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2026年8月29日土曜日

「人間は考える葦である」パスカル 〜生成AIは人間から「考える」ことを奪うのか?〜

 

「人間は考える葦である」パスカル
これは生成画像ではなく実写(白金自然教育園)




人間はその歴史の中で、万物の「真理」の源泉はどこにあるのかと問い続けてきた。最初は自然の中にそれを見出し、やがて神が万物の創造主だと考えるようになり、そして人間自身の理性が万物の真理を解き明かす源泉であると考えるようになった。すなわち「神の啓示」から「人間の理性」を独立させた。これが近代合理主義、科学の発展を生み出した。観察、実験、などの実証を元にした合理的思考から得られる知識。まさに「考える人間」こそ世界の中心にあると考えるようになった。やがて人間はその合理主義思想、科学発展の果てにAIを生み出した。これが思わぬ衝撃を与えている。特に生成AIは単に自動化、効率化、省力化の道具ではなくなり、人間の創造的活動、知的活動に取って代わりつつある。我々は、今や「神の啓示」でもなく「人間の理性」でもなく、「AIの集合知」が万物の真理の源泉になるのではないかと危惧している。これは文明を進化なのだろうか。人間の退化なのか。AIに支配されるデストピアは現実になるのか?案外デストピアではなく、ユートピアなのか。AIとの付き合い方をめぐって葛藤している。

AIは人間の「考える」能力を奪うのではないかという危惧

我々は、自らの意思や思考を放棄してAIに依存するようになると、考える能力の低下をもたらすのではないかと危惧し始めている。

1)思考放棄

自分で考えなくなる、あるいは思考能力の衰退、すなわち主体性、自我の喪失 自己表現力の喪失

2)認知能力低下

物事を学習し、記憶し、多様な選択肢を比較、分析し、理解し、判断する能力の衰退

3)結果重視

安易に「結果」のみを重視しプロセスを無視する。予測し、想像することをやめて結果だけを求める。結果に対する批判的検証能力 仮説を立てて検証する、試行錯誤するという問題解決能力が毀損される

4)批判的思考力(クリティカル・シンキング)衰退:

判断、意思決定に必要な、情報の真偽や前提を疑う能力が失われる。「コピペ」による無批判な受け入れで情報を精査する能力が衰え、間違い、思い込みに気が付かなくなる。さらに真の専門性が涵養されない。学問が成り立たなくなる。

17世紀の哲学者パスカルは『パンセ』で「人間は考える葦である」と述べた。人間は水辺の葦のようにひ弱な生き物であるが、他の自然界の生き物と区別するものは「思考すること」である。すなわち思考しなくなった人間は、再びひ弱な水辺の草になるのであろう。「パンセ:Pensees:思索」こそ人間の人間たる所以である。

17世紀イギリスの経験論論哲学の祖であるベーコンは、人間の理性に基づく「知」こそ「力」であるとした。彼の近代合理主義と科学的合理性思想は、知の体系を支配する人間を、あたかも万物の頂点に立つものであるかの如く増長させたのかも知れない。その結果、理性による知が、その知が生み出したテクノロジーによって奪われるとすれば、人間にはどのような「力」が残されるのだろう。

現代の気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは「思考しなくなったら人間は動物に回帰する」と述べている。彼のAI論は後述する(マルクス・ガブリエル「Fobes Japan 」2026年6月24日特集号)

いずれも人間は「考える生き物」であり、その理性と知性が人間の人間たる所以のものだということを言っている。確かに「考えることをやめた」人間には悲観的な未来が待ち受けているであろう。しかし、そんな退化に身を委ねる訳にはいかない。本当にAIは人間の理性や知性を奪うものなのだろうか?AIを人間の知性、理性にとって有益なものとして使うにはどのようにすれば良いのか。人間がただの「か弱い水辺の葦」「ただの動物」に回帰しないようにするためにはどうAIと付き合ってゆけばいいのだろうか。その答えを求めて「思考する」のも人間だ。 


そもそもAIとは何かを理解する

マルクス・ガブリエルは、AIと人間の未来をそれほど悲観的に見てはいないようである。AIはそもそも人間が関わらなければ機能しないものである。人間が生成した過去のデータ、情報がなければ何もできない。大規模言語モデルは人間がプロンプト(指示)を与えねば何もしない。プロンプトやAIとのやりとりそのものが人間の知性の表現なのだ。それがなければAIは機能しない。まずこのことを知っておくべきだと。

AIは人間の経験や知識の何億人分もの既存のデータから学ぶことで動く。いわば「集合知」である。しかし、AIには「一人の人間」という観点はない。人間一人一人が持つ「精神的多様性」「個性」あるいは「他者への共感」という前提はない。AIは、過去に学び、既存のものを組み替えて新しいパターンを生み出す能力はあるが、何もないゼロから新しいものを生み出す能力はない。また「ひらめき」のような直感力はない。

AIは人間が入れた言葉、数字、音声、画像の中からパターンを見つけ出して、それを増幅させ、広げる能力に長けている。良い問いを投げ掛ければ良い答えが返ってくる。良い答えのもとは自分が問いかけた良い問いなのである。それは人間の知性の成せる技なのだ。すなわち、マルクス・ガブリエルは、AIによって人間は、「加速する知性:Accelerated Intelligence」「拡げる知性:Augmented Intellibence」「増幅する知性:Amplified Intelligence」を得ることができるとする。AIによって人間の知性、能力を広げ、複雑な社会問題、複合危機:Nested Crisisを解決することもできる。すなわち人間の限界を突破させるツールとして刮目すべきである。それでもあくまで人間が問いかけることが鍵なのだ。AIはほっておいて自律的に考えることはできない。


AIには備わっていない人間固有の能力とは何か?

これはGoogleGeminiによって整理したものに少し追加した。

1)社会的責任能力

AIは結果にいかなる責任を持たない。人間だけが責任を取りうる存在である。

2)自発的目的意識

自らの意思で「何をすべきか」という問いを立てること、目標設定すること。ゼロベースから思考することができる。

3)身体感覚や感情。他者への共感力

文脈、行間を読む力。肌感覚、暗黙知、直感、ひらめき。不完全な状況でも判断し行動する。「空気を読む」などという芸当をすることができる。

4)新たな課題設定能力

既知の問題だけでなく、あるいは答えがある問題ではなく、より本質的な課題を見抜き、適切な問いを設定する。


AIの創造性と人間の創造性の違い

1)AIの創造性

すでにあるものを組み換え、新たな組み合わせを作るという創造性。過去にあるもの、やり方を学ぶことが前提。複雑な社会における法則や相関関係を見つけることは得意。ただしあくまでも人間が使わねば自律的に問題解決は行わない。使う人間の倫理観、道徳感、知性が求められる。

2)人間の創造性

これまでにない新しいものを生み出す力、それを組み合わせて新しい形、スタイルを作ること。学習や経験、感覚により新しい発見を得ること。これは科学的合理性や論理性を学ぶことからではなく、哲学、芸術、文学、社会学、言語学などの人文科学:Humanityを学ぶことによって得られる能力であることが重要。

