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2020年11月21日土曜日

古書を巡る旅(7)チョーサー「カンタベリー物語」の世界 〜中世英語のカベに阻まれて挫折するの巻〜

 

"The Compete Works of Geoffrey Chaucer"
edited by Walter W. Skeat

Canterbury Cathedral

挿絵:旅籠の円卓で物語を語る巡礼者たち
Southwalk
旅籠Tabard Inn


14世紀のイングランドの詩人ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer 1343年頃〜1400年) の作品集を手に入れた。あの「カンタベリー物語:The Canterbury Tales」(1392)を原文で読んでみたいと思ったからだ。この作品集には他にも、様々な説話や詩が含まれているが、やはり一番のお目当ては「カンタベリー物語」である。ロンドンのテムズ川南岸サザークの旅籠Tabard Innに集うカンタベリー聖堂巡礼者たちから宿の主人が様々な面白い話を聞くという、「千夜一夜物語」や、ボッカチオの「デカメロン」のような形態の説話集である。学生時代に文庫本で(日本語訳で)いくつかのエピソードを読んだ記憶がある。その時は珍しいイギリスの「おとぎ話」や「世間話」くらいの受け止めで、日常生活とは無縁の世界の話であった。その後ロンドンに留学し、ケントに居住してカンタベリー大聖堂にも参拝した経験から、サザークの旅籠で語られた様々な階層の人からなる巡礼者たちの多様な物語がより身近な出来事であるかのように思い起こされるようになった。現代にもその時代の息遣いが聞こえるような感覚が沸き起こった。こうなると、いつかは日本語訳ではなく原文で読んでみたいものだと考えた。その後長い間、探すともなくブラブラと古書店を覗いたり、ネットで検索したりしていたが、ある時チョーサーの研究者にしてアングロサクソン語、中英語の研究者であるケンブリッジ大学の教授ウォルター・スキート(Walter W. Skeat) が1913年に出版した「チョーサー作品集:The Complete Works of Geoffrey Chaucer」Oxford The Clarrendon Press刊を発見した。神保町の北沢書店のオンラインショップだ。あれから何年経ったのだろう!本との出会いとは、時空を超えて不思議で思いがけない形で結ばれるものだと感じる。いつものことながら、この北沢書店には貴重で魅力的な英文学関係の古書が揃っている。しかも巣篭もりしながら検索できるのが嬉しい。

手に入れた本は、ウォルター・スキートがチョーサーの著作集を一冊にまとめたもの。革装・天金仕上げの重厚な佇まいの古書である。この頃の書籍はそれそのものが工芸品的な仕上げで、情報伝達メディアとしての書籍に知性と品格を感じさせられる。これは最近のデジタルメディアには感じられない点であろう。本書籍は1914年に英国のとあるグラマースクール(1615年創立とある)の成績優秀者に賞として与えられた本のようで、ハードカバー表紙には金地で学校の紋章が刻印され、表紙の背に学校長のサインの入ったシールが張ってある。イングランドでは昔から学校で賞(Prize)として古典書籍を学生に授与する習慣があるため、古書市場にこうした出自のものがよく出回っている。BBCのTVドラマなど見ていても、学校時代にこの本をもらったかどうかが話題になるシーンが時々出てくる。スキートは1878年ケンブリッジ大学のアングロサクソン語(古英語)の教授に就任し、著名な文献学者として大きな業績残した。特に中英語、チョーサーの研究者として高く評価されてる。当時オックスフォード大学が企画したチョーサーの著作の編纂事業を牽引して1894年に全6巻の編纂を完成させた。

