ページビューの合計

2018年10月27日土曜日

倭とは何か?倭人とは何者か? 〜「空白の4世紀」を読み解く〜

倭国残照


 中国の史書における「倭」の初見は、後漢の時代に班固によって編纂された「漢書地理志」と王充の「論衡」であると言われている。倭は朝鮮半島(楽浪)の東の海中にある島で「百余国に分かれている」「朝貢してきた」という認識が示されている。さらに「論衡」では、倭は揚子江下流の南、呉の国がルーツとも記述されている。のちの「晋書」「梁書」でも「倭は呉の太伯之後」と記されていて、倭が朝鮮半島ルートとは別に江南ルートでつながっていたことを示唆する記述がある。さらに古くは中国最古の地理書「山海経」に、倭人が燕に朝貢していたかの記述があるが、神話や伝説集の体裁をとっている「山海経」には神仙思想に基づく架空の国や地域の記述が多く、史実に即しているのかは疑問が持たれているという。何れにせよ、日本の歴史時代以前、中国では「倭」「倭人」の存在が認識され、交流が持たれていたことが正史に記録されている。その倭が、7世紀になって日本へと国号を変えた経緯は以前のブログでも幾たびか触れてきた。今ひとたび倭とは一体何か?倭人とは何者であったのか?史料をもとにそのプロフィールを振り返ってみたい。なぜなら日本という国の地政学的な立ち位置、日本人のアイデンティティーは倭、倭人の時代にその基層が形成されたと考えるからだ。ちなみに、「倭」だ、「倭人」だと言っているが、中国史書で呼称した(華夷思想に基づく)名称であった、列島の住人が、自らを倭人である、その集団を倭であると認識はしていなかった。自ら名乗ったわけではないのである。やがて大陸との通交が活発になり文字としての漢字を取り入れ、様々な文化的な成熟、知見の進化、それにともなう自我意識(アイデンティティー)が芽生えるとともに、そのあまり嬉しくない意味を含む文字「倭」を自分たちの集団の名称に使うのではなく、もっと美しく尊厳のある名称を使おうと目覚めた。これが「日本(ひのもと)」である。さらに「倭」の字を佳字である「和」と改め、さらに「大」を冠して「大和」とし、これを自ら住む場所の「やまと」にあてた。日本人の登場、大和王権の登場である。

 さて「倭」とは何か?「倭人」とは何者か? 中国歴代王朝の史書に記述された姿を通史的に振り返ってみると、そこにはそのプロフィールが大きく変遷していった様子が見て取れる。すなわち3世紀以前の倭の姿と、5世紀の倭の姿は大きく異なっている。後漢書東夷伝における1世紀の奴国王(漢に朝貢し冊封を受けて「漢委奴国王」の金印をもらった)の倭は、農耕や武器に必要な鉄資源などを大陸に依存する発展途上の稲作農耕集落を母体とする国であった。また、魏志倭人伝に描かれている3世紀の倭は、卑弥呼というシャーマン(巫女)による聖なる権威と、男王による世俗的権力という「祭政二元体制」をとる、いわば未開の匂いが漂う弥生的農耕集落国家連合であった。奴国も邪馬台国も超大国漢王朝、魏王朝へ朝貢し冊封を受けて、統治者(王)は中華皇帝から多くの威信財を下賜され統治権威を保証してもらう。すなわち華夷思想にもとずく「蛮夷の国」としての倭の姿である。ところが、その倭国は4世紀後半頃になると朝鮮半島に軍事的に進出し、いわば国際社会にデビューする国となっていく。さらに5世紀になると武力を背景とした世俗権力による列島内統一と、朝鮮半島において朝鮮三国と軍事的支配権を競うという軍事強国へと変化する。このわずか200年余りの間に倭人に何が起きたのか?どうもその変化の兆しをめぐるヒントは4世紀にありそうだ。