したがってAIの創造性は、人間の創造性を拡張する。逆に言えば、そのような創造性を人間は涵養すべきで、それがないとAIに盲従することになる。すなわち「AIを使う人間」になるか。「AIに使われる人間」「AIに取って代わられる人間」になるかは、そういった創造性を持ち、学習する人間であるかどうかによって決まる。


「人間中心のAI」:Human Centric AI

マルクス・ガブリエルは「人間中心のAI 」ということを提唱している。「AIが答えを出してくれる」「それを鵜呑みにする」のではなく、AIとの対話を通じて「足りないもの」を補い、「思い込み」「偏見」(ベーコン流に言えば「イドラ」)を取り除き。新たな気づきを得て、そして自己更新してゆく。AIによってより創造的になる。そしてより倫理的になる。両者は深いところで繋がっているので「倫理的知性」を磨く道具になる。さらにAIとの対話す重ねる中で、知性を「加速し」「広げ」「増幅する」ことである。

AIは人間の知性、創造性、倫理性、哲学的思考と相反するものではなく。むしろその主体性を取り戻し、更新するパートナーである。マルクス・ガブリエルはそれを「楽器」に例え、それをどう弾くかはその人次第で、その結果どのような音楽が奏でられるのかはその人の知性、感性や価値観、美意識によって違う。それ自体が創造的な仕事であるという。


日常生活の中でAIとどのように付き合ってゆくか?

日常の生活の中で、自分の思考力を働かせ、拡大するための触媒としてAIを使うにはどうしたら良いのか。そこで求められるのは「問いを立てる力」「結果を評価する力」である。この二つの力を持つ限りAIは格好の思考拡大パートナーとなる。より具体的には、GoogleGeminiは次のような取り組みを提示しているので参考になるだろう。

1)AIに複数案を出させるそれを自分が評価、選択する

2)AIと自分の考えと議論を戦わせ対話を繰り返す

3)AIの答えに自分の個人的な経験や感覚などの「集合知」以外の要素を加える

4)複数のAIを同じテーマで議論させて自分で評価する

このようなAI使いこなし手法を自分なりに編み出してゆくことだ。「楽器」なら弾き手が「楽器」と対話するように。職人のお道具ならそれを手に馴染むものに仕立ててゆくように。AIは使い手次第であるから、使い方の修行も必要だ。

再度繰り返すが、「AIを使う人間」になるか、あるいは「AIに使われる人間」になるのかの違いは、自らの主体性と自我と創造性、そして判断能力を持てるかの違いによる。「考える葦」人間は、考えることを止めて「ひ弱な水辺の植物」に戻るのか。それとも「思考を拡張することで更なる創造性を持った生き物」に進化するのか。AIの出現によって試されている。AIは決して人間から「考える」を奪うのではなく、それを拡張、進化させる道具である。恐れることはない。卑下することもない。受け身になって「思考停止」せずに能動的に使えということだ。



(参考)何度かの対話によりChatGPTに描かせた「思考停止社会」。この風刺イラストの出来栄えの良し悪しはChatGPTというAIの表現力に依拠するのではなく、「プロンプト」と「結果の選択」をした人間のもの。






2026年8月22日土曜日

古書を巡る旅(81)アイザック・ウォルトン『釣魚大全』:The Complete Angler by Izaak Walton 〜釣りの手引書はなぜ古典文学作品になったのか?〜


'Complete Angler' edited by John Hawkins in 1815


表紙

Izaak Walton肖像

Charles Cotton肖像






魚釣りの思い出

私は特に釣り好きというわけではないが、子供の頃は父に連れられて樋井川の河口で、よくハゼ釣りやキス釣りをやった。餌はゴカイで、干潟で見つけることもできたが釣具屋さんに売っていた。最初は気持ち悪くて触るのも嫌だったがだんだん針につけるのも上手くなった。付け方を間違えると餌だけ取られて魚に逃げられる。父に教えてもらってだんだん腕が上がり結構釣れるようになり面白かった。時々、真っ黒なドンポが釣れると、「これは要らん」と逃したものだ。時々は小さなカレイが掛かる事もあった。真夏に糸島の今津橋に釣りに行った時には、父が朝から一日かけて釣り上げた魚がずっしりと入った魚籠を、私は橋から川に落として流してしまった事がある。釣った魚を見ようとしたのだ。父はひどく落胆した。しかしあの時の父は私を叱りもせず、「バッサリやな」と一言。片手で長い釣竿を肩に担ぎ、もう片方の手で私の手を握りながら夕焼けの道をトボトボと帰った。橋の上には二つの麦わら帽子の長い影。あれはまだ私が幼稚園くらいだったと思う。

中学生になると投げ釣りが面白くて、友達と自転車に乗って釣りに出かけた。短めの竿と投げ釣り用のリール、それに浮がついた錘をつけて、針が錘からまっすぐ下に垂れるようにする。防波堤や岩場を避けて遠くに投げる。そろそろとリールで巻いて魚を誘き寄せる。そんなテクニックも覚えた。ちなみに祖父(父の父)はあまり釣りをやらなかったが、父に勧められて樋井川の河口で釣りをしたことがあった。祖父は悠長に一箇所でじっと釣り糸を垂れて気長に待つことのできない性格であった。あちこち場所を変えて動き回る。今そこに居たかと思うと、もう居ない。あっちに居たかと思うと、今度はこっちに居る。祖母がそれを見ていつも笑っていた。「あれじゃ魚がついて来れんわ」。釣りは気長に事がなるのを待つという精神修行に良いと感じたものだ。

大人になって都会生活が長くなり、海や川が遠くなると釣竿を持つ事も無くなった。と、それは言い訳にすぎない。機会はあった。ロンドン郊外のテムズ上流にはマス釣ポイントがあったが行かなかった。ニューヨークのロングアイランド・モントーク沖でマグロのトローリングが仲間内で流行っていたが行った事もない。伊豆の隠れ家は釣りのメッカであるが、あの少年時代以来トント釣りにはご無沙汰だ。私にとって釣りとは、父や祖父との思い出に出てくるハゼ釣りであった。それで良いと思っている。

前触れが長くなったが、今回の古書はアイザック・ウォルトン『釣魚大全』である。釣り人の古典的バイブルである。しかし私は釣り人としてこの本に出会ったわけではない。17世紀イギリス文学作品としての出会いであった。神保町の古書店での出会いである。釣り人の手引書が文学古典となる。その不可思議なズレ感。それが存外ズレでもない事が読み進めるうちに分かってくる。父に連れられて釣りに興じた子供の私は、英国古書に魅せられた老境の私と出会った。これも時空旅である。


アイザック・ウォルトン『釣魚大全』とは?

