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2022年11月30日水曜日

古書を巡る旅(27)Sir Josiah Child's "A New Discourse of Trade" 〜重商主義者のイギリス東インド会社総督は何を語る?〜

 

ジョシュア・チャイルドの著作とウォルター・ローリーの著作
17世紀イギリスを代表する海外事業家たち




表紙

序文で世界の市場を俯瞰し、その中に日本と中国の市場に関する分析と評価が記述されている



ジョサイア・チャイルドとは?

貴重な古書を見つけた。アダム・スミスが登場する100年ほど前に活躍したイギリスの重商主義者、ジョサイア・チャイルドの「A New Discourse of Trade: 新貿易論」1694年版だ。いつもお世話になっている北澤書店の古い在庫から「発掘」された書籍で、在庫案内によると昭和63年ごろの入荷であったようだ。ニューヨークのBrooklyn Mercantile Library(現ニューヨーク商工会議所)の1800年代の図書館印が見える。ここの放出図書であろう。このような稀覯書が東京の神田神保町で見つかることにも驚いた。

サー・ジョサイア・チャイルド:Sir Josiah Child (1630- 1699)は、17世紀後半にイギリスで活躍した貿易商、重商主義経済学者、トーリー党議員(最初はホイッグ党)である。またイギリス東インド会社(EIC)の最大株主であり、総督でもあった。この頃のイギリスは対外貿易を拡大して成功を収めており、特にインドの綿貿易で大きな利益をあげ、一種のバブル経済の時代であった。いわゆる「キャラコ」(カルカッタ産の綿)バブルに沸いていた時期である。イギリス東インド会社は東インド(東南アジア)における香辛料交易でオランダの後塵を拝し、1620年のアンボイナ事件以降、東インド貿易から撤退した(日本の平戸からも撤退した)。以降、勢力をインドに集中し、インドの綿を買い付けてこれをヨーロッパに売るという事業モデルで成功。これが18世紀の産業革命に伴う綿花輸入、イギリスで綿製品化して人口の多いインドに売るという「世界の工場」モデルを打ち立ててゆく端緒となった。また後年にはインドのアヘンを中国に売り捌いて中国の茶を手に入れヨーロッパで売るという悪名高い三角貿易でも成功してゆく。

チャイルドは1673年にはこの東インド会社の最大株主となり、1681~1687年には同社の総督となっている。いわば「キャラコ」バブル真っ盛りの時期に東インド会社を支配するポジションにいた。また彼の一族がインドにおける会社の重要拠点factory:商館で支配的なポジションを占めインド事業を一族で独占した。当時、東インド会社は投機マネーの対象となっており、彼はインサイダー取引で巨万の富を得たほか、絶対王権/宮廷と深く結びつき、チャールズ1世、チャールズ2世から貿易独占特許を得て事業を広げ、イギリスで一番の金持ちであると言われるまでになった。しかし「盛者必衰の理あり」。チャールズ2世のフランス亡命、オレンジ公ウィリアム3世の名誉革命(1688年)による王権交代、スチュアート朝終焉とともに第一線から姿を消していった。一方で彼は重商主義経済学者としてもその名を残している。絶対王政がとった重商主義経済政策を理論的に論考し、彼自身の商業的な成功経験をもとにその実証主義的なアプローチで、課題分析と解決策を提言する著作を多く残している。その主要著作の一つが、1694年に発表された「A New Discourse of Trade: 新貿易論」である。本書は小型の書籍であるが、表紙に記されたタイトルは以下の様な長大なものである。

A New Discourse of Trade, wherein is Recommended several weighty Points relating to Companies of Merchants. 

The Act of Navigation, Naturalization of Strangers And our Woollen Manufactures. The Ballance of Trade and Nature of Plantations, and their Consequences in Relation to the Kingdom, are seriously Discussed.

And some Proposals for erecting a Court of Merchants for determining Controversies, relating to Maritine Affairs, and for a Law for Transference of Bills of Debts, are humbly Offered.

すなわち、「新貿易論 商人の会社に関する重要な提言」、「航海条例、異民族同化条例、毛織物産業条例に関して」、「貿易収支とプランテーションのバランス、その本国への影響について」「海事事件、負債法に関する紛争解決のための商業裁判所設立に関する提案」と、複数のテーマに関する論考集となっている。以前紹介したウォルター・ローリー卿のエッセイ集と同様、折々に書かれた短い論文を合冊したものだ。のちのアダム・スミスやデビッド・リカードのような経済学の古典として現代まで読み継がれる著作ではないが、17世紀においては経済書としては最もポピュラーで読まれた書であったという。

長文の序文で、世界各地との貿易から期待できる収益率に関する考察を展開している。アジアに関しては、インドからの高い収益率に期待を寄せる一方、日本と中国は、今は儲からないが将来を見据えておくべきだとしている。彼は国別の貿易収支を問題にするのではなく、会社全体の収支を重視した。またオランダをはじめとする競争相手の国々の評価分析(competitive analysis)は、当時のいわば海外貿易市場における勢力図、そして国際情勢がわかり面白い。特にオランダの競争力を評価している。この様に世界の市場を俯瞰した上で各論に入ってゆく。チャイルドは資金調達を容易にするための低金利を法的に担保すべしと主張している。これは当時最大の競争相手であったオランダが低金利で自国事業者(オランダ連合東インド会社:V&C)を優遇したのに対抗する必要を訴えかけたものである。また、イギリスが取った保護主義的な法律/条例、特に航海条例の効果を国富蓄積の増大という観点から評価している。この論争に関する一問一答で彼の意見を展開している。また植民地の拡大を推し進めるべきで、移民の奨励、異民族の同化や貧困層の子弟の雇用促進も勧めている。植民地とプランテーションの評価に関する論稿も興味深い。植民地が本国に悪影響(人口減少や富の流出)を招くことはない。むしろその逆で本国の富を増大させるものであるとしている。この時期はまだインドの植民地化は進められておらず、またのちのアメリカの独立は想定していなかったものの、植民地帝国、大英帝国の理論的な基礎ともいうべき植民地論を展開している。当時はまだ植民地経営に関する意見が分かれていたことを示唆する論稿だ。