いざページを開いてみると、原文は中英語・中世英語:Middle Englishと呼ばれる、古いサクソン語とイーストアングリア語に、フランス・ノルマン語をあわせた言語で容易には解読できないことがすぐにわかった(しかも文字が小さすぎて読めない)。この時代はラテン語や古代ギリシャ語と、1066年のノルマンの征服:Norman Conquest(フランスのノルマンディ公のブリテン島征服)以降に大陸から伝わったフランス・ノルマン語が聖職者や貴族、学僧のいわば公用言語であった。特に教会や僧院や学校ではラテン語が必須で(というよりラテン語を教えるのがグラマースクールであった)、カトリックの教義はすべてラテン語で説かれていた。ブリテン島のあちこちで使われていたローカルな英語(ウェストサクソン、イーストアングリアなど)はこうした場では使われず、したがって世俗言語である英語による文学表現はこの頃は成立していなかった。初めて英語(中世英語)による文学作品を生み出したのがチョーサーである。英文学の始祖(the father of English poetry)と呼ばれる所以である。英文学といえばウィリアム・シェークスピアやサムエル・ジョンソンや、チャールズ・ディケンズなどの巨匠が思い浮かぶが、こうした世界が花咲くのは、ずっとずっと後のことだ。それにしてもチョーサーの作品を今読もうとすると、現代英語と似通う部分もあるが、全く異なる表現やスペル、発音があり、文章全体としては解読が困難である(下記に例文を参考として引用)。スキートは序文で、その違いや注意点を詳しく解説しているが、原文の現代語訳は記していないので、結局素人には理解できない。

こうした土着の世俗言語が、後に公用語となり、神の教えを説き、学問の体系、思想、哲学、小説や詩歌と言った文学の体系を生んでゆくとう歴史は、なにもブリテン島に限った話ではない。日本においても同様な道をたどったことが思い起こされるべきだろう。文字を持たなかった上古の倭人は、古くは大陸との通交・外交には漢語を用いたようだ。やがて倭語を表現するのに大陸中国の文字(漢字)を使用し始める。飛鳥時代、奈良時代、平安初期には漢文、漢詩が朝廷、貴族、官僚、聖職者の必須公用言語であった。と同時に倭語の音に漢字の音を当て字にした万葉仮名や、漢字を崩したひらがな、カタカナが生み出されていった。ユーラシア大陸の東の果ての島国と西の果ての島国が、全く異なる成立ちと成長過程をたどったかのように捉えがちであるが、実は相似形のような歴史を刻んでいったことに不思議な縁を感じる。さらに後世の研究者や実務家が、古代世俗言語を解読する努力を重ねてきた点も共通する。例えば万葉仮名も、すでに平安時代には解読不能になっていたようで、一時期、万葉集は世の中から忘れ去られた存在であった。しかし上流階級の漢学全盛の時代、平安時代に、ひらがな、カタカナを生み出してゆく過程で、万葉仮名の研究が進み、再び万葉集が日の目を見るようになった。このおかげで現代まで万葉集が読みつがれることになったわけである。これは一例であるが、こうして現代日本語が生まれ、古代語の作品を読むことが出来るようになった。そして「カンタベリー物語」などを現代英語訳で読むことが出来るようになった。しかも、いまや万葉集を英語で楽しむことも出来るし、カンタベリー物語を日本語で楽しむことも出来る。言語学研究の積み重ねの成果と言ってしまえばそのとおりだが、人間の探究心というものは凄まじいものだと改めて驚嘆する。

