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2026年8月5日水曜日

古書を巡る旅(80)『フランシス・ベーコン全集』 〜近代合理主義の源流を辿る〜



William Ball版 ”Works of Lord Bacon ” in 2 volumes,  1831刊行

Francis Bacon(1561~1626)


「偉大なる哲学者」ベーコン

前回は「ベーコン書簡集」(下記ブログ参照)を基に、「偉大なる哲学者」フランシス・ベーコン:Francis Bacon(1561~1626)のもう一つの顔、「王権にへつらう卑しむべき政治家」大法官としてのベーコンを語った(同時代の風刺詩人アレキサンダー・ポープの「最も輝ける、最も賢明な人物、そして最も卑しむべき人物」という評価に由来する。またエドワード・コークとの「法の支配」「コモン・ロー」「司法の独立」「議会の優位」を巡る論争についても語った。しかし(ラッセルが評するように)彼は聖職者でも学者でもなく、ある意味でよくある普通の宮廷官僚であり、王権と有力者に取り入り出世栄達の競争に腐心した世俗の人間であった。今回は、前回看過した嫌いがある「偉大なる哲学者」としてのベーコンに立ち戻って語る。政治家、宮廷官僚、法律家ベーコンにはさまざまな毀誉褒貶がつきまとうが、結局ベーコンは何をしたのか?なぜ「偉大なる哲学者」なのか?彼は膨大な著作集を残している。それを辿ることで彼のもう一つの顔を見ることができるだろう。彼は、いわば近代合理主義の思想的、方法論的元祖であり、科学の進歩に大きな第一歩を記した人物と見做されている。のちの産業革命、自由貿易体制、立憲君主制(かれ自身は絶対王権信奉者で自由主義者でも民主主義者でもなかったが)など、いわば西欧流近代合理主義の時代を生み出す哲学的思潮の源流であった。我々日本人の視点で言うと、東洋の日本にもたらされた「西欧近代文明」の元祖の一人と言って良いだろう。


哲学と神学

ベーコンはイギリス経験論哲学の祖。近代科学、合理主義、経済学、自由主義、民主主義の源流と言われる所以は如何。かれの哲学思想は、ギリシア哲学、さらには「哲学は神学の僕(しもべ)」とするスコラ哲学に対する懐疑と批判から生まれた、ベーコンは神学と哲学は分離されるべきものであり混淆してはならないものであるとする。哲学は人間の理性にのみ依拠すべきもの。神学は神の啓示に依拠すべきものとし、「理性の真理」と「啓示の真理」という「二重の真理」の擁護者であった。これはトマス・アクィナス以来スコラ哲学が基本的な神学/哲学理解と考えられていた時代に画期的なことであった。我々日本人はその歴史の中で幾多の世界文明を受け入れ、日本的に変容させてきた。それはインドから来た仏教思想であり、中国から来た道教、儒教思想であった。しかし西欧文明における「神の啓示の真理」は受け入れなかったが、「人間の理性の真理」は受け入れた。すなわち17世紀にキリスト教の受容は拒絶したが、19世紀に近代合理主義は受容した。この史実は日本の外来文明の受容と変容の歴史において大きな意味を持っている。この哲学思想は、中国や朝鮮などでは強い抵抗を受けたが、日本の精神土壌には受け入れられたのである。西欧の知識人が懐疑的であった「キリスト教化されない文明開花」に答えを出したのである。


17世紀「科学の時代」

デカルトやベーコンの時代、17世紀は「科学の時代」幕開けの世紀であった。それは主に天文学、物理学(自然学)の領域で始まった。記憶されるべき重要な人物はコペルニクス、ケプラー、そしてガリレオである。そしてやがてニュートンが生まれた。仮説をたてそれを観察/実験で実証する。こうした学問のアプローチ、実証主義的な世界観は、「天動説」を否定し「地動説」実証することになる。これはまさに天地がひっくり返る出来事であった。哲学者が科学的発見やその進化に大きな影響を受けたことは想像に難くない。哲学は神学から分離される。ニュートンはベーコンの後に生まれたのであるが、ベーコンの経験論哲学の影響を受けて科学の時代の画期となるニュートン物理学を打ち立てた。若き日のベーコンがケンブリッジでギリシア哲学やスコラ哲学に興味を惹かれず、自ら自然の観察や実験にのめり込んでいったことも大いに理解できる。ちなみにニュートンもケンブリッジの学生であったし、のちには教授であった。またベーコンの経験論哲学を体系化して、次の近代合理主義に組み立て直したのはニュートンと同世代のロックであった。


