ページビューの合計

2020年6月17日水曜日

鎌倉鶴岡八幡宮参拝 〜古事記に出てこない八幡神とはどのような神なのか?〜


拝殿から展望する若宮大路
八幡宮の「八」の字が鳩の形になってることをご存知か?




日本各地に神社は数あれど、日常生活の中で接することが多くて親しみやすい神社は八幡さまだろう。他にはお稲荷さんと天神さまも親しまれている。町には必ずと言って良いほど八幡神社がありその境内は子供の遊び場や、地域の寄り合いの場となっている。また稲荷社は、街角やビルの屋上、屋敷内にもあって商売繁盛の神様としていつも手を合わせる。全国にこうした八幡宮は約44,000社、稲荷社は約32,000社あるとと言われている。

なのに、日本の神様の由来、系譜を詳細に記述する古事記には八幡様もお稲荷さんも天神様も出てこない。なぜなのか?このことは後で解説するとして、今回、鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝してきたのでまずは、八幡様のお話をしよう。関東で八幡様といえば鶴岡八幡宮。三ヶ月ぶりに外出自粛要請が解除されて鎌倉へ出掛けた。義父の墓参が目的であったが、久しぶりの散策である。いつもは参拝客で混雑する鶴岡八幡宮の参道、段葛も今日はゆったりとしている。インバウンド客もほぼゼロ!いつもこれくらいの人出だと鎌倉も来やすいのに、と観光産業に従事する地元の方々のことも考えず勝手に妄想する。ともあれこの参拝を機会に、鶴岡八幡宮、そのルーツの石清水八幡宮、さらにそのルーツの宇佐八幡宮、その本宮の穂波大分(だいぶ)八幡宮、その遷宮の筥崎八幡宮について概観してみよう。


鶴岡八幡宮 相模国

鎌倉の町の中心を由比ヶ浜から一路に貫く若宮大路、その終点の山上に鎮座ましましているのが鶴岡八幡宮だ。創建は1063年、近畿の河内地方を本拠地とする河内源氏の二代目源頼義が奥州平定に出陣する時に石清水八幡宮にて戦勝祈願し、平定を終えて鎌倉に帰還した時にその加護に感謝して創建した社に始まる。最初は由比ヶ浜に若宮八幡社として創建され、石清水八幡/河内壺井八幡から神々を勧請し祀った。河内源氏三代目の源義家(八幡太郎義家)が、再び奥州征討に向かうにあたって若宮八幡を整備したという。その後、1180年、その河内源氏の子孫、伊豆に流されていた源頼朝が源氏再興をめざして挙兵。その時に八幡太郎義家ゆかりの社を由比ヶ浜から現在地に遷した。1191年、鎌倉幕府開設に向けて幕府宗社にふさわしい社殿を整え、武家の守護神「八幡大菩薩」、関東総鎮守、国家鎮護の神として祀った。翌年、頼朝は征夷大将軍に叙任され鎌倉幕府を開いた。ご祭神は応神天皇、比売(ひめ)神、神功皇后である。旧社格は国幣中社。

概観するとこんなところが鶴岡八幡宮の由来であるが、このように、東国武士団をまとめ、武家の棟梁として幕府を鎌倉に開いた頼朝は、河内(現在の大阪府羽曳野市あたり)を本拠地とする八幡太郎義家を頂く一族の子孫である。一族のルーツ、父祖の地には、石清水八幡や河内壺井八幡、さらには応神天皇陵(誉田古墳)がある。まさに鶴岡八幡宮はその出身地の氏神、そして応神天皇を祭神とする。


石清水八幡宮(男山八幡宮) 山城国

鶴岡八幡宮の神々はこの山城国の石清水八幡宮から勧請された。その石清水八幡宮は、さらに遡ると平安時代初期859年、南都大安寺僧侶行教(空海の弟子)が八幡神の神託を受け、豊前国の宇佐神宮の神々を都に近い山城国男山に勧請し、860年に男山にあった石清水寺に清和天皇が創建した社である。遠国の宇佐神宮にかわり二所宗廟として朝廷の崇敬を集めた。また都の裏鬼門を守る社としての役割を担った。院政時代に入ると、力を蓄え始めた清和源氏、桓武平氏などの武士団の崇敬を集め、(先述の)河内源氏の三代目、義家が元服し「八幡太郎義家」と名乗ったところでもある。河内の壷坂八幡宮は、この地を本拠地とする河内源氏三代(頼信、頼義、義家)の氏神として石清水八幡より勧請した社である。御祭神は八幡大神、すなわち誉田別(ほんだわけ)命(応神天皇)、比咩(ひめ)大神(宗像三女神)、息長帯姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后)。旧社格は官幣大社。


