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2020年9月25日金曜日

古書を巡る旅(6)〜「エルギン卿遣日使節録」" Elgin's Mission to China and Japan "〜




前々回のブログ「古書を巡る旅(5)」で、アメリカのペリー提督の「ペリー艦隊日本遠征記:Narrative of The Expedition to China Seas and Japan」を紹介したが、今回はイギリスのエルギン卿の「エルギン卿遣日使節録:Narrative of Elgin's Mission to China and Japan」を紹介したい。ペリー艦隊の来航/日米和親条約締結に遅れること4年、1858年に日英修好通商条約締結のため来日した大英帝国の全権代表エルギン卿の記録だ。原題は " Narrative of The Earl of Elgin's Mission to China and Japan in the year 1857, '58, '59." Vol. 1, 2 by Laurence Oliphant in1859。手元の本書は1970年にOxford University Pressから出版されたリプリント版である。

まず人物プロフィール:

ローレンス・オリファント :Laurence Oliphant (1829-1888)
本書の著者である。エルギン卿の秘書官としてミッションに同行。のちに1861年に初代駐日公使ラザフォード・オルコックから駐日英国公使館の一等書記官に任命されとして駐在。しかし江戸着任早々同年7月の攘夷派浪士の襲撃(第一次東禅寺事件)で負傷し帰国を余儀なくされた。帰国後は下院議員となり、薩摩藩英国留学生の相談相手にもなった。
のちには神秘主義者になっていった。

エルギン卿ジェームス・ブルース、第8代エルギン伯、第12代キンカーデン伯:James Bruce, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine (1811-1863)
スコットランド貴族。下院議員。のちにイングランド貴族となり貴族院議員に。
ジャマイカ総督、カナダ総督を歴任。
1857年特命全権使節として清国へ派遣。アロー戦争(1856ー1860年)の遠征軍司令官として清国と戦い、終戦交渉。天津条約締結。
1858年来日、「日英修好通商条約」締結。
1859年帰国、パーマストン内閣閣僚に。
1860年、特命全権施設として再び清国へ。英仏連合軍で北京無血開城。北京条約締結。
1862年インド副王兼総督、1863年インドで死去。


エルギン卿全権使節団のミッションとは?

日本で翻訳され出版されているものは「エルギン卿遣日使節録」新修異国叢書 雄松堂 1978年 岡田章雄訳 で、このタイトルだけ見るとエルギン卿の全権使節は日本に条約締結を目的として送り出されたように見えるが、次に述べるようにそうではない。今回入手した本の英文のタイトルは「Elgin's Mission to China and Japan:エルギン卿の中国と日本への使節団記録」である。なんと言っても中国へのミッションが先なのである。アロー号事件を発端とするアロー戦争(第二次アヘン戦争とも呼ばれる)の勝利と清国との終戦条約締結がエルギン卿全権使節団の主目的であった。1840年のアヘン戦争、それに伴う1842年の南京条約締結後の大英帝国にとって、重要な外交案件の一つは、東洋における帝国の利権拡大、なかんずく清国との戦争である。同時期にはインドでセポイの乱が起き、こちらの鎮圧も大きな課題であった。もともとの書籍ははこうした大英帝国を取り巻く外交環境とそれへの対応の記録なのである。原書は二分冊になっており、第一巻には中国清国政府との交渉の様子が克明に記述されており、第二巻の前半に日本徳川幕府との交渉の様子、日本見聞記が出てくる。もちろん日本語版は、此の第二巻を中心に、日英修好通商条約交渉と、彼らにとっての未知の国、日本の観察の記録がまとめられている。幕末外交史を研究する上での重要な資料であるから、我々日本人からすると、この頃の「大英帝国は日本をどう見たのか?」という点が大いに興味をそそられる。しかし大英帝国の視点で眺めると、当時の清朝支配下の中国(清国)における危機的な状況が帝国の権益にとっての不安定要因であり、かつアメリカやフランス、就中ロシアという列強諸国間の帝国主義的利権争奪戦への対処策が核心的課題であった。その辺縁部にある日本の徳川幕府との関係構築は中国情勢と不可分ではあるが、喫緊の課題ではなかった。大英帝国はアロー号事件をきっかけとした清国との戦争の収束のために武装艦隊を派遣し、有利な条件で講和条約を締結するという重要ミッションをエルギン卿に託した。アヘン戦争以後、多発した外国人排斥運動の広がりと、それを収拾できなくなっている清朝政府への圧力。かといって弱体化し統治能力を失いつつある清朝政府を打倒してしまっては、より事態は不安定化すると考え、微妙な関係を保つよう苦慮する様子が描かれている。その主題の一方で、すでにアメリカ合衆国のペリー艦隊の後塵を拝してしまった日本との関係を構築すべく日本との通商条約を締結する役目も与えられていた。こうして清国との天津における終戦条件交渉のさなかの1858年に日本に寄港。同年、日英修好通商条約(安政五カ国条約の一つ)を江戸にて締結する。その足で再び中国へ取って返して広州を占領し、天津を制圧して同年に天津条約を結ぶ。まさに戦争している真っ最中に、その戦場から一時離脱して軍艦で日本にやってきて「修好通商条約」を幕府と締結したというわけだ。本書はそういった大英帝国の一連の東洋における活動の記録なのである。

このように、エルギン卿全権団一行は交戦中の清国上海から、1858年7月に4隻の艦隊で日本の長崎に到着。8月に江戸湾品川沖に停泊した。しかしイギリス東インド艦隊司令長官のシーモアは本国の訓令に従わず、エルギン卿に同行するはずの10隻以上の威容を誇る艦隊を日本には向けず、上海から香港へ帰還させてしまう。そのためエルギン卿の艦隊は4隻の蒸気フリゲート艦だけという、大英帝国の全権団としてははなはだ寂しい陣容であった。その一隻は女王陛下から江戸幕府に贈呈した快速船エンペラー号であった。此の時期、日本はアメリカ、フランス、オランダ、ロシアとも条約交渉をしており、大英帝国も遅れるわけにはいかなかった(米英仏蘭露各国と締結した安政五カ国条約と呼ばれる一連の修好通商条約)。

しかし日本の幕府との交渉は想定以上にスムースに進み、日英修好通商条約を無事締結できた。エルギン卿にしてみれば清国との戦闘や交渉に手を焼いていた分だけ、なんと楽な交渉であったことか。幕府側のエルギン卿使節団への接遇も良く、よほど嬉しかったと見えて、清国と違って日本は文化程度の高い東洋の文明国であると称賛している。こうして日本に好印象を持って帰っていった。だからといって喜んではいけない。この時締結した安政五カ国条約(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシア)の一つ。こののち明治日本がその解消に向けて苦しむいわゆる「不平等条約」である。江戸幕府の置き土産、新生日本の、弱小明治政府の最大の外交課題となる。この状況は清国における南京条約、天津条約、そしてのちの北京条約と同様、一連の「不平等条約」であるという本質において変わるところはない。そして国内に排外的なムードが高まり、外国人排斥運動や襲撃事件が頻発した清国の状況は、日本の尊王攘夷を唱える討幕派にとってデジャヴそのものであった。