本書は第二版となっているが、出版年次は初版と同じ1694年である。改訂があったのか、内容がどのように違うのかは確認できていない。ネットでサーチすると、出版年代が異なるいくつかの版があるようだ(例えば米国コロンビア大学図書館のデジタルアーカイブには1698年版が掲載されている)。書籍としては、今から300年以上も前の古書で、ウォルター・ローリー卿のエッセイ集の約50年後の出版である。紙質は簾の目紙で、活字体も「s」が「f」と表記されるいかにも17世紀の古色蒼然とした風合いである。挿画などはない。革の背表紙は後世のものであろう。ところでチャイルド卿の著作の日本語訳本は見かけない。彼に関する日本語の評伝も見当たらない。英語での論文や評伝は、英米の大学の図書館や研究論文集に多数掲載されており、ネットで検索、参照することができる。本書も、先述のように米国コロンビア大学図書館のデジタルアーカイブで公開されている。アダム・スミスの「国富論」「道徳感情論」などは日本でも人気で訳本が出ているが、重商主義は人気が無いのであろうか。


Sir Josiah Child  (1630-1699)



重商主義:mercantilism:マーカンテリズムとは?

経済思想史の教科書を復習してみると、意外に重商主義を正確に定義することは難しいことが分かる。また誰を重商主義者と呼ぶかも諸説ある。学生時代にあまり重商主義について関心を持って勉強した記憶もないので改めて研究する必要を感じる次第である。とりあえず通説的な解説に従って簡単に振り返っておきたい。

16世紀後半〜18世紀、絶対王政と結びついた経済政策。一般的には、特権的な商人による独占的な商業活動を保護し、対外貿易を重視して、国家として輸出を最大化し、輸入を最小化するという保護主義的、管理貿易体制をとる経済政策である。歴史の発展段階としての、封建主義社会(封建領主による土地、荘園経営を主体とする)から、商品経済の伸長に伴う商業重視の資本主義社会への移行過程で生まれてきた。また絶対王政にとって不可欠な官僚制と、常備軍を維持、増強する必要から国富の極大化は必須であった。したがって絶対君主制と重商主義は表裏一体となって機能した。いわゆる「大航海時代」の海外進出の波に乗って、東インド会社のような王権により独占的な特許を与えられた株式会社が海外から金銀や貨幣を稼ぎまくるというものだ。重商主義と言ってもその形態は大きく二つに分けられると言われている。

1)重金主義:初期の重商主義。金銀の獲得と蓄積が国家としての重点事項となる。鉱山開発や海外での金銀の獲得(略奪)など、大航海時代初期のスペインやポルトガルの海外進出モデル、南米の「黄金郷」探検/奪取やポトシ鉱山開発、日本の石見銀山の銀の獲得による中国との三角貿易がその例。フランスのルイ14世時代のコルベールや、イギリスのトーマス・グレシャムも重金主義的重商主義者と見做されている。香辛料のような金銀に匹敵する価値を有する換金作物商品の獲得/蓄積もこれに相当するのだろう。

2)貿易差額主義:端的に言えば輸出を増やして、輸入を抑え貨幣収入を増大させる。そのために輸入関税を引き上げ、自国産業を保護(保護主義的貿易政策)して貿易収支による外貨準備高の増大を図るという国家による管理貿易である。産業革命以前のイギリスの東インド会社、トーマス・マン、オリバー・クロムウェルなどがその中心と見做されている。ジョサイア・チャイルドもその一人であるが、彼は初期の自由貿易論者(リベラルな重商主義者?)と位置付けられている。現代における自国優先の保護主義的な政策や非関税障壁なども重商主義的と見做されてる。かつての日本の「護送船団方式」の輸出ラッシュが貿易差額主義的重商主義であると批判されたことがある。

金と貨幣の違いはあれ、この二つに共通して言えることは「富とは金銀/貨幣であり、国力の増大とはそれらの蓄積の増大化である」という認識が底流にあるということ。しかも国家/王権主導の独占的な管理貿易による国富の極大化という特色がある。

3)対抗概念としての自由主義:やがて植民地の搾取や、保護主義的管理貿易、特権商人の王権との癒着などから生じる問題が顕在化して、自由主義的な貿易が待望されることとなる。また「富の拡大/蓄積」という観点からも重商主義政策の限界が指摘されてゆく。もっとものちの自由主義貿易政策は、独占に代わる自由競争が生産性の向上と富の拡大に寄与したが、搾取や富の偏在や権力との癒着の問題を解決したかどうか疑わしい。「自由貿易体制拡大」の名の下に帝国主義的な植民地化はますます加速化され(自由貿易帝国主義)、植民地における搾取は止まるところを知らず、また本国でも「持てるもの」と「持たざる者」の格差は広がる一方であった。また重商主義者の代表格と目されるジョサイア・チャイルドも特権的地位を利用して巨万の富を得ていながら自由主義的な貿易を主張していて、初期における「レッセフェール」の提唱者であるとも評されている。なぜこのような評価がなされるのか不可思議であるが、「重商主義貿易政策」と初期の「自由主義貿易政策」はそもそも絶対的な二項対立概念ではなく、フェーズ転換を伴わない相対的な概念であるような気がしてならない。