経験論哲学 ベーコンとデカルト

ベーコンはデカルトと双璧をなす合理主義哲学の祖と言われるが、デカルトが「われ思う(考える)故に我あり」:Cogito Elgo Sumとして、全てを疑ったのち(デカルト的懐疑)、肉体(物質)よりもCogito(考えている自分、すなわち精神)だけが確かなものであり、この真理の原点から物事を説明し理解する「演繹法」:deductionを取ったのに対し、べーコンは自然や社会を実験と観察による実証で理解説明する「帰納法」:inductionをとった。そのゆえに「経験主義」:empiricismと呼ばれる。ベーコンは科学的心性をもつ哲学者の系譜の最初に位置する人であった。そして学問の方法論を見直し、全く新たな体系化を目指した。とは言いながらラッセルが批判するように、彼は科学の時代を切り拓いた(天文学/物理学)コペルニクス、ケプラー、ガリレオの重要な科学的発見(「地動説」「惑星の運動周期」などの天文学的な発見)の成果を十分に取り上げておらず、その意義を看過している。また科学を重視しながらも「仮説」の重要性をが強調されておらず、単にデータや事実を秩序正しく整理すれば仮説となると考えた。しかし実際には仮説を作り出すことが科学的仕事で一番難しい。しかも科学における演繹法の果たす役割は大きく、その演繹は数学によってなされることが普通である。彼は科学研究における数学を軽視した。この点で同じように天文学や物理学といった科学の発展にインスパイアーされ数学や幾何学理論を重視したデカルトと異なる。このように彼の経験論、科学的合理性には多くの問題を含んでいたとも言える。「魔術から科学へ」の過渡期にあったベーコンの限界であったのだろう。彼の後に出たニュートンでさえ「最後の魔術師」などと評されたくらいである。


近代合理主義の源流 そして「合理的」とは?

とは言え、ベーコンが人間の理性に基点を置き科学的合理性を重視した哲学者として果たした歴史的な役割は否定できない。ホッブス、ロック、ニュートン、バークリー、ヒューム、スミスと続くイギリス経験論哲学、イギリス啓蒙思想を生み出した。のちの西欧流近代合理主義の源流とみなされている。一方でそうした近代合理主義は、道徳、倫理、信仰の問題をどう捉えたのか?科学的合理性が世界を、人類を大きく進歩させた。しかし、人は科学的合理性では果たし得ない価値があることにも気がついた。観察と実験、検証と法則発見という、経験論的な実証主義、帰納法だけでは解けない世界の深い闇。カール・ポパーは科学的合理性は実証ではなく反証可能性でしか語れないと、ベーコンの帰納法による合理性を批判している。歴史を科学的な理論として捉えようとする動きに対し「歴史に理論的な法則などない」と断じた。社会のあらゆる事象が科学的合理性で語られるわけではない。そうした哲学論争はともかく、科学的合理性、資本主義的合理性に疲れている現代人が多いことは確かだ。人間の理性も感性も、全てが科学的合理性を受け入れているわけではない。そのように世の中が動いていると考えるわけでもない。産業革命期に起きたラッダイト運動(機会打ち壊し)や科学万能主義への反発、ロマン主義の台頭が起きたように、現代の情報革命の時代にあってもAIを無批判に歓迎するわけでもない。非合理的な感情や、感性、美を懐かしむ人も多い。詩歌や音楽や美術は科学なのか。侘びや寂に科学的合理性があるとでもいうのか。また資本主義的合理性が見落としたさまざまな社会の矛盾にも気づいた。商業活動における「三方一両得」は非合理的なのか。利他的な自己犠牲という選択は合理的意思決定ではないのか。「合理的」:Rationalとは何か? そんなことをここで言って、ベーコンを責めてもしようがないが、21世紀の現代、「近代合理主義」教の教祖の一人ベーコンの400年前の著作に触れて、その後何度も押し寄せた「合理主義」への反動の波が今再び押し寄せていることに気づく。