教科書でも学んだように、不平等条約の中心的な問題は次の二つである。1)関税自主権なし。当時の幕府はむしろその必要性よりも関税額に固執したという。2)領事裁判権を認める。いわゆる「治外法権」である。これも当時の幕府は面倒な外国人の犯罪や紛争は外国人自身でやってほしい、という考えであった。また、排外主義的な考え方が基層に有って、天皇のいる京都や、将軍のいる江戸には外国人を入れないことや、外国人居留地を港に近い一定の場所に指定するなど、清国政府の排外姿勢と共通する点が見られる。近代的な独立主権国家としては当然に主張すべきであったにもかかわらず、十分な国際法(万国公法)上の権利や義務に関する理解と意識が欠如したまま押し切られて締結した結果である。しかし清国政府との交渉でも理解されず縺れた案件が、日本では比較的スムースにクリアーしたわけだ。エルギン卿は条約内容に満足して帰ったが、こうした「(不平等条約の)問題点にいずれ気がついて文句言ってくる勢力が出てくるだろう」とコメントしている。

エルギン卿はその後1859年に帰国し、第二次パーマストン内閣の閣僚となるが、その翌年の1860年、再び中国へ特命全権使節として派遣される。英仏両国は天津条約履行をしない清朝政府に最後通牒を突きつけ、英仏連合軍を中国に差し向けて北京を無血占領。そうした軍事力を背景に1860年に北京条約締結した。此のように、彼が率いるミッションは決して平和的な目的を帯びた使節団とは言えず、エルギン卿は大英帝国のアジア進出の先兵として豪腕を発揮した「伯爵」として記憶されているのである。


清国の状況と日本

清朝政府は、外交に関しては古代からの華夷思想(朝貢/冊封)の考え方から、基本的には抜け出ておらず、19世記になってもイギリスやフランスなどの欧米列強諸国は(その国力、武力の差は歴然としていたにもかかわらず)「蛮夷の国」として、対等な条約を締結する相手ではないとのスタンスであった。したがって排外的な攘夷思想が根強くあり、とにかく北京に外国人を絶対に入れるなというスタンスに終始(外国公使館の開設を頑なに拒否し続けてきた)。もちろんイギリスのアヘン戦争における理不尽かつ不正義の要求は、欧米列強の帝国主義的な植民地主義の象徴的なものであるが、これを拒絶し排撃できない清国政府の弱体化が欧米列強の横暴を許す一因となった。アヘン戦争後の1842年南京条約による英国への香港割譲に加え、広州、廈門、福州、寧波、上海の開港と、次々と開国させられ、不平等条約による市場開放を武力で迫られる。これが過激な排外運動、外国人襲撃事件を誘発し(後述のように、日本や朝鮮でも同様な攘夷思想による排外運動が起きていることに注意)、こうした排外的な暴動は、列強諸国に「在外公館保護」「居留民保護」という相手国内での武力行使や排他的な租借地要求の口実を与え、さらなる植民地化への道筋をつけてしまった。事態はエスカレートし、1856年のアロー号事件(清国官憲がイギリス国旗を掲げた船を臨検拿捕した事件)が起こり、これを口実に英仏連合軍が広州を占領、天津を制圧する事態にエスカレートする。これは第二次アヘン戦争とも呼ばれ、最終的には英仏連合軍はついに北京へ侵攻した。

こうしたアヘン戦争と南京条約の理不尽さに気づき、その後の天津、北京と続く不平等条約、清朝中国の弱体化、中国人の悲惨なありさまを見て、欧米列強によるアジアの植民地化への危機感を抱いたのは隣国の日本であった。欧米列強の中国清朝への強圧的な態度と戦争、これに反発する中国側の排外主義、外国人襲撃、その結果さらに武力制圧を繰り返し次々に不利な条約を締結させられるという悪循環を見せつけられた。日本は、1854年のペリー来航による幕府による日米和親条約締結、ハリス来日以降、日米修好通商条約締結、その後の激しい尊王攘夷思想による排外運動を経て、やがて旧態依然たる東洋の中華世界秩序から抜け出て、欧米流の近代化を目指すことに国家の存亡の合理性を見出した。1858年の安政五カ国条約締結以降、清国と同様な「攘夷」がスローガンとなる。英国公使館を襲撃する東禅寺事件(1861〜62年)、米公使館通訳ヒュースケン暗殺(1861年)、その決着もつかぬうちの生麦事件やそれに続く薩英戦争(1862−63年)、長州藩による四国艦隊下関砲撃事件(1863−64年)などの幾多の尊王攘夷派による排外的なテロ、外国人の殺傷、武力行使が起きる。しかし、そうした「攘夷運動」がかえって、先述のように列強の武力介入を助長する結果となった清国の有様を知り、また欧米の国力や軍事力を目の当たりにして、そうした排外的なテロでは列強諸国に対抗できないことに気づいたのも日本であった。結局、清国という反面教師に学び、西欧流の近代化、すなわち「文明開化」「殖産興業」「富国強兵」へと舵を切っていったのである。これが1867年の徳川幕藩体制を打倒し、あらたな政治体制を生み出した明治維新である。中国で旧体制である清朝打倒の辛亥革命が起きるのは日本の明治維新から44年後の1911年を待たねばならなかった。もっとも、日本の「国家近代化革命」は天皇を担ぎ出す「王政復古」で、中国のそれは皇帝を引きずり下ろす「帝政打倒」であったことは歴史の皮肉であろう。


エルギン卿遣日使節団の日本観察

エルギン卿ミッションはそうした事態の中派遣されてきた。言うまでもなく決して友好親善だけをめざして日本にきたわけではないことがわかるだろう。血生臭い中国での戦争の合間に、束の間の安息を得た日本での接遇。それは彼らにとって心地よい時間であっただろう。しかし、彼らに日本での滞在を楽しんでいる余裕はなかった。再び戦場へと帰っていった。こうして読んでいくと本書はペリー艦隊の日本遠征記とはその背景と目的、そしてその意義を異にしていることが理解できるだろう。何しろインドや中国で盛大に植民地獲得闘争を展開中で、あちこちで戦争をしている「七つの海を支配する」大英帝国の日本派遣団なのである。その大英帝国の後塵を拝しながら、太平洋に捕鯨船の補給基地を求め、中国へ向かう太平洋航路上の寄港地を日本に求めた新興国アメリカのペリー。しかし、日本開国に関してはアメリカの後塵を拝した大英帝国のエルギン卿。欧米列強の帝国主義的拡張競争の中での中国、日本である。そして、共通するのは、ペリー提督が、エルギン卿が、憧憬にも似た好意を抱いて帰っていったその後の日本では、彼らに続き来日した初代英国公使ラザフォード・オルコックやアーネスト・サトウなどが尊王攘夷派の手荒い歓迎を受けることになる点である。近代国家に生まれ変わるための一種の通過儀礼であった。

