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2022年4月24日日曜日

「夕日の日照る」玄界灘 〜瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が見た「葦原中津国」は甚だ吉き国であった!〜



夕陽に輝く玄界灘と沖ノ島


古事記では、「天孫降臨」の地、すなわちアマテラスの孫ニニギが「天津国」から三種の神器と随伴の神々と共に「葦原中津国」を統治するために降り立ったのは「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」であるとしている。そして其の降臨の地の第一印象を次のように語った。「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚だ吉き地」と。とてもロマンチックな第一歩ではないか。そんなニニギを感動させた風景はどこにあったのだろう。

すなわち、ニニギが降臨してきたという「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」とはどこなのか?「久士布流多気」がどこかは不明であるが、後世、この地は筑紫島(九州)の日向国(宮崎県)の高千穂(高千穂峰)であると解釈され、そのように言い伝えられてきた。しかし本当にそうなのだろうか。伝承に基づいて創成された神話の解釈を史学アカデミズムの立場から試みることにどれほどの成果が期待できるかは甚だ疑問なしとはしないが、あえて歴史探偵的に解釈すると、ここが天孫降臨の地であるとすることには違和感がある。おそらく後世に其の地を古事記の神話伝承に因んで「日向」とか「高千穂」と命名したというのが真相だろう。「日向」や「高千穂」という地名はここだけではなく日本のあちこちにある。そもそも古事記や日本書紀が編纂された7世紀末には、律令制に基づく国制は成立しておらず、未だ「日向国」は存在していない。何よりも先ほどのニニギの言葉を思い出してほしい。「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」。韓国(からくに)は今の韓国ではない。大陸の(半島の)蛮夷の国(からくに:空の国)という意味である。この大陸の異国が望める地であると言っている。宮崎県から朝鮮半島は望めない。朝日が差し、夕陽が輝く景観は東西に開けた(おそらく海に面した)土地であろうから、東に日向灘、西に九州山地という宮崎の山奥では望めない。これはどう見ても玄界灘沿岸としか思えない。高千穂とは高くて神々しい山、という意味。日向は太陽に向かう地(ひむか)という意味。いずれも固有名詞ではない。神々しくて、太陽に向かう地という意味である。もちろん玄界灘沿岸にも高千穂や日向の地名がある。

外来文明の受容と変容。それが日本という国の歴史を特色付けていることは知られている通りだ。しかし、日本の正史である日本書紀や古事記はそういう認識を示してはいない。「日の本:ひのもと」は太陽神の子孫が天地開闢以来独自に築いた神国である。決して大陸からの人や文明の受容と変容でできた国ではないとする。どこの国の建国神話、王権神話も多かれ少なかれ同様なオンリーワン・ストーリーを共有しているものだが、我が国の建国神話もその例外ではない。日本書紀や古事記といった正史が生まれた時代背景を考える必要がある。ときはまさに倭国が朝鮮半島の白村江の戦いで唐/新羅に敗れ、国家存亡の危機に直面していた時代である。いわば「富国強兵」と「国家統治の近代化」が急務であった時期である。筑紫の防衛線を構築し、「天皇制」を定め、唐風の首都を建設し、律令制を整備し、税制を定め、仏教を鎮護国家思想とし、官位を定め、国の正史を定める。「建国神話」の創成は、当時の「倭国」から「日の本」へと国家の「近代化」を図る時代の要請を如実に表した政治的宣言の発露に他ならない。すなわち天帝が支配する中華宇宙とは異なる天皇が支配するもう一つの小宇宙の存在を宣言した。まして朝貢冊封体制の下で其の統治の権威を中国皇帝により認めてもらって存立している国ではないのだと、国家アイデンティティーを主張した。であるからこそ記紀では中国の史書に出てくる朝貢冊封国家である、邪馬台国や奴国、伊都国については一言も触れていない。これらの国々が日の本(ヤマト王権)のルーツであるとは認識していないとするのが記紀の立場である。当時全盛を誇る大唐帝国に学びながらもそこからの独立宣言にも等しい、いわば「大宝維新」の政治宣言であった。