「偉大なる哲学者」と「世俗宮廷官僚」

ベーコンの思想と哲学、学問の理想、科学の実践は、世俗における欲望と葛藤と無縁ではないように思える。若き日の出世意欲に満ち満ちた時期の著作『随想録』。権力の頂点、大法官に上り詰める過程での著作『学問の進化』『諸学の大革新』『新機関』『森の森』などの大作(未完のものが)。そして失脚後に著した膨大な改訂作業、ラテン語著作。さらには死後に刊行された『ニュー・アトランティス』。ケンブリッジの学生時代に没頭した実験と観察による自然の解明しようとする情熱と姿勢は、やがて宮廷官僚として世俗政治の世界に塗れるうちに変わっていったのか。「知は力なり」は結局、知性ある絶対君主による統治を美化し、理想とした。そのような絶対王権の下でで学問の再構築、再体系化を試みた。しかしそれはその時代には実現しなかった。後世において知の体系化はフランスのデュドロなどのいわゆる百科全書派によって異なる形で実現された。また英邁な君主のもとに組織化される「ソロモン学院」のような科学の殿堂を夢見た。これはのちに王立アカデミーという形で実現する。彼は知識を重視し「四つのイドラ(偏見)」に囚われて世の中を見誤らないよう警告しているが、結局は彼自身が、世俗の煩悩というイドラに絡め取られてしまった。ベーコンの主治医で血液循環の仕組みを解明した科学者ハーベイは、彼を「大法官のように哲学した」と評した。ラッセルは、「ベーコンが世俗の欲望からもう少し離れていれば、もっと多くのことをなしたに違いない」と評している。ベーコンの思想・哲学の歴史的意義を評価するも、その完成を見るためにはロックなどによる経験主義哲学の体系化の成果を待つ必要があった。

次にベーコンの主要著作を紹介し、その主張をまとめてみた。


ベーコンの主要著作(刊行年別)

1)『随想録』:Essays or Counsel Civil and Moral  1597年

    人生、政治、学問などについて独自の洞察を短文で綴った随筆集、最初は10編からなったが、のちに追補を重ね56編に及んだ。

2)『学問の発展』:The Proficience and Advancement of Learning 1605年 

    既存の哲学批判と知の大切さ。独自の学問分類を提唱。「心理の性質」と「学問する人間の知的能力」の二分法。哲学、詩、歴史、自然研究へと繋げてゆく知識獲得方法と人間の認識、判断を妨げる意識について言及。のちの帰納法、「イドラ」につながる分析。知識の伝達が重要とし、研究者間、世代を超えた共同研究で知識を発展させることを期待。

「知は力なり」:Ipsa scientia potestas estで知られ、当時の学問の現状を分類、批判し、有用な知識の探究と学問の発展を幸福のために追求することを説いた。一方で科学の発展には権力が必要で「知」と「権力」の結びつきを説いた。理想的な統治形態は「知性」に溢れる王による「絶対王政」であり、学問や科学はそういう国家で発展すると考えた。

1603〜1605英語版刊行であるが、その後幾たびかの改訂作業ののち、20年後にラテン語版が。さらに没後にその英訳版が1640年にオックスフォードで刊行されている。

3)『諸学の大革新』(全5編):Instauratio Magna 1620年

     全6編からなる、壮大な学問改革計画。観察と実験による機能法による科学の方法論を確立することを目指した。すなわちギリシア哲学、スコラ哲学に基づく既存の学問体系、方法論を全面的に見直そうと言う壮大な試みである。先の英文著作『学問の発展』を発展させたもの。彼の失脚後の著作でラテン語で書かれた。しかし未完と言わざるを得ない。

    第2編の『ノヴム・オルガヌム』がその要となる論考。

4)『ノヴム・オルガヌム:新機関』:Novum Organum 」1620年 

    アリストテレス論理学の「オルガノン」への批判。4つの「イドラ」偶像あるいは偏見を排除して「実験、観察、検証、法則」から真理を導く「帰納法」を提唱した。「オルガノン」は機関というより方法論、論理という訳の方が適切かもしれない。ベーコンはアリストテレスの強烈な批判者であり、アリストテレスの「三段論法」を軽蔑した。実用的科学や技術の進歩を重視する経験論哲学を説き、新しい論理学による諸学問の近代化を目指した。

5)『森の森:自然科学史』:Sylva Sylvarum A Natural History 1627年 没後 

    10の世紀のそれぞれ100項目にわたる、実験、観察、自然現象、医学、物理実験の事例集。そのような知識、データ、事実の集積と分析が科学的な仮説をうみ、それを実証的に証明する学問につながると考えた。帰納法の論拠とした。