アイザック・ウォルトン:Izaak Walton (1593-1683)は、17世紀のイギリス・スタッフォード出身でロンドンで商売を手がけ成功した商人である。すなわち新興の都市ジェントリーであった。しかしイギリス革命の影響でロンドンを離れることを余儀なくされ、故郷のスタッフォードシャーへ戻る。そこで、コテッジを買い取り、ささやかな農作業と釣り三昧の毎日を送る。やがて執筆活動に取り組み、のちに伝記作家としても作品を残している。

その故郷の田舎で、ウォルトンは60歳の時に『釣魚大全』The Complete Angler を刊行する。初版を1653年に、以降1676年まで増補、改訂を続けた。途中から彼の友人の息子チャールズ・コットン:Charles Cottonが第2部を追加し、2部構成の書籍となる。釣り人(Piscator)と道連れ(Venator )、鷹匠(Auceps)の三人による、釣りと魚にまつわる対話という形で話が進んでゆく。その会話を通じて、魚の生態や釣りのテクニック、料理法を語り合う。第二部はコットンによって、清流でのマスとカワヒメマスの釣り方について十二章にわたって解説する。またフライフィッシングとフライ(疑似餌)の作り方を解説している。こう説明するとこれは全くの釣りの指南書であるが、それだけではないところが妙である。自然の風景、地域に伝わる伝承や故事来歴、また地元の歌謡、詩歌も登場する。彼の自然観が随所に散りばめられていて、いわば隠遁者の随想作品といった風情に仕上がっている。

ちなみに 文中で魚類の解説をするところでは、フランシス・ベーコンを盛んに引用している。彼のA Natural History(1627)を参考文献とし、正確性を確認しながら書いた様子が窺える。しかし、ベーコンを引用したと言ってもそこには「偉大なる哲学者」の姿も「王権にへつらう大法官」の姿もなく、魚類をつぶさに観察し記録した「科学者」ベーコンの姿が見えるのが面白い。同時代人のウォルトンにとってベーコンは「さかなクン」だった。

イギリスの17世紀という時代はピューリタン革命、王政復古という、政情不安定な時代であった。ウォルトンはその只中にロンドンで商工業者として活躍し成功した。やがて戦乱の中で故郷に戻るのだが、彼の描きだす世界は、そのような騒然とした世相ではなく、ロンドンを離れ故郷のスタッフォードシャーの穏やかで美しい川と魚たち、そしてそれを愛でる人々。紳士の嗜みとしての釣りの世界が、村人達との会話を通じて描かれる。しばし、世俗を超越した桃源郷に遊ぶ、といえば東洋的かもしれないが、そんな隠遁生活の気分にさせてくれる随想集である。


革命の時代と隠遁生活

しかし、ウォルトンの作品は、そんな牧歌的なものではなかったと解釈する研究者もいる。確かに、世の中を達観し超越したかのような「隠遁者の境地」的なトーンは、厳しい時代のウォルトンなりの現状批判の反映と見ることが出来る。ピューリタン革命、王政復古という激動の世紀に身を置いたウォルトン自身は、カトリックでもなく、ピューリタンでもない、国教会の保守的なジェントリーであった。政治的には王党派でピューリタンには批判的であった。のちにウォルトンが伝記を書くことになる詩人ジョン・ダンは教会を通じた彼の友人であり、国教会の聖職者であった。しかし、王党派は議会派のクロムウェルによって敗北させられ、国王は処刑される。イギリス史上初めての共和政:Commonwealthが生まれる。国教会はピューリタンのクロムウェルにより解散させられて聖職者は地方に隠棲を余儀なくされた。ウォルトンの名言の一つに「穏やかになることを学べ」:Study to be quietというのがある。これはこうした隠棲を余儀なくさせられた聖職者に共感し、彼らや自分自身に向けて放たれたメッセージではないかと考えられる。また副題のContemplative Man's Recreation:「瞑想する人のためのリクリエーション」は、「釣り」が「瞑想」につながる。瞑想できる人が成果を獲得できる。その「人間の理性に基づく瞑想」が真理に至る道であると、哲学的な暗喩を込めている。アングル(釣り針)はアングリカンチャーチ(国教会)を掛けた暗号ではないかという批評家もいる。ウォルトンは、超保守主義/権威主義のカトリックでもなく、過激なピューリタンでもなく、その中道をゆく国教会の立場をこの書で暗に主張した。イギリス人の保守主義、急進的改革よりも漸変的改革を好む。そうした思想をベースにしたメッセージがこの作品に潜んでいると考えると、この「釣りの手引書」の読み方も変わってくるだろう。我々日本人から見ると、仏教的な「無」の境地とは異なるかもしれないが、乱世を生き抜く中庸な生活とその瞑想:Contemplativeによる達観はどこか禅的である。方丈の庵を結び隠棲した鴨長明は言った。行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」

ちなみにウォルトンはこの他にも幾つかの名言を残している

「魚釣りは奥深い数学のような物だ。誰も完全にはマスターすることはできない」

「芸術家として生まれた者が居ないように、釣り師として生まれた者はいない」

やはり彼は釣りを単なる余暇とは見做していないようだ。「道を極める」修行のプロセスこそRecreation:余暇、いや再生なのだろう。


19世紀のウォルトンブームと『釣魚大全』復刻企画

やがて血生臭い革命が収束し、ウォルトンが亡くなった後には、議会優位の立憲君主制国家が生まれ、植民地アメリカが独立し、隣のフランスで革命が起き、産業革命で社会が激変する時代を経て、19世紀近代合理主義の時代へと場面転換する。確かに急進的ではないがイギリスは大きく変わった。この間しばし忘れられていたウォルトンの『釣魚大全』は、17世紀のロマン主義への回帰の潮流、また自然を尊ぶ「Quality of Life」に憧れる19世紀の「近代人」によって、再び古書棚から取り出され愛されるようになる。

『釣魚大全』初版は1653年の刊行。生前最後の改訂版は1676年である。それ以降、この名作の刊行が長く途切れたが、しかし、1760年に文筆家で音楽史家の教養人サー・ジョン・ホーキンス:Sir John Hawkinsによってこの名著の復刻、改訂が企画される。ホーキンスは、自身の研究成果を取り入れ、アイザック・ウォルトン、共著者のチャールズ・コットンの評伝、肖像画を新たに掲載、本文中には多くの注釈(脚注)を加えて読み手にわかりやすい解説を心がけるなど、原作を実用書としても充実させた。さらに、音楽史家ホーキンスらしく、文中に登場する歌(「釣り人の歌」など)を採譜して楽譜を掲載し、演奏会も開催したほか、著名な挿画家のイラストを導入し、より魅力的な書籍に仕上げた。この復刻が世に出回りブームを呼ぶのは19世紀の初めで、ここに、新しい19世紀版『釣魚全書』が完成した。このホーキンスのフォーマットは人気を生み出し、彼の死後も、その子と、出版社サミュエル・バグスター:Samuel Bagster (1772-1885)によって改訂が続けられウォルトンブームを生み出した。本書は1815年刊行のホーキンス版第8版、バグスター改訂の第2版である。これ以降、19世紀の古典書の復活ブームにも乗って、ジョン・メジャー:John Majorなどにより、美しい装丁、精緻な挿画によるイラスト付きの豪華本、愛蔵版の刊行が続いた。20世紀に入るとアーサー・ラッカムによる豪華な挿画版も刊行されるなど、今も世界中の人々に愛される古典作品となっている。