差はさりながら、ここ玄界灘は大陸から文明が渡ってきた海である。有史以前より大陸との交流があった列島西北部の「文明のフロンティア」である。普段から海峡の両岸を漁撈や交易を生業とする民が行き来し、またあるときは難民が、流浪の民が、あるときは亡命貴族が海を渡ってやってきた。稲作農耕や生活様式、仏教、政治思想、官僚制、道徳感、そして文字などの大陸由来の文明が彼らと共に伝来した。そして玄界灘を舞台とした古代海人族の安曇族、宗像族が「海北道」の航海の担い手であった。彼らは列島と大陸との間を沖ノ島、壱岐、対馬を経由して航海した。そして列島には奴国、伊都国、邪馬台国などの倭の国々が生まれ、これらの国々は大陸と外交関係(「朝貢冊封」関係)を持つことで支配地域における統治権威を得た。事実、この文明の海には大陸との交流の痕跡、証拠があちこちに存在している(稲作農耕遺跡、鉄器、金印、沖ノ島祭祀、三種の神器の原型たる威信財を埋葬する墳墓等々)。紛れもなく日本は、海に隔てられ、外界から隔絶された地域ではない。そして海外との交流やその影響なしに独自に成立した社会、国でもない。この「夕日の日照る」玄界灘を渡って人々が交流し文明が行き交ったのである。そうした外来の文明や文化を「受容」し、独自に「変容」させてきた。「大宝維新」の「政治的な意図」とは別にニニギにこの風景を感動をもって語らせた。大陸からの文明の受容と変容で生まれた国ではないと主張しつつも、そのルーツを彷彿とさせる玄界灘の景色を懐かしく歌うことでまさに「日の本」の起源のありかを示唆したのだ。


今日でもこの海は多くの船が行き交う「文明の海」である


神宿る島「沖ノ島」の遠景


奴国の今
大宰府の外港、博多津を経て今は人口150万を有する福岡市になっている

「漢倭奴国王」金印が発見された志賀島。其の向こうは「伊都国」

ニニギはここに降臨した

船はやがて那の津へ



(撮影機材:Leica CL + Sigma 18-50/2.8 DC DN)

2022年4月17日日曜日

福岡城址公園に新緑を堪能する


ここは黒田五十二万石、筑前福岡本藩の居城、福岡城(別名舞鶴城)跡。しかし、ここを訪れてまず感じるのは、これほどの外様の大藩の居城にしてはその栄華を偲ぶ遺構が少ないことに驚かされるだろう。最近流行りの「お城巡りツアー」でも取り上げられることが少ない。お隣の肥後の熊本城の人気に比べても寂しい限りだ。天守閣はおろか、大手門も主なる櫓や御殿も庭園も残っていない。加藤清正も尊敬した築城の名手、黒田如水、長政親子の築いた名城の片鱗を感じさせるのはその縄張り。すなわち北に博多湾、南に大休山、西にはの草香江の津(大濠)、東に博多の町。城そのものよりも地形と地の理を生かした城下町作りとなっている点だ。しかも黒田父子は合理主義者。戦のない時代に天守閣も、壮麗な堀割も、高石垣もいらない。朝鮮戦役の時に攻めあぐねた晋州城をモデルとした平城としての縄張りを徹底的に追求した合理的な作りになっている。だからなのか無駄な装飾や権威や権力を誇示する建造物もない質素で無骨な作りである。

幕末動乱期には、尊王攘夷運動の中心の一つであった筑前福岡本藩は最後の最後になって尊攘派を粛清して佐幕派に転換する。その結果、維新の動きに乗り遅れ、鳥羽・伏見の戦いではかろうじて官軍に寄せ集めの兵を出したが、明治新政府では完璧に干された。しかも、藩ぐるみの贋札事件がバレて徳川幕藩体制下では一度も改易されなかったのに、明治になってから藩知事更迭という不名誉を被る。こうして藩主は、廃藩置県を目前にして福岡を退去し、福岡城も明け渡されて破却されてしまう。こうして如水/長政父子の傑作名城は(その後の子孫の不始末で?)失われてしまった。ある意味では悲劇の名城と言っても良いだろう。