チョーサの生きた14世紀のイングランドは百年戦争で大陸の領地を失い、苦難の時代であった。一方でカトリック全盛時代で、のちにイングランド国教会の総本山となるカンタベリー大聖堂はこの時期はカトリックの本山であった。またヨーロッパ全土に黒死病:ペストが大流行して人口が減少した時代でもある。ボッカチオがその時代のパンデミックを語っている。宗教改革の波が押し寄せ、イングランド国教会が成立するのは17世紀初頭のヘンリー8世、エリザベス女王の時代を待たねばならない。日本では、鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による建武の親政、南北朝時代から室町幕府の成立といった時期になる。この頃に古代英語、中英語が成立していったわけだ。それを読み解くということは言ってみれば、藤原定家が写本し撰録した枕草子や源氏物語、更級日記、古今和歌集を漢字仮名交じり文の原文で読もうというに等しい。日本人は古文を普通の公立学校で習う。少しくらいはこうした古典を原典のまま読むことができるし、現代語訳も多く出されている。これは江戸時代、明治以降と多くの国文学者や研究者の努力の賜物と言える。イングランドでこうした「古文」はパブリックスクール、グラマースクール、オックスブリッジでしか習わない。したがって現代においてはイングランド人ですら中英語で書かれたチョーサーの原文を読める人は少ない。だからこそケンブリッジでスキートの研究書や現代語訳が貴重である。オックスフォードやケンブリッジ、スコットランドのエジンバラ、グラスゴー、セントアンドリュースなどの大学や、中等教育機関であったパブリックスクール、グラマースクールなどは、もともと教会や僧院から発生してラテン語や古代ギリシャ語の古典書籍を読むことが研究・教育の主であった。やがては英語による倫理・哲学、法律、文学、修辞法を生み出してゆく。ちなみにオックスブリッジやパブリックスクールはこうした伝統から哲学を中心とした人文系の学問が中心であって、サイエンスやテクノロジーが科目に登場するのはずっと後世のこと、18世紀末の産業革命以降のことである。いまでもPPE:Philosophy, Politics, Economicsや、PPP:Philosophy, Politics, Psychologyといった複合科目のコースが大学院ではオーソドックスで、学位はPhM:Master of Philosophy, PhD:Doctor of Philosophyとなる。ちなみに私が取得した学位はMSc:Master of Scienceで、これは19世紀以降にできた学位ということになる。

というわけで、こうした「うんちく」を語ることは出来るが、この歳で中世英語を勉強して古文に挑戦する意欲は、残念ながら持ち合わせていない。原著を解読することは諦めざるを得ない。本気でやるならもう一度大学の英文科に入り直して、オックスブリッジの古典学・言語学の修士号かPh.Dでも取らねばなるまい。こればかりは「日暮れて道遠し」の域を遥かに超えている。せめて字面や書籍の装丁、さらには歴史考察から当時の雰囲気だけでも味わうことにして勘弁してもらおう。


参考に「カンタベリ物語」冒頭の有名な一節を引用する(下段に現代語訳を掲載 Wikiperiaより)。


Whan that Aprille with hise shoures sote
     When April with its sweet showers
The droghte of March hath perced to the rote
     has pierced the drought of March to the root
And bathed euery veyne in swich licour
     and bathed every vein in such liquid
Of which vertu engendred is the flour
     from which strength the flower is engendered;
Whan Zephirus eek with his sweete breeth
     When Zephirus also with his sweet breath
Inspired hath in euery holt and heeth
     has breathed upon in every woodland and heath
The tendre croppes and the yonge sonne
     the tender shoots, and the young sun
Hath in the Ram his half cours yronne
     has run his half-course in the Ram,
And smale fowles maken melodye
     and small birds make melody
That slepen al the nyght with open eye
     that sleep all night with open eyes
So priketh hem nature in hir corages
     so nature pricks them in their hearts
Thanne longen folk to goon on pilgrimages...
     then long folk to go on pilgrimages...



Geoffrey Chaucer( 1343頃〜1400)
(Wikipedia)

Walter W. Skeat (1835~1912)
(Wikipedia)


見開き

革装の背表紙





チョーサーの肖像


天金処理されている

1979年カンタベリー大聖堂拝礼







(書籍の撮影機材:Leica SL2 + SIGMA 105/2.8 DG DN MACRO)





2020年11月7日土曜日

ライカとシグマとニコン 〜これからのカメラが生きる道〜

 

Leica SL2 + SIGMA 85mm f.1.4 DG DN Art


ライカのミラーレスカメラLeica SL2を使い始めて丁度一年になる。ようやく手になじみ、掌で転がす感触も至極よくなってきた。そしてそのクオリティーと使い勝手に満足している。その「お道具」としての佇まいと、そこから叩き出される優れた画像。そしてなんと言ってもライカで撮影するという体験が心地よい。M8以来のデジタル化にいま一歩の感があったライカだが、ようやく完成域に達したと感じる。まだまだユーザが求める機能はニコンやキャノン、ソニーにかなわないものもあるが、不要なギミックを排したところがむしろ好ましい。デジタル技術(ソフトウェアーデファインドカメラとしての)はそのコアな部分ををパナソニックに求めているので、両者は外見は違うがまるで双子カメラのようだ。昔の一眼レフ全盛時代、ミノルタと提携して外装はLeica R、中身はMinolta XEという関係を彷彿とさせる。一方、ライカSLシリーズの問題は、まだレンズラインナップに限りがあることとその価格だ。