 4世紀は、中国は漢の滅亡、漢王朝の正統性を承継するとする三国時代の覇者、魏も衰退し(倭の奴国王、面土国王、邪馬台国王が朝貢した)、統一王朝を欠く(どれが「正当な王朝」かわからない)東晋と「五胡十六国」時代に突入する。中国中原の混乱の時代である。これまでの中華世界的秩序、すなわち「朝貢・冊封体制」が停頓する。華夷思想の根幹である「中華皇帝の徳」が「蛮夷の民」に届かないという中国中原の秩序不安定な動きは、その周辺部にも混乱の時代をもたらした。漢帝国、魏王朝歴代の植民地(楽浪郡、帯方郡)があった朝鮮半島には大量の難民、亡命漢人官僚、有力貴族(中国風文化政治制度などとともに)が流入し植民地が崩壊。そこに新しい高句麗(韓人というよりツングース系女真族の国?)が形成される。さらに半島南部の馬韓、弁韓、辰韓といった在来の部族国家があった地域にも進出。新羅、百済が建国される。こうして朝鮮三国(高句麗、新羅、百済)が形成される。これらの三国はいわば中華文明の移入に伴って生まれた国々で、朝鮮半島の政治/文化/社会に新たな文明をもたらした。と同時にこれ以降、絶えず半島内で三国が抗争を続けることとなる。こうした動きが海を隔てた列島に波及し倭の在りようを変えていくことになる。すなわち朝鮮半島三国は、東の海中の列島国家、倭を自国の後方を守る同盟国に引き入れようと動き始める。こうした動きは主に高句麗に対抗する百済、新羅といった半島南部の国によって盛んになる。また倭人は半島最南端の伽耶(日本側の文献でいう任那)に倭人コミュニティーを形成していたようだ。こののち朝鮮半島においては中国や倭国(のちに日本)といった「外国勢力」を半島内の紛争に引き入れて支配権を自国に有利に確立しようとする外交・軍事が伝統的な戦略となる。最初は、倭人に出兵(国家としての関与というよりは戦闘員/傭兵の調達)を促していたが、徐々に軍事的な後方兵站機能(武器の供給、軍馬の供給、技術支援など)、さらには同盟国としての武力コミットメントを期待されることとなっていった。特に高句麗と対立抗争中の百済(ひゃくさい)は、兵力としては期待できるが、文化的には劣る「未開の倭人」に必要な文化的、技術的、資源的な支援を与えることによって、より強力な「二国間」安全保障体制を形成しようとした。こうして倭人たちは半島の戦争に駆り出され、やがては集団としての戦闘能力の向上、海外での交戦能力獲得をはたし、ひいては文化的な成長、国家としてのアイデンティティーも形成され始め、やがては三国を脅かす軍事的なパワーに成長していった。いわば朝鮮三国の抗争の中で、強力な軍事力を有する倭国に育てられていったと言っても良い。こうした中国王朝の混乱、朝鮮半島の三国対立という東アジア情勢の劇的な変化が、3世紀のシャーマン(「女王」あるいは巫女)の「権威」が支配するある意味「未開で平和な弥生的農耕社会」(列島内の争いはあったにせよ)を形成していた列島の倭人コミュニティーを、4〜5世紀の男王を中心とする軍事を背景とした「権力」が支配する国家へと変貌させてゆく。この間に列島内では、チクシを中心とする倭人勢力(邪馬台国連合)の他にも、各地に国または国の連合が形成されていたであろう。そのなかからヤマトに勢力を持った初期ヤマト王権が生まれた。このヤマト王権は武力による(あるいは武力を背景とした交渉)による列島統一を始めた。これがシャーマン国家から武断国家への変貌の実相であろう。朝鮮半島への出兵をおこなったのは初期ヤマト王権・倭人勢力であろう。また、こうした朝鮮半島諸国との軍事的支援関係は、いわばその対価として大陸の先進文化の吸収、咀嚼してゆくこととなる訳である。その「文明開化」のカタリストは3世紀以前には中国王朝であったのだが、4世紀には「中華文明のフロンティア」たる朝鮮半島三国であった。

 このころの倭人に関する文献資料は極めて少なく、とくに中国王朝の混乱に伴い、正式にな史書に倭人の記述が途絶える。いわゆる「空白の4世紀」といわれる時代である。しかし、朝鮮半島側の資料の中に当時の倭人の様子が垣間見える。20世紀初頭になって中国吉林省(かつての高句麗の地)で発見された石碑「好太王碑文」によれば、4世紀末には倭人が高句麗を攻め、それを好太王(広開土王)が撃退したとある。また倭人は百済、新羅を属国化し南部の小国伽耶(日本側の文献にいう任那)を支配下に収めたかの記述がある。朝鮮半島の歴史を記述した「三国史記」にも、倭人が半島に進出し新羅を属国化し、倭国に朝貢したといった話が出てくる。この「三国史記」は後世(12世紀)の作で、一次史料は失われており、史実として正確であるのか疑わしい記述が多いとされている。一方、8世紀初頭に編纂された日本側の史料、すなわち日本書紀や古事記に記述のある「神功皇后の三韓征伐」の伝承が、こうした大陸側の出来事に当たるのか論争がある。こちらは年代が特定できておらず、「神功皇后」の存在そのものも史実であるのか疑わしいとされている。このように決定的に正確な文献史料が少ない時代である。しかし、いずれにせよ4世紀後半に倭人が朝鮮半島の紛争に引き込まれてゆき、軍事的に進出して行ったのは事実だろうと推測される。しかし新羅や百済を属国化したり、朝貢国にしたかどうかは不明であるが、倭国が朝鮮半島三国の緊張状態の中、同盟関係に誘われて進出した時期で、少なくとも朝鮮三国と「朝貢/冊封」関係とは異なる、いわばギブアンドテイクの「贈答」関係による外交が展開されていた可能性がある。このことを持って、倭国側の認識として朝鮮三国が朝貢してきて属国としたと考えた。このことが5世紀の中国の宋や晋の史書に出てくる「倭の五王」の朝鮮半島における軍事的支配権威の承認要求にエスカレートしてゆく。さらには8世紀初頭に倭国(日本)で編纂された正史である日本書紀における「神功皇后の三韓征伐」の記述の繋がって行く。

 一方、列島内に目を向けると、この4世紀は倭国の中心勢力がチクシからヤマトに遷移して行った時期であろう。大陸に近い北部九州の邪馬台国連合、すなわち祭祀による農耕社会型のチクシ倭国が衰退し、代わって列島内のいくつかの分立する地域国連合の中から、何らかの事情で近畿大和に移動し(在地勢力ではなく)拠点を置いた「王権」が、列島内の政治的、経済的かつ軍事的な勢力基盤を確立し、やがて列島の武力統一や海外進出を担う軍事国家(ヤマト倭国)に変遷したのではないか(纒向遺跡はこうした3世紀末の初期ヤマト王権の遺構であると考える)。魏志倭人伝のチクシ倭国(3世紀的倭国)から、武断的な「倭の五王」のヤマト倭国(5世紀的倭国)への変遷である。残念ながら、この間の倭の国内事情を説明し、このような仮説を証明する文献的な資料が限られており(まさに「空白の4世紀」)現時点では推察の域を出ないが、4世紀にはこのような倭国を取り巻く海外情勢の混乱があったことは間違いない。中国における史書などの文献が途切れること自体が、その混迷を物語るものであり、そしてこの混乱の4世紀こそ倭国にとっても大きくその国のありようが変わって行った激変の世紀だった。