サミュエル・バグスター:Samuel Bagster (1772~1851), はこの時代の代表的な出版人の一人である。1794年ロンドンのStrandでBagster & Sonを創業。国教会公認の英訳聖書などを出版した。のちにPaternoster Rawに移る。前回紹介した『ベーコン全集』1836年版を出版したWilliam Ballも同じParnoster Rawの出版業者。一帯は19世紀初頭の出版文化の中心で、多くの出版業者が古典書の復刻を中心に競い合っていた。現在でもロンドンの出版、メディアの中心である。この頃は都市部のジェントリー層や学生、知識人向けに、比較的手に入りやすい価格帯の書籍や、愛蔵版の豪華装丁が企画、出版された。


日本における受容

こうして時代を経るに従って、『釣魚大全』は単なる釣り案内ではなく、随想集として文学作品に昇華され、不朽の名作と評価されるようになる。その時間による熟成課程そのものもなんともイギリスらしい。イギリス人の自然、田舎生活、趣味、読書と共に生きる、静謐で精神的に充実したQuality of Lifeへの憧れを体現する作品の代表となっている。しかも先述のように、イギリス人の保守、中庸の精神の表出としても読むことができる。さらには、この作品がイギリス経験論哲学が生んだ自然思想、観察と実証を重視する科学的思考を基盤としていることにも、改めてイギリスの精神文化の奥深さを感じる。日本語翻訳も多く出されており、日本人に愛読者が多いのは、釣り人が多いだけではなく、「釣り」というものに、自然と共に生きる精神と、「達観」し「道を極める」生き方を重ねることができるからではないかと思う。

ちなみに、小泉八雲は彼の東大での英文学講義で、ウォルトンの本書をを自然史文学作品の傑作の一つとしてとして紹介している。しかし「確かに素晴らしいが、結局は釣りの理論書以上のものではない」とも評している。彼のこの論評は自然史文学領域としてのもので、18世紀の自然観察作家、ギルバート・ホワイト:Gilbert WhiteのNatural History of Selborneをより高く評価する引き合いにされた感もある。日本人の精神性との共鳴について、八雲はどう評価するのか、ぜひ聞いてみたいものだが。

日本で人気の映画、私の大好きな『釣りバカ日誌』でスーさんが英国紳士の出立で釣りに興じるシーンが出てくるが、これは三國連太郎がウォルトン『釣魚大全』へのレスペクトを込めて衣装選びしたとの逸話が残っている。『釣りバカ日誌』と『釣魚大全』に作品的な繋がりはないし、またウォルトン作品を原作マンガや映画作品に翻案した形跡もないが、三国連太郎のセンスが光る。西田敏行の浜ちゃんこそ、ここでは釣りの師匠であった。相方が自分の会社の社長であっても、釣り人がその立場や社会的身分、年齢を超えて水辺に集い、魚を相手にゆったりと時を過ごす。そして人生を語る。釣りとはそういう余暇:Recreationであることを教えてくれた。二人ともあの世でウォルトンと釣り談義に興じていることだろう。


釣りの舞台リア川地図

ロンドン時代の店舗兼住宅

故郷のスタッフォードシャーに購入したコテッジ

ミルクメイドの歌













2026年8月15日土曜日

戦後81年目の「終戦の日」 〜猛暑と地震と集中豪雨の夏 そして...〜

 鎮魂 

そして二度と繰り返さないこと 

鎮魂

武器輸出三原則見直し。国家情報局設置、国旗毀損罪新設、皇室典範改正。この勢いでスパイ防止法制定、そして憲法改正へ。併せて非核三原則見直し。国体護持(反象徴天皇制)。本日の全国戦没者追悼式において、過去への反省を明確に述べられた天皇陛下に対し、反省に言及しない総理大臣。淡々と進められる法律改正や制度、政策見直し。しかしふと気がつくといつの間にか戦争できる国に。民草のことはどこかへ忘れてきたかのように。「この道はいつか来た道」.....それが、あなたが笑うように単なる杞憂であることを祈る。


2026年8月5日水曜日

古書を巡る旅(80)『フランシス・ベーコン全集』 〜近代合理主義の源流を辿る〜


William Ball版 ”Works of Lord Bacon ” in 2 volumes,  1831刊行


Francis Bacon(1561~1626)


「偉大なる哲学者」ベーコン

前回は「ベーコン書簡集」(下記ブログ参照)を基に、「偉大なる哲学者」フランシス・ベーコン:Francis Bacon(1561~1626)のもう一つの顔、「王権にへつらう卑しむべき政治家」大法官としてのベーコンを語った(同時代の風刺詩人アレキサンダー・ポープの「最も輝ける、最も賢明な人物、そして最も卑しむべき人物」という評価に由来する。またエドワード・コークとの「法の支配」「コモン・ロー」「司法の独立」「議会の優位」を巡る論争についても語った。しかし(ラッセルが評するように)彼は聖職者でも学者でもなく、ある意味でよくある普通の宮廷官僚であり、王権と有力者に取り入り出世栄達の競争に腐心した世俗の人間であった。今回は、前回看過した嫌いがある「偉大なる哲学者」としてのベーコンに立ち戻って語る。政治家、宮廷官僚、法律家ベーコンにはさまざまな毀誉褒貶がつきまとうが、結局ベーコンは何をしたのか?なぜ「偉大なる哲学者」なのか?彼は膨大な著作集を残している。それを辿ることで彼のもう一つの顔を見ることができるだろう。彼は、いわば近代合理主義の思想的、方法論的元祖であり、科学の進歩に大きな第一歩を記した人物と見做されている。のちの産業革命、自由貿易体制、立憲君主制(かれ自身は絶対王権信奉者で自由主義者でも民主主義者でもなかったが)など、いわば西欧流近代合理主義の時代を生み出す哲学的思潮の源流であった。我々日本人の視点で言うと、東洋の日本にもたらされた「西欧近代文明」の創始者の一人と言って良いだろう。


