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2020年1月16日木曜日

麗しのFormosaよ永遠なれ!〜台湾の歴史をご存知ですか?〜


台北にある故宮博物院
蒋介石が日中戦争の間も行軍とともに運び続け、
戦後の国共内戦に破れて台湾に逃亡したときに運び出した歴史的な財宝/財物を収蔵し展示する。
今は蒋介石像があちこちで撤去されている。
(1993年の写真)



ニューヨークで仕事をしていたときに、台湾からの留学生をインターンとして雇用したことがある。米国にはインターン制度というのがあり、海外からの留学生が米国の大学卒業後一年だけ、学生ビザのままで企業で仕事ができるという制度だ。日本人留学生も当時は多かったが(今は激減しているという)、台湾からの留学生は非常に多く、我が社でも数人をインターンとして採用していた。中でも彼女は聡明でよく働き、それでいて東洋的な控えめな美徳も兼ね備えた女性であった。1年間のインターンを終えると、優秀だった彼女は故郷の台湾に職を得て帰り、新竹科学工業学園都市のハイテク企業で働き始めた。私も3年後にはニューヨーク勤務を終えて東京へ転勤となった。しばらくはクリスマスカードのやり取りくらいはしていたが、台湾の交通部電信総局の招聘により台北に長期出張することになったので、久しぶりに昔の仲間である彼女に連絡を取り、会うことにした。

台北のホテルで4年ぶりに彼女と再会。すっかりバリバリのエンジニアになって活躍している旧友の様子が頼もしかった。懐かしい米国時代の話に花が咲いた。両親の自宅に私を招待し夕食をご馳走してくれることになった。初めて彼女の家族に会うわけだが、色々と想像を膨らませた。きっと台北郊外の豪邸に住む裕福な家庭の娘なのだろう。妹二人も海外留学中だという。父親はきっと政府や軍の高官か、企業の経営幹部だろう。ホテルまで両親が車で迎えに来てくれるというので。ロビーで待つことにした。ホテルの玄関には次々と高級車が乗り付け、バレットパーキング担当のボーイが対応に忙しい。あの車か?これかな?と見ているとやがて、一台の日本製の軽自動車が車寄せに入って来た。ボーイがキーを預かり、運転席から60歳位の男性が降り、続いてその妻と思しき女性、そしてあの彼女が車から降りて来た。「初めまして!よくいらっしゃいました。お待たせしてすみませんでした」その男性は全く流暢な日本語で私に駆け寄ってきて握手した。彼女の父親であった。続いて彼女の母親も「娘がアメリがでお世話になりました。本当にありがとうございました」と、これまた普通に日本人のような流暢な挨拶。これが彼女の両親との出会いであった。

その小さくて、それなりの年数を経過したであろう出迎えのマイカーは、決して裕福な家庭のそれではなかった。私の座席を確保するために、後部座席に散らかっていた雑多な荷物をトランクに放り込むと、四人が狭い車内にぎゅうぎゅうになって乗り込み、いざ自宅に向けて出発。この時点で、多分自宅が「郊外の豪邸」ではないことを予感した。案の定、父親は台北市内の狭い路地を人混みや車や自転車を巧みに、まことに器用に避けながら運転し、着いたのは古い鉄筋コンクリートのアパートであった。入り口の門には厳重な鉄門扉があり、それを開けて階段を上がる。部屋の玄関には頑丈な鉄格子然としたシャッターがある。きっと用心が悪いのだろう。それをガチャガチャと鍵で開けるとようやくドアに到達。「さあどうぞお入りください」とアパートの一室に誘われた。内部は、日本の団地サイズとさして違わぬ大きさ。我々東京のマンション族には違和感のない佇まい。ここに両親が住んでいるという。

紹興酒でカンペーし、手作りの夕食をご馳走になりながら、日本語があまりにも上手でビックリしたと言うと「我々世代以前の人は皆、学校では日本語で勉強しましたから、誰も日本語が分かりますよ」と笑う。確かに仕事相手の電信総局幹部も全員が「正しい日本語」を使っていた。会議も打ち合わせも日本語だった。カラオケの「北酒場」も達者であった。父親は紹興酒を作る公社(「日本の専売公社のようなものです」と言っていた)に勤務するサラリーマンであるという。要するに裕福な家庭と言うよりは、幹部社員ではあってもごく普通のサラリーマン家庭であった。私の以前の妄想が崩壊してゆき、むしろなんだかほっとした。しかし、なのに三人の娘を全員海外(アメリカ二人、日本一人)に留学させている。すごく教育熱心な家庭なんだなあと感じたものであるが、そんな能天気な事情でないことをすぐに知ることとなる。