この本の著者、ローレンス・オリファントは著作の中で、ザビエルからペリーまでの日本と欧米諸国との外交史を振り返っている。もちろん英国の「偉大なる先達」ウィリアム・アダムスの事績について詳説しているのは言うまでもない。また、幕府との条約交渉もさることながら、日本の長崎や江戸の賑わい、人々の生活、風俗、文化、等々、非常な興味を持って観察している様が見て取れる。用意された宿舎にじっと留まるのでなく、街へ出て、買い物をしたり食事をしたり、好奇心旺盛な観光客然とした振る舞いがある意味微笑ましい。本書の第一巻(清国との交渉の記録)にはほとんど図版が挿入されていないが、第二巻の日本滞在記には多くの浮世絵や版画が挿入されており、見聞記としての興奮が表現されている。長崎は世界で一番美しく清潔な都市であると激賞している。下田に寄港し、アメリカ公使タウンゼント・ハリスに会った後、江戸に向った。江戸についてもロンドンにも劣らぬ世界にも稀有な清潔で殷賑なミヤコ(京都のことではない。京都へは行っていないので言及はない)と評価している。誰しも初めて訪れた異国や街の第一印象は心に残るものであるにしても、やはり戦乱の上海や天津からやってきただけでも長崎や江戸は高得点を得たのかもしれない。ともあれ日本を様々な点で称賛している。世界の植民地を巡ってきた彼にとって、日本は別世界に見えたようだ。激動する世界にあって日本が秩序が保たれ、平和で文化レベルが一定に保たれた状態であったことは一種奇跡に見えたのであろう。中国、インドだけでなく、故郷のイギリスと比べても驚嘆に値するものであった。世界の果てにもう一つの文明国があったという受け止め方。これは1600年に日本に初めて到達したイギリス人ウィリアム・アダムスや、ペリー提督一行が抱いた感想と同じものがある。もっとも、どうしても受け入れられない習俗もあったようで、その一つが既婚女性の「お歯黒」であった。なぜ世界でも屈指の美人の国で、此のような異様な風習があるのかと書いている。ペリー艦隊の日本遠征記にもこの衝撃が記述されている。ペリー艦隊のもう一つの驚きはあの下田で見た「混浴の公衆浴場」であるが、オリファントはそれに言及していない。下田で見る機会がなかったのか。

オリファントはその後、念願かなって日本の英国公使館の一等書記官として日本に戻ってくる。しかし着任の年(1861年)に、攘夷派浪士が江戸高輪の東禅寺に設けられていた英国公使館を襲撃(第一次東禅寺事件)。その際、彼は果敢に応戦したが重傷を負い、やむなく本国へ送還される。このとき負った怪我の後遺症に一生悩まされた。親日家の不幸な離日である。彼が長く日本に滞在していたら、アーネスト・サトウのようなジャパノロジストになっていたであろう。そのサトウはオリファントのElgin's Mission to China and Japanを読んで日本に憧れ、英国外務省に入り通訳として日本にやってきた。そして日本人と結婚して家庭を持ち、通算すると日本に25年滞在した後、特命全権公使の要職を最後に日本を去った。オリファントの夢を継いだのかもしれない。



Elgin's Mission to China and Japan Vol.I, II
Oxford University Pressのリプリント版

第二巻の表紙
左にはエルギン卿全権代表の幕府代表との会見の図が描かれている


第一巻に出てくる清国との天津条約調印式
双方の緊張感が伝わってくる


第二巻に出てくる江戸における両国代表の条約交渉
何か和気藹々として雰囲気に描かれている

幕府との公式会見
後ろ向いて土下座している侍は何をしているのだろう?

収録されている江戸湾の地図
お台場と品川周辺しか描かれていない


エルギン卿

ローレンス・オリファント








2020年9月15日火曜日

ヤン・ヨーステン(耶揚子)とは何者か? 〜ウィリアム・アダム以外のリーフデ号生き残りのその後〜

日蘭修好三百八十周年記念碑
日蘭修好三百八十周年記念碑
ヤン・ヨーステン像とリーフデ号が刻まれている



  前回紹介したオランダ船リーフデ号の日本到着(漂着)の話。あまりにもイギリス人航海士ウィリアム・アダムス/三浦按針が有名過ぎて、その他の乗員のことはまるで話題になっていない。せいぜい同乗していたオランダ人ヤン・ヨーステンの名前は教科書にも出てくるが、彼とてもその人物像や事績は驚くほど知られていない。まして他の乗員はどうなったのか。ほとんど言及がないというか関心が持たれていない。まるで日本に漂着したのはこの二人だけであるかのような扱いである。アダムスの記録によれば日本に漂着した時点で24名の乗員がいたはずである。彼らにも彼らのその後の人生があった。忘れられたリーフデ号乗組員の物語だ。そのことは後述するが、まずは謎のオランダ人ヤンヨーステンのことだ。

ヤン・ヨーステン(耶揚子)とは何者だったのか?

本名はヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン:Jan Joosten van Lodensteyn。ヤン・ヨーステンはファーストネームだ。ウィリアム・アダムスとともに1600年、リーフデ号で豊後佐志生に漂着したオランダ人である。徳川家康に重用され、アダムスとともに士分に取り立てられ江戸に屋敷を与えられたとされている。そしてアダムスと同様、日本人の妻を迎え「耶揚子」と名乗った。しかし、それ以上の彼の生涯がどのようなものであったのかを知らなかった。ウィリアム・アダムスが小説や映画のモデルにもなり、日本語を含む多くの研究書まで登場しているのに比べて影が薄い。せいぜい東京の「八重洲」という地名の由来として知られているくらいで、実際に彼はどのような人物で、日本到着後どのような活動をしたのか。その生涯はどのようなものであったのか明らかではない。教科書でその名前は知ったが、実は「何者か」知らない謎の人物である。

最近、森良和氏の著作「リーフデ号の人々〜忘れられた船員たち〜」(2014年学文社)に出会った。同氏は今年出版された「三浦按針その生涯と時代」東京堂出版の著者としても知られる近世日欧交流史、比較文明/文化史の研究者だ。本書ではイギリス人ウィリアム・アダムス以外の、ヤン・ヨーステンほかオランダ人船員の消息が紹介されている。リーフデ号に関する数少ない貴重な研究著作である。以下この書籍に基づいてヤン・ヨーステンの秘密を読み解いていきたい。

彼は1556?生まれ〜1623死去。オランダ(当時はスペイン領であった)のデルフト出身である。あの陶器で有名な町だ。同郷の画家フェルメール、国際法学者グロチウスとほぼ同時代人。この頃のオランダは独立戦争や宗教弾圧で不安定な状況であった。そうした中でヤン・ヨーステンの一族は町の市長や議員を務める有力者であったし、親族がデルフトのオランダ東インド会社の重役を務めるなど要職にあったようだ。彼の弟ヤコブも、後にオランダ東インド会社の船で平戸に帰港し、兄ヨーステンと涙の再会をしている。結婚はしていなかったようで、妻の名前も、子供の記録もない。40歳独身でリーフデ号に乗船しロッテルダムを出港したようだ。ただリーフデ号における役割の記録はない。


ヤン・ヨーステンは日本で何をしたのか?