哲学と神学

ベーコンが、イギリス経験論哲学の祖であり近代科学、近代合理主義の源流と言われる所以は如何。かれの哲学思想は、ギリシア哲学、さらにはスコラ哲学に対する懐疑と批判から生まれた。ベーコンは神学と哲学は分離されるべきものであり混淆してはならないものであるとする。哲学は人間の理性にのみ依拠すべきもの。神学は神の啓示に依拠すべきものとし、彼は「理性の真理」と「啓示の真理」という「二重の真理」の擁護者であった。これは中世のトマス・アクィナス以来、ギリシア哲学をキリスト教神学の方法論として取り入れ、「哲学は神学の僕(しもべ)」としたスコラ哲学が広く受け入れられていた時代の転換点となる画期的なことであった。この世の中の根源を宗教を基盤とした神の啓示とする考えから、その宗教的な束縛を脱し人間が自分自身の力で問題を解決する。人間の理性、経験によって世界と人間を理解しようとする。すなわち認識論哲学の始まりである。我々日本人はその歴史の中で幾多の世界文明を受け入れ、日本的に変容させてきた。それはインドから来た仏教思想であり、中国から来た道教、儒教思想であった。しかしヨーロッパ文明における「神の啓示の真理」は受け入れなかったが、「人間の理性の真理」は受け入れた。すなわち17世紀にやって来たキリスト教(ローマ・カトリック)の受容は拒絶したが、19世紀にやって来た近代合理主義は受容した。この史実は日本の外来文明の受容と変容の歴史において大きな意味を持っている。この哲学思想は、中国や朝鮮などでは強い抵抗を受けたが、日本の精神土壌には受け入れられたのである。しかも急速に。西欧の知識人が懐疑的であった「キリスト教化なき文明開花」に、ベーコンの「神の啓示」と「人間の理性」の分離で答えを出したのである。その「人間の理性の真理」「近代合理主義思想」をもたらしたのはオランダ、イギリス、アメリカ、ドイツなどのプロテスタントの国々であった、彼らは「神の啓示」を伝えることには興味を示さず、勤労を天職と考え、資本主義的合理性を追求した勤勉なるプロテスタントであった。もちろんベーコンもその一人であった。


17世紀「科学の時代」

一方で、デカルトやベーコンの時代、17世紀は「科学の時代」幕開けの世紀であった。それは主に天文学、物理学(自然学)の領域で始まった。記憶されるべき重要な人物はコペルニクス、ケプラー、そしてガリレオである。そしてやがてニュートンが生まれた。仮説をたてそれを観察/実験で実証する。こうした学問のアプローチ、実証主義的な世界観は、「天動説」を否定し「地動説」実証することになる。これはまさに天地がひっくり返る出来事であった。哲学者が科学的発見やその学問的進化に大きな影響を受けたことは想像に難くない。哲学は神学から分離される。ニュートンはベーコンの後に生まれたのであるが、ベーコンの経験論哲学の影響を受けて科学の時代の画期となるニュートン物理学を打ち立てた。若き日のベーコンがケンブリッジでギリシア哲学やスコラ哲学に興味を惹かれず、自ら自然の観察や実験にのめり込んでいったことも大いに理解できる。ちなみにニュートンもケンブリッジの学生であったし、のちには教授であった。またベーコンの経験論哲学を体系化して、次の近代合理主義に組み立て直したのはニュートンと同世代のロックであった。


経験論哲学 ベーコンとデカルト

ベーコンはデカルトと双璧をなす認識論哲学の祖と言われる。デカルトが「われ思う(考える)故に我あり」:Cogito Elgo Sumとして、全てを疑ったのち(デカルト的懐疑)、肉体(物質)よりもCogito(考えている自分、すなわち精神、理性)だけが確かなものであり、この内なる真理の原点から物事を説明し理解する「演繹法」:deductionを取ったのに対し(「合理論」:ratioism)、べーコンは「知は力なり」:Ipsa scientia potestas estとして、外にある自然や社会を実験と観察による実証でその真理を説明、理解する「帰納法」:inductionをとった。そのゆえに「経験論」:empiricismと呼ばれる。そしてそれまでの学問の方法論を見直し、全く新たな体系化を目指した。ベーコンは科学的心性をもつ哲学者の系譜の最初に位置する人であった。とは言いながらラッセルが批判するように、彼は科学の時代を切り拓いた(天文学/物理学)コペルニクス、ケプラー、ガリレオの重要な科学的発見(「地動説」「惑星の運動周期」などの天文学的な発見)の成果を十分に取り上げておらず、その意義を看過している。また科学を重視しながらも「仮説」の重要性をが強調されておらず、単にデータや事実を秩序正しく整理すれば仮説となると考えた。しかし実際には仮説を作り出すことが科学的仕事で一番難しい。しかも科学における演繹法の果たす役割は大きく、その演繹は数学によってなされることが普通である。彼は科学研究における数学を軽視した。この点で同じように天文学や物理学の発展にインスパイアーされ、数学や幾何学理論を重視したデカルトと異なる。このように彼の経験論、科学的合理性には多くの問題を含んでいたとも言える。「魔術から科学へ」の過渡期にあったベーコンの限界であったのだろう。彼の後に出たニュートンでさえ「最後の魔術師」などと評されたくらいである。


近代合理主義の源流 そして「合理的」とは?

とは言え、ベーコンが人間の理性に基点を置き、科学的合理性を重視した経験論哲学者として果たした歴史的な役割は否定できない。ホッブス、ロック、ニュートン、バークリー、ヒューム、スミスと続くイギリス経験論哲学思想、イギリス啓蒙思想を生み出した。のちの西欧流近代合理主義の源流とみなされている。一方でそうした近代合理主義は、道徳、倫理、信仰の問題をどう捉えたのか?科学的合理性が世界を、人類を大きく進歩させた。しかし、人は科学的合理性では果たし得ない真理、価値があることにも気がついた。観察と実験、検証と法則発見という、経験論的な実証主義、帰納法だけでは説明できない世界の深い闇。カール・ポパーは科学的合理性は実証ではなく反証可能性でしか語れないと、ベーコンの帰納法による合理性を批判している。歴史を科学的な理論として捉えようとする動きに対し「歴史に理論的な法則などない」と断じた。社会のあらゆる事象が科学的合理性で語られるわけではない。そうした哲学論争はともかく、科学的合理性、資本主義的合理性に疲れている現代人が多いことは確かだ。人間の理性も感性も、全てが科学的合理性を受け入れているわけではない。そのように世の中が動いていると考えるわけでもない。産業革命期に起きたラッダイト運動(機械打ち壊し)や科学万能主義への反発、ロマン主義の台頭が起きたように、現代の情報革命の時代にあってもAIを無批判に歓迎するわけでもない。非合理的な感情や、感性、美を懐しむ人も多い。詩歌や音楽や美術など芸術は科学なのか。侘びや寂に科学的合理性があるとでもいうのか。また資本主義的合理性が見落としたさまざまな社会の矛盾にも気づいた。商業活動における「三方一両得」は非合理的なのか。利他的な自己犠牲という選択は合理的意思決定ではないのか。「合理的」:Rationalとは何か? そんなことをここであげつらって、ベーコンを責めてもしようがないが、21世紀の現代、「近代合理主義」教の教祖の一人ベーコンの400年前の著作に触れて、その後何度も押し寄せた「合理主義」への反動の波が今再び押し寄せていることに気づく。


