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| 岩波版『漱石全集』 |
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| 『文学評論』縮刷版初版(大正4年春陽堂刊) |
小泉八雲と夏目漱石の帝大英文学講義
夏目漱石が小泉八雲の帝大での英文科教師の後任であったこと、そして前任の八雲の講義が学生に人気であったのに比して、漱石の講義が極めて評判が悪かったことは、以前のブログでも紹介した。そのことがずっと引っかかっていた。何がそんなに違っていたのか。なぜそのような反応になったのか。そもそも八雲と漱石の講義とはどのようなものだったのか。稀代の二人の文豪の文学観の違い。それとも別の理由なのか。文学的素養もなく英文学者でもない私が、八雲と漱石の文学観について論評するなど、笑止千万な振る舞いなのだが、ただやっぱり気になる。幸いにもこの両講義の記録が、のちに出版されており、今、我々が読むことができる。ということでちょっと覗いてみた。
ちなみに二人の帝大での講義は次のような時間割であった。
八雲:1896年(明治29年)9月〜1903年(明治36年)3月までの6年半。 週12時間(原書購読5時間、英文学論3時間、英文学史4時間)驚くような時間割だ!
漱石:1903年(明治36年)9月〜1905年(明治38年)5月までの1年半。1905年(明治38年)9月〜1907年(明治40年)3月までの1年半。 それぞれ週3時間。まあ妥当な時間割か。
八雲は週12時間も講義していたのか!御雇外国人で給料も高いとはいえ、ちょっと過酷な労働条件。準備も大変だっただろう。それをこなして、しかも人気があったというのは驚きだ。
小泉八雲の講義録
『英文学史:A History of English Literature』『詩人論:On Poets』『詩論:On Poetry』1927年(昭和12年)北星堂刊行の3編としてまとめられ出版されている。
八雲没後、聴講した学生が筆記した講義ノートを、教え子たちによって編纂、発刊したもの。英文学史を通史として俯瞰的に捉え、しかし各章を詳細に講じているが、八雲独自の評価軸で韻文、詩、戯曲、散文、小説を解説している。英文の著作であるが、読みやすい。
『英文学史』の詳細は以前のブログを参照 古書を巡る旅(69)小泉八雲『英文学史』〜東大講義録〜
夏目漱石の講義録
『文学論』『文学評論』の2篇にまとめられ出版されている。。
1)『文学論』明治40年5月大倉書店刊行
明治36年9月から週3時間の講義が続き、明治38年5月に終わった。ちょうど小泉八雲の英文学講義の後を引き継ぐ形で始まった。この後、明治38年9月に新学期から始めた講義「十八世紀英文学」は、2)の「文学評論」として刊行された。
本書は、夏目金之助署名で明治39年11月に「序文」を書いているが、創作活動に忙しく「未定稿」であるとしている。原稿の整理、校正、改訂・増補をまとめ、実際に出版を手掛けたのは教え子の中川芳太郎である。序文はあるものの漱石のお墨付きを得た著作となっているかどうか議論がある。
ロンドン留学時代の膨大なノートを基に漱石独自の視点でまとめた「文学論」。分析的で理論的。F+f(認識的要素+情緒的要素)なる形式を用いて文学を解析し構造や表現を説明するなど、八雲の叙情とは異なる講義、論文である。イギリス経験論哲学、ニュートンの自然哲学、あるいはドイツ観念哲学の影響下に、文学を科学(文芸科学)として理解しようという試みである。また、英文学、仏文学、中国文学、日本文学といった「地方的」な区分から脱して、世界人類に共通する問題の究明、文芸としてその法則を求めるという「コスモポリタン」な学問を目指したとしている。そもそも文学はどのような必要があってこの世に生まれたのか。社会に文学は必要なのか。「十年計画」で文学論構築を試みるために、膨大な著作を読み込み、西洋文学と日本文学を繋ぐ迫力に満ちたものではある。しかし、帰国後は、直ちに帝大英文科教師として講義を持つことになり、文学という大海の一滴に接したに過ぎないにも関わらず「急遽」講義録をまとめることになった。しかも出版社の依頼でこれを刊行することになった。本書は、先述のように、漱石自身が最終的に書いたものではないし、また、日本に帰り創作意欲に満ちていた当時の漱石にはそんな大学の研究論文(学理的閑文)に手を入れる暇も意欲もなかった。したがって、序文で認める通り未定稿な著作となってしまった。「十年計画」は道半ばで挫折したと言って良いだろう。学生にとっては八雲のロマンあふれる講義の方が感銘を受けたに違いない。