6)『ニュー・アトランティス』:New Atlantis(未完)1627年 没後

    科学技術の発達した理想社会を描いたユートピア小説 架空島ベンサレムのソロモン学院という研究機関構想がのちの1660年の王立協会設立に繋がった。さらにオックスフォード理学協会へとつながる。5)のSylva Sulvarum A Natural Historyの第10編に掲載される


書簡集については以前のブログで紹介

2024年8月10日古書を巡る旅(54)ベーコン書簡集(1)

2024年9月1日古書を巡る旅(55)ベーコン書簡集(2)


William Ball版『ベーコン全集』全2巻:’The Works of Lord Bacon’ in TwoVolumes, 1838年刊の構成

出版人William Ball自身による70ページにわたるイントロダクション。ベーコンの私的牧師、伝記記録者であったDr. William Rawleyによる略歴や解説の引用随所。それ以外は後世のベーコン研究者や翻訳家などの評論や注釈を一切用いていない。またラテン語で書かれた著作は、英訳されず原文のまま全集に取り入れられている。各著作は、書かれた年代順、時系列ではなく、カテゴリーによって分類され掲載されている。

19世紀当時、他の伝記作家、ベーコン研究者によって編纂されたアカデミックな大型「全集」(16巻本)よりコンパクト(と言っても2巻本に小活字で1600ページが凝縮されている))にまとめられている。主な読者層としては、学生、法律家、ジェントルマン層で、図書館ではなく自宅で読めるよう手に取りやすさを意図して刊行された。当時のロンドンの出版業界の中心街Paternoster Rowで商業的な成功を収めた全集と言われている。

現代の日本語訳(岩波版)の底本となっているのは、The Works of Fr. Bacon, collected and edited by J. Spedding, R. L. Ellis and D. D. Hearth, London 1858のようだ。ラテン語文の英訳責任者はSpedding (Trinity college Cambridge)。

第一巻

Introductory Essay (署名はないが出版人William Ballによるものと考えられる)

Philosophical Works(哲学論集)

 The Proficiency and Advancement of Learning, Divine and Moral(学問の進化)

 Sylva Sylvarum, or A Natural History, in Ten Centuries(森の森:10の世紀の自然史)

 New Atlantis (ニュー・アトランティス)(未完)

    他

Works Moral(道徳論集)

 Essays or Counsels Civil and Moral(随想集)

Theological Works(神学論集)

Works Political(政治論集)

Law Tracts(法律論集)

Writing Historical(歴史著作)


第二巻

Letters(書簡集)

Speech(演説集)

Instauratio Magna Pars I(諸学の大革新)ラテン語原文

Instauratio Magna Pars II  

     Novam Organum, Siva Indecia Vera De Interpretatione Naturae(ノヴム・オルガヌム:新機関)

Instauratio Magna Pars III

Instauratio Magna Pars IV

Instauratio Magna Pars V


出版人:William Ball at Aldine Chambers and No.34 Paternoster Raw 1835~1841


参考書:

『西洋哲学史』バートランド・ラッセル 市井三郎訳 (みすず書房)

2026年7月22日水曜日

2026年夏 里帰りの旅(3)太宰府天満宮 〜修復なった御本殿での「朝拝」に心洗われるの巻〜


修復なった御本殿

太宰府。訪問の前の週は39℃を記録し、日本一暑い街となった。今週も猛暑かと警戒したが、幸いにも多少気温が和らいでくれた。それでも暑い。インバウンドでごった返す表参道。「お餅焼けとりますよ、休んで行かっしゃれんね〜」の梅ヶ枝餅の店。そんな昔ながらの店がだんだん影が薄くなり、今時のファーストフード、ソフォトクリームやクレープの店など、立ち食い店が幅を利かせている。路上にゴミが散乱する。老舗の骨董民芸品を扱う店がなくなっているのにも驚いた。隈研吾設計のスターバックス・コーヒーの斬新な建物はなんとなく見慣れて定着したようだが、なんだか原宿表参道、いや竹下通りの太宰府版、と言う風情でうんざりしてしまう。そういえば古民家建築の商家もいくつかが取り壊されて建て替えられている。太宰府はオーバーツーリズム問題を抱える代表的観光地の一つになってしまった。