色々と、アメリカでの話や彼女の新しい職場の話、東京や大阪、京都へ行った時の話で盛り上がった。家族全員が極めて親日的で(というよりほぼ日本人)とてもアットホームな暖かい家族であることに居心地の良さを感じた。一瞬話が途切れた後、父親がこう私に聞いた。「蒋介石をどう思いますか?」突然の話題転換に戸惑ったが、私は日中戦争のこと、戦後の共産党との戦いに敗れた国民党の置かれた苦しい状況を慮ってこう答えた。「蒋介石はかつて日本が戦った敵であったが、日本が中国の人々に散々ひどいことしたにもかかわらず、戦後は大陸から軍人を含めて日本人の帰国を果たしてくれた恩人です」と。何かで聞いた話を、相手国のカリスマ的指導者への最大限のレスペクトという外交的プロトコルに従い答えた。実は恥ずかしながらあまりよくこの間の歴史を知らないのだ。ところが父親の反応は意外なものであった。「そうですか。蒋介石は良い事もしたかもしれないが、悪いこともいっぱいしました」と。私は台湾人にとって蒋介石は神のような存在で、あの中正紀念堂に崇め祀られ、衛兵に守られている中華民国(台湾)の英雄だとみなしているに違いない、と思っていたので非常に驚いた、まさか地元でどういうことか分からないが「悪いこともいっぱいした」と評価されるとは。こうも言った。「あなた内省人、外省人を知ってますか?蒋介石とその一派は外省人です」と。そして日本人がいなくなってから、大陸から移ってきた外省人の内省人(台湾人)に対する苛斂誅求を語り始めた。腐敗した国民党幹部にアメリカも嫌気が差していたが、対中共(中国共産党政府)上、蒋介石を支援せざるを得なかったという。なんだか、旧南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権の話かと思うくらい似ている。蒋介石は強権的独裁支配体制をとり、2.28事件や「白色テロ」と言われる徹底した台湾人への弾圧、殺害、思想統制を行なった。日本語や台湾固有の言語の使用を禁止され、北京官語を強制されたという。最後に「日本時代は良かったです」とぽつり。なにか浅学な私の教科書的台湾理解に冷水を浴びせるような話であったことを今でもありありと覚えている。

後にこの父親の言葉をきっかけに台湾の歴史を少し勉強してみてようやくわかった。私は、大陸=共産党、台湾=国民党。国共内戦ののちに大陸から逃亡を余儀なくされて台湾に移った蒋介石の中華民国こそ正当な中国の政権であると台湾の人たちは固く信じている。南北朝鮮や南北ベトナム、東西ドイツと同じ「分断国家、中国」という理解であった。またそう学校では習った。それは一面では間違いではないのだが、しかし、台湾は一様ではないことを十分理解していなかった。台湾にもともといた人達(台湾人、いわゆる内省人/本省人)の存在を全く理解もせず、その戦後の東西冷戦構造を記述する歴史教科書的な理解は彼らを我々の意識の埒外に置いていたわけだ。身近な隣国、台湾を正しく理解しているとは言えないことを知ることとなった。今となってはこのことを恥じ入るばかりである。

さらに彼女の父親は話を続けた。「中国共産党は台湾をいずれ武力侵攻すると言っています。台湾は頼りにしていた日本からも断交され、アメリカからも断交され、いつ中共と戦争になるかもしれないんです。誰が台湾を助けてくれますか?」「台湾人はいつでも海外へ逃れれるように用意をしています」と。娘達を日本とアメリカに留学させているのもその布石なのだということを悟った。日本人の平和ボケしたブランドのような「海外留学」とは全く違う緊張感伴う「リスクヘッジ」、「不透明な未来への投資」であることを知った。彼女がアメリカで必死に勉強し、我が社で一生懸命仕事して人脈を作っていたのは、近未来に起こるかもしれない不測の事態から家族を守り生きるためであったのだ。幸い、武力衝突もなく、台湾も経済発展して、IT産業が力をつけ、米国留学経験者を求める台湾企業が彼女のような人材に群がっているので台湾へ帰った。しかし、一丁有事には海外のネットワークを利用して世界のどこででも家族とともに生きていけるようにしてあるのだ。香港人と同様な「国際感覚」を台湾人も共有しているのだ。日本人が語る「国際感覚」とは全く異なる。共産党と国民党の戦争に巻き込まないでほしいものだという。我々は台湾人なのだから、人の家に上がり込んで喧嘩しないでほしい。やるなら外でやって欲しい。と慨嘆していた父親も、嘆くだけではなく家族のためにキチンを手は打っている。そのために紹興酒の会社で必死に働いてきたのだ。その家族を守ることの苦労としたたかさを感じた瞬間であった。

あれは1993年のことだから、もう27年も前のことだ。国民党の蒋介石、蒋経国親子が世を去り、悪夢の独裁が終わり、1988年には内省人の李登輝(京都帝国大学卒業)が総統に選ばれ台湾の民主化が進んだ時期である。彼女の父親の押さえつけられていた思いが一気に爆発したのは、蒋介石/蒋経国親子の独裁から解放された時代背景があったのだ。2000年には台湾の独立を目指す民進党の陳水扁が総統に選出された。ついに国民党は野党になった。台湾が中華民国ではなく台湾になろうとし始めたのはこの頃である。

