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2016年5月18日水曜日

六義園散策 〜江戸の大名庭園を巡る〜




六義園
ツツジの頃が美しい


 駒込の六義園は小石川後楽園とともに、東京を代表する大名庭園である。我が家が、かつて小石川植物園の近くにあった時には、両親や子供を連れて遊びに来たものだ。その小石川植物園も、現在は東京大学の付属植物園になっているが、元は徳川将軍家の白山御殿、後に小石川御薬園、養生所(赤ひげで有名な)であった。もちろんご近所の東京大学本郷キャンパスはもと加賀藩邸跡。この辺りは江戸の大名文化の名残があちこちに見て取れる。

 六義園は、元禄年間、第五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が造営した柳沢家下屋敷である。彼は綱吉の信任厚い時代の寵児であり、幕府内で絶大な権勢を振るった。あの浅野内匠頭刃傷事件・赤穂義士事件の時に、無慈悲な裁定をした悪役として名前が出てくるが、時のいわば政権トップであった。この事件の裁定は、幕府側から見れば難しい判断であったであろう。吉保は英明で、教養もあり、とくに漢詩、和歌の素養があった。「六義」の名称も漢詩、和歌からきている。1695年(元禄8年)綱吉から拝領された2.7万坪という広大なこの土地に、自ら設計し7年かけて回遊式築山泉水庭園を築いた。その後は幕末まで柳沢家が所有。江戸の大火や地震にも耐え、ほぼ原形のまま存続した。明治になって荒廃した六義園を岩崎弥太郎が購入。庭園を整備し現在のようにレンガ壁で囲んだ。以後、関東大震災にも東京大空襲にも被害を受けることなく現在に至っている。1938年(昭和13年)東京市に寄贈された。このように創生より300年余りに渡り、ほぼ原型が維持され、今、往時の姿を目の当たりにすることができる訳だ。

 この他にも岩崎家が所有し東京市・東京都に寄贈された庭園がある。清澄庭園(元禄年間は紀伊国屋文左衛門邸宅、その後下総関宿藩下屋敷)がそうだ。また上野の岩崎家邸宅も2001年に東京都へ移管された。高輪の三菱開東閣は今も非公開だ。明治の頃に荒廃した大名屋敷や庭園を買い取り、後世に残したのはこうした新興財閥であった。そのほかにも、都内には、先述の小石川後楽園(水戸徳川家)、浜離宮庭園(甲府藩下屋敷、将軍家浜御殿)、芝離宮庭園(老中大久保家、紀伊徳川家など)、などの江戸の名残を示す大名庭園が多い。江戸時代、江戸御府内の50%はこうした大名屋敷と大名庭園で占められていたという。このことが、後に明治の近代化に向けて、官庁や大学、政財界有力者の屋敷、外国人向け宿泊施設(ホテル)、企業用の敷地の確保を可能とし、首都としての基盤整備、発展を可能ならしめた。さらに一部は、上述のように公園としても整備・公開され、東京都心に貴重な緑地と文化財とリフレッシュ空間を提供することとなった。このように幕藩体制下の江戸の「大名屋敷」というリザーブされたスペースが、近代日本の首都、さらにはボーダレス化する経済活動の拠点としてのインフラとなったわけだ。明治新政府の中で、新首都候補論争があった。京都に留まる案、大阪に移す案... しかしきっと、京都や大阪では、近代化日本の首都としての発展に備えたスペースの確保は無理だっただろう。東京奠都を進言した大久保利通の先見の明に感謝すべきか。