光明禅寺の路地

しかし一歩路地を入るとそこにはかつての静かな太宰府の佇まいが残されている。光明禅寺前の小径は静謐でいつも落ち着く。その門前に一軒の昔ながらの茶店が。老夫婦が梅ヶ枝餅とかき氷を出してくれる。暑い時に静かな小径でかき氷という至福。嬉しい。「お餅も焼けてますよ」と。もちろんいただく。熱いお茶とかき氷と梅ヶ枝餅。穏やかなお店のご主人と女将さん。「ここは静かでいいですね」と言うと、「私らは表参道のような賑やかな場所では店やりきらんですもんね」。「ここがよか。昭和な店でっしょ(笑)」と。このタイムカプセルのようなお店を残してくれて感謝。ちなみに光明禅寺は石庭「一滴海の庭」で名高い禅宗の古刹である。天満宮参詣の帰りには必ず立ち寄り、縁側に座って石庭を静かに鑑賞したものだ。残念なことに茶店のご主人の話だと、最近住職の体調不良で、公開を控えているとのこと。早く回復されることを祈る。


「古香庵」

天満宮の余香殿向かいに「古香庵」という懐石料理店があった。昔はとある著名な書道家の別邸だったところだ。数寄屋作りの邸宅と庭園がコンパクトにまとまった風情ある店であった。それが今回行ってみると「古民家ホテル」に変わっていた。少し離れた連歌屋通りの別の料亭と商家だったところもリノベした宿泊施設に。一棟貸しの古民家滞在型のホテルだ。。そこに泊まった。元太宰府市民が初めて太宰府に宿泊したことになる。伝統的な建築と庭園に大きな改造を加えることなく、室内に檜風呂や快適なベッドルームを違和感なく取り入れている。なかなか趣があって良かった。太宰府にこのような古民家資源があったのだと再発見した。それをうまく活かした宿泊施設。何よりも取り壊されなくてよかった。そういえば太宰府には宿泊施設がなかった。参拝客や観光客は西鉄電車でやってきて、天満宮に参拝すると、参道で梅ヶ枝餅食べたりお土産買ったりして、また電車で帰ってゆく。地元に落ちるお金はそんなものだった。古都太宰府を楽しむ。太宰府政庁跡、観世音寺、戒壇院。水城へも足を伸ばし歴史を偲ぶ。そんな余裕が生まれる。少し事情が変わってきたようだ。悪くない。


再建なった御本殿

小早川隆景公寄進の天満宮の御本殿は長く修復工事のため見ることができなかった。代わりに極めて斬新な仮殿が境内に設けられていたが、今回はそれが撤去され、いよいよ修復なった本殿が姿を現した。美しい朱塗りの建物が見事に復元された。あの屋根が森になっていた仮殿も天神の森の佇まいに溶け込んで良かったのだが、それがどうなったのか気になる。壊したのか?勿体無い... 道真公の直系の子孫、西高辻家は代々、伝統と革新を旨とする家系だ。幕末に京都での政変で亡命してきた「七卿落ち」をかくまい、薩摩、長州、土佐、筑前の勤王の志士を庇護した。当時太宰府は「尊王攘夷」の治外法権地域であった、参道のお土産屋さんも、元は薩長土佐、幕府の御用達旅籠であった。現代の当主は天神の森との融合という芸術表現をあの仮殿に大胆に取り入れた。大阪万博の円形回廊を設計した事務所の作品だという。また折々にご神域を舞台に芸術祭を開催している。そんな中、伝統的な建築様式の御本殿が再び!筑紫の地、太宰府ならではの唯一無二の御本殿。


朝拝

その御本殿で、朝8時半。天満宮の「朝拝」に参列した。観光客で混み合うことはなく参拝者は地元の人が多い。これを日課にしているのであろう。神官さんにお祓いをしてもらう。心が洗われる。煩悩が振り払われ悟りに至る気分。神社で「悟り」?、いやおかしくないのだ。もともとここは道真公を埋葬し、その菩提を弔うために建立された安楽寺である。それがのちに安楽寺天満宮、太宰府天満宮となった。今も御本殿の某所にご遺骸が安置されている。神仏習合は日本の文化。そういえば天満宮境内に創建された禅寺「光明禅寺」も横岳の禅寺「崇福寺」(のちに博多に移され筑前国主黒田氏の菩提寺となる)も天満宮の神護寺なのだ。鎌倉時代、博多とともに太宰府は禅宗が盛んであった。

