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| 池上梅園入り口 |
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| 福寿草 |
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| 一本の幹から紅梅と白梅が咲く「思いの儘」 |
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| 蝋梅 |
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| 座論梅 |
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この国のなりたちをたどる旅。その心象風景を綴るフォトエッセイ。 旅の相棒はいつも写真機。
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| 蝋梅 |
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| 表紙 |
| 初版本を正確に復元したファクシミリ版 |
| オランダ連合東インド会社社章 |
アジアの女神の足元で、ポルトガル人と争う姿(左)と魅力的な財物に群がるオランダ人(右)が描かれている |
イザーク・コメリン:Isaac Commeline (1598〜1696年)
「東インド会社の起源と発展」:Begin Ende Voortgangh van de Oost Indische Compagnie 全4巻1644初版〜1646年三版
編者のコメリンはアムステルダムの著述家であり出版事業者である。本書は、オランダ人の数々の航海を年代順に編纂したアジア航海記録集とオランダ東インド会社の内部資料に基づく活動記録集である。前者はすでに刊行されていたものを含むが、後者は、非公開であったはずのオランダ東インド会社の内部文書が含まれている。いわば「オランダ東インド会社40周年記念誌」的な記録集となっている。しかし、本書の巻頭にこの本の成立に関する事情を説明した記述はない。また東インド会社が正式に出版したものではないし、本書刊行にあたってそのような承認や協賛をした記述もない。いわばコメリンという出版を生業とする人物の企画出版物と見做されている。印刷は地図制作でも著名なヤン・ヤンソニウス。注目すべきは日本に関する記録が豊富であること。特にヘンドリック・ナーゲルの「東インド紀行」で引用されている東インド会社内部資料や、初代平戸商館長スペックスの駿府参府記録や、リーフデ号乗組員の日本での活動記録、平戸商館長カロンの「日本大王国誌」始め、内部文書引用に基づく詳細でかつ質の高い日本関連記事が収録されている。
第1巻は北回り航路(北極航路)探検記録。ヘンリー・ハドソンによる探検航海記(ハドソン湾発見など)。後半は東周りで初めてアジアに至った(バンタムに到達)コルネーリス・デ・ハウトマン艦隊(1595年)の旅行記ほか。1598年のヤコブ・ファン・ネック艦隊のアジア遠征(莫大な利益で成功)記録が掲載されている。オランダでは1595〜1602年の間で65隻がアジアへ向かい、このわずか5〜6年でアジア香辛料貿易で大きなシェアーを占めるようになった。
第2巻には、西回りマゼラン海峡経由で東洋へ向かう各艦隊の航海記録。中国、日本が新たなターゲットとなり、リーフデ号が参加したマフー艦隊の航海(1598年ロッテルダム出航)、ファン・ノールト船隊の世界一周航海記録「世界一周紀行」(1598)などが掲載されている。ノールト艦隊の日本船との遭遇記録がある。ただしマフー艦隊の記録は、航海を断念してロッテルダムに帰投したベールトの記録を元にしているため、リーフデ号の日本到着の記事はない。
第3巻はハーゲン艦隊、フェルフーフ艦隊の日本航海記録、1602年に連合東インド会社が設立され、日本とも1609年に正式国交が成立(朱印状交付)、平戸に商館が開設された。1611年の初代平戸商館長ヤン・スペックスの駿府参府日記や、リーフデ号乗組員クワッケルナック、サントフォールトの日本での活動に関する記録が収録されている(ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンの名が見当たらないのは何故なのか?時折出てくるマスターAdamがアダムスのことか?))。
