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2026年7月22日水曜日

2026年夏 里帰りの旅(3)太宰府天満宮 〜修復なった御本殿での「朝拝」に心洗われるの巻〜

 太宰府。訪問の前の週は39℃を記録し、日本一暑い街となった。今週も猛暑かと警戒したが、幸いにも多少気温が和らいでくれた。それでも暑い。インバウンドでごった返す表参道。「お餅焼けとりますよ、休んで行かっしゃれんね〜」の梅ヶ枝餅の店。そんな昔ながらの店がだんだん姿を消して、今時のファーストフード、ソフォトクリームやクレープの店など、立ち食い店が増えた。路上にゴミが散乱する。老舗の骨董民芸品を扱う店がなくなっているのにも驚いた。なんだか原宿表参道、いや竹下通りの太宰府版、と言う風情でうんざりしてしまう。そういえば古民家建築の商家もいくつかが取り壊されて建て替えられている。太宰府はオーバーツーリズム問題を抱える代表的観光地の一つになってしまった。


光明禅寺の路地

しかし一歩路地を入るとそこにはかつての静かな太宰府の佇まいが残されている。光明禅寺前の小径は静謐でいつも落ち着く。その門前に一軒の昔ながらの茶店。老夫婦が梅ヶ枝餅とかき氷を出してくれる。暑い時に静かな小径でかき氷という至福。嬉しい。「お餅も焼けてますよ」と。もちろんいただく。熱いお茶とかき氷と梅ヶ枝餅。穏やかなお店のご主人と女将さん。「私らは表参道のような賑やかな場所では店やりきらんですもんね」。「ここがよか。昭和な店でっしょ(笑)」と。このタイムカプセルのようなお店を残してくれて感謝です。ちなみに光明禅寺は石庭「一滴海の庭」で名高い禅宗の古刹である。残念なことに茶店のご主人の話だと、最近住職の体調不良で、公開を控えているとのこと。早く回復されることを祈る。


「古香庵」

天満宮の余香殿向かいに「古香庵」という懐石料理店があった。昔はとある著名な書道家の別邸だったところだ。数寄屋作りの邸宅と庭園がコンパクトにまとまった風情ある店であった。それが今回行ってみると「古民家ホテル」に変わっていた。少し離れた連歌屋通りの別の料亭と商家だったところもリノベした宿泊施設に。一棟貸しの古民家滞在型のホテルだ。。そこに泊まった。伝統的な建築と庭園に大きな改造を加えることなく、室内に檜風呂や快適なベッドルームを違和感なく取り入れている。なかなか趣があって良かった。太宰府にこのような古民家資源があったのだと再発見した。それをうまく活かした宿泊施設。何よりも取り壊されなくてよかった。そういえば太宰府には宿泊施設がなかった。参拝客や観光客は西鉄電車でやってきて、天満宮に参拝すると、参道で梅ヶ枝餅食べたりお土産買ったりして、また電車で帰ってゆく。地元に落ちるお金はそんなものだった。古都太宰府を楽しむ。太宰府政庁跡、観世音寺、戒壇院。水城へも足を伸ばし歴史を偲ぶ。そんな余裕が生まれる。少し事情が変わってきたようだ。悪くない。


再建なった御本殿

天満宮の御本殿は長く修復工事のため見ることができなかった。代わりに極めて斬新な仮殿が設けられていたが、今回はそれが撤去され、いよいよ修復なった本殿が姿を現した。美しい朱塗りの建物が見事に復元された。あの屋根が森になっていた仮殿も良かったので、それがどうなったのか気になる。壊したのか?勿体無い... 道真公の直系の子孫、西高辻家は代々、伝統と革新を旨とする家系だ。幕末に京都から亡命してきた「七卿落ち」をかくまい、薩摩、長州、土佐、筑前の勤王の志士を庇護した。現代の当主は革新的な芸術表現を仮殿に大胆に取り入れた。大阪万博の円形回廊を設計した事務所の作品だという。また折々に境内を舞台に芸術祭を開催している。そんな中、伝統的な建築様式の御本殿が再び!


