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2026年10月8日木曜日

古書を巡る旅(83)『サミュエル・ジョンソン書簡集』へスター・リンチ・ピオッツィ編 〜スキャンダルと確執が生んだ書簡集刊行?〜

 

BathのPeriod Bookbinderによる美しい装丁

表紙

2巻に300通の書簡が採録されている



『サミュエル・ジョンソン書簡集』: "Letters to and from the Late Samuel Johnson, LLD. " by Hester Lynch Piozzi 1788年初版 全2巻

(以下、生成AI(Google Gemini) によるデータ収集、解説を基に編集した。なお写真は全て筆者の撮影による)

サミュエル・ジョンソンとスレイル夫人:Mrs. Thrale(ヘスター・リンチ・スレイル、後のピオッツィ夫人)との書簡集である。ジョンソンの没後まもなく、スレイル夫人(ピオッツィ夫人)自身が編集し、ロンドンのA. StrahanとT. Cadellから1788年刊行された。

ジョンソンと最も親しかった彼女自身が、手元に残されていた300通以上の往復書簡や、これまで未公開だった詩などをまとめ出版したもの。当時の批評家から、公の著作とは異なる「ジョンソンの素顔や本音」が垣間見える貴重な資料として大きな反響を呼んだ。ジョンソンの伝記作家であるジェームズ・ボズウェルよりも早く出版されたため、ボズウェルはこれに対抗心を燃やしたと言われている。18世紀の文学界・社交界を知る上でも極めて重要な第一級の歴史的資料である。


スレイル夫人(ピオッツィ夫人)とは?

ロンドンの裕福な醸造家、ヘンリー・スレイルの妻で、へスター。教養あふれる社交界の花ともいうべき人物。ジョンソン博士の熱烈なファンであり支援者。ジョンソンはスレイル家に17年もの間(家族同様に)居候していた。ジョンソンとの出会いは1765年1月。友人の紹介でスレイル家を訪問して以来。しかしスレイル夫人は夫との死別した後に、娘の音楽教師であったイタリア人のガブリエル・マリオ・ピオッツィと再婚。これが世間を騒がすスキャンダルに発展する。

スレイル夫人にはこの書簡集の他に、『スレイル日記:Thraliana』、『ジョンソン逸話集:Anecdotes of the Late Samuel Johnson』1786がある。


なぜジョンソンとの「書簡集」を公表、出版したのか?

1788年の「書簡集」出版の背景には、当時のロンドン社交界を揺るがしたスキャンダルと、ジョンソンとスレイル夫人の20年におよぶ深い絆の崩壊という劇的なドラマがあった。

1781年に裕福な醸造家であった夫ヘンリー・スレイルが亡くなった後、スレイル夫人は娘たちの音楽教師であったイタリア人音楽家ガブリエル・ピオッツィ(Gabriel Piozzi)と恋に落ち、1784年に再婚した。

当時のロンドン社交界は「名門の未亡人が、格下の外国人音楽家と結婚するなど恥知らずだ」と猛反発し、彼女の長女や、ジョンソン自身もがこの結婚に猛反対した。

敬愛するジョンソンからも非難され、世間から冷遇され、イタリアへ逃れるようにハネムーンに出かけた彼女は、そこでジョンソンの訃報を聞く。彼女は自分を「恩知らずの悪女」として描き出そうとする世間の風評(特にジェームズ・ボズウェルらの動き)に対抗するため、ジョンソンが自分にどれほど深い信頼と愛を寄せていたかを証明しようと、手元にあった膨大な往復書簡の出版を決意した。これが1788年の『書簡集』である。

彼女はこの『書簡集』刊行に先駆けて1786年に『ジョンソン逸話集:Anecdotes of the Late Samuel Johnson』を出版している。これは、発売3日目には書店から在庫が消えるほどの大ヒットを記録した。国王ジョージ3世が一晩中読み耽ったという逸話が残っている。そして1788年に書簡集が、この大ヒットの延長線上で世に送り出された。


ジョンソンとの関係が一変した「最後の手紙」

ジョンソンとスレイル夫人の関係を決定的に引き裂いたのは、1784年7月、彼女がピオッツィとの結婚を正式に決意した直後である。そのやりとりが二人の間で交わされた手紙に現れている。

彼女から結婚の報告を受けたジョンソンは、嫉妬や裏切りへの怒りから、これ以上ないほど冷酷で感情的な手紙を送りつけた(ジョンソンからスレイル夫人への手紙。1784年7月2日)

「マダム、もし私があなたの手紙を正しく解釈しているのなら、あなたは恥ずべき結婚をされた(あるいはされようとしている)ということになります。……もしあなたがまだ破滅していないのなら、私にその悲惨な歩みを止めさせてください。あなたがすでにその道を進んでしまったのなら、これ以上、私をあなたの手紙で苦しめないでほしい。神があなたを許されますように」

長年、彼女の家庭の精神的中心であり、彼女を深く愛していたジョンソンにとって、この結婚は耐え難い拒絶であった。ジョンソンはは彼女からの過去の手紙を焼き捨て、彼女を心から締め出そうとした。

しかし、スレイル夫人(ピオッツィ夫人)もこれに黙ってはいなかった。即座に、ジョンソンとの絶縁を辞さない毅然とした返信を送っている(ピオッツィ夫人からの返信。1784年7月4日)。

「あなたが私に宛てられた手紙の文面は、私のこれまでの行いや、これから予定している結婚の相手に対して、決してふさわしいものではありません。……私のこれからの夫となる人物は、公の場でもプライベートでも、誰からも非難される筋合いのない人間です。……私たちがこれ以上お互いを苦しめないよう、お望み通り文通はこれで終わりにいたしましょう。ですが、あなたがいつか私を必要とされるなら、私はこれまで通りの私であり続けることを忘れないでください」

この誇り高い反論を受け、ジョンソンは自分の行き過ぎた態度を恥じたのか、最後に、これまでの20年間の交誼への感謝と、彼女の幸福を祈り別れを告げる優しくも悲痛な手紙(1784年7月8日)を送る。二人の関係は完全に終わりを迎えた。そのわずか数ヶ月後、ジョンソンはこの世を去る。

1788年の『書簡集』は、こうした「かつての深い愛」と「あまりに劇的な決別」のすべてを知る彼女が、自らの名誉とジョンソンへの思慕を込めて編纂、出版した、人間味あふれる歴史的ドキュメントであったと言える。ただ、上記2通の手紙は『書簡集』には掲載されておらず、結婚を知らせる手紙(1784年6月30日)の後に、ジョンソンからの結婚を祝福する最後の悲痛な手紙(1784年7月8日)だけが掲載されている。書簡の選択の過程で彼女は掲載を見合わせたのであろう。毅然として抗弁したが、やはりジョンソンからの感情的な手紙はショックであったに違いない。その逡巡が見て取れる。


ピオッツィ夫人とジョンソンの最後の手紙


名著『ジョンソン伝』の背景にあったボズウェルとスレイル夫人との確執

サミュエル・ジョンソンの文学史において、ジェームズ・ボズウェルとヘスター・スレイル(ピオッツィ夫人)の激しい確執は、18世紀ロンドン文学界の最大のゴシップの一つであり、歴史に残る「伝記作家同士の主導権争い」であった。二人は共にジョンソンを深く敬愛し、その側近として数え切れないほどの交流の機会と時間を共有したが、お互いを激しく嫌悪し合っていた。