2)『文学評論』明治42年春陽堂刊行(縮刷版は大正4年刊行)
先の講義に続き、「十八世紀イギリス文学」として明治38年9月から明治40年3月までの1年半、週3時間の講義ノートとして書かれたもの。
本書は夏目漱石として短い「序」を書いている。先行の『文学論』と違い、こちらは自ら執筆している。やはり創作活動が忙しくなり、なかなか出版に至らなかった言い訳も書いている。
漱石は、これは文学史として書いたものではなく彼の文学論の一環として講義し、著作化したものと位置付けているが、明らかに文学史的分析、解説を試みたものである。十八世紀英文学の背景として次のような解説を試みている。哲学思想としては ジョン・ロック。バークレー、デイヴィッド・ヒュームを取り上げている。政治情勢としては アン女王治世 王党、民党の対立 政治の腐敗を紹介している。芸術活動として、ヘンデル、ホガース、レイノルズを取り上げている(漱石はこの方面は専門ではないと言い訳している)。一方で、この頃盛んであったクラブ、コーヒーハウス、タヴァーン文化が文学に与えた影響に言及。また当時のロンドンや地方、市民の姿を紹介している。
このように十八世紀イギリス文学の時代背景を述べ、彼のもう一つの著作『文学論』のなかで十分に考察し得なかった「文学論としての英文学史」を展開しようとした。しかし、哲学思想としてイギリス経験主義のロック、バークレー、ヒュームを挙げているが、時代の画期となったニュートンの自然科学、スミスの社会科学への考察がない。そして重商主義から自由貿易主義へと遷移する中で生まれた中産階級の台頭と、科学技術の飛躍的進化から生まれた産業革命という経済・社会基盤の大変化。アメリカ植民地独立、フランス革命などの歴史の画期の文学への影響をどう評価したのか?十八世紀は、十七世紀の革命の時代を経て「大英帝国」が芽生えた世紀。漱石が見た十九世紀末の最盛期のイギリスの前史。そのような文学的背景を十分説明し切れているのだろうか。
彼は、この時代の代表的な文学者としてアチソン&スティール、スウィフト、ポープ、デフォーを取り上げている。確かに時代が産んだジャーナリズム、散文、詩文、そして風刺小説のスターたちだ。漱石は、彼らが生まれた時代背景分析から作品を読み解くのではなく、彼らの作品を通じて18世紀イギリスを読み解いている。文学表現がどのように時代を描き出すのか。その表現方法や手腕を論評している。漱石らしいウイットに富んだ論評である。この講義は学生に受けたのではないかと思う。しかしサミュエル・ジョンソン、エドマンド・バークは?ローレンス・スターンは?彼らについて漱石の評論を聞きたいものだ。ちなみに八雲はこの時代を「ポープからジョンソンの時代」とし、現代英語で読める作品が生まれ、詩や劇詩、戯曲に加え、散文作品、小説が生まれた時代、と評している。
ただ、哲学史、政治思想史、経済史、社会風俗を、漱石自身が専門家として分析することはできなかったであろうし、十八世紀ギリス文学、その全容と背景を一人の日本人が評価することの限界は漱石自身認めているところである。したがって4人の文豪を選び、その文学作品を詳しく評論することによって漱石自身の文学論を掘り下げることが究極の目的であっただろう。しかし、やはり「十八世紀文学史」としては十分とは言い切れないだろう、「いやこれは文学論である」と言う主張は、八雲の講義を意識したわけではないだろうが、若干言い訳に聞こえる。やや未完成な講義、著作ではないだろうか。それは漱石にとっても不本意なものであったに違いない
なぜ漱石の講義は学生に人気がなかったのか?