朝拝

その御本殿で、朝8時半。天満宮の「朝拝」に参列した。観光客で混み合うことはなく参拝者は地元の人が多い。これを日課にしているのであろう。神官さんにお祓いをしてもらう。心が洗われる。煩悩が振り払われ悟りに至る気分。神社で「悟り」?、いやおかしくないのだ。もともとここは道真公を埋葬し、その菩提を弔うために建立された安楽寺である。それがのちに安楽寺天満宮、太宰府天満宮となった。今も御本殿の某所にご遺骸が安置されている。神仏習合は日本の文化。そういえば天満宮境内に創建された禅寺「光明禅寺」も横岳の禅寺「崇福寺」(のちに博多に移され筑前国主黒田氏の菩提寺となる)も天満宮の神護寺なのだ。鎌倉時代、博多とともに太宰府は禅宗が盛んであった。

早朝の天満宮境内は静謐で清々しい。樹齢1500年の楠の古木が日差しを覆ってくれている。もともと天満宮は楠の原始林に創建された。境内を神官、巫女さんが綺麗に掃き清める、御本殿、拝殿、回廊の朝の掃除。その後に「朝拝」。かつて太宰府に住んでいたこともあるのに、雪降り積もる余香殿で成人式をやってもらったのに。この歳になって初めて朝拝のお祓いを受けた。久しぶりの里帰りで太宰府の聖地としての尊さに改めて気付かされた。観光客でごった返す太宰府も一つの姿だが、この聖域の神々しさこそ太宰府なのだ。故郷はありがたい。


修復なった御本殿


朝拝

参拝者へのお祓い

朝の清掃と準備に余念がない巫女さんたち

神官さんも御出仕

整いました

3年前に本殿修復工事が始まり「仮殿」が設けられた(2023年10月の写真)




推定樹齢1500年の樟の大木

参道の賑わい

御神牛との「インスタ映え」行列

参道の喧騒を離れるとこんな落ち着いた小径が

梅ヶ枝餅

かき氷


光明禅寺

九州国立博物館



(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA 20-200/3.5-6.3 DG)


2026年7月21日火曜日

2026年夏 里帰りの旅(2)水郷柳川 〜「よみがえり」の街で川下りとうなぎ蒸篭蒸しを堪能するの巻〜

柳川は城下町である。秀吉の九州平定に功績のあった立花宗茂が、南筑後13万石の領主となり柳河城(かつては柳ではなくこのように表記した)に入城した。宗茂は、島津勢の猛攻に抵抗し、岩屋城(四王寺山)で壮絶な討ち死にした猛将、高橋紹運の実子で、やはり九州の実力者、立花道雪の養子(誾千代の婿)となった。すなわち筑紫に武勇を轟かせたの名門一族の出である。しかし1600年の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に着き、家康に所領を没収された。一方で関ヶ原で東軍に功績(石田三成を捕縛した)のあった田中吉政が、三河岡崎から筑後32万石領主として柳河に入城。一国一城の主となった。柳川では堀割り整備、天守構築、矢部川の治水、有明湾の干拓、堤防整備などの城下町としての基礎を整えた。「堀割り」「どんこ舟」「水郷柳川」のイメージは吉政によって形成されたと言って良い。しかし田中氏は後継がなく断絶。家康は浪人となっていた旧領主の立花宗茂の人格識見を高く評価し、再び国守に取り立てる。立花宗茂は柳河10万石の大名として旧領に返り咲く。以降明治の廃藩置県まで立花氏がこの地を治めた。立花家別邸「松濤館」は「御花」として当主子孫により経営されて現在に至っている。こんな立花宗茂のエピソードから、柳川は「よみがえり」「敗者復活」の街として縁起担ぎにも人気がある。

田中吉政は豊臣秀次の家老として近江八幡の街づくりに活躍した。のちに三河岡崎5万石(のちに10万石に加増)の城主となり、岡崎のまちづくりにも貢献した。いずれの地においても低湿地の埋め立て、堀割り構築、街道の付け方などを行い、水運、陸運を縦横に整備し城下町としての機能を高めるインフラ整備を行なった。近江八幡の八幡堀あたりの景観が柳川を彷彿とさせるのには理由があった。これらの吉政の都市設計思想がのちの柳川の街づくりに大きな影響を与えた。