ボズウェルとスレイル夫人は、ジョンソンを巡って常に「一番のお気に入り」の座を争うライバル関係にあった。ボズウェルはスコットランド出身の熱狂的なジョンソン崇拝者であったが、ロンドンに常にいるわけではなく、ジョンソンに会えるのは1年のうち限られた期間であった。一方でスレイル夫人は、裕福な夫ヘンリー・スレイルと共に、ロンドン郊外のストリータムにある大邸宅にジョンソンを(実質的な家族として)居候させており、ジョンソンは16年もの間、彼女の家で彼女の知的で細やかな気配りに癒やされていた。ボズウェルにとって、彼女は「自分が決して入れない聖域」を持つ、嫉妬の対象そのものだったに違いない。

1784年にスレイル夫人がイタリア人音楽家ピオッツィと再婚し、世間から大バッシングを浴びると、ボズウェルは、彼女の再婚を「偉大なジョンソンを裏切り、見捨てた悪女の行い」として辛辣に批判する世論を煽った。ボズウェルにとって、彼女の社会的失脚は、自分が「ジョンソンの一番の理解者・正統な伝記作家」としての地位を確立する最大のチャンスだと考えたのであろう。

ジョンソンの死後、二人の戦いは「出版」という形で火花を散らす。まず先陣はスレイル夫人。先述の通り、1786年に『ジョンソン博士の逸話集:Anecdotes』を、1788年に『書簡集』を素早く出版した。これらは大ベストセラーとなり、彼女は「ジョンソンの素顔を誰よりも知る女性」として一時的に名誉を回復。これにボズウェルは激しい焦りを感じた。

これへのボズウェルのいわば逆襲が、満を持して出版した、のちに英文学史上最高峰の伝記とされる『サミュエル・ジョンソン伝(The Life of Samuel Johnson)』である。この著作の中で、ボズウェルはスレイル夫人(ピオッツィ夫人)の名前を何度も挙げ、彼女の記憶違いを執拗に訂正したり、彼女がジョンソンの晩年をいかに冷遇したかをこれでもかと書き連ねている。

この他にも、二人が残した日記や手紙には、お互いへの生々しい嫌悪感が記録されている。ボズウェルは、「スレイル夫人は虚栄心が強く、おしゃべりで、話の内容は不正確だ。ジョンソンの高潔な精神を理解せず、ただのサロンの飾りとして扱っていた」。スレイル夫人は、「ボズウェルは、ジョンソン博士が少しでも口を開けば、すかさずノートを取り出す薄気味悪い男(a biped with a notebook)。彼の執拗な質問攻めは、博士をうんざりさせていた」

云々

以上が、生成AI (Google Gemini)によるデータ収集、解説を基にした『サミュエル・ジョンソン書簡集』にまつわる顛末のまとめである。


ピオッツィ夫人『ジョンソン書簡集』1788初版(左の2巻)とボズウェル『ジョンソン伝』1811第6版(右の4巻) 因縁の全集の揃い踏み


考察:伝記と書簡集の読み方

以前のブログで紹介した、ボズウェルの『サミュエル・ジョンソン伝』(古書を巡る旅(8)サミュエル・ジョンソンとジェームズ・ボズウェル)の背景に、このようなスレイル夫人とジョンソンとの長年の関係があったことが、今回の『書簡集』で分かった。さらにボズウェルとスレイル夫人との間に先述のような確執があり、これが「出版合戦」を引き起こしていたことも明らかになった。

しかし、こうした確執と競争心だけがボズウェルの名著を生み出したとは考えにくいし、どこまでこのようなセンセーショナルなやりとりが当時の文学界を沸かせたのかは、まだ生成AIの情報収集と分析だけでは不十分だ。さらなる文献資料の収集と研究が必要である。

確かに、文学的な評価としては、ボズウェルの『サミュエル・ジョンソン伝』は不朽の名作とされたため、後世の人々は、ボズウェルの視点を通してスレイル夫人を「スキャンダラスな裏切り者」と見なしがちであった。しかし20世紀以降、彼女の日記や、1788年の『書簡集』の存在が注目され再評価されると、「彼女こそジョンソンの最大にして最良の理解者であり、過酷な鬱病に苦しむ彼を文字通り生き永らえさせた恩人であったのではないか」という評価が広がったことも事実。これはこの『書簡集』を通じた新たな解釈である。

今回のAI調査で、この時代の「文壇の大御所」Dr.ジョンソンを巡る「三角関係」とも見まごうばかりの、ボズウェル、スレイル夫人の確執と競争心が背景にあったことは分かったが、それでジョンソンの偉業と魅力がいささかも減じるものではない。もちろんボズウェルの『ジョンソン伝』は相変わらず、伝記文学の最高峰であり。スレイル夫人(ピオッツィ夫人)の『ジョンソン書簡集』は、ジョンソンのもう一つの側面を映し出す鏡である。いずれの書籍も、文学作品としてだけでなく、「Dr. ジョンソン的宇宙」を鮮明に描き出す文学史的にも貴重な史料である。

しかし、ことほど左様に本人の没後に、関係者によって出版される伝記や書簡集というものは、書き手や出版人の思惑が先行し、本人の遺志とは無関係に一人歩きするものであることを、読み手は心せねばならない。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の伝記、書簡集でも同様な確執とその顛末を見た気がする(古書を巡る旅(72)Yone Noguchi " Lafcadio Hearn in Japan")。本人の業績や人となりを表現する方法としての「伝記」や「書簡集」には批判的である人も多い。特に本人の私信を公開することには、今も昔も、洋の東西を問わず慎重であるべきであろう。後世の読み手は公開にまつわる事情を知った上で読み進めるべきことを肝に銘じたい。「史料批判」は歴史学研究のみならず文学研究においても重要である。


参考:

Samuel Johnson (1709-1784)

James Boswell (1740-1795)

Edmond Malone (1741-1812)

Hester Lynch Piozzi (1741-1821)


謝意

今回もこの『ジョンソン書簡集』初版を入手するにあたって、神保町「北澤書店」に多大なご尽力いただいた。末尾ながら長年の古書指南に感謝の意を表したい。

2026年9月25日金曜日

街角から消えゆくご商売 〜雨の日の妄想AI時空散歩〜

 今日は朝から台風の置き土産の雨。今年の雨は凄まじい。台風の線状降水帯は首都圏のあちこちに土砂崩れや家屋の浸水被害、河川堤防の決壊、下水のオーバーフローによる冠水などの被害をもたらした。特に道路の冠水はあっという間で、走行中の車が動かなくなり水没。アンダーパスなどで車から脱出できなくなり、命を落とす人が出る始末。これまでの豪雨水害とは異なる被害が出始めている。雨が去っても水没して動かなくなった車の処分、保険支払いが大きな問題にもなっている。

