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| 「人間は考える葦である」パスカル これは生成画像ではなく実写(白金自然教育園) |
人間はその歴史の中で、万物の「真理」の源泉はどこにあるのかと問い続けてきた。最初は自然の中にそれを見出し、やがて神が万物の創造主だと考えるようになり、そして人間自身の理性が万物の真理を解き明かす源泉であると考えるようになった。すなわち「神の啓示」から「人間の理性」を独立させた。これが近代合理主義、科学の発展を生み出した。観察、実験、などの実証を元にした合理的思考から得られる知識。まさに「考える人間」こそ世界の中心にあると考えるようになった。やがて人間はその合理主義思想、科学発展の果てにAIを生み出した。これが思わぬ衝撃を与えている。特に生成AIは単に自動化、効率化、省力化の道具ではなくなり、人間の創造的活動、知的活動に取って代わりつつある。我々は、今や「神の啓示」でもなく「人間の理性」でもなく、「AIの集合知」が万物の真理の源泉になるのではないかと危惧している。これは文明を進化なのだろうか。人間の退化なのか。AIに支配されるデストピアは現実になるのか?案外デストピアではなく、ユートピアなのか。AIとの付き合い方をめぐって葛藤している。
AIは人間の「考える」能力を奪うのではないかという危惧
我々は、自らの意思や思考を放棄してAIに依存するようになると、考える能力の低下をもたらすのではないかと危惧し始めている。
1)思考放棄
自分で考えなくなる、あるいは思考能力の衰退、すなわち主体性、自我の喪失 自己表現力の喪失
2)認知能力低下
物事を学習し、記憶し、多様な選択肢を比較、分析し、理解し、判断する能力の衰退
3)結果重視
安易に「結果」のみを重視しプロセスを無視する。予測し、想像することをやめて結果だけを求める。結果に対する批判的検証能力 仮説を立てて検証する、試行錯誤するという問題解決能力が毀損される
4)批判的思考力(クリティカル・シンキング)衰退:
判断、意思決定に必要な、情報の真偽や前提を疑う能力が失われる。「コピペ」による無批判な受け入れで情報を精査する能力が衰え、間違い、思い込みに気が付かなくなる。さらに真の専門性が涵養されない。学問が成り立たなくなる。
17世紀の哲学者パスカルは『パンセ』で「人間は考える葦である」と述べた。人間は水辺の葦のようにひ弱な生き物であるが、他の自然界の生き物と区別するものは「思考すること」である。すなわち思考しなくなった人間は、再びひ弱な水辺の草になるのであろう。「パンセ:Pensees:思索」こそ人間の人間たる所以である。
17世紀イギリスの経験論論哲学の祖であるベーコンは、人間の理性に基づく「知」こそ「力」であるとした。彼の近代合理主義と科学的合理性思想は、知の体系を支配する人間を、あたかも万物の頂点に立つものであるかの如く増長させたのかも知れない。その結果、理性による知が、その知が生み出したテクノロジーによって奪われるとすれば、人間にはどのような「力」が残されるのだろう。
現代の気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは「思考しなくなったら人間は動物に回帰する」と述べている。彼のAI論は後述する(マルクス・ガブリエル「Fobes Japan 」2026年6月24日特集号)
いずれも人間は「考える生き物」であり、その理性と知性が人間の人間たる所以のものだということを言っている。確かに「考えることをやめた」人間には悲観的な未来が待ち受けているであろう。しかし、そんな退化に身を委ねる訳にはいかない。本当にAIは人間の理性や知性を奪うものなのだろうか?AIを人間の知性、理性にとって有益なものとして使うにはどのようにすれば良いのか。人間がただの「か弱い水辺の葦」「ただの動物」に回帰しないようにするためにはどうAIと付き合ってゆけばいいのだろうか。その答えを求めて「思考する」のも人間だ。
そもそもAIとは何かを理解する
マルクス・ガブリエルは、AIと人間の未来をそれほど悲観的に見てはいないようである。AIはそもそも人間が関わらなければ機能しないものである。人間が生成した過去のデータ、情報がなければ何もできない。大規模言語モデルは人間がプロンプト(指示)を与えねば何もしない。プロンプトやAIとのやりとりそのものが人間の知性の表現なのだ。それがなければAIは機能しない。まずこのことを知っておくべきだと。
AIは人間の経験や知識の何億人分もの既存のデータから学ぶことで動く。いわば「集合知」である。しかし、AIには「一人の人間」という観点はない。人間一人一人が持つ「精神的多様性」「個性」あるいは「他者への共感」という前提はない。AIは、過去に学び、既存のものを組み替えて新しいパターンを生み出す能力はあるが、何もないゼロから新しいものを生み出す能力はない。また「ひらめき」のような直感力はない。
AIは人間が入れた言葉、数字、音声、画像の中からパターンを見つけ出して、それを増幅させ、広げる能力に長けている。良い問いを投げ掛ければ良い答えが返ってくる。良い答えのもとは自分が問いかけた良い問いなのである。それは人間の知性の成せる技なのだ。すなわち、マルクス・ガブリエルは、AIによって人間は、「加速する知性:Accelerated Intelligence」「拡げる知性:Augmented Intellibence」「増幅する知性:Amplified Intelligence」を得ることができるとする。AIによって人間の知性、能力を広げ、複雑な社会問題、複合危機:Nested Crisisを解決することもできる。すなわち人間の限界を突破させるツールとして刮目すべきである。それでもあくまで人間が問いかけることが鍵なのだ。AIはほっておいて自律的に考えることはできない。
AIには備わっていない人間固有の能力とは何か?
