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2019年2月20日水曜日

空掘商店街界隈探訪 〜「大阪国」への入口を探せ〜



空堀商店街
谷町筋側の入口
「ようこそ時空のワンダーランドへ!」


 大阪には蠱惑的な街があちこちに存在している。船場、島之内などの掘割に囲まれた「水都大阪」だけでなく、上町台地の上にも不思議で魅力的な「空間」が存在している。前回紹介した四天王寺夕陽丘からも遠くない空堀商店街。これがまた「時空ワンダーランド」なのだ。上町筋から谷町筋、松屋町筋まで東西800mのアーケード商店街だ。大阪には天神橋筋商店街、心斎橋筋商店街など長大なアーケード商店街がいたるところにあるがここもその代表格である。この周辺は大正、昭和初期の建物が残る大阪でも貴重なレトロ地区である。戦争中の大阪空襲でも奇跡的に被災せず焼け残った地域なので、大阪が繁栄を誇った「大大阪」時代の古い町並み、独特の長屋建築や町屋建築、路地が多く残る。しかし、戦後の高度成長期の市街地再開発の波がここにも押し寄せ、戦争をかいくぐった貴重な建築群が、開発で破壊され、マンション化されてしまった時代を経験したことはここも例外ではない。こうした動きをくい止め、さらなる破壊を許すまじ、と古い大大阪時代の街並みと建物を守り、それを生かしたコミュニティーを作っていこうという地元NPOが活動している。もうそろそろ破壊と再開発じゃなくて、保存修復と再利用で行くべき時代になっているんじゃないか。そういう観点からもこのからほり地区の活動には注目している。こうしたなかなかユニークな街つくりにも着目してほしいものだ。

 そもそも「空掘」という地名は、大坂城 南惣構堀がこの辺りにあったのだが水のない空掘(からほり)であったことから来ている。鉄壁を誇った大坂城も、南側の守りが比較的弱かったと言われている。南惣構堀は上町台地上にジグザグに掘られた外堀で、結構な深さはあったらしいが水を張らない「空堀」であった。大坂の陣ではこの弱点を補強するために真田信繁が、この南惣構堀の外側に真田出丸(いわゆる「真田丸」)を築き徳川軍の南からの侵攻に備えた。これが功を奏し、冬の陣では徳川軍の城攻めを防ぎ和議に持ち込んだ。その後、徳川はこの真田丸を破壊し、しかも和議の約定にない外堀の埋め立てを勝手に始めた。この時に南惣構「空掘」も徹底的に埋め戻されてしまった。裸城同然となった大坂城がやがて夏の陣で落城することになる。その空掘は実は今では、どこにあったのか確認ができていない。通りのわずかな高低差にその痕跡が見てとれるのだが、はっきりした遺構は検出されていない。それほど徹底した破壊ぶりであったのだろう。現在の空堀商店街周辺を歩いてみると、人工的な高低差と時代が特定できていない石垣の痕跡が何箇所か確認できるにとどまっている。大河ドラマやブラタモリで話題になった真田丸もその位置が長らく不明で、真田山町の三光神社辺りがその一部ではないかと考えられていたが、最近の地下超音波調査で、明星学園の敷地あたりにあったらしいことが確認されている。