「偉大なる哲学者」と「世俗宮廷官僚」

ベーコンの思想と哲学、学問の理想、科学の実践は、世俗における欲望と葛藤と無縁ではないように思える。若き日の出世意欲に満ち満ちた時期の著作『随想録』。権力の頂点、大法官に上り詰める過程での著作『学問の進化』『諸学の大革新』『新機関』『森の森』などの大作(未完のものも)。そして失脚後に著した膨大な改訂作業、ラテン語著作。さらには死後に刊行された『ニュー・アトランティス』。ケンブリッジの学生時代に没頭した実験と観察による自然の解明という情熱と姿勢は、やがて宮廷官僚として世俗政治の世界に塗れるうちに変わっていったのか。膨大な著作は真理追求のためだけではなく、宮廷官僚としての自己承認欲求のためでもあっただろう。「知は力なり」は結局、知性ある絶対君主による統治を美化し、理想とした。そのような絶対王権の下でで学問の再構築、再体系化を試みた。しかしそれはその時代には実現しなかった。後世において知の体系化はフランスのデュドロなどのいわゆる百科全書派によって異なる形で実現された。また英邁な君主のもとに組織化される「ソロモン学院」のような科学の殿堂を夢見た。これはのちに王立アカデミーという形で実現する。しかし彼は知識を重視し「四つのイドラ(偏見)」に囚われて世の中を見誤らないよう警告しているが、時の絶対君主、ジェームス1世におもねり、のちにロックが徹底して批判する「王権神授説」を支持し、絶対王政の擁護者に徹するなど、結局は彼自身が、世俗の煩悩というイドラに絡め取られてしまった。ベーコンの主治医で血液循環の仕組みを解明した科学者ハーベイは、彼を「大法官のように哲学した」と評した。ラッセルは、「ベーコンが世俗の欲望からもう少し離れていれば、もっと多くのことをなしたに違いない」と評している。ベーコンの思想・哲学の歴史的意義を評価するも、その完成を見るためには、さらにロックなどによる経験主義哲学の理論的体系化の成果を待つ必要があった。


ベーコンの主要著作(刊行年別)

1)『随想録』:Essays or Counsel Civil and Moral  1597年

    人生、政治、学問などについて独自の洞察を短文で綴った随筆集、最初は10編からなったが、のちに追補を重ね56編に及んだ。

2)『学問の発展』:The Proficience and Advancement of Learning 1605年 

    既存の哲学批判と知の大切さ。独自の学問分類を提唱。「心理の性質」と「学問する人間の知的能力」の二分法。哲学、詩、歴史、自然研究へと繋げてゆく知識獲得方法と人間の認識、判断を妨げる意識について言及。のちの帰納法、「イドラ」につながる分析。知識の伝達が重要とし、研究者間、世代を超えた共同研究で知識を発展させることを期待。

「知は力なり」:Ipsa scientia potestas estで知られ、当時の学問の現状を分類、批判し、有用な知識の探究と学問の発展を幸福のために追求することを説いた。一方で科学の発展には権力が必要で「知」と「権力」の結びつきを説いた。理想的な統治形態は「知性」に溢れる王による「絶対王政」であり、学問や科学はそういう国家で発展すると考えた。

1603〜1605英語版刊行であるが、その後幾たびかの改訂作業ののち、20年後にラテン語版が。さらに没後にその英訳版が1640年にオックスフォードで刊行されている。

3)『諸学の大革新』(全5編):Instauratio Magna 1620年

     全6編からなる、壮大な学問改革計画。観察と実験による帰納法による科学の方法論を確立することを目指した。すなわちギリシア哲学、スコラ哲学に基づく既存の学問体系、方法論を全面的に見直そうと言う壮大な試みである。先の英文著作『学問の発展』を発展させたもの。彼の大法官失脚後の著作でラテン語で書かれた。しかし未完と言わざるを得ない。

    第2編の『ノヴム・オルガヌム』がその要となる論考。

4)『ノヴム・オルガヌム:新機関』:Novum Organum 」1620年 

    アリストテレス論理学の「オルガノン」への批判。4つの「イドラ」偶像あるいは偏見を排除して「実験、観察、検証、法則」から真理を導く帰納法を提唱した。「オルガノン」は機関というより方法論、論理という訳の方が適切かもしれない。ベーコンはアリストテレスの強烈な批判者であり、アリストテレスの「三段論法」を軽蔑した。実用的科学や技術の進歩を重視する経験論哲学を説き、新しい論理学による諸学問の近代化を目指した。

5)『森の森:自然科学史』:Sylva Sylvarum A Natural History 1627年 没後 

    10の世紀のそれぞれ100項目にわたる、実験、観察、自然現象、医学、物理実験の事例集。そのような知識、データ、事実の集積と分析が科学的な仮説をうみ、それを実証的に証明する学問につながると考えた。

6)『ニュー・アトランティス』:New Atlantis(未完)1627年 没後

    科学技術の発達した理想社会を描いたユートピア小説 架空島ベンサレムのソロモン学院という研究機関構想がのちの1660年の王立協会設立に繋がった。さらにオックスフォード理学協会へとつながる。5)のSylva Sulvarum A Natural Historyの第10編に掲載される

7)『書簡集』については以前のブログで紹介

2024年8月10日古書を巡る旅(54)ベーコン書簡集(1)

2024年9月1日古書を巡る旅(55)ベーコン書簡集(2)


William Ball版『ベーコン全集』全2巻:’The Works of Lord Bacon’ in TwoVolumes, 1838年刊

出版人William Ball自身による70ページにわたるイントロダクション。ベーコンの私的伝記記録者であったDr. William Rawleyによる略歴や解説の引用随所。それ以外は後世のベーコン研究者や翻訳家などの評論や注釈を一切用いていない。またラテン語で書かれた著作は、英訳されず原文のまま全集に取り入れられている。各著作は、書かれた年代順、時系列ではなく、カテゴリーごとに分類されている。

19世紀当時、他の伝記作家、ベーコン研究者によって編纂されたアカデミックな大型「全集」(16巻本)よりコンパクト(と言っても2巻本に小活字で1600ページが凝縮されている))にまとめられている。主な読者層としては、学生、法律家、ジェントルマン層で、図書館ではなく自宅で読めるよう手に取りやすさを意図して刊行された。当時のロンドンの出版業界の中心街Paternoster Rowで商業的な成功を収めた全集と言われている。

現代の日本語訳ベーコン全集(岩波版)の底本となっているのは、The Works of Fr. Bacon, collected and edited by J. Spedding, R. L. Ellis and D. D. Hearth, London 1858のようだ。ラテン語文の英訳責任者はSpedding (Trinity college Cambridge)。

第一巻

Introductory Essay (署名はないが出版人William Ballによるものと考えられる)

Philosophical Works(哲学論集)

 The Proficiency and Advancement of Learning, Divine and Moral(学問の進化)

 Sylva Sylvarum, or A Natural History, in Ten Centuries(森の森:10の世紀の自然史)

 New Atlantis (ニュー・アトランティス)(未完)

    他

Works Moral(道徳論集)

 Essays or Counsels Civil and Moral(随想集)

Theological Works(神学論集)

Works Political(政治論集)

Law Tracts(法律論集)

Writing Historical(歴史著作)


第二巻

Letters(書簡集)

Speech(演説集)

Instauratio Magna Pars I(諸学の大革新)ラテン語原文

Instauratio Magna Pars II  

     Novam Organum, Siva Indecia Vera De Interpretatione Naturae(ノヴム・オルガヌム:新機関)

Instauratio Magna Pars III

Instauratio Magna Pars IV

Instauratio Magna Pars V


出版人:William Ball at Aldine Chambers and No.34 Paternoster Raw 1835~1841


参考書:

『西洋哲学史』バートランド・ラッセル 市井三郎訳 (みすず書房)

2026年8月3日月曜日

猛暑の夏

 毎年夏の暑さが増しているが、今年の夏もまた一段と猛暑だ。これからは35度を超えると「酷暑」とする。とお役所が新らしい名称を発表したらしいが、ヨーロッパでは今年も40度を超える熱波が襲っている。もう次の40度超えの名称を考えておく必要があるのでは。そんな暑さの「名称」よりも「対策」だ。今するべき事と、将来を見据えてするべき事と。そんな今年の夏、熊本でまた大地震。10年前の悪夢の再現だ。猛暑の夏の地震。避難生活。やり切れない。日本人は太古より過酷な自然の中で生きてきた。この地から逃げ出すこともせず。壊れては建て直し。亡くなった方々の墓碑を守りながら生きてきた。「自助」「共助」。長い時間の中で日本人の精神性に影響を与えながら。

「言うまいと思えど今日の暑さかな」今年もまた。











2026年7月22日水曜日

2026年夏 里帰りの旅(3)太宰府天満宮 〜修復なった御本殿での「朝拝」に心洗われるの巻〜


修復なった御本殿

太宰府。訪問の前の週は39℃を記録し、日本一暑い街となった。今週も猛暑かと警戒したが、幸いにも多少気温が和らいでくれた。それでも暑い。インバウンドでごった返す表参道。「お餅焼けとりますよ、休んで行かっしゃれんね〜」の梅ヶ枝餅の店。そんな昔ながらの店がだんだん影が薄くなり、今時のファーストフード、ソフォトクリームやクレープの店など、立ち食い店が幅を利かせている。路上にゴミが散乱する。老舗の骨董民芸品を扱う店がなくなっているのにも驚いた。隈研吾設計のスターバックス・コーヒーの斬新な建物はなんとなく見慣れて定着したようだが、なんだか原宿表参道、いや竹下通りの太宰府版、と言う風情でうんざりしてしまう。そういえば古民家建築の商家もいくつかが取り壊されて建て替えられている。太宰府はオーバーツーリズム問題を抱える代表的観光地の一つになってしまった。


光明禅寺の路地

しかし一歩路地を入るとそこにはかつての静かな太宰府の佇まいが残されている。光明禅寺前の小径は静謐でいつも落ち着く。その門前に一軒の昔ながらの茶店が。老夫婦が梅ヶ枝餅とかき氷を出してくれる。暑い時に静かな小径でかき氷という至福。嬉しい。「お餅も焼けてますよ」と。もちろんいただく。熱いお茶とかき氷と梅ヶ枝餅。穏やかなお店のご主人と女将さん。「ここは静かでいいですね」と言うと、「私らは表参道のような賑やかな場所では店やりきらんですもんね」。「ここがよか。昭和な店でっしょ(笑)」と。このタイムカプセルのようなお店を残してくれて感謝。ちなみに光明禅寺は石庭「一滴海の庭」で名高い禅宗の古刹である。天満宮参詣の帰りには必ず立ち寄り、縁側に座って石庭を静かに鑑賞したものだ。残念なことに茶店のご主人の話だと、最近住職の体調不良で、公開を控えているとのこと。早く回復されることを祈る。


「古香庵」

天満宮の余香殿向かいに「古香庵」という懐石料理店があった。昔はとある著名な書道家の別邸だったところだ。数寄屋作りの邸宅と庭園がコンパクトにまとまった風情ある店であった。それが今回行ってみると「古民家ホテル」に変わっていた。少し離れた連歌屋通りの別の料亭と商家だったところもリノベした宿泊施設に。一棟貸しの古民家滞在型のホテルだ。。そこに泊まった。元太宰府市民が初めて太宰府に宿泊したことになる。伝統的な建築と庭園に大きな改造を加えることなく、室内に檜風呂や快適なベッドルームを違和感なく取り入れている。なかなか趣があって良かった。太宰府にこのような古民家資源があったのだと再発見した。それをうまく活かした宿泊施設。何よりも取り壊されなくてよかった。そういえば太宰府には宿泊施設がなかった。参拝客や観光客は西鉄電車でやってきて、天満宮に参拝すると、参道で梅ヶ枝餅食べたりお土産買ったりして、また電車で帰ってゆく。地元に落ちるお金はそんなものだった。古都太宰府を楽しむ。太宰府政庁跡、観世音寺、戒壇院。水城へも足を伸ばし歴史を偲ぶ。そんな余裕が生まれる。少し事情が変わってきたようだ。悪くない。


再建なった御本殿

小早川隆景公寄進の天満宮の御本殿は長く修復工事のため見ることができなかった。代わりに極めて斬新な仮殿が境内に設けられていたが、今回はそれが撤去され、いよいよ修復なった本殿が姿を現した。美しい朱塗りの建物が見事に復元された。あの屋根が森になっていた仮殿も天神の森の佇まいに溶け込んで良かったのだが、それがどうなったのか気になる。壊したのか?勿体無い... 道真公の直系の子孫、西高辻家は代々、伝統と革新を旨とする家系だ。幕末に京都での政変で亡命してきた「七卿落ち」をかくまい、薩摩、長州、土佐、筑前の勤王の志士を庇護した。当時太宰府は「尊王攘夷」の治外法権地域であった、参道のお土産屋さんも、元は薩長土佐、幕府の御用達旅籠であった。現代の当主は天神の森との融合という芸術表現をあの仮殿に大胆に取り入れた。大阪万博の円形回廊を設計した事務所の作品だという。また折々にご神域を舞台に芸術祭を開催している。そんな中、伝統的な建築様式の御本殿が再び!筑紫の地、太宰府ならではの唯一無二の御本殿。


朝拝

その御本殿で、朝8時半。天満宮の「朝拝」に参列した。観光客で混み合うことはなく参拝者は地元の人が多い。これを日課にしているのであろう。神官さんにお祓いをしてもらう。心が洗われる。煩悩が振り払われ悟りに至る気分。神社で「悟り」?、いやおかしくないのだ。もともとここは道真公を埋葬し、その菩提を弔うために建立された安楽寺である。それがのちに安楽寺天満宮、太宰府天満宮となった。今も御本殿の某所にご遺骸が安置されている。神仏習合は日本の文化。そういえば天満宮境内に創建された禅寺「光明禅寺」も横岳の禅寺「崇福寺」(のちに博多に移され筑前国主黒田氏の菩提寺となる)も天満宮の神護寺なのだ。鎌倉時代、博多とともに太宰府は禅宗が盛んであった。

猛暑の夏とはいえ早朝の天満宮境内は静謐で清々しい。樹齢1500年の楠の古木が日差しを覆ってくれている。もともと天満宮は楠の原始林に創建された。境内を神官、巫女さんが綺麗に掃き清める、御本殿、拝殿、回廊の朝の掃除。その後に「朝拝」。かつて太宰府に住んでいたこともあるのに、深々と雪降り積もる余香殿で成人式をやってもらったのに。この歳になって初めて朝拝のお祓いを受けた。久しぶりの里帰りで太宰府の聖地としての尊さに改めて気付かされた。観光客でごった返す太宰府も一つの姿だが、この聖域の神々しさこそ太宰府なのだ。故郷はありがたい。