 5世紀は武断的な「倭の五王」(初期ヤマト王権の王達)による倭国の軍事大国化が進んだ世紀である。列島内の軍事的統一を進め、さらには朝鮮半島支配権を巡って、朝鮮半島三国と競い、中国王朝に爵号、軍号を要求(倭の五王の時代)する。このころ中国はようやく、晋、宋が一部統一王朝(南北朝時代)を打ち立て、中華的な朝貢・冊封体制が復活してゆく。しかし、まだ中華皇帝の権威は十分に回復していなかった。「倭の五王」は中華皇帝から思うような朝鮮半島統治権威の承認を引き出すことができず(特に百済の軍事的支配権を認められなかった)、倭はこのころから中華王朝の朝貢冊封体制からの離脱、自立を模索し始めるのであるが、それでも中国皇帝による倭国王に対する朝鮮半島諸国の軍事的な支配権を認める軍号の付与は、こののち倭国(さらには日本)支配層に、朝鮮半島における優位性という「小中華思想」の源泉として記憶されて行く。ちなみに、列島内では、百舌鳥古墳群や古市古墳群のような巨大な古墳群が、大王(おおきみ)の倭国支配権の強大さを誇示するように構築される。これらは、湊の近くや宮都に続く主要官道沿いに造営され、外国からの使節一行への対外的な国威発揚効果をもたらすことがもう一つの目的であった。

 そして6世紀の倭は、列島の統一をようやく確かなものにしつつあったヤマト王権は百済との同盟関係を強化する。一方、新羅は「統一ヤマト王権」の中で、いまだに強力な力を持ち続ける邪馬台国連合の末裔、チクシ倭王(磐井)との同盟関係で対抗するなど、相変わらず朝鮮半島との合従連衡を続け、それに伴い反対給付としての朝鮮半島から仏教が伝来するなど、文化的、人的、交流が深まってゆく。しかし後期になると、中国に強大な隋/唐帝国が出現し、東アジア新秩序に向けて再び激動の時代へ突入する。「筑紫磐井の乱」でようやく邪馬台国・チクシ倭王権の残影を一掃したヤマト王権の倭は、遣隋使や遣唐使を派遣し、新しい中華統一王朝との関係構築を試みる。7世紀になるとヤマト倭国は宮廷クーデター(乙巳の変)により、大君の権力集中を図り、急速な政治改革(いわゆる「大化の改新」)を試みるが、朝鮮半島の同盟国百済の滅亡に直面。半島における軍事行動の終焉(白村江の敗戦)、長年争った半島における支配と利権を喪失する。こうして4世紀からの伝統的な朝鮮半島介入政策から撤退する。その背景には超大国唐と統一新羅の強力な君臣関係の成立がある。倭国の安全保障上の懸念が増大した時期であった。そして、ヤマト王権は「壬申の乱」を経て、以降その勢力を国家としての存立基盤を確かなものにするために内政重視に向ける。成立した超大国唐帝国を意識した国作り、「倭」から脱して中央集権的「近代国家」、すなわち、大王は「天皇」を称し、国号を「倭」から「日本(ひのもと)」とし、律令制による氏族・豪族の官僚化、公地公民制、天皇の祖霊神・皇祖神を頂点に置き氏族豪族の神々の体系化、国の正史「日本書紀」編纂、新都建設(藤原京)、仏教を国家鎮護の法とするなど、「天皇制国家日本(ひのもと)」建国に邁進する。いわば「大宝維新」である。あるいは「文明開化」といってもよい。以降、白村江の戦いの敗北以降途絶えていた大陸諸国との交流は、唐帝国や統一新羅、渤海、のちの高麗との遣唐使、遣新羅使、渤海使により平和的に行われる。日本は中国とは朝貢冊封関係に一定の距離を置き、いわば贈答関係による文化/文物/人の交流という形をとるようになる。こののち倭国、いや日本は16世紀の秀吉の朝鮮出兵まで、対外戦争の道を歩むことはなかった。

(前のブログを参照)