第4巻には日本向けの荷物のリストや、詳細な取引記録が掲載されている。出典は東インド会社の社内記録である。部外秘のはずの社内記録がどのようにして公開されることになったのかは不明であるが興味深い資料である。最後にはヘンドリック・ハーゲナールの「東インド紀行」が掲載されている。ハーゲナールは1634年から3回日本に渡り平戸に一年以上滞在し、江戸参府にも同行している。その付属資料として、5点が収納されている。その一つが平戸オランダ商館長フランソワーズ・カロンの「日本大王国誌」の元となったバタビア商務総監向け日本報告書(1645年)。ガイスベルトゾーンの「日本殉教史」、クラーメルの後水尾天皇行幸見聞記などが掲載されている。このように、第4巻は東インド会社の記録をもとに日本に関する重要で質の高い情報が記載されている。
イギリス人航海士ウィリアム・アダムスとオランダ・マフー艦隊の悲惨な航海
このようにウィリアム・アダムス個人に関する活動記録は見つけることができないのだが、彼が航海士を務めたリーフデ号、所属艦隊マフー艦隊の航海については上述のように記録されている。ここでイギリス人航海士ウィリアム・アダムス所属のオランダ、ハーゲン船団のマフー:Mahu艦隊の航海を振り返っておきたい。日本とオランダ、イギリスとの出会いは、このオランダ船に乗船していたイギリス人の初めての日本上陸に始まる。このマフー艦隊は、イギリスのキャベンディッシュ:Cavendish艦隊の世界就航、その私掠船活動から上がる莫大な利益という「海賊モデル」に刺激され、オランダの投資家の資金で編成された船団の一つである。1598年、ロッテルダムを出港して、西回りでマゼラン海峡経由で東洋を目指すという、当時のオランダとしては画期的な航海であった。しかし、その結果は悲惨な航海であった。マフー艦隊は次の5隻から構成されていた(これらの艦隊航海の記録は本書「東インド会社起源と発展」イザーク・コメリン編著に詳説されているが、他の資料からの情報を加えて振り返ってみよう)。
ホープ:Hope号(希望)500トン、130人、船長ジャックス・マフー:Jaques Mahu(艦隊司令官)旗艦。
リーフデ号:Liefde(愛)350トン、110人、船長シモン・デ・コルデス:Simon de Cordes(艦隊副司令官) (旧船名:エラスムス号)
へローフ号:Gheloove(信仰)350トン、109人、船長ヘリット・ファン・ブーニンゲン:Gerrit van Beuninghen
トラウ号:Trauwe(忠実)250トン、86人、船長ユーリアン・ファン・ボックホルト:Ieauriaen van Bockhout
ブライデ・ボートスハップ号:Blijde Boodschap(福音)150トン、56人、船長セバルト・デ・ヴェールト:Sebalde de Weert
途中、指揮官マフーは出港後3ヶ月でアフリカ西岸のベルデ岬付近で熱病に感染し病死。副官のコルデスが指揮官となり、艦隊の指揮系統の再編が行われる。航海士のウィリアム・アダムスはホープ号からリーフデ号に乗り換えた。リーフデ号に乗船していたディルク・ヘリツゾーンはブライデ・ボートスハップ号の船長になり、セバルト・デ・ヴェールトはへローフ号船長となる。こうして再出発したものの、航海中に多くの乗員が熱病や壊血病で死亡したり、敵対的な先住民、ポルトガル人との戦闘で乗員の命が失われた。マゼラン海峡通過は、猛烈な嵐に見舞われ困難の連続で、艦隊はバラバラになってしまう。出港後10ヶ月、5隻のうちマゼラン海峡を通過して太平洋に出て再会を果たしたのはホープ号とリーフデ号だけであった。難破状態であったへローフ号はオランダのファン・ノールト艦隊とマゼラン海峡で遭遇し、救助と支援を要請したが、ノールト艦隊にも余裕がなく拒否される。へローフ号は乗員の反乱がピークに達したため船長のヴェールトはロッテルダムへの帰投を決断した。この時点の生存者は36名と、出港時の三分の一に減っていた。このヴェールトの航海記がコメリンの「東インド会社起源と発展...」