宇佐八幡宮 豊前国

宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮である。社格は旧官幣大社。御祭神は八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后である。しかしその創建時期などは不明である。記録にあるのは欽明天皇の時代(571年)に託宣があり応神天皇を主祭神とした。また712年には官幣社に。749年に東大寺大仏開眼供養の時には宇佐神宮の御宣託があり式典の無事が祈られた。769年の称徳天皇の「宇佐八幡宮神託事件」がある。創建の起源、由来が明らかでない点が多いが、平城京遷都後は、都から遥か遠く離れた地に鎮座するにも関わらず、朝廷の重要な祖霊神(皇祖神)として尊崇を集めた。こうした八幡神はどのように生まれ、国家/朝廷の重要事項を決める神託を執り行うようになったのか。八幡神は、もとは地元航海民の首長(豪族)宇佐氏の氏神であったと考えられる。このような地域豪族の氏神や祖霊神が、のちに朝廷の崇敬の対象となり、それを主宰する地元豪族が朝廷祭祀を担うことになる例としては、筑紫の地方豪族胸形氏の宗像三女神(こちらももとは航海神)の例がある。宗像三女神は記紀にその皇祖神天照大神との関係が記述されており、胸形氏は朝廷の主宰する国家祭祀(沖ノ島の祭祀遺跡に見られる)を担う。宇佐氏の八幡神については記紀には記述されていないが、8世紀初頭の記紀編纂時期以降に朝廷との繋がりが強くなり、応神天皇を主神としているので皇祖神と見做されている。ちなみに宇佐八幡宮は九州最大の荘園領主であった。

(参考ブログ)2012年2月8日「豊の国 宇佐神宮と六郷満山」


筥崎八幡宮 筑前国

宇佐神宮託宣集によれば、宇佐神宮の本宮は筑前国穂波郡大分八幡宮であると言われる。その穂波大分八幡宮は現在の福岡県飯塚市にあったが、921年に八幡神の御宣託により玄界灘沿岸に遷宮して、現在の福岡市東区の地に鎮座し筥崎八幡宮となった。ご祭神は応神天皇、神功皇后、そして玉依姫(比売神にかわって)。いずれも九州筑紫と朝鮮半島にゆかりの神々である。元寇の時には亀山上皇御宸筆の「敵国降伏」の扁額を掲げ、調伏の祈祷を行った「八幡大菩薩」国家鎮護の社であった。一時、上陸した元/高麗軍に占拠されたが奪還した(筥崎浜の戦い)。国際貿易都市、博多の東隣に広大な神域を有していた。現在は筑前国一宮。旧社格は官幣大社。


八幡神とはどのような神なのか

さて、なぜ八幡神は古事記にも日本書紀にも、その神系譜に記載されていないのか。その前に、八幡神と言っても一神ではなく、多くの八幡社は応神天皇、比売大神(あるいは玉依姫)、神功皇后の三柱を祀っている。その祭神の一柱、比売大神は(記紀に記載のある)宗像大社の宗像三女神であると考えられている。宇佐氏は三女神をまとめて比売大神として祀ったのではないかと言われている。すなわち胸形氏と宇佐氏の間には同じ神を奉斎する何らかの同族関係、地域連携があったのではと想定できる。宗像三女神も比売大神も大陸との航海を生業とする北部九州の海人族/航海民(胸形氏。宇佐氏)の神だった。もとは皇祖神や国家祭祀とは関係なく地元の豪族、首長の祖霊神であり、一族を守る氏神であった神々を、のちにヤマト王権による国家統一の過程で皇祖神、国家祭祀との関係を再定義し神系譜の中で整理されていったものだ。もともとは比売大神が主祭神であったのだが、北部九州の地元首長や豪族にとって、朝鮮半島との通交、交易に大きな貢献のあった応神天皇の事績を顕彰して主祭神と位置付けたと考えられる。もちろん後に朝廷との関係を重視して主祭神を応神天皇に変えたと言う事情もあったであろう。さらに、8世紀に記紀が編纂されて、神功皇后が応神天皇の母と位置付けられ「三韓征伐」伝承、応神天皇を筑紫の宇美で産んだことが記述されたので、あらたに神功皇后を祭神に加えたのであろう。

このように八幡神は元は北部九州の地方豪族、海人族宇佐氏の神であった。しかも古事記編纂時には、まだヤマト王権(のちの朝廷)との関係が評価されず、それ故に記紀には採録されなかった。しかし、胸形氏の神(三女神)と同様、大陸との通交上の重要性がまし、また南九州隼人の征討の最前線としての重要性もあり、記紀編纂後、奈良時代に入ると、朝廷の崇敬を得て重視されるようになってゆく。とりわけ八幡神が評価されることになったきっかけは、奈良の東大寺大仏開眼の時と言われている。この時の宇佐神宮の御宣託で仏法による鎮護国家を進める朝廷に接近、皇室との関係を深めていった(後に神仏習合して東大寺境内に手向山八幡宮が設けられる)。奈良時代には宇佐八幡宮は伊勢神宮とともに朝廷の崇敬を得て、特に「託宣を行う神」として重視された。朝廷の重要な意思決定に際して宇佐神宮に勅使を出して「ご神託」を聞いてくるというプロセスが成立する。既知の通り、称徳天皇の時に起きた和気清麻呂託宣事件で一躍歴史上クローズアップされた。また八幡神は朝廷の仏教による鎮護国家政策に寄りそう「神仏習合」が最も進んだ神でもあった。このような朝廷にとって「遅れてきた神」八幡神の皇祖神との関係、国家祭祀へ参画のプロセスを見てゆくと、古事記神話の神々(出雲の神々、三輪山の神々、葛城の神々、宗像の神々、安曇の海神神、物部氏の神など)の統合と天照大神を頂点とする神系譜の体系化のプロセスもこのような祭祀に関わる形で評価し、取り入れられていったのであろうと類推することができて興味深い。