2018年9月、ライカとパナソニック、シグマは「Lマウントアライアンス」を発表した。ライカがミラーレスカメラに採用したLマウント仕様を使用する、いわば新しいミラーレス生態系である。パナソニックとのアライアンスは先述のように、デジタルカメラ技術提携、パナソニックレンズにライカブランドの使用というギブテク関係からも理解しやすい。シグマはどうだ?実は公表されていないがシグマはかつてライカR向けにズームレンズを供給していたようだ。長い付き合いであると言って良い。そういう点では、このアライアンスは、昔からの商売仲間が補完し合う、新しいミラーレス時代の連合艦隊を組んだというところだろう。それはともかく、レンズを主体としているシグマ(失礼!SIGMA fpのようなユニークなカメラも出している)は、ここへ来て意欲的なレンズを次々とリリースし注目されている。ソニーEマウント向けのシリーズもラインアップしている。しかし、シグマは限りあるライカSLのレンズラインナップに多様な選択肢を与えている点が嬉しい。リーズナブルな価格設定ではあるが、ライカレンズに匹敵する性能と、高品位、高品質な仕上がり。世界のライカコミュニティーの辛口フォトグラファー、コメンテーターにも驚きを持って迎えられ高い評価を得ている。

シグマは立て続けにLマウントのズームレンズや単焦点レンズを出しているが、ここでは、特に評価が高い注目シグマレンズ2本を実際に使ってみた。一本は85mm中望遠、二本目は105mmマクロだ。その「作例」をご紹介しよう。いずれもLeica SL2ボディーに装着して撮影したものだ。


SIGMA  85mm f1.4 DG DN Art

開放F 値1.4を誇る中望遠レンズ。海外のカメラレビューやプロフォトグラファーに驚きを持って迎えられたレンズだ。高価なApo Summicron 75/2を買う必要がないと。ポートレート用に多用される焦点距離だが、それに限らず、風景写真や街角写真にも活躍できそうだ。開放撮影だとピントが合う幅は極めて薄い。が、ピントとボケのグラーデュエーションが絶妙。先代一眼レフ用と比べるとボディーサイズ、質量ともかなりコンパクト化され非常に取り回しが良い。周辺光量と歪曲収差補正はカメラボディー側に依存しており、これがコンパクト化に貢献している。手ぶれ補正はないがキチッとホールドできるし、ボディー側の手振れ補正が効くので問題はない。絞りリングがありマニュアルに切り替えることができる。しかもクリックかスムースか選択できるこだわりよう。


「作例」

合焦部分のこの解像力!
ボケ部分とのコントラスト

合焦部分は葉脈までしっかりと解像。
一方、アウトフォーカス部分は茎まで溶かしてしまう。
玉ボケもキレイ

被写界深度は極めて薄い

玉ボケ

絞り5.6

絞り開放1.4

絞り開放1.4
ポートレートレンズの真骨頂
実はピントが眼ではなく、眼鏡のフレームに合ってしまっている。
SL2には瞳AF機能がないこともありなかなか使いこなすには修練がいる。


SIGMA DG DN Macro 105mm f.2.8 Art

カミソリマクロと呼ばれた一眼レフ用マクロ70mmの後継モデル。レンズ設計、構成は全く一新されたが、そのDNAを引き継ぎ非常にシャープで質感再現は抜群だ。AFは爆速とはいえないが、マクロレンズとしては十分に許容範囲内。もちろんMFで、微調整しながら撮影できる。絞りリングがありマニュアルで設定できる。こちらもレンズ内手振れ補正はないが、ボディー側の手ぶれ補正がきちんと効くので問題ない。ライカにはマクロレンズが用意されておらず、あの伝説のR一眼レフマウントのApo-Elmarit-R 100/2.8(マニュアルフォーカス)を中古でゲットして、L/Rマウントアダプターで使うしかない。これはこれで「神レンズ」だが、このSIGMAはさすが、最新の設計により異次元の写りを提供してくれる。


「作例」


この金属の質感再現力と解像力
ファインダーのホコリまでくっきり写っている。


絞り開放2.8

「寄る」といえば機械式時計メカのクローズアップ
クモリは時計のカバーガラスのクスミが再現されたモノ

ムラサキシキブの実の質感

カミソリマクロ!