古代最大の内乱「壬申の乱」とは? 〜倭国の対外戦争に終止符を打った内乱〜

https://tatsuo-k.blogspot.com/2018/10/blog-post_13.html


 最近、学生時代に読んだ和辻哲郎の「風土」を読み直してみた。そこに倭人のプロフィールが劇的に変化した「空白の4世紀」を読み解く鍵があるように思ったからだ。

 モンスーン型風土に生きる日本人は、四季折々の変化の中で自然との対立を避け、共生し、温和な性格を形成してきた。ところがその日本人は、そうした「静感情」が、時として「激情」と交錯することがある。温帯モンスーンの島国が他者と接するときに、その温厚な性質が急変する。他者との対立が起こり、関係性のバランスが崩れると激情的になる。和辻このように分析して見せた。これは260年に渡る平和な鎖国時代が終わり、開国を経て、明治以降の急速な近代化のなかで、対外戦争の道を進み、ついには未曾有の敗戦を経験したことを念頭に置いたものと考えるが、同じことは日本の歴史の中でしばしば起きている。この4世紀の倭国が置かれた東アジア情勢の激変と近隣諸国との関係構築の歴史もそうである。それまで島国の中で温厚で平和で、自然神を敬う農耕民として暮らしていた「未開の」倭人が海外へ軍事侵攻するという、戦闘的な激情の嵐の中に飛び込んでいく。まさに和辻の言う温帯モンスーン型風土が育んだ「静感情」の一方の「激情」なのであろうか。開国、明治以降の戦争の歴史の原点は4世紀の倭国の姿、ここにあったのかもしれない。その結果として対外戦争を捨てて「倭から日本へ」転換した歴史があった。そう、歴史は繰り返す。戦後、日本は歴史に学び、平和で文化的で百姓(ひゃくせい)すなわち民の安寧を主眼とする国家へ転換する道を選択した。そして、また負のスパイラルの歴史を繰り返してはならないことを肝に命じた。


奴国志賀島の金印発見場所

「漢委奴国王」金印の碑

伊都国残照

奴国へ

邪馬台国
チクシ倭国残映

ヤマト倭国の宮殿跡(纒向遺跡)

ヤマト倭国残照


2018年10月13日土曜日

古代最大の内乱「壬申の乱」とは? 〜倭国の対外戦争に終止符を打った内乱〜


 672年の「壬申の乱」は古代最大の内乱であると言われる。それは日本の古代史においてどういう意味合いを有しているのか。その後の日本の歴史にどのような影響を及ぼしたのか。大乱と云われるわりには、その評価が定まっていないような気がする。日本書紀に記されているように、大海人皇子が王位継承を辞退して吉野に隠棲したのに、大友皇子によって滅ぼされそうになったので、反撃した正当防衛の戦いだったのか。単なる身内同士の王位継承の戦いであったのか。なぜ大海人皇子は蜂起から短時間で地方豪族を味方につけ、勝利することが出来たのか。663年の「白村江の戦い」の敗戦から9年後の意味は。歴史を読み解くためにはもう少し俯瞰的に周囲を見渡して、その時代背景を理解する必要がありそうだ。今年は明治維新から150年。これを機に「壬申の乱」を私的に再評価して見たい。

 まず登場人物の立ち位置を見てみよう。

 中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝鮮半島の百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島南部の倭国権益を守ろうとした。朝鮮半島への進出と百済との同盟は4世紀以来の倭国の伝統的外交戦略である。その百済の滅亡、復興をかけた白村江の戦いで百済の要請に応じて派兵するも、唐/新羅連合軍に大敗し撤退。朝鮮半島における権益を失う。しかし、勝者である新羅と唐の対立が激化し、新羅は唐の朝鮮半島支配を排除した。こうした中、今度は唐からの強圧的な派兵要請に応じて、天智天皇の子、大友皇子は唐の要請に応えて再び朝鮮半島に派兵し新羅と戦争を起こそうとした。

 これに対し、天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)は先の敗戦(白村江の戦い)を受けて対外戦争には慎重。これまでの相次ぐ半島での武力闘争と白村江の戦いの敗戦による地方豪族の離反、中大兄皇子の性急な豪族支配強化政策(庚午年籍など)により、国内の豪族、百姓(人民)の疲弊、反発が蔓延していた。そこへ半島への再出兵の決断、それに伴う再徴兵と戦費調達強化に大王(おおきみ)への反発が頂点に達した。とくに筑紫や西日本の豪族は相次ぐ出兵と徴発に不満が鬱積していた。こうした対外政策・豪族への締め付け策への抵抗を背景に、対外戦争遂行派の近江朝(天智天皇の子、大友皇子:のちに弘文天皇と追号)を滅ぼすことになった。

 天智天皇の弟と息子という身内の王位継承争いというよりは、優れて当時の東アジア情勢に強く影響された内乱であったというのが真相である。これまでの倭国の歴史を振り返ると、4世紀終盤から5世紀にかけては朝鮮半島をめぐる超大国中華帝国との外交上の攻防が、倭国の外交史の中核であったといえる。まさに朝鮮半島における倭国のプレゼンスの保証、承認が国の安全保障、経済権益、存立基盤の中心課題と考えられていた。このための朝鮮半島三国との合従連衡策であった。この対外政策の考え方の転換点となったのが「壬申の乱」である。

 これまでの倭国の外交/対外戦略の歴史を振り返ってみよう。

 1〜2世紀には、チクシ倭国の奴国王が後漢に朝貢して冊封体制に組み入れられた(57年。後漢書東夷伝、「漢委奴国王」金印)。また倭面土国王帥升等が後漢に朝貢した(伊都国王ではないかと推定されている。107年。後漢書)。