次に日本で彼はどう生き、何をしたのか?。実は1600年に日本に上陸して10年は彼がどのような活動をしていたか記録がなく不明である。何時頃から家康に重用されたのか明らかではないという。ある時、長崎の豪商で長崎代官を務める村山等安が、駿府の家康に長崎にいたヤン・ヨーステンを引き合わせたとされている。ということはヤン・ヨーステンはこの頃長崎にいたことになる。1610年、家康は、ノビスパン(スペイン領のメキシコ)との通交を企図していた(アダムスに伊豆伊東で西洋船を建造させている)。この頃ヤン・ヨーステンは家康に謁見が許され、海外情勢について様々な解説をしたと言われている。これがきっかけでヤン・ヨーステンは家康に重用され始める。既に家康に重用されていたアダムス/按針は旗本に取り立てられていて活躍していた。その事実はオランダやイギリスにも知れ渡っていおり、アダムスは内外の有名人であったが、ヤン・ヨーステンの方はまだ無名であった。この頃江戸に屋敷を与えられ妻をめとり娘をもうけたたようだ。また長崎に所領地を与えられたとされているが、アダムスの場合と異なり、そうした正式の記録が見つかっていない。家康が亡くなる前年の1615年に外交顧問になったとされている。このようにアダムスに比べ、7〜8年遅れて家康、秀忠に重用されるようになった。

彼は2隻のジャンク船を所有し、長崎を拠点に1612年から家康の朱印状を得て10数回にわたってインドシナ半島との間を行き来して「ビジネス精神旺盛」な貿易家として活躍した。この頃の貿易家、海商は、いいわば海賊と紙一重で、そのアグレッシヴな手法はイギリス商館とのトラブルや、ポルトガル船への略奪行為(この頃の私掠船は貿易の一環だたが)、平戸藩主とのトラブルなど、豪腕な冒険的商人としての活動が様々な軋轢を生み出していたようだ。幕府は海賊行為を禁じていた。1616年に大御所家康が死去すると、将軍秀忠は早くも1616年5月には海外との貿易制限を始め、彼の商売だけでなくオランダ、イギリスの交易活動に逆風が吹き始める。ここでも彼は強引な手法で将軍に制限撤回を画策工作し、将軍や幕臣の不興を買ったようだ。やがて友好関係にあった平戸のイギリス商館のコックスとの間も不仲となり、それでも中国貿易に活路を見出そうと長崎を拠点に交易販路拡大に望みを繋いだ。しかし最後はバタビアからの帰途、1623年に南シナ海パラセル諸島府付近で遭難し果てた。

このようにヤン・ヨーステンは大胆で強引な手法を多用する、借金も儲けも多い「ハイリスクハイリターン」型の一種の冒険的商人であったようだ。それだけに敵も多かったのだろう。最後には将軍秀忠に疎まれた。彼の事績を評価しない歴史観が出来上がっていったのかもしれない。しかし、一方で彼には仲間の人望もあり、苦境に立たされたり、処刑されそうになった仲間を体を張って助けたという記録も残っている。後世のオランダ側の資料では、彼の死後1637年バタビア総督は彼を、サントフォールトとともに日本におけるオランダ人コミュニティーの中心人物と評価している。また長崎の日本人の間でも「和蘭陀の頭目」として記憶されているという。

先述のようにヤン・ヨーステンはオランダデルフト出身であり、彼の一族には東インド会社の重役もいたので、日本へ進出してきたオランダ東インド会社、平戸オランダ商館などとの関係があったと思われるが、アダムスほどには記録がなく不思議な存在である。オランダの日本進出も、イギリスの進出も、アダムスの存在、彼の果たした役割が大きい。彼が日本に到達し、「皇帝」(家康)に重用されていることはすでに本国に伝わっていた。一方、この時点でのヤン・ヨーステンの存在は故国オランダにどの程度伝わっていたのだろうか。オランダ東インド会社が日本にやってきた来たとき何をしていたのだろう。あまり存在感が伝わっていない。そもそも初期のオランダ商館日誌等の記録がほぼ残っていないことが原因かもしれない。一方、オランダに5年遅れて平戸に進出してきたイギリス商館の初代館長コックスの日誌や手紙には彼の名前がアダムスとともに頻繁に登場してくる。こうしたいくつかの資料が主な彼に関する主な情報源であるようだ。まだまだ未知の部分が多い人物だ。

ちなみに、ヤン・ヨーステンは「砲術師」であったので、関ヶ原の戦いの時に、小早秀秋の陣へ放った「問い鉄砲」や、大坂の陣で大坂城天守に大穴を開けた大砲(カルバリン砲)は、このリーフデ号の大砲で、彼が砲撃指揮したとするエピソードが伝わっている。大坂の陣での大砲はイギリスから調達したものだと考えられているが、ヤン・ヨーステンやリーフデ号の乗組員が戦闘に参加したとうい話は、ありそうで面白いのだが、これらは資料的にも、また戦史の観点からも検証はされていない。


江戸の屋敷はどこにあったのか。「八重洲」とはどこか?

ところで、彼が家康から拝領されたという屋敷はどこにあったのか。一般にヤン・ヨーステン(耶揚子)が住んだ場所が、彼の名前に因んで「八代洲」「八重洲」と呼ばれるようになったと言われているが、その「八重洲」とはどこなのか?東京駅八重洲口一帯、すなわち現在の中央区八重洲がそうだと理解されているが、このあたりの町名が八重洲と称されるようになったのは実は戦後のことだ。もとは八重洲河岸は内堀沿い、すなわち現在の千代田区丸の内の和田倉門から馬場先門の日比谷通りあたりだと言われている(戦前には丸の内に八重洲町という地名があった)。昭和初年に東京駅の東口が開業されると八重洲口と呼ぶようになり、これが「地名の移動」のきっかけとなったようだ。現在、丸ビル南側の通りの地下駐車場入り口の際にオランダから送られたリーフデ号のモニュメントが飾られている。このあたりが彼の屋敷のあったところではないかと言われている。ちなみに現在、ヤン・ヨーステン(耶揚子)の記念碑、肖像は東京駅八重洲口に2箇所ある。八重洲中央通りの日本橋三丁目交差点の中央分離帯に1箇所。八重洲地下街にもう1箇所。しかし、これらは先述のように彼の屋敷跡を示すものではない。いずれも戦後、地名の由来としてのヤン・ヨーステン(耶揚子:八重洲)に因んで、日蘭修好の記念に設置された記念碑だ。なんだか紛らわしい。ところで、アダムス/按針が日本橋に旗本として屋敷を拝領しているがここは町人町だ。その一方ヤンヨーステンの屋敷は、大大名や有力旗本が住む武家地。この違いはなんなのだろう。アダムス/按針の日本橋の屋敷「あんじん丁」の記載のある江戸の古地図「武州豊島郡江戸庄」にも「やえすがし」の名はみつからない。いずれにせよヤン・ヨーステン/耶揚子が住ったという「八重洲」の謎はまだ解けてはいない。