 空掘商店街界隈は時空の迷宮である。歩き回ってみると現代人の日常感覚を麻痺させる佇まいに翻弄される。タイムスリップしたような路地と賑やかなアーケード商店街、大正/昭和初期の町屋/長屋の背景にはタワーマンション。たこ焼き屋、お好み焼き屋と小洒落た佇まいにリノベされたカフェ。時空を超えたコントラストが繰り返される。南惣構堀の遺構なのか、平坦な上町台地上に不自然さを感じる人工的地形... 何かのメッセージではないかと思える高低差。何しろディープな情念と歴史(時間)が重なり合って地層をなしている大阪にはいたるところに「時空のスキマ」が存在しているが、ここ「空掘迷宮」においてはその不思議なタイムホールと異空間の存在が特に顕著である。大坂城落城と豊臣一族の滅亡。その怨念が今でもこのあたりを徘徊している気配を強く感じる。実在したという「大阪国」への入り口、「長浜ビル」なる古ぼけた建物もこの辺りにある。ここに「社団法人OJO(大阪城跡整備機構)」が入っている。「大阪国総理大臣」真田幸一が経営するお好み焼き屋「太閤」も、地下の大阪国への入り口を管理する浅野の和菓子屋「だるま屋」も、橋場茶子の通う「大阪市立空掘中学校」もここにある。実在と妄想が共存している。どっこい大坂城は落城しても豊臣一族は滅亡などしていない。400年の時空を超え市井に紛れて生き続けている。そう、万城目学の小説で映画にもなった「プリンセストヨトミ」の舞台となった街だ。大阪人のファンタジー、荒唐無稽な話が本当に思えるのがここ「空堀商店街」である。





時空の迷宮

大正から昭和初期の建築と言われている
堂々たる建物だ
角地の建物のファサード処理も見事!

自動販売機の列がこの街の商売の現状を象徴している

大阪独特の長屋建築とタワマンのコラボ!


路地も健在

路地は今も生活の場

長屋建築の家並み

大正期に建てられた長屋
その時代の特色を残している。
よく見られる町家の改修形態
外装は手が入っているが内部構造はほぼ昔のまま...



昔ながらの路地も生活の場として健在
路地の突き当たりにはお地蔵様
そして植木鉢
かつては銭湯であった
ここも「大阪国」への入り口っぽい雰囲気だ。

「抜け路地」は子供の安全で楽しい遊び場
石畳だぞ!

空堀商店街はアーケードが延々と続く
大阪と言えば「玉出」。ちなみにパチンコ屋ではない!

古い町屋のリノベ例
リノベ町屋とお稲荷さんのコラボ


若者の人気スポットになっている

観光客向けの施設だけではなく地元の生活の場としての機能が生きている
街をテーマパーク化させない
町屋内部もリフォーム

路地には猫が似合う

かつての空堀の痕跡を彷彿とさせる高低差

このあたりはかなりの高さがある
自然の地形の高低差ではない
豊臣時代大坂城の「空堀」「真田丸」想定位置図




2019年2月16日土曜日

四天王寺夕陽丘 〜上町台地の断崖を探訪する〜


四天王寺夕陽丘からの夕日

大江神社への階段


 四天王寺夕陽丘は不思議な魅了の詰まった街である。地下鉄の四天王寺前夕陽丘駅から谷町九丁目、上本町辺りは昔から船場の商家や小説家などの文化人が住まう上町台地上の閑静な住宅街である。またその名の通り四天王寺を始め愛染堂など寺が多く、また生國魂神社、大江神社、高津の宮、安居神社、さらに南へゆくと住吉社など神社も鎮座ましましている。この辺りは大阪の一大寺社町を形成している。上町台地の西側には大きな断崖がある。と言われても気付きにくいが、谷町筋から松屋町筋まで急な坂(天王寺七坂など)がいく筋も通っていて、大きな高低差があることが実感できる。戦時中の大阪空襲で市街地が焼け野原になった時は四天王寺から西側、谷町筋から大阪湾が見渡せたという。今やビルが立ち並びどこからも海は見えなくなったが。古代、上町台地は四天王寺や難波宮などの歴史上の重要な施設が営まれた高台である。現在では大阪の重要なランドマーク、大阪城が台地の北端、四天王寺が台地の中間点、住吉さんが南端という配置だ。豊臣秀吉の時代、大坂城の南の上町台地上に平野郷から寺と住民を移し平野町を形成した。さらに徳川時代になると、台地の西側の傾斜地に先述のように大きな寺社町を作ったのが現在の夕陽丘。もともと上町台地は古河内湾と外海(難波津、大阪湾、瀬戸内海)を分ける半島であった。今は西側は大阪の市街地となっている。東側の河内湾はのちに汽水湖、河内湖になり、やがて干上がって現在は河内平野となっている。下記の写真のように「あべのハルカス」屋上から見渡しても、今やびっしりとビルや家が立ち並びどこからが台地なのか、その痕跡すら確認しにくくなってしまっている。

