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2015年7月3日金曜日

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」はどう? 〜あらためて尊皇攘夷とは〜

 今年のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」。吉田松陰の妹、文(ふみ)の生涯を描いたドラマ。女性が主人公になる大河はヒットする、との伝説がNHKにはあるそうだ。しかし、今回はどうも視聴率が低迷していると聞く。主人公を演じる井上真央が「私の力量不足で申し訳ない」と語っているとか。そんなことはないと思う。しっかりとした演技で好感が持てるし、役者として大きく成長していると感じる。視聴率低迷は役者のせいではない。「大河」というセッティングとのミスマッチかな?

 そもそも視聴率などという前世紀的評価基準でドラマの良し悪しを論ずること自体、如何なものかと思う。しかし、「大河ドラマ」というと、私のような中高年の歴史好きが、ワクワクしながら毎週楽しみにしてる「日本史教科書」の復習というステロタイプのイメージがつきまとう。昨年の「軍師官兵衛」など、主人公の演技はともあれ、影のヒーローのストーリー展開に引き込まれた。黒田官兵衛自体はこれまであまり歴史ドラマの主人公になったことはなくて、常に戦国の脇役で登場する人物であった。信長、秀吉、家康という誰もが知る超大物歴史主人公の知られた戦国乱世ストーリーの中で、「実は」という、官兵衛の立ち回りにワクワクさせられた。そういった観点から見ると、「花燃ゆ」は、激動の長州藩という舞台で血気にはやる男たちに比し、主人公の文が脇役のように見えてしまうのに、いちいち彼女の言動がドラマのストーリ展開の主題になっているからなんか場違い感を感じてしまう。別の言い方をすると、妻として母として、女としての心情が歴史の激流の中でメッセージとして伝わっていないように感じる。ホームドラマとしては面白いのかもしれない。現に、これまで「大河ドラマ」を観なかった連れ合いが「花燃ゆ」だけはしっかり観ている。連れ合いの評価は私とは全く違っているようだ。


 さて、テレビ批評はさておき、かつてものした一文をこの際、アーカイヴから引っ張り出してきて「再放送」してみたい。改めて「尊皇攘夷」とはなんであったのか?

 維新胎動期の「尊皇攘夷」運動を観ていると、ある意味でテロリズムそのものに見える。桜田門外で大老(今でいう首相のようなものだ)を暗殺したり、都に武装して押し入って、恐怖を煽るために無差別に人を殺傷したり、放火したり、海峡を通行する外国商船を砲撃したり。徳川幕藩体制という現状を破壊しようとする過激な反体制テロリズムだ。あるいは幕府の開国政策に反対し、開国によって混乱する国内経済に対する民衆の不満を背に、外国人襲撃を決行する民族主義的テロリズムだ。このドラマに登場する久坂玄瑞は、最初に武力で馬関海峡を通過する外国船を砲撃し(攘夷決行)、帝のおわします京で禁門の変を起こし(反幕府/攘夷派を武力で朝廷に直訴するという)町の多くを焼失させる。この頃の活動だけを取り上げると「尊皇攘夷」をスローガンとするテロリストということになろう。そうした過激な尊皇攘夷運動は、やがて近代化という流れの変化の中で、彼に続く高杉晋作の倒幕運動、そして彼らを乗り越えた桂小五郎や伊藤俊輔、井上聞多等が明治新政府の要人となって維新を成就させてゆく訳だが、初期の頃の長州藩の来島又兵衛に代表される藩に横溢する感情的な攘夷の声に押されて(声の大きなものに押されて)しまって、尊王のはずが朝敵にされてしまった悲劇の久坂玄瑞だ。こうしたことから彼は過激なテロリストとして描かれることが多い。

 テロリズムは常にネガティブなイメージで捉えられる。テロリストというレッテルが貼られると社会から排除され、抹殺の対象となる。手段が目的化してしまった殺人集団もテロリストにカテゴライズされている。しかし、テロリズムの定義は極めて多義で、しかも歴史という時間軸のなかでは相対的。かつてはマハトマガンジーもネルソン・マンデラも体制側からはテロリストと呼ばれていた。現状を壊し、体制を打倒しようとする動きの初期に発生する活動は社会の安寧を脅かす「過激」「危険」な不穏分子の「恐怖を煽る」違法活動、すなわちテロリズムと見なされる。やがて目的が成就し、新たな秩序が生み出されると、歴史にその破壊活動の意義が認められ革命家になる。歴史とは皮肉なものだ、勝てば官軍、負ければ賊軍。勝てば革命家、負ければテロリスト。

 一方、松陰の「草莽崛起」は、身分や藩といった旧弊な立場を乗り越えて、民衆、日本という枠組みで社会を捉え直そうというのはまさに革命的であった。だがその旗印が「攘夷」であることにいつも違和感を感じる。もちろん松陰自身は、幕府の拙速な開国に批判の矛先を向け、まずは欧米列強に伍すことのできる日本の体力固めを説いているのだが、その弟子たちは、当初、急進的な攘夷行動テロ集団になっていった。これが倒幕、新政府、殖産興業、富国強兵へと繋がって行くには高杉晋作やそれを継ぐ、次世代「維新の志士」たちの出現を待たなければならないわけだ。現代の日本の閉塞感の中で、吉田松陰のような維新胎動のイデオローグが待望される、という気分に満ちているが。これからは日本という枠組みを乗り越えて国境なきグローバリズムへと向かいつつある時代に、まさか「攘夷」ではあるまい。彼の思想の何を学ぶのか、これに続く志士たちのどのような考えと行動に学ぶのか。これは意外に現代の日本が置かれている状況(幕末明治期とは異なる)を考えるとそう単純ではないような気がする。あるいはグローバル化するにつれ国家ではなく市民や私人の時代に向かいつつある現代、イデオローグ松陰の妹で、久坂玄瑞の妻であるこのドラマの主人公。家族愛に生き、女性の果たすべき役割を示そうとする文(ふみ)こそが時代のヒロインなのかもしれない。そう考えさせるのが「花燃ゆ」のメッセージなのだとすれば、これは稀代の名作と言ってよいだろう。その表現に成功していうかどうかは別だが。

以前のブログ:

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「尊王攘夷」は日本の近代化スローガンだったのか?: 明治維新は、鎖国政策を基本とした旧弊な幕藩体制を倒して、近代的な国家を建設しよう,とした動きだと捉えられている。その運動の初期のスローガンは「尊王攘夷」であった。しかし、「尊王攘夷」はどう見ても近代的な国家建設のための政治経済社会体制の変革を進める「革命」のスローガンには見え...


松下村塾の吉田松陰像

松下村塾

萩の城下町
ほぼ当時のままの町割が残っている

上空から見た城下町萩
日本海に接する小さな町だ
ここに押し込められた毛利の怨念が250年後に爆発する