なぜ武家の守護神になったのか

鶴岡八幡宮から遡り、宇佐神宮へと八幡神のルーツを追いかけてみた。しかし、八幡神が朝廷にとっての重要な神となっただけでなく、武家にとって守護神として崇敬を集めるようになったのはなぜなのか。おそらく石清水八幡宮が始めであったと考えられる。平安時代末期、それまでの天皇を中心とした公家による摂関政治にかわり、上皇中心の院政が始まると武力を持つ武士団(侍)が京都で力を持ち始める。臣籍降下した清和源氏や桓武平氏と言われる武家集団である。清和源氏は石清水八幡を氏神として崇敬した。天照大神が王朝の皇祖神であったのに対し、八幡神は武家の最高神となっていった。天慶の乱で平将門は八幡神の神託により東国の「新皇」であると称した。やがて清和源氏の庶流であった河内を本拠地とした河内源氏三代(頼信、頼義、義家)は奥州征討(前九年・後三年の役)への出陣で名を挙げ、一躍歴史の表舞台に躍り出た。その際、先述のように、朝廷や清和源氏がが尊崇する石清水八幡神に戦勝祈願と一族の加護を祈り、やがて東国の本拠地となった鎌倉に石清水八幡の神々を勧請し鶴岡八幡宮を建てた。頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、東国の鎌倉が武家政権の中心となると、鶴岡八幡宮を中心として神仏習合し「八幡大菩薩」となった八幡神が武家の守護神仏となっていった。中世以降、武士が各地に八幡神(八幡大菩薩)を勧請し全国に八幡神信仰が広まっていった。


皇祖神系譜との関係

このように、八幡神が古事記に記述されていなかったのは、記紀編纂以前には皇統につながるような評価を受ける地方豪族の祖霊神とは認識されていなかったからだが、これは渡来系氏族の秦氏の氏神である稲荷神を祀る伏見稲荷大社についても同様である。その後古事記の神系譜に載せる努力を重ね記述に成功するが、稲荷神はいわば皇祖神とは独立神である。また熊野大社(熊野三山)も地元の山神三柱を祀る社であったが、古事記成立後に皇祖神との繋がりを主張して、王統を助ける天照大神の国津神、親戚神であるとした。同様に八幡宮も、先述のように、もとは一族の氏神、比売大神が主祭神であったが、のちに朝廷との関係を重視して応神天皇を主祭神としている。このように記紀編纂後も、引き続き朝廷との関係を重視して、地域豪族はその祖霊神を皇祖神の親戚や臣下として神系譜に記録されることでヤマト王権/朝廷内の地位や権威を維持しようとした。ちなみに天神様は、平安時代の実在の人物菅原道真を神として祀った(太宰府天満宮、北野天満宮はじめ全国の天満社)もので、朝廷に祟りをなす雷神(怨霊封じ)、のちには学問の神という新しい神として崇拝したものであった。また、歴史上の人物が死後に神(神号を与えられる)になる、例えば、豊臣秀吉は死後「豊国大明神」となり、徳川家康はその死後「東照大権現」として日光東照宮はじめ、全国の東照宮に神として祀られるなど、皇祖神とのつながりや皇室の祭祀とは別の神が登場することになる。


(参考1)
「三大八幡宮」とは宇佐八幡宮、筥崎八幡宮、石清水八幡宮(どれも旧官幣大社)をいう。最近は鶴岡八幡宮を入れることがある。

(参考2)
これらの八幡宮は神仏習合により「八幡大菩薩」としてそれぞれ境内に神宮寺を併設していた。あるいは神宮域と寺域が混在し境内には多くの仏殿、塔、僧房や仏塔などが建てられていた。しかし、いずれも明治政府の廃仏毀釈の中で仏教色が廃され、多くの堂宇、仏像が破却され、僧侶は還俗させられてしまった。

宇佐八幡宮には弥勒寺があり、その傘下に国東半島の真木大堂、富貴寺など多くの仏教寺院が栄えた。宇佐神宮はいわゆる「六郷満山」の仏教文化の守護者であった。。
筥崎八幡宮には弥勒寺ほか複数の僧房があった。創建当時は三重塔や多宝塔があった。
石清水八幡宮は、もともと男山の石清水寺が八幡宮となり、後に護国寺と称した。
鶴岡八幡宮には鎌倉時代には25もの僧房があった。江戸時代には大塔が建立された。





二の鳥居

段葛

三の鳥居

拝殿に向かう石段

拝殿から若宮大路を展望する

社殿

倒壊した大銀杏


新しいミュジアムがオープン

小町通り
まだまだ人出は少ない
(撮影機材:Leica Q2 Summilux 28/1.7 ASPH)