そして今年2020年1月の総統選挙で、経済政策で劣勢を伝えられていた民進党の蔡英文女史(LSE卒業)が歴史的な圧勝で国民党候補を破り総統に再選された。これは、もちろん中国共産党の習近平の「一国二制度による台湾統合」に明確なノーを突きつけ、香港の民衆の民主化への要求に警察の暴力で応える中国共産との姿勢への明確な反対の意思表明である。新しい台湾の進むべき道を国民が選択した瞬間であった。新しい世代の台湾人が旧世代と入れ替わってきた、そういう時代の変わり目ともいえる。あの共産党と争って大陸を追われた国民党が、今や親中派であることには驚く。金権腐敗にまみれた蒋介石一味のなれの果てなのか、経済発展するかつての不倶戴天の敵、共産党中国にすり寄る姿勢に転換した。国民党の党是は「反共」「大陸反攻」であったはず。しかし、彼らは基本的に大陸から来た外省人で、台湾人、内省人ではないということなのだ。中高年より上の人たちは、日本統治から一変して蒋介石の国民党独裁下におかれ、日本語から引き離され、台湾独自の文化アイデンティティーも否定され、独自の言語への復帰も許されず、中国人化(漢人化)されてきた影響があり、国民党しか支持政党を知らない人が多いのだそうだ。これに対して1988年の李登輝による民主化後の世代は台湾人のアイデンティティーを重んじる。共産党 vs 国民党よりも外省人 vs 内省人がよりクローズアップされたきたわけである。ここでも世代間ギャップが広がっている。

我々日本人は、隣人である台湾人、しかも、日本の良き理解者で日本文化のファンでいてくれる台湾人の歴史をあまりにも知らなさすぎる。「反日」韓国に対する「嫌韓」や、北朝鮮の理不尽には敏感に反応するだが、「親日」台湾には鈍感だ。中国人も台湾人も香港人も一緒くたで「中国人」だと思ってる。昔、青目の「外人」を全て「アメリカ人」だと思っていたのとほぼ同じ「異人観」だ。さらには「中国人」と言っても漢族だけでなく、チベット族、ウイグル族、満州族他、多数の民族からなる多民族/多文化コミュニティーなのだ。日本人の隣人に対する理解と眼差しはその程度なのだ。しかし一方で、台湾の人々が(韓国人と違って?)親日的で、日本文化に憧れてくれているのは、日本統治時代の「善政」のせいだと思っている。ことさらそれを強調する論調もある。そんな自分に都合の良い解釈でいいのだろうか。確かに、朝鮮半島のケースと同様、台湾において、日本が現地の「近代化」に果たした役割は否定できない。多くの鉄道や道路などの公共インフラ投資をし、資本を入れて製糖産業などの産業育成を行い、雇用を生み出し、小学校から大学まで設置して教育にも力を注いだ。今日の台湾の繁栄の基礎を築いたのは日本。それを発展させたのは戦後のアメリカ。それは間違いではない。しかし、その日本へのノスタルジアや憧憬は、あの蒋介石統治下の2.28事件や白色テロという恐怖を経験した暗黒時代の反動でもあるのだ。さらには戦後の大国のパワーバランスの中で台湾人が直面した地政学的に不安定な立ち位置。日本統治時代には経験しなかった孤立感と新たな恐怖。これらが、かつての支配者、日本を仲間に入れておかねば、という冷徹なリアクションにつながっていることも知っておかねばならないだろう。こうした隣人が抱える奥底の苦悩と歴史を理解してこそ真の良き隣人であり、友人であり、ファンになれるのだと思う。





ここで台湾の歴史を簡単におさらい:


歴史上何時ごろ台湾の存在が認識されていたのか。意外にも中国の文献資料が極めて乏しいことに驚く。3世紀の三国志に呉が海洋進出に取り組み「渭州」との交易を行なった記述がある(呉志列伝)。しかしこれが現在の台湾を指すのか琉球を指すのか不明である。また隋の史書である「隋書」にも琉球との区別が判然としない記述があるが、いずれにせよ歴代の王朝が明確にその存在を確認し、具体的な通交を行った記録は少ない。

16世紀、大航海時代になると、ポルトガルやスペイン船が台湾、澎湖諸島付近に出没するようになる。台湾は欧米では「Formosa」(中国語訳で「美麗島」)と称される。これはポルトガル人がこの島を「発見」したときに「麗しの島」と命名したことによる。日本も太閤秀吉や九州の有馬氏らの西国大名が、琉球の「向こう側」にある台湾に領土的な関心を示して、台湾の「高山国」という部族国家と通交を持とうとしたが成功していない。一方で倭寇の隠れ家に利用されてた記録もある。

1624年にはオランダ東インド会社が台湾に先着していたポルトガル、スペイン勢力を駆逐して植民地化しプランテーションをはじめる。この頃のFormosa島は、先住少数民族や福建省から流れてきた漢人、倭寇が雑居するいわば「無主の地」であった。オランダは台湾開発のために大陸の広東省、福建省から大量の漢人を労働者として徴発し移住させた。歴史記録上、台湾は大航海時代にポルトガルやオランダによって「発見」され、オランダによって領有されたことになっている。

漢民族の明朝に替わって中原を制した満州族の清朝の時代になると、1661年に明王朝復興のために平戸生まれの明朝の遺臣鄭成功(母親が平戸の日本人)が台湾を占拠し、オランダを駆逐。島を制圧して大陸反攻を準備した(日本でも江戸時代に「国姓爺合戦」として耳目を集めた)。しかし、この試みは失敗し1683年には清朝が鄭成功一党を滅ぼし台湾を制圧。これが台湾を中国の版図の一部とした最初の出来事である。しかし、それは反清朝の動きを封じるための措置であって、台湾の領土的統治権を主張するまでには至ってないと考えられている。