ボケがとろけるよう


ライカとシグマ

上記写真はLeica SL2にそれぞれのSIGMAレンズをつけた、Made in Germany とMade in JapanいやMade in Aizuのコラボレーションだ。ご覧の通りシグマの最新レンズ二本は決してライカのプライムレンズに負けない描写力、光学性能を持っている。作例(ウデは別にして)からも卓越した解像力とボケ味をもった優秀なレンズだということがわかるであろう。しかし、価格はライカの5〜6分の1ほどだ。かといってシグマは廉価版、量産化を狙ったチープなレンズではない。ランカレンズとシグマレンズの価格の差と重量の差はは、どうやらレンズ硝材や鏡胴の材質によるようだ。ライカレンズはプラスティック素材を廃し、耐久性を重視しオール金属で武装している。落下試験基準は厳しくて、2mの高さからの落下でも壊れず、かつMTF性能に変化が生じない仕様になっているという。これにより10年以上先まで使用できる。さらにその時に登場するであろう、より高度化した(高画素化した)カメラにも対応できるようという設計思想で作り込まれている。また熟練工の手作業による組み立てに拘っている。将来にわたって調整、整備で使い続けられる(いわゆる一生もの)。すなわち消耗品と考えていないということだ。コストを考えずにやればこれくらいのものできるよなと言いたくなる。この辺りが「モノ作り」に対する考えの違いだ。しかし一方、シグマも高品位な仕上がりで「消耗品」扱いではないと感じる。鏡胴はマウント部中心に金属素材で剛性感を守っているが、駆動部である鏡筒部分にエンジニアリングプラスチックを使用して軽量化やAF速度の確保に貢献させている。しかし決して仕上がりはプラスチッキーでチープではないし、耐久性に問題があるとは思えない。レンズ自体は非球面、多層コーティングを多用して解像度、ボケ味、収差の解消に徹しており、スペック上もライカに負けていない。社内に「ゴーストバスター」という専門家チームを設けて、徹底した画質管理を図っている。当然コストパフォーマンス(コスパ)が良いわけだが、すごいのは、コスパを狙った製品ではない点だ。最高性能を極限まで追っかける。それがトッププライオリティーなのだ。コストはそれについてくる。しかしライカのように高価にならない!その姿勢と結果が市場を動かす。

ライカとシグマが共通しているのは、両社とも一貫して企画、設計、製造を自国の自社工場で行っていることだ。ライカは創業の地、ドイツ・ウェッツラー本社で。シグマは福島県会津工場で。合理化、コスト削減のためと称して海外に生産拠点を移すことはない。ライカが最近M用レンズの一部の生産をポルトガルに移す発表をしたが、ライカユーザには評判がよろしくない。「ライカ社は今後Mの力を抜いてゆく」というメッセージと捉えている。買わないだろう。ライカユーザー(ファン)は圧倒的にドイツ製にこだわる。一部のズームレンズは日本メーカ(名前は公表されていない。シグマ?)のOEMだが、これを指摘して買わないのがライカユーザーだ。極めて保守的だ。シグマも会津自社工場をクオリティーと地元愛の象徴として広く世界に「会津品質」「Made in Aizu」としてPRしている。海外の人には神秘的な会津の風土や自然とSIGMAブランド。これが海外のライカファンに非常に評判が良い。世の中は「安くて品質が良い」という、かつての日本の大量生産モデルの価値観、経済合理性だけでは評価しなくなっている。カメラやレンズ、時計のように生産地やブランド、作り手にこだわるモノ作り、商品領域が確かにある。