 3世紀、邪馬台国を中心としたチクシ倭国連合は魏王朝への朝貢、冊封により、統治権威の保障を得てきた(卑弥呼239年帯方郡を通じて魏に朝貢。親魏倭王の印綬を授かる。いわゆる魏志倭人伝)。この頃はまだ列島を統一して支配する王権は形成されておらず、地域連合が各地域に並存し、それぞれに大陸との交流を持ち、あるいは持とうと争っていた。大陸に近い北部九州の邪馬台国卑弥呼を盟主とした30カ国のチクシ倭国連合がその最先進地域であった。聖的権威である女性の巫女(シャーマン)と世俗権力である男王との祭政二元統治体制を取っていた。そのころの近畿地方のヤマト倭国連合(初期古墳の象徴される)の実像は見えないが、先進地域チクシ倭国と同様、中国王朝への朝貢冊封政策を取っていた(あるいは取ろうと模索していた)と思われる。魏と対立していた江南の呉あたりと通交を持っていた可能性がある(呉の史書は散逸していて残っていない)。それがやがて初期ヤマト王権へと発展していったと考えられる。魏の滅亡、晋の時代へ。

 4世紀。中国王朝の混乱の時代(東晋・五胡十六国時代)に突入し、以降、5世紀の宋の時代まで倭に関する記録が見えない(いわゆる「空白の4世紀」)。しかし中華王朝の正史は残っていないものの、いくつかの考古学的資料、金石文から倭人の姿をうかがい知ることができる。4世紀には倭人が朝鮮半島に進出し百済、新羅を押さえ。半島南部を勢力下に置いていたようだ。391年には百済の要請で半島に出兵した倭軍が鴨緑江河岸で高句麗の好太王(広開土王)を戦ったという記録が見える(好太王碑文)。このころの朝鮮半島では、高句麗と百済(ひゃくさい)が争い、新羅は高句麗に服属する後進地域であった。また後世12世紀にまとめられた朝鮮半島三国の史書「三国史記」によれば倭が新羅を下して属国にした、とか、百済が朝貢したとかの記述がある。日本側の史料である、7世紀終盤にまとめられた「日本書紀」には神功皇后の三韓征伐の伝承が記されている。しかしこれも年代の特定ができないのと、神功皇后の実在性、三韓征伐の史実性の検証もできていない。ともあれ、この世紀にこうした倭国の朝鮮半島への軍事的進出があったことはほぼ間違いないであろうが、そこには中国王朝の混乱に伴う周辺地域の混乱、特に、朝鮮半島における植民地(帯方郡、楽浪郡)の崩壊。高句麗、新羅、百済の朝鮮三国の成立。さらにはその三国の抗争を背景に倭国との同盟関係模索の動きがあり、そうした緊張関係が倭の半島への武力進出を促した。このような背景があったと考えられる。

 5世紀には混乱ののちに中国に不完全ながら統一王朝(晋、宋)が現れ、中国の史書に倭の名前が復活。「倭の五王」(3世紀のチクシ倭国の王ではなく、ヤマト倭国の王たちであろう)が朝鮮半島の支配権、権益確保をめぐり中国王朝(南朝宋)に朝貢し「安東将軍」等の軍号を要求。高句麗、新羅、百済とより高い権威の称号獲得を争ったことが記述されている(晋書、宋書)。3世紀の魏志倭人伝における倭国の姿と異なり、武力で列島制覇を進め、朝鮮半島へ軍事的な伸長をめざす、男王によるより武断的な倭国の姿が見てとれる。当時倭国は朝鮮半島南部の伽耶、任那地域に権益を有していた(支配的地位を有していた)とされる。しかし倭王たちは中国王朝から満足のいく朝鮮半島支配の権威を与えられず、この頃から徐々に中国王朝への朝貢冊封体制に懐疑的になっていた。やがて朝貢冊封体制から離脱し、自らを「治天下大王」と呼称するなど、のちの天皇制の萌芽となる動きが始まる。

 6世紀には、倭国(ヤマト王権)は百済と再び同盟関係を結び、百済に伽耶四県を譲渡し、百済の要請に応じて朝鮮半島へ新羅討伐のため出兵しようとした。これを阻止しようとしたのが、新羅と結んでいた筑紫磐井君(チクシ王権)だ。これが日本書紀に言う527年の「筑紫国造磐井の反乱」の真相である。当時は半島への派兵にあたって徴兵され、兵站を担わされたのは主に筑紫の豪族、百姓(人民)であった。3世紀末の対高句麗戦の敗戦により多くの人民や豪族が殺され、捕虜となり抑留されたことだろう。これへの反発が極限に至っていた。ヤマト王権の支配下にあったとは言え、いまだに強大な勢力を誇った「邪馬台国連合の残存勢力」「チクシ王権の末裔」「チクシ大王磐井」は新羅と同盟し、筑紫、肥国、豊の国を巻き込んで、ヤマト王権と2年以上に渡って戦った。結果的には磐井は殺され、磐井の子クスコは糟屋屯倉をヤマト王権に差し出して降伏した。しかし、ヤマト王権の半島出兵計画はなんの成果も上げられず、後述のように半島における権益を失うに至る。朝鮮半島三国の争いが倭国の政治情勢にも大きな影響を与えていた。ちなみに538年の仏教伝来も七支刀も百済王子の来倭も、百済にとっては高句麗との戦いの後方支援を倭国に期待してのこと。倭人は朝鮮王朝、中国王朝にとって、「遠交近攻」のアライアンス、あるいはいわば「傭兵」として期待されていたようだ。その「蛮夷の民」を教化(文明化)する必要から仏教や儒教や数々の先進文化、技術を提供したというわけだ。その後554年には倭国に仏教経典を送った百済の聖王が新羅との戦いで戦死。562年には伽耶が新羅に滅ぼされ、倭国の半島における権益が大きく失われた。