このほかのリーフデ号の人々

このように振り返ると、冒頭に述べたようにウィリアム・アダムス/三浦按針とヤン・ヨーステン/耶揚子の名は後世に伝わっているが、そのほかの船員の消息に関してはさらに情報が乏しい。まるで他にリーフデ号の生き残りはいなかったかのような扱いだ。森良和先生の「リーフデ号の人びと 忘れられた船員たち」によれば、リーフデ号がロッテルダムを出港したときには110名の乗組員がいたが、日本の豊後に到着したときには24名になっていた。到着の翌日に3名が亡くなり、その後上陸後しばらくして3名が亡くなった。したがって18名が生き残り(その人名リストが掲載されている)日本で暮らした。一時、皇帝(家康)からの贈与金の分配を巡って仲間割れし、散り散りに日本の各地に去っていったが、その後はお互いに連絡を取りあっていたようだ。しかし、アダムス/按針やヤン・ヨーステン/耶揚子は別として、それぞれがどこに住んだかは確かではない。断片的にわかるのは最初に連れてこられた堺や、浦賀、平戸、長崎など、やはり海につながる街に住んだようだ。このなかで商館の日誌や手紙など様々な情報を集め、多少なりとも記録を追える次の二人のオランダ人を森先生は紹介している。

メルヒオール・ファン・サントフォールト:Melchior van Santvoort (1570?~1641)
リーフデ号の書記であった。生まれや生い立ちは不明である。日本人(イサベラ:江戸の大工の娘と言われている)と結婚し娘(イサベラ、スザンナ)をもうけた。長崎で過ごし、幕府ともオランダ商館とも一定の距離を置いた私人として貿易に従事した。一時、後述のクワッケルナックとともに出国しマレー半島のバタニに渡るが、再び日本に戻った。アダムスやヤン・ヨーステンのように、家康に気に入られて士分に取り立てられたり、屋敷や領地を与えられはしなかった。しかしオランダ東インド会社の平戸進出時には通訳を務めたり、駿府への旅をアレンジしたり、商館設立や交易開始に貢献したことがいくつかの手紙などの資料に残っている。またイギリスの平戸進出に際してもジョン・セーリスや商館長コックスとの交流もあったらしく手紙が残っている。しかし、彼はあくまでも独立の私人として活動した。おそらくアダムスとの連携もあったのだろう。しかし、アグレッシヴなヤン・ヨーステンとは異なり、私利私欲にとらわれない温厚な人物で信頼感を持たれていたようで、英蘭双方から高い評価を得ていた。長崎では日本人の豪商との付き合いも多く、日本人の船頭を抱え、人々の間でもヤン・ヨーステンとともに「和蘭陀の頭目」として一目置かれていたと言う。バテレン追放令に伴い、やむなく1640年に家族で台湾に去り、その後バタビアへ移った。そして2年後にそこで死去した。結局漂着以来40年ほど日本に滞在し、リーフデ号生き残りの中では最も長く滞在した人物となった。アダムスやヨーステンの倍近くを日本で過ごしたことになる。晩年は日蘭関係をよく知る人物として親しまれた。また彼の娘は二人とも、後にオランダ商館員と結婚し、その子供たちがのちに長崎出島のオランダ商館長一家として赴任してくる。このように彼は日蘭関係史という視点からも重要な役割を果たした人物であり、なぜこれまで歴史の表舞台に登場してこなかったのか不思議だ。もっと評価を得ても良いのではないかと感じる。今後もう少し研究してみたい。

ヤコブ・ヤンスゾーン・ファン・クワッケルナック:Jacob Quaeckernaeck( 1554?~1606)
リーフデ号の3人目の船長。ロッテルダム出身。アダムスと同様、故国に妻がいる。一族には東インド会社に関わる親族がおり、彼もランクの高い船員であった。日本上陸時にはかなり衰弱していて指揮を取れなかったのでアダムスが代わりに指揮をとった。早くから帰国を望んでいたらしく家康に一番初めに帰国を許された一人。1605年にサントフォールトとともにバタニに渡るが、オランダ東インド会社の就職支援を得ることが出来ず(進出したばかりで人がいない開店休業状態であったようだ)、サントフォールトは再び日本に戻り、クワッケルナックはジョホールへ行く。そこで、彼の貴重な経験を買われ来航中のオランダ艦隊に所属して船長になった。しかしマラッカでポルトガル艦隊との交戦中戦死する。こうして世界を就航した経験のある航海士、船長にして、極東の日本にたどり着いた冒険者は南海に散っていった。


「彷徨えるオランダ人」の逞しさ

このほかにも、その後の消息が詳細記録に残っていない「リーフデ号の人々」がいた。先述のように、リーフデ号の生き残りは、日本上陸ののち家康に留め置かれ(出国を許されず)、それぞれ堺や浦賀、平戸、長崎などで生活し、日本を拠点に船乗りとして貿易商人として活躍したものと考えられている。そして、結局は誰一人、故国に帰ったものはいない。もともとそうした野望を持ってロッテルダムを出てきた冒険魂あふれる「野郎ども」である。地獄のような航海を生き残った屈強な男たちである。苦難の末にたどり着いた場所で一花咲かせようとした。人が行かないところへ行って成功してやろうと!命を賭けて世界の果てにたどり着いた。彼の地で「望郷の念止みがたし」で帰国を強く望んでいたかというと、必ずしもそうでもないところが興味深い。母国が戦乱と異端迫害の混乱の中にあったことも大きな動機になったかもしれない。が、我々日本人の感覚で言うと、はるけき異国の地に漂着し、毎晩故国を夢見ながら、いつ帰国できるか指折り数えながら惨めで寂しく生きた、と考えたいところであるが、彼らは、日本で拾った命を「神の恩寵」として最大限生かし、平戸や長崎などを拠点としてジャンク船を使って海外貿易にのりだしている。ある意味「念願かなって」チャンスを掴んだと考えた。故国に帰る時は成功者として「錦を飾る」のでなければ帰らないと。もちろんその後は鎖国政策により、迫害されたり、家族もろとも国外に追放されたり。穏やかな老後とは無縁の後半生が待っていた。「彷徨えるオランダ人」や「アングロサクソン」の逞しさ、シタタカさである。国外追放になっても結局一人も故国へ戻ったものはいない。歴史の闇の中に消えていったものもあるが、先述のように華々しく南海に散っていったものもある。日本人として生き、そこに屍を埋めたものもある。のちに残した子孫がバタビアの東インド会社で活躍するものも現れる。そして長崎出島の商館長としてに舞い戻ってくる。まさに「人生至る所青山在り」。である。幕末の土佐人中浜万次郎:ジョン万次郎のような日本人もいたが、えてしてそうした逞しさは我々日本人にはないのだろうか。この頃のイギリス人やオランダ人の「世界を股にかける」ということの意味を見つめ直す機会となるエピソードである。

「故郷は遠きにありて想うもの そして悲しく歌うもの よしや異土のかたい(乞食)となるとても 帰るところにあるまじや」室生犀星

日本人のセンティメントとは違うと感じるが、この歌を彼らに捧げたい。


東京駅八重洲口から伸びる八重洲中央通りの日本橋三丁目交差点
に設置されている「日蘭修好380周年記念碑」


1989年4月20日の日付


東京駅八重洲地下街のヤン・ヨーステン像




壁面の一角で気づかず通り過ぎてしまいそう


東京駅丸の内口
丸ビルの南側に設置されている
「オランダ船リーフデ号」モニュメント


ヤン・ヨーステン屋敷跡と推定されている



和田倉門から馬場先門を望む日比谷通り
この内堀沿いに「やえすがし」があったとされる



さらに詳しく知りいたい方は是非ご参照を↓




2020年9月12日土曜日

古書を巡る旅(5)〜「ペリー艦隊日本遠征記」"Narrative of the Expedition to China Seas and Japan"のオリジナル版発見~