第2巻に掲載されている。この他、トラウト号は単独でマゼラン海峡を越えモルッカ諸島に到達したが、現地のポルトガル人に捕らえられて多くが処刑されたが、捕虜として生き残りオランダに帰れたもの数人いる。ディルク・へリツゾーンのブライデ・ボートスハップ号は航行不能となりスペイン支配下のバルパライソ(ペルー)に入港し全員が捕虜となった。そのうち11名はその後オランダに帰還した。ちなみにこのディルクはアジアに24年滞在し、ポルトガル人に雇われて長崎にも2年滞在していたことがあった(この時の体験をリンスホーテンに語り、それに基づくと思われる日本の記述が「東方案内記」に掲載されている)。今回の航海で、初めて母国の船で日本を再訪する事を夢見ていたが叶わなかった。ホープ号は太平洋ハワイ諸島付近で嵐に巻き込まれ行方不明になり、結局リーフデ号だけが1600年3月、日本に到達する。そのリーフデ号の豊後到達も「漂着」といった方がふさわしい有様で、出港時110人いた乗員はこの時点で24人になっていた。3人が到着翌日に死亡。その後病死した3人があり、結局18人(14人という説も)が生存していたが、到着時に立ち上がることができたものは7人だけだった。船長のクァッケルナックは到着時には衰弱激しく、代わってアダムスが日本の役人に対応し、大阪へ連行された。
このようにマフー艦隊の航海は悲惨なものとなり、利益を上げるどころではなかった。出港時に491人いた乗員のうち、再び祖国の土を踏めたのは50人ほど。そのうち36人は途中で引き返したへローフ号の乗員で、捕虜となって帰還できたのは14名ほどしかなかった。また皮肉なことに、日本に到達し、誰一人捕虜にならなかったリーフデ号の乗員14人は、誰も帰国していない。こうした航海事業への投資は、多くの人命と船舶を失う究極のハイリスク投資で、「ハイリターンか、無一文か」という過酷なものであった。それでも欲望に駆られて、一攫千金型ハイリターンの僥倖を狙う執念というか、人間の業の凄まじさを感じる。冒険者とはそういうものである。記述の通り、コメリンの「東インド会社起源と発展」には、途中でオランダに引き返したヴェールトの航海記録が掲載されているためリーフデ号の日本到達の記録は出てこない。オランダ船隊として初めて世界一周に成功し、故国に帰還できたたファン・ノールト艦隊が、航海途中ボルネオ沖で日本船と遭遇し、そこでリーフデ号の日本到達と乗員の生存を知り、ノールと艦隊帰国と共にオランダへ伝わった。
| 第二巻冒頭にマフー艦隊の5隻が紹介されている 途中でオランダに帰還したへローフ号船長セバルト・デ・ウェールトの航海記録が元になっているので、リーフデ号の日本到着は記述されていない。 |
| 大西洋 アフリカ西海岸・ベルデ岬に集結し、ポルトガルのプライア砦を攻撃する艦隊 |
| 大西洋 ギニア湾 ポルトガルのアンノボン砦を攻撃する艦隊1609年 |
| 太平洋 南米チリ、サンタマリア島(スペイン領)沖を通過 5隻の艦隊はバラバラとなり、ホープ号とリーフデ号だけになっている ここから5ヶ月かけて太平洋を横断してリーフデ号だけが日本に漂着する(本書には記載されていない) |
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| ノールト艦隊が遭遇し襲撃しようとした日本船 |
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| ボルネオで出会った日本のサムライ(傭兵か?) |
リーフデ号の人々
リーフデ号とその乗員の名前やその後については、コメリンの本書には記録がない。またリーフデ号航海記録などが失われているので、アダムスが日本から同僚や家族に宛てた手紙の中で語られているものや、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などに出てくる記述を拾い集める必要がある。。アダムスの手紙によると、先述のように出港時110人であったリーフデ号乗員は、18人(14人説も)が生存して日本で生活始めたことになる。
