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2022年2月26日土曜日

The History Returns 〜プーチンやっぱりお前もか!〜

(BBC News)

この道はいつか来た道


1939年、ヒトラーは「ドイツ系住民の保護」を名目に、チェコのズデーテン地方に軍事侵攻した。圧倒的な武力で制圧しその結果、チェコは政権が崩壊。またたくまに全土がドイツに占領された。時を置かず、ヒトラーはスターリンと共にポーランドへ電撃侵攻。ポーランドをスターリンと分割した。これをきっかけに英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。しかしズデーテン地方進駐の当初、イギリスの首相チェンバレンはヒトラーの軍事行動を「非難」したが、具体的な対応行動を何も取らなかった。アメリカはこのヨーロッパにおける事態の急変に対応する気は全くなく、大西洋の向こうから模様を眺めていた。二人の独裁者は大手を振って近隣の国々を占領していった。

今でこそヒトラーやナチを悪魔の申し子のように言い募っているイギリスやアメリカ、フランスには、当時は多くのヒトラーのシンパがいたことを忘れてはいないだろうか。イギリスのロイド・ジョージはナチ党経済政策の支持者であり、チェンバレンはヒトラーとの宥和路線を進めていた。彼らはソ連(ロシア)の共産主義こそ脅威であってナチスドイツは同盟国であるとさえみなしていた。イギリスの王室や貴族の中には多くのナチ党シンパがいた。カズオ・イシグロの「日の名残り」にもそれが描かれている。多くの反ユダヤ主義者の共感を得ていた。アメリカでもナチ党が結成され、リンドバークのような英雄もこれに同調した。アメリカナチ党員はハーケンクロイツを振り翳し、ハイルヒトラーを叫びながらて堂々とニューヨークを闊歩した。占領されたフランスでもいち早くナチ協力政権が生まれ、ユダヤ人狩りが行われた。ヒトラーとナチは反共集団であったが、ソ連(ロシア)共産主義者で独裁者のスターリンはヒトラーと手を結んだ(偽りの同盟はすぐに裏切られることになるが)。ヒトラーとナチというまるで世界から孤立した「狂人」が起こした武力侵攻や、ユダヤ人虐殺であったかのように総括されているが、彼らは決して孤立なんかしてなかった。当時ヨーロッパでは最も勢いがあり、各国にヒトラーの傍若無人を許す多くのシンパがいたことを忘れてはならない。国際連盟から脱退して孤立していた極東の日本もナチと手をむすんだ。ヒトラーの電撃侵攻にも世界が足並みを揃えて対抗する姿勢を取らなかった。独裁者は決して孤独ではなかった。これが第二次世界大戦を招いた。

最初は滑稽なピエロと蔑まれ、そして天才ともてはやされ、さらには英雄として崇められ、やがて悪魔として葬り去られる。これが独裁者の運命だ。独裁者が民主主義に打ち勝って永遠の命を与えられたことはない。しかし、この独裁者のせいで、大勢の人々が命を奪われ、故郷を失い、財産を失った。しかもこの民主主義とは対局にある独裁主義や専制主義は(それがファシズムであれ共産主義であれ)同じ世界に生きている。民主主義は、ほっておくと脆弱で簡単に壊れる。昨日まで盤石と思われた民主主義体制が、いつの間にか専制主義、独裁主義体制になっている。アメリカにおけるトランプ某の出現に嫌な予感がした記憶も新しい(彼は熱烈なプーチンファン!)。ヒトラーを産んだのは、民主的なワイマール憲法体制下にいた普通の市民であった。最初は誰もがヒトラーの登場には、バカバカしい冗談として取り合わなかった。しかし気がつくと、インテリ層も、中産階級もこぞってナチ党員になっていた。民主的な選挙がヒトラーのナチ党を政権党に選んだ。「バカかと思ってたら天才でしたわ〜!」とばかりに。そして反ユダヤ主義が当然のように受け入れられ次第にヒトラーに熱狂するようになる。しかしてその末路は破滅であった。そしてソ連崩壊後のロシアの民主化の動きが今どうなっているかは説明するまでもないだろう。

こうした戦争への道はユーラシア大陸の向こう側の話だけでは無い。日本が朝鮮半島に進出したのも、台湾に進出したのも、満州に進出したのも、結局は「自国民保護」「自国権益の保護」が名目であった。確かに、長い鎖国から目覚め、まだ近代化途上で弱小国であった日本には常にロシアという地政学上の脅威があった。清朝の弱体化の隙を狙って南下し、朝鮮半島や満州に領土的野心をあらわにするロシア。この北方の飢えた熊の「南下政策」という伝統的な領土的野心からどのように日本を守るかということが明治日本にとっての安全保障上の核心的課題であった。結局は敗戦に追い打ちをかけるように。ソ連(ロシア)は不可侵条約を一方的に破棄して突然、満州に侵攻し、関東軍幹部は日本人の開拓団保護もせぬまま満州から逃亡してしまい、シベリア抑留と日本人難民の決死の逃避行という「この世の地獄」に見舞われる。近代の戦争において「侵略」が目的であると宣言した戦争は一個も無い。常に「自国民/自国権益の保護」が名目であり、「相手が先に発砲したから、防衛上応戦した」から始まる。満州事変も盧溝橋事件、日中戦争も然り。真珠湾攻撃すら、軍部にとっては防衛のため、一撃講和のための先制攻撃だと言っているのだから。しかしそうして始まった「自衛戦争」が、やがてはその名目とは別に一人歩きして、歯止めのない破滅的な戦争へと発展する。

ウクライナで戦争が始まった。この道はいつか来た道。歴史は繰り返す。プーチンは「ロシア系住民の保護」を名目にウクライナに武力侵略を開始した。圧倒的な兵力でたちまち首都キエフに迫り、ウクライナのゼレンスキー政権の崩壊は時間の問題だと言われている。国連をはじめ世界で孤立することなど意にも介さず戦争を強行している。それでもこれは「武力侵攻」などでは無いと強弁している。ウクライナのNATO加盟は絶対阻止しなければならない。ウクライナを非武装化する。そのためにはゼレンスキー政権を打倒して親ロ傀儡政権を打ち立てる。その背景には「偉大なる大ロシアよもう一度!」という時代錯誤な誇大妄想がある。しかし、いずれにせよそれ等は「プーチンの論理」であって、普通のウクライナ人やロシア人にとっては命を賭けるような論理では無い。これは「プーチンの戦争」だ。プーチンとその取り巻き連中の時代錯誤から発する意地と権力基盤が危機に瀕するからという理由に他ならない。民主主義や自由主義、法の支配という「普遍的な価値」を認めない独裁者にとって足元に迫る民主主義は危機なのだ。ちょうどハンガリー動乱やプラハの春への軍事介入したソ連の独裁者と同じ論理だ。「自国民の保護」などという名目は侵略開始の「常套句」だ。プーチンは「ウクライナ軍によるロシア系住民の虐殺があった」とか「ウクライナ軍が先に撃ってきた」などと言っているが、フェイクプロパガンダである。彼らのプロパガンダは自国民にも向けられる。彼にとってそれらが事実かどうかなどどうでも良いのだ。国際世論を気にしている風を装って行動を合理化しているだけで、ヒトラーと同じ独裁者の轍を踏んでいる。ヒトラーと同様「天才的」な軍事戦略と圧倒的な武力で、あっという間に小国を占領し、相手国政権を打倒する。そんななかで多くの市民が、兵士が殺される。ウクライナはかつてホロコーストの舞台であったことを忘れてはならない。プーチンはゼレンスキーをネオナチであると非難し、彼からウクライナ人を救う、などと世迷言を言っている。ちなみにゼレンスキーはユダヤ系で彼の身内の多くが強制収容所で犠牲になっている。ヒトラーだけでは無い、スターリンもその加害者であった。しかし、歴史は独裁者は最後には葬り去られることを教えている。

先の大戦勃発から学ぶことは何か。もちろん独裁者を産まない民主主義を堅持することだが、独裁者に対抗する各国が足並みを乱さないことだ。今回は各国の経済制裁への足並みがそろってきたことは評価できるが、今後の第二弾、第三弾の打ち手が有効に機能するか、小異を捨てて大同につく結束がなければ、またヒトラーの悪夢の再来を見ることになる。日本の軍国主義の暴走という悪夢を見ることになる。いや、東アジア、太平洋では「日本の軍国主義の亡霊」にかわる新たな脅威が起き始めている。終戦のどさくさに紛れたソ連(ロシア)の一方的な軍事侵攻で不当にも占拠されたままの北方領土問題が解決する見通しもないうちに、新たな独裁国家が跳梁跋扈し覇権を狙い始めている。ウクライナの戦争への対応を世界が間違えると、先に戦争仕掛けたもの勝ち。ロシアと同じ武力による現状変更はいつでもできるという誤ったメッセージを与えることになる。人間は歴史に学ばないし、懲りない生き物だ。全く同じことを21世紀になっても繰り返している。その愚かさに気づかねばならない。今回はプーチンの足元のロシアで市民の反戦運動が沸き起こっていることがせめてもの救いだ。独裁者が大好きな情報統制と言論弾圧にめげず、為政者の流す一方的なプロパガンダを鵜呑みにしない。自分で情報を収集し判断する。ネット時代の世界市民の連帯が、ここで発揮されなくてはならない。見て見ぬふりする訳にはいかない。もちろん対岸の火事ではない。


マクロン/プーチン会談 
このテーブル、この距離感が象徴的
軍事攻撃前


ウクライナ.ゼレンスキー大統領とプーチン
「国民のしもべ」と「独裁者」
(Foreign Affairs)

2022年2月22日火曜日

Nikon Z9試し撮り 〜Made in Thailandのモンスターマシーン!〜



ペンタ部が少し大人になった



フラッグシップ機の証、丸型アイピース復活
メニュー表示はZ7IIとほぼ同じ


軍艦部はそっけない

これはメカシャッターではない。センサー保護用の鎧戸だ

液晶表示
再生ボタンが右下に移動

フラッグシップの証 丸いビューファインダー


液晶画面は4方向チルト

ブラックアウトフリーの電子ファインダーは気持ち良い


遅まきながらニコンZ9が回ってきた。去年の発表以来、人気沸騰で予約が殺到。供給が間に合わず、12月24日の発売日当日に入手できた人はごくわずかという有様だったようだ。しかも世界的な半導体不足がボトルネックとなり生産が滞っているとのことで、次の供給時期は10月と言われていた。期待が大きかっただけに多くの人がガッカリするやら、そんな先ならと半ば断念するやら。ところが突然、2月15日になって世界中でZ9が供給され始めた。もっとも数が限られているようだ。諦めていたところにいきなり「補欠合格通知」。「入学金」をすぐ納めろ!と来た。資金調達が間に合わない。下取りの時間はないので後から機材の売却でキャッシュアウトを補填することにする。取り置き期間が過ぎると次へ回す、と言われるとつい慌てて無理繰り算段するすることになる。バブル期のマンション抽選、購入のドタバタを彷彿とさせる。それにしてもニコンはハイエンド機までとうとうMade in Thailandになってしまった。ライカがMade in PortugalやMade in Canadaをやめて、また内部がMade in Japanであることをひた隠しにしてまで「Made in Germany」に固執しているのに対し、ニコンはあっけらかんとMade in Japanを放棄してしまった。なんともおおらかなことだ。経済合理性優先のコモディティー商材ならいざ知らず、ハイエンドの高品質商材のブランドバリューとは如何なるものか。

それはともかく、このZ9はすごいモンスターマシーンだ。ニコンの渾身の「お道具」登場だ。しかも、これでこの価格は確かにバーゲンプライスだ。スペックや機能、操作性のことはいろいろなレポーターや事情通が既にSNSやYouTubeで語っているし、今更、素人が知ったかぶりを披露するのもなんなのでそちらを読んでほしい。ただやはり、4571万画素という高画素機なのに高速連写、高感度ノイズ低減。ブラックアウトフリーな電子ファインダー、メカニカルシャッターを廃した電子シャッター、被写体に応じたAFの食いつきの良さ、等々。文句の言いようがない。全部ありのモンスターだ。ニコン伝統の縦位置グリップ付きのミラーレスのフラッグシップ機を出してきたということだ。4K、8Kの動画機能までしっかり装備。もっとも私はこれで動画は撮らないが。しかし...

正直言って第一印象は、私のようなアマチュアブラパチ写真家にはハイエンドすぎてオーバースペックだということ。それにミラーレスにしては大きくて重すぎる。ライカSL2が重いなどと言ってる「年寄り」にはムリだ。多分これに大三元レンズつけてご近所散歩なんて、まるでベンツSクラス運転してコンビニに買い物に行くような所業だ。「わきまえよ」と言われそうだ。報道やスポーツ写真や、動物写真や野鳥観察、自動車、鉄道、飛行機などの動きものには最高のマシーンだが、私のジャンルである風景写真にはどうか?高速連写性能やインテリAFが役立つ場面はあるか。いや、まあ風景は高解像な描写性能が大いに役立ちそうで良いだろうが、日常のブラパチには... 人物写真にはどうだろう。もちろんこれ一台でなんでもいけるオールラウンダーには違いないし、なんと言っても所有欲を満たす「お道具」に仕上がっていることは間違いない。ただアマチュアには縦位置グリップのない「Z8」のような機種が出て来ればありがたい。それを待つべきだったか(ちょっと後悔...)。ちょうどD5、D6じゃなくてD850のようなカメラがいいのになあ。それとZシリーズ全体のデザインと風貌は、D6やD850のような成熟した大人のそれではなく、Z7IIに感じたまだ成長過程の青二才ぶりがZ9にも感じられる。Z7IIが18歳とすればZ9はようやく25歳くらいに成長したか。かつてのF3やF5、さらにはDfのような風格と貫禄を身に付けるのはまだまだ先のことなのだろう。

また、いつものことであるが、機能メニューが多すぎる。使い方がわからない機能まで、実に多様なメニューがてんこ盛り。必要な設定を探し出すのに検索エンジンを搭載してくれと言いたいほどだ。選択肢が多いのは良いこと...なのか?設定に手間取るのはどうなのか。マニュアル読まなきゃわからないのは困るが、こんなてんこ盛りなのに最近の流行りでマニュアルが端折られているのはもっと困る。シンプルこそキモだ。結局、道具は使い手が使いこなすもので、道具に使われるものではない。これはライカSLの時にも述べた感想だ。いや、やはりプロ用機材を素人が手にすることが間違いなのだろうと反省する。しかし、Z9を手にしてみるとライカSL2はなんとシンプルで使いやすいカメラであることか!またレンガブロックのような重さもZ9に比べると可愛いものだ。モンスターはオーバースペックになりがちだが、シンプルなモンスターがあることを気付かされた。かつて使い手に阿(おもね)ない「プロダクトアウト型」のチャンピオン、ライカも、ユーザーフレンドリーに成長したものだ。皮肉なものだ。

ニコンの渾身のZ9だが、これがニコンの救世主になるのか?半導体の調達がうまくゆかないという点でもなかなか厳しいものがありそうだ。グローバルなサプライチェーンが混乱するこのご時世にフラッグシップ機の生産を全面的にタイに移してしまう決断も大胆だ。こんな状況で大丈夫なのか。どんなに優れた製品開発しようともキャッシュフローが滞ると経営に影響が出る。資金的に耐えられるのか?人気爆発のZ9が、市場に到達するまでニコンは持ち堪えることができるのか?さらにミラーレスユーザーの裾野を広げるであろう「Z8」の開発に辿り着けるのか?ニコンファンはつい余計な心配をしてしまう。創業の地大井への本社移転(Nikon Park, Oi?)を心待ちにしているのだから頑張って欲しい。事業の持続可能性、ブランド戦略も大事にして欲しい。日本の、いや世界のチャンピオンカメラ、ニコンよ永遠なれ!


取り敢えずの試し撮り:


高画素機なのに高感度ノイズが低く抑えられている
ISO20000で撮影

逆光ではフレアーがよく抑えられている
Zレンズのコーティングが貢献している

順光
高解像で階調が豊か

動体補足能力を存分に発揮する高速連写とトラッキング
ブラックアウトフリー電子ファインダーは素晴らしい!


輝度差が大きくても明部も暗部も階調が潰れない

クロップにも十分対応できる余裕の画素数

ローリングシャッター現象は見られない







2022年2月7日月曜日

古書を巡る旅(20)Treatise of Foods and Drinks:「食料/飲料総覧」 〜貝原益軒「養生訓」との奇妙なリンク?そして古書の謎解き?〜





今回取り上げる古書は、1702年にフランスの王室医師であり、ロイヤルアカデミー会員であったルイ・レメリー:M. Louis Lemery(1677〜1743年)が著した「食料/飲料総覧」を英訳したものである。タイトルは、A Treatise of All Sort of Foods, Both Animal and Vegetable: Also of Drinkables:というもの。人間の食糧となり得る動物や植物、そしてあらゆる飲み物について、その種類や特色、効能を詳細に記述し、健康に良いもの悪いものを明らかにして、どのように選ぶべきかを解説している。176項目を網羅しており、それぞれの食物について過去、現在における著名な医者や栄養学者の分析、評価などを紹介している。当時のいわば健康ブームを引き起こしたベストセラーであったとも言われている。また一種の栄養学全書でもあった。1702年、パリで初版が、そしてその英訳版初版が1704年にロンドンで出された。本書は1745年の英訳版の第二版である。パリ大学自然科学学部、ロイヤルアカデミー、ロンドン医科大学の出版許可:imprimatureに基づく書籍で、現在では入手が難しい稀覯書の部類に属する。著者のルイ・レメリー:M. Louis Lemeryの父は、この時代のフランスの著名な化学者、ニコラス・レメリー:Nicholas Lemery(1645〜1715年)である。

今回は、これまで紹介した文学作品や詩集、評論集、歴史的な人物の評伝、記録とは異なる趣向の古書である。


歴史の同期なのか?

フランスやイギリスでこの本が出版された時代、日本は江戸時代初期。奇しくも貝原益軒(1630〜1714年。筑前福岡藩士で儒学者)が、中国の植物生薬学の体系である本草綱目を和訳、解説した「大和本草」1709年(宝永6年)や、現在にも読み継がれる名著「養生訓」1712年(正徳2年)を著した時期と重なる。薬草、医学、健康と食生活について詳細に記述し紹介し、ベストセラーとなり、一種の健康ブームが起きた時期と一致する。なにかこのレメリーと貝原益軒戸を結ぶ糸があるのだろうか?色々と妄想が膨らませてみた。

考えられるのは蘭学の発展である。日本ではこのころから蘭学が盛んになり始め、長崎経由で入ってきたオランダの医学書を中心に、桂川甫筑がその和訳に取り組んだ時期である。桂川甫筑はのちの桂川甫周を生み出す蘭学者、蘭方医の家系、桂川家の始祖である。また日本における蘭学に大きな影響を与えたケンペル来日の時期(1690〜92年)から10年ほどが経過した時代で、彼の周りで影響を受けた出島出入りの和蘭通詞や若い学生が、蘭学者として育ち始めた時期でもある。しかし、まだまだ日本における蘭学/蘭方医学は黎明期で、日本では圧倒的に漢方医学、本草学が主流であった。貝原益軒の「養生訓」はこうした漢方医学、本草学の知識に基づく著作であることにに加えて、彼自身、朱子学の儒学者であり、儒教的な視点よる健康観、人生観、それに基づく心構えを表したものである。レメリーのようなルネッサンス的な「自然科学」としての医学という観点で分析、評価された食物、健康概念とは異なっている。貝原益軒がこうしたヨーロッパ由来の書籍を入手したり参照した形跡はなく、ましてフランスの医師の著作を目にする機会はなかったであろう(またその逆もなかっただろう)。むしろ貝原益軒の本領は、その儒教的な人生観である。そして人生の晩年の82歳になってから、自らの実践を「養生訓」に著し、その2年後の84歳で亡くなっている。当時としては極めて長寿に属する人生であった。そういう意味においては実証的な記述に徹しているのだが、それはヨーロッパにおける近世前期に起こった自然科学的実証主義ではなく、より東洋的な道徳価値観の実践による実証であった。それが、現代の世の中にも受け入れられ、読み継がれているところが、時空を超えた普遍性を有する所以であるが、それは近代合理主義につながる西欧流の実証主義とは別物であろう。残念ながらレメリーと貝原益軒をつなぐ「糸」があったとは考えられない。

しかし、そうした「糸」は妄想だとしても、全く同じ時期に、全く同じ食物と健康についての書籍が発表され、それぞれの国でベストセラーになったとたことは、単なる偶然とも思えないような気がしてならない。以前のブログで、イギリスと日本での国の形成と文化の発展が、あたかも同期して起きてきたことを見てきた(2020年7月12日「世界史」と「日本史」の遭遇)。ヨーロッパではフランス・ブルボン朝の絶頂期が訪れ、これに対抗したイギリスではエリザベス朝の絶対王政がようやく確立した時期であり、日本では、長く続いた戦国乱世が終わり徳川幕府の成立を見た時期である。そして安定した政治体制に伴い、新しい文化が花開いたことも共通である。そのように、ユーラシア大陸の東の果ての島国と、西の果ての島国で、同じような文化受容と変容と発展あったことは偶然ではない気がする。世の中が多少とも安定しそれなりの平和が訪れると、人は健康や人の生き方に関する関心が高まる。食物が単なる生命維持のための「餌」でないという理解、食べ物が健康や幸福感に直結しているという認識は、やがては食そのものを「文化」の重要な要素に仕立て上げてゆく。文明の発展段階に応じてこうしたことは世界で同期して起きるのだろう。このレメリーの本を古書店で見出したときに、ふと貝原益軒を思い出したのも宜なるかなである。残念ながら歴史的な事実としての「糸」の存在は妄想であろうが、歴史の「水平同期」事象の一つであるのではないかとの「ヒラメキ」は妄想ではないと信じる。


工芸品としての古書

そうした時代の妄想はともかくとして、一方の古書コレクター視点で見ると、この書籍自体が何とも美しい工芸品のような逸品である。産業革命以前の家内手工業時代の手仕事の産物である。この本を手に取った理由は、実はその中身よりは、1700年代という古書としても古い時代のものであることと、その美しい総革の装丁に惹かれたからであった。18世紀前半といえば、日本では、江戸時代徳川吉宗(1716〜1745年)治世、蘭学の発生、先述の貝原益軒のほか、関孝和、西洋紀聞(新井白石)、桂川甫筑、青木昆陽、近松門左衛門などが活躍した時代である。そんな時代のユーラシア大陸の向こうっ側のイギリスで出版されて270年も経過した「骨董」である。書誌学的観点からも、本の装丁の歴史という観点からも興味深い書籍だ。なめらかな仔牛革:Half-Calfの背表紙と表紙/裏表紙に金の文字入れと縁取りという総革の外装。背表紙:Spineと、綴じ:Bindingに独特の処理を施した製法とその結果としてのデザイン。「簀(す)の目」、「すかし」の入った手漉き紙に古い活版印字。全体的に職人が手間をかけて丁寧に仕上げた手作り感満載の工芸品となっている。特に用いられている紙は大量生産が始まる前の家内手工業製品であった時代のもので、リネン、亜麻、木綿などの使い古されたボロ布を溶かして漉いた紙である。むしろ工業製品化され薬品処理された木材パルプ紙に比べ、酸化が少なく丈夫であったと言われている。「簀の目」とは、日本の手漉き和紙と同様、漉きの工程で用いられる簀と糸の模様が紙に写し出されたもの。また「すかし」は、当時の紙漉き職人の印章、または落款のような役目を持っている。この「簀の目入り」「すかし入り」という紙は重要な書誌学的なメルクマールになる。すなわちこれは1750年以前の出版物に使われているもので、出版年代が記載されていなかったり、隠滅している書籍でも、その出版時期を特定する上での重要な判断ポイントとなるほか、後世のコピー本、復刻版、改装本とオリジナル版を見分ける手がかりの一つとなる。それ以前は、書籍には仔牛皮紙:Vellumや羊皮紙:Parchmentが用いられていたが、高価で、書写が中心の時代には修道院や大学で重用されたが、印刷/出版革命をもたらしたグーテンベルクの活版印刷には向かないことから、こうした手漉き紙に置き換わっていった。こうした本の制作過程に用いられる紙素材や、バインディングの形式、活字体、インクなどが、その内容とともにこの書籍が成立した時代を物語る重要な要素になっている。

洋古書の外装は、よく後世に改装されていることがある、外装や綴じは痛みやすいので、その経年劣化を補修したり、蔵書家が貴重な書籍を後世に引き継ぐために換装したり、あるいは書棚を飾る見栄えの良い装丁に作り替えたりしたりした。むしろオリジナルの初版本は簡素な装丁の書籍であることも多いようだ。無論、貴重な古書を修復、復元することも大事な文化財保存活動の一環として行われる。こうした書籍装丁の専門業者がヨーロッパにはあったし、今でもその伝統の技を引き継いで、古書の修復、装丁直しを手がける専門家がいる。イギリスのCraft Bookbinderと呼ばれる業者がそうだ。彼らが換装した古書が、オリジナルよりも高価な本に生まれ変わることすらある。こうなるとまさに「本」という伝統工芸作品工房、アート・アンド・クラフト活動と言って良いだろう。ちょっとジャンルが違うかもしれないが、日本の伝統工芸の一つである「金継ぎ」の(リユース)発想と相通じるものがあるのかもしれない。本書の場合、おそらく外装はオリジナルではなく、後世に換装されたものであろう。しかし、先ほどのもろもろの要素を勘案すると、外装の仔牛皮素材やバインディングの形式、また裏表紙に用いられているやや新しい紙素材(これも「簀の目」「すかし」入り)から見ると、比較的古い時代(18世紀中)に換装されたと考えられるのではないだろうか、ないしは、所有者がオリジナリティーを尊重して、わざわざ古紙となっている「簀の目」「すかし」入り紙を注文し、バインディングも当時も様式を指定したのかもしれない。数寄者はいろいろこだわるものだ。しかしそうして歴史的な価値のある書籍を後世に残し、文化価値の繋いでゆくことも数寄者の役割と言って良い。その古書の成り立ち、推移を辿りながら色々と推理し、妄想するのもまた古書の楽しみの一つだろう。


表紙
19世紀以降の書誌事項:Colophon表記デザインと大きく異なる




総革張りに金文字


バインディング(綴じ部分)とトップエンドの処理は18世紀書籍の特色の一つ


黒と赤のインクで印刷している珍しい物


「簀の目入り」「すかし入り」手漉き紙を用いている
すかしの方は紙の職人が自分の製品であることを示す印章、花押のようなもの