そんな今日、雨なので外出もせず、家でじとっと引きこもっていると、色々な妄想が湧いてくる。そういえば最近カメラ屋にいってないなあ、DPEなんて言葉があったけど、今時の人は知っているのだろうかとか、銀座にはいっぱいカメラ屋があって聖地巡礼したもんだ。CDが欲しいんだけど近所にレコード/CDショップがなくなってしまったなあ。複合商業ビルには必ずあった大型店も気づくとなくなっている。スーパーの隣にあったたばこ屋さんもついにシャッター降ろしてしまったなあ。フと気がつくと今まで当たり前にあった店や商売が街角から消えていっている。レンタルビデオ屋もそうだ。あまり利用しなかったがハンコ屋さんも質屋さんもいつの間にか消えている。

Chat GPTを友に、色々弄っているとこんな絵が出てきた。そういえばどれも懐かしい昭和な店ばかり。カメラ屋のオヤジさんは、たいていインテリ然とした風貌で無愛想。ショーケースの高級カメラ触らせてもらうのには勇気がいった。レコード店は若者の溜まり場。クラシック探しているおじさんは肩身が狭かった。たばこ屋の看板娘もおばあちゃんになってしまった。タバコ吸わないくせに気にはなっていた。白いエプロンの可愛いウェートレスがいた喫茶店もなくなり、名曲リクエストも昔話。今時はコーヒーチェーン店ばかりだ。商店街の本屋さんの「はたき」を持ったおばあちゃんもアマゾンの密林に消えていった。「本屋のはたき」の意味を知る立ち読み文化も消えた。みんなどこへ行ってしまったのか。クリック、クリック。

もう帰れないあの暮れなずむ街、そこにはただ風が吹いているだけ。昭和の街は忘却の彼方に。



2026年9月17日木曜日

グリーンモンスターの逆襲

 東京には緑が無いという。自然が残っていないという。都市化は人間による自然破壊だ。いや人間は自然を征服したのだ。しかし、破壊され征服されたはずの自然は、都会の片隅で密かに息を潜めている。人間がその経済活動、社会活動、生活の営みを少しでも放棄すると、たちまち人工物は自然に飲み込まれてゆく。その勢いは凄まじい。人間は自然を征服したなどと奢っているが、自然はせせら笑っている。気候変動による環境破壊といっても強かに生き残るのはは植物。温帯モンスーンの日本、いや亜熱帯になりつつある日本では、都市が衰亡すると砂漠になるのではない。緑の原野になるのだ。過疎地の限界集落や里山や棚田が放棄されると山林や原野に戻るのと同じことが都市で起きる。人口減少、経済活動の衰退、人口流出が続けば大都市も同じ運命を辿る。すでにその兆候は普段の生活圏で目にすることができる。見よ!蔦性植物の強かさを。苗木市で買ってきた庭木だって母屋を破壊する。グリーンモンスターの逆襲が始まる。

ふと「時空トラベラー」は古代の「東京」へのワープを開始する。武蔵野台地を馬に乗った坂東武者が駆け巡ったあの草深い武蔵国(むさしのくに)を妄想する。あの天離る(あまさかる)鄙の地を。その光景が脳内で近未来の「東京」のそれとかぶる。

「見渡す限りの茅やススキが波打つ果てしない原野。それが武蔵国である。古歌に歌われるように「武蔵野の草葉に隠るる心地して」。一度足を踏み入れれば、背丈を超える草叢に行く手を阻まれる。地平線まで遮るもののない原野には、ひとたび風が吹けば地鳴りのような音が響き渡り、沈む夕日はただ草の海へと溶けていく。主人の居なくなった苫屋は蔦に覆われて原野に戻って行く。そこにはただ風が吹いているだけ」

by 蔦唐麻呂
































そして渋谷が......(ChatGPTに描かせるとこんな光景が)

2026年9月2日水曜日

古書を巡る旅(82)『スコットランド古謡集』J.リットソン:Scotish Songs by Joseph Ritson 〜「蛍の光」のルーツを訪ねて〜

Joseph Ritson's 'Scotish Songs' vol.1,2 published in 1789



表紙



日本人はなぜスコットランド民謡に懐かしさを感じるのか?

日本人はスコットランド民謡やアイルランド民謡に愛着とノスタルジアを感じる。どこかで聴いたことがあるメロディーだと気づく。実は、子供の頃聞いた童謡、学校で習った唱歌にはこうしたスコッツ・アイリッシュメロディーが息づいているものがいくつもあり、それが日本人の「懐かしのメロディー」となっているのだ。「蛍の光」「埴生の宿」「夕空晴れて」など日本の歌だと思っている人も多いが原曲はスコットランド民謡である。明治の頃、政府は「近代化政策」の一環として、日本の音楽教育に西洋音楽を取り入れようとした。1879年に伊沢修二が文部省音楽取調掛を創設。アメリカ人の御雇音楽外国教師ルーサー・ホワイティング・メイスンがアメリカの学校教育で使われている音楽教材を導入。その中から日本人に受け入れられやすい歌曲、民謡を選んで日本語歌詞をつけて「文部省小学唱歌集」(全91曲)として学校教育の場に普及させた。これが日本人にとって幼い日々に慣れ親しんだ童謡や唱歌の底本となっている。多くはアメリカの歌曲、讃美歌などから取り入れたが、その中にスコットランドやアイルランドに古くから伝わる民謡があった。全体の一割ほどであったというが、これが何故か多くの日本人の心に響いた。音階が日本の民謡に近い(ケルト文化由来のド、レ、ミ、ソ、ラの五音階、いわゆる「ヨナ抜き音階」)ことから日本人の耳に馴染みやすく、また格調高くやや哀愁を帯びた旋律が日本人の心情に訴えかけたからだと考えられている。以来、「蛍の光」や「埴生の宿」を聴くたびに幼い時代を懐かしく思い出し、思わず涙するのである。そこで、海外などでオリジナルのスコットランドやアイルランド民謡を聴くと、「ああ聴いたことある曲だ」「懐かしい」ということになる。日本人に定着したという点で、文部省唱歌の企画は成功だったと言える。


アメリカから伝わってきたスコッツ・アイリッシュ音楽

アメリカ人音楽教師メイスンが持ち込んだアメリカの歌曲教材に、なぜスコットランド・アイルランド歌曲が多かったのか。これは移民の国アメリカという国家の成り立ちに由来する。実はスコッツ・アイリッシュ音楽のアメリカ音楽への影響は計り知れない。彼らは18世紀以降、イングランド移民中心であったアングロ・アメリカに続々と移住し、最初は主にアパラチア地方に入植した。ここで原野の開拓、農業、牧畜などの労働に勤しんだ。この時彼らが持ち込んだケルト文化(自然崇拝、精霊信仰)を背景とする故郷の民謡や、フィドル(バイオリン)、ハープ、バグパイプなどの楽器を用いるスタイルが、やがてアフリカ系ルーツの音楽、バンジョーなどの楽器と融合し、カントリー&ウェスタン、ブルーグラスを産んだ。さらにゴスペル、フォーク/ワークソング、初期ロックンロールなどアメリカ音楽のルーツになった。19世紀の「アメリカ民謡の父」と言われるフォスターの「ケンタッキーの我が家」「スワニー河」「オールドブラック・ジョー」などの曲は日本でも親しまれているが、彼はスコットランド移民の子である。彼はケルト音楽と聖歌と黒人音楽が融合した独特のアメリカ音楽を生み出した。アメリカから音楽を輸入するということは、そのルーツの一つであるスコッツ・アイリッシュ文化・ケルト文化由来の音楽を輸入するということでもある。自然と共に生きる多神教文化。「ブルーグラス」と「青人草」。ケルト・スピリットと日本人の心情は、基層において合い通じるところがあるのかもしれない。


『蛍の光』:Auld Lang Syneのルーツは?