猛暑の夏とはいえ早朝の天満宮境内は静謐で清々しい。樹齢1500年の楠の古木が日差しを覆ってくれている。もともと天満宮は楠の原始林に創建された。境内を神官、巫女さんが綺麗に掃き清める、御本殿、拝殿、回廊の朝の掃除。その後に「朝拝」。かつて太宰府に住んでいたこともあるのに、深々と雪降り積もる余香殿で成人式をやってもらったのに。この歳になって初めて朝拝のお祓いを受けた。久しぶりの里帰りで太宰府の聖地としての尊さに改めて気付かされた。観光客でごった返す太宰府も一つの姿だが、この聖域の神々しさこそ太宰府なのだ。故郷はありがたい。

番外編:孫がお祓いの最中に、熱中症気味で気分が悪くなったのだが、神官さんたちが駆けつけて木陰に誘導して冷たい水とうちわを用意してくださった。「医務室もありますから」と言ってくださったが、いただいた水を飲んで少し休んだららすぐに元気になった。神官さんの機転と天神様のご威徳の賜物である。深謝。



朝拝

参拝者へのお祓い

朝の清掃と準備に余念がない巫女さんたち

神官さんも御出仕

整いました

3年前に本殿修復工事が始まり「仮殿」が設けられた(2023年10月の写真)




推定樹齢1500年の樟の大木

参道の賑わい

御神牛との「インスタ映え」行列

参道の喧騒を離れるとこんな落ち着いた小径が

梅ヶ枝餅

かき氷


光明禅寺

九州国立博物館


(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA 20-200/3.5-6.3 DG)


2026年7月21日火曜日

2026年夏 里帰りの旅(2)水郷柳川 〜「よみがえり」の街で川下りとうなぎ蒸篭蒸しを堪能するの巻〜

柳川は城下町である。秀吉の九州平定に功績のあった立花宗茂が、南筑後13万石の領主となり柳河城(かつては柳ではなくこのように表記した)に入城した。宗茂は、島津勢の猛攻に抵抗し、岩屋城(四王寺山)で壮絶な討ち死にした猛将、高橋紹運の実子で、やはり九州の実力者、立花道雪の養子(誾千代の婿)となった。すなわち筑紫に武勇を轟かせたの名門一族の出である。しかし1600年の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に着き、家康に所領を没収された。一方で関ヶ原で東軍に功績(石田三成を捕縛した)のあった田中吉政が、三河岡崎から筑後32万石領主として柳河に入城。一国一城の主となった。柳川では堀割り整備、天守構築、矢部川の治水、有明湾の干拓、堤防整備などの城下町としての基礎を整えた。「堀割り」「どんこ舟」「水郷柳川」のイメージは吉政によって形成されたと言って良い。しかし田中氏は後継がなく断絶。家康は浪人となっていた旧領主の立花宗茂の人格識見を高く評価し、再び国守に取り立てる。立花宗茂は柳河10万石の大名として旧領に返り咲く。以降明治の廃藩置県まで立花氏がこの地を治めた。立花家別邸「松濤館」は「御花」として当主子孫により経営されて現在に至っている。こんな立花宗茂のエピソードから、柳川は「よみがえり」「敗者復活」の街として縁起担ぎにも人気がある。

田中吉政は豊臣秀次の家老として近江八幡の街づくりに活躍した。のちに三河岡崎5万石(のちに10万石に加増)の城主となり、岡崎のまちづくりにも貢献した。いずれの地においても低湿地の埋め立て、堀割り構築、街道の付け方などを行い、水運、陸運を縦横に整備し城下町としての機能を高めるインフラ整備を行なった。近江八幡の八幡堀あたりの景観が柳川を彷彿とさせるのには理由があった。これらの吉政の都市設計思想がのちの柳川の街づくりに大きな影響を与えた。

柳川は、元々は干満差の大きい有明海の干潟であったところで、吉政は干拓により農地や居住地を確保。街中に張り巡らされた堀割り、クリークは、矢部川や筑後川に繋げて海水が混じらない生活用水確保と水運として必須のインフラであった。その全長は930キロに及ぶという。水郷柳川の基礎を築いた田中吉政の功績は大きい。彼は近江八幡でも琵琶湖からの水を引き堀割りを巡らした街作りをしており、その経験が柳川に生かされた。また周辺の街道の整備を行い陸路での通行にもにも力を入れた。今は堀割りが交通手段や生活用水として使われることは無くなった。一時期、放置され水質汚染が進み、ドブ川と化しつつあった堀割りを埋め立てて道路にしようという計画が持ち上がったそうだ。しかし地元の人々の反対運動で、堀割りが残され、水質浄化運動が進められ、現在のような「水郷柳川」が残されたわけだ。そのシンボル「川下り」が全国、全世界の人々に愛されるようになった。この辺りの「街づくり」エピソードも近江八幡のそれと共通するものがある。