ちなみに、日本で重商主義的な経済政策が姿を現したとされるのは、江戸時代18世紀後半の田沼意次時代だと言われている。とはいえ江戸時代の日本にヨーロッパの重商主義的経済思想が伝わっていた形跡は無い。まして長崎のオランダ商館経由でジョサイア・チャイルドの「新貿易論」が田沼意次の手元に渡ったという話も聞かない。封建社会のシステムが行き詰まると、洋の東西を問わず人が考え出す知恵は同じだということなのか。しかし、田沼流重商主義経済政策はあまり芳しい政策としては記憶されていない。幕府財政の逼迫を受けて「質素倹約」「緊縮財政」「商業活動抑制」を旨とする、八代将軍吉宗の「享保の改革」と松平定信の「寛政の改革」という「清く正しい」御正道の間に挟まれた一時期の変則的仇花としての評価しかないようである。あるいは清廉潔白であるべき武家政権にあるまじき負の歴史「賄賂横行の政治」として扱われている。しかし、田沼意次の政策は、封建制社会の米中心、土地中心の経済から、商業活動による富の増加と蓄積を旨とする商品経済への転換を図ろうとしたものであった。質素倹約だけの縮小均衡型の経済政策ではなく、活発に商業活動をおこし、幕府の管理による海外貿易を拡大し、貨幣統一を図る拡大再生産型の「重商主義的」経済政策であった。しかし、幕藩体制という政治システムと、それを支える武士階級と農民という社会システム、封建制「農本主義」経済エコシステムを打ち破るインパクトはなかった。この革命は明治維新を待たねばならなかった。そういう意味において日本における重商主義経済政策はイギリスに遅れること150年、ジョサイア・チャイルドの著作から100年後に日本にも現れたが、田沼の失脚で見事に粉砕されてしまった。そしてその重商主義の次の自由貿易主義がアメリカやイギリスによって日本にもたらされ、開国と共に幕府による管理統制貿易体制である「鎖国」、さらには幕藩体制、農本主義を核とする封建制システムは崩壊することとなったわけである。

(...とここまで書いて、徳川家康のことをふと思った。田沼意次を遡ること150年前の初代将軍徳川家康。田沼にとっては神である「東照大権現」「神君家康公」である。家康こそ、佐渡や石見や伊豆の金銀開発を進め、海外との貿易に力を入れ、国富の増大化を試みた絶対君主であり、彼こそ日本初の重商主義者であったのではないか、と、まさにユーラシア大陸の向こう側ではエリザベス1世が絶対君主として重商主義的な経済政策を始めた時期である。そしてあのウィリアム・アダムス(三浦按針)という大航海時代のアイコン、重商主義貿易政策の落とし子が、エリザベスのイギリスから、徳川家康のもとにやってきた。これは単なる偶然なのであろうか?これはまた別途稿をを改めて論じなければなるまい。)


イギリス東インド会社とは?

民間の資金(資本)を集めた合本会社で、王室からの交易独占権を認めたられた特許会社。国営、国有会社ではない。海外への進出にあたって出資を募り安定的な事業継続を目指して1600年にエリザベス1世の勅許で設立された。「東インド」とは当時の概念ではインド、東南アジア、中国、日本を含む地域を指し、要するに「アジア」であった。ちなみに一方の概念である「西インド」は大西洋を隔てた南北アメリカを指していたが、これはコロンブスによるインド到達、アジア到達という歴史的誤解に基づく地域概念で、その後使われなくなった。しかし、その名残は今でもカリブ海諸国を西インド諸島、West Indiesなどと呼ぶことに見てとれる。このほかにも「南海会社」や「ハドソン会社」などの海外事業会社も設立されていった。

初期には航海ごとに出資を募り、航海が終わると配当金を分け、初期資本金を出資者に返還するという形式であった。しかし、オランダが、当初は各商業都市ごとに艦隊を形成し、それぞれに出資する方式(日本にやってきたウィリアム・アダムスが所属したマフー艦隊のように)であったが、投資効率が悪く、航海によって当たり外れがあり、安定的な配当リターンも期待出来なかったことから、全国的なオランダ連合東インド会社に統合して出資を募り事業を成功させた。このオランダモデルをもとにイギリスでも連合東インド会社を設立した。この特許会社に独占的な貿易権を認めるというやり方をとった。これは議会派が政治を主導した名誉革命の時に一時独占権が剥奪されたものの、立憲君主制が確立したのちも、重商主義主義的な貿易政策が継続され、新たな東インド会社を設立して19世紀(1833年)の活動停止まで継続した。

当初は重商主義的な経済活動を担う商社組織であり、特にインドとの貿易に力を入れ、ベンガルのカルカッタ、南インドのマドラス、西インドのボンベイを拠点(factory:商館)とし、当時最高品質とされていたインド産綿布の取り扱いで先述のような成功を収めた。ジョサイア・チャイルドが総督として辣腕を振るった時期の東インド会社はこのような会社であった。しかし、18世紀後半になると、ムガール帝国の衰退、各地藩王国の抗争で、インドが群雄割拠状態の「戦国時代」になってゆき、イギリスの権益と複雑に絡み合うことになる。イギリスは最初はこうした戦乱に不介入の立場を取っていたが、徐々に藩王国からの支援要請や、見返りとしての地代徴収権の獲得などで、抗争に巻き込まれ、あるいは、積極介入してゆくことで、徐々にイギリス東インド会社の性格が変容してゆく。そしてやがてはインド植民地統治の代行会社として、国から行政、徴税や軍事を受託する会社に変質していった。一方で、産業革命の進展、アメリカを含む大西洋貿易の拡大、インドの植民地帝国統治という新たな課題が浮上し、こうした特許会社による植民地経営には限界が見えてきた。