シグマといえば、かつては廉価版のサードパーティレンズメーカーで、申し訳ない言い方だが、「純正品」(今となってはこの言葉自体が差別的であるが)より安くて品質もちょっと...というイメージであった。またかつてはそういう市場を狙った。しかし、それを一新する最近の変身ぶりだ。元々技術力のある会社であったわけで、こだわりの設計開発技術者と、製造ラインのプロが育っている。そして製品企画のセンスの良さ。そうした技術屋魂に火をつける若い山木社長(文科系出身の2代目社長)の卓越した経営センスと突破力。彼自身がYouTubeやVideoに登場して、彼自身の言葉で製品への思い入れと企業のプレゼンテーションを行う。「Mr. Yamaki」はいまやライカマニアの間で有名人で、ブランドにすらなっている。しかも会津:Aizuという地域に根差した企業理念に依拠したストーリーが共感を呼んでいる。これがMade in Aizuという今のシグマを生んでいる感じがする。日本の新しい「モノ作り」のモデルを示しているに違いない。

参考:2019年10月27日のブログ「SIGMA fp 45mm/2.8」


ニコンよどこへ

ところで業界の老舗、一眼レフで世界王者となったNikonが、昨今経営不振で苦しんでいる。つい先日の11月5日に赤字幅を削減するために2000名の海外事業のリストラと合理化を発表。縮小均衡モードに入っている。しかも生産コスト削減のために宮城工場でのデジタルカメラの製造をやめて、タイ工場に統合するという!Made in Thailandのニコンを喜ぶプロやハイアマチュアがどれくらいいるのか?滅びの道を歩んでいないか?それでNikonのブランド価値を生かせるのか?(後藤さん、読んでたらごめんなさい!)ニコンの将来は、コスト削減、合理化だけでなくて、カメラ事業を切り離して、コモディティー商材市場から撤退してハイエンドカメラ/レンズ路線にシフトする、であろう。工場の統合するならタイではなくて宮城工場か、創業の地大井での生産再開だろう。大井には広大な空き地が手つかずのままあるではないか!ライカのMade in GermanyやシグマのMade in AizuようにMade in Japanのハイエンドのクオリティカメラに特化する。こうして一回萎んで、リシェイプして拡大再生産路線へ転換するモデルを研究してはどうか。特に「世界のNikon」ブランドを毀損しないことが重要。Leicaブランドと同様、ブランドは長く継続して、顧客に支えられてきた事業によって磨き上げられた宝だ。大きな価値を生む元手だ。これまでも日本のカメラメーカーは多くの「世界ブランド」を葬ってきた。ヤシカ、ミノルタ、マミヤ、オリンパス... このままでニコンは世界が認めるNikon ブランド、ライカと並ぶ憧れのニコン(ナイコン)を守れるのか。世界のNikonファンは、Nikon=Made in Japanの高品質、高品位のブランドとして認めている。Depentable and Durable Nikon、それに(余分に)お金を払っているのだ。安けりゃよいカメラならいらない。そもそもスマホ時代にコモディティーなコンデジカメラはもう消滅しかない。間違えないでほしい。価格競争力じゃなくて「ブランド」競争力だ。

ライカとシグマの共通点。それは「よみがえり」だ。事業モデルは技術、市場の変化により 不断に変遷してゆく。オールドビジネスモデルは消えゆく。そしてニュービジネスモデルが登場する。それが「よみがえり」による事業継続だ。そしてよみがえらせるのは顔の見える「人」。「経営者」と「技術者」だ。ライカ社を買ったアンドレアス・カウフマンのように誰かニコンのカメラ部門を買ってくれないか。マネジメントバイアウトでも良い。そんな富裕層は日本にはもはやいないのか。まさか中国資本のニコンになるのか?私が大金持ちなら買うのだが、カメラ一台(もちろんNikon Z7IIだ!)買うのがせいぜいだ。大言壮語はこれくらいにしておくが残念だ!