清朝は、台湾を「化外の地」、台湾住民を「化外の民」、すなわち皇帝の徳が及ぶ地域、統治範囲である「中華世界」に対する「蛮夷の民」野蛮人とみなしていた。したがって領土的な意識が薄く、ほとんど統治していなかった。むしろ王朝の手の届かない野蛮で危険な土地として大陸からの渡航を禁止していた。

19世期になると、スペインやポルトガルに代わってイギリスやフランス、ロシア、アメリカなどの欧米列強のアジア進出が盛んになる。台湾を巡ってもフランスなどが領土的な野心を持つようになる。また、アジアの中でいち早く開国し西欧流近代化を進める日本もそのプレーヤーとして登場する。1874年になって起きた台湾住民による日本人漁民遭難者の殺害事件で、日本政府に処断を求められた清朝政府は、「清国の支配が及ばない地域での事件なので責任は取れない」とした。このことで日本政府は自国民保護のための自力救済として台湾出兵した。この事件がきっかけとなり、ようやく清国は台湾統治に踏み出し、台湾を福建省に編入した。


日本統治時代:1895年〜1945年

1895年の日清戦争後の賠償(下関条約)で清国は台湾を日本に「割譲」することとなり、以降50年におよぶ日本統治が始まる。そんな歴史観なので、清国は台湾割譲はあまり痛手とは感じてなかったのでは、と勘ぐりたくなってくる。台湾が近代化したのは日本統治以降のことだ。ただその功罪は議論がありうる。それは別途。


蒋介石国民党統治時代:1945年〜1988年

1945年に太平洋戦争が終わり、日本が中華民国を含む連合国側に降伏するとサンフランシスコ平和条約で日本は台湾の領有権/統治権を放棄。蒋介石の南京国民党政権が台湾統治を始めた。しかし、これまでの日本と比べて明らかに統治能力に乏しく、幹部のモラールも低く腐敗が蔓延した。また治安の悪化、国民党兵士による住民への暴行事件の多発や収奪が繰り返されたことから台湾人(内省人)の間に、大陸からやってきた新たな支配者、蒋介石に対する反発が高まり、反国民党支配の抵抗運動が活発化した。これに対し、蒋介石は強権的な独裁ファッショ支配を台湾人に行なった。これが2.28事件、白色テロを引き起こし、大量の犠牲者を出したと言われている。内省人対外省人の対立の歴史の始まりとなる。この弾圧でどれほどの犠牲人が出たのか、いまだに国民党は資料を公開していないため不明である。当時台湾では「犬が去って豚が来た」。すなわち日本人は吠えてうるさいが番犬にはなった。だが蒋介石は豚のように強欲で汚いだけだ。そう揶揄していたという。1949年には国共内戦で共産党との戦いに敗北した国民党蒋介石一派が台湾に逃れてきた。こうして1988年まで蒋介石/蒋経国親子による独裁支配が続く。1979年、アメリカが中華人民共和国北京政府と国交樹立、中華民国と国交断絶。日本他の国々もこれに続く。台湾(中華民国)の国際的孤立の始まり。


民主化時代:1988年〜

蒋介石/蒋経国親子の死後、1988年に内省人の李登輝が総統に選出されると、一気に国民党による長年の独裁、強権政治への不満が吹き出し、民主化への動きが加速された。李登輝はこれをリードし、軍も掌握し、孤立した外交関係もうまく修復しながらアメリカや日本とのアライアンスにも奔走した。北京政府が李登輝を危険視し、彼の米国や日本への入国に抗議してきたのはこの頃からだ。ついに1996年に初めて総統の民撰が始まり、2000年には台湾の独立を目指す野党の民進党、陳水扁が総統に選出された。独裁政党国民党が野党になった瞬間だ。その後の選挙で国民党が政権をとったこともあるが、この民主化の流れは後退することなく現在の蔡英文の総統再選に繋がっている。








2020年1月13日月曜日

新国立競技場と聖徳記念絵画館 〜神宮外苑の時空散策〜

完成した新国立競技場
National Olympic Stadium 2020

Tokyo 2020

聖徳記念絵画館
ラグビーの聖地「秩父宮ラグビー場」
昨年の2019ラグビーW杯の日本代表の活躍により、
今月から始まったトップリーグが人気となっている。

野球の聖地「神宮球場」
ヤクルトのフランチャイズ
東京六大学野球の会場
かつての早慶戦の舞台


 いよいよ今年は2020TOKYOオリンピック/パラリンピック開催の年だ。年末に新装なった新国立競技場(オリンピックスタジアム)を観に行ってきた。設計コンペで、すったもんだした競技場がついに竣工を迎えた。場所は明治神宮外苑。神宮外苑は言うまでもなく明治天皇を祀る明治神宮の敷地である。そこは聖徳記念絵画館を中心に幾何学的な洋風庭園として設計された。敷地内には憲法記念館(現在の明治記念館)も設けられた。しかし、現在、その外苑敷地内には所狭しとスポーツ競技施設が軒を接して建て込んでいて、とても幾何学的な整然さを保った洋風庭園とは言いがたい佇まいだ。どうしてこんなことになったのか、経緯はいろいろあるようだがとにかく、国立競技場(正確には文部省に移管されたので明治神宮の敷地では無いそうだ。お役所的な定義だが)、秩父宮ラグビー場、神宮野球場、第二神宮球場、テニスコートといったスポーツ施設が立ち並ぶ一大スポーツ公園となっている。