破却されて更地にされてしまった城内には、明治以降、県庁や陸軍練兵場や福岡師団の兵舎が設置され、戦後は高等裁判所、国立病院、戦後復興住宅、小学校が設けられ、あの西鉄ライオンズ全盛期の平和台球場や福岡国際マラソンで有名な陸上競技場が設けられた。こうして石垣と一部の堀を除けば完全に城郭としての面影が失われてしまった。最近、全国的に改めて城郭が観光資源として見直されるにつれ、福岡も負けじと城址公園としての復興整備が始まり、国立病院や高等裁判所が城外へ移転していった。ちなみに平和台球場の地下からは、奈良時代の太宰府鴻臚館跡が見つかり現在でも発掘調査が進められている。その結果、平和台球場は破却されてプロ野球は福岡ドームに移っていった。「鴻臚館から福岡城へ」その1000年の時空を超える新たな歴史公園として脚光を浴び始めている。

今、福岡城址は、隣接する大濠公園とともに桜とクスに埋め尽くされる花と緑の市民公園となっている。発展著しい福岡市。ミニ東京化が進み、どこにでもあるガラスと鉄骨で出来たビル群が幅を効かす福岡市。それに伴って歴史遺産と緑の空間がどんどん失われてゆく福岡市。街の文化的景観が希薄になった「大都会」福岡で、目先のお城ブームによる観光資源整備じゃなくて、市民にとって貴重な歴史と緑のスペースとして維持発展していって欲しいものだ。



天守台跡からの展望

天守台跡から大濠公園を望む

大濠公園
福岡城の外堀であった

大濠公園


本丸跡
桜満開の季節が終わると新緑の森に



枝垂れ桜と石垣

クスノキと八重桜

名島門



藤は藩主黒田家の家紋だ

桜と藤のコラボ
それに自転車...

クスの新緑

お堀端の八重桜

大手門

二の丸公園

平和台球場跡
正面は鴻臚館遺跡展示館




(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

2022年4月16日土曜日

新緑の太宰府路(2)〜太宰府天満宮はクスの巨樹の大海に揺蕩う〜

続・新緑の太宰府路 太宰府天満宮編

大宰府政庁や観世音寺、戒壇院、学業院などの古代大宰府都城の中枢部から離れ、条坊の東北の郭外に位置する太宰府天満宮に移動する。観光客は太宰府というとこちらの天満宮を想起するであろう。西鉄の太宰府駅もこの参道の入り口に位置している。しかし、ここは本来の太宰府の外れであることを知っておいていただきたい。菅原道真公はこの地に没し、現在の天満宮のある場所に埋葬された。その天満宮の門前町として発展したのが後世の太宰府である。一方で菅公没年の250年以前から存続した「遠の朝廷(とうのみかど)」の中心部は、ここから西にあったがその後徐々に廃れていった。みやこの中心が時代と共に「東」へ遷るのは、平城京(奈良)や平安京(京都)においても同様である。これは単なる偶然なのであろうか。


太宰府天満宮

ご祭神は菅原道真公。非業の死を遂げた道真公はこの場所に埋葬されており、そこに菩提を弔う安楽寺が創建、そして神仏習合で安楽寺天満宮となった。しかし、明治になると今度は神仏分離で現在の太宰府天満宮となる。学問の神様として全国の受験生に絶大なる人気を誇る。福岡の観光名所としても絶対一位の人気スポット。天満宮は「飛梅」など梅が有名だが、この季節は巨大なクスの樹の新緑が美しい。まさに境内は「巨樹の大海」に揺蕩う神域となっている。 


太宰府天満宮楼門と大クス

天満宮参道
コロナ以前はインバウンド観光客で賑わう観光地のメインストリートであったが、
最近は落ち着いている

参道に出現したスタバ
隈研吾設計

延寿王院
天満宮宮司西高辻家(菅原道真公の直系末裔)邸
幕末には「七卿落ち」の滞在先となった

赤い太鼓橋

太鼓橋を二つ渡ると楼門だ

楼門


本殿
小早川隆景創建
この本殿の下に道真公が眠る

この日も修学旅行生で賑わっていた

神域全体は樹齢数百年を超える大クスの杜である

巨木の杜と太鼓橋



夫婦楠
本殿の背後に聳り立つ

天満宮といえば牛

多くの文豪に愛された「お石茶屋」

光明禅寺へと続く道

名物「梅ヶ枝餅」

太宰府へは西鉄電車「旅人」で



(参考)

大宰府条坊制と天満宮、博多津、鴻臚館、水城の位置関係

(太宰府市教育委員会文化財課資料より)