また、産業革命と産業資本家の登場により、国内の労働者階級と有産階級の分化、所得格差、貧困問題や環境問題などの社会問題への対処が求められるようになる。さらには英仏の戦争、アメリカ独立戦争による戦費の増大と増税により、産業資本家からの不満が爆発。独占的、保護主義的な貿易体制ではなく、自由競争による貿易が求められるようになった。このような自由主義的な市場競争による生産性の向上、労働価値説による「富の源泉」の価値観の変化、「富の増大」から「富の分配」問題の解決が求められるようになって行く中、重商主義的な経済政策は見直しを迫られていった。19世紀半ばには、1600年に起源を発する東インド会社の機能停止される(1833年)。合わせて穀物法廃止(1846年)、航海条例廃止(1849年)が断行され、自由貿易主義政策へと大きく舵を切ることとなった。しかし、逆に言えば重商主義的な政策は19世紀中葉まで続いたとも言える。幕末に日本にやってきて開港、門戸開放を叫び、「鎖国」という究極の保護貿易体制/管理貿易体制から自由貿易体制への転換を迫った彼らも、ついこの間まで自国優先の重商主義的な保護貿易体制を崩してはいなかったのだ。

ちなみに、1856年のインド大反乱「セポイの乱」がイギリスによって制圧され、デリーにいた最後のムガール皇帝が国外に亡命。ムガール帝国は完全に滅亡した。代わって、イギリスのヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国が成立する。イギリス領インドである。


アダム・スミスの登場

17世紀後半のイギリスは、以前のブログで見てきたように、エリザベス1世の時代の海外進出、すなわちドレイクやホーキンス、ローリーなどの冒険的航海者、私掠船の時代、ギアナにおける金鉱探検、ヴァージニア植民地会社の時代から、スチュアート朝時代にはより組織だった交易活動へと成長していった。すなわち先述の東インド会社によるアジア貿易の拡大は、やがてはアジアやアフリカ植民地化を進める帝国主義的発展の序章である。政治的にはチャールズ1世が処刑され、クロムウェルによる共和制、さらにはチャールズ2世による王政復古、と王党派と議会派の激しい攻防が展開され、一方でローマカトリック勢力とのせめぎ合いの中で英国国教会が次第に主流となる、いわゆる「イギリス革命」の時代である。そしてその最終章、名誉革命によるウィリアム3世の治世となり、スチュアート朝が終焉を迎える。こうして18世紀を迎え、絶対君主制が崩れ、都市ブルジョアジー中心の議会派が政治の中枢を握った時代。すなわち立憲君主制が確立した時代となった。しかし対外交易は、依然として絶対王政時代の東インド会社に代表される独占的、重商主義的な政策が維持されていた。18世紀前半になると新たに出現した有産階級市民の間で徐々にこうした王権中心の独占的、重商主義的な経済体制への批判が強まってゆく。やがて18世紀後半に入ると産業革命による産業資本家の台頭により、自由主義的な経済政策と自由貿易体制の動きが加速される。これを唱導したのがアダム・スミスである。重商主義的な経済政策を批判し、「レッセフェール」「神の見えざる手」による自由主義的な競争市場経済を提起した「国富論」が発表されたのが1776年である。ジョサイア・チャイルドの重商主義的著作発表から82年後のことである。この前にはもう一つの名著「道徳感情論」が出されている。この80年余は政治、経済、産業のあらゆる面でのイギリス激動の時間であった。重商主義が絶対君主制と表裏一体であったように、自由主義市場経済は立憲君主制の深化と表裏一体で進んでいった。アダム・スミスやデビッド・リカードといった「古典経済学派」の時代へと転換していった。しかし、歴史的役割を終えて過去のものとなったはずの重商主義政策は現代にゾンビのように生きている。自国優先の強権的、権威主義的、保護主義的な動きは現代の自由主義経済、グローバル経済の中でも決して姿を消したわけではない。むしろじわじわと息を吹き返している様に見える。歴史は繰り返す。経済における重商主義と自由主義。もう一度その歴史的な意味を評価してみる必要がある。




2022年11月10日木曜日

古書を巡る旅(26)「エルギン卿遣日使節録」" Elgin's Mission to China and Japan "1859年初版本/「ローレンス・オリファントの生涯」"Memoir of The Life of Laurence Oliphant"1891年



本書に関しては以前、下記のブログで紹介したが、今回はそのオリジナルの初版本を見つけたので紹介したい。三年ぶりの神保町で開催された神田古書祭で入手した。またその著者であるローレンス・オリファントの伝記を以前に入手していたが、今回これに合わせて紹介したい。エルギン卿の私設秘書として中国/日本ミッションに参加し、歴史的な事件に関わったオリファント。しかしその後、神秘主義に傾倒してゆくなど数奇な人生を送った彼の生涯とその実像を読み解いてみたい。

以前のブログの冒頭部分の引用:

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(6)〜「エルギン卿遣日使節録」" Elgin's Mission to China a...: 前々回のブログ「古書を巡る旅(5)」で、アメリカのペリー提督の「 ペリー艦隊日本遠征記:Narrative of The Expedition to China Seas and Japan 」を紹介したが、今回はイギリスの「エルギン卿遣日使節録:Narrative of The Elgin's Mission to China and Japan」を紹介したい。ペリー艦隊の来航/...