ハードカバー表紙
金文字に型押し


以前、1856年の「ペリー艦隊日本遠征記」縮約版:Narrative of the Expedition to China Seas and Japan、ニューヨークのAppleton 社刊行についてブログで紹介した(2015年5月26日「古書を巡る旅〜「ペリー艦隊日本遠征記」縮約版〜)。しかし、古書コレクターの視点で見るとこれは、後世、装丁が大きく改変されていて、初版本としてのオリジナリティーが保たれていない状態であった。特に外装は新しいものに取り替えられており、書籍としての程度は良いが、歴史的な古書としての佇まいが失われている。かつ(残念なことに)背表紙のタイトルがミスタイプされてる。Narrative of the Expedition to China Seas and Japanとすべきところを、Narrative of the Expediition to China and Japanとなっている。ペリー艦隊は中国には行っていないのでこれは大きなミスだ。この本の内容を正しく表していない。

オリジナルはどのような装丁の書籍であったのか以前から気になってた。横浜の開港博物館や下田の黒船ミュージアム、日比谷図書館で見学(ガラスケース越しに)したオリジナル版らしい書籍は、ページを開いて中のイラストを展示しており外装がよくわからない。検分する限りどれもかなり表紙が痛んでいて、どのようなデザインであるか目視では確認できなかった。ネットで画像検索すると、海外中心にの書店や図書館所蔵のいくつか画像が出てきたが、後世に装丁を直したらしいものが多く、中には豪華な装丁に換装されているものまである。その中で、いくつかオリジナルのままらしいものが見つかり、その一つが神保町の北沢書店のものであった。早速、北沢書店に問い合わせると、程度は「並」で随所に痛みがあるがオリジナル版であるとのこと。「やはり現品を見にこられることをお勧めします」とのことで早速見せてもらいに神保町に向かった。

北沢書店では議会版(下院版)と縮約版を鍵のかかる稀覯書の棚から取り出して、店主自ら詳細に解説していただいた。議会版はハードクロスカバーの3分冊の重い本である。一方の縮約版も、なるほどこれがオリジナルか、と感動する美しい作りの書籍である。グレーのクロス装丁で表紙と表にタイトルと飾りイラストが金押しで丁寧に飾られ、エンボス加工のデザインが施されていてなかなか魅力的な本だ。しかし、出版から160年以上経過しているので、それなりの経年劣化があり背表紙の金字が薄れているほか、真ん中あたりでバインディングが外れている。しかしオリジナルの状態をよく残している。いかにも文化財、歴史的資料というオーラを纏った書籍である。

議会版は、日本についての記述をまとめた第一巻(例の「話題騒然!下田混浴図」付きである)、日本以外の記述をまとめた第二巻、航海中の天文観測についてまとめた第三巻からなる。イラストの版画が豊富で、しかも精密である。カラー刷りも多用され美しい。艦隊には写真家も同行したようだが、挿入されている図版は全てリトグラフだ。ある意味カラー写真よりも緻密で、それでいて時空を超えた空気感がある。それだけでも当時の日本の様子が手にとるように分かり(もちろん異国人が見たエキゾチックな日本であるが)興味深い。地図もふんだんに折りたたんで挿入されてなかなか豪華な内容である。しかしとてもすぐに手が出る価格ではないので、より手の届きやすい縮約版を中心に検分させていただいた。こちらも縮約版とはいえ600ページを超える内容で地図やイラストも豊富で、議会版に劣らぬ豪華本である。

以下の写真を見ていただきたい。縮約版とはいえ26*17cmのサイズで600ページを超えるかなり大部の重い大型本である。ハードカバーの背表紙の金文字はかなり磨耗して剥落しているが、型押しデザインの表紙の日米友好を象徴する金字のイラストは鮮明に残っている。これだけでも貴重だ。ページの欠落などはない。書籍の中程のページで背綴じが外れたところがあり、これは修復は難しそうだ。これを本格的にやるとなると、前回見た換装版のように表紙、背表紙、裏表紙カバーを総取り替えして、バインディングをやり直さなければならないのだろう。店主に伺ったが、なかなかオリジナルのままで、書籍としての脆弱性がなく完璧に原本の状態を保っているものは少ないだろうという。またバインディングをやり直すとすれば、日本ではなくイギリスやアメリカの専門業者に頼むべきだと説明してくれた。まあ、学術研究図書として頻繁に貸し出したり、研究者が回し読みしたりする「資料」としてではなく、歴史的な古文書、文化財として将来にわたって保存していくべきものであろうと考えると、オリジナリティーをできるだけ保ったままの方が良いように思う。

北沢書店店主は、さすがに博識で経験豊かな洋古書の専門家である。かつてロンドンにもたびたび買い付けに行ったと、その時の話を聞かせていただいた。懐かしいセシルコートやベーカーストリートの古書店の話で盛り上がった。貴重な古書を発見、発掘することと、それを市場のニーズに合わせて流通させること。なかなか大変な商売だ。シーズの発掘とニーズの掘り起こし。これはいずれのビジネスにおいても共通する課題であるとここでも再認識した。また90年頃のバブル時代末期には、このペリー遠征記もロンドン経由で何冊か日本に入ってきたが、この頃はめっきり減ったという。こうした稀覯書の流通もその国の経済状態を反映するものだということがよく分かった。また、こうした稀覯書は、意外にオリジナルは質素な装丁の書籍であることがままあるようで、のちにその著作者や書籍の歴史的評価が高まると、それに応じて所有者が、装丁を改めて、蔵書としての体裁を整えることがあるそうだ。特に、イギリス田園地帯のマナーハウスやロンドンのマンションハウスの書斎に並んでいる蔵書棚は見事であるが、こうしたインテリア的な視点からの換装が行われたようだ。多くのシェークスピア全集やディケンズの著作集なども豪華な装丁に変更されたものがあると言う。その極端な例の一つがアダム・スミスの「国富論」だそうだ。18世紀出版当時のオリジナル版は簡素な表紙の書物であったが、時代を経るにしたがって、後世の蔵書家や図書館が豪華な装丁に換装していったという。今流通しているアダム・スミスの「国富論」「道徳感情論」のオリジナルとされる古書はこうしたものが多いそうだ。おもしろい話だ。書籍がその内容や情報を伝えるための
「媒体:メディア」であるだけでなく、歴史を纏うと「工芸品」として後世に受け継がれてゆく。一冊の古書にも様々なストーリーがある。こういう話が聞けるのが古書店通いの醍醐味である。





背表紙はかなり金文字が剥落しているが豪華な意匠である

背景は議会版に掲載されている下田の了仙寺(下田条約締結の場所)と思われるプリント
Bridge of Cut Stone & Entrance to a Temple, Simoda