 7世紀、660年、ついに同盟国百済が唐・新羅に滅ぼされた。百済滅亡に際し倭国は大量の百済遺臣、難民を受け入れ、さらに百済再興を目指して半島出兵を決意した。しかし、倭軍は663年の白村江の戦いで唐/新羅連合軍に大敗。半島出兵に駆り出された多くの地方豪族(おもに筑紫の阿曇比羅夫などの有力な豪族)が命を落とし、兵士として徴発された人民が殺され、あるいは俘虜となった。朝鮮半島における倭国の利権を放棄し、完全撤退せざるを得なくなった。さらには大唐帝国による「倭国侵攻」危機という「国難」に直面。緊急に百済遺臣など亡命百済人の力を借りて筑紫に水城を始め、大野城、基肄城などの防衛施設を構築、博多湾岸にあった那津官家を水城の内側の現在の太宰府に移したと言われている。さらに瀬戸内海沿岸に山城を築かせ防備を固めた。対馬、壱岐に防人を配置したのもこのころ。そして667年都を飛鳥から内陸の大津に移した。半島侵攻どころか自国の安全保障が危うい事態を迎えた。

 唐と新羅は百済を滅ぼした後、さらに高句麗を滅亡させる。しかし、その後に唐と新羅が朝鮮半島支配をめぐり戦争状態に。やがて新羅が半島から唐を排除し、676年には統一新羅を打ち立てる。こうした朝鮮半島情勢のめまぐるしい変化に応じて、唐と倭はかつての交戦状態から、同盟関係に転換していった。この時、唐は、郭務悰を使節として倭国に送り、47隻の軍船と2000の兵(倭人の捕虜とも言われる)とともに筑紫に来訪。新羅討伐のための倭国の出兵を強圧的に促した(古代の「黒船来航」)。近江朝(大友皇子)は多くの亡命百済人(反新羅勢力)を抱えていたこともあり、再び半島へ出兵を決意。しかしこれに抵抗する動きが672年の「壬申の乱」となったことは前出の通り(527年の「筑紫磐井の乱」も同様なヤマト王権による海外派兵への抵抗運動であった)。

 大海人皇子が決起から短期間に近江朝を打倒できた背景は二つあると言われている。一つは、東国豪族(尾張、伊勢が主勢力)は近江朝により半島出兵のために徴発されていたのだが、これを大海人皇子は反近江朝勢力として取り込んだ。前述のように対外出兵に消極的であった豪族の離反を促したことになる。二つ目は、西国の豪族の動きである。そもそも度重なる半島出兵に疲弊していた西国豪族は反近江朝勢力に容易に代わる下地があった。またチクシには唐の郭務相が連れ帰った2000の倭人捕虜がいて、大友皇子の近江朝はこれを半島侵攻兵力として期待していた。しかし、壬申の乱が起きると、大海人皇子撃退のために、東へ向かうよう命令を出したが、筑紫太宰の栗隈王はこれを拒否(大陸情勢の緊迫を理由に)。動かなかった。こうして大海人皇子は西国勢力の不動。東国勢力の取り込みを得て比較的短期間に大津京に攻め入ることができた。

 倭国はこれを機に、朝鮮半島における権益を放棄せざるを得なくなり、海外派兵をやめ、国の近代化、国家統治体制の強化、内政強化に向かってゆくことになる。その時に範としたのは、大唐帝国の文化/政治制度/技術であった。この間も遣唐使が派遣され、唐の先進文化、制度の吸収に努めた。ちなみに新羅もやがては唐に朝貢し「君臣関係」を結ぶ。こうして大唐帝国全盛時代を迎え、東アジア情勢が落ち着きを取りもどす時代となっていった。

 そして「倭国」から「日本(ひのもと)」へ。
 
 「壬申の乱」に勝利した大海人皇子が即位し天武帝となると、一連の朝鮮半島における権益をめぐる対外戦争の歴史に終止符を打ち、都を大津から再び飛鳥(飛鳥浄御原宮)に戻した。以降、天武帝/持統帝により、倭は国号を変え「日本(ひのもと)」を名乗り、全盛期を迎えた唐帝国を範に、律令制(飛鳥浄御原令、大宝律令)整備、仏教による鎮護国家思想の導入、天皇制宣言、その支配の正当性を明らかにするため天照大御神を頂点とした皇祖神体系の再定義と整備、「公地公民の制」(豪族の私地私民の廃止)、国の正史(日本書紀)編纂など、すなわち天皇を中心とした中央集権的国家体制(一君万民)整備を行ってゆく。また、内外にその「近代化」を可視化させる新都造営(新益京:藤原京)を行った。すなわち「日本」建国、「天皇制」確立と言ういわば「大宝維新」を果たした。新生「日本」の「近代化」「文明開化」である。以降、時代を下った16世紀後半の1592年(文禄の役)、1597年(慶長の役)の豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵まで、900年余り日本は対外的な戦争、海外派兵を行わない時代を築く。

