づいていた。東京大学医科学研究所が白金にあることも知っていた。しかし公衆衛生院が隣接していたことは知らなかった。白金台駅を出ると、左の門が東大医科学研究所、右が旧公衆衛生院だ。緑濃いキャンパスに分け入ると改めてこんなすごい建物があったのかと感動する。さすが東京だ。開発著しい都心とはいえ、江戸以来の歴史を持つ帝都東京の建築遺産は豊富だ。そしてそれを貴重な都市の記憶、建築遺産として保存し、修復して現代の都市生活に生かそうとしている。東京が未来に向かって文化的にも成熟した豊かな街になるには、古いものの破壊ではなくこうしたリノベーションと持続的な活用が必要だ。

 中心に高層の塔屋を置き、左右両翼に研究棟が広がる旧公衆衛生院の建物。隣接する東京大学医科学研究所と対をなす近代建築遺産である。両方とも東京帝国大学建築学科教授内田祥三(よしかず。第14代東大総長)の設計になる。連続アーチを用いたゴシック建築(内田ゴシックと呼ばれている)。どこかで見たことあると感じた方も多かろう。そう本郷の安田講堂、東大付属総合図書館、医学部本館も内田の設計だ。この他にも法文経一号館、工学部一号館、旧制第一高等学校本館(駒場旧教養学部1号館)など数多くの東大の建築物を設計した。関東大震災後のキャンパスの再設計を行い設けられた正門と安田講堂を結ぶ銀杏並木もこの時に内田教授の手になるもの。そして、これらの建築物のほとんどが現存し、日本のアカデミズムを象徴する建物として現在でも使用されている。東大本郷キャンパスのアカデミックな佇まいを演出しているのは内田ゴシックの建築物群だともいえる。

 この白金台の建物は、アメリカのロックフェラー財団の寄附/支援のもと、保健衛生に関する調査研究、公衆衛生の普及活動を目的として国が設立した公衆衛生院のために、昭和13年(1938年)建設された。その後、平成14年(2002年)に公衆衛生院は国立保健医療科学院に統合され、埼玉に移ったため、この歴史的建物はその役割を終えた。この敷地と建物を平成21年(2009年)に港区が買い取り、歴史的建造物として保存し、そのオリジナルの意匠等を生かした修復、耐震補強等の改修を施した上で、「ゆかしの杜」「区立郷土歴史館」として平成30年(2018年)にリニューアルオープンした。

 連続アーチを正面に配したファサードの重厚さに感動しつつ、エントランスを一歩中に入ると、そのロビー中央ホールの円形の吹き抜けが目に入ってくる。高級な石材やレリーフがふんだんに使われ、オリジナルの姿をよくとどめている。圧巻は4階の旧講堂である。340席を有する大講堂で、懐かしい階段教室である。天井材と座席のクッション以外はオリジナルの部材をそのまま使用しているという。この他に、旧院長室、図書室、食堂、6階の居住空間である寮が往時のまま修復保存されており、研究機関としての風格を今に残している。2階3階4階の教室や研究室であったところをうまく「港区郷土歴史館」の展示室として活用しており、建物ツアーと同時に、縄文時代から明治維新、昭和の高度成長期までの港区の道のりを振り返ることができる。こうして白金台に新たなお散歩ポイントができた。この辺りは、一時は「シロガネーゼ」などとハイソでお洒落ななエリアとして鳴らしていたが、最近はそういった言葉は流行らなくなったようだ。それでも、目黒通りに沿って、聖心女子学院、八芳園(旧大久保彦左衛門邸)、自然教育園 (旧白金長者屋敷)、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)とかつてのお屋敷を転用した素敵スポットが多い。そこにこの少々お硬いイメージの研究所がリノベして、素敵な仲間に加わった。大歓迎である!