八雲は講義録を準備しなかった。メモを見ながら滔々と英文学を講じた。しかも週12時間もである。もちろん英語で講じた。たちまち教室が英文学の叙情に満ち溢れ、学生は聴き惚れた。彼独自の再話文学や詩文に用いられた音感による文学表現といったものであろう。本書は学生の講義ノートをのちにまとめたもので英文で書かれている。そこに聴講した学生の感動が滲み出ている。
漱石の「不愉快」と「神経衰弱」は何を産んだのか
このように極めて粗略ではあるが、漱石の講義と講義録を一瞥してみた。そこから何が読み取れるのか?そもそも漱石は行きたくてロンドンに留学したわけではなく、「最も不愉快な2年間であった」とまで言っている。官命で帝大の英語教師となるべく留学したのだが、自分の中では語学を学ぶ目的で行ったわけでもないし英文学を学ぶためでもない。文学修行、文学論の組み立てが目的であった。したがって大学の講義は聞かず個人教授について膨大な数の文学書を読んだが、それでもまだ、自分が触れることができたのは大海の一滴に過ぎないと自覚した。異国の地で神経衰弱(ノイローゼ)になって苦しむ。そこで自然科学研究の合理性に触れたこともまた大きな影響を与えたが、これがむしろ自己矛盾を生むきっかけとなったのではないか。また帰国後帝大の教師につくのも、(糊口を凌ぐための)一高教師の職は別として、自分が望んだわけではない、それこそ「不愉快」な時間であったと言っている。そもそも学者には向かないと序文で息巻いている。したがって講義に力が入ったとも思えない。事実体調不良で欠講も多かった。「人は神経衰弱だとか狂人だとかいう。家族、親戚までそういう。しかしその神経衰弱と狂人のおかげで「猫」や「漾虚集」が生まれたと思えば深く感謝の意を表す」と。むしろ創作意欲が沸々と湧き出る時期であったから、この神経衰弱は「命のあらんほど永続すべし」と自嘲気味に語っている。さすが漱石も「不愉快なロンドン」で英国流のウイットは身につけたようだ。もともと「てやんでいべらぼうめ」の江戸っ子である。しかし、序文で「この神経衰弱と狂気は「学理的閑文字」を労するためのものではなく、そんな余裕を与えないので、この『文学論』がこの種の唯一の記念になるもので、価値乏しきものではあるが出版社に手を煩わすに足る仕事なるべし」と皮肉っぽく結んでいる。そんな講義が学生に不評であったのも宜なるかなである。
八雲も自分は学者ではないと自認していたが、漱石はさらに学者、教師というよりは、やはり小説家としてのプロファイルが上回っている。八雲はギリシア、アイルランド、フランス、アメリカや西インド諸島、日本という、異なる土地と異文化から多くのインスパイアーを受けた。異文化の中に人類共通の感情や詩情を見出し、その「普遍性」を描き表した。啓示的でもあるが哲学的でもある。特に出雲松江で得た霊的体験とインスピレーションが彼を作家として熟成させた。漱石は松山にも熊本にもロンドンにも「不愉快」の一言しか出てこなかった。もちろん帝大教授などというポジションも「不愉快」なオファーに過ぎなかった。のちには博士号授与をも断っている。「栄光ある帝国の臣民という名誉」があるから「不愉快」を我慢しているのだ、という口ぶり。これを「則天去私」というのか。結局は、いわゆる「江戸っ子」の根底にありがちな土着性の表れだったのかもしれぬ。しかし彼はその文学的な啓示をどこで得たのだろう。八雲のような「場所」「異文化」ではなかったようだ。彼が言うように「不愉快」なのか。神経衰弱と狂気、胃潰瘍からか?外的な経験ではなく、内的な感性であったのだろうか。八雲と漱石。ある意味で対照的な文豪であった。しかし共通するのは二人とも膨大な文学作品に接していることだ。しかも、それが研究者としての仕事に資したというよりは、小説家の創造力に資したところも期せずして一致している。