我々の歴史の教科書で知っているリーフデ号生存者で後世に名前が残っているのはアダムス(三浦按針)のほか、ヤン・ヨーステン(耶揚子)くらいだが、他にも漂着時にリーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナック、書記であったメルヒオール・サントフォールトがいる。この二人の日本での活動についてははコメリンの本書にも登場する。その活動は次のようなものであった(本書に記録されているもの以外のソースから)。家康の許可を得て、バタニのオランダ東インド会社に向かい、貿易許可書を渡し、日本への来航を促そうとしたが、バタニ商館はポルトガルとの争いで忙しく、十分な商業活動がまだ開始されておらず、日本に向かう余裕がなかった。二人は虚しくバタニを離れ、クッケルナックはその後、現地でオランダ艦隊に加わり戦死する。サントフォールトは日本に戻り、長崎で商人として活躍。幕府やオランダ商館とは一定の距離を置きつつも、日蘭の交流史の中では重要な役割を果たした。アダムスよりもはるかに長い40年を日本で暮らした。リーフデ号生き残りの中では一番長い。その後バテレン追放令に伴い台湾へ、そしてバンタムへ移り住みそこで亡くなった。こうした活動は、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などで窺い知ることができる。この他にも日本に定住した元乗員がいる。多くが平戸や長崎、堺などを拠点に貿易、航海に携わり、東アジアや東インドを舞台に活躍していた様子が伝わる。彼らの帰国を願い出る手紙や、故国に残してきた家族への想いなど、本国への帰国を願う気持ちも読み取れるが、それでも「神によって与えられた新天地」で、新たな活躍の場を得た「海の男たち」の挑戦者としての意気込みが感じられるのが感動的である。「人生至る所青山あり」。
リーフデ号乗員については、「リーフデ号の人々」ー忘れられた船員たちー 森良和著 学文社 に紹介されている。上記のウィリアム・アダムス、ヤンヨーステン、メルヒオール・ファン・サントフォールト、ヤコブ・ヤンツゾーン・クワッケルナックの消息、日本での活動状況について詳しく紹介されているほか、他の10名の知りうる限りの消息が記載されている。またクレインス桂子氏の記事にはこの本に紹介されていないもう一人のリーフデ号船員の消息が紹介されている。拙ブログ「2020年9月15日「ヤン・ヨーステンとは何者か? リーフデ号の生き残りとその後」を参照いただきたい。
ウィリアム・アダムスの生い立ち
1564年、イギリス南部のケント州ギリンガム生まれ。この頃のイギリスはプロテスタントの女王エリザベス一世が王位についたが、強大なカトリック国スペインの脅威に慄く辺境の島国であった。国内ではカトリック勢力による王権簒奪の危機にさらされていた。一方、イギリスはこの頃から徐々にローリーによる北米大陸への進出、植民地化が始まり、ホーキンスやドレイクといった私掠船船長(海賊)が海上でスペイン船を襲い財物を略奪するという荒っぽい活動を起こしている時期で、大国スペインとの戦争の危機が迫っていた。アダムスはこんな時代に幼少期から青春時代を過ごした。かれは上流階級出身ではなく庶民階級の出である。しかし子供の頃に学校には通わせられて読み書き計算は教わっている。当時の庶民の識字率は極めて低く、学校に行くケースは稀であったので、それなりの教育を受けさせることのできる家庭であったのであろう。12歳でロンドンの東、テムズ河畔のライムハウスで船大工のディンキンス親方の工房に弟子入りし修行を積む。この頃のイギリスはスペインとの戦争や海外進出の時代で、大型の外洋船建造ニーズが非常に高まっていたので船大工は人気の職業となっていた。しかしこれがやがて日本で役に立ち彼が三浦按針として家康に取り立てられる基礎となる。
やがて彼は24歳でイギリス海軍に入り、1588年のドレイク艦隊のアルマダ海戦(スペイン無敵艦隊を撃破した海戦)に補給船ウィリアム・ダフィールド号の船長として参戦。イギリスの、いや世界の歴史を変えた海戦の当事者として戦場を経験した。戦後、海軍を退役すると、西アフリカとの貿易を執り行うバーバリー商会に入るが、おそらくもっと大きな夢を求めていたのであろう、オランダの世界就航プロジェクトに応募。ビーテル・ファン・デル・ハーゲン船団のマフー艦隊の航海士として参加することになる。造船技術と航海術、海戦経験を有する貴重な人材であった。若きアダムスの人物形成過程はこのようなものであった。これが彼の苦難の航海と、その末の日本での数奇な人生の始まりであった。