表紙を飾る金字のイラストと型押しのフリル
左に日本のサムライが徳川の旗を掲げ、右にアメリカの水兵が星条旗を掲げる
和船と黒船が並ぶ日米和親を象徴するイラスト
背景の山は富士山と思われる

背表紙

Commodore M.C. Perry, United States Navy


ペルリ像

2020年9月5日土曜日

ウィリアム・アダムス(三浦按針)の江戸屋敷跡を探す 〜William Adams, the first Englishman who once settled in Japan〜

日本橋室町1−10にある按針屋敷跡の石碑


今年はウィリアムアダムス(William Adams)/三浦按針没後400年である。

これまでもウィリアム・アダムス/三浦按針の業績やその生きた時代についてはブログで何度か紹介してきた(2020年7月12日「世界史と日本史の遭遇」2009年12月28日「ウィリアム・アダムスの生きた時代」)。アダムス/按針は私が最も興味を抱く歴史上の人物の一人である。私が英国で学生生活を送り、仕事でも長く滞在し、大の英国文化好きになってしまったこと、そして彼の生まれ故郷ケント州に住んだことがあるという奇遇もあるが、なによりも16世期末から17世紀初頭に西欧と日本を繋ぎ、歴史を作った稀有な経験を有した人物であるからである。しかもそれは航海者として冒険者としてであり、けっして王侯貴族や宣教師、大商人や武勇に優れた将軍としてではなく、一人の市井の民として奇しくも歴史に名を残すこととなった。極めてドラマチックな人生であり、それゆえに多くの小説の主人公にもなっている。ここまでの展開を彼は想定してはいなかったであろう。

これまでは、主に書籍によりアダムス/按針の事績を追ってきた。しかし彼の日本における足跡を追いかけて、実際にその現場を訪ねてみたいとの思いに駆られるようになった。それこそ「時空トラベラー」の本領である。まずは身近な東京に彼が徳川家康から与えられたという日本橋の屋敷跡をぜひ確認しておきたいと思い探し始めた。ところが、これが意外に見つけるのに苦労した。これだけ歴史の教科書にも出てくる人物で江戸/東京に縁のある英国人なのに、その住まいを辿ることがこれほど大変なことになるとは思っても見なかった。というのも東京都や中央区の観光案内にも三浦按針やこの屋敷跡を示す石碑の存在については出ているが具体的な場所やアクセスの表示がなく、またGoogleMapで検索してもにも出てこない(下記のサイトを参照願いたい)。結局いくつかの個人のお散歩ブログなどを参照させてもらい、ようやく通称「按針通り」のこの辺じゃないかと目星をつけることができた。つまりブログに掲載されている石碑の写真に写っている周囲のビルや看板などで推理して、今日ようやくたどり着いたというわけだ。

その場所は中央区日本橋室町1−10である。と言っても実は広いブロックになっているのでまだこれだけでは場所をピンポイントで特定はできない(下記GoogleMapの表示のとおり)。日本橋三越新館前から中央通りを渡ると、まっすぐ東へ進む「按針通り」がある。昭和初期までは実際の地名として使われていたようだが、今の町名は日本橋室町となっている。この短い通りの途中に石碑があることまではわかったのだが、ここからが分かりにくい。結局は海苔屋さんと、宝石屋さんのビルに挟まれた谷間(隙間)にひっそりと石碑が鎮座しているのを発見した。これが三浦按針邸宅跡の石碑である。見つけてみればなんということもないのだが、あたりにはまったくそれを示す表示もなく、路駐の車が並んでいるので視界が遮られ、ただ歩いているだけではそれと気づく人はいないだろう。もう少し親切な案内表示でもあればと残念に思う。とまあ、いきなり場所探しのぼやきから始まって恐縮だが、石碑自体は小さいが立派なもので英文と和文で刻まれている。「1951年5月に数人の日本人により再建された」とある。この頃の地元の人々のアダムス/按針に寄せる想いを感じさせる。「再建された」ということから、以前には別の石碑でも建っていたのだろうか。震災、戦災や戦後の区画整理の影響だろうか。


以下、石碑の記述を原文のまま引用。

(英文)
IN MEMORY OF WILLIAM ADAMS, KNOWN  AS MIURA ANJIN, THE FIRST ENGLISHMAN TO SETTLE IN JAPAN, COMING AS PILOT ON BOARD THE CHARITY IN 1600 WHO RESIDED IN A MANSION BUILT ON THIS SPOT. WHO INSTRUCTED JYEASU, THE FIRST TOKUGAWA SHOGUN, ON GUNNERY, GEOGRAPHY, MATHEMATICS, ETC., AND CONSTRUCTED FOR HIS SEVERAL SHIPS ON THE EUROPEAN MODEL. WHILE RENDERING VALUABLE SERVICES IN FOREIGN AFFAIRS, AND WHO MARRIED A JAPANESE LADY MISS MAGOME AND DIED ON APRIL 24, 1620 AT THE AGE OF FIFTY SEVEN YEARS.

REBUILT BY SOME JAPANESE, MAY 1951.



(和文)
ウィリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ。慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船、砲術、地理、数学等に業績をあげ、ついで家康、秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)1月24日平戸に歿した。
日本名三浦按針は相模國逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。




1600年、豊後臼杵佐志生に到着(漂着)したオランダ船リーフデ号の乗組員は、イングランド人ウィリアム・アダムス(William Adams, 1565~1620)の他、オランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn, 1556?~1623)やメルヒオール・ファン・サントフォール(Melchior van Santvoort, 1570?~1641)、ヤコブ・クワッケルナック(Jacob Quaeckernaeck, ?~1606)など7〜8名が江戸や浦賀近辺に屋敷を与えられて定住したと言われている。知られているようにヤン・ヨーステンはアダムスと同様に家康に重用され、江戸に屋敷を拝領している。今の八重洲という地名は彼の名前から来ている。このように家康にとって、眼前の関ヶ原の戦いや、その次の豊臣家との最終決戦である大坂の陣を控え、僥倖とも言える形で転がり込んできた、西欧の最新の知識や技術をもったいわばテクノクラート集団は貴重であった。航海士は航法だけでなく数学や天文学、地理の知識を持ったイノベーティヴな技術者である。もちろん世界の海を航海してきた実績を有す。そしてそのほかにも砲術師や船大工も得難い人材である。しかも大量の大砲や鉄砲とともにあるわけだ。彼らは漂着直後は疑いの目で見られて牢獄に繋がれたが、解放され浦賀に曳航、係留されていたボロ船リーフデ号に集団で暮らしていた。やがて彼らは洋式帆船の建造に駆り出されて家康に重用される。また当時はスペイン/ポルトガルの宣教師たちが海外情報をほぼ独占していた時代である。これに危機感を持っていた家康にとって布教に関心を寄せない(しかもヨーロッパにおいてカトリック国に対抗しているプロテスタント国出身だという)あらたな情報ソース、海外ウィンドウは外交戦略的にも有用であった。この頃から彼らにはそれぞれに屋敷が用意され、日本への定住を促すために配偶者を世話されるようになる。アダムスやヨーステンのように旗本に取り立てられ「サムライ」となるものも出てきたわけだ。その一方、彼らは容易に帰国が許されない状況になってゆく。