1)「エルギン卿遣日使節録」:Narrative of The Earl of Elgin's Mission to Chine and Japan 1859年初版本

日本語訳は「エルギン卿遣日使節録」として1968年に新修異国叢書(雄松堂)岡田章雄訳で出版されている。今回入手したのは、前回のブログで紹介した1970年Oxford University Press刊の元となった初版本で、1859年にエジンバラとロンドンで刊行された。二巻からなる大部の書籍で、160年前の革装の風格ある古書である。多分この装丁はのちに改装したものであろうと考えられるが、それでも経年変化による風合いが美しい。内容は(当然ながら)リプリント版とほとんど変わるところはないが、初版本にはリプリント版に無い折りたたみの中国地図がついている。なぜリプリント版には無いのか不思議だが、大判の詳細な中国全土地図である。これによると、香港と澳門はそれぞれイギリスとポルトガルに割譲され、広東、上海、寧浦、福州、厦門が開港されたとある。しかし、清朝の支配地域は、19世紀初頭(1820年頃)の最大版図である北方のタタール、モンゴル、マンチュリア(満州)、西方のチベット、ウィグルの同君連合を含む地域ではなく、北京以南の両大河流域である中原地域(旧明朝漢民族の版図)だけになっている。また朝鮮や、安南(ベトナム)、琉球などの冊封国家も対象外となっている。これはどういうことを意味しているのだろう。冊封国家はともかく、同君連合地域を清朝の支配地域と見做していないということか。当時のイギリスの中国観の現れなのか興味深い地図だ。

「エルギン卿遣日使節録」は言うまでもなく幕末外交史の重要な資料である。しかし、前回も述べたように、この本の日本語訳タイトルは「遣日使節録」となっているものの、日本のみを報告したものではない。むしろアロー号戦争と天津条約締結交渉を中心とした中国における戦争と外交交渉の記録である。しかもその一方でインドのセポイの乱が発生し、大英帝国の海外進出、植民地経営に重大な事件が続発していた時期である。史料解読にあたって、ともすれば自国中心の歴史観で分析、解釈しがちであるが、この報告書の原文タイトルを見ても当時のイギリスの関心事が日本だけではなかったことが理解できるだろう。この「遣日使節録」の「日本部分」の内容を一言で言えば、「中国問題(アロー号事件をきっかけとした清朝との戦争、広州、天津占領)のバタバタのさなか、一時、清朝政府との交渉と戦線を離れて、アメリカのペリーに先を越された日本にも寄ってみた。しかし日本は思いのほか魅力的で良い国で、通商条約もすんなり結べたし、歓待してもらったのですっかり好きになってしまった。ストレスの多い中国よりは扱いやすい国である」と。こう書いてしまうと身も蓋も無いが、著者オリファントの本音を言えばこうだろう。エルギン卿のミッションは中国での戦争勝利と権益確保を保障する条約締結(天津条約)であり、加えて日本との「平和的な」通商条約締結(いわゆる安政五カ国条約の一つ「日英通商航海条約」)であった。ただ前者の方がはるかにストレスフルなミッションであったことは間違いない。緊張感に満ち満ちた中国を一時的に離れて立ち寄った日本での時間は、ある意味ではしばしの安息であったに違いない。少なくともオリファントはそう感じたようだ。

この本は第一巻は中国、第二巻の前半は日本。そして後半は再び中国についての詳細報告である。費やされた紙幅から見ても、エルギン卿使節団がいかに中国での戦争と条約締結にエネルギーを注いだかが読み取れる。したがって「日本」の部分だけを取り出して読んでもこのミッション全体の目的や活動の理解は得られない。この記録の主題は、繰り返すが「日本」ではなくて「中国」である。日本との関係樹立は、開国で先を越されたアメリカ、クリミア半島や東アジアで南下政策を進めるロシア、そしてインドシナを狙うフランスを強く意識した東アジア戦略の一環としてである。この時点での対日交渉は、中国で採ったような武力を用いた砲艦外交ではなく、通商条約締結主体の平和的外交交渉による関係樹立をめざしたものであった。インドでの反乱鎮圧、中国での戦争で兵站を日本まで伸ばす余力などなかった。もちろん「この時点では」ということであり、今後の政策については事態を注視しながら臨機応変に対応するという、大英帝国特有の強かな情報戦、外交戦の思考回路が見え隠れする。必要とあらばいつでも武力行使を含む措置へと移行できるように備えておく。オルコック、パークスなど第二次アヘン戦争ともいうべきアロー号戦争で辣腕を振るった外交官を中国から日本に移し公使とする。その一方で本国外務省は、帝国全域を見渡しながら戦略的な視点からリソース配分する。現場が勝手に武力暴走しないように統制する(後に、本国の許可を得ずに馬関戦争や薩英戦争で武力行使した責任を問うて駐日公使オルコックを解任している)。こうした極めたシステマティックな統制手法が行使されている。結果的に、大英帝国の対日外交戦略は、戦争を手段とするのではなく、戊辰戦争においては局外中立をとり、大勢が判明するとタイクーン政府(徳川幕府)ではなく、革命勢力であるミカドの新政府をいち早く承認し、以降は明治新政府とのアライアンス路線を主軸に置いた。中国でとったような強硬な武力制圧という路線を日本では採らなかった。本書は、その前哨戦たる初期対日外交戦略の実態を、その対局にあると言っても良い対中国外交戦略との比較において知ることができる。そういう意味において一級の幕末外交資料である。

これまで初版本の蔵書としては、アメリカのマシュー・ペリーの日本遠征記、タウンゼント・ハリスの日本滞在記、イギリスのハリー・パークスの評伝、アーネスト・サトウの外交官日記を入手。これで、幕末に日本にやってきた英米の外交団の記録/著作がまた一つ揃った。あとはラザフォード・オルコックの「大君の都」初版を探している。なかなか探している時には見つからないものだ。