 今年開催の東京オリンピック/パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場は去年十一月の竣工。当代人気の建築家、隈研吾の設計になる。国産の木材を多用した独特のデザイン。階層ごとに木を植えて、長い間にはスタジアム全体が森のように覆われるというエコロジー発想に基づくデザインを意図したのだそうだ。まあ福岡のアクロスのように都会の森なるにはまだまだ年月が必要だろう。我々世代には馴染みの1964年の東京オリンピックの開会式を行った国立競技場を取り壊し、その跡地に建てられた。あれから56年。二度目のオリンピック東京開催である。それを遡ること1943年(昭和18年)、同じこの場所にあった明治神宮陸上競技場では出陣学徒壮行会が雨の中挙行され、多くの文科系大学生が徴兵猶予を解かれて戦場へと送り出された。同じ若人の晴れ舞台でも、その持つ意味はあまりにも異なる。一方は戦場へ、一方は平和の祭典へ。学徒出陣から2年後の1945年8月には敗戦。そのわずか19年後にはおなじ場所で平和の祭典オリンピックを開催するという「快挙」を成し遂げたわけだ。戦後日本の復興ぶりの見事さが語り継がれるが、それとともにあそこから出陣していった戦没学徒の記憶がどんどん過去へと追いやられる。私の父は医学系学生であったので出陣しなかったが、義父は文科系だったので出陣した。九死に一生を得て復員したが、二人ともすでに鬼籍に入って当時を語る術もない。将来このエコなオリンピックスタジアムを見て、もはや「雨の出陣学徒壮行会」を思い起こす人はいないだろう。旧国立競技場にあった「学徒出陣の碑」を新競技場建設でどこに移すのか、一時議論がああったがその後どうなったのだろう。「柿落とし」の喧騒の中で忘れられてしまったのだろうか(新聞報道によると、現在は一時的に秩父宮ラグビー場に移設され、今年春には新国立競技場の敷地内に戻されるとの事である)。

 元々はこの外苑は聖徳記念絵画館を中心として造成された。しかし先述のように巨大な国立競技場や野球場がすぐ隣に立ち並んだので何だか影が薄くなってしまっている。だがやはりこの外苑のランドマークはこの絵画館なのだ。この聖徳記念絵画館は明治天皇、昭憲皇后の事績を顕彰するために建設された。デザインは一般公募で、明治神宮が主体となって最終意匠が決められたと言う。鉄筋コンクリート造り。国産の大理石とタイルで装飾された洋風ではあるが日本独特のデザインの建物である。いわゆる上野の国立博物館本館などのような帝冠建築とはまた異なるようだ。明治天皇の大喪の儀が執り行われた青山練兵場の跡地に1919年(大正8年)着工、1926年(大正15年)に竣工。明治天皇の事績をしのぶ,当時の一流の画家たちにより描かれた日本画、洋画の80点が、ゆかりの有る個人や団体から奉納され展示される美術館である。美術作品としての価値が高いだけでなく、歴史的な出来事を記録する絵画資料としても高い価値を有している。ここに来ると幕末から明治維新と、それ以降の有名な歴史的な出来事を振り返ることができる。大政奉還、戊辰戦争、明治憲法発布、日清/日露戦争など教科書で見た有名な歴史的場面の出典はここにあったのだと。

 しかし、明治天皇はその後の満州事変も、日中戦争も真珠湾攻撃も知らずに崩御された。もちろんその大日本帝国の崩壊も見ることはなかった。したがってこの絵画館のすぐ隣で繰り広げられた雨の中の学徒出陣の行進も、幾多の同胞の戦死者を出した悲惨な戦争も、空襲で壊滅した各都市も、沖縄戦も、広島/長崎の原爆もここには描かれていない。ここには地獄絵はないのだ。ここに掲示されている華々しい明治維新から「一等国」への道の偉業はこの絵画館の中にまるで封印されてるかのように見える。なぜこのような「栄光の」大日本帝国が潰えたのか。このギャップを噛み締める必要がある。もちろん戦後のめざましい復興とその高度経済成長の始まりの画期をなす1964年の東京オリンピックと、高度経済成長の終焉を飾る2020年の東京オリンピックに関するものもない。明治天皇はご自身の崩御ののちの皇御国の有り様を見て何を思われるのだろう。国立競技場、聖徳記念絵画館。この二つの隣接する建造物を目の当たりにして、大きな「時空のギャップ」を感じた散策であった。




新国立競技場 2019年竣工

2020TOKYOオリンピック/パラリンピックのメイン会場となる
早く中に入ってみたいものだ。







国産の木材を多用した建物

やがては建物自体が都会の森になる「予定」だ







聖徳記念絵画館 1926年竣工

洋風庭園である神宮外苑の中核をなす建物だ。堂々たる美術館建築。内部は撮影禁止なので外部だけ。












絵画館前から見る新国立競技場

冬枯れの銀杏並木


1964年、アジアで初のオリンピック/パラリンピックがここで開会式を迎えた。その時のメイン会場となった国立競技場。我々世代には「国立」と言えばここだった。今はもう無い。