アダムス/按針には日本とイングランドに家族がいた。江戸の日本橋に屋敷を拝領したころに結婚したようだ。相手は大伝馬町の下級役人「馬込勘解由」の娘「おゆき」とされるが、確かな資料は残っていないようだ。その妻「おゆき」との間に長男ジョセフと長女スザンナの二人をもうけた。そのほかに平戸に婚外子がいたというが、その詳細は不明だ。ジョセフは父の仕事を継ぎ、平戸を拠点とする朱印船貿易に従事した。またアダムス/按針の死後、母とともに三浦半島の逸見の領地の相続を安堵され、また日本橋の屋敷も保持していたようだ。ジョセフは英国商館長コックスのサポートを受け、父、三浦按針の名を継ぎ、いわば「三浦按針2世」として朱印状貿易に従事した。英国商館が平戸から1623年に撤退するとコックスも日本を離れ、後ろ盾を失ったジョセフは、オランダ商館や末次平蔵、茶屋四郎次郎などの日本人豪商とともに平戸や長崎で貿易商人として活躍した。しかし、晩年の消息は明らかにはなっていない。いわゆる一連の鎖国政策のもと、多くバテレンや外国人、その家族となった日本人や子供たちが国外追放された苦難の時代へと転換していったことから、日本には残らなかったのかもしれない。しかし英国へ渡ったという記録も残っていないようだ。あるいは日本人と認められ日本に残った可能性もある。だとすれば現在まで血統が続いていて子孫/末裔がいるのかも。ただ三浦半島の逸見の領地はその後別の旗本の領地になったので、ジョセフは他界し、相続する子孫もいなかったのかもしれない。私人としての生涯を物語る記録がない。またイングランドに残してきた妻メアリー・ハインとの間に二人の子がいた。長女デリヴァランスともう一人男の子がいたようだがこちらは消息がわかっていない。娘のデリヴァランスはその後結婚し子をもうけた。アダムス/按針の孫だ。したがってその末裔がイングランドにいた(いる)可能性がないとは言えない。現在、イングランドにはアダムスの子孫であると自称する人が複数いるそうだが、いずれも言い伝えで確かな証拠があるわけではない。こうしたアダムス/按針の家族のことは平戸の英国商館を通じた手紙や商館日誌で断片的に知られているが、どれもそれ以上の詳細な状況はわかってない。特に商館長のコックスはアダムス/按針と親しく、アダムス一家(アダムス夫人、ジョセフ、スザンナ)とも家族ぐるみで交流があった。江戸参府時には日本橋の按針屋敷や三浦半島逸見の館を訪問している。しかし、平戸の商館撤退後、コックスは帰国途上のインド洋上で病死し、故国イングランドには帰りついていない。したがって日本でのアダムス一家の状況を故国に伝えることは叶わなかった。今後、アダムス/按針の子孫、末裔に関する新たな資料や情報が発見されることを期待したいものだ。

このようにアダムス/按針は日本で家族を持ったが、片時もイングランドに残してきた家族のことを忘れたことはなかったと言われている。せっせと妻メアリーに手紙を書き、生活費を東インド会社を通じて送金し、平戸に寄港する母国の船にこれらを託した。そして機会あるごとに帰国を望んだ。しかし結果的には彼の生まれ故郷、家族の待つケント州ギリンガムに帰ることは叶わないまま平戸に没した。波乱万丈、劇的な生涯である。確かにイングランドに戻っても、日本にいるときのような領地/領民を与えられ、旗本としての特権的地位を与えられるという、まるで(若き日の彼にとって無縁の存在であった)イングランド貴族のような生活は望むべくもない。また、困難は伴うものの航海者として冒険的商人として、平戸を拠点に東洋の海を駆け巡る仕事は魅力的でもあっただろう。一方、望郷の念止みがたし。残してきた妻や子供たちへの想い絶ち難し。彼が奇しくも果たした歴史的な役割の重要性とは別に、一人の人間としての苦難と懊悩、ジレンマは、我々の思いの及ぶところではない。

アダムス/按針にゆかりの地は、このほかにも三浦半島の逸見に領地を与えられたので、京急辺見駅、安針塚にゆかりの地がある。ここには夫妻の墓がある。また、アダムス/安針が家康に請われて洋式帆船を建造した伊豆伊東の松川河口にもドック跡と記念碑がある。そしてその後移り住んだ肥前平戸では朱印船貿易で活躍し、オランダ商館のほか、彼も一時期所属した英国商館など多くのゆかりの場所がある。望郷の念に駆られつつもついに帰国することなく「さむらいウィリアムス」として生涯を終えた終焉の地である。ここに彼の墓がある。もちろん彼の数奇な運命の始まりとなったリーフデ号漂着の地、豊後臼杵の佐志生にも記念碑がある。また彼の生まれ故郷であるイングランド・ケント州ギリンガムにも、それぞれぜひ訪れてみたいものだ。


(参考文献)
「三浦按針 その生涯と時代」森良和著 東京堂出版  2020年
「SAMURAI WILLIAM The Englishman Who Opened Japan」Giles Milton  Farmer, Straus and Giroux  2002



石碑の全体
小さいが立派なモニュメントだ
英文と和文で彼の事績が刻まれている


江戸古地図には「あんじん丁」とあるが、その後昭和初期までは「按針通り」。そして現在は日本橋室町と改称されている。「按針通り」は通称として使用されている。



ビルとビルの間にひっそり佇む
これじゃあ見つけにくい

按針通り
正面は日本橋三越
折しも「三越英国フェアー」開催中である

日本橋三越
1673年(延宝元年)伊勢の商人三井高利が日本橋に開いた呉服店「越後屋」を起源とする



江戸初期にあったと考えられる三浦按針の屋敷の位置は古地図上で確認できる。これは文化12年(1815年)の「古代御江戸絵図」である。このころは古地図の復刻ブームであったようで版元は江戸の蘭香堂である。もとの地図はは寛永9年(1632年)「武州豊島郡江戸庄図」。これを複製したものであり、「明暦の大火」以前の江戸の姿を伝える現存の江戸全図としては最も古いものと言われている。地図には消失前の江戸城の天守閣も描かれている。日本橋あたりをクロースアップしてよく見ると「日本ばし」の右に「あんじん丁」の表示がある。現在の石碑が設置されている場所である。1632年といえばアダムス/按針が平戸で亡くなった1620年から12年ほど後の地図である。この屋敷がその子ジョセフに相続され、実際に住まわれていたが、いつ頃まで「按針屋敷」であったのか不明である。少なくとも町の名前としては残っていることがわかる。

(参考文献)
「地図で読む江戸時代」山下和正著 柏書房 1998年初版



寛永9年(1632年)の「武州豊島郡江戸庄図」
復刻版「古代御江戸絵図」文化12年(1815年)


ウィリアム・アダムス:William Adams
三浦按針肖像
いつの頃のものか明らかでない



Google Map: 東京都中央区日本橋室町1−10「按針通り」