(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

2022年4月15日金曜日

新緑の太宰府路(1)〜都府楼、観世音寺、戒壇院界隈散策〜

 久しぶりに仕事と墓参を兼ねて福岡に行った。雨が心配されたが、日頃の行いが良いせいかその懸念も払拭され、天気は薄曇りから晴天へ。しかも気温が25度を超える真夏日のような毎日で久しぶりに汗をかいた。なにしろコロナ禍による旅行自粛で3年ぶりの墓参り。その後足を伸ばして、筑紫路太宰府の新緑の季節を堪能した。その故郷の風景は、「コロナ巣篭もり」でのストレスフルな生活や、都会の喧騒、職業病としての資本主義的合理性に疲れた心に、忘れていた遠い昔の潤いを思い出させてくれた。特にこの季節、桜狂想曲も終焉を迎えた風景に鮮やかに輝く新緑が目に沁みる。さすが九州、早緑色のクスの巨樹は特に印象的である。大野城の山肌を彩る新緑のグラデュエーション、筑紫の古都に華やぎを与えてくれる青紅葉、山藤と菜の花、レンゲの彩。ツツジも咲き始めている。今回は歴史散歩ではなくて新緑探訪。歴史のウンチクは手短にして写真中心に現地の春をお届けしたい。ただし今回は「令和の里」坂本神社(大伴旅人居館跡)と水城には足を伸ばさなかったので悪しからず。なお「太宰府天満宮編」を、次回に続編としてアップする予定。


都府楼跡(太宰府政庁跡)

遠の朝廷(とおのみかど)大宰府政庁跡。創設時期は実は不明だが、記録に残るものとしては664年、白村江の戦いののち、博多湾岸にあった糟屋の官家を内陸の現在地に移し、水城、大野城、基肄城を築いて防御の要としたとある。しかし、それ以前から大陸との交易、防衛、西国統治の拠点としてなんらかの出先が設置されていたようで、幾度かの建て替えがあり、平安時代末期までこのような広大な官衙があった。その長官は大宰の帥。皇子や摂関家のから任命される高位高官。実際には現地に赴任しない遥任官であった。現地へ赴任したのは太宰権帥(次官)で、吉備真備、大伴旅人、菅原道真が有名。平清盛は大宰大弐(ナンバースリー)で、博多での対外交易を独占した。最後の大宰の帥は幕末の有栖川宮熾仁親王。今は広大な敷地と建物の配置がわかる礎石群が残されているのみだ。


大クスの新緑と背後の大野城(四王寺山)の山肌のグラデュエーションが美しい




大宰府政庁の礎石群

都府楼の山藤


新緑と山藤のアレンジメント



山椿の落花

太宰府歴史の散策路

学業院跡

学業院跡に建つ山上憶良「貧窮問答歌」歌碑


クスの新緑を見ながら散策する

散策路にはお大師様の祠も

観世音寺の北を守る日吉神社
豊臣秀吉ゆかりの神社





観世音寺

奈良時代、中大兄皇子により、母である斉明天皇の菩提を弔うために建立された筑紫最古、最高位の官寺。聖武天皇によりに日本三戒壇(大和東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺)が制度化され、鑑真により公式に授戒を行う戒壇院が設けられた。菅原道真の漢詩にも歌われた梵鐘は日本最古のもの。妙心寺の梵鐘と兄弟鐘。現在は創建時の伽藍は残っておらず、礎石により、その広大な寺域と隆盛を偲ぶのみである。現在の講堂、金堂は江戸時代に再建されたもの。ご本尊は聖観音。巨大な立像三体(馬頭観音、不空羂索観音、十一面観音)を含む仏像群は戦後に新設された宝蔵に収められている。


観世音寺講堂

参道は新緑のトンネル

講堂と青紅葉


鐘楼
日本最古の梵鐘は九州国立博物館に収蔵されている

観世音寺僧坊跡

観世音寺収蔵庫





青紅葉


観世音寺石仏群




戒壇院

先述の通りかつては観世音寺に設けられた戒壇院。観世音寺の西隣に位置している。この配置は東大寺と戒壇院の配置と同じ。聖武天皇により開かれた日本三戒壇(僧侶に正式の受戒を行う)の一つ。現在は博多の栄西創建の臨済宗聖福寺の末寺となっている。現存する建物は江戸時代の再建によるものだが、寺域はほぼ当時のままで、観世音寺よりは明確な形で現在まで引き継がれている。



境内のクスの巨樹

山門

築地塀





観世音寺側の門

正面の山門


(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor 24-120/4)