旧国立競技場

1964年(昭和39年)東京オリンピック開会式

そのオリンピックのわずか21年前には同じ場所で「出陣学徒壮行会」が雨の中挙行された。

1943年(昭和18年)10月21日
学徒出陣壮行会




2020年1月6日月曜日

「欲望の資本主義」の行く末と「民主主義の運命」 〜2020年の年頭に妄想する〜

トンネルの先にはどのような世界が待っているのか。
列車はどちらのプラットフォームに着くのか。


 2020年の年頭に当たり昨年の年頭に書いたブログを読み返してみた。

 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 年の初めは放談で!「未来を推し量る時に陥りがちな三つの誤り」とは?: みんな急ぎ足でどこへ行くのか?  2019年の年が明けた。「めでたさも中くらいなりおらが春」これからの世の中はどうなってゆくのか。先行き不透明な「不確実性の時代」の始まりのようでなんとなく元気が出ない。そう思いながら新聞各紙に目を通していたら日本経済新聞(20...


 あれから一年。世界は基本的には何の進展も打開点も見出せないまま、2020年に突入した。私の所感は一年たった今も変わらず、いまだに修正の必要を感じない。少なくともより楽観的な方向へ修正する感覚ではない。資本主義の行き詰まりはさらに進んだ。それに伴い恐れていた民主主義の危機もさらに一歩進んだように感じる。それだけにこれまでの一年をより深刻に受け止めて振り返り、これからの一年のあり様を考える必要がありそうだ。


 資本主義の行き詰まりと民主主義の危機

 去年の考察した「未来を推し量るときの3つの誤り」の中で一番の誤りだとした「③ 競争原理が働く経済の仕組みより中央集権体制の利点を過大評価すること」。非民主的で中央集権的な経済体制は続かないと断じていたのだが本当にそうなのか。最近ふと自信を失いかけている自分がいる。これではいけないのだが実は今でも大きな不安として心を占めている。これはむしろ中央集権的な体制のほうが資本主義的な経済成長が成功するかどうかという点よりも、ひょっとすると民主主義のレジティマシーのほうが揺らいでいくのではないかという不安である。

 「民主主義の深化がなければ資本主義的な成功は有り得ない」。中国共産党の鄧小平が改革開放路線を打ち出し社会主義市場経済体制移行を宣言した時に、そして改革開放による中国の民衆の間で沸き起こった民主化のうねりを武力で圧殺した「天安門事件」の時に、欧米の政治学者、経済学者が警告したあの言葉は、いまや空虚に鳴り響くだけなのか。いまや共産党独裁政権が主導する「資本主義」が成功の道を歩み、経済規模においても、技術優位性においても、さらには覇権主義の視点からもアメリカに追いつき追い越す勢いで突き進むのではと観測され始めている。こういう「中国モデル」が成功モデルとされると、むしろ民主主義の方が危険な崖っ淵に立たされ始めているのではないのかとの危惧感が頭を擡げる。民主主義なんてなくても経済成長する。国は繁栄する。「パンとサーカス」を提供してくれるなら自由はなくても良い。そんな歴史的な転換点に我々はいるのだろうか。中長期的に見ればそれはないと今でも思うのだが、目先では中国共産党指導部は極めて自信たっぷりで、強権的な政治指導と、監視社会化と海外における覇権主義を進めている。香港の民衆の抵抗に対する遠慮会釈もない警察権力による暴力はその表れである。香港や台湾の人々の切羽詰った危機感はけっして海の向こうの他人のことではない。彼らの激しい抵抗運動は我々に勇気を与えてくれるが、日本人の反応がいかにも第三者的で冷め切っているのをみると不安になる。近い将来に自由で民主的な大国、中国を見る事はないのだろうか。少なくとも我々が生きている間にそれをみる事はないのだろうか。「共産党一党独裁」と「資本主義的成功」という「歴史的矛盾」はもはや矛盾ではなくなったのか。


 利己的な資本主義「欲望の資本主義」

 一方で「欲望の資本主義」は行きつくところを知らぬげに厚顔無恥にどんどん進んでゆく。資本を原資とし利子と配当と利益を成長のエネルギーとする資本主義は基本的に「持てる者」を富ませる仕組みだ。それを否定したのが社会主義であり、共産主義であった。しかし、すべての人民が「搾取される側」でなく、「持てる者」の側へと言う「階級闘争」の理念は実現しなかった。共産主義という歴史実験は崩壊した。中国の共産党は党自体が資本家へと変身し「持てる者」となった。共産党とは名ばかりだ。独裁という政治体制だけが残った。解放されるべき人民は依然として民主的な選挙権すらなく「搾取される者」の側にある。しかし、その富の分配メカニズムを工夫することで格差の最小化、労働力再生産のパワーにすることができる。こうして人民の不満は抑えられてきた。高度経済成長を遂げてきた国、日本も中国もアメリカも、その余剰をうまくピラミッド全体に分配出来ている間は資本主義は成功である。ただし経済成長が止まるとこの仕組みは立ちまち破綻する。さらにマネーを中心とした金融市場が新たな富裕層を生み出していった。生産手段を「持てる者」だけが富裕層になるのではなく、マネーという価値を「持てる者」が市場を牛耳って富裕層となる。企業が稼いだマネーと余剰利益は、従業員や、消費者や、地域コミュニティーといったステークホールダーには回らず、あるはイノベーションや人材の育成といった富の拡大再生産には回らず、内部留保され、自社株買いの様な配当や株価の吊り上げに回される。さらにマネーの仮想化が推し進められると、さらにデジタル技術の恩恵を受ける層だけに富を集中させるメカニズムが生まれてしまう。ピラミッドのトップ1%に満たない富裕層がその社会の富の全体の30%以上を保有しているという社会はもはや異常と言わざるを得ない。そう言われて久しいが格差は是正されるどころかさらに進んでいる。さらにデータが価値を生み出すデータドリブンエコノミーの時代においては「持てる者」「持たざる者」の形がさらに変容していくだろう。人間の欲望は止まるところを知らない。