 そもそも大阪(大坂)という地名は四天王寺西門鳥居前の西側に下る大きな坂、大坂(逢坂)が由来だと言われる。このように上町台地という高台と西の難波津の海との高低差が大坂(逢坂)を生み出し、天王寺七坂を生み出した。そこに寺社が集められ独特の都市景観が生まれたという訳だ。すなわちここ上町台地こそが「水の都」ならぬ「坂の都」大阪発祥の地だと言えよう。商都大阪の中心地、掘割に囲まれた船場、島ノ内、天満、西船場は、のちに太閤秀吉によって開発され、形成された新開地なのである。 

 夕陽丘という地名は、まるで現代っぽい響きであるが、実は仏教の西方浄土思想と密接な関連がある。鎌倉時代初期の公卿で歌人の藤原家隆が浄土教の日相観思想に傾倒し、出家してこの地に終の住処「夕陽庵(せきようあん」を設けたのが地名の始まりと伝えられている。かつては大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地であり、大江神社、新清水寺、四天王寺西門辺りが有名だった。現在の夕陽丘町と六万体町には「天王寺寺町」、生玉町と生玉寺町には東側に「生玉中寺町」、西側に「生玉寺町」という寺町が形成されている。台地を下った松屋町筋の東側には下寺町があり天王寺七坂のうち六坂は下寺町内にある。難波、日本橋(にっぽんばし)に遊びに行った帰りにタクシーで桃谷に抜ける学園坂(夕陽丘学園の横手の坂道)もここだ。あの「夫婦善哉」の作家、無頼派と呼ばれた織田作之助は上本町と生國魂神社に近い現在の上汐町4丁目に生まれ、旧制高津中学から、京都の第三高等学校へ進んだ。短編「木の都」には、夕陽丘、口縄坂を舞台に、戦時中の厳しい時代を懸命に生きる庶民の姿が叙情豊かに描かれている。また司馬遼太郎も旧制上宮中学、大阪外語大学(現在は大阪国際交流センター)と、このあたりで青春時代を過ごしている。

 上町台地の地名に関してはウンチクを語り始めるといろいろ出てくるのでこの辺にしておきたいが、私が今でも不思議に思うことを最後にあげておきたい。太閤割でできた大坂の南北の「筋」のことである。台地の最頂部、大坂城のすぐ西の筋が「上町筋」であることは分かるのだが、その一本西側の筋は「谷町筋」という。確かに上町筋よりは下ったところにあり台地の斜面ではあるが、どう見ても「谷」ではない。むしろ台地上だ。この谷町筋から先ほど紹介した四天王寺西門の大坂(逢坂)、天王寺七坂、生魂西坂、千日前通りなどの急坂を西へ下ると松屋町(まっちゃまち)筋、堺筋、御堂筋...と並ぶ。今や大阪市内の南北の幹線道路となっている谷町筋。この台地上の筋をなぜ「谷町筋」と名付けたのか?これを考えると夜も眠れなくなる...  誰か教えてくれる「タニマチ」はいないものか。



大江神社

愛染さん


愛染かつら


ここからは天気が良いと、昼間は爽快な青空、夕方になると夕焼け空が美しい。いまや西側を見渡してもビル街となってしまい、地上の景観には惹かれないものの、やはり夕陽丘は昔から景色の良い景勝地であり、西方浄土を彷彿とさせる聖地として難波の人々のあこがれであったのであろう。







「天王寺七坂界隈」写真集:

口縄坂


大江神社参道坂

猫の似合う街

愛染坂




四天王寺西門

四天王寺西門前
逢阪
大坂/大阪の地名の元となったと言われる

生國魂(いくたま)さん東参道

大阪総鎮守生國魂神社

飛鳥時代の上町台地
あべのハルカスから見渡す上町台地全貌
中央の広い道は谷町筋
左の緑地は天王寺公園(茶臼山)。その上の細長い緑地帯が天王寺七坂あたり(すなわち上町台地の西の崖)
右の敷地は四天王寺境内。その上にわずかに大阪城が見える。





2019年2月11日月曜日

2013年姫路城平成大修理 〜あの時の姫路を振り返る〜



姫路城の「平成大修理」
天守閣に覆いがかけられている

 気がつくとあれはもう6年も前のことだった。その時のことをブログに記録していなかったことに気づいた。今からでも遅くない書き記しておかねば。まだ大阪にいた頃だった。今しか見れない姫路城の平成大修理を見学に行った。入社して最初の配属地、姫路を訪ねるノスタルジックツアーだ。大阪から新快速に乗り姫路で降りる。久しぶりだ。駅前から真正面に見えるはずのいつもの姫路城は修理のため大きな覆い屋根に覆われていて風景が違う。別の街に来たような錯覚すら覚えた。「アレカラ40年...」だからだけではない。まずは元の職場を訪ねる。駅前からのみゆき通り商店街のアーケードは以前と変わってないが、出勤途上でモーニングセット食ってた喫茶店「モカ」は無くなっていた。40年も前のことだからなあ。全国屈指の大局、職員数700名を超える姫路電報電話局は、建物は残っているが、いまや人気も途絶えてしまった。みんなあの時の人たちはどこへ行ってしまったのか。かつて総裁発令の局長が本社から赴任してきた姫路局も、今や組織的にはNTT西日本関西事業本部兵庫支店の姫路営業所(といっても窓口はない)という位置付け。交換機を保守するわずかな社員と受託パートナー会社がいるだけだ。そりゃあそうだよ。今は固定電話の時代ではない。モバイルとインターネット全盛の時代だ。街中に大きな電話交換局はいらない。大勢の人手もいらない。当時はまだ電話交換手がいた時代だった。電電公社の2大目標、全国ダイアル自動即自化(交換手なしでダイアル接続できる)、積滞解消(申し込めばすぐ電話が引ける)が目前に迫っていた時期だ。まだ大勢の交換手がいた旧館は、そのレトロな外観を生かし、ブライダルホールとレストランになっている。中を見学させてもらったがなかなか洒落た佇まいだ。同じ兵庫の芦屋電話局のレトロな近代建築も同じようなリファービッシュメントが施されている。古い建築物を壊すのではなくリユースする。いい発想だ。営業窓口のあった新館(当時)はファミレスになっていた。機械棟の巨大な建物はそのままNTT西日本のビルで、屋上には全国サブRC局(全国網副統括局)のシンボル、新幹線からも見える無線中継塔が誇らしげにそびえ立っている。どちらも姫路のランドマークだが、中身の機能はほとんどなくなってしまい産業遺産化してしまった。