2)「回想 オリファント夫妻の生涯」:Memoir of The Life of Laurence Oliphant and Allice Oliphant, His Wife  1890年初版

この歴史的なミッションに同行して中国と日本を見聞し、歴史資料としても貴重な記録を残したローレンス・オリファントの伝記を見つけた。これは彼の従妹である大衆小説家マーガレット・オリファントによって書かれた。彼の残した手紙や記録、そして生前交流のあった人物へのヒアリングによってまとめられている。日本人の視点で見ると、これまで紹介してきた通り、彼は幕末の日本に2度来訪した英国の外交官で、東禅寺事件で負傷して無念の離日を余儀なくされた親日家。のちのアーネストサトウに影響を与えたジャパノロジストの元祖のような存在と捉えらている。それはもちろん間違いではないが、しかし、彼の人生をこの伝記で振り返ってみると、決してそのような一時点の出来事だけで捉えることのできない波乱に満ちた人生が見えてくる。逆にいうと、そのような波乱をものともしない野心と冒険心を有した若者が日本を目指したとも言える。いや別に日本でなくてもよかったのだが、たまたま来てみた日本に自分の心に響く未体験の世界を発見したと言った方が正しいかもしれない。かつてのウィリアム・アダムス、ケンペル、のちのシーボルト、サトウなども、そうしたオリファントと同じ「流転」を求める遺伝子を共有するヨーロッパ人であった。彼自身は別の自伝的な著作の中で、自分自身を「転がる石に苔は生えない:A rolling stone gathers no moss」という諺に自分の人生を重ねている。この諺は、イギリスでは「流転の人生では得られるものはない」という戒めであるのだが、そういう人生で自分は「苔」を獲得したのだと言っている。すなわち転がり続ける人生だからこそ、他の人が獲得できない「苔」という経験知を重ねて来たのだという自負を語っている。

この流転の人生は彼の生い立ち、若い頃の体験を振り返ることによっても知れる。ケープタウン生まれ。スコットランド系の中流階級の家庭に生まれ、父はケープタウンの法務長官。その後母に連れられて英国へ一時帰国。父はセイロンの最高裁長官に栄転。彼自身もセイロンやネパールなどを渡り歩いた。ある意味生まれながらにして大英帝国法務官僚の転勤族の子。オックスブリッジなどの正式な教育を受けるというよりも、若い頃から大陸旅行や植民地で見聞を広めた。わざわざ紛争地や革命の現場に飛び込んでゆくという「体験による教育」を親子で実践した。その後もロシアに潜入して探検するなど世界を股にかけ止まるところを知らない。冒険家、旅行家、紀行作家、ジャーナリスト、スパイ、外交官 etc.と、彼を評する経歴も多様だ。

青年期において大きな転機となったのは、当時、南下政策で領土的野心をあらわにしていた(今もそうだが)ロシアに占拠されたクリミア・セバストポリに潜入したことであろう。クリミア半島の地理やロシアの動向に精通していたことから、英国諜報部の民間諜報員(要するにスパイ)として活躍した。このとき対ロシア破壊工作を企画したが、結果的にはクリミア戦争でイギリス軍がロシア軍を撃破して終戦となったので、彼の工作は功を奏さなかった。しかし、この経験と英国政府とのつながりが彼に新しい道を歩ませることとなる。

こうした英国政府との関係を築く中で、人脈を辿ってカナダ総督であったエルギン卿の秘書となり、アメリカとの条約交渉に参加する。さらにエルギン卿のアロー号事件の収束、天津条約、と英国権益拡大を目指した中国遠征ミッションに参加する。そして日本という「未知の世界」に遭遇することとなる。中でも日本は、彼が育った南アフリカやインド、本国イギリスとも全く異なる世界。さらに中国とも異なる世界であった。使節団が長崎に上陸した時の第一印象として、これまで何処の世界でもみたことのない清潔で整った街の佇まいと、エキゾチックな人々の有様に新鮮な驚きと感動が描かれている。また鹿児島の英邁な貴族(島津斉彬公)名声を聞き、近代的な工場を持つ鹿児島に行ってみたいと思い、なんとか船を錦江湾に寄港させようとしたエピソードも描かれている。結果的には実現しなかったが、この時の彼が抱いた鹿児島のイメージが、彼が帰国後に薩摩藩英国留学生とイギリスで出会った時に、彼らの支援を申し出た背景となっているのかもしれない。こののち下田でアメリカ領事ハリスに会い、彼の日本観に触れ、殷賑で文化の香り漂う都、ロンドンにも引けを取らない「江戸」に驚愕し... でこうした「神秘的な国日本」の体験が彼の冒険心、未知の文明への探究心を掻き立てた。「転がる石に生える苔」はこうして新たな知見の蓄積により一層厚みを増していった。帰国後は日本赴任を切望。念願かなって、ラザフォード・オルコックによって在江戸英国公使館の書記官に採用されて江戸に赴任した、しかし、着任早々の東禅寺事件で攘夷派の浪士に襲撃されて、果敢に応戦するも重傷を負い本国へ送還される。親日家が遭遇した幕末日本の厳しい現実と無念の帰国である。生涯この時の傷の後遺症に苦しんだと言われる。哀れオリファント!その志を継いだのが、学生時代にロンドン大学の図書館で彼の「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れたアーネスト・サトウである。