 これは同時に「腐敗」と言う問題を生み出す。マネーゲームで働かずして巨万の富を手に入れる人々はもはや国家をも企業をも足蹴にする。権力と権益にあぐらをかくものは腐敗する。中国共産党指導部もこの問題には敏感である。汚職幹部を血祭りにあげて見せしめにするがうまくいっているようには思えない。ついには巨大多国籍企業の中でも腐敗の権化のような人間が法の隙間をかいくぐって私利私欲に走り、挙句に自分の罪を追求しない国へプライベートジェットで逃亡する。創業者でもないのに会社を私物化して蓄財し、会社の金、従業員の金、株主の金を使って私利私欲のために散財する。そんな人間が「これはクーデターだ!」とか「そもそもこの国の刑事司法制度は云々」など、ちゃんちゃらおかしい限りだ。法的には軽微な罪かもしれないが人の金で私腹を肥やす奴がなに正義を語っているのだ。富裕層代表のアメリカの大統領を引き合いに出すまでもなく、正義、倫理、道徳の観念を忘れた私利私欲資本主義のリーダー。それを支持する無産大衆層という矛盾。これももはや矛盾ではなくなったのか。



 利他的な資本主義「正義の資本主義」

 モハマド・ユヌスの著作「三つのゼロの世界」(World of Three Zeros)に刮目させられた。彼は社会事業家としてバングラデシュはじめグラミン銀行を設立した。マイクロクレジットで貧困層の自立化を促し、新しい社会問題解決の方法を示し実践した、として2008年にノーベル平和賞を受賞した。彼のこの功績は高く称賛されるべきものである事は言を待たない。しかし、それ以上にそうした活動の背景にある経済学者としての深い理論的な考察と歴史認識にこそ共感を覚えるのである。彼は「利己的」な資本主義を見直して、「利他的」な資本主義に仕立て直すことを提唱している。その実践が先述の「社会問題の解決」のための「社会事業」である。すなわち彼は、資本主義の生みの親であるアダム・スミスを間違っていると断ずるのではなく、彼の再評価を試みている。アダム・スミスは「国富論」(An Inquiry of the Nature and Causes of the Wealth of Nations)(1776年)の利己的活動によるレッセフェール、「神の見えざる手」が有名であるが、それだけではなく、その7年前に著した「道徳感情論」(The Theory of Moral Sentiments)(1759年)のなかで、人間は「社会的な存在」である。常に他人を思いやり、他人の幸福が自分の幸福につながるようにできているものだと説いている。人への「共感」による正義と道徳的美徳を備えているのだと。そうしてアダム・スミスは「利他的」な経済活動を提起していることを見落とすべきではないと。これをユヌス博士は指摘して、そこにあらたな歴史の光を今こそ当てるべきだとしているのである。すなわちアダム・スミスの二つの論説への回帰と合体である。まるで一握りの「持てる者」の「利己主義的」な金儲けと蓄財のための道具に成り下がっている不完全な「資本主義」を、もう一度「再定義」して完成させなければならない。これがソーシャルビジネスであると。ノーベル経済学賞を受賞しているジョセフ・スティグリッツも最近、このアダム・スミスの「もう一つの」著作に言及し、資本主義を取り巻く課題を、ユヌス博士と同様に指摘している。

 またユヌス博士は、先進的な技術(Technology Innovation)を社会問題の解決に使うべきだとする。そしてそれがソーシャルビジネス(Social Business)という新たな事業モデルを生み出すとしている。「Social Technologies, Social Business to solve Social Problems and to achieve SDGs」これは彼の大好きなキャッチフレーズの一つであり、ユヌス博士から私に贈られた著作「三つのゼロ」のサインと共に記された献辞である。また、去年11月の九州大学で開催された国際会議のパネルディスカッションのメインモチーフでもあった。私がモデレータ役を仰せつかったパネルディスカッションでは、例えば、AIをコアとしたデータドリブンエコノミーなど、産業/社会におけるデジタルトランスフォーメーションが、資本主義と民主主義にこれまで経験したことのない大きなインパクトを与える。それ以前の想定を遥かに超える事態が起き、これまでの前提条件とロジックを大きく変更させる必要が出てくる。プライバシー問題、政治権力による監視社会の問題などを考えると、仮想空間のデータを、だれがどこまで集めて活用して良いのか、どのように超えてはいけない一線を定めるのか。リアルの世界における「法の支配」のようなルール化されていないことの危険性などが論じられた。これを私利私欲のために、あるいは国家権力のために使えばどのような問題が生じるかは深く考えずとも容易に想像できるであろう。