これはGoogleGeminiによって整理したものに少し追加した。
1)社会的責任能力
AIは結果にいかなる責任を持たない。人間だけが責任を取りうる存在である。
2)自発的目的意識
自らの意思で「何をすべきか」という問いを立てること、目標設定すること。ゼロベースから思考することができる。
3)身体感覚や感情。他者への共感力
文脈、行間を読む力。肌感覚、暗黙知、直感、ひらめき。不完全な状況でも判断し行動する。「空気を読む」などという芸当をすることができる。
4)新たな課題設定能力
既知の問題だけでなく、あるいは答えがある問題ではなく、より本質的な課題を見抜き、適切な問いを設定する。
AIの創造性と人間の創造性の違い
1)AIの創造性
すでにあるものを組み換え、新たな組み合わせを作るという創造性。過去にあるもの、やり方を学ぶことが前提。複雑な社会における法則や相関関係を見つけることは得意。ただしあくまでも人間が使わねば自律的に問題解決は行わない。使う人間の倫理観、道徳感、知性が求められる。
2)人間の創造性
これまでにない新しいものを生み出す力、それを組み合わせて新しい形、スタイルを作ること。学習や経験、感覚により新しい発見を得ること。これは科学的合理性や論理性を学ぶことからではなく、哲学、芸術、文学、社会学、言語学などの人文科学:Humanityを学ぶことによって得られる能力であることが重要。
したがってAIの創造性は、人間の創造性を拡張する。逆に言えば、そのような創造性を人間は涵養すべきで、それがないとAIに盲従することになる。すなわち「AIを使う人間」になるか。「AIに使われる人間」「AIに取って代わられる人間」になるかは、そういった創造性を持ち、学習する人間であるかどうかによって決まる。
「人間中心のAI」:Human Centric AI
マルクス・ガブリエルは「人間中心のAI 」ということを提唱している。「AIが答えを出してくれる」「それを鵜呑みにする」のではなく、AIとの対話を通じて「足りないもの」を補い、「思い込み」「偏見」(ベーコン流に言えば「イドラ」)を取り除き。新たな気づきを得て、そして自己更新してゆく。AIによってより創造的になる。そしてより倫理的になる。両者は深いところで繋がっているので「倫理的知性」を磨く道具になる。さらにAIとの対話す重ねる中で、知性を「加速し」「広げ」「増幅する」ことである。
AIは人間の知性、創造性、倫理性、哲学的思考と相反するものではなく。むしろその主体性を取り戻し、更新するパートナーである。マルクス・ガブリエルはそれを「楽器」に例え、それをどう弾くかはその人次第で、その結果どのような音楽が奏でられるのかはその人の知性、感性や価値観、美意識によって違う。それ自体が創造的な仕事であるという。
日常生活の中でAIとどのように付き合ってゆくか?
日常の生活の中で、自分の思考力を働かせ、拡大するための触媒としてAIを使うにはどうしたら良いのか。そこで求められるのは「問いを立てる力」「結果を評価する力」である。この二つの力を持つ限りAIは格好の思考拡大パートナーとなる。より具体的には、GoogleGeminiは次のような取り組みを提示しているので参考になるだろう。
1)AIに複数案を出させるそれを自分が評価、選択する
2)AIと自分の考えと議論を戦わせ対話を繰り返す
3)AIの答えに自分の個人的な経験や感覚などの「集合知」以外の要素を加える
4)複数のAIを同じテーマで議論させて自分で評価する
このようなAI使いこなし手法を自分なりに編み出してゆくことだ。「楽器」なら弾き手が「楽器」と対話するように。職人のお道具ならそれを手に馴染むものに仕立ててゆくように。AIは使い手次第であるから、使い方の修行も必要だ。
再度繰り返すが、「AIを使う人間」になるか、あるいは「AIに使われる人間」になるのかの違いは、自らの主体性と自我と創造性、そして判断能力を持てるかの違いによる。「考える葦」人間は、考えることを止めて「ひ弱な水辺の植物」に戻るのか。それとも「思考を拡張することで更なる創造性を持った生き物」に進化するのか。AIの出現によって試されている。AIは決して人間から「考える」を奪うのではなく、それを拡張、進化させる道具である。恐れることはない。卑下することもない。受け身になって「思考停止」せずに能動的に使えということだ。
(参考)何度かの対話によりChatGPTに描かせた「思考停止社会」。この風刺イラストの出来栄えの良し悪しはChatGPTというAIの表現力に依拠するのではなく、「プロンプト」と「結果の選択」をした人間のもの。















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