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2023年11月19日日曜日

古書を巡る旅(41)シャフツベリー伯爵「Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times」1723 年 〜アダム・スミス道徳哲学の源流を辿る〜

第3代シャフツベリー伯爵「人、作法、意見、時代の諸相」1723年第3版
左にシャフツベリー卿肖像

古書の風格



アダム・スミスの思想の源流を辿る旅は、前回スコットランド啓蒙主義の泰斗、デービッド・ヒュームにたどり着いたが、さらに遡ると、この18世紀初頭のイングランドの名門貴族、第3代シャフツベリー伯爵の道徳感覚主義の哲学に出会うこととなる。日本人には、なかなか馴染みが薄いイギリス思想史上の人物であるかもしれないが、アダム・スミスの「道徳感情論」「国富論」の思想的なバックボーンとなった一人と言われている。ちょっとハードルが高いが、覗いてみよう。

2023年9月22日 デビッド・ヒューム「文学、道徳、政治論集」

2023年1月5日 アダム・スミス全集


 (1)第三代シャフツベリー伯爵 : the Right Honourable Anthony, Earl of Shaftesbury, アンソニー・アシュリー・クーパー:Anthony Ashley Cooper(1671−1713年)

17世紀末から18世紀初頭のイギリスの政治家、著述家にして哲学者。 シャフツベリー伯爵家は、1672年の初代から現代まで十二代続くイングランド貴族である。イングランド南部のドーセット州シャフツベリーに因む。ロンドンの繁華街シャフツベリー・アベニューにその名を残すとともに、ロンドン観光のランドマークである、ピカデリー広場のエロス像はシャフツベリー伯爵の慈善事業を記念して建てられたものである。初代シャフツベリー伯爵は、いわゆる「イギリス革命」時代の反共和派(反クロムウェル)の政治家であり、王政復古、チャールズ2世の即位に尽力し、大法官(Lord Chancellor)に任ぜられらた。しかし徹底した反カトリック、非国教会プロテスタントであったこと、またカトリックのジェームス2世王位継承問題で陰謀に巻き込まれて亡命する。ホイッグ党の創始者とみなされている議会派の重鎮である。自由主義の父、経験論哲学の祖であるジョン・ロック:John Locke (1632−1704)の友人であり、彼の思想に傾倒し、ロックを孫のアンソニー・アシュリー・クーパー(本書の著者)の教育総監とした。そのアンソニーは、ウィンチェスタカレッジ(1683−1686)を経て、ヨーロッパ大陸ツアー(1686−1689)に出、名誉革命後の1689年に帰国。庶民院議員(1695−1698)として活躍。その後オランダに移住したが、イングランドに戻り1699年にシャフツベリー伯爵位を継いだ(第三代)。その間、ロックの人脈を伝って国内外の多くの知識人と交流した。その後、貴族院議員となりウィリアム三世(オレンジ公ウィリアム)崩御まで政治に携わった。再びオランダに移住したが、1704年にイギリスに戻る。しかし体が弱く政治家としては身を引き、1706年からは本格的な著述活動に集中した。そうした中で生まれたのが「熱狂書簡」(1707年)であり、本書「人間、作法、意見、時代の諸相」(1711年)である。1713年ナポリにて没す。

第3代シャフツベリー伯爵(アンソニー・アシュリー・クーパー)は、議会では穏健なホイッグ党の議員として活躍。名誉革命へと続く時代を政治家として生き、カトリックや非国教会系のプロテスタントに批判的であったとされる。かといって必ずしも国教会を信奉してもいなかったと言われている。幼少期の教育総監であったジョン・ロックの経験論的哲学、自由主義の思想はシャフツベリー伯爵にも大きな影響を与えた。また度々訪れたオランダでは、多くのヒューマニスト、啓蒙思想家と交流し、彼らの影響も大きかったと言われている。彼は、道徳哲学(Moral Philosophy)は神学(Theology)とは独立したものである(スコラ哲学の始祖たるトマス・アクィナスは「哲学は神学の僕」「信仰あっての道徳」とした)。道徳(Morality)は神の意思(Will of God)に根ざすものではなく、人間の本性(理性)に根ざすものであるとする。一方で、当時、思想界で影響力を持ち始めた自然科学的な合理主義よりも、古代ギリシア的な、美意識と人間精神の調和、バランスを重視する「哲学的モラリスト」「倫理的自然主義」の立場を取った。こうしたことから道徳感覚主義哲学/道徳感覚理論(Moral Sense Theory)の創始者とされる。啓蒙主義思想家、モラリストとしての彼の理論、倫理体系は、後のスコットランド啓蒙主義のフランシス・ハッチソン、デヴィッド・ヒューム、アダム・スミスへと受け継がれ、スミスの「道徳感情論」に結実したと言われる。

人間の本性は「利己的」なのか「利他的」なのかという論争では、ホッブスやマンデヴィルが、人間本性を「利己的」なものとする性悪説に立ったのに対し、シャフツベリーやハチソンは、これを批判し、人間の本性は「利己心」もありつつ「利他心」「道徳性」を備えたものであるとした。上述のように、スミスはこのシャフツベリー、ハチソンの「道徳感覚学派」の影響を受け継いでいるのだが、スミスにはその両方の影響があるとも言われている。すなわち、人間は他人への「共感力」を持ち、「利他的」に行動するものである(「道徳感情論」)とともに、利益を得るために「利己的な動機」で行動する。その個人の利益追求活動が、社会全体の富の創造と繁栄に繋がる(「国富論」)。また「利他的」な行動にも、他人からの賞賛という「虚栄」を求め、他者への承認欲求があることを指摘している。したがって、人間は社会的な動物であるとも言っている。その双方を有するのが人間であると考える。一方で、人間の胸の内に誰もが持っている「公平な観察者の眼」により、利己心を制御するものであり、これが社会の平和と安定に寄与するとも語っている。ただ、スミスは、そうした人間の本性が「道徳的であるか否か」ではなく、富の創造、利益を生み出す経済活動に影響を与えるものであるとしたところが、シャフツベリーやハチソンの道徳哲学を超えた点であると考えられている。道徳哲学から経済学が生まれ出た瞬間である。


(2)「人間、作法、意見、時代の諸相」:Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times

彼が政界を引退したのちに、自らの過去の手紙や論文を改訂し、編集した「人間、作法、意見、時代の諸特徴」:Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times(1711年)が出版された。シャフツベリー伯爵の著作の集大成であり、後世の哲学、思想界にに影響を与えた重要な著作である。今回紹介する本は、著者没後の1723年の第3版である。本書第3巻に、初版にはなかった彼の未発表の論文、遺稿が追補されている。また、第2版以降は、多くの銅板エッチングの挿画が用いられるようになり、本文の内容を視覚的に象徴するギリシアやローマの古典シーンを再現している。アーティストはアイルランドのHenry Trench、版画家は、自身もユグノー教徒であるSimon Gribelineである。

編集者、出版社の名前は記載されていないが、第三巻の最後に、Printed by John Darby in Bartholomew-Close, London 1723とある。英語版Wikipediaによれば、ジョン・ダービー(John Darby)は、にロンドンで小規模な印刷出版事業を手がけた人物で、風刺や皮肉を表現した出版物を次々と出したことで、当局に睨まれた言論人であったようだ。ちなみに、仲の良い夫婦の代名詞「Darby and Joan」としてイギリスの詩や成句にたびたび登場する有名人でもあるようだ。17世紀は印刷技術の進化、記録、出版が事業として開花した時代である。しかし、出版(Publisher)と印刷(Printer)、編集(Editor)、配本(Bookseller)が未分化であったようで、印刷人が、同時に編集、出版、配本に携わったのであろう。さらにこうした出版事業者は、言論文化人として重要な役割を果たしており、このJohn Darbyもその一翼を担った人物であった。本書は、人気が高く、時を超えて重版を繰り返している。

本書の構成

第一巻

熱狂に関するジョン・ソマース卿(本文中では名前が伏せられている)への手紙(いわゆる「熱狂書簡」)(1707年)

コモンセンスに関する論考 ウィットとユーモアの自由に関する考察(1709年)

独白(soliloquy) 著者へのアドバイス(1710年)

第二巻

美徳(Virtue)または美点(Merit)に関する論考 不完全なコピーから正式に印刷したもの。修正し全体を改訂 (道徳感覚主義の創設者としての名声を確立した論文)(1699年)

道徳主義者(Moralist) 哲学的狂詩曲(Philosophical Rapsody)自然と哲学に関する長談義(Recital)(1709年)

第三巻

その他の内省的考察(随想集)これまでの未発表の作品(1714年)

ヘラクレスの決断を描いた 歴史的下書きまたは下絵(tablature)への覚書(1713年)


(3)「熱狂」と「ユーモアのセンス」、そして「コモンセンス」に関する考察

第一巻の、いわゆる「熱狂書簡」:A Letter concerning Enthusiam、および「コモンセンス」:Sensus Communis : Common Senseに関する論考、「ウィットとユーモアの自由」: Fredom of Wit and Humourの中に、興味を惹かれた考察があるので紹介してみたい。精読ではなく拾い読み、意訳なので誤った解釈かもしれないが、あえて挑戦してみた。

まずは、「熱狂」( Enthusiam)とはどのような現象か。それに人間はどのように関わるべきかという問いについて。熱狂に囚われるものの他に、熱狂を利用しようとするもの、迫害や殉教にこだわるもの、他人の熱狂に影響されるもの、などさまざまな人間がいる。こうした人間の「熱狂」という現象への対処法として、「熱狂する自由」を認めるとともに、熱狂を牽制(Restraint)しようと「吟味(Examine)する自由」、そして熱狂をウィットとユーモアで「笑う」(Ridicule)ことの自由をも保障すべきだと。「皮肉」:(Irony)と「揶揄」(Banter)、こうした「自由」(Freedom)が保障されていることが重要とする。いかなる権威/主張も批判されうること、そして皮肉られるべきであること。一方で、その「笑い」が笑われることもあることから、その笑いと、笑う自由にも質の高さと品格が求められる。こうした牽制と吟味と皮肉る(笑う)自由が、「熱狂」に由来する暴動を予防するとともに、皮肉に耐えうる、より優れた熱狂を産むだろう。この批判精神の根底には、イギリスの伝統であるユーモアのセンス(Sense of Humour)が人間に求められる資質の一つであるとする考えがある。この手紙に書き綴られた考察の時代背景には、フランスのユグノー派への迫害とイギリスへの亡命。イギリスの国教会、カトリック、非国教会プロテスタントの緊張関係、信仰の自由に関する問題があった。そこへ熱狂的反カトリックであるフランス予言派が出現し、教条主義的な信仰論争が、プロテスタント同士の寛容と協同の空気に危機感を生じさせた。これに関して、シャフツベリー伯爵が、ソマーズ卿に宛てた手紙の中で、「熱狂する自由」を抑圧してはならないが、同時に「牽制し批判する自由」と、「笑い/ウィット/ユーモアの自由」による批判が、人間本性が求める真理と救済を可能とする、と書き記したものだ。これを彼が、反カトリック、国教会の支持を表明したものだという論者もいるが、むしろ神の真理ではなく、人間本性に根ざす真理、それに基づく自由と寛容の精神の重要性を謳ったものであり、まさに「道徳哲学」の表明であったのであろう。

また、もう一つ興味深いのは、「Common Sense : コモンセンス」に関する考察である。すなわち、コモン(Common):共通する/一般的に共有される、センス(Sense):判断/理解という、イギリスで今でも人々の間で共有されている、伝統的な価値観、秩序の基底をなす「共通観念」である。しかし、これも人によって、何が共有できる理解か、価値観かが異なると述べている。著者は、コプト教徒のエチオピア人がいきなりロンドンやパリに出てきたとしよう。彼らの振る舞いや考え方を、人々は「受け入れがたい」というだろう。しかし、我々が「コモンセンス」(このばあいは「常識」という意味?)だと言っている「共通理解」は、彼らにとっては受け入れがたい「コモンセンス」であろう。したがって、人間の本性を語るときに、我々の「コモンセンス」を強要したり、それを受け入れないものを排除したりすることはナンセンスであるとする。ただ、批判する自由があるところ、知的なウィットやユーモアで皮肉る自由と牽制が働くところでは、人間として自ずと共有できる理解、価値観が存在しうる。他人への共感や利他的な人間の本性に基づく道徳があるところには、そうした自由に裏打ちされる限り、ある種普遍的な「コモンセンス」が存在しうる。これは決して神が示す絶対真理や信仰によって立つ価値観の共有ではなく、人間の本性/理性に基づく真理や、それに基づく道徳的価値観であるとする。イギリス伝統の道徳感、倫理観に裏打ちされた「共通理解」とも言えるが、その普遍性にも説得力があると感じる。

遡れば、ジョン・ロックの経験論哲学、自由主義にその源流を見るのだが、このユーモアのセンス(Sense of Humour)とコモンセンス(Common Sense)という、伝統的な「共通観念」が、現代の我々が抱える諸課題にも、一定の視座を与えてくれる。まだまだ、シャフツベリーの哲学の深淵には辿り着けないが、その人間本性と道徳哲学の底なし沼をのぞいて見たい気がしてきた。




第一巻表紙

第二巻表紙

第三巻表紙

第3巻末尾に
Printed by JOHN DARBY in Barthlomew-Close, London, M.DCC.XXIII




(4)Awnsham Churchill(1658−1728)の蔵書票について

本書には、2枚の蔵書票(Book plate, Ex Libris)が貼り付けられている。一枚はAwnsham Churchil Esq.とある。英語版Wikipediaなどを調べてみると、アウンシャム・チャーチルは、18世紀の出版人で、ラディカルなホイッグ党員で庶民院議員でもあった人物。ジョン・ロックとロッテルダムで出会い、それ以来の友人であり、ロックの「政府二論」1689など、彼の重要著作を出版した。Awnsham Churchill of the Black Swan, Paternoster Row, London and Henbury, Dorsetとして、ロンドンとドーセット州で多くの出版を手がけた人物であった。シャフツベリー伯爵家はドーセット州シャフツベリーに因む名家であり、初代シャフツベリー伯爵はホイッグの創始者といわれ、第3代もホイッグ党の政治家であったことから、チャーチルは知己を得ていたことも容易に想像できる。チャーチルが何らかの形で出版に関わった可能性があるのではないか。ただ、このシャフツベリーの著作の出版元については、先述のように、ロンドンのジョン・ダービー(John Derby)'John Darby in Bartholomew-Close, London' が、本書の印刷人(Printer)として第3巻末に記されているので、チャーチルは、その著作を蔵書として手に入れただけかもしれない。いずれにしても、ダービーやチャーチルという、18世紀初頭の出版文化人が、本書に、その痕跡を残している点が、非常に興味深い。この蔵書票は、本書が(装丁を含め)オリジナルのものであることを証明していると言えよう。

また、2枚目の蔵書票はスイスのジャーナリスト、George Baumgartner(1952ー)のもの。最近のものである。彼はスイス放送の東京特派員として長年、日本に滞在し、現在もさまざまな日本情報を世界に向けて発信している。彼の蔵書であったものが神保町に流れたようだ。

こうした書籍の所有者の来歴を辿るのも面白い。







2023年11月13日月曜日

突然ですが、Leica M11-P登場! 〜で、何が変わったのか?〜

 


Leica M11-P (ライカ社HPより)


結局はこの軍艦部の筆記体「Leica」ロゴのカッコ良さに尽きる

Leica M11-P + Summilux 50/1.4 + Hand grip



Leica M11のプロフェショナル版、M11-Pが登場!2022年1月にM11が登場してから2年弱。年明けかな?と思っていたので、予想よりはやや早いお出ましだ。M11シリーズも予定通りのコースを歩んでおり、M11モノクロームに続くラインアップだ。とりあえず、M11との違いは?

1)赤バッジがなくなった

2)軍艦部に筆記体のLeicaロゴ

ここまでは、お約束通り。

それ以外の違い、と言うか「プロ用」と称する差異化ポイントは?

3)256GB内蔵ストレージ(64GBから高画素化への対応)

4)背面液晶モニターにサファイアガラス

5)撮影画像の真正証明機能(これが「プロ用」新機能!)

それ以外は、全てM11と同じだ。なんか少ない気がする。いや、、もう一つあった。LeicaFOTOSへの接続が早くなった。

さて、何が売りなのか?何が買いなのか?ライカ社は、新たに追加された機能の中で「画像真正証明機能」(Content crudential)をプロ写真家にとって画期的な機能で、世界に先駆けてライカ社が導入した。と喧伝している。確かにニコンもプロ向けに、Z9に搭載する予定だとも言われている。このフェイク氾濫時代にはデジタル化されたオリジナル情報の「真正」性を証明することは、特に報道の現場などでは重要であろう。しかし、趣味の世界に生きるアマチュアにとってどのような付加価値となるのかなんとも言えない。だからPすなわちプロ用なのだというわけか。マット調のブラックペイントボディーは、M11に比べて、ザラつき感がより強く指紋がつきにくい。見た目も光沢が抑えられていて、よりステルス性が高まったと言って良いのかもしれない。確かに手触りが良いし、基本性能は文句なしなので高くてもまあいいか。これがライカ病患者の言うところの選択の合理性なのだ。本音を言えば、軍艦部の筆記体「Leica」ロゴがカッコ良いから買う。ちなみに、外付けEVF(Visoflex2)を装着すると、せっかくの筆記体「Leica」ロゴが半分隠れてしまう。M11-Pにした意味がないので、EVFは使わない方が良い? ライカ病患者はわけわからん。

価格はM11の30%アップと相変わらず強気だが、円安で全てのライカ製品が大幅な値上げになり、M11も例外ではないので、実売価格の差は抑えられた感じだ。今回は、急な発表/予約受付開始で発売日までが短かった。突然の登場!という体であった。10月26日予約開始。10月28日発売。26日朝イチにMップカメラに予約入れたが、28日には「お取り寄せ中」回答となりハズレ!相変わらずだ。今回も発売当日に手に入れることが出来た人はどれくらいいたのだろう。「限定00食」ガンコオヤジラーメン、と銘打てば店頭に客が列をなす。この手なのか。量産化しないポリシーはわわかっちゃいるけど、それにしても初期出荷台数が極めて少ない感じだ。いつものライカのマーケティング戦術だから驚きはしないが。「行列のできる店」は流行り廃りがあるものだ。しかし、今回は意外に早く11月8日に「入荷案内」が。なんと(わずか)10日待ちで! 流石に予約入れた人はそんなにはいなかった? M10-Pを下取りに。Mップカメラのライカの下取り価格は高いし、しかもリピーター優遇されていて、ウン%アップ特典が重なり、今回限定特別アップもあり、差額キャッシュアウトを最小限で済ませることができた。この下取りシステムがなければとても手を出せる代物ではない。また、今のところM10-Pの時のような、初期不良は見つかっていない(下記の過去ログ参照)。しかし、M11と同様にスイッチ・オンで、時々フリーズする。バッテリーを着脱すると復旧するが、これも電子回路基盤の不良とソフトウェアー・バグというライカのレガシー(?)なのか。いつも何か一つ問題を残してくれる。ニコンならリコールものだが、ライカの場合は、「個性」だとして付き合うしかない。

最近は、Mレンズの改良版が次々投入され、ただですらMレンズシリーズは高品位、高性能なのに、さらにその性能向上は目覚ましい。結局、Mレンズがあまりにも素晴らしいので、Mボディーに付き合っていると言っても良い。定番の50、35ミリレンズは、アポクロマート仕様となり、Apo-Summicron M50/2, 35/2という究極のレンズに生まれかわった。と同時に、価格もとてつもなく素晴らしくて、高嶺の花。「普通」を極めると高価になる、というワケだ。最近ゲットした改良版のSummilux M 35/1.4とSummilux M 50/1.4は、そこまでの「高嶺の花」では無いが、秀逸なレンズ描写に加え、これまでネックだった最短撮影距離70cmという「レンジファインダーの桎梏」から解放された。それぞれ40cm, 45cmに短縮された。テーブルフォト、花の撮影などの近接撮影が可能になった。近接ピント合わせにはEVFか背面液晶スクリーンが必要だが、開放F値1.4と相まって、その合焦部とボケの絶妙さ、立体感がたまらない(下記サンプル参照)。ライカならではの新たな世界を映し出してくれる。やはりライカ病は治らない。ちなみに、光学レンジファインダーはもういらないのでは?ライバルだった一眼レフのミラーも無くなったし...



Leica Content Crudential(画像真正証明機能)
画面の右に証明済みのアイコンが出る


試写サンプル:Leica M11-P + Summilux M 50/1.4












Leica M11について:2022年10月12日Leica M11について

Leica M10-Pについて:2018年8月21日Leica M10-Pについて

2023年11月5日日曜日

古書を巡る旅(40)キリシタン版「コンテムツス・ムンヂ」とは? 〜天草で印刷・出版されたローマ字版キリスト教の修養書〜

 

キリシタン版ローマ字「コンテムツス・ムンヂ全部」
イエズス会紋章「IHS」


「バテレンの世紀」、16世紀に日本にキリスト教が伝えられた時、その教義は日本人にどのように解説され理解されたのだろう。布教にやってきたバテレン達、イエズス会士はどのような教理教育を行い、日本人はどのように教義を学んだのか。テキストはあったのか。あったとすれば誰がラテン語の原書を日本語に訳したのか?キリスト教の宣教師にとって、異国における布教には大きな苦労があったことは想像に難くない。武力や金銀で改宗させるならともかく、あるいは奇跡を起こして見せるのも容易ではないとしたら、土着宗教(祖霊神、自然神)、あるいは先行する外来宗教(仏教)を信じる「異教徒」に、唯一絶対神デウスを信仰するキリストの言葉に耳を傾けさせる必要がある。まず言葉の問題が大きなハードルとして立ちはだかっただろう。教義を解説するテキストを選定し、キリストの言葉を日本語で解説しなければならなかった。今回は、日本に入ってきたキリスト教の教義を説く「教理書」、あるいは学びの書たる「修養書」とはどのようなものであったのかを取り上げてみたい。

本来ならば、キリスト教の経典である「聖書」を読み聞かせれば良いのであろうが、実は聖書の和訳は、16世紀のキリスト教伝来時期にはルイス・フロイスなどのイエズス会士により断片的に行われたようだが、完訳はなされなかったか、少なくとも残っていない。布教初期においてはその教え、成句はパードレの言葉で伝えられた。その説教に必要な範囲で和訳されたのであろう。禁教令以降、聖書は長らく日本語には翻訳されなかったが、19世紀、明治以降に外国人プロテスタント宣教師によってようやく翻訳が始まった。16世紀ヨーロッパにおいても「聖書」がラテン語から各国語に翻訳されるのは後のことであるし、グーテンベルクの活版印刷機が発明されたとはいえ、印刷物として庶民に普及するには、さらに長い時間を要した。ただ、聖書以外にキリスト教徒が親しんでいた「教理書」「修養書」がヨーロッパには存在し、それらがイエズス会士により日本に持ち込まれた。日本における布教は、このような教理書および修養書が中心となって行われたと考えられている。


1)フランシスコ・ザビエル「29ヶ条の教理書」

キリスト教の教義を異教徒にわかりやすく解説しようと試みた最も初期の教理書である。ザビエルがインドでの布教用にまとめた「カテキスモ」がベースとなっていると言われている。これを、日本での布教用にザビエルに付き従っていた日本人イルマン、アンジロウが和訳して、1549年「天文18年)日本に上陸後、鹿児島、山口、豊後での布教で用いられた。印刷物ではなく、写本であったためか現存しない?当初、ザビエルは日本での布教に当たって、マラッカで出会った日本人アンジロウとの交流の中で、日本人の言語能力(識字率の高さ)、農業生産活動を通じて獲得した自然の摂理や観念を理解する能力を評価。合理主義的な思想の持ち主であったザビエルは、日本布教に希望を持った。日本にすでに入っている外来の普遍宗教である、仏教との共通性を示すことが日本人にとって理解しやすいだろうと考え、布教初期には、仏教用語を借用して日本語解説書を編纂した。仏教僧とも交流した。日本人もキリスト教は仏教の宗派の一つかと勘違いした。のちに仏教色を払拭して改定したが、後述の日本語化された教理書、修養書にもその痕跡が散見される。更に追加改定が行われ、ザビエルに続くガスパル・ヴィレラが布教を始めたときには25か条になり、最終的には29か条となった。

2)「どちりな・きりしたん」1591,1592,1600年

日本にもたらされた最初のキリスト教の教理書として日本史教科書にもその名が登場する。もとは、ポルトガルのイエズス会士マルコス・ジョルジュが、1566年にリスボンで子供向けの問答形式の教理書、Doctrina Christiana :「キリスト教の教理」を作成した。それを大人向けの平易な教理書として再編集したものが、海外での布教でイエズス会士に用いられるようになった。これが日本にもたらされ和訳された。1585〜90年に天正遣欧使節が日本に持ち帰った活版印刷機が教理書の普及に役立つこととなり、この「どちりな・きりしたん」が日本における最初の活版印刷物として、島原の加津佐で出版された。やがて印刷機は天草、長崎へと移され、後述の出版活動に引き継がれた。こうしてこの「どちりな」が先述のザビエルの「29か条の教理書にかわって、いわば「定本」となってゆく。内容的には「信仰」「希望」「愛情」がデウスが教える三善徳であるとする基本に基づいている。

「どちりな・きりしたん」国字本 1591年? 加津佐のコレジオで印刷されたとされる。いわば抄訳本。

「どちりな・きりしたん」ローマ字本 1592年(文禄元年) 天草のコレジオで印刷され「天草本」と呼ばれる。30種ほどがあると言われている。

「どちりな・きりしたん」ローマ字本・国字本 1600年(慶長5年) 長崎で印刷・再版されたもの 長崎の町年寄で朱印船貿易家、キリシタンの後藤宗印が印刷・出版した。かれはキリシタン関係の書籍の印刷を多く引き受けたことが知られている「(後世に「後藤版」とつたわる)。

ローマ字本はイエズス会宣教師向け、国字本は日本人信者向けに印刷された

現在、1592年「天草本」の原本は、バチカン図書館、東洋文庫、水戸徳川家、ローマ・カサナテンセ図書館にそれぞれ一冊ずつが残るのみである。

また同時期に、「聖人伝」(サントスの御作業の内抜書)1591年が、「どちりな」と同時に印刷された。1587年のバテレン追放令に伴い、「殉教」が信仰の証であることを示すために、キリスト教初期の「殉教者伝」を日本に紹介するとして急遽出版された。本書は加津佐で印刷され、完本として現存する唯一の本とされている。


「どちりな・きりしたん」1600年長崎本表紙
ここにもイエズス会紋章「IHS」が」掲載されている
(Wikipediaより)


3)「コンテムツス・ムンヂ」別名「イミタティオ・クリスティ」1596,1602,1610年

今回取り上げる書で、「どちりな・きりしたん」が教理書として用いられたのに加え、キリスト教の修養書としてイエズス会で重用し、日本語版がキリシタン信者の間でも普及した書である。もとはトマス・ケンピス:Thomas a Kempis(1380-1471)の「Contemptvs Mundi」:「世の厭い」であると伝わるが、別名は、イグナティウス・ロヨラの「De Imitatione Christi et Contemptvs omnium vanitatum Mundi」で、「イミタティオ・クリスティ」:「キリストに倣いて」、あるいは「すべての空しき世を厭いて」という表題で、聖書に次いでキリスト教世界で愛読されたラテン語本である。カトリック教徒だけでなく、プロテスタントにも重要視され、その本旨は「キリストの生涯に学ぼう」「この世の穢れを厭う」というということ。さしずめ仏教風に言えば「厭離穢土 欣求浄土」と言ったところか。日本には巡察使ガスパル・ビレイラが持ち込んだ。

1585年の天正遣欧使節のローマ法王シスト5世(Sixto V)謁見を機に、インド管区の巡察師アレサンドロ・ヴァリニャーノの翻訳請願が、法王に許可されて和訳された(本書表題部にその記述あり。下記参照)。従って翻訳への取り組みは早くから始まっていたようだが、出版は1596年と遅れた。この間にいくつかの改訂版が出されていた可能性を指摘する研究者もいる。和訳本はローマ字本と国字本に別れており、ローマ字本は、豊後・臼杵のノビシャド(修練院)で布教のテキストとして使用された(1582年イエズス会日本年報)。国字本は細川ガラシャ夫人、小西行長や、追放された高山右近に付き従った小西の旧臣の愛読書であったと言われている(ルイス・フロイスの報告に記述がある)。

「Contemtvs Mundi Jenbu: コンテムツス・ムンヂ全部」ローマ字本 1596年 天草で活版印刷 日本人印刷工による初のイタリック体活字で印刷 イエズス会宣教師の布教用日本語テキストとして活用

「こんてむつすむん地」国字本 1602,1610年 京都で木版印刷 日本人信者向けにまとめられた、いわば抄訳本。細川ガラシャ夫人など、キリシタンの愛読の書

和訳者は誰なのか?キリスト教関連の書籍の翻訳環境は整っていたのか?詳細は不明である。天正遣欧使節の一人、原マルチノが帰国後コレジオで翻訳作業に携わった記録があるが、この書であるかは明らかではない。また、1595年に、宣教師によってもたらされたポルトガル語版の「イソップ物語」を翻訳し、ローマ字の天草版「伊曽保物語」を出版したハビアン(Fabian:禅僧から改宗した不干斎ハビアン)という日本人イルマンがいた。平家物語のポルトガル語訳も手掛けており、このラテン語翻訳にもかかわっていたのではないだろうか。ルイス・フロイスも、加津佐で「日欧文化比較」という小冊子を印刷出版している。日本語を解するフロイスも関わっていたのだろうか。また、少し時間を下ると、ルイス・フロイスの後任イエズス会士、ジョアン・ロドリゲスのような日本滞在が20年を超え、日本人の家族を有するポルトガル人が、長崎でその堪能な日本語を駆使して、「日本語文典」(1604〜8)、「小文典」(1620)という不朽の名著を編纂発行している。また「日葡辞典」も刊行され、徐々に翻訳環境が整ってゆく途上にあった時期と思われる。ただ、日本における布教の最大のボトルネックは、正確にラテン語を理解できる日本人イルマンが育たないことだともいわれていたことから、日本人がラテン語翻訳に関わったかは定かではない。ちなみに、これ故に日本人パードレがなかなか生まれなかったとも言われている。一方で、先述のように、活版印刷機がもたらされ、日本でまとまった印刷物を出版することが可能となった事が普及を後押しした。キリスト教関連だけでなく、先述の「伊曾保物語」のような、「キリシタン版」と言われる一連の印刷出版物が登場する。

現在、「コンテムツス・ムンヂ」のローマ字本原本は、オックスフォード・ボードレアン図書館に初版が、ミラノ・アンブロシアーナ図書館に再版が現存している。さらに、2017年にドイツ、ヘルツォーク・アウグストス図書館でもう一つローマ字本原本が発見され、解読が進められているとの研究報告が出されている(2019年、大阪大学文学研究科紀要)。また、国字本抄本「こんてむつすむん地」(1610年京都、原田アントニオによる出版)が天理図書館に収蔵されている(重要文化財)。その後のキリシタン禁教政策のためであろうか、日本に残っている布教関係書籍、資料は限られている。また、書誌学的に見ても、これらの書籍の出版時期、出版目的、利用状況などは、ルイス・フロイスのようなイエズス会士の手紙や「イエズス会日本報告書」、バチカンやヨーロッパ諸国の図書館に収蔵されている記録によって明らかにされているが、残念ながら日本側に残された資料は極めて少ない。

手元にある本書(写真)は、1596年の天草で活版印刷されたローマ字本の復元ファクシミリ版である。1978年雄松堂書店刊、監修・解説は海老沢有道(聖心女子大、立教大学、国際基督教大学の教授を歴任、日本のキリスト教史学会の重鎮)である。本書添付の解説書には、原本はアンブロシアーナ本であるが、不明箇所はボードレアン本で補ったとある。同書は、「南欧所在 切支丹版集録」シリーズの一巻で、先述の「どちりな・きりしたん」とともに、キリスト教書誌研究の貴重な復刻資料である。

キリスト教関連を含む、いわゆる「キリシタン版」の書籍は、一連の「鎖国令」の中で、廃棄されたり、禁書あつかいになったりして失われ、その多くは日本国内には文化財、歴史資料として残らなかった。またこの頃にヨーロッパから伝わった活版印刷技術も、キリシタン禁制とともに、かの印刷機は長崎からマカオに移送され、其の技術は江戸時代には途切れてしまい、かわりに朝鮮から伝えられた朝鮮式活版印刷技術に取って代わられてしまったという。こうして「キリシタン版」書籍は、多くは散逸し、海外に流出してしまう。原典に当たるには、上述のように海外の図書館を回らねばならない状況である。遅ればせながらではあるが、こうした貴重な歴史的な資料を回収、復元する努力は、残された記録が少ない日本における「東西交流史研究」にとっては、特別の意義があると思慮する。

下記に本書表紙の詞書を掲載する。一見ラテン語表記のように見えるが、よく見ると、ローマ字表記(現代のローマ字とは異なるスペルである)の日本語で記述されていることがわかる。また巻末に日本語の難解用語辞典が別掲されており、本書がイエズス会士が日本語での布教に際し、学んだテキストであったことを示唆している。本文は、当時の日本語の文語体表現が忠実にローマ字化されており、また翻訳しにくいフレーズはラテン語のまま引用されているなど、当時の布教の苦心の様が感じられて興味深い。全体として、現代人には解読は難しく、スラスラと読み進めるという訳にはいかない。


表紙


Contemptvs m
undi jenbu.

Core Yovo Itoi, Iesv Christono gocoxeqiuo manabi tatematsuru michiuo voxiyuru qio.

Nippon Iesvsno Companhia no Collegio nite Superiores no goguegiuo motte coreuo fanni firaqu mono nari.

Toqini goxuxxeno nenqi. 1596


コンテンツス・ムンヂ全部

これ世を厭い、イエス・キリストの御功績を学び奉る道を教ゆる経。

日本イエズスのコンパニヤ(イエズス会)のコレジオにて スペリオレス(ローマ教皇庁)の御下知をもって、これを版に開くものなり。

時に御出世の年紀、1596


本書の構成(4巻1冊):キリストの教えを4巻で説く

Qvan Daiichi(巻第一)霊的生活に有益な訓戒 25章

Qvan Daini(巻第二)内的生活に関する訓戒 12章

Qvan Daisan(巻第三)内的慰めについて 64章

Qvan Daixi(巻第四)祭壇の秘跡 18章

Mocvrocv(目録)目次

Cono Contemptus mundino vchi funbet xinicuqi cotobano yauarague(このコンテムツス・ムンヂのうち分別しにくい言葉の要録)難解用語集


左は目録(目次)のページ最後、右は日本語難解語辞典のページ最初


革背表紙

イエズス会紋章「IHS」「十字架」「三本の釘」


第一巻1ページ目

復刻版はスリップケースに入っている