 対外戦争をやめ、近代的国家の基礎を作り、内政強化に集中するという国の方向転換を果たし、(中華世界とは異なる)もう一つの天帝(天皇)を戴く日本の建国という「大宝維新」「文明開化」をスタートさせた。これが「壬申の乱」の歴史的な意義である。そして、外敵の侵略を受けにくい島国という地政学的立ち位置を生かし、かつ自らは対外戦争を仕掛けないという外交戦略を持った国の形が生まれたわけだ。そしてこれが「王権」を脅かす外国勢力や異民族との戦いの歴史を持たず、中華王朝のような「易姓革命」による王朝交代、王権の簒奪闘争に巻き込まれない、世俗権力から超越的な「権威」を保ち続ける「天皇」という世界にも稀な君主制度を生み出すことになった。これをして「万世一系」(その実態にはなお疑問がありつつも)と称することとなる、「明治維新」の時の「王政復古」の大号令はまさに、この「大宝維新」で成立した「天皇制国家」「一君万民」のレジームの「復活」を謳ったものだった。しかし、皮肉なことに明治以降の日本は、徳川武家政権の鎖国路線という内向きの政策から開国、対外戦争路線へ大きく転換し、西欧列強に負けない国権の帝国主義的拡張に邁進する。「大宝維新」が対外戦争路線を放棄したのとは対照的な道を歩むことになった。大宝と明治ではことなる時代背景(大唐帝国による「パクス唐」の時代、と西欧列強の帝国主義的侵略による清帝国の瓦解)があったとはいえ、その結果としての我が国歴史始まって以来の大敗北。国土が外国軍隊に占領され独立を失った。こうして初めて「天皇制」が危機に直面することになった。そして戦後の「国民主権」「民主主義」という民権中心の国家体制のパラダイム転換の中でも、「天皇制」は我が国特有の統治の「精神的シンボル」、すなわち「象徴天皇」として生き残ることになった。1300年ほど前の「壬申の乱」、天武/持統体制の出現がその基(もとい)であったことを思い起こす。

 このように倭国(日本)は歴史上対外戦争を多くは経験していない国であった。朝鮮半島への出兵/戦闘が三回(4世紀末の対高句麗戦、7世紀の白村江の戦い、16世紀の秀吉の朝鮮出兵)のみである。また6世紀には外交戦略に失敗し任那三県を百済に譲り渡すし、新羅征討計画も挫折した(筑紫磐井の乱の背景になった事件)。このうち前の二回は百済に誘われての軍事介入(半島における鉄資源確保という外交戦略に結びつくのだが)であるが、結果としては破綻している。その後、元寇(モンゴル、高麗)や刀伊(女真族)の入寇など、列島に攻め込んできた外国勢力との水際撃退戦は別にして、異民族との国家存亡をかけた戦争や王権簒奪、海外領土支配、外交交渉などの経験値が積み上がっていない国として存続してきた。あるいは数少ない経験である元寇における「神風」などの戦略戦術と無縁の僥倖による勝利があったがゆえに、ますます神頼みの精神論が幅を利かせ、合理的な戦争論や外交戦略などが議論され経験値、歴史として蓄積される機会がなかった。古代中国の孫子の兵法以来、新たな兵法論や戦略論は日本には発達しなかった。これは世界史的にみれば稀有なことで、ある意味幸せなことであったと言わざるを得ないが、逆に不幸な歴史を歩むこととなる。すなわち「戦争が下手」「外交が下手」という伝統を紡ぎ出すこととなった。そこから生み出される偏った世界観(中華帝国という東アジア的宇宙観に対する「小宇宙日本」)が形成されることとなる。秀吉の国内「天下統一」内乱の延長上の朝鮮出兵を引き合いに出すまでもなく、合理的な戦略(日本人の好きな「戦いの大義」)も終戦後の展望もビジョンもそこには見出せないまま戦争に突入してゆく。長い平和な鎖国時代から突然目覚め、明治以降の富国強兵、アジア諸国への軍事的な進出にも、欧米列強の脅威、なかんずくロシアの直接的な国防ラインへの侵入の危機感はあったが、軍事的、外交的な用意周到さや、客観的な情勢分析による判断、したたかな戦略があったようには見えない。日清・日露の勝ち戦がさらに悪く働いた。両戦争の終戦に向けての外交努力、講和交渉は、その後の太平洋戦争の終戦/停戦戦略に比べるとまだうまくいったが、であるがゆえにがその「うまくいった」認識が悲劇を生む下地になった。
勝ち戦に乗じて次々に戦線を拡大してゆく。精神論に加えて、国力の弱小性、軍事的な劣勢を認識しつつも「一撃講和」という日清・日露戦の勝ちパターンが軍事大国/経済大国(アメリカのような)との戦争に通用する(はずだ)という甘い認識による危険な戦争ゲームに国運を懸けた。外交による停戦や終戦の引き際を客観的に展望しない戦争、すなわち終戦シナリオのない戦争に突き進んだ結果が「無条件降伏」という未曾有の敗戦となった。これは我が国の史上稀に見る貴重な歴史的経験である。二度と経験してはならない歴史である。しかし歴史は繰り返す。人は歴史に学ばない。そんな恐れを抱かせる昨今の情勢である。


筑紫太宰府と大野城
緊張する半島情勢の最前線であった

上空から見た太宰府と大野城
左が大野城、太宰府政庁跡の右側に条坊制の太宰府の街が広がっていた

都府楼跡
桜の季節


大野城の石垣
都市機能ごと移転して籠城することを想定した構造になっていた

大野城の正門太宰府門跡

大野城から展望した水城跡
右方向が博多湾方面
左が太宰府都城域

新益京(藤原京)跡
背景は耳成山
コスモスの季節

藤原京跡

藤原京大極殿跡
今は田園地帯に

藤原京の本薬師寺跡
天武/持統帝の夢のあと
ホテイアオイの季節


2018年10月3日水曜日

増上寺と芝公園(その2) 〜そして門が残った〜

広重
増上寺

増上寺三門からの眺め


 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 増上寺と芝公園 〜芝公園の謎〜: 東京で「芝公園」と言えば知らない人はいない。しかし、どこが芝公園?どこからが増上寺? 芝公園のシンボルはなに?東京タワーは芝公園? 地下鉄の駅に「芝公園」があるが、駅の表示に「芝公園はあちら⇨」はない。上野公園や代々木公園や日比谷公園ならまとまった敷地がはっきりしていて「公園」を...