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| 1966年英訳版表紙 |
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| Alexis-Charles-Henri Clerel, comte de Tocqueville (1805~1859) |
(1)アメリカ民主主義の特色と優位点
・ヨーロッパの宗教的、政治的、経済的、身分制しがらみから抜け出たアングロ・アメリカン(イギリス人移民)が作った共和国である。
・自由と平等による民主主義の共和国である。
・貴族などの知的階層無しで行われる議会制民主政治である。フランスの議会は、「知的階級(貴族、聖職者)」と「無知な平民」という構造(身分制三部会のような)とみなされていることへのアンチテーゼと捉えた。
・タウンシップ(全員参加型)という地方自治が行政の基礎となっており、その上に郡(county)、州(state)、連邦政府(federal government)がある。連邦政府は外交と軍事のみに限られる。基本は今でいう「地方自治」「小さな政府」である。
・裁判は陪審員制で市民参加。ただ慣習法、判例に熟知する法曹が知的エリート化する。
・身分制のない「平等」が市民の政治参加、社会参加、経済参加を促し、それが民主主義を支える「民」を鍛えている。
・政党、結社の自由。自主的に様々な政治・社会活動に参加できる。
・政教分離。宗教が民主主義を支持し、政治に干渉せず、抵抗勢力にならない(フランスとの相違点)
・広大な未開拓の大地が、移民に平等な自己実現機会を提供した。いわゆるアメリカンドリーム、西部開拓による新たな富の創造。産業資本の勃興により新たな富の創造が起きている。
(2)アメリカ民主主義が内包する問題点
・ソフトな専制主義 (Soft Despotism):気づかないうちに民主主義が専制主義に移行してゆく危険性を内包している。政治に無関心な大衆が専制的な指導者を選ぶ「衆愚政治」と表裏一体である。
・多数決という専制主義(Tyranny of the Majority):民主主義の基本とされる意思決定方法が独裁を産む危険性がある。多数派(マジョリティー)の横暴。少数派(マイノリティー)の迫害。
・思想の独裁:知的自由の欠如(多数に迎合する。少数の排除、迫害)あるいは「世論による専制政治」に陥る可能性がある。知性による抑制が効きにくい。
・行き過ぎた個人主義:これに伴う社会的孤立 。公共心や連帯感の欠如。
・人種問題:白人、黒人、インディアン(先住民)という3つの人種の存在。やがて奴隷制が廃止されても(南北戦争の前の考察であるが)、人種問題は「平等」と「自由」を標榜するアメリカに内在する構造的、文化的課題として永遠に残るだろう。
・貧富格差:人種問題に加えて新たな「平等」への脅威になる。西部開拓が終わりに近づくと国富拡大の恩恵にありつける人が少なくなる。アメリカのダイナミズムの縮小。一方で産業化に伴う豊かさの一方、富の再配分メカニズムが働かない社会へ、すなわち富の偏在、格差社会の出現。これが平等、民主主義を危うくする。
・新たな貴族階級の出現:大規模産業資本家という超富裕層が新たな「貴族制」を生み出す可能性。
・文化的欠点:アメリカ人は功利主義的で思弁的ではない。理性よりも現実的な利得を優先する。哲学を好まない。したがって文化芸術(文学、詩、歴史、哲学)で優れたものは出てこない(ヨーロッパ人に共通の意識?!)(明治期の日本についてもこう指摘するヨーロッパ人が多かった)
(3)トクヴィルの「予言」
トクヴィルは、ヨーロッパでは知的階層である貴族が無知蒙昧な庶民を導くと考えるのに対し、アメリカの民主主義の力とその平等と自由の精神を称賛した。と同時にその脆弱さを見抜き、知性による抑制が欠如した民主主義が「専制」へと転落する可能性を指摘した。世論による専制政治、多数派による暴政、知的自由の欠如。これが政治家の資質の劣化、庶民の思考停止、学問のレベルの低下を招くだろう。そして人種問題と、富の偏在による経済格差がアメリカを分断に向かわせるだろうと指摘した。さらに大規模な産業資本家という新たな「貴族階級」の出現が「平等」と「民主主義」の脅威となるとも。