伝記の前半は、彼の世界を股にかけた冒険者、ローリングストーンとして人生の巻である。しかし、1860年の日本からの失意の帰国後は、一転して神秘主義者オリファントの人生を歩み始める。彼の伝記の第二巻はこれまでのオリファントとは異なる姿が描かれている。いわば精神世界における冒険者、ローリングストーンと言って良い変身ぶりである。日本で負った古傷による苦痛が彼の心境変化に影響したのであろうか。伝記ではこの日本で遭遇した事件(東禅寺事件)の詳細が記されており、彼の人生とってやはり特別の体験であったことが強調されている。帰国後、アメリカ人の性的神霊主義者トマス・レイク・ハリスに出会い、彼の教義に啓発され、神秘主義的な思想にのめり込んでゆく。やがて、アメリカに渡りカルトコミューン、新生兄弟社(Brotherhood of New Life)に参加する。「神への愛」を至高のものとし、「人間の愛」は欲望によるものという独特の「愛」を語り、さらに独自の性愛観を展開して結婚や生殖に関する仕儀を説いた。この時期にアリスという女性と結婚するが、夫婦愛からというよりも教宣活動のための結婚であり、結婚のあり方の見本を夫婦で布教活動に使ったと言って良いかもしれない。また、そうかと思えばシナイ半島に移り住み、新たなコミューンを作りシオニズム運動にも没頭した時期がある。いずれにせよカルト集団としての大きな影響力を与えるほどにはならなかったが、オリファントはカルトの世界でも名を残す人物となっている。こうした彼を親族は疎ましく思い、鼻つまみものとして一族の中でも評判が良くなかったようだ。しかし従妹の小説家マーガレットは、生前から彼の生き方に興味を持って取材を続けていた。小説家としては魅力的な「素材」であったことだろう。伝記の中でも好意的な評価をして、一族の不評を打ち消す努力をしている。その評価の妥当性についてはなんともコメントしようがないが、日本に憧れた幕末の英国外交官としてのオリファント像を求めてこの本を読むと大きなギャップを感じる。「親日家オリファント」像は間違いではないが、それだけではない彼の多様な経歴、人生観、思想の遍歴に触れることとなった。この間の彼の心の軌跡がどのようなものであったのか。残念ながらこの伝記からは読み取ることはできなかったが。


参考:

オリファントが薩摩藩英国留学生の支援をおこなった中で、のちにワイン王と呼ばれた長澤鼎がいる。オリファントは幕末の混乱で一旦帰国を余儀なくされていた長澤を、米国ニューヨーク州のトマス・レイク・ハリスのコミューン、新生兄弟社に招き、彼はそこで入信し信仰生活を送る。この時同時に渡米した薩摩藩士二人は、この集団の教義に違和感を感じ帰国している。長澤は教祖ハリスの死、異端批判でコミューン解散後もアメリカに永住し、やがてカリフォルニアでワイン醸造を学び、コミューンのワイナリーを買い取りその経営に成功。カリフォルニアのワイン王として名声を博した。しかし、日系移民排除の動きや、戦争で土地や財産を没収されて全てを失い、子孫も日系人収容所に抑留される。こうして長澤鼎の名は人々に忘れ去られてしまった。戦後、戦時中の日系人収容への連邦政府からの公式謝罪と補償と名誉回復の中で、レーガン大統領により「ワイン王:バロン・ナガサワ」として、彼の米国への貢献が紹介され復権する。ちなみに鹿児島駅前の「若き薩摩の群像」には長澤鼎の勇姿が見える。共に波乱の人生送ったオリファントと長澤は彼岸で再会し、この日本の現状をどのように見て語り合っているのだろう。




「エルギン卿遣日使節団録」:Narrative of The Earl Elgin's Mission to China and Japan
by Laurence Oliphant in 1859 初版本



天津条約調印式の図

幕府側代表との会談の図



中国全土地図





「回想ーローレンス・オリファント夫妻の生涯」: Memoir of The Life of LAURENCE OLIPHANT and of ALICE OLIPHANT, HIS WIFE
by Margaret Oliphant W. Oliphant in 1891

従姉妹の小説家、マーガレット/オリファントによる伝記。一族で評判の悪かった彼の名誉回復の伝記。








2022年11月3日木曜日

増上寺建立400年記念 三解脱門楼上内部特別公開 〜400年前の江戸がそのままここにあった〜


楼上に「釈迦三尊像」「十六羅漢像」


芝増上寺建立400年記念 三解脱門(三門)楼上内部特別公開があり見学してきた。11年ぶりの公開だそうだ。江戸っ子にはおなじみの朱塗りの壮麗な三門は、これまで何度もくぐったことはあるが、登楼は初めてだ。京都南禅寺三門のようにいつも登れるわけではなくて、こうした特別な機会にだけ登れるので期待が膨らむ。常時公開ではないので臨時に二階の床板を一枚剥がしてそこに鉄製の非常階段を掛けてある。この急ごしらえの階段は狭くて勾配が急でなかなか登るのが大変だ。楼上は思いの外広くて、そこには釈迦三尊像を中心に十六羅漢像、歴代上人像が門の外を向いて鎮座まします。門の二階とは思えない荘厳な仏の世界が広がっている。このときは特別拝観のため尊像がライトアップされていたが、本来なら薄暗闇に金色の仏像が神々しく鎮まっていて、門扉を開けると外光が釈迦三尊に射すのであろう。仏像は薄暗い堂内の自然の明かりの中で拝観するのがもっとも良い。ともあれ、いつも気づかずにこの門をくぐっていたのだが、頭上で仏様たちが見守ってくれていたのだと知るとありがたさがいや増し、解脱門をくぐるたびに煩悩が払われるような気がした。これからは門前を通るときには楼上の釈迦三尊像を拝ませていだだこう。また。楼上からの展望もなかなかの絶景。江戸時代のようにここから江戸湾が見渡せるというわけにはいかず、周りをビルに囲まれた現在の東京の風景が広がっている。しかし江戸400年の時空を遡る世界を夢想しながらの絶景を体感できる。