 こうした建築遺産保存とその現代都市生活への活用。それを見るにつけわが故郷、福岡は残念な街になってしまったと悲しい気分になってしまう。貴重な近代建築遺産、倉田兼設計のセセッション様式の旧九州帝国大学法文系本館があっけなく解体されてしまったショックも冷めやらぬ間に、またしても福岡に残された最後のネオゴシック建築の日本銀行福岡支店の建物も間も無く解体のニュース。これまでも市内にあった近代建築遺産が次々と破壊されてきた。なんという文化感度なのか。東京、大阪に比べると高層ビルがないことがどうも悔しいようで、やたらに高層ビルを建てたがる。そのための航空法による高さ規制を緩和してもらうことに躍起になっているが、歴史を紡ぐ建築遺産にはほとんど注意が払われていない。まるでバブル時代の発想だ。急速に人口が増え、最近、神戸を抜いたとさわいでいるが、街にはどこか歴史の厚みというか風格が感じられない。中世の博多の黄金の日日も、江戸時代の城下町福岡の佇まいも、明治以降の経済都市福岡の繁栄も忘れ去られてしまい、奴国以来2000年という我が国屈指の歴史を有する都市の面影、痕跡はどこかへ消え失せてしまい、人々の記憶からもかき消されていっているようだ。今回の旧公衆衛生院建築ツアーで、学芸員の誇らしげな説明を聞き終えて真っ先に考えたのは、こうして破壊されず見事に保存修景された施設の存在と、その文化的遺産をも守ろうとする市民の意識へのレスペクトと、我が故郷の不甲斐なさであった。

壮麗なゴシック建築
連続アーチのエントランス

内田ゴシックの象徴だ


2階にエントランスホール

円形の吹き抜け天井

レリーフデザインが素敵だ




3階吹き抜けから2階エントランスホールを見下ろす


さらに吹き抜けが

旧院長室

大講堂
懐かしい階段教室











 隣接する東京大学医科学研究所(旧伝染病研究所)と付属病院。こちらも内田ゴシックの建物。公衆衛生院との関係がよくわかっておらず、建物も似ているので、地元では両方合わせて東大関係の研究所だと思っていたようだ。それも致し方ない気がする。どう見ても一体的な東大白金キャンパスにしか見えない。医科学研究所の方も都心には貴重な緑濃い杜の中にあり、アカデミックで静謐な環境だ。元はドイツから帰った世界的な医学者/細菌学者である北里柴三郎が初代所長として迎え入れられた私立の伝染病研究所(伝研)(福沢諭吉、森村市左衛門などが資金を出した)であったが、1914年、内務省所管から文部省所管に変わることとなり、東京帝国大学に統合されることとなった。これに反対した北里柴三郎始め志賀潔などの研究者が大挙辞職した(いわゆる伝研騒動)。北里柴三郎は同年11月には私財を投じて北里研究所を創設する。こんな歴史を持つ研究施設だ。ちなみに北里研究所も白金にキャンパスを有している。



本館建物
これも内田ゴシックの東大建築
ここにも連続アーチが
(撮影機材:Leica CL + Super Vario Elmar TL 11~23 ASPH。建築写真に最適な広角ズームレンズ。歪曲収差も周辺光量も良く調整されていて気持ちよく撮影できる。)




2018年11月18日日曜日

伊豆奈良本散策 〜高低差200mの隠れ家へ〜



奈良本の鎮守の森「水神社」

相模湾の波濤

 まずはこの二枚の写真をご覧いただきたい。鬱蒼たる鎮守の森と相模湾の荒波。この山里と海を象徴する景観が高低差200m、歩行距離4キロほどの間に並存している。これが我が隠れ家のある伊豆奈良本だ。奈良本は、現在は賀茂郡東伊豆町奈良本となっているが、江戸時代は奈良本村であった。明治の合併(奈良本村、大川村、白田村、片瀬村)で城東(きとう)村となった。その名は「城(しろ)の東」ということではなく「天山の東」からきている。その後、昭和になって隣接する稲取町と合併して現在の東伊豆町となった。そもそも奈良本はその名の通り、飛鳥・奈良時代に大和奈良から移り住んできた人々によって開かれた集落であった。以前にも紹介したように、伊豆は古代より都から遠く離れた遠流の地であった。記録にある最初の流刑者は、大津皇子に連座させられた舎人、トキ道作(箕作:みつくり)であったと言われている。奈良本の南、下田街道沿いには箕作を祀る小さな神社があり、箕作の地名が残っている。彼に代表されるように流刑者と言ってもほとんどが政治的敗者で、みやこの政争に敗れたやんごとなきひとびとであった。その子孫が連綿として受け継いで来たどこか雅で品のある言葉使いや、立ち居振る舞いにこの土地の持つ「鄙には稀な佇まい」を感じることができる。こうした長い歴史を持つ奈良本は、現在は熱川温泉として知られている。江戸時代には熱川と北川(ほっかわ)は奈良本村を構成する集落であったが、今や奈良本という地名よりも熱川の方が認知度が高くなってしまった。熱川温泉は湯量豊富で町中に林立する湯泉井から湯けむりが立ち昇り、川には温泉が惜しげもなく流れ出て湯気を上げている。しかし温泉街はどことなく寂れていていまいち元気がない。海岸沿いの一等地の旅館も、そのいくつかが廃業に追い込まれている。建築物の外壁にはツタが絡まり、取り壊されもせず屹立する無人の巨大コンクリート建造物はまさに廃墟ツアーができそうだ。