 さて電話局から姫路城は歩いても遠くない。歩を進めるごとに城が近づいてくる。もちろん姫路のランドマークといえば姫路城であることは疑う余地がない。1993年に世界遺産に登録された。戦時中、二度の空襲で一度は焼夷弾が天守閣に命中したが不発弾であったため被害を免れた。徹底した空襲で街が紅蓮の炎に包まれ夜空を照らした翌朝、市民は焼け跡の硝煙に悠々とそびえる白亜の白鷺城を見て涙したという。電話局営業課にいたヒゲさんに聞いた話だ。ヒゲさんは私が姫路局にいた当時60歳くらいであったろうか。立派な口ひげを蓄えた凄みのあるおじさんだったが、新米の私には優しく接してくれた。トラブル処理を担当していた。戦時中は中島飛行機で働いていたそうだ。中島飛行機の工場は破壊され尽くされたが、姫路城が残ったのが嬉しくてみんなで泣いた、と語ってくれたヒゲさんの目にうっすらと涙が光ったのを見た。あのヒゲさん、どうしているのだろうか。そういえば思い出したが、その営業窓口に筑前さん(苗字がみなさん歴史を感じさせる方々が多かった)という妙齢のおばさんがいたなあ。ヒゲさんの好敵手で、ふたりの口頭バトルがはじまると、「どっちも負けへんで!」と皆で観戦したもんだ。若い女性職員は「ヒゲさん、筑前さんのこと好きなんとちゃう?」と噂してたがどうだったんだろう。

 脱線したが話を戻すと、こうして姫路城は奇跡的に焼け残った。姫路市民を励まし、戦後復興を見守ったそんな強運の城を守ろう、そしてしっかり補修して未来へ引き継ごうと「平成の大修理」が行われた。2008年に始まり2015年完成した。修理が始まった当時はは7年も姫路城天守閣が見れない、と悲しんだものだが、いやいや!こんな機会はなかなかない。修理中の今こそ姫路城を訪ねる価値があると思った。普段は見ることのできない屋根やシャチホコを自分の目の高さで間近に見れたほか、展望スペースが設けられており、ここから姫路城の縄張り全体が見渡せた。こんな機会は今しかない、というわけだ。

 私の40うん年前の姫路勤務時代にもすでに優美で雄々しかったのだが、今や大修理が完成して覆いが外され再び白亜の白鷺城がそびえ立っている。何度見ても美しい。しかしこんなに白い城なのかと驚きもした。屋根の漆喰が塗り直されたのでより白鷺城のイメージが強調されたようだ。おそらく創建当時の真新しい天守閣はこんな姿だったのだろう。だとすればこ西海道、播磨路に出現したこの城の衝撃は凄まじかったことだろう。2013年に大阪から東京へ転勤となり、残念ながら完成した姫路城にはまだ行っていない。遠望するだけでも美しいが、またあの天守閣に登ってみたいものだ。

 平成もやがて終わりを迎え、今年の4月からは新しい年号となる。平成も過去の年号となり歴史になる。まして「昭和は遠くなりにけり」だ。私には「姫路も遠くなりにけり」。東京へ移ってからは新幹線で姫路城を遠くから眺める機会もグンと減った。しかし初任地の姫路がわがデジタルトランスフォーメーション、グローバルストラテジー人生のスタートポイントだった。青空にそびえる白亜の城。世界中どこへ行っても、どんな時でも日本人であることを思い出させてくれた心の原風景であった。姫路城よ永遠なれ!



天守閣大屋根
こんな目線で見れるのは修理中しかない

7年間の修理中この覆いが

立派な見学コースが用意されていて、今しか見れな景色を堪能できた

各層に見学窓が用意されていた
屋根瓦を漆喰で固定修復
天守閣の鯱鉾復元完成


修理期間中この覆屋自体が見学施設となり「お城テーマパーク」であった

旧姫路電報電話局のマイクロウェーブ鉄塔は今も残る

大手前通り、姫路駅方面

化粧櫓と西の丸長局(百間廊下)
姫路城西側の縄張り全貌は修理中しか展望できない



化粧櫓

小天守










西の丸長局(百間廊下)


2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
姫路もPRに力を入れていた。もちろん我が故郷福岡も...

菱の門

2015年に大修理完成なった姫路城
修理前の天守閣
みゆき通り商店街
姫路電報電話局旧館
現在はリノベーションされてブライダルホール/レストランに

40うん年ぶりに中へ
すっかりお洒落な空間に改装されている。
時の流れを感じた瞬間


威容を誇るマイクロウェーブタワー