古事記によると出雲の大国主神が、国の統治をまかせていた弟の少名彦神が常世に旅立ってしまったので悩んでいると、神が現れ「自分を大和の三輪山に祀れば国は安泰」と告げたという。そして大国主神によって祀られたその神が大物主神である、と。一方、日本書紀では大国主神が自分自身の和魂を祀ったのが大物主神(すなわち同一神)だとする。いずれにせよ、この大和の三輪山に鎮座した神、大物主神と出雲の大国主神との関係が極めて深い事を示すエピソードである。しかし、この事はいったい何を意味しているのか。
7世紀後半、記紀が編纂される天武/持統帝以降、東国の伊勢に天照大神を祀る社、伊勢神宮が設けられ、神の中の神、すなわち皇祖神として位置づけられるようになる。記紀は、その天照大神の末裔による日本国統治の正統性がモチーフとなっている。しかし、天照大神の子孫であるとする両帝のヤマト王権確立に先立つ倭国には様々な神がいた。その中でも出雲の大国主神は記紀においても主役級の重要な神であった。神話の世界では出雲が「アマテラスへの国譲り」で大和とアライアンスを組んだ事で倭世界が統合に向ったのだという。前述のように大神神社の御祭神は大国主が祀った大物主であるが、このお社は天照大神が伊勢神宮へ勧請される前の元伊勢に一つにもなっている。ということは天照大神を最高位の皇祖神にしたのは大国主/大物主ということになるのだろうか。
ちなみにもう一つの重要な国のひとつである筑紫の宗像三女神は、大陸との航海を司る宗像一族の神で、天照大神の娘達だと言う。筑紫が時をへて大和の支配下に組み入れられて,大陸との交流(「神功皇后の「三韓征伐」伝承に代表される朝鮮半島への進出や白村江の戦いなど)で重要な役割を果たした。筑紫の磐井の「反乱」では宗像氏は磐井に加担せず大和側に立っている。この宗像三女神は筑紫を代表する神だった。しかし出雲の大国主とは異なった形でヤマト王権と寄り添うことになった。
記紀に記述されたこうした各地の神々の話は、どうやらヤマト王権黎明期、3世紀の卑弥呼の邪馬台国、三輪王朝誕生から、空白の4世紀をへて、河内王権が倭国を統一してゆく5世紀の間、多分、三輪山山麓を拠点とした崇神大王に始まる三輪王朝創世期のエピソードを、神代の時代の話に投影したのだろう。三輪山の神の鎮座や、出雲の「國譲り」神話は、出雲が大和に進出した事を暗示しているのか、あるいは出雲が大和の勢力下に入った事を示すものなのか。最近、岩波新書から出版された村井康彦氏の「出雲と大和―古代国家の原像をたずねて」によれば、出雲勢力の大和進出により成立したのが邪馬台国であり、それが衰退消滅し、新たなヤマト王権が生まれたとする論考を展開している。神武東征伝承は、あらたな勢力のヤマト侵攻を後世に脚色したものだという。すなわち邪馬台国とヤマト王権に連続性はないとする。興味深い。
しかし,記紀の記述にある神話ストーリー以前から、三輪山の崇拝には、八百万の神々、一木一草に神が宿る,自然崇拝、アニミズムを基本とした原始神道の姿がそこにあった。おそらくは弥生、縄文の時代にさかのぼるであろう。奈良盆地を取り巻く大和青垣の中にあって、神奈備型の独立した山容は、そのことを納得させるに充分な神々しさを持っている。三輪山の背後、東から太陽が昇り、三輪山を赤く染めながら西に沈む。その時の空の色、雲間から地上に差し込む光芒を観ているとそこに人知の及ばぬ力の存在を確かに感じることが出来る。神とはこのような光景のなかから生まれて来るものなのだろう。まさに、権力者達によって(記紀により)ヤマト政権のレジティマシーを権威付けるシンボルとして崇められてもおかしく無い存在感を持っている。「神は人間を造り、その神は人間が造った」と。そして、この三輪山の麓に「日本」という国家が始まった。ヤマト(日本、倭、大和)の名は、三輪山の麓(山の麓、すなわちヤマト)に生まれた。
(三輪山。この山自体がご神体。一の鳥居の奥、山の麓に大神神社の拝殿があり、ここから神奈備山を遥拝する)
(一の鳥居は昭和59年の創建になる新しいものだが、三輪の地に異彩を放っている。)
(三輪山は禁足地であるが、許可を得て定められた登山道を登ることが出来る。ただし、一木一草、小石一つ持ち出す事が禁じられ、山中で写真撮る事も禁止されている。)
(飛鳥の甘樫丘から望む三輪山。どの方角から眺めても美しい形をしている。)
(三輪山の日の出。出典:近畿日本鉄道ウエッブサイト)