 熱川の名の由来は、温泉が、文字通り湯水のごとく流れる川、これを熱川と呼んだことに由来すると言われる。元々は濁川と呼ばれ、上流の奈良本集落の水神社あたりでは現在も濁川と表示されている。古代に奈良から流されてきた人々の末裔がこの濁川の清流(!?)に感謝し、河岸の鎮守の森に水神社を建て都から神を勧請して祀った。しかし、現在の川はあまり綺麗とはいえず、温泉用のパイプが河岸に乱雑に張り巡らされ、川底石がゴロゴロと散乱するおよそ美的センスを感じない河川である。かつては生活排水も流れ込んでいたそうだ。伊豆熱川駅を降りると赤い橋が目に飛び込んでくるが、その下にはいきなりこの温泉パイプラインの管乱(!)風景が。急勾配を下る川なのであまり清流を楽しむ親水公園的なしつらえは難しいのかもしれないが、もう少し整備して、景観に配慮すれば、この地の名の由来ともなっているこの川自体が温泉郷らしい景観を生み出すと思う。残念ながらあまりそのようなことを考える人はいないらしい。

 先述のように、奈良本の魅力は高低差200m、徒歩4キロの間に山の魅力と海の魅力が詰まっている点だ。古代のやんごとなき血筋の流刑者たちの子孫は、この温暖で、穏やかで、明るくて豊かな土地に魅了されたであろう。確かに都からははるけき彼方だが、四国の祖谷谷や九州の椎葉村のような峻険な山谷を分け入り、外界から隔絶された秘境、落人集落という感じはない。しかし、伊豆半島東岸のこの山と海の高低差間を縦に移動するには急な坂や階段を上り下りしなくてはならない。奈良本の里は、天城山の東の山麓斜面に広がる温暖で穏やかな山里である。山里というと谷あいの集落を思い浮かべるかもしれないが、ここは天城山麓の、決して広くはないもののスペースが確保されている土地柄で、いちご、みかん栽培など稲作以外の農耕に適した豊かな農村を形成している。この山里から旧坂を下ると、風景はドラマチックに変わり、海岸沿いに湯けむりの温泉街があり、太平洋の波が打ち寄せる海岸線が連なる。伊豆七島を望む東伊豆海岸の絶景ポイントである。

 奈良本の我が隠れ家の料理は「山家料理」と呼ばれ、猪や鹿肉、わさびなどの山菜、みかん、山桃など豊かな山の幸に、稲取港、北川(ほっかわ)港で水揚げされる新鮮な金目鯛、鯵、マグロ、いか、かに、ウニなどの海の幸が並ぶ。文字通り山海の珍味を、夏は縁側で蚊取り線香とともに、冬は囲炉裏端で真っ赤に燃える炭とともに楽しめる。天城山系と相模湾に挟まれた地形は東伊豆独特のものではあるが、同時に山の幸と海の幸が食卓を飾る日本独特の豊かな食文化がこの密やかな奈良本の里には凝縮されている。


囲炉裏の炭が赤々と輝いている
もうそんな季節だ

山海の珍味が食卓を飾る
囲炉裏端で浮世を忘れる

奈良本の郷土の味「へらへら餅」
自家製の自然薯と胡麻味噌で作る素朴な味

天城山系にも時代の波が
風力発電とリゾートマンション

六地蔵

寄進された狛犬の基壇には「伊豆國城東村奈良本」とある

名残のコスモス

民家は立派な生垣で囲まれている


湯けむりの熱川温泉
伊豆熱川駅前


熱川海岸

波濤の彼方に水平線

下田湾
ペリー艦隊が停泊した、吉田松陰が密航しようとした、伊豆の踊り子が涙した、
それが下田港
(撮影機材:Leica CL, Vario Elmar18-55, Super Vario Elmar 11-14. Leica CL用のズームレンズはなかなか非凡。お手軽なASP-Cフォーマットカメラ用キットレンズを想像するといい意味で期待を裏切られる。軽量で取り回しが良く、しかも金属鏡胴の質感は高品位。写りは高解像で階調も豊か。CLのEVFの見えの良さとあいまって旅には最適のパートナー。さすがLeicaだ。といってもこのズームレンズシリースはすべてMade in Japan.ライカ一神教原理主義者に言わせると異端のレンズなのだ。異端大いに結構!この写りを見よ!)