19世紀になされた彼の分析は、いくつかの点で200年を経た21世紀のアメリカの民主主義が置かれている危機的状況を予見したものとなっている。特に今論じられている「民主主義が独裁者を生み出す」「民主主義は容易に全体主義に移行する」という政治思想パラドックスがこの時にすでに見通されている。民主的な選挙で選ばれた多数党が(民意を背景に)凶暴化する。民主的な選挙で選ばれたカリスマ的指導者が(民意を背景に)独裁化する。反知性主義とポピュリズム、主権者である民の思慮欠如と思考停止(体制への迎合)が専制主義を許す。トクヴィルが言うように「知性が多数を導けなくなる。賢人の判断が、無知の偏見よりも下に位置付けられるようになる」のである。そして富の極端な偏在が新たな身分、階級を生み出し、そこに政治権力が集中する危険性がある。理性と知性によらない功利主義的な民主主義は専制主義と表裏一体の関係にある。こうした関係性(あるいは矛盾)は、20世紀にファシズムやコミュニズムという全体主義がリベラルな民主制の中から生まれ、世界を悪夢に陥れた経験を持つ我々には説得力を持つはずだ。そのファシズムとコミュニズムに対して勝利したはずの『アメリカのデモクラシー』とそのアライアンスが、気づくと自己を見失ってどこかへ行ってしまいかけている。民主主義にはこうした危険性が内包されている。そして理性による戦いを不断に続けないと民主主義はその存在理由を失ってしまう。そうトクヴィルは教えている。
トクヴィルの視点から今日的アメリカ考える:
アメリカはその後の歴史の中で、多数の白人による人種差別を禁じ、奴隷解放、黒人の公民権法制定など、数々のマイノリティー保護、優遇措置を講じてきた。こうした「平等」の問題への取り組みにもかかわらず、トクヴィルが指摘したように、この問題はアメリカ社会に根ざすより複雑な問題として残り続ける。すなわち、マジョリティーの白人(アングロ・アメリカンに始まる)を圧倒しかねない人種的マイノリティーの増加、特にラティーノ、アジアンの伸長。自由を求めて多様な地域からの移民、難民(合法、違法を問わず)の流入。さらには、人種を超えて女性の地位向上、フェミニズム、LGBTなど性的マイノリティーの権利が強調されるようになる。そこへ経済格差が顕在化すると、いわゆる「プアーホワイト:Poor White」「ラストベルト:Rust Belt」「ヒルビリー:Hillbilly」という貧しさに喘ぎ阻害された白人層に対する「非対称差別」論が横行するようになる。これが「移民国家」における「反移民」政策を生み出す。また一部の知的エリート層が大多数の庶民層を支配しているとする陰謀論や反知性主義が横行し始め、ついには「マイノリティーがマジョリティーを搾取している」との言説を流布する人物を国家のリーダーに選ぶようになる。一方で、機会は「平等」に与えられるとしながらも、(トクヴィルも指摘した)富の偏在を是正する再配分の仕組み(「慈善事業」というキリスト教友愛精神以外の)が機能しないまま産業主義全盛となり、「持てる者と持たざる者」の経済格差が広がり、新たに桁外れに豊かな支配階級(新貴族)が生まれる。皮肉なことに、民衆はそうした「新貴族」:Celebrity, Rich and Famousに抵抗するどころか「アメリカンドリーム」の英雄として崇め、我々を助けてくれると信じ込んでいる。結局、アメリカ人はヨーロッパの王侯貴族に憧れているんじゃないのか、と皮肉を言いたくなるような現実がある。権力と金が結びつく「巨悪」が蔓延る土壌さえ生まれる。どうやらアメリカには国家に内在する「安定復元装置」:Built-in-Stabilizer(例えばコモンロー:Common Law のような、あるいは「公共の福祉」といった調整機能)がどこか欠如しているのかもしれない。この点はトクヴィルならどう評するのだろう。「移民が建国した」アメリカ。「自由」「平等」「民主主義」という理念を国家のアイデンティティーとし、それによって合衆国市民としで団結していたアメリカ人が、それを失いはじめると、たちまち分断化され対立する。パクスアメリカーナの夢から覚めると、自分たちが置かれている民主主義社会が脆弱さを内包していることに気付き、動揺し思考停止に陥り、迷走する。