2020年11月3日火曜日

丸の内仲通散策 〜大名小路はいまブランドアベニューへ〜

 

行幸通りからみた仲通り

私はいわゆるファッションブランド品には興味がない。そういう柄でもない。したがってブランドショップ巡りなどという楽しみを持ち合わせていないしそれにお金をかけることもない。もっともブランドに拘らないわけではなくカメラはニコンとライカに決めているが、別にブランド品だとは思っていない。「お道具」としての仕上げの良さと信頼感から昔から愛用し手放せないだけだ。まさにサステーナブルな事業モデルが生み出す伝統の価値を愛でている。それを「ブランド価値」だというなら、そういうブランドは好きだ。なぜファッションブランドに興味がないのか? 多分ファッションにそもそも関心が薄いのだろう。したがって、有名デザイナーや高級ブランドの価値がわかっていない。縁がないといっても良いかもしれない。しかし、例外はある。唯一と言っていい贔屓ブランドはブルックスブラザーズ。ニューヨーク時代からのお気に入りでアメリカントラッド(アメトラ)の代表ブランドだ。本当はロンドン時代からブリティッシュトラッド(ブリトラ)ファンで、バーバリーやアクアスキュータム、オースチンリードなどのかっちりしたスーツやコート、シェトランドウールのプリングルやハリスツイード、ローラアシュレイなどだ。そうそうジャーミンストリートのピンクのシャツもいい。が、生憎英国ブランド製品は日本の提携先企業が次々倒産、撤退してしまい、なかなか入手できなくなりつつある。三越の英国フェアーで直輸入品をゲットするしかない。つい昨日はアクアスキュータムのレナウンがとうとう破産手続きに。でトラッドの代表格で日本に残っているのがアメトラのブルックスというわけだ。そのブルックスも本家がこのコロナパンデミック騒ぎの中倒産し存続が危うくなったが、ブランドと日本の店舗は残ることとなった。ビジネスウェアー中心でシャツはあのボタンダウンが定番になっている。

そんなブルックスブラザーズの東京店が銀座から丸の内仲通りに移ったのはもう何年も前だ。なぜ日本の旗艦店が「世界の銀座」ではないのか?店長にその理由を聞くと、銀座はもう高級でファッショナブルなイメージではなくなったという。いまやこの丸の内仲通りこそが東京のブランドアベニューだと評価しているとのこと。ブランドショップにとって出店ロケーションは非常に重要だ。この評価にはいろいろな意見や反論もあろうが、なんとなくわからなくもない。世界的に有名なメインストリートであるニューヨークの五番街、ロンドンのオックスフォードストリート、リーゼントストリートなどあまりにも観光客が多くなりすぎて、量販店やお土産屋が立ち並ぶ街と化し、高級ブランド街のイメージが薄れてしまった。そういう受け止めは昨日今日のことではない。それに代わってニューヨークだとマディソン街やヴィレッジ、ソーホー、トライベッカなどが、ロンドンではジャーミンストリートやボンドストリートが高級ブランド街になっていった。その動きは、ニューヨークやロンドンに遅れるものの東京でも起きている。特にインバウンド爆買いブームで観光客に占拠された感のある銀座よりも、ここ丸の内仲通の方がより高級感のある通りになりつつある。このコロナパンデミックでぱったりとインバウンドが途絶えた今、銀座はどうなるのか大いに関心があるところであるが、いまやここ仲通りが新しい東京の顔となり、世界の名品の店が軒を連ねていることに変わりはない。日本初進出という店もここにはある。銀座のような繁華街としての規模と華やかさと賑わいはないが、量販店やチェーン店、免税店が軒を連ね、観光バスが押しかけるインバウンドの買い物観光客でごった返すワイ雑さはない。日本橋のような江戸の老舗街ともまた一味違った街の趣が出てきた。まあ江戸時代は大名名家のお屋敷街「大名小路」だったので、昔からある意味ハイソなブランド街だったわけだが。

いまや丸の内仲通りの町並みはまるでヨーロッッパのそれだ。いや、日本を代表する大企業の堂々たるビル群。オフィス街の中を一本貫いて走る石畳の並木道。大企業のオフィスとブランドショップが隣組という東京ならではの町並みが独特だ。街角にオブジェが置かれていてアート鑑賞散策も楽しめる。歩道が広くとってあり、休日は車の進入が禁止されるので屋外のカフェが開放的でよい。「三密」避けるウィズコロナ時代にはうってつけだ。とにかくブラパチフォトグラファーにとってはフォトジェニックな街である。バブル崩壊して久しい。コロナであらたな危機に直面しているが、日本の奇跡の復興と高度経済成長をシンボライズする町並みだ。ずっと後世に、かつて日本が、東京が、未曾有の繁栄を謳歌した時代の「古き良き時代の街並み」歴史地区として記憶されるだろう。