柳川は、元々は干満差の大きい有明海の干潟であったところで、吉政は干拓により農地や居住地を確保。街中に張り巡らされた堀割り、クリークは、矢部川や筑後川に繋げて海水が混じらない生活用水確保と水運として必須のインフラであった。その全長は930キロに及ぶという。水郷柳川の基礎を築いた田中吉政の功績は大きい。彼は近江八幡でも琵琶湖からの水を引き堀割りを巡らした街作りをしており、その経験が柳川に生かされた。また周辺の街道の整備を行い陸路での通行にもにも力を入れた。今は堀割りが交通手段や生活用水として使われることは無くなった。一時期、放置され水質汚染が進み、ドブ川と化しつつあった堀割りを埋め立てて道路にしようという計画が持ち上がったそうだ。しかし地元の人々の反対運動で、堀割りが残され、水質浄化運動が進められ、現在のような「水郷柳川」が残されたわけだ。そのシンボル「川下り」が全国、全世界の人々に愛されるようになった。この辺りの「街づくり」エピソードも近江八幡のそれと共通するものがある。

一方で、明治維新、廃藩置県、版籍奉還により、各地の藩主、大名が華族となり多くが旧領国を離れ東京に引っ越していった中で、立花家は華族となったのちも柳川に屋敷を構え、洋館を建設し地元に住まった。城は破却されて残らなかったが、これが「松濤館」「松濤庭園」のちに「御花」として地元に残った。現在では柳川のシンボルとなり、田中氏の「堀割り」と共に地元に大きなレガシーを残してくれた。立花宗茂と田中吉政。この二人のお殿様が建設し育てた柳川である。


「うなぎの蒸籠蒸し」の思い出。 

父が大好きだった柳川独特の味。もちろん私の大好物でもある。ご飯にタレをまぶして蒸す。そしてうなぎの蒲焼と錦糸卵を乗せてふたたび蒸す。故に注文から出てくるまでに時間がかかるが、タレがしっかり染み込んだご飯と肉厚の蒲焼。最後まで熱々で食べられる絶品!朱塗りの器の中に蒸しあがったばかりの蒸篭が収められている。市内に何店かあるが、我が家は若松屋によく行った。本吉屋も老舗。御花でも庭園を眺めながら楽しむことができる。東京や大阪では、鰻屋はあるが、蒸籠蒸しを出す店がなく、父が「柳川の蒸籠蒸し食べたいなあ」と懐かしがっていた。うなぎと柳川。いつ頃から有名になったのか実はあまりはっきりしていないようだ。いくつかの記録によると江戸時代末期から柳川のうなぎの取引が上方でも行われていたようで、地元でも郷土の料理として漁師仲間で振る舞われたらしい。また蒸篭で蒸すというスタイルがなぜ始まったのかも「冷めにくいから」と言うウンチクらしくない説明しか聞こえてこない。東京や大阪でなぜ流行らないのかも「なるほどガッテン!」と言う解説がない。調理に時間がかかるのでセッカチ、イラチには向かないのだろう。いずれにせよ「うなぎの蒸籠蒸し」は柳川に来なければ味わえない。

ちなみに柳川は、詩人、北原白秋を産んだ街でもある。今回は時間がなく「白秋記念館」には寄れなかった。


「御花」横の川下り乗り場

船頭さんの名調子

孫も竿を持たせてもらう

低い橋をくぐる準備



夏雲

殿の蔵

堀割りから見るうなぎ蒸篭蒸の老舗「若松屋」行列ができている。



立花家別邸「松濤館」別名「御花」

白亜の洋館と漆黒の和館



松濤園




さげもん



うなぎ蒸籠蒸し


(撮影機材:Leica SL3 Reporter + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG)




2026年7月20日月曜日

2026年夏 里帰りの旅(1)博多祇園山笠 〜「山のぼせ」の博多で思わず涙するの巻〜

集団山見せ


 博多祇園山笠の起源については諸説あるようだが、「京都祇園社の御霊会のご祭神スサノヲを勧請して始めた説」。「承天寺の開祖、聖一國師が疫病除けのため水を撒いて練り歩いた説」がある。山笠振興会の公式説はこの後者を取っているそうだ。櫛田神社は博多総鎮守。祇園精舎は仏教、スサノヲ尊は神道。聖一國師は承天寺の開祖。神仏習合時代の祭りなのだ。「山笠」は北部九州の神社の祭礼に特徴的に用いられる神輿。山車(だし)のような祭具、それを中心とした祭りを言い、博多以外にも戸畑の提灯山笠や黒崎祇園山笠が有名。津屋崎、唐津など北部九州一帯にも祇園山笠がある。