日本では卒業式での定番曲である「蛍の光」、これは代表的なスコットランド民謡、すなわち原曲名「Auld Land Syne」である。スコットランドの国民的詩人、ロバート・バーンズ:Robert Burns (1759-1796)が1788年に作詞したもので、本国スコットランドでは国歌同様に歌われている。バーンズは英語と共にスコットランド語で作品を多く残している。この「Auld Land Syne」の他にも、日本で親しまれている「Comin' Thro' the Rye:故郷の空」も彼の作品だ。とりわけ「Auld Lang Syne」は、日本だけでなく世界各国でさまざまな形で愛唱されており、誰もが知るスコットランド民謡の象徴と言っても良い曲だ

この「蛍の光」の原型を探ろうと、18世紀のイングランドの古文学研究家、ジョセフ・リットソン:Joseph Ritson収集編纂、J. Johnson出版の『スコットランド古謡集:Scotish Songs』の1789年ロンドン初版(1869年グラスゴーで第二版を刊行)を手に入れた。スコットランドの古謡を研究する資料としては稀覯書に属する著作である。しかし、驚いたことに何故かここには「Auld Lang Syne」は収録されていない。ロバート・バーンズの歌もたった2編が収録されているだけである。他にも我々日本人に親しみのある「故郷の空」「埴生の宿」「アニー・ローリー」「ロッホ・ローモンド」などの歌曲が見えない。巻頭にリットソンの解説文が掲載されており、その中ではスコットランドの詩人や作者についての歴史的考察が述べられていてるが、ここでもこれらの日本人に馴染み深い歌曲への言及はない。なぜか?

リットソンが初版出版したのが1789年。Auld Lang Syneは1788年の発表である。序文によると、本書で採録された最も新しい歌曲の出典は1786年であり、バーンズのAuld Lang Syneは1788年なので対象にならなかったのかもしれない。そもそもリットソンから見れば、ご当世人気のバーンズは「現代詩人」であり、古謡集にはあまりふさわしくないと考えたのか。リットソンはスコットランドに古くから伝わる古文学作品、バラット、古謡を、オリジナルに忠実に再現し収集しており、スペルまで変えずに掲載するなど文献学的な正確性を重視した。バーンズもスコットランド語を大事にして古い民謡を多く紹介したが、むしろ現代に親しみやすい形にアレンジした詩歌を多く発表しており、これにリットソンは批判的であったとも言われている。

さて、A Iを使ってリットソンの古謡集に「Auld Lang Syne」のルーツについて言及されてないか調べたところ、この曲、歌詞の原型らしいものがあることを示唆している。同じくスコットランドの国民的詩人アラン・ラムゼー:Allan Ramsay(1684-1758)の歌曲がそうであるという。バーンズが生まれた前年に亡くなった一世代前の詩人である。ラムゼーはリットソンの古謡集に5編ほど収録されている。しかし、AIが示すページの歌にはメロディーがなく、その内容はバーンズのAuld Lang Syneが、旧友との再会を喜び、酒を酌み交わしながら思い出話しに浸る、というものとは異なり、一種のメランコリックなラブソングとなっている。リットソンはこの古いバージョンを選んだのだろうか。この他にもいくつかルーツとおぼしき古謡がもあったようだ。AIの回答は曖昧で根拠についてはもう少し検証する必要がありそうだ。今回は残念ながら特定することはできなかった。


スコットランド民謡の変遷

このように我々が今親しんでいるスコットランド民謡は、18世紀晩期、19世紀初頭以降に作詞・作曲された、ないしは古くから伝承されてきた古謡を元に編曲、歌詞を変えたものが多くあることがわかった(下記の例を参照)。元来、民謡:folk songsというものは時代に応じて人々に歌い継がれ、世相に応じてアレンジされてきたものだ。

リットソンは、採録、編集にあたってそのオリジナリティーを追求し、後世のアレンジをを極力排除した。したがって現時点では。この古謡集に、我々が親しんでいる「スコットランド民謡」がそのまま収録されているのを発見することはできなかった。少し残念であった。しかし、日本に伝えられ我々が親しんでいるスコットランド民謡は、時間の経過とともに歌詞が変えられたり、メロディーがアレンジされたりして継承されてきたものであること。そのままの形で昔から歌い続けられてきたものばかりではないことがわかる。民俗学的にみても、民話や伝説と同様、民間伝承されてきた詩や歌には多様なオリジン、ルーツがある。そして多くのバリエーションが生み出される。皮肉な結果だが面白い発見である。今後、現代我々が親しんでいる歌曲のそのルーツになるものが、この古謡集で特定できるかもしれない。そしてそれは全く異なるメッセージの歌曲であるかもしれない。研究しがいがある面白いテーマだ。

リットソンの古謡集で、現在も歌い継がれているものの原型をそのまま確認できるのは、イギリスの第二の国歌とも言われ、あのBBCプロムスで会場が一体となって感涙に咽義ながら斉唱する「ルール・ブリタニア:Rule Britania」である。これは第二巻の126,127ページに収録されている。スコットランドの詩人James Thomson の1740年の作詞によるものである。これなどは現代までほとんど改変されず愛誦されている珍しい例かもしれない。



第一章は「愛の歌」


'Rule Britania ! ' by James Thomson
第三章:「歴史と愛国」の最後に掲載されている




二つの「スコットランド歌曲集」:リットソン編『Scottish Songs』とジョンソン(バーンズ)編『Scots Musical Museum』

同時期に、同じジェームス・ジョンソン:James Johnsonによって企画された歌曲集 『Scots Musical Museum』がある。1787年から1803年まで刊行された。こちらもスコットランド民謡、歌曲600曲を収集・編集した豪華なもので  、ロバート・バーンズ:Robert Burnsが主たる編者、寄稿者として参加している。したがって多くのバーンズ作品(200曲ほど)が収録されている。彼の代表作とも言えるAuld Lang Syneも採録されておりここから広まった。おなじジョンソンの出版企画であるが、リットソン:Joseph Ritsonの古謡集(初版1789年、第二版1869年)の方は、先述の通り古謡のオリジナルを尊重し、改ざんを極力避けた採録、編集方針で、楽譜も単旋律(メロディーのみ)を参考として掲載するに留めている。第1巻では巻頭の論文で、歴史的、文献史学な評価・分析に多くの紙幅を費やすなど、いわば古民謡の学術研究書として尊重されている。一方の、ジョンソン(バーンズ)の歌曲集の方は「民族の記憶保存プロジェクト」「国民の愛唱歌集」とでもいうべき歌曲集で、誰でも歌えて楽しめるように、楽譜を取り入れ、現代風にアレンジして実用性を重視している。特に当時国民的人気を博したバーンズが編集と寄稿に関わったこと、家庭でピアノやハープシコード伴奏による演奏が楽しめるようアレンジされたことなどで大きな人気を集め、歌曲集としては圧倒的にこちらの方が売れたようだ。



