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2020年10月26日月曜日

近江商人の故郷 五個荘金堂町を探訪 〜「三方よし」はここで生まれた!〜







ついに実現!五個荘金堂町へ足を踏み入れた。ここは現在の住所表示では滋賀県東近江市である。と言われても最近の町村合併でできた地名なので何かピンと来ないが、かつての近江国神崎郡金堂村だ。大阪勤務時代、関西地区の「重要建造物群保存地区」巡りをしていて、数カ所廻り、ブログにも書いたが、この五個荘にぜひ行ってみたいと狙っていた。が、実現しないまま東京転勤になってしまった。そしてなんと今、GoToトラベルで実現するとは!近江路ブログは実に2009年6月の近江八幡探訪以来だ。新幹線で新大阪、京都方面に向かう途中、伊吹山、関ヶ原を過ぎ、米原を通過すると車窓に湖東平野の豊かな田園風景が広がる。ふと進行方向の左を見るとそこに「てんびんぼうの里 五個荘」という看板が目に飛び込んでくる。ここがその五個荘金堂集落である。田園地帯の中にこんもりした森と寺院と豪壮な民家の甍が見える。近江商人の故郷である。窓からふと横を見ると2両編成のローカル線の電車が新幹線に並行して走っている。これが近江鉄道。新幹線のスピードとはまるで比べものにならないのでたちまち追い越してしまうが、全く我関せず。そんな慌ただしい乗り物とは無縁とばかりにトコトコと長閑な田園風景の中を走っている。こうして新幹線で通過するたびに、いつの日にかここを探訪したいものだと夢想してきた。やっと実現したというわけだ。新幹線とクロスするあたりが近江鉄道五個荘駅だ。五個荘金堂地区巡りの最寄駅だ。しかし実際にはここからだと30分以上も歩かなくてはならない。JR東海道線の能登川駅からバスで行く方が便利が良い。どちらのルートも東京からだと米原下車で乗り換えだ。この長閑なローカル線の旅も悪くないのだが、今回はスケジュールの都合もあり能登川駅から行くことにした。

五個荘は近江八幡や長浜のように、あまり観光地化されていないので、大勢の人が押しかけるわけでもなくざわついた感じがなくて良い。この日も能登川駅で近江鉄道バスを待っていたが、金堂地区へ向かう人は誰もおらず、金堂で降りる人もいない。「ぷらざ三方よし」なる観光案内所も係の女性は一人。ちょうど昼食時で「こんにちは」と声をかけると、モグモグする口を押さえながら「はあい!」。ここで地図をもらい金堂地区を歩く。ほとんど徒歩圏内なのでブラパチ散策にはうってつけ。見学に来ている人もチラホラいるが、ほぼ人影はない。全くゆったりしている。幸運にもその日は秋晴れの真っ青な空。なんと空が広いことか!気持ち良い。もちろん「三密」は望んでもあり得ない。ただし、問題は昼食。古民家カフェがあるはずなのだが、見当たらない。人に聞くと「ああ、あそこは閉店しました」と。ガックリ。そりゃそうだろう、こう人がいなければ商売成り立たない。「三方よし」とは行かない。また邸宅など五カ所ある公開施設が二箇所閉館している。観光客が集まらねば維持していくのは難しいのだろう。ましてコロナで人が来ないのだから。かといって観光客が押しかけて静謐な環境を壊して欲しくもない。難しいところだ。あと、気がついたのは伝建地区に指定されているのだが、意外にも町内の無電柱化がなされておらず、中空に電線や架空ケーブルが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。写真を撮ると必ずと言っていいほど写り込んでしまう。これはなんとかせにゃならん。歴史的な景観を台無しにしているのは残念だ。


五個荘金堂地区は二つの景観遺産登録がされている。

重要伝統的建造物群保存地区(平成10年12月25日指定)

「金堂の町並みは、古代条里制地割を基礎に大和郡山藩の陣屋と寺社を中心に形成された湖東平野を代表する農村集落で、加えて近江商人が築いた意匠の優れた和風建築群の歴史的景観として価値が高い」と指定理由が記されている。

そして平成28年には日本遺産「琵琶湖とその水辺景観」にも指定されている。


歴史:

あたりの田園地帯の地割は古代の荘園、条里制が基礎になっている。五個荘金堂町もその街区に条里制の名残がある。地名の「金堂」は聖徳太子が金堂を建立したという伝承に由来する。地域には金堂廃寺跡(8世紀創建との伝承)、太子開基と伝わる浄栄寺がある。近世は近江守護六角氏の領地。織田信長が足利義昭を将軍に奉じて上洛するときに六角氏を破った箕作城、観音寺城の戦いでは金堂地区も戦場になった。