一方で、明治維新、廃藩置県、版籍奉還により、各地の藩主、大名が華族となり多くが旧領国を離れ東京に引っ越していった中で、立花家は華族となったのちも柳川に屋敷を構え、洋館を建設し地元に住まった。城は破却されて残らなかったが、これが「松濤館」「松濤庭園」のちに「御花」として地元に残った。現在では柳川のシンボルとなり、田中氏の「堀割り」と共に地元に大きなレガシーを残してくれた。立花宗茂と田中吉政。この二人のお殿様が建設し育てた柳川である。


「うなぎの蒸籠蒸し」の思い出。 

父が大好きだった柳川独特の味。もちろん私の大好物でもある。ご飯にタレをまぶして蒸す。そしてうなぎの蒲焼と錦糸卵を乗せてふたたび蒸す。故に注文から出てくるまでに時間がかかるが、タレがしっかり染み込んだご飯と肉厚の蒲焼。最後まで熱々で食べられる絶品!朱塗りの器の中に蒸しあがったばかりの蒸篭が収められている。市内に何店かあるが、我が家は若松屋によく行った。本吉屋も老舗。御花でも庭園を眺めながら楽しむことができる。東京や大阪では、鰻屋はあるが、蒸籠蒸しを出す店がなく、父が「柳川の蒸籠蒸し食べたいなあ」と懐かしがっていた。うなぎと柳川。いつ頃から有名になったのか実はあまりはっきりしていないようだ。いくつかの記録によると江戸時代末期から柳川のうなぎの取引が上方でも行われていたようで、地元でも郷土の料理として漁師仲間で振る舞われたらしい。また蒸篭で蒸すというスタイルがなぜ始まったのかも「冷めにくいから」と言うウンチクらしくない説明しか聞こえてこない。東京や大阪でなぜ流行らないのかも「なるほどガッテン!」と言う解説がない。調理に時間がかかるのでセッカチ、イラチには向かないのだろう。いずれにせよ「うなぎの蒸籠蒸し」は柳川に来なければ味わえない。

ちなみに柳川は、詩人、北原白秋を産んだ街でもある。今回は時間がなく「白秋記念館」には寄れなかった。


「御花」横の川下り乗り場

船頭さんの名調子

孫も竿を持たせてもらう

低い橋をくぐる準備



夏雲

殿の蔵

堀割りから見るうなぎ蒸篭蒸の老舗「若松屋」行列ができている。



立花家別邸「松濤館」別名「御花」

白亜の洋館と漆黒の和館



松濤園




さげもん



うなぎ蒸籠蒸し


(撮影機材:Leica SL3 Reporter + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG)




2026年7月20日月曜日

2026年夏 里帰りの旅(1)博多祇園山笠 〜「山のぼせ」の博多で思わず涙するの巻〜

集団山見せ


 博多祇園山笠の起源については諸説あるようだが、「京都祇園社の御霊会のご祭神スサノヲを勧請して始めた説」。「承天寺の開祖、聖一國師が疫病除けのため水を撒いて練り歩いた説」がある。山笠振興会の公式説はこの後者を取っているそうだ。櫛田神社は博多総鎮守。祇園精舎は仏教、スサノヲ尊は神道。聖一國師は承天寺の開祖。神仏習合時代の祭りなのだ。「山笠」は北部九州の神社の祭礼に特徴的に用いられる神輿。山車(だし)のような祭具、それを中心とした祭りを言い、博多以外にも戸畑の提灯山笠や黒崎祇園山笠が有名。津屋崎、唐津など北部九州一帯にも祇園山笠がある。