日本人に馴染みの深いスコットランド民謡

これをきっかけに調べてみると、現在親しまれている曲は、オリジナルはスコットランドの古い詩、バラッド、古謡であったものを、19世紀になって曲をつけ、あるいは編曲し、歌詞をアレンジしたものが多いことがわかる。これらが明治期にアメリカ人音楽教師を通じて伝わり、『小学唱歌』として選曲され、日本人によって日本語歌詞化されたわけである。

『蛍の光』:Auld Lang Syne
Robert Burnsの作詞である。 1788年発表 オリジナルは一世代前の国民的詩人Allan Ramseyの詩など、いくつかのバリエーションがあった。バーンズの歌詞は旧友との再会、思い出話で酒を酌み交わすというもの。日本では学校の卒業式や年末の紅白歌合戦終了時、船の出航時などの定番となっている。本家スコットランドでは新年を迎えるときの定番である。先述のように、国歌に近い愛唱歌である。英語では old  long since, times gone by, for old times' sake(久しき昔)世界中で歌われる。BBCプロムスでもフィナーレで歌われる定番だ。

『アンニー・ローリー』:Annie Laurie
William Douglas (1672-1748)の1700年の詩に、1838年にLady John Douglas Alicia Scott (1810-1900)が曲をつけたもの。元はダグラスの失恋の歌 日本では最初「才女」という名、歌詞で親しまれた(小学唱歌集)

『ロッホ・ローモンド』:Loch Lomond
原作者不明の詩,The Bonnie Bank'o O' Loch Lomondに1841年曲をつけたと言われる。1745年のジャコバイトの乱のスコットランド敗残兵が歌ったと伝承

『故郷の空(夕空晴れて)』:Comin' Thro' the Rye
Robert Burnsの1790年代の作とされる。古くから伝わる伝統的民謡で、多くの英訳バリエーションがあると言われる。現代に愛唱されているものは19世紀になってアレンジされたもののようだ。

『清い水辺』:The Water is Wide
Allan Ramseyの'The Tea Table Miscellany' 1724年に収められているO Waly Waly, Gin Love be Bonnyが原型で、他にもO Waly Waly, Lord James Douglasのバラッドとしても伝えられる。その後多くの作者によってアレンジされていった

『埴生の宿』:Home Sweet Home
Henry Rawley Bishop作曲、アメリカ人のJohn Hayward Payne (1791-1852)作詞。
イングランド民謡とされるがスコットランド民謡でもある。

ちなみに『ダニー・ボーイ』、『庭の千草』はアイルランド民謡である。

2026年8月29日土曜日

「人間は考える葦である」パスカル 〜生成AIは人間から「考える」ことを奪うのか?〜

 

「人間は考える葦である」パスカル
これは生成画像ではなく実写(白金自然教育園)




人間はその歴史の中で、万物の「真理」の源泉はどこにあるのかと問い続けてきた。最初は自然の中にそれを見出し、やがて神が万物の創造主だと考えるようになり、そして人間自身の理性が万物の真理を解き明かす源泉であると考えるようになった。すなわち「神の啓示」から「人間の理性」を独立させた。これが近代合理主義、科学の発展を生み出した。観察、実験、などの実証を元にした合理的思考から得られる知識。まさに「考える人間」こそ世界の中心にあると考えるようになった。やがて人間はその合理主義思想、科学発展の果てにAIを生み出した。これが思わぬ衝撃を与えている。特に生成AIは単に自動化、効率化、省力化の道具ではなくなり、人間の創造的活動、知的活動に取って代わりつつある。我々は、今や「神の啓示」でもなく「人間の理性」でもなく、「AIの集合知」が万物の真理の源泉になるのではないかと危惧している。これは文明を進化なのだろうか。人間の退化なのか。AIに支配されるデストピアは現実になるのか?いや案外デストピアではなく、ユートピアなのか。AIとの付き合い方をめぐって葛藤している。

AIは人間の「考える」能力を奪うのではないか?

我々は、自らの意思や思考を放棄してAIに依存するようになると、考える能力の低下をもたらすのではないかと危惧し始めている。

1)思考放棄

自分で考えなくなる、あるいは思考能力の衰退、すなわち主体性、自我の喪失 自己表現力の喪失

2)認知能力低下

物事を学習し、記憶し、多様な選択肢を比較、分析し、理解し、判断する能力の衰退

3)結果重視 プロセス無視

安易に「結果」のみを重視しプロセスを無視する。予測し、想像することをやめて結果だけを求める。結果に対する批判的検証能力 仮説を立てて検証する、試行錯誤するという問題解決能力が毀損される

4)批判的思考力(クリティカル・シンキング)衰退:

判断、意思決定に必要な、情報の真偽や前提を疑う能力が失われる。「コピペ」による無批判な受け入れで情報を精査する能力が衰え、間違い、思い込みに気が付かなくなる。さらに真の専門性が涵養されない。学問が成り立たなくなる。

17世紀の哲学者パスカルは『パンセ』で「人間は考える葦である」と述べた。人間は水辺の葦のようにひ弱な生き物であるが、他の自然界の生き物と区別するものは「思考すること」である。すなわち思考しなくなった人間は、再びひ弱な水辺の草になるのであろう。「パンセ:Pensees:思索」こそ人間の人間たる所以である。

17世紀イギリスの経験論論哲学の祖であるベーコンは、人間の理性に基づく「知」こそ「力」であるとした。彼の近代合理主義と科学的合理性思想は、知の体系を支配する人間を、あたかも万物の頂点に立つものであるかの如く増長させたのかも知れない。その結果、理性による知が、その知が生み出したテクノロジーによって奪われるとすれば、人間にはどのような「力」が残されるのだろう。

現代の気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは「思考しなくなったら人間は動物に回帰する」と述べている。彼のAI論は後述する(マルクス・ガブリエル「Fobes Japan 」2026年6月24日特集号)

いずれも人間は「考える生き物」であり、その理性と知性が人間の人間たる所以のものだということを言っている。確かに「考えることをやめた」人間には悲観的な未来が待ち受けているであろう。しかし、そんな退化に身を委ねる訳にはいかない。本当にAIは人間の理性や知性を奪うものなのだろうか?AIを人間の知性、理性にとって有益なものとして使うにはどのようにすれば良いのか。人間がただの「か弱い水辺の葦」「ただの動物」に回帰しないようにするためにはどうAIと付き合ってゆけばいいのだろうか。その答えを求めて「思考する」のも人間だ。 


そもそもAIとは何かを理解しておこう

マルクス・ガブリエルは、AIと人間の未来をそれほど悲観的に見てはいないようである。AIはそもそも人間が関わらなければ機能しないものである。人間が生成した過去のデータ、情報がなければ何もできない。大規模言語モデルは人間がプロンプト(指示)を与えねば何もしない。プロンプトやAIとのやりとりそのものが人間の知性の表現なのだ。それがなければAIは機能しない。まずこのことを知っておくべきだと。

AIは人間の経験や知識の何億人分もの既存のデータから学ぶことで動く。いわば「集合知」である。しかし、AIには「一人の人間」という観点はない。人間一人一人が持つ「精神的多様性」「個性」あるいは「他者への共感」という前提はない。AIは、過去に学び、既存のものを組み替えて新しいパターンを生み出す能力はあるが、何もないゼロから新しいものを生み出す能力はない。また「ひらめき」のような直感力はない。

AIは人間が入れた言葉、数字、音声、画像の中からパターンを見つけ出して、それを増幅させ、広げる能力に長けている。良い問いを投げ掛ければ良い答えが返ってくる。良い答えのもとは自分が問いかけた良い問いなのである。それは人間の知性の成せる技なのだ。すなわち、マルクス・ガブリエルは、AIによって人間は、「加速する知性:Accelerated Intelligence」「拡げる知性:Augmented Intellibence」「増幅する知性:Amplified Intelligence」を得ることができるとする。AIによって人間の知性、能力を広げ、複雑な社会問題、複合危機:Nested Crisisを解決することもできる。すなわち人間の限界を突破させるツールとして刮目すべきである。それでも、あくまで人間が問いかけることが鍵なのだ。AIはほっておいて自律的に考え、答えを出すことはできない。


AIには備わっていない人間固有の能力とは?

これはGoogleGeminiによって整理したものに少し追加した。

1)社会的責任能力

AIは結果にいかなる責任を持たない。人間だけが責任を取りうる存在である。

2)自発的目的意識

自らの意思で「何をすべきか」という問いを立てること、目標設定すること。ゼロベースから思考することができる。

3)身体感覚や感情。他者への共感力

文脈、行間を読む力。肌感覚、暗黙知、直感、ひらめき。不完全な状況でも判断し行動する。「空気を読む」などという芸当をすることができる。

4)新たな課題設定能力

既知の問題だけでなく、あるいは答えがある問題ではなく、より本質的な課題を見抜き、適切な問いを設定する。


AIの創造性と人間の創造性の違い

1)AIの創造性

すでにあるものを組み換え、新たな組み合わせを作るという創造性。過去にあるもの、やり方を学ぶことが前提。複雑な社会における法則や相関関係を見つけることは得意。ただしあくまでも人間が使わねば自律的に問題解決は行わない。使う人間の倫理観、道徳感、知性が求められる。

2)人間の創造性

これまでにない新しいものを生み出す力、それを組み合わせて新しい形、スタイルを作ること。学習や経験、感覚により新しい発見を得ること。これは科学的合理性や論理性を学ぶことからではなく、哲学、芸術、文学、社会学、言語学などの人文科学:Humanityを学ぶことによって得られる能力であることが重要。

したがってAIの創造性は、人間の創造性を拡張する。逆に言えば、そのような創造性を人間は涵養すべきで、それがないとAIに盲従することになる。すなわち「AIを使う人間」になるか。「AIに使われる人間」あるいは「AIに取って代わられる人間」になるかは、そういった創造性を持ち、学習する人間であるかどうかによって決まる。


「人間中心のAI」:Human Centric AI

マルクス・ガブリエルは「人間中心のAI 」ということを提唱している。「AIが答えを出してくれる」「それを鵜呑みにする」のではなく、AIとの対話を通じて「足りないもの」を補い、「思い込み」「偏見」(ベーコン流に言えば「イドラ」)を取り除き。新たな気づきを得て、そして自己更新してゆく。AIによってより創造的になる。そしてより倫理的になる。両者は深いところで繋がっているので「倫理的知性」を磨く道具になる。さらにAIとの対話す重ねる中で、知性を「加速し」「広げ」「増幅する」ことである。

AIは人間の知性、創造性、倫理性、哲学的思考と相反するものではなく。むしろその主体性を取り戻し、更新するパートナーである。マルクス・ガブリエルはそれを「楽器」に例え、それをどう弾くかはその人次第で、その結果どのような音楽が奏でられるのかはその人の知性、感性や価値観、美意識によって違う。それ自体が創造的な仕事であるという。


日常生活の中でAIをどう使いこなすか?

日常の生活の中で、AIに使われるのではなく、Human Centric AIとして自分の思考力を働かせ、拡大するための触媒として使うにはどうしたら良いのか。そこで求められるのは「問いを立てる力」「結果を評価する力」である。この二つの力を持つ限りAIは格好の思考拡大パートナーとなる。より具体的には、例えばGoogleGeminiは次のような取り組みを提示しているので参考になるだろう。

1)AIに複数案を出させるそれを自分が評価、選択する

2)AIと自分の考えと議論を戦わせ対話、問いを繰り返す

3)AIの答えに自分の個人的な経験や感覚などの「集合知」以外の要素を加える

4)複数のAIを同じテーマで議論させて自分で評価する

このようなAI使いこなし手法を自分なりに編み出してゆくことだ。「楽器」なら弾き手が「楽器」と対話するように。職人のお道具ならそれを手に馴染むものに仕立ててゆくように。AIは使い手次第であるから、使い方の修行も必要だ。


「AIを使う人間」と「AIに使われる人間」

再度繰り返すが、「AIを使う人間」になるか、あるいは「AIに使われる人間」になるのかの違いは、自らの主体性と自我と創造性、そして判断能力を持てるかの違いによる。「考える葦」人間は、考えることを止めて「ひ弱な水辺の植物」に戻るのか。それとも「思考を拡張することで更なる創造性を持った生き物」に進化するのか。AIの出現によって試されている。AIは決して人間から「考える」を奪うのではなく、それを拡張、進化させる道具である。恐れることはない。卑下することもない。受け身になって「思考停止」せずに能動的に使うことだ。

ただ、AIの開発スピード、進化度は急速で、人間が介在しないで、AI自ら考え、答えを出し、行動する「自律型のAI」の出現も懸念されている。最近も開発中のAIが、開発者の指示を受けずに他社システムをサイバー攻撃しハッキングする「事故」が発生し、AIの安全性に重大な懸念が生じ始めている。AI開発企業のトップもはその開発スピートをスローダウンさせることと、業界のルール作りの必要性をライバル各社が結束して表明し始めている。人間のコントロールが不能なAIの登場。AIが制御なしに自律的に新たな進化系AIを次々に生み出してゆく事態。野放図な開発によるAIの近未来をあんまり楽観的に考えていてはいけないが、ここでもやはり開発しているのは人間だ。その開発と使用を適切にコントロールするのも人間である。手に負えないモンスターを生み出す前に。AIの未来には、核の開発、使用ととその制御の歴史に学ぶことが多いはずだ。


(参考)いくつかのプロンプトと何度かの対話によりChatGPTに描かせた「思考停止社会」イラストサンプル。この風刺イラストの出来栄えの良し悪しはChatGPTというAIの表現力に依拠するのではなく、「プロンプト(指示)」と「結果の選択」をした人間のもの。すなわ問いを設定し、指示し、提示された複数の選択肢からこれを選んだ筆者の理解力とセンスの問題。






2026年8月22日土曜日

古書を巡る旅(81)アイザック・ウォルトン『釣魚大全』:The Complete Angler by Izaak Walton 〜釣りの手引書はなぜ古典文学作品になったのか?〜


'Complete Angler' edited by John Hawkins in 1815


表紙
Izaak WaltonのIWと、Charles CottonのCCを組み合わせたロゴ

Izaak Walton肖像

共著者Charles Cotton肖像






魚釣りの思い出

私は特に釣り好きというわけではないが、子供の頃は父に連れられて樋井川の河口で、よくハゼ釣りやキス釣りをやった。餌はゴカイで、干潟で見つけることもできたが釣具屋さんに売っていた。最初は気持ち悪くて触るのも嫌だったがだんだん針につけるのも上手くなった。付け方を間違えると餌だけ取られて魚に逃げられる。父に教えてもらってだんだん腕が上がり結構釣れるようになり面白かった。時々、真っ黒なドンポが釣れると、「これは要らん」と逃したものだ。時々は小さなカレイが掛かる事もあった。真夏に糸島の今津橋に釣りに行った時には、父が朝から一日かけて釣り上げた魚がずっしりと入った魚籠を、私は橋から川に落として流してしまった事がある。釣った魚を見ようとしたのだ。父はひどく落胆した。しかしあの時の父は私を叱りもせず、「バッサリやな」と一言。片手で長い釣竿を肩に担ぎ、もう片方の手で私の手を握りながら夕焼けの道をトボトボと帰った。橋の上には二つの麦わら帽子の長い影。あれはまだ私が幼稚園くらいだったと思う。

中学生になると投げ釣りが面白くて、友達と自転車に乗って釣りに出かけた。短めの竿と投げ釣り用のリール、それに浮がついた錘をつけて、針が錘からまっすぐ下に垂れるようにする。防波堤や岩場を避けて遠くに投げる。そろそろとリールで巻いて魚を誘き寄せる。そんなテクニックも覚えた。ちなみに祖父(父の父)はあまり釣りをやらなかったが、父に勧められて樋井川の河口で釣りをしたことがあった。祖父は悠長に一箇所でじっと釣り糸を垂れて気長に待つことのできない性格であった。あちこち場所を変えて動き回る。今そこに居たかと思うと、もう居ない。あっちに居たかと思うと、今度はこっちに居る。祖母がそれを見ていつも笑っていた。「あれじゃ魚がついて来れんわ」。釣りは気長に事がなるのを待つという精神修行に良いと感じたものだ。

大人になって都会生活が長くなり、海や川が遠くなると釣竿を持つ事も無くなった。と、それは言い訳にすぎない。機会はあった。ロンドン郊外のテムズ上流にはマス釣ポイントがあったが行かなかった。ニューヨークのロングアイランド・モントーク沖でマグロのトローリングが仲間内で流行っていたが行った事もない。伊豆の隠れ家は釣りのメッカであるが、あの少年時代以来トント釣りにはご無沙汰だ。私にとって釣りとは、父や祖父との思い出に出てくるハゼ釣りであった。それで良いと思っている。

前触れが長くなったが、今回の古書はアイザック・ウォルトン『釣魚大全』である。釣り人の古典的バイブルである。しかし私は釣り人としてこの本に出会ったわけではない。17世紀イギリス文学作品としての出会いであった。神保町の古書店での出会いである。釣り人の手引書が文学古典となる。その不可思議なズレ感。それが存外ズレでもない事が読み進めるうちに分かってくる。父に連れられて釣りに興じた子供の私は、英国古書に魅せられた老境の私と出会った。これも時空旅である。


アイザック・ウォルトン『釣魚大全』とは?

アイザック・ウォルトン:Izaak Walton (1593-1683)は、17世紀のイギリス・スタッフォード出身でロンドンで商売を手がけ成功した商人である。すなわち新興の都市ジェントリーであった。しかしイギリス革命の影響でロンドンを離れることを余儀なくされ、故郷のスタッフォードシャーへ戻る。そこで、コテッジを買い取り、ささやかな農作業と釣り三昧の毎日を送る。やがて執筆活動に取り組み、のちに伝記作家としても作品を残している。

その故郷の田舎で、ウォルトンは60歳の時に『釣魚大全』The Complete Angler を刊行する。初版を1653年に、以降1676年まで増補、改訂を続けた。途中から彼の友人の息子チャールズ・コットン:Charles Cottonが釣り仲間として加わり、共著者として第2部を追加し、2部構成の書籍となる。釣り人(Piscator)と道連れ(Venator )、鷹匠(Auceps)の三人による、釣りと魚にまつわる対話という形で話が進んでゆく。その会話を通じて、魚の生態や釣りのテクニック、料理法を語り合う。第二部はコットンによって、清流でのマスとカワヒメマスの釣り方について十二章にわたって解説する。またフライフィッシングとフライ(疑似餌)の作り方を解説している。こう説明するとこれは全くの釣りの指南書であるが、それだけではないところが妙である。自然の風景、地域に伝わる伝承や故事来歴、また地元の歌謡、詩歌も登場する。彼の自然観が随所に散りばめられていて、いわば隠遁者の随想作品といった風情に仕上がっている。

ちなみに 文中で魚類の解説をするところでは、フランシス・ベーコンを盛んに引用している。彼のA Natural History(1627)を参考文献とし、正確性を確認しながら書いた様子が窺える。しかし、ベーコンを引用したと言ってもそこには「偉大なる哲学者」の姿も「王権にへつらう大法官」の姿もなく、魚類をつぶさに観察し記録した「科学者」ベーコンの姿が見えるのが面白い。同時代人のウォルトンにとってベーコンは「さかなクン」であったのだろう。

また、ウォルトンを遡ること150年、イングランドの修道女、ジュリアン・バーナーズ:Julyans Berners (1388?~1460)によって著された、伝説の『釣魚論』:The Treaties of Fishing with an Angle in 1496にも大きな影響を受けていることが、巻頭の「Life of Walton」に紹介されている、彼女の釣りと自然を通した心の修養という思想はウォルトンに引き継がれている。


ジュリアン・バーナーズ

イギリスの17世紀という時代はピューリタン革命、王政復古という、政情不安定な時代であった。ウォルトンはその只中にロンドンで商工業者として活躍し成功した。やがて戦乱の中で故郷に戻るのだが、彼の描きだす世界は、そのような騒然とした世相ではなく、ロンドンを離れ故郷のスタッフォードシャーの穏やかで美しい川と魚たち、そしてそれを愛でる人々。紳士の嗜みとしての釣りの世界が、村人達との会話を通じて描かれる。しばし、世俗を超越した桃源郷に遊ぶ、といえば東洋的かもしれないが、そんな隠遁生活の気分にさせてくれる随想集である。

共著者のチャールズ・コットン:Charles Cotton (1630-1687)は革命の混乱を避けてロンドンを去り、Stafordshereに隠棲した詩人で文筆家。モンターニュの『随想録』を英訳したことでも知られる。彼の父はIzaak WaltonやBen Johnson, John Seldan, Sir Henry Wottonなどと交友関係にあった.


革命の時代と隠遁生活「穏やかになることを学べ」

しかし、ウォルトンの作品は、そんな牧歌的なものではなかったと解釈する研究者もいる。確かに、世の中を達観し超越したかのような「隠遁者の境地」的なトーンは、厳しい時代のウォルトンなりの現状批判の反映と見ることが出来る。ピューリタン革命、王政復古という激動の世紀に身を置いたウォルトン自身は、カトリックでもなく、ピューリタンでもない、国教会の保守的なジェントリーであった。政治的には王党派でピューリタンには批判的であった。のちにウォルトンが伝記を書くことになる詩人ジョン・ダンは教会を通じた彼の友人であり、国教会の聖職者であった。しかし、王党派は議会派のクロムウェルによって敗北させられ、国王は処刑される。イギリス史上初めての共和政:Commonwealthが生まれる。国教会はピューリタンのクロムウェルにより解散させられて聖職者は地方に隠棲を余儀なくされた。ウォルトンの名言の一つに「穏やかになることを学べ」:Study to be quietというのがある。これはこうした隠棲を余儀なくさせられた聖職者に共感し、彼らや自分自身に向けて放たれたメッセージではないかと考えられる。また副題のContemplative Man's Recreation:「瞑想する人のためのリクリエーション」は、「釣り」が「瞑想」につながる。瞑想できる人が成果を獲得できる。その「人間の理性に基づく瞑想」が真理に至る道であると、哲学的な暗喩を込めている。アングル(釣り針)はアングリカンチャーチ(国教会)を掛けた暗号ではないかという批評家もいる。ウォルトンは、超保守主義/権威主義のカトリックでもなく、過激なピューリタンでもなく、その中道をゆく国教会の立場をこの書で暗に主張した。イギリス人の保守主義、急進的改革よりも漸変的改革を好む。そうした思想をベースにしたメッセージがこの作品に潜んでいると考えると、この「釣りの手引書」の読み方も変わってくるだろう。我々日本人から見ると、仏教的な「無」の境地とは異なるかもしれないが、乱世を生き抜く中庸な生活とその瞑想:Contemplativeによる達観はどこか禅的である。方丈の庵を結び隠棲した鴨長明は言った。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」

ちなみにウォルトンはこの他にも幾つかの名言を残している

「魚釣りは奥深い数学のような物だ。誰も完全にはマスターすることはできない」

「芸術家として生まれた者が居ないように、釣り師として生まれた者はいない」

やはり彼は釣りを単なる余暇とは見做していない。「道を極める」修行のプロセスこそRecreation:余暇、いや再生なのだろう。


19世紀のウォルトンブームと『釣魚大全』復刻企画

やがて血生臭い革命が収束し、ウォルトンが亡くなった後には、議会優位の立憲君主制国家が生まれ、植民地アメリカが独立し、隣のフランスで革命が起き、産業革命で社会が激変する時代を経て、19世紀近代合理主義の時代へと場面転換する。確かに急進的ではないがイギリスは大きく変わった。この間しばし忘れられていたウォルトンの『釣魚大全』は、17世紀のロマン主義への回帰の潮流、また自然を尊ぶ「Quality of Life」に憧れる19世紀の「近代人」によって、再び古書棚から取り出され愛されるようになる。

『釣魚大全』初版は1653年の刊行。生前最後の改訂版は1676年である。それ以降、この名作の刊行が長く途切れたが、しかし、1760年に文筆家で音楽史家の教養人サー・ジョン・ホーキンス:Sir John Hawkinsによってこの名著の復刻、改訂が企画される。ホーキンスは、自身の研究成果を取り入れ、アイザック・ウォルトン、共著者のチャールズ・コットンの評伝、肖像画を新たに掲載、本文中には多くの注釈(脚注)を加えて読み手にわかりやすい解説を心がけるなど、原作を実用書としても充実させた。さらに、音楽史家ホーキンスらしく、文中に登場する歌(「釣り人の歌」など)を採譜して楽譜を掲載し、演奏会も開催したほか、著名な挿画家のイラストを導入し、より魅力的な書籍に仕上げた。この復刻が世に出回りブームを呼ぶのは19世紀の初めで、ここに、新しい19世紀版『釣魚全書』が完成した。このホーキンスのフォーマットは人気を生み出し、彼の死後も、その子と、出版社サミュエル・バグスター:Samuel Bagster (1772-1885)によって改訂が続けられウォルトンブームを生み出した。本書は1815年刊行のホーキンス版第8版、バグスター改訂の第2版である。これ以降、19世紀の古典書の復活ブームにも乗って、ジョン・メジャー:John Majorなどにより、美しい装丁、精緻な挿画によるイラスト付きの豪華本、愛蔵版の刊行が続いた。20世紀に入るとアーサー・ラッカムによる豪華な挿画版も刊行されるなど、今も世界中の人々に愛される古典作品となっている。

サミュエル・バグスター:Samuel Bagster (1772~1851), はこの時代の代表的な出版人の一人である。1794年ロンドンのStrandでBagster & Sonを創業。国教会公認の英訳聖書などを出版した。のちにPaternoster Rawに移る。前回紹介した『ベーコン全集』1836年版を出版したWilliam Ballも同じParnoster Rawの出版業者。一帯は19世紀初頭の出版文化の中心で、多くの出版業者が古典書の復刻を中心に競い合っていた。現在でもロンドンの出版、メディアの中心である。この頃は都市部のジェントリー層や学生、知識人向けに、比較的手に入りやすい価格帯の書籍や、愛蔵版の豪華装丁が企画、出版された。


日本における受容

こうして時代を経るに従って、『釣魚大全』は単なる釣り案内ではなく、随想集として文学作品に昇華され、不朽の名作と評価されるようになる。その時間による熟成課程そのものがなんともイギリスらしい。イギリス人の自然、田舎生活、趣味、読書と共に生きる、静謐で精神的に充実したQuality of Lifeへの憧れを体現する作品の代表となっている。しかも先述のように、イギリス人の保守、中庸の精神の表出としても読むことができる。さらには、この作品がイギリス経験論哲学が生んだ自然思想、観察と実証を重視する科学的思考を基盤としていることにも、改めてイギリスの精神文化の奥深さを感じる。日本語翻訳も多く出されており、日本人に愛読者が多いのは、釣り人が多いだけではなく、「釣り」というものに、自然と共に生きる精神と、「達観」し「道を極める」生き方を重ねることができるからではないかと思う。

ちなみに、小泉八雲は彼の東大での英文学講義で、ウォルトンの本書をを自然史文学作品の傑作の一つとしてとして紹介している。しかし「確かに素晴らしいが、結局は釣りの理論書以上のものではない」とも評している。彼のこの論評は自然史文学領域における、18世紀の自然観察作家、ギルバート・ホワイト:Gilbert WhiteのNatural History of Selborneをより高く評価する引き合いにされた感もある。日本人の精神性との共鳴について、八雲はどう評価するのか、ぜひ聞いてみたいものだが。

日本で人気の映画、私の大好きな『釣りバカ日誌』でスーさんが英国紳士の出立で釣りに興じるシーンが出てくるが、これは三國連太郎がウォルトン『釣魚大全』へのレスペクトを込めて衣装選びしたとの逸話が残っている。『釣りバカ日誌』と『釣魚大全』に作品的な繋がりはないし、またウォルトン作品を原作マンガや映画作品に翻案した形跡もないが、三国連太郎のセンスが光る。西田敏行の浜ちゃんこそ、ここでは釣りの師匠であった。相方が自分の会社の社長であっても、釣り人がその立場や社会的身分、年齢を超えて水辺に集い、魚を相手にゆったりと時を過ごす。そして人生を語る。釣りとはそういう余暇:Recreationであることを教えてくれた。二人ともあの世でウォルトンと釣り談義に興じていることだろう。


釣りの舞台リア川地図

ロンドン時代の店舗兼住宅

故郷のスタッフォードシャーに購入したコテッジ

ミルクメイドの歌