江戸時代になると領主がたびたび変わるが、元禄6年(1693年)大和郡山藩の領地となり代官(陣屋)が置かれた。以来、明治5年(1872年)まで存在していた。郡山藩は陣屋を中心に三方に寺院を配し、その周辺に民家を配するという集落整備を行った。江戸時代の金堂村は七つの組みに分かれ、稲作中心の600人ほどの農村集落であった。しかし農業だけでは苦しく、江戸中期頃から、副業として行商に出る商人が現れ始めた。これが五個荘近江商人の始まりだった。それでも当初は行商に出る家はそれほど多くはなかったが、天保年間になると布地、綿、絹、織物、傘を扱う商人が増加し、天保14年(1843年)の記録では金堂村から大坂、京都、播磨、紀伊、さらには東国の上野、武蔵、陸奥など諸国に商取引を拡大していったことが記載されている。こうして江戸末期から明治、大正、昭和になると大坂(大阪)、京都、江戸(東京)に出店する豪商が現れる。しかも日本国内だけでなく朝鮮、満州へと出店する豪商(中江家の三中井百貨店)が現れる。しかし、彼らは金堂村を離れることはなく、成功後も本宅を維持し、ここを本拠地として活躍した。また寺社仏閣に寄進するなど故郷の発展に重要な役割を果たした。金堂村はそうした近江商人の本宅地区となり、現在の独特の景観を形成する基となったわけだ。


景観の特色:

古代荘園の条坊制を基礎に、近世には陣屋を中心に寺院が配され、その周辺には農家が。そして東西南北の小路に水路が整備され、江戸末期から明治期に建てられた広大な敷地を持つ屋敷が並ぶという、時間が重層的に積み上がった歴史景観を形成している。基本的には湖東平野の農村集落からスタートしているが、豪商の邸宅や豪農の屋敷、蔵が連なっており、他の在郷町や門前町、宿場町などとは全く異なる独特の景観を保持している。大和郡山藩陣屋跡は現在稲荷神社となっているが、ここを中心に弘誓寺(真宗大谷派)、浄栄寺(浄土宗)、勝徳寺(真宗大谷派)、安福寺(浄土宗)が取り囲んでいる。かといって近畿地方に多い大和今井町や富田林のような宗教都市、防御都市的な寺内町(環濠集落)でもない。その周囲には豪壮な民家が立ち並ぶ。まずそういった街の全体構造を知ると歩きやすい。民家の建物は商家、町家スタイルではなく、黒い舟板壁と白壁に囲まれた邸宅屋敷スタイル。広大な敷地には切妻、入母屋作りの二階建ての主屋、数寄屋風の離れ、白壁漆喰土蔵が並ぶ。どの邸宅も見事な庭園を持っている。また同じ地域に藁葺きの大和棟風豪農建築も混在していて不思議な空間となっている。鈴鹿山系から引かれた水を取り込んだ水路が整備され、そこに鯉が放たれ、水路に面して川戸(かわと)と呼ばれる洗い場が設けられている。一見、環濠集落のようにも見えるが、先述のようにそうではない。しかしこうした水辺の景観が「日本遺産」に認定された理由であるようだ。近江商人の発祥の地としては近江八幡や、日野、高島、愛知川などがあるが、五個荘は純農村から発展し、商人の町として発展してきた。とはいうもののここには店はなく本宅だけが置かれたのが特色である。


近江商人とは:

近世初頭から国内に商圏を広げた近江八幡、日野、愛知川、高島、湖東出身の商人。江州商人、江商(ごうしょう)とも言われる。かつては朱印船貿易にも携わる豪商も出た。江戸時代の鎖国以降は、国内の商いに徹して全国に商圏を広げていった。ここ湖東の五個荘出身商人は江戸末期から、明治、大正、昭和初期に活躍した。先述のように農村集落の農閑期の行商に始まり、成功したのちも本宅を五個荘に置き、出先に出店をもうけた。現存する本宅は明治、大正期の建物が多い。彼らはここを拠点に、全国に行商に出かけ(天秤棒を担いで)、京都、大坂(大阪)、江戸(東京)、さらに明治以降は朝鮮。満洲まで進出し商売した。商売の形態としては地域の特産物を全国に行商する越中富山の薬売りなどのスタイルと違って、行き帰りで扱う商品が違う「産物廻し」、すなわち都市部で仕入れた産物を地方で売り、その足で仕入れた地方産物を都市部で売る商法(「ノコギリ商法」と言うようだ)であった。いわば現在の商社的な取引形態を特色とする。そういえば、商社マンであった家内の父は「行きは会社が出張旅費を出すが、帰りは取引先から旅費を稼いで帰ってこい、と教育されたものだ」と言っていたのを思い出した。思えば江州発祥の総合商社であった。また近江商人といえば有名な「三方よし」の堅実な商売で知られる。「売り手よし、買い手よし、世間よし」。自分さえ儲かれば良いということではなく、買い手も満足し、地域社会の発展、福利の増進にも貢献しなくてはならない。この商売理念は伊藤忠の創設者、伊藤忠兵衛(初代)が広めたと言われている。世の中、ますます格差が広がる社会となり、資本主義が抱える問題点が問われるこの頃、この「三方よし」の理念を思い起こす時が来た。