 とまあ、以前のブログで書いたように、徳川家の菩提寺、6人の徳川将軍の霊廟があった芝の増上寺は、徳川幕府の崩壊、明治維新後の廃仏毀釈、昭和の戦争による空襲と、歴史上の幾多の試練に見舞われ、今や大寺院の風貌は見る影もない。広大な境内の跡地は、かつての威容をしのぶよすがとはなるが、どこからが芝公園でどこからが増上寺なのか。そしてどこからがプリンスホテルなのか分からないカオスの世界になってしまっているわけだ。ところでそうは言っても焼け残った建築物はないのか?ある。かろうじてある。門である。現在消失を免れて残っている門は以下の通りである。文化財指定されている。

三解脱門:
すなわち正面の三門だ。1622年(元和8年)建立の重要文化財。重層構造の朱塗りの壮麗な門。江戸時代にはここの二階楼から江戸湾が展望できた。よくぞ残ってくれたものだ。今やこの門と東京タワーが東京観光のシンボルだ。

旧方丈門:
黒漆で塗装されていたので黒門とよばれる。元は三代将軍家光が寄進した方丈の表門であった。現在は三解脱門の隣、増上寺境内にある。寺の通用門として利用されている。棟札がないので建立年次はわかっていないが、家光寄進のオリジナルで江戸初期と考えられる。門扉は取り除かれている。

台徳院霊廟 惣門:
芝公園プリンスパークタワー内に位置する。最近復元修理完了し、黒漆喰に金色の葵の御紋も燦然と輝き美しい姿が再現された。門扉は朱塗りである。

台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門:
三門とも東京プリンスホテル建設に伴い所沢に移築保存。増上寺境内、芝公園敷地には現存しない。したがって地下鉄御成門駅と言っても御成門はここにはない。と思っていたら御成門はプリンスホテル敷地内の北の端、フェンスの中にひっそりと存在していた。将軍御成りの際に使った門だと言う割には思いの外小さくて飾り気の無い地味な存在だ。

有彰院霊廟 二天門:
東京プリンスホテル内にある。門の左右に「天」を戴く事から「二天門」と言う。かつては日光東照宮に劣らぬ煌びやかな霊廟とそれにふさわしい門があった。柵で仕切られた中に保存(放置?)され痛みが激しかったが、2015年からようやく修理開始。間も無く完成予定。廃墟的佇まいが、それなりに歴史を感じさせてよかったのだが。

本堂(大殿)の左右にあった徳川将軍霊廟『戦前は国宝指定)は2度の空襲で焼かれことごとく消失したが、門だけが残った。しかし、どれもオリジナルの位置から現在の場所に移築されたものである。しかも増上寺の案内図を見ても現在は増上寺境内にはない。プリンスホテルの敷地内に立っている。焼失前の南北霊廟があったところがホテルに売却されたわけだ。すなわち増上寺はこれらの門の所有権を有していないことになる。不思議なことだが。

ちなみに、地名や地下鉄駅名にもなっている大門はかつての増上寺総門であった。明治維新の後、寺領没収などで、経済的に困窮した増上寺が東京府に寄贈した。その後昭和12年に市民の寄付でコンクリート製に改築された。戦後はゴタゴタの中でどこの所有になるものか分からなくなり荒れ果てた。しかし、地元の有志により塗り替えられ、最後には増上寺に返還され現在に至っている。

なんともはや、かつての徳川家の菩提寺、浮世絵にも描かれた江戸のランドマークも惨憺たる有り様だ。上野の寛永寺が戊辰戦争でその堂宇が壊滅したのに対し、増上寺はその伽藍、霊廟は残った。しかしその大寺院も先の大戦で灰燼に帰した。さらには戦後のごたごたで、一帯がカオス状態になったのも人間の物欲煩悩のなせる技であろうか。こうした門たちは何を語りかけてくれているのか。南無阿弥陀仏。


三解脱門




本堂(大堂)
空襲で焼失し戦後復興された鉄筋コンクリート製


旧方丈門 
黒門と呼ばれている

黒門の千社札
増上寺外壁
銀杏が色づき始めた
台徳院霊廟惣門
最近保存修景が完了し往時をしのぶ威容が復活した
逆光フレアーが出ているが意外にコントラストはしっかりしている。

黒漆に金の飾りが美しい

惣門の門扉は朱塗り
御成門
かつては将軍の御成の門であったが
東京プリンスホテルの隅にひっそり佇む

二天門は修復工事中

芝大門
地元の人々によって再建、修復された歴史を持つ

大門
かつては増上寺総門であった

このあたりに霊廟があったが空襲で焼失した
戦後はしばらくゴルフ練習場やボーリング場があった

台風一過 秋の空