 AIやゲノム編集など技術イノベーションをただの金儲けに使えば、その分配におけるモラールとルールが機能してないと、一部の超富裕層と大多数の貧困層の格差をさらに広げるだろう。「持てる者」と「持たざる者」の格差だけではなく、「AIを使う者」と「AIに使われる者」という新たな社会格差を生み出し新たな社会問題を生み出す。正義と倫理と道徳に基づかない技術イノベーションは危険ですらある。ユヌス博士はこうした技術を社会問題(貧困、失業、CO2排出など)の解決に使うべきだと主張する。SDGsの実現に使うべきだと。企業にとってはそこにあらたな事業機会がある。そして企業活動成果の評価軸を変える必要もあるだろう。すなわち事業モデルを変える必要がある。テクノロジー、経済ロジック、市場原理、そして正義と倫理という観念を併せ持つ仕組みを創出するためには理工系技術(法律学や経済学をもそうだ)だけを学んだ人材ではだめだ。人文系、リベラルアーツを基礎的な素養として学んだ人材が必要となる。いまの日本の教育の問題はデータサイエンスなどの「理工系教育」の弱さ問題だけではない。「パンのための学問」(Brotwissenschaft)だけでは世の中は変わらないことを再認識すべきだ。人間に関する深い哲学的理解と倫理/道徳観。こうした資質の具備は歴史を超えてあらゆる人材に求められる普遍的な要請だ。とくに経営者や政治的リーダーには不可欠の資質だ。日本ではすでに渋沢栄一が「論語と算盤」において「道徳経済合一説」として「無私の」の経営を語っているではないか。いわば「正義の資本主義」という視座は「資本主義的合理性」の観念に新たな「合理性」の視点を与えるものだ。

2019年4月10日「旧渋沢邸訪問」ブログ参照)


 俯瞰的な視座を持つ

 では日本はどうしたら良いのだろう。イアン・ブレマーが言うように、経済成長しなければ政治体制も国家も崩壊する。そんな中国やアメリカのような国と違って日本は持続的な安定した経済を目指すべきだろう。中国メディアがよく「監視社会」に対する「市民」の反応として、「現在の生活が保証されているなら別にプライバシーや自由なんてなくても困らない」という「街角の声」を放映するが、まさにその生活の保証がなくなった時にこの「市民」はどう動くのかだ。経済成長しているうちは良いがそうでなくなった時の脆弱性だ。そういうゆるやかで成熟したな成長モデルを示せるのは日本しかない。しかし、それはかつての、明治維新や、戦後の高度成長の神話の復活を夢見ることではない。最近の日本は、そんなものが永遠に続くと思っているわけではないだろうが、なにか中国にGDPで追い抜かれた途端に元気をなくしている。まるで頑張って走っていたマラソンランナーが追い抜かれた途端に、心の糸が切れたように急速に順位を下げていくような姿を思わせる。たしかに世界を驚かすような技術イノベーションが最近は出てこない。世界に影響を与える経営者も出てこない。しかし道をまちがってはいけない。けっして「欲望の資本主義」を体現するような経営者の出現を期待してはいけない。日本の企業は大企業、中小企業、スタートアップを問わず、アメリカや中国のそれを後追いするのではなく、新しい事業モデルを生み出し、成長モデルを示すことができるし、そうしなくてはならない。欧州諸国、中でもドイツやフランスでは、より持続可能な事業モデルとして、SDGs実現や社会課題解決を企業の経営目標に掲げ、あらたな成長モデルを提示し実践し始めている企業が出てきている(Volkswagen社やDanon社はその代表)。こうした新しい理念の資本主義モデルを創造できるのは、ドイツや日本のような国の企業だろう。明治以来の「世界の一等国」や「GDP世界第二位の経済大国」などの「軍事大国」「経済大国」など高度成長モデル体験の幻想(いまの中国共産党指導部が追いかけているような)をいつまでも引きずっていてはいけない。それはいずれ終わるものだ。そういう歴史的過程を清算し止揚する必要がある。日本の長い歴史を俯瞰的に眺めてみると、有為転変はあるものの持続的な成長、持続可能な社会というものがどのようなものかがわかるだろう。経営においてもそうした俯瞰的、マクロ的な視野とビジョンを持てるリーダーが出てこなくてはならない。

 ちなみに、我々のようなリタイアー族は、ネット社会の今、建設的なビジョンやソリューションを提示もせずに、地道な実践もせず、怒りっぽい老人の繰り言、ぼやき漫才のような批判ばかりSNS上に繰り広げていてもなんの役にも立たない。定年で会社などの所属コミュニティーを失い、地域にも根差す事もなく社会接点を失ってパソコンとスマホの前で、SNSのみが唯一の社会接点となっている。こうした老人たちが「ネットウヨ」になったり、誹謗中傷の発信源になったり、ラディカルな「むかし全共闘」になって自己満足しがちだ。自分の境遇から来る鬱憤をネット上でぶちまけたり、「元エリート」の「おまえらのような人間にはわからんだろうが」的な上から目線コメントを垂れたり、どちらも屁の突っ張りにもならん。それよりも不満だらけの過去も、自慢だらけの過去も捨てて、自分の不明を恥、あらたに世の中を俯瞰し勉強し直し、これまでとりこぼしていた視点を獲得して、今できる「社会問題の解決」をひとつでもまず手掛けることだ。それができないなら、人の迷惑にならないように静かに余生を送ることだ。自戒を込めてあえて追記しておきたい。