この三門は国指定重要文化財。元和8年(1622年)建立で、増上寺が江戸時代初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物である。増上寺(山号は三縁山)は浄土宗大本山で、本尊は阿弥陀如来。元は1393年(明徳4年)創建の古刹である。江戸に入った徳川家康により徳川家菩提寺となり、徳川家康に仕えた大工棟梁、大和国の中井正清の設計監修に基づき大々的に造営し直した。中井正清は江戸城天守閣、二条城、増上寺、日光東照宮、江戸の町割りなど、徳川家お抱えの大工頭として活躍し、彼が残した建築遺産を全国あちこちで見ることができる。日本の建築界のレジェンドの一人だ。

こうして増上寺は、徳川家康により徳川家の菩提寺となり、江戸時代を通じて上野の寛永寺とともに隆盛を誇ったが、徳川幕府の瓦解、明治の廃仏毀釈の嵐の中で多くの堂宇が破壊され、境内敷地が没収されて大半は芝公園となった。上野寛永寺のように上野戦争の現場となって境内全域がが灰燼に帰すことはなかったものの、先の大戦による戦禍で本堂(現在のものは再建されたもの)や歴代将軍の墓所も焼失し、現在遺構として残されたのはこの三門はじめいくつかの門だけになってしまった。しかも移築された門が多い中、創建時の位置でその姿を今に留める三解脱門(三門)は、歴史遺産としても貴重である。増上寺の門に関する「うんちく」は過去のブログを参照願いたい(2018年10月3日増上寺と芝公園(2)〜そして門が残った〜 )

この三門の建築様式は、三戸二階二重門、入母屋造り、朱漆塗り。朱塗りの壮麗な建築物である。東日本で一番大きな門だという。三門とは、中央に大きな門、左右に小さな門を連ねた三門形式の門(山門ともいう)。南禅寺、建仁寺、妙心寺などの禅宗寺院や、知恩院などの浄土宗寺院(増上寺も浄土宗だが)の本山クラスの大寺院の門であることが多い。別名の「三解脱門」とは、「空解脱」「無想解脱」「無作解脱」の三境地で悟りの道に至る、あるいは三毒、三煩悩、すなわち「むさぼり」「いかり」「おろかさ」を解脱することを意味する。そなわちこの門をくぐると悟りを開き煩悩を解脱できるとされる。楼上には釈迦三尊像(釈迦如来に脇侍に騎獅の文殊菩薩、乗象の普賢菩薩)、十六羅漢像、当山歴代上人像が安置されている。いずれも木像で、釈迦三尊像は創建時に京都の仏師によって彫られた(東京都指定文化財)。先述のように、気が付かぬうちに頭上から門をくぐる迷える衆生を救ってくださっていたのである。有り難いことである。南無阿弥陀仏。

そして、この三門楼閣からの展望がまた絶品である。今でこそスカイツリーや高層ビルの展望フロアーからの展望が楽しめるのでこれくらいの高さの景色などが珍しくないが、ここから展望する芝公園、大門、浜松町の景色は格別だ。昔は高い建物は少なく、増上寺三門は「高層建築」であった。しかも庶民が登楼できるところは限られていたので、こうした大寺院の三門への登楼は絶好の行楽の機会でもあったことだろう。何しろここから江戸湾が見渡せたというのだから絶景に違いない。概してこうした、いわば「高層建築」であった寺院の三門には様々なエピソードが残されている。京都の南禅寺三門は、あの大盗賊石川五右衛門が楼上から満開の桜を眺め、「絶景かな絶景かな〜」と大見得を切ったと場所とされ、歌舞伎「楼門五三の桐」の名場面となっている。一方、同じ京都の大徳寺三門は、千利休の切腹のきっかけとなったとされる因縁の門である。利休が、三門の上部(金毛閣)を寄進したことに感謝した寺が、彼の木像を楼上に安置した。しかし大徳寺三門をくぐる秀吉の頭上に利休像を置いたのは利休が主君である秀吉を謀殺しようとする企ての証だ、との言いがかりをつけて切腹に追い込んだという事件。大泥棒や切腹などといった有名人のドラマチックなエピソードこそないが、ここ芝増上寺三門も江戸っ子にとっては人気のスポットだった。愛宕山の展望台とともに高いところから江戸の街と海を見渡す絶好の場所だったことから浮世絵にも度々取り上げられた。「江戸名所図会」にも芝増上寺三門からの眺め描かれており、当時の人気を伺わせる。人は高いところに憧れる。そこから俯瞰する世界にいろんなドラマが生まれる。



1)釈迦三尊像

釈迦三尊像と十六羅漢像

仄暗い空間に金色に輝く仏像が映える

釈迦如来像を中心に脇侍に文殊菩薩像、普賢菩薩像



太い柱と梁がこれだけの空間を支えている



2)十六羅漢像、歴代上人像













3)三門楼上からの展望

真正面は大門
もはや海は見えない

「江戸名所図会」の芝増上寺
江戸湾が見える

手すりが低いので高欄には立入禁止

臨時の上り階段

下り階段



4)三解脱門外観

大門側から
楼上の扉が開いているのが見える


境内から







広重の増上寺三解脱門



5)大門(かつての増上寺総門)


奥に三解脱門が見える





6)三門公開記念の御朱印


三門公開記念の御朱印



(撮影機材:Leica M11 + Summilux 50/1.4, Tri-Elamar 16-21/4, Leica Q2)




参考写真:南禅寺三門、大徳寺三門



南禅寺三門

三門楼閣
楼閣からの展望
石川五右衛門が唸った絶景

大徳寺三門

千利休が寄進した金毛閣