番外編:孫がお祓いの最中に、熱中症気味で気分が悪くなったのだが、神官さんたちが駆けつけて木陰に誘導して冷たい水とうちわを用意してくださった。「医務室もありますから」と言ってくださったが、いただいた水を飲んで少し休んだららすぐに元気になった。神官さんの機転と天神様のご威徳の賜物である。深謝。



朝拝

参拝者へのお祓い

朝の清掃と準備に余念がない巫女さんたち

神官さんも御出仕

整いました

3年前に本殿修復工事が始まり「仮殿」が設けられた(2023年10月の写真)




推定樹齢1500年の樟の大木

参道の賑わい

御神牛との「インスタ映え」行列

参道の喧騒を離れるとこんな落ち着いた小径が

梅ヶ枝餅

かき氷


光明禅寺

九州国立博物館


(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA 20-200/3.5-6.3 DG)


2026年7月21日火曜日

2026年夏 里帰りの旅(2)水郷柳川 〜「よみがえり」の街で川下りとうなぎ蒸篭蒸しを堪能するの巻〜

柳川は城下町である。秀吉の九州平定に功績のあった立花宗茂が、南筑後13万石の領主となり柳河城(かつては柳ではなくこのように表記した)に入城した。宗茂は、島津勢の猛攻に抵抗し、岩屋城(四王寺山)で壮絶な討ち死にした猛将、高橋紹運の実子で、やはり九州の実力者、立花道雪の養子(誾千代の婿)となった。すなわち筑紫に武勇を轟かせたの名門一族の出である。しかし1600年の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に着き、家康に所領を没収された。一方で関ヶ原で東軍に功績(石田三成を捕縛した)のあった田中吉政が、三河岡崎から筑後32万石領主として柳河に入城。一国一城の主となった。柳川では堀割り整備、天守構築、矢部川の治水、有明湾の干拓、堤防整備などの城下町としての基礎を整えた。「堀割り」「どんこ舟」「水郷柳川」のイメージは吉政によって形成されたと言って良い。しかし田中氏は後継がなく断絶。家康は浪人となっていた旧領主の立花宗茂の人格識見を高く評価し、再び国守に取り立てる。立花宗茂は柳河10万石の大名として旧領に返り咲く。以降明治の廃藩置県まで立花氏がこの地を治めた。立花家別邸「松濤館」は「御花」として当主子孫により経営されて現在に至っている。こんな立花宗茂のエピソードから、柳川は「よみがえり」「敗者復活」の街として縁起担ぎにも人気がある。

田中吉政は豊臣秀次の家老として近江八幡の街づくりに活躍した。のちに三河岡崎5万石(のちに10万石に加増)の城主となり、岡崎のまちづくりにも貢献した。いずれの地においても低湿地の埋め立て、堀割り構築、街道の付け方などを行い、水運、陸運を縦横に整備し城下町としての機能を高めるインフラ整備を行なった。近江八幡の八幡堀あたりの景観が柳川を彷彿とさせるのには理由があった。これらの吉政の都市設計思想がのちの柳川の街づくりに大きな影響を与えた。

柳川は、元々は干満差の大きい有明海の干潟であったところで、吉政は干拓により農地や居住地を確保。街中に張り巡らされた堀割り、クリークは、矢部川や筑後川に繋げて海水が混じらない生活用水確保と水運として必須のインフラであった。その全長は930キロに及ぶという。水郷柳川の基礎を築いた田中吉政の功績は大きい。彼は近江八幡でも琵琶湖からの水を引き堀割りを巡らした街作りをしており、その経験が柳川に生かされた。また周辺の街道の整備を行い陸路での通行にもにも力を入れた。今は堀割りが交通手段や生活用水として使われることは無くなった。一時期、放置され水質汚染が進み、ドブ川と化しつつあった堀割りを埋め立てて道路にしようという計画が持ち上がったそうだ。しかし地元の人々の反対運動で、堀割りが残され、水質浄化運動が進められ、現在のような「水郷柳川」が残されたわけだ。そのシンボル「川下り」が全国、全世界の人々に愛されるようになった。この辺りの「街づくり」エピソードも近江八幡のそれと共通するものがある。

一方で、明治維新、廃藩置県、版籍奉還により、各地の藩主、大名が華族となり多くが旧領国を離れ東京に引っ越していった中で、立花家は華族となったのちも柳川に屋敷を構え、洋館を建設し地元に住まった。城は破却されて残らなかったが、これが「松濤館」「松濤庭園」のちに「御花」として地元に残った。現在では柳川のシンボルとなり、田中氏の「堀割り」と共に地元に大きなレガシーを残してくれた。立花宗茂と田中吉政。この二人のお殿様が建設し育てた柳川である。


「うなぎの蒸籠蒸し」の思い出。 

父が大好きだった柳川独特の味。もちろん私の大好物でもある。ご飯にタレをまぶして蒸す。そしてうなぎの蒲焼と錦糸卵を乗せてふたたび蒸す。故に注文から出てくるまでに時間がかかるが、タレがしっかり染み込んだご飯と肉厚の蒲焼。最後まで熱々で食べられる絶品!朱塗りの器の中に蒸しあがったばかりの蒸篭が収められている。市内に何店かあるが、我が家は若松屋によく行った。本吉屋も老舗。御花でも庭園を眺めながら楽しむことができる。東京や大阪では、鰻屋はあるが、蒸籠蒸しを出す店がなく、父が「柳川の蒸籠蒸し食べたいなあ」と懐かしがっていた。うなぎと柳川。いつ頃から有名になったのか実はあまりはっきりしていないようだ。いくつかの記録によると江戸時代末期から柳川のうなぎの取引が上方でも行われていたようで、地元でも郷土の料理として漁師仲間で振る舞われたらしい。また蒸篭で蒸すというスタイルがなぜ始まったのかも「冷めにくいから」と言うウンチクらしくない説明しか聞こえてこない。東京や大阪でなぜ流行らないのかも「なるほどガッテン!」と言う解説がない。調理に時間がかかるのでセッカチ、イラチには向かないのだろう。いずれにせよ「うなぎの蒸籠蒸し」は柳川に来なければ味わえない。

ちなみに柳川は、詩人、北原白秋を産んだ街でもある。今回は時間がなく「白秋記念館」には寄れなかった。


「御花」横の川下り乗り場

船頭さんの名調子

孫も竿を持たせてもらう

低い橋をくぐる準備



夏雲

殿の蔵

堀割りから見るうなぎ蒸篭蒸の老舗「若松屋」行列ができている。



立花家別邸「松濤館」別名「御花」

白亜の洋館と漆黒の和館



松濤園




さげもん



うなぎ蒸籠蒸し


(撮影機材:Leica SL3 Reporter + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG)