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2018年12月31日月曜日

「平成」の終わり 〜元号の持つ意味とは?〜

平成30年最後の富士山



 平成30年が間もなく暮れようとしている。そして来るべき2019年には平成という時代が終わる。明治以降これまで元号は天皇の崩御に伴う改元が常であったが、今上陛下はかねてよりご退位の意向を示され、これにより来年5月に退位、新天皇即位となることとなった。したがって5月には元号が変わる。すなわち平成は来年4月で終わることが事前に分かっている。改元が前もって予定されることは近年なかった。にわかに「元号」について様々な考察やストーリーが語られるきっかけになっている。

 そもそも元号は中国前漢の時代に武帝が定めたものが最初であると言われている。中華世界の皇帝が、その領土人民だけでなく時間をも支配するという観念を示すものとされている。この元号を倭国(当時の日本)が取り入れたのは、いわゆる「乙巳の変」(645年)ののちに、大王(天皇)中心の統治に移行する意思の表明の一環として、孝徳天皇が「大化」と定めたのが初めであると言われる。その後、しばらくは断続的に使用されはしたものの定着しなかったようだが、天武天皇五年(701年)に「大宝」を元号として定め、以降途切れることなく元号が定められた。大化以降、平成まででその数247を数える。

 これまで改元は、即位改元、干支改元、の他にも天災や戦乱などによる「災異改元」や、あるいは吉祥による「祥瑞改元」行われてきたが、明治以降は「一世一元」と定められた。すなわち天皇崩御に伴う代替わり「即位改元」が行われるようになった。これは中国の明、清朝を見習ったものと言われる。しかし、本家本元の中国は「辛亥革命」による清朝の終焉をもって2000年の歴史を有する元号を用いなくなってしまった。そして今、世界を見渡してみると元号を使用している国は日本だけになってしまった。中国の近代化が永年続いた王朝支配(易姓革命による「王朝交代」という考え方に基づく)を廃し、共和制に移行するという「近代化」を選んだのとは異なり、日本はアジアでいち早く「近代化」を行ったが、明治維新が「王政復古」という形であり、「万世一系」の天皇が元首となる国家統治システムを「復古」させ、領土人民だけでなく時間をも支配する体制(中国古代からの思想)としての「一世一元」の元号が、以前にも増してより実質的な意味を持つ制度として用いられ続けることとなった。こうして「王朝」とそれを象徴する「元号」が永続的に用いられている国は日本しかなくなったのだが、これが日本人にとって、国家の興亡の歴史を経験しないという「国家の永続性」を確信させ、それによる日本人のメンタリティーや行動様式を規定してきたことは間違いないだろう。

 少なくとも明治以降、日本人は「明治」とか「大正」とか「昭和」という元号で時代区分してその時代を理解しているが、言うまでもなく世界の人々にはそうした時代区分も認識もない。元号は我々が思っている以上に日本人の独特の「歴史観」を形成させているといえよう。日本も明治以降は西暦を併用してきたが、公式には元号を用いることが定められている。元号に紐つけられる明治維新とか大正デモクラシーとか昭和恐慌、一転して昭和元禄などという歴史概念は日本人だけのものである。

 そういう我々日本人の視点で「平成」という「時代」を振り返ってみると、三十年続いたにしては「明治」や「大正」「昭和」に比べてどのような歴史的画期が起こったのか、どういう「時代」であったのかはっきりとしたイメージが湧いてこない。もう少し時間が経過しないと歴史としての評価がなされないのかもしれない。確かに相次ぐ未曾有の災害に見舞われた時代ではあったが、戦乱のないある意味で平和な時代であった。少なくとも日本の歴史の転換点となるような大きな革命や戦争が起こった時代ではない。もちろん1980年代の高度経済成長が90年代に入り崩壊、失われた10年、20年となり、少子高齢化、低成長の時代に突入し、貿易戦争により国内主要産業が海外へ流出して国内が空洞化した時代である。1989年の雲仙・普賢岳の火砕流被害に始まり、1995年の阪神・淡路大震災、オウム地下鉄サリンテロ、さらに、世界が2001年の米国9.11のうようなテロに時代に突入する。2011年の東日本大震災、福島原発事故などの国難に見舞われた時代であったのだが。考えてみるとこの頃になるとこうした時代の変化は西暦で語られるようになっている。平成何年の出来ごとなのかいちいち換算してみないとわからない。ひょっとすると平成がのちの時代に具体的なイメージとして思い出しにくい時代になっているかもしれない。

 ただ、俯瞰的に眺めてみると、実は昭和と平成との間には大きな時代のパラダイムシフトとでもいうべき大転換があったことが理解できる。すなわちグローバル化とデジタル化である。グローバル化は日本はもはや日本だけにクローズドし、自己完結的に歴史を重ねる時代ではなくなった(もちろん過去においても世界から隔絶された歴史を歩んできたわけではないが、国民国家概念が確立されてから以降、飛躍的に国家を超える流れが進んでいる。その反動が昨今のナショナリズムや反移民ムーブメントだが)ということを意味している。「平成史」を振り返ると、あらゆる場面でグローバル化、ボーダレス化が圧倒的に進んだ時代であった、と後世の歴史には記述されるだろう。日本史と世界史が分けられなくなった。かつて年末のテレビの総集編番組は「今年のニュース:国内編/海外編」と2日に渡って分かれて放送されたものである。我々の日常の感覚からみて世の中の出来事が国内と海外の出来事に分けられる時代であったからだ。日本人の深層心理において海の外は別世界であった。しかし今や我々の日常生活が常にグローバルな出来事や情報に紐ずけられていて、経済にしても政治にしても、社会現象にしてももはや日本だけの出来事に止まらないことを経験している。

 一方で、デジタル化が世の中を大きく変え始めた時代である。メディアという点で見ても昭和という時代の前半はラジオ、後半がテレビの時代であった。衛星放送が「鉄のカーテンを」を突き破って東西冷戦を終わらせた。20世紀後半の出来事である。平成は明らかにインターネットの時代である。デジタル化である。産業、社会、生活のデジタルトランスフォーメーションである。テレビやラジオが一方通行のマスメディアであったのに対し、双方向、かつユーザがコンテンツ/情報を発信できるのがソーシャルメディアである。一家に一台の茶の間のテレビは、一人に一台のスマホに変わり、時と場所を選ばず情報の共有、発信ができる。これが一層個人の日常のグローバル化を進めた。それにとどまらず、その個人の情報が大きな価値を生み出し新たな資源となる。マネーが国境を越える。SNSというプラットフォームが国家、国境を超えて情報を流通させ、マスメディア時代のような情報を管理し、編集し、発信する側と、それをただ受ける側という区分がなくなってゆく。そんな極めて民主的な世界が広がっていくのかと思いきや、このことが大衆受けするフェイクニュースまで世界に蔓延させてポピュリズムを引き起こす事態が起きている。人々の融和よりも対立を引き起こす結果さえ出ている。マスメディアとは異なる形で権力者がこれを使い大衆の分断を図る道具にもできる。さらにIoTとAIが人間を介さず結び付き合い情報を共有し流通させる、これまで人間たちが考え、作り出してきた規範や制度、システム、思想がワークしない「予測不能な世界」が待ち受けているようにも思う。デジタル技術の発展とメディアの激変によるパラダイムシフト。20世紀と21世紀に区分されるこの大きな変化は、日本的には昭和時代と平成時代を分ける出来事であった。

 こうして考察してみると、先ほども触れたように平成は明治、大正、昭和、に比べて、年号で記憶させられるような歴史的な事件が無い分、イメージしにくい時代として後世に理解されるのかもしれない。さらに来年迎える新しい元号がこうした世界的な時代のうねりの渦中にあってどのような歴史的視座を与えてくれるのかとても興味深い。途切れることなく用いられてきた元号が、他の国とは違う日本人としてのアイデンティティーを感じさせてきたのは間違いないだろう。一方で、元号に規定される時代区分、それに伴う歴史理解が、グローバル化しデジタル化された時代の、いわばフラット化した世界におけるそれと大きな齟齬をきたさないよう、かつ自らの立ち位置を見失わせないようにレビューし続ける努力が必要もあるように思う。グローバル化し、デジタル化された時代においては、これまでにも増して日本人のアイデンティティーを求める欲求が高まるだろう。そしてその自分が世界に何がしか貢献でき、価値を持つ存在であり、あるいはそのように承認されることを求めて「いいね!」ボタンの数を数えるのだろう。それが、実は大きなパラダイムシフトに向かった平成という時代であり、来るべき次の元号の時代なのだろう。元号を持つ民、日本人は予測不能な世界に何を盛り込むのか。




2018年12月23日日曜日

白金高輪界隈散策 〜松岡美術館から泉岳寺へ〜



エントランス奥にヘンリー・ムアの彫像

 白金台、高輪界隈は坂の多いエリアである。歩き回るとけっこうアップダウンがあり足が鍛えられる。車の多く通るメインストリートを避けると、台地の谷あいの坂道の路地が多い。前回、旧公衆衛生院から東大医科学研究所を散策した。ここは白金台の高台上である。そこから高輪方面へは地形的には台地が海に落ちる際なのだ。この高輪白金台地はまだまだ見所が満載。今回は東大医科学研究所と自然教育園(白金長者屋敷跡)に挟まれた外苑西通り沿いにある松岡美術館を見学の後、高輪泉岳寺を目指して歩いた。美術館と赤穂義士の墓で有名な泉岳寺、両者には何の関連も、その繋がりに語るべきストーリーもないのだが、細い路地をわざわざ選んでだらだらと坂を下るコースを楽しんだ。

 松岡美術館は実業家として財を成した個人の、仏教美術コレクションを中心とした私立美術館である。自宅のあったところを美術館とした。その邸宅の痕跡として庭園が残っている。館内に入るとまずロビー正面にブルーデルのペネロプが迎えてくれる。さらに先へ進むとヘンリー・ムアの彫刻が眼に飛び込んでくる。しかし、ここは何と言っても世界中から収集した仏教美術のコレクションが充実している。特にガンダーラ仏のコレクションは圧巻だ。ガンダーラの菩薩はどれも鼻が高く、容姿もヨーロッパ人のそれ、いやギリシャ風である。ガンダーラは現在はその地名が失われているが、1〜5世紀頃最盛期を迎えたクシャーナ朝による仏教国家であった。現在のパキスタン、アフガニスタンにあった。仏像を初めて作り出したとされ、ギリシャ系民族の進出の影響を受け彫刻/彫像手法がインド亜大陸に伝わっていた証拠である。なんと日本は邪馬台国卑弥呼から倭国倭の五王の時代だ。のちに中国、朝鮮、日本に伝わった大乗仏教の菩薩たちとは異なる風貌である。一方でクメールやタイ、ボロブドールに伝わった小乗仏教の菩薩たちとも異なる。日本に伝わる仏の姿は、やはりインドの原典というよりも中国的解釈と理解によるものが大きいのだろう。玄奘三蔵が苦労してインドから経典を持ち帰り、中国語に翻訳したものが日本仏教のルーツなのだ。それを倭国/日本からの留学僧や中国からの鑑真和上、さらには空海が日本に伝えた。文明は西から東に伝わってくる。3万年前に日本列島にやってきたホモ・サピエンスの東遷を象徴するような仏の風貌の変容だが、わずかに法隆寺の金堂の柱にギリシャ風のエンタシスの影響が見られるところに意味深長なストーリーを読み取ることができる。現代のホモ・サピエンス人類の子孫にネアンデルタールのDNAが残っているところまで人類の東遷の物語に似ている。この美術館には他にもクメール仏、中国仏があるが、面白いことに日本の仏像は一点もない。松岡氏個人の趣味によるものだそうだ。ちなみにこの美術館は写真撮影が認められている。シャッター音を出さないようにし、フラッシュを使わず、三脚など使用しなければOKだ。要するに他の鑑賞者の迷惑にならないようにして欲しいという「ルール」があるだけだ。これは嬉しい。「大人を信用する」方針に応えるようにこちらもマナーを守ろう。そしてゆったりとした静かな時間を大切にしよう。


ガンダーラ菩薩

半跏思惟像
鼻が高い!

ヒンズーの神
曼荼羅世界

クメール仏

観音菩薩立像
中国隋時代

ヘンリー・ムア

ヘンリー・ムア

エントランスを入るとブールデルのペネロープが出迎えてくれる

唐三彩の馬のコレクション



近現代の日本人作家の絵画が多い

庭園

外苑西通り沿いの松岡美術館エントランスあたり



 外苑西通りを横切り、東大医科学研究所構内を抜けて泉岳寺方面に進む。街路樹のイチョウがまだまだ美しい。白金台から高輪泉岳寺に向けては、結構な高低差があり、狭い昔ながらの小道を下ってゆく。あたりはマンションばかりだが途中、旧細川邸下屋敷跡のスダジイの大木(天然記念物)、旧高松宮邸の長い塀を見ながら、車の通りが激しい通りを避けてさらに路地に分け入る。道路に掲示されている近隣地図にもgoogle mapにもはっきり表示されない、ほとんど人が一人通れるくらいの鉤の手の路地だ。最初は行き止まりに見えたので引き返したのだが、後ろから人が来て、その方向にどんどん歩いていき、やがてはその行き止まりのはずのところで姿が消えた。不思議に思って改めて行き止まりまで行ってみると、そこに右に曲がるごく狭い路地がある。私立学校の校庭の裏手と住宅の石塀の間のわずかな隙間といった空間だ。なるほどここへ先ほどの人は吸い込まれていったのか。まさに時空のギャップだ。道なりに進む。石畳で整備され山茶花の美しい路地だ。そこを抜けるといきなり泉岳寺の山門脇に出た。途中に大石内蔵助切腹の地の石碑もある。先ほどの細川家下屋敷にも赤穂浪士の一部が預けられていた。芝高輪は元禄時代以降は赤穂義士ゆかりの土地になっている。

 泉岳寺では外国人観光客の数が多いことに驚かされた。彼らが歌舞伎「忠臣蔵」を見て感動して訪れている訳ではないだろう。「忠臣蔵」をベースにした映画「47RONIN」。キアヌ・リーブス、真田広之の2013年封切りのアメリカ映画の影響だろう。かなりファンタジー映画に改変されていて、日本人の大好きな忠臣蔵のストーリーとは大きなギャップがあるが海外では大受けであったようだ。映画の舞台、ロケ地が聖地化して外国人の人気の観光地になることはママある事で不思議ではない。タイの若者が佐賀県の祐徳稲荷に押しかけ、台湾の学生が鎌倉の江ノ電鎌倉高校前踏切に殺到し、我々日本人がニューヨークのティファニーに押しかけたのと同じ現象なのだ。映画の影響は、生半可な歴史を語るガイドより大きい。本日は赤穂浪士四十七士の墓に線香を手向けて帰途についた。


外苑西通り

東大医科学研究所構内を抜ける
外苑西通りのイチョウ



旧細川邸跡のスダジイの大木

塀の内側は旧高松宮邸
保安寺参道あたりの古い家並み
狭い路地を抜ける

山茶花が彩りを添える路地

高輪泉岳寺

赤穂義士四十七士の墓所
外国人観光客が競って線香を買い求めている


大石内蔵助像
(撮影機材:Leica CL + Vario Elmar 18-55 ASPH)



2018年12月13日木曜日

北野天満宮 御土居の散りもみじ そして上七軒花街












 師走の10日にもなるとさすがの京都も紅葉狂騒曲は終焉を迎え、紅葉見物の観光客でごった返した名所旧跡は静けさを取り戻す。先週に引き続き、年末恒例の大阪での仕事の帰りに冬枯れの京都を訪ねてみた。先週は12月にしては暖かく紅葉も真っ盛りであったが、今週は急激に寒くなり落葉。一週間でこうも違うものか。北野天満宮の御土居「モミジ苑」も、シーズン中は入場に列をなす状況であったそうだが、今は散策路は閉鎖され、全く人気がない。ほとんどのモミジ樹木が逆さ箒のような有様だ。時々、老年のカップルが「ついこの間まで見事だったんだろうね」などと語り合いながら迷い込むように入ってくる。「来たぞ」という証拠写真を一枚撮ってそそくさと引き返してゆく。すれ違い様に私の顔を見て「こんな時期に来て残念でしたなあ〜」という顔をしている。しかし、この人気のいなくなった時期の紅葉残照、というか散りモミジというか、この静寂の時間がまたなんとも美しい。色を失った逆さ箒の合間に密やかに輝く紅葉、黄葉。敷き詰められた落ち葉の錦。そこに美を見つけ出すのが「時空トラベラー」だ。かなり偏屈な人間だし、人気の少ない閑散としたところが好きなのだから仕方がない。敷紅葉あり、残色あり。黄紅葉あり。結構楽しめる。

 北野天満宮は言わずと知れた菅原道眞公を祀るお社。筑紫の太宰府天満宮と並ぶ天満社だ。どちらが天満宮の本宮なのか意見が分かれるが、わたしにとってはどちらでも良い。境内は太宰府天満宮の方が広いようだ。本殿は両社とも桧皮葺の荘厳なものである。奉納されている牛は太宰府の方が多いかな?飛梅が北野天満宮にないのはいた仕方ないだろう。北野天満宮の方は元は筑紫野太宰府に左遷され無念の死を遂げた菅原道眞の怨霊封じの社であったが、後世には、文章博士菅原家の知性にあやかろうと学問の神様として崇敬を集め、今では勉学受験の神様として受験生の絶大な人気を集めている。その人気は太宰府天満宮と双璧をなす。12月だというのにこの日も修学旅行の中高生が全国から集まってきていた、ひと組は埼玉から、もうひと組は神奈川からと言っていた。そしてもう一組は明らかに九州から。九州男児クン達の傍若無人で声高なバカ話につい耳を傾ける。「ふるさとの訛なつかし天満宮」。御土居は(つい間違えて『御居処』といってしまうが)豊臣秀吉が京都の市街地を守る為に築いた高さ5メートルほどの土塁の跡。洛中洛外をわけることが目的であったとか、防衛上の目的があったとかいわれているが判然としない。ここ北野天満宮の西側にもわずかに残っている。京都という街は中国の紫禁城や西安城などの羅城と異なり、城壁のないみやこであったとおもっていたが、秀吉さんが、こんな土塁を市中にめぐらしていたんだ。しかし、後世には破壊がすすみ、市中に何箇所か史跡指定され残っている。ここ北野天満宮境内の御土居もその史跡の一つ。そこが今や秋は紅葉の名所となり大層賑わう。先週までは入場チケットを買わないと入れなかったそうだが、今日は人っ子一人いない。







 上七軒は天満宮の東側に展開している花街だ。歴史は古く、室町時代に再建された天満宮社殿の残材を用いて東門前に七軒の茶屋を設け参詣者の接待を行なったことに始まるという。また太閤の北野の大茶会が催された際にはこれらの茶屋が茶菓を提供し、太閤のたいそうなお気に入りとなった。その後花街として発展していった。神仏参詣の後のお楽しみはお茶屋で。八坂神社界隈には祇園の花街が、北野天満宮界隈には上七軒の花街が成立したというわけだ。寺社仏閣と花街、茶屋町というのは昔から共存共栄のエコシステムを形成してきた。さらにここ上七軒は西陣が近いこともあって、かつては羽振りのいいダンさん達でたいそうな賑わいであったそうだが、西陣の織物産業の不況とともに上七軒も徐々に賑わいを失い芸妓、舞妓の数も減少してしまったという。それでもちゃんと上七軒歌舞練場もあるし、毎年春には「北野をどり」が催される。ちょうど、芸妓さんが三人、綺麗に着飾って、賑やかにタクシーに乗ってお出かけであった。昼間からお座敷なのだろうか。あたりが華やいだのも一瞬、タクシーが行ってしまうとまた、静かな石畳の小路の町並みに戻り、自転車のおばちゃんが通り過ぎてゆく。内外の観光客が押しかける祇園花見小路と比べ、この静寂と落ち着いた佇まいがなんともいい。

 散りモミジの余韻の美、残照に見る有終の美。静かな花街に芸妓三人。自転車。冬の京都は奥深い。










(撮影機材:Leica CL + Vario Elmar 18-55 ASPH, Apo-Vario Elmar 55-135 ASPH)


2018年12月3日月曜日

2018年紅葉探訪 〜奈良公園編〜


 紅葉を巡る旅の最後は奈良。限られた時間内に錦織りなす秋を楽しむなら奈良公園。まずは、300年ぶりに再建なった興福寺中金堂を拝観。仮金堂から遷座された釈迦如来座像を堂外からも正面に拝観することができる。興福寺は明治の廃仏毀釈で多くの堂宇が破壊され、つい最近まで残っていたのはわずかに五重塔と東金堂そして南円堂、北円堂、三重塔のみ。その五重塔も廃材として当時の金で二十五円(二百五十円という説も)で落札されたが、取り壊しになる直前に周辺住民の反対で取りやめになったという逸話が残っている。この時、興福寺、大乗院、一乗院に所属の僧侶の多くは還俗し春日大社の神官になったといわれている。中金堂は江戸時代に消失して以来再建されなかった。創建1300年の藤原一族の氏寺にして、南都北嶺(奈良興福寺と比叡山延暦寺)としてその勢力を誇った大寺院は、見る影も無い有様であった。境内の多くの築地塀も撤去され(一部痕跡が残っているが)、広大な旧境内の敷地は奈良公園になった。興福寺はこうして奈良公園の中に寺域もはっきりしないまま存在する形となる。

 今回は、興福寺、飛火野、浮御堂、東大寺、大仏池、依水園、吉城園、そして最後に奈良県庁屋上からの展望という2時間ハイライト周遊コースをとった。奈良市内は大阪勤務時代に何度も歩き回ったコースだから目をつぶっていても廻れる。もっともこの紅葉の美しい季節、目をつぶっていては勿体無いのでしっかり目を開け、カメラで出来るだけ多くの紅葉ショットを切り取るよう心がけた。奈良の寺は京都の寺と異なり、国家鎮護の仏教教学の拠点として創建された。むしろ現在の大学のような存在であった。東大寺然り、唐招提寺然り。または薬師寺の世に天皇家の創建になる寺か、この興福寺のような藤原家の氏寺である。国家、為政者の威信をかけた壮大な伽藍を有す巨大な寺院で、現世利益を願い、極楽往生を願う庶民の信仰の場して創建されたわけでなかった。現在でも、京都の寺のように紅葉の名所として、観光客が巡るような雰囲気ではなく、狭い境内や庭園が人でごった返すというようなこともない。しかし、紅葉の穴場スポットは確実にある。観光客で溢れる定番の観光コースから少しだけ離れるだけで良い。観光客はそれを知らないだけだ。こうして穴場巡りをするのが奈良における紅葉探訪の醍醐味だ。

 慌ただしく京都、大阪、奈良と紅葉を巡る旅を楽しんだが、ふと落ち着いて考えると不思議だ。何がって、どうして人はモミジの葉が赤くなったり、イチョウが黄色くなったりするのを見るために東奔西走するのか。春の桜狂躁曲とともに、季節の移ろいを感じる秋の紅葉狂躁曲。慌ただしく早くも「見頃」から「散りゆく」に変わる季節。人は、いや日本人はどうしてこんなに桜や紅葉に反応してしまうのか。観察していると外国人観光客の中国人も欧米人も、紅葉に反応してシャッター切る人は少ない。餌をねだる鹿に盛んにシャッター切っている。四季の移り変わりを楽しみ、自然と共生する。それが温帯モンスーンという「風土」に暮らす日本人の性質なのだろうか。そういえばイギリスの田園。丘陵地帯の黄葉/紅葉も素晴らしかった。ハイドパーク、ケンジントンガーデンのプラタナスの黄色が鮮やかであった。アメリカのアパラチアトレイルやベアーマウンテンの全山真っ赤!という鮮やかな紅葉のスケール感も圧倒的であった。しかし、それを見にわざわざ出かける人も、シャッター切りまくる人もそれほど居なかった気がする。その季節だから道路が渋滞する。列車が満席だ、宿が取れない。そんなことはなかった。山が赤い!綺麗だ!でもそれがどうした?という反応だ。National Geographic Your Shotに紅葉写真を投稿してもそれほどの反応がない。「お花見」や「モミジ狩」騒ぎは日本人だけなのか!ちなみにこのNatGeoに風景投稿してみると面白いことがわかる。日本人にウケる写真とがそれ以外の国の人々にウケる写真が違うことがある。反応が一様なのは「花」の写真。京都の寺の紅葉などの「景観」には潜在的な期待感があるなしでウケが大いに異なることを発見した。面白いものだ。





再建された興福寺中金堂


御本尊、釈迦如来を堂外からも拝める





春日大社表参道から脇にそれてゆく

茶屋



深山幽谷の趣

晩秋





浮御堂


手向山八幡宮
東大寺大仏殿裏の二月堂へ続く道

東大寺大湯屋



東大寺大仏殿裏


大仏池









東大寺大仏殿
東大寺塔頭指図堂前の紅葉
依水園と吉城園


依水園正門


奈良県庁屋上からの展望
東大寺南大門

こんなところに洋館が!
奈良国立博物館
(撮影機材:Leica CL, Vario-Elmar-T 18-56 ASPH,  APO-Vario-Elmar-T 55-135 ASPH,  Super-Vario-Elmar-TL 11-23 ASPH)