博多祇園山笠はユネスコの世界無形文化遺産にも登録されている。重さ1トンの山を担いで走る「舁き山(かきやま)」(動)と、博多人形師が制作する高さ10メートルを超える豪華絢爛な見る「飾り山」(静)という二つのスタイルが楽しめる。「舁き山」も「飾り山」も、各町内(流れ)毎に、博多人形師の技と豪華さと歴史的な名場面を競う。そういう点では京都の祇園祭の「山鉾」とルーツは同じなのだろう。どちらも疫病退治である点も同じだ。博多の夏の風物詩である。

一番山笠:中洲流

二番山笠:西流

三番山笠」千代流

四番山笠:恵比須流

五番山笠:土居流

六番山笠:大黒流

七番山笠:東流

加えて八番山笠:上川端流の「飾り山」が追い山に参加する。

福岡部の新天町は「飾り山」のみ

なおこの順番は、籤によって決まり、毎年変わる。


博多の「流れ」(「クロスロード福岡」から引用)


7月13日の「集団山見せ」が壮観だ。七流れの舁山が博多の呉服町から明治通り(昔の電車道)を通り、福岡天神を折り返して呉服町へ戻る。「追い山」のような時間を競う競争ではないので全力疾走はなく、ゆったり(といっても小走りで)とパレードする感覚なので、勇壮と言うよりも博多人形師の工芸品に飾られた山の豪華さと、男たちの締め込み姿の勇姿をゆっくり鑑賞できる。それでも沿道から力水が盛大に撒かれ、時に観客も飛沫を浴びるという夏の祭りにふさわしい。伴走には子供から女の子から、父親に抱かれた赤ちゃんまで参加できる。みんな締め込み姿である。そして全員壮大に水を浴びせられる。泣いてる子供などいない。みんなびしょびしょになりながらも元気な顔が輝いている。「博多っ子」はこうして育てられる。ちなみに、この「集団山見せ」の時だけ「舁き山」が橋を渡って福岡部に入る。かつては「舁き山」は博多部のみを回っていたが、福岡市全体の祭りということで天神まで「脚を伸ばす」ことになったようだ。新天町に「飾り山」が置かれるようになったのもそういう理由のようだ。

7月15日早朝4時59分から最大の見せ場である「櫛田入り」と、「清道旗」回り。「祝いめでたの若松さま」斉唱。そして太鼓の合図とともに櫛田神社から博多の街へ繰り出す「追い山」が祭りのクライマックス。七流れの「舁き山」の競争である。1トンの山を担ぎ走るタイムレース。男の祭りなので、担ぎ手は全員が締め込み姿の男たちだ。山笠は博多っ子でなくても血が騒ぐ。学生の頃、同級生の友人が最終日の追い山の担ぎ手の一人になった。まだうす暗い早朝4時過ぎに櫛田神社に向かい、舁き山が大博通りに出たところで盛大に勢い水をかけた覚えがある。終わって帰ってきた友人は、「いっぱい水飲んバイ!」とゲーゲー喚いていた。しかしいつもの彼とは違う生き生きとした「博多っ子」の姿に「福岡っ子」の私はうらやましく感じたものだ。

この季節は、博多の男たちは仕事、商売そっちのけ。山笠一本。いわゆる「山のぼせ」である。その間は御寮人さん(奥さん)が商売を取り仕切る。これが昔からの博多の商家の伝統だ。「山笠のあるけん博多たい」。博多の夏だ。今回の里帰りでその「山のぼせ」の博多にしばし身を置くことができ、あの時の自分に戻った感じがした。なんだか感極まって思わず涙が出てしまった。今回は初めて孫と博多祇園山笠を楽しんだ。「ニューヨークっ子」の我が孫は、山の豪華さと、水しぶきと威勢の良さにびっくりしながら眺めていたが、祭りの興奮は世界共通。舁き山が通り抜けるたびに大きな歓声を上げ続けていた。じいじの故郷を楽しんでくれたようだ。良い思い出になってくれると嬉しい。そう思うとまた泣けてきた。我が故郷、福岡・博多。故郷は良きものなり。感謝。


六番山笠「大黒流」

男の子も女の子も締め込み姿で参加する「博多っ子」



赤ちゃんも参加 これも博多っ子!



三番山笠「千代流」





橋を渡って福岡部に入る「舁き山」(「集団山見せ」の時だけ)

締め込み姿

子供用「山笠キット」


一番山笠:中洲流

地下鉄「中洲川端駅」

川端通商店街


六番山笠:大黒流(出走中)


唯一福岡部にある 「飾り山」のみの新天町


(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA 20-200/3.5-6.3DG)