参考:近江商人の系譜を継ぐ企業

伊藤忠、丸紅、双日(旧日商岩井、ニチメン)、トーメン、兼松江商

西武鉄道/セゾングループ、高島屋、白木屋、三中井百貨店

日清紡、東洋紡、東レ、ワコール、西川

トヨタ、ヤンマー、ニチレイ、日本生命、武田薬品、

等々


鈴鹿山系から引いた水を取り込んだ水路が巡らされた街だ

錦鯉が放たれている


弘誓寺


浄栄寺

勝徳寺
陣屋の長屋門が移設されている

大和郡山藩陣屋跡に建つ「稲荷社」


五個荘近江商人屋敷めぐり:

1)中江準五郎邸(戦前、日本全国のみならず朝鮮、満州にまで進出した百貨店チェーン、三中井百貨店の中江家の本家住宅)

中江準五郎邸
蔵の街



中江家玄関

広間

二階から庭園を望む

玄関周り


茅葺の農家も見える

中庭

いくつもの蔵が連なる景色は壮観


この地の民芸品「小幡人形」コレクション


船板塀
釘がそのまま残されている




2)外村宇兵衛邸/外村繁邸(呉服を商い、江戸/東京、横浜、京都に出店した外村家の本家住宅。その跡取りで作家でもあった外村繁家住宅)


外村宇兵衛邸(外村本家)
広大な敷地を誇る豪邸
残念ながら閉館中

外村本家外観

赤いポストと煙出し


外村一族出身の小説家「外村繁」の邸宅

川戸(かわと)
屋敷内に設けられた水路を利用する洗い場
防火用水としても利用された

上がり框から大広間

ラヂオ

手回し電話機

居間から庭を

庭から見た母屋


先がよく見えるように
お守りたぬき


おくどさん


台所

書斎

天秤棒で行商
近江商人の定番スタイル

商売ノウハウ集

自らを律せよとの「家訓」

中庭

見事な松



一幅の画のような風景

分厚い土蔵の扉
防犯のため母屋に入り口がある


土蔵の二階


3)中江富十郎邸(中江兄弟の三男富十郎家住宅。現在は「金堂町まちなみ交流館」として公開)

現在は公開施設「金堂町まちなみ交流館」
ただし閉館中


五個荘金堂町点景:


秋晴れの五個荘金堂を散策

黒い舟板塀の屋敷が多い

公開されていない私邸
立派な門


舟板塀に真鍮製の「郵便新聞受」
美しい字体にレリーフが施された外枠。
この造形と質感に惹かれてしまう

コバタ?

子供の飛び出し注意!
角角にある

街角のお堂


白壁の土蔵にも秋の風が





五個荘金堂町の空中写真
(Wikipedia国土交通省地図から引用)



アクセス:

JR東海道線、能登川駅から近江鉄道バス「八日市駅行き」で10分。「ぷらざ三方よし前」ないしは「金堂前」下車すぐ。バスは一時間に二本程度。能登川駅は新快速停車駅なので京都、大阪方面からもアクセス至便。東京方面からだと新幹線米原駅下車。東海道線乗り換え新快速で13分ほど。または近江鉄道だと五個荘駅下車。ただし徒歩30分。こちらも米原駅で乗り換えで30分。ちなみに、近江鉄道は西武グループの会社。東京の西武線で走っていた懐かしい車両がリニューアルされて使われている。


JR能登川駅
新快速も止まるので便利


「ぷらざ三方よし」
観光案内所がある

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix 20-60。このセットは、ブラパチ散策、建物撮影、建物内部撮影に最高な組み合わせだ。他の交換レンズを持っていったが結局これ一本で済んだ)