2020年6月12日金曜日

古書を巡る旅(2) 〜ラフカディオ・ハーンを訪ねてロンドン、ニューヨーク、東京そして出雲松江へ〜





ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patric Lafcadio Hearn)。1850年ギリシャの生まれ。父はアイルランド人で英国軍医。母はギリシア人でアラブの血も流れていると言われている。当時のアイルランドはイングランドに支配されていたので英国籍。
ラフカディオはミドルネームでギリシャの島の名前に由来する。彼はキリスト教に馴染めず、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの名をとったファーストネームを名乗らなかったと言われている。
その後アメリカへ移民し、シンシナチやニューオーリンズで記者をしていた。ニューオーリンズ万博で出会った日本人の話に強く惹かれ、また女性冒険家で世界一周旅行を果たしたエリザベス・ビスランドに強い影響を受けて、日本行きを決意する。その頃イギリス人のバジル・チェンバレンによって英訳された「古事記」に出会い影響を受けたとも言われている。

日本に来てからの略歴

1890年8月30日来日。文部省の服部一三の斡旋で松江尋常中学の教師として松江に
1891年、旧松江藩士の娘、小泉セツと結婚する。
1891年11月、熊本の第五高等学校の英語教師に招聘され熊本に移る
1894年、神戸の新聞社ジャパンクロニクルに就職
1896年、東京帝国大学で英文学講師、日本に帰化、小泉八雲と名乗る
1903年、退職(後任は夏目漱石)
1904年、早稲田大学英文科講師、死去(享年54歳)雑司ヶ谷墓地に眠る

日本人は「外人」が日本をどう見ているかについて異様なほど関心を持っている国民だと感じる。私自身もかつてはそうであった。テレビ番組でも「Cool Japan!」だとか「Youは何しに日本へ?」だとか「ワタシが日本に住む理由」とか、外国人の日本観察番組が大人気だ。書籍でも「青い目の見た...」とか「台湾の若者に人気の...」というようなタイトルの本が溢れている。そしてほぼ例外なく「日本はこんなに素晴らしい!」「こんなにかっこいい!」と礼賛するものばかり。「キミたち日本人は気がついていないだろうが、ワタシたちガイジンは日本のこんなところに感動しているんダヨ」と。こういうのが日本人は大好きだ。まあ自尊心をくすぐられて悪い気はしないのだが、ほんとにそれが日本の姿、日本人なのか。なんで悪いところは言わないのか?ふと疑問に感じる。少なくともロンドンでもニューヨークでも、あまりイギリス人を、アメリカ人を「君たち日本人は我々をどう見てる?」なんて聞かれたことも話題になったこともないし、そんなTVショーを見たこともない。そもそも誰がどう思おうと関係ないという態度だ。日本人は日本を意識し過ぎなのだろうか。これはおそらく明治以降、日本が欧米列強に追いつけ追い越せ、とやっていた頃から始まって、戦後の復興期から高度成長期にそのピークに達したのでは無いかと思う。江戸時代は、鎖国ということもあってかあまり外からどう見られているかなど、少なくとも庶民は考えもしなかったであろう。古代においては中国王朝から蛮夷の国に見られないように意識していた様はよくわかるが、これも庶民レベルでは全く関係ない話だったろう。明治の文明開化、富国強兵、殖産興業というスローガンの下、日本がどれほど「東洋の非文明国」から欧米に負けない「近代文明国家」になったか、「一等国民」になったか、それを検証したくて、特の欧米人はどう見ているのかすごく気になるのであろう。

私も、明治以降、日本にやってきたお雇い外国人が書いた日本に関する著作が取り上げられ、翻訳され日本人に愛読されるのもそのせいだと考えていた。しかし彼らは別に日本人に読ませようとして書いた訳ではなく、世界に向けて未知の日本を語り、自分がいかに貴重な体験をしたかを記録したのである。その中で日本がいかに素晴らしい、欧米とは異なる神秘的な「もう一つの文明国」であるかを強調した。それを読んで日本人が感動した...「日本はこんなに素晴らしいところなのか」と。そういう視点でラフカディオ・ハーンを見てみると、彼はなぜ「怪談」とか「神話」とか「民間伝承」に拘ったのか。もう少し日本が力を入れている「近代化」を評価して欲しいものだと。確かに近代化していく日本の強みや、西欧諸国との違いや優位性についても観察し触れているが、しかし神秘的で、心穏やかで、控えめな日本人の姿から、富国強兵で、日清戦争に勝ち、傲慢さを身につけ徐々に大事なものを失いつつある日本人の姿を感じ取り始め記述している。しかし彼は基本的に霊魂や妖(あやかし)といった非現実的な世界に日本人の霊的体験と精神性を見ている。「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談話は、日本古来からの伝承であるが、我々はむしろハーンの「怪談」の日本語訳でそれを知ったようなところがある。そういう意味でこれも「外人が見た日本」のもう一面だと感じてきた。しかし、このような「日本人」と「外人」、「ウチ」と「ソト」という日本人に特有の二分法思考による視点が必ずしも物事の本質や人間の普遍性を正しく認識し説明してくれないことに気づくことななる。

私がロンドンやニューヨークで古書店を巡るとき、そうした「外人が見た日本」的なテーマで本を探したものだった。ところが、まずロンドンで感じたのは日本はイギリスから見ると「Far East」極東であり、旧大英帝国版図にあるインドや香港やオセアニア地域に比べると馴染みが薄い、ということであった。大英図書館やLSE図書館でも、「日本」は「アジアその他」ないしは「極東」のカテゴリーで取り扱われ、書籍の数も世界の他地域に比べ相対的には少なかった。であるから古書店を歩いても日本関係の古書に遭遇する確率には限りがあった。ラフカディオ・ハーン、いや小泉八雲についても日本人には有名で馴染みがあるが、イギリス人にはどうなのかと半信半疑であった。しかし、意外にもハーンの著作は比較的遭遇する頻度が高いことがわかってきた。イザベラ・バードやアンナ・ハーツホーンの著作にも出会った。古書店主に聞くと、ハーンは、いわば著名なジャパノロジストで、英国においては日本研究者だけではなく読書家にも人気のある著者である。したがって古書もよく出るとのことであった。見つけるのもそれほど困難では無いとのことである。イギリス人は大英帝国時代以来の「World Grand Tour」の伝統があり、世界旅行が好きな国民だ。これに出かける人がよく買ってゆくという。この辺がミシュランやトマスクックの旅行ガイドブックだけに頼らない、イギリス知識人の知性と教養の片鱗が見え隠れする点だ。こうしてチャーリングクロスやセシルロードの古書店街を徘徊しハーンを探した。結局シティーのど真ん中のロイヤルイクスチェンジに店を構えるAsh Rare Booksでは「怪談」と「心」を見つけて購入した。

数年後、ニューヨーク勤務になった時に、やはりハーンを探して古書店を巡った。ニューヨークはロンドンほど古書店が多くはないが、これも意外なほど簡単に見つかった。住んでたアパートの近くのマディソンアベニューのComplete Travellerは、その名の通り旅行、地理関係の古書、古地図が豊富であった。ハーンの著作は初版本ばかりではなく種類も多い。ロンドンと同じで、店主はハーンはアメリカでも人気だという。大学でも研究されているし、学校の図書館にも並んでいて、それが古書市場に出てくると言っていた。この店でJapan an InterpretationとOut of the Eastを入手した。

このように英米においては日本人の間で知られる日本贔屓の「外人」ラフカディオ・ハーン、いや「日本人」小泉八雲としてではなく、著名な作家として根強い人気がある。それに奇妙な東洋趣味や、神秘的な不思議の国日本といった関心からだけではなく、欧米文化とは異なる日本人の内なる心情や、日本文化の内面に迫る、そういう知的な関心を寄せる人たちのバイブルである。また人間に内面に潜む不可解や神秘への憧れ、といった普遍的な心情を愛する一般の読書人の読み物としても、説話短編集、あるいは評論集なので読みやすく面白いのであろう。こうして私の「外人が見た日本」というベンチマークでの本探し、換言すれば「日本人」「外人」、「ウチ」「ソト」という二分法視点がいかにロンドンやニューヨークの古書店では通用しないかを悟った。

古書の楽しみの一つに、以前の所有者の痕跡を探すことがある。この古書が辿ってきた歴史と、その背後に見え隠れする所有者たちの物語がある。蔵書票やメモ書きやメッセージ、また栞が挟まっていたり、メモ用紙が挟まっていることもある。鉛筆での下線やチェックは、その読者が何に興味を抱いたのかを知る手がかりになる。ロンドンで入手した「怪談」には個人の蔵書票があり、その横に万年筆で「To ... From...」が記載されている。誰にプレゼントしたのだろう、息子、娘なのか、恋人なのか、友人なのか... 想像が膨らむ。「怪談」をエキゾチックな極東の日本の伝承物語として興味を持ったのか、あるいは日本を理解する一助としたのか... またニューヨークで手に入れた「神国」には「愛する可愛い妻へ」と書かれている。日本に強い興味を抱いていたであろう妻にクリスマスのプレゼントとして贈ったらしい。その夫の心を思う。また神田神保町で手に入れた「骨董」には「1930年東京の英国大使館にて」とノートがある。日本が戦争の時代に突入する満州事変が起きた前年だ。この所有者はやがて、この本を残し、交戦国となった日本を退去したのだろう。どんな思いでハーンの描いた精霊の国日本を離れたのであろうか。イギリスでもアメリカでも、かつて日本と戦争した国の人々が、愛を込めて妻や子供や友人に、ハーンの日本に関する本を贈り愛読した。その痕跡がありありと残されている。戦後日本の連合国GHQによる統治を指揮したダグラス・マッカーサーと、その書記官であったボナー・フェラーズはハーンを読んで日本を研究した。とりわけボナー・フェラーズはハーンの愛読者で何冊もの著作を所有し日本滞在中も手放さなかったという。そこから得られた日本と日本人への内省的な理解が、GHQの民生統治の基層にある。かれは滞在中、ハーンの遺族を訪ね交流を深めたという。

日本人が外人からどう見られているか、という一方的な関心事や、戦前の「敵性外国語」書籍だから読まない、といった、そんな偏狭なものの見方ではなく、広く深く人間のうちなる精神を読み取ろうとする試みに、多くの人々が共感し、その感動を共有したのだ。その心は、文字通り、洋の東西を問わず、国家同士の非人道的で非生産的な戦争に左右されることもなく、深い普遍的な人間の物語として読み継がれてきたことを知る。そこには著者とその著作にまつわる物語だけでなく、その書籍を読み継いできた所有者が記したメッセージやノートやチェックなどの痕跡に、その心情、家族や友人との交流の物語を発見することができる。これこそ古書をめぐる旅の面白さだ。



古書店巡りクロニクル

1)Ash Rare Books ロンドン(1993〜96年に訪問)
 もとはCityのRoyal Exchangeにあったが、ネットで調べると現在はSouth Bankに移転し盛業中のようだ。旧店舗は歴史的建築物の中にあり、ここに居るという体験自体が「時空トラベル」で、いつまでも佇んでいたい素晴らしい空間だった。古地図も豊富で、16世期のベルギーの地図製作者ヤン・ヤンソンの日本地図をここで手に入れた。額装までやってくれた。

 Kokoro「心」: 
 1896年ロンドン初版本 神戸時代の著作
 Kwaidan「怪談」:
 1904年ボストン/ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作

2)Complete Traveller Antique Bookstore ニューヨーク(2003〜06年に訪問)
 Madison Avenueにある。現在はオンラインのみとなってしまったが、旧店舗は「古書の大海」に揺蕩う、という言葉がぴったりの智のラビリンス、時空のワンダーランドであった。店主は趣味人、教養人がメガネかけて、パイプ燻らしているという、如何にもこの場にぴったりの人物であった。「用事があれば声かけてくれ」という人と人との距離感。質問すると丁寧に調べて答えてくれる誠実さ。何時間でも過ごすことのできる心地よい空間であった。こうして店舗が街中から消えてゆくのは寂しい。

 JAPAN An Interpretation「神国」:
 1904年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作
 Out of the East「東の国から」:
 1895年ボストン/ニューヨーク初版本 神戸時代の著作 熊本での話が描かれている

3)北沢書店 東京(2019年〜)
 神保町の老舗洋古書店。「巣篭もり」中、オンラインで購入。本業はもちろん欧米古書を扱う伝統的な老舗店であるが、それだけでなく最近は店主の代替わりに伴ってDisplay Booksという、インテリア要素を入れた古書シリーズを提案している。しかもオンラインショップで受け付けている。古書のイメージをガラリと変える新しい感覚の「アンティークショップ」と言って良い、今注目の「古書店」だ。エドモンド ・マローンのシェークスピア全集やチェスウィック版シェークスピア文庫集など、美術品とも言える美しい古書をここで手に入れることができた。

 KOTTO「骨董」:
 1927年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作 
 1930年2月14日British Embassy Tokyoの個人の所有
 Japanese Miscellany「日本雑記」 :
 1901年ボストン初版本 東京帝国大学英文学講師
 1982年Yushodo Booksellersからの復刻版(300部限定)


怪談(KWAIDAN)1904年初版本

雪女の挿画

耳なし芳一


心(KOKORO)

ロンドン、ニューヨーク、東京と
それぞれの都市で出会ったハーンの著作
どれも個性的で美しい装丁だ


出雲松江散策 (2008年に訪問)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はまるで出雲に長く住まったような印象があるが、実は一年ほどしか滞在していない。また滞在中には本を出していない。しかし松江での日本生活の第一歩は彼に大きなインスピレーションを与えた。後に出版した「Glimpses of Unfamilier Japan」に書かれている、松江大橋を渡る人々のカラコロという下駄の音で目が覚める朝のシーンが印象的だ。これが彼が夢見た日本の現実(リアリティー)であった。夢と現実は、時として大きな乖離があるものだが、彼にとってここ松江で目にし耳にする日常的な現実は、まさに夢見た通りであった。特に妻の小泉セツの語る怪談話や民間伝承がのちの著作の基層になっている。松江では本を出さなかったが、この松江での生活と体験が、あの代表作「怪談」や「心」などの名著を生み出した。松江という街が彼の抱いていた日本のイメージとぴったり一致していたのであろう。大きな感動を与えた。

彼はなぜそのように怪談、幽霊、精霊などの日本固有の民間伝承や神話の世界に惹かれたのか。古事記に出会ったことがきっかけとも言われるが、その前に、少年期の体験、すなわちカトリック学校の教えに馴染めず、次第にアイルランドに古くから伝わるケルトの精霊信仰に興味を持っていったことがあったようだ。そのようなキリスト教伝来以前のケルト源教の心霊説話に親しんだ幼少時代の影響で、日本の、やはり仏教伝来以前の自然崇拝、精霊信仰、祖霊信仰の基礎にした神話、民間伝承に強く惹かれたのであろう。特にバジル・チャンバレンの英訳「古事記」に影響を受けたのも事実だろう。彼とは来日後も親交を深めた。このように日本人の祖霊信仰に共感を覚え、神道のような経典もなく教えも説かない宗教を邪教と考えるキリスト教的な宗教概念に違和感を感じたのも、このケルトの体験があったのかもしれない。こうして小泉セツの語る怪談、伝承、や「雨月物語」「今昔物語」の中の説話を題材とした「再話集」を次々と書いていった。

しかし、彼は松江を去り、熊本、神戸、東京と移り住むに従って、徐々に日本の美しい内面ばかりではなく、文明開化や富国強兵により近代化を果たしてゆく日本に、何か大事なものを失ってゆく姿を見るようになる。時代は1894〜95年の日清戦争の勝利を経て、1904年の日露戦争へと、日本が大陸へ、戦争へと突き進み、念願の「一等国」への道を歩き始めた時期である。彼は徐々に日本に幻滅していったとも言われている。岡倉天心が「茶の本」で「西欧諸国は日本が平和な文芸にふけっていたときには、野蛮国とみなしたものである。しかるに満州の地で大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。それならば日本は喜んで野蛮国に甘んじよう」と書いた。この心情をハーンも共有したに違いない。この辺りの評論は晩年の著作に現れている。こうした心境の変化は時代背景があってのことではあるが、彼が最初に暮らした松江の思い出はひとしおであったことだろう。1896年に日本に帰化したとき(この時は東京にいて東京帝国大学に教職を得た)、かれは日本名を妻の姓「小泉」と、出雲の美称(枕詞)である「八雲立つ出雲」の「八雲」を採り小泉八雲と称した。こうして松江は彼の原点となり小泉八雲とは切ってもきれない関係となった。


「八雲立つ出雲」の夕景
穴道湖大橋
松江大橋
ハーンが橋を渡る人々の下駄の音で目が覚めた松江最初の朝のことを書いている

松江城
松江城天守

天守から松江の街を展望す
武家屋敷街にある「小泉八雲旧居」
その並びに記念館が開設されている

武家屋敷
現在は美術館になっている
塩見縄手









2020年6月7日日曜日

旧尾崎士郎邸に紫陽花を愛でる 〜馬込文士村、ジャーマン通り散策〜



尾崎士郎旧邸
紫陽花が美しい季節になった


コロナ騒ぎでここのところ遠出を自粛している。緊急事態宣言は5月25日に解除されたが、東京都はまだじわじわと二桁の感染者が出続けているので、いつまた二次感染爆発が起きるか心配だ。まだまだ油断はできない。気分的にもまだ遠出を避けたい雰囲気である。

しかしZoom会議と「巣篭もり」ばかりしていると体が鈍るのと、気分的にも晴れない。早くカメラを担いで「山川を跋渉して寧所に暇あらず」と行きたいものだ。遠出がダメなら近場で、というわけで「三密」を避けてご近所散策を心がけている。季節は梅雨入り直前。今回は「人生劇場」の小説家、尾崎士郎の旧邸で咲き誇る紫陽花見物と洒落込んだ。この界隈は「馬込文士村」と言われた地域で、我がソーシャル・ディスタンスならぬウォーキング・ディスタンス内の散策テリトリーだ。しかし考えてみるとこれまで「時空トラベラー」ブログに取り上げたことはない。なぜか?あまりにも近すぎて「時空」を「旅行」している気がしないからか。しかし、こうして外出自粛という形で「巣篭もり」を強いられて、改めて普段の街を歩いてみると、身近なところにいろいろな発見があることに気づく。これが「巣篭もり」生活の成果かも。


1)馬込文士村
「馬込文士村」は大田区大森山王一帯で、戦前に多くの小説家や芸術家が住んだことからそう言われている。この辺りは東京の郊外で、特に関東大震災の後、都心から引っ越してきた人が多く住んだ地域であった。まず大正期に小林古径、川端龍子、伊藤深水などの画家が住み始め、その後広津和郎、川端康成、室生犀星、宇野千代、萩原朔太郎、三好達治、佐多稲子、村岡花子など多くの文士が棲み始めた。特に尾崎士郎は生涯において何度か馬込、山王あたりに暮らし、数多くの文士をこの地に誘い、ダンスや酒宴、麻雀など様々な会合を開いて一種のサロンを形成した。望翠楼がその社交の中心であった。その後八景園などの新しいホテルができ徐々に衰退していったそうで現在はその建物は取り壊されて跡地にマンションが立っている。かつての文士の邸宅跡はほとんどが痕跡もなくなっている。わずかに姿を止めるのはこの尾崎士郎邸と、日本画家の川端龍子の邸宅跡の龍子記念館、書家の熊谷恒子の邸宅跡の熊谷恒子記念館くらいである。その他はただ「かつて在りき」のプレートが示されているだけである。大森駅へ降る八景坂の側壁に「馬込文士村」のレリーフが掲げられている。これだけ著名な文士が数多く住んでいた割には、その「邸宅」がほとんど残っていないのは、駆け出し、文豪を問わず、彼らの収入がそれほど多くなく、生活にも苦労していたためだと考えられる。多くが家賃が安い借家だったらしい。あるいは原稿料は全て他のことに使われて、豪邸を構えるところに回らなかったのかもしれない。それもまた文士らしい「宵越しの金は持たない」人生なのかもしれない。

2)旧尾崎士郎邸
この「文士村」形成に大きく貢献した尾崎士郎はこの山王の邸宅を終の栖とした。邸宅と敷地は現在は大田区が所有し、一部、玄関と書斎部分が復元され「旧尾崎士郎邸宅跡」として一般に公開されている。蔵書の多くは彼の生まれ故郷、愛知県の吉良町に寄贈されているようだが、復元された書斎にその一部が展示されている。さほど大きな敷地ではなく、建物も特筆するような古建築の面影はない。しかし、門を入った正面に紫陽花が咲き誇り、右手には藤棚が、また至る所につつじの生垣が施されていて落ち着いたなかにも明るい佇まいである。庭には、相撲好きであった尾崎が「てっぽう」の練習した大木がそびえている。文士で邸宅が残っているのはこの尾崎士郎邸だけである。尾崎邸の門を出てすぐ左に曲がると徳富蘇峰の邸宅跡、現在は「山王草堂」「蘇峰公園」(これも大田区の所有)があり、これも一般に公開されている。あたりは今でも閑静な住宅街で、少し前までは瀟洒な洋館や立派な和風建築のお屋敷が軒を並べていた。しかし、ご他聞にもれず、最近はこれら「建築遺産」ともいうべき建物が惜しげもなく次々と破壊され、跡地にはマンションや狭小住宅群が立ち並ぶという景観破壊と過密化が急速に進行中である。すっかり城南のお屋敷街の面影が薄れてしまった。

さはさりながら我が家のお気に入り散策コースである。蘇峰公園、尾崎士郎邸、ジャーマン通り、山王邸宅街といくつかポイントを巡ると5000歩ほどの歩数を稼げる。コースには高低差もあるので有酸素運動にもなる。緑と四季折々の花と文化の香りが楽しめるブラパチ散歩コースである。






藤棚

尾崎士郎旧邸
復元された玄関と書斎の一部
「人生劇場」碑
その奥には当時からある井戸が
尾崎士郎邸玄関から山王を望む
この先に徳富蘇峰の旧邸
「蘇峰公園」がある


応接間
JR大森駅に続く「八景坂」
馬込文士村」のレリーフがはめ込まれてる
大森山王のお屋敷
堂々たる洋風建築だ
壊さずに残して欲しい
両隣の邸宅は最近取り壊されてマンションになった
大森山王は坂の多い街
古い木造建築が残るが、ここでも次々と取り壊されていく

3)ジャーマン通り
この大森山王の真ん中を横切るように走る通りがジャーマン通りである。池上通りから環七通りへ斜めカットするように走っている。なぜ「ジャーマン通り」なのか。かつてここにドイツ人学校(Deutsche Schule Tokyo)があり、在日ドイツ人コミュニティーがあったことからこの名がついた。この学校の歴史は古く、明治に横浜で開校したが1925年東京に移り、戦前の1933年に大森山王に校舎が建てられた。その後、1991年にはドイツ人学校は横浜に移転したため、多くの家族が引っ越したようだ。今でも少しだがドイツ人家族が住んでいるし、ドイツ系プロテスタントのルーテル教会がジャーマン通りにあり、かつての「リトルドイツ」の痕跡を残している。大森山王の住宅地や「馬込文士村」のあった地域に近く、無電柱化され、空が広々とした通りには小洒落たパティシエやベーカリー、エスニックな料理を出す店なども在り、ちょっとした街歩きを楽しめる通りになっている。最近、こじんまりしているがおしゃれな古書店もオープンした。

以前、ボンのドイツテレコム(Deutsch Telekom)を訪問した時に、対応してくれた社員が流暢な日本語を話すのでわけを聞いたら、「私は子供の頃大森のジャーマン通りに住んでました」と懐かしそうに話してくれた。彼は「ピンポンダッシュって知ってますか?」と聞く。他人の家の玄関のインターホンをピンポ〜ンと押して、家人が出てくるまでに逃げる、といういたずらだ。学校の帰りに友達とよく遊んだ「ワタシは悪ガキでした」と笑っていた。こうした「ガイジン」のいたずらに近隣住人も悩まされたことだろう。しかし、これを教えてくれたのは日本人の悪ガキだったそうだ。時空を超えたドイツのボンに、ここ大森のジャーマン通りを故郷と懐かしみ、思いをはせている人がいることに心が熱くなったことを思い出す。彼は今頃どうしているのだろう。


ジャーマン通り
無電柱化し街並みがすっきりしている
欧州仕込みのパティシエやパン屋、小洒落たレストランが並ぶ


TOKYO 2020の旗が取り外されることなくはためいている


ルーテル教会


パン屋さん
金子屋敷

蘇峰公園