近代合理主義の葛藤
八雲の講義と漱石の講義と、そのどちらが面白かったのか。どう違っていたのか。そしてなぜ漱石の講義は不評だったのか。そうした素朴な関心から、事後に出版されたその時の講義録を、粗略ながら通読してみたのだが、そこに浮かび出る八雲の姿にも漱石の姿にも、学者としてのアイデンティティーは薄いように感じた。特に八雲に見て取れるのは科学的合理性を超えた文学的な情感を尊ぶ姿勢である。むしろ「近代合理主義」への警鐘ですらあっただろう。それを求める明治の若き学生の存在である。そう言う意味で八雲の講義は研究者のそれではなく、文学者としての、いや人間の初源的精神を求める哲学者としてのそれであったし、それを講義で表現した。そこに学生(若者)が共感した。
一方の漱石は、ロンドンで構想した文学への「科学的なアプローチ」を試みたが失敗に終わった。研究者としての道は挫折した。そして彼の志は若者には伝わらなかった。特に八雲の直後であっただけに学生の失望は大きかった。だから大学を辞めた。彼は近代合理主義の一端をイギリスに見、それを自らの文学論に当てはめてみようと模索したが。その試み自体が本当に彼の目指すものであったのか今となっては疑問ですらある。そして創作アイディアと意欲が次々と湧き起こる中、文学論における科学的合理性の追求よりも、小説家の道を極める方向に突き進んだ。理論的分析よりも情感表現である。
二人とも各々の限られた人生の中で試行錯誤を繰り返し、挫折を重ねながらも、最後は「科学者」ではなく「小説家」であり、表現者の道を歩んだ。明治期の知識人に求められたのは、八雲のような「御雇外国人」であれ、漱石のような「官費留学生」であれ、「西欧流近代合理主義」を日本にいち早く移入することであった。期待された役割と自身が求める理想との相剋。この二人の「文豪」を見ていると、そんな知識人の葛藤を見るようである。
参考:漱石の略歴
1867年(慶応3年)生まれ 1916年没
1893年(明治26年)帝大卒業 大学院へ 東京高等師範教師
1895年’明治28年)松山中学教師
1896年(明治29年)第五高等学校英語教師
1900年(明治33年)官費英国留学(五高教師のママ)University Collageを辞め、William James Craig(シェークスピア研究科)個人教授 神経衰弱
1903年(明治36年)帰国
同年 一高、東京帝大講師 (小泉八雲の後任)
学生の評判すこぶる悪し(小泉留任運動、漱石排斥運動)神経衰弱で休講多発
1905年(明治38年)『吾輩は猫である』『ホトトギス』『倫敦塔』(『漾虚集』収録)
1906年(明治39年)『坊ちゃん』
同年から1907年まで英文学論講義(本書が講義録)
1907年(明治40年)帝大を辞め、朝日新聞入社 作家活動に専念
同年 職業作家としての初作品『虞美人草』を朝日新聞に連載『野分』
同年 『文学論』(大倉書店・服部書店)、
1908年(明治41年)『三四郎』朝日新聞連載
1909年(明治42年)東大講義録『文学評論』刊行(春陽堂)
1910年(明治43年)『三四郎』『それから』『門』
同年8月 修善寺の大患 吐血
1911年(明治44年)後期三部作『彼岸過迄』『行人』
1914年(大正3年)『心』朝日新聞連載
1915年(大正4年)『道草』朝日新聞連載
同年 12月『明暗』執筆連載途中で死去(享年49歳10ヶ月)
全集発刊:
1918年に岩波茂雄から第一巻、1919年第十四巻刊行 十回以上の改訂版
岩波版『漱石全集』1993年〜1999年 全二十八巻 別冊一巻)2016年12月より新版刊行


































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