しかし、一方で東京の中心、皇居のお堀端の丸の内、大手町、日比谷はグラスアンドスチールの工業製品を組み立てたプレハブビルばかりになってしまい、どこか都市景観に風格がなくなってしまった。かつての日比谷通り沿いの堂々たるネオゴシック建築群の立ち並ぶ壮観な景観はどこかへ消えてしまった。それが気になる。ヨーロッパの都市のように何十年、何百年も歴史の厚みを感じるような景観を保つことはできないようだ。あっという間に歴史のある建物は取り壊されて全く新しい別のものに建て替わってゆく。お堀端にあった銀行協会の近代建築遺産指定されていた建物もいつの間にか取り壊されて無くなっている。跡地にはなんの変哲もない合理性一点張りのオフィスビルが建った。いろんな理屈があるのだろうが一連の意思決定プロセスには「文化リテラシー」を感じない。大企業や金融機関という文化の担い手、パトロンであるべきはずが... こうして建築遺産は保存されず街の様相、景色が代わってしまう街が東京である。ここでは建物は消耗品だ。都市景観も資本主義的合理性の前では消耗品と化す。東京は歴史の痕跡が可視化されにくい街だ。つい150年ほど前には江戸を代表する景観であった黒瓦と白壁の堂々たる大名屋敷群はいまやすっかりなくなり、ベアトの古写真にその面影を偲ぶのみだ。明治以降の大理石作りの堂々たるネオゴシック建築も少なくなった。赤レンガ建築は、イギリスでもアメリカでも、「レッドブリックス」と呼ばれて一段格下に見られがちであるがこれも少なくなった。一丁ロンドンの面影は三菱一号館に残すのみとなった。東京駅舎が復元保存されたのは朗報だが。

丸の内仲通は、江戸時代は江戸城のお堀端に大名屋敷が連なる「大名小路」、明治初期には陸軍練兵場。そして岩崎弥太郎の三菱会社に払い下げられて三菱ヶ原に。やがて赤煉瓦の洋館が立ち並ぶ「一丁ロンドン」。関東大震災後は丸ビルなど鉄筋コンクリートのビルが立ち並ぶ。戦争で丸焼け。戦後は連合軍GHQの統治機関用に接収されたビルが連なる地区。やがて丸ビル、新丸ビルなど三菱系企業ののオフィス街へ。三菱重工本社ビル爆破事件なんて過激派のテロもあった。仲通りはかつては土日休日は閑散としていたものだ。よく休日は、ここに路上駐車してお堀端の散策や自転車乗りをしたものだ。それが今や世界的なブランドアベニューに。こうした有為転変が日本の都会の常態なのだ。伝統のブランドとは長い歴史のなかで生まれてくるものだと思っていたが、どうもそうじゃないらしい。変容に次ぐ変容。輪廻転生がブランドってわけか。

そんな現代の「束の間の」ブランド街を、「ブランド」カメラ「ライカ」で撮りまわってきた。

丸ビル前



Brooks Brothers






「一丁ロンドン」
(Wikipediaより)

1894年創建時の三菱一号館
(Wikipediaから)


復元された三菱一号館
ブリックスクエアーの中庭から

ガス灯

この佇まいはニューヨークのヴレッジあたりのそれだ

ブリックスクエアーの庭園




復元修景された東京駅丸の内駅舎

お堀端
クラシックな銀行協会ビルが姿を消してしまった

旧銀行協会ビル
1993年に建て替えられ、低層部ファサードのみが保存されたが、
2016年にはとうとう全部解体され姿を消した。

跡に建ったのはこんなビル!

旧ビルの痕跡はこれだけ!
泣けてくる

イチョウが色づき始めた

皇居前の噴水広場


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60, SIGMA DG DN 85/1.4 Art)