博多祇園山笠はユネスコの世界無形文化遺産にも登録されている。重さ1トンの山を担いで走る「舁き山(かきやま)」(動)と、博多人形師が制作する高さ10メートルを超える豪華絢爛な見る「飾り山」(静)という二つのスタイルが楽しめる。「舁き山」も「飾り山」も、各町内(流れ)毎に、博多人形師の技と豪華さと歴史的な名場面を競う。そういう点では京都の祇園祭の「山鉾」とルーツは同じなのだろう。どちらも疫病退治である点も同じだ。博多の夏の風物詩である。

一番山笠:中洲流

二番山笠:西流

三番山笠」千代流

四番山笠:恵比須流

五番山笠:土居流

六番山笠:大黒流

七番山笠:東流

加えて八番山笠:上川端流の「飾り山」が追い山に参加する。

福岡部の新天町は「飾り山」のみ

なおこの順番は、籤によって決まり、毎年変わる。


博多の「流れ」(「クロスロード福岡」から引用)


7月13日の「集団山見せ」が壮観だ。七流れの舁山が博多の呉服町から明治通り(昔の電車道)を通り、福岡天神を折り返して呉服町へ戻る。「追い山」のような時間を競う競争ではないので全力疾走はなく、ゆったり(といっても小走りで)とパレードする感覚なので、勇壮と言うよりも博多人形師の工芸品に飾られた山の豪華さと、男たちの締め込み姿の勇姿をゆっくり鑑賞できる。それでも沿道から力水が盛大に撒かれ、時に観客も飛沫を浴びるという夏の祭りにふさわしい。伴走には子供から女の子から、父親に抱かれた赤ちゃんまで参加できる。みんな締め込み姿である。そして全員壮大に水を浴びせられる。泣いてる子供などいない。みんなびしょびしょになりながらも元気な顔が輝いている。「博多っ子」はこうして育てられる。ちなみに、この「集団山見せ」の時だけ「舁き山」が橋を渡って福岡部に入る。かつては「舁き山」は博多部のみを回っていたが、福岡市全体の祭りということで天神まで「脚を伸ばす」ことになったようだ。新天町に「飾り山」が置かれるようになったのもそういう理由のようだ。

7月15日早朝4時59分から最大の見せ場である「櫛田入り」と、「清道旗」回り。「祝いめでたの若松さま」斉唱。そして太鼓の合図とともに櫛田神社から博多の街へ繰り出す「追い山」が祭りのクライマックス。七流れの「舁き山」の競争である。1トンの山を担ぎ走るタイムレース。男の祭りなので、担ぎ手は全員が締め込み姿の男たちだ。山笠は博多っ子でなくても血が騒ぐ。学生の頃、同級生の友人が最終日の追い山の担ぎ手の一人になった。まだうす暗い早朝4時過ぎに櫛田神社に向かい、舁き山が大博通りに出たところで盛大に勢い水をかけた覚えがある。終わって帰ってきた友人は、「いっぱい水飲んバイ!」とゲーゲー喚いていた。しかしいつもの彼とは違う生き生きとした「博多っ子」の姿に「福岡っ子」の私はうらやましく感じたものだ。

この季節は、博多の男たちは仕事、商売そっちのけ。山笠一本。いわゆる「山のぼせ」である。その間は御寮人さん(奥さん)が商売を取り仕切る。これが昔からの博多の商家の伝統だ。「山笠のあるけん博多たい」。博多の夏だ。今回の里帰りでその「山のぼせ」の博多にしばし身を置くことができ、あの時の自分に戻った感じがした。なんだか感極まって思わず涙が出てしまった。今回は初めて孫と博多祇園山笠を楽しんだ。「ニューヨークっ子」の我が孫は、山の豪華さと、水しぶきと威勢の良さにびっくりしながら眺めていたが、祭りの興奮は世界共通。舁き山が通り抜けるたびに大きな歓声を上げ続けていた。じいじの故郷を楽しんでくれたようだ。良い思い出になってくれると嬉しい。我が故郷、福岡・博多。故郷は良きものなり。感謝。


六番山笠「大黒流」

男の子も女の子も締め込み姿で参加する「博多っ子」



赤ちゃんも参加 これも博多っ子!



三番山笠「千代流」





橋を渡って福岡部に入る「舁き山」(「集団山見せ」の時だけ)

締め込み姿

子供用「山笠キット」


一番山笠:中洲流

地下鉄「中洲川端駅」

川端通商店街


六番山笠:大黒流(出走中)


唯一福岡部にある 「飾り山」のみの新天町


(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA 20-200/3.5-6.3DG)