一方で、グローバリズムに対しては「同盟国から搾取されている」という言説がまことしやかにこの国家のリーダーの口から発せられる。新モンロー主義の標榜、多国間主義/国際的枠組みからの離脱、背叛へと向かう。しかし トクヴィルが見た19世紀のモンロー主義、ジャクソン主義は、独立まもないアメリカという民主主義の共和国を、ヨーロッパのアンシャンレジームと帝国主義の干渉から守る立場から主張されたものであった。現代では専制主義的、覇権主義的な大国間のテリトリー争いに、自らも参加し、相互不干渉という新たな「帝国主義」の枠組みを提唱しているに過ぎない。「自由と民主主義の守護神」という理念による紐帯よりも、他の専制主義国家と利権を競い合う国になってしまった。ちなみにトクヴィルは、ロシアがこれからのアメリカの競争相手になるだろうと予見している(中国については予見不能であったのだろう)。しかし、これがアメリカでは一定の支持を得ている。いわゆるMAGA派:Make America Great Againである。少なくとも多数党である共和党を支配している。彼らはボーダレス自由市場体制がアメリカを弱体化させたと一方的に主張し、法外な保護関税を武器に言うことを聞かない国を恫喝する、あるいは市場から排除する。資源や利権を独占するために他国を「植民地化」「領土化」する。気に入らない他国の元首は特殊部隊を差し向けて拘束、拉致する。関税と軍事力という「力による現状変更」が「国際協調」「法による国際秩序」に取って代わる。そして二度の世界大戦で人類が獲得した「民族自決」という大原則は大国のエゴの前に再び失われることになる。人権よりも利権(難民救済より紛争跡地の資源やリゾート開発にしか関心がない)。国外では帝国主義、国内では専制主義(三権分立という民主主義の基本が無視されても対抗しない立法と司法もどうしてしまったのか)。「アメリカ民主主義」の末路。建国250年の若い国が晒す老醜か。18世紀に「王政」に反発して建国した「共和国」がまた「王政」に戻ろうとする。19世紀に「帝国主義」に反発した「自由主義」の国が「帝国主義」に戻ろうとする。さすがのトクヴィルもここまでは予見できなかったろう。彼が称賛したアメリカ民主主義は、彼が指摘した課題のために消え去ろうとしている。そしてアメリカの時代が終焉を迎える。
参考:
追記:
Edmund Burkeの『フランス革命省察』と合わせて読みたい。
18世紀末のイギリスの政治思想家エドムンド・バークは、彼の著作『フランス革命省察』の中で、抽象的な理論で全ての歴史や文化的背景を拭い去る急進的な革命によって成立する国家体制に疑問を抱き、フランス革命を批判した。そのような急進的変化ではなく、イギリスの17世紀の一連の王権と議会の戦いや革命のような長い歴史の営みの上に起こす漸進的変化こそ望ましい歴史進化であるとした。彼はイギリスの名誉革命を理想としその帰結としての立憲君主制こそ最良のものと考えた。ちなみにバークはアメリカ革命(独立宣言)を、新天地に新たな歴史を作り出すものとして支持した。ちなみにバークもトクヴィルも保守主義の政治思想家と見做されている。保守主義とは何か?これもまた曖昧だが。
アメリカ: 君主も貴族もいない平民民主主義共和国 イギリスから独立した植民地
フランス: フランス革命で君主を処刑して共和国に。しかし、共和派の内部争いからナポレオンが登場するも、王政と共和制が交互に起きて長く不安定な政治体制。
イギリス: 君主を処刑したのちに一時共和制になったが王政復古。のちに名誉革命。マグナカルタ以来、権利請願、権利章典に至る議会と王権との長く激しい歴史的闘争の末に生まれた立憲君主制、法の支配。「君臨すれども統治せず」の伝統 いわば「君主制の下の民主主義」
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Taro Urashima is traveling through time and space with a camera in one hand again this year. Now I'm warped to the world of the 19th century. |