ページビューの合計

2020年5月16日土曜日

東京における「社会的距離:Social Distance」 はどのくらいなのか?


品川駅の平日
(去年の6月)


新型コロナウィルス感染の緊急事態宣言が、東京/首都圏の神奈川/千葉/埼玉三県、大阪府/京都府/兵庫県、北海道の8都道府県を除いて解除された。しかしこれからまたいつ2次感染爆発が起き、緊急事態宣言、外出自粛要請、休業要請があってもおかしくないだろう。日本は「都市封鎖:Lockdown」ではなく、「自粛」「要請」で乗り切ろうとしているが、この手法が成功するか否か、国民も世界も注目している。しかし、東京の過密状況を毎日肌身で体感していると、東京の感染者数、死者数が全国でもダントツである事は不思議ではない気がする。このままの過密状態で、人との「社会的距離:Social Distanceを取る」、「三密(密閉、密集、密接)を避ける」とか、そうした行動変容による「新らしい日常生活:New Normal」に移行といっても、本当に可能なのかと思ってしまう。少なくも欧米スタンダード(グローバルスタンダード?)の社会的距離:Social Distanceとはだいぶ違う尺度を適用しないと実際にはやっていけないような気がする。

1964年の東京オリンピックの前だったと思う、私の小学校の頃、よく地理の授業で世界の「人口密度」というのを習った。一平方キロ当たり、人口が何人か、というやつだ。当時は「道路の舗装率」の世界比較というのもあった記憶がある。どちらもなにか国の豊かさ、貧しさを比較する指標のように見えて仕方なかったことを覚えている。人口密度では東京はいつも世界ランキングの上位を占めていた。大体中国やインドなどアジアの国々の人口密度が高く、欧米の国々のそれが低い、と対比的に記憶していた。そこにすし詰めの満員電車と狭い部屋に大家族、というイメージが重なり、日本の貧しさはなかなか解消しないとの印象を植え付けられたものだ。「道路の舗装率」の方は、オリンピックが終わりその後の高度経済成長の中で、たちまち100%になり、そんな統計数値があったことさえ忘れてしまったが、人口密度の方は、むしろ高度経済成長に伴う人口の都市集中、なかんずく東京一極集中でますます公害問題や、交通渋滞や、住宅不足が問題となったのは記憶に新しい。そしてバブル崩壊、低成長時代を迎えたこの30年で何か変わったのだろうか?

現在はどうなのか?
まず日本国内のランキングで見ると(2010年人口統計)
第一位)東京都 6,015人
第二位)大阪府 4,669人
第三位)神奈川県 3,745人
以下、埼玉県、愛知県、千葉県、福岡県、兵庫県と続く
最下位」北海道 70人

まあ予想の範囲内だ。人口の都市集中、ことに東京一極集中は今も基本的には変わっていない。

ランキングではないが世界の人口密度比較を見てみると(都市圏別2010年)
東京/横浜は4,700人
大阪/神戸/京都が5,700人
ニューヨークは1,700人
ロンドンは5,600人
北京は4,700人
上海は5,500人

人口密度が高いのは
バングラデシュのダッカが41,000人でトップ
インドのムンバイが26,900人、デリーが12,600人
インドネシアのジャカルタが10,200人
フィリピンのマニラが13,800人
メキシコのメキシコシティーが8,600人
ブラジルのサンパウロが6,900 人
などとなっている。

東京は世界の主要大都市並みということになる。ニューヨークが意外に低いことに驚く。おそらくロングアイランドの広大は地域が入っているからだろう。アジアの人口爆発による都市の過密化に拍車がかかっている様子がわかるが、基本的なデモグラフィーはあまり変わっていない印象だ。

それにしても東京が日本における一極集中、超過密都市である事はこうした人口密度の数字を見るまでもなく、ここに暮らすものとしては日々実感できる。日本全体が少子高齢化による人口減少期で、低成長時代に入って久しいとはいえ東京の朝夕の通勤ラッシュは相変わらずだし、渋谷、新宿、銀座などの繁華街に限らず、最寄りのターミナル駅周辺や地元の商店街に行っても、常に人で混雑している。また深夜まで繁華街は人で溢れており「眠らない街」である。すなわち場所、時間を問わず人が溢れている都市である。住宅環境も、高度経済成長期の郊外への広がりが収束し、郊外の大団地が高齢化、空家化し、あの憧れの私鉄沿線の戸建住宅街も高齢化、無人化に伴って、都心回帰ともいえる高層マンションの林立が顕著である。その一方で低層狭小戸建住宅がぎっしり密集しているところもある。私のかつての転勤経験に照らしても、東京は圧倒的にニューヨークやロンドンに比べ「人が多い感」は高い。ニューヨークもロンドンも場所によっては閑散としているところがあるし、街中でも時間によっては人気(ひとけ)がなくなる。いろんな場面で人と人の距離感を保てるし、またそうすることがマナーにもなっている。マンハッタンのミッドタウンで通りを歩いていて人とぶつかることも少ないし、東京のようにぶつかっても「すみません」とも言わない無礼者はいない。大阪だって、かつては繁栄の「大大阪」を謳歌して東京を凌ぐ人口過密であった時代があり、そのせいか今でも混雑したゴチャゴチャした街、という印象があるが、意外にも環状線に乗っても、私鉄に乗っても明らかに東京よりは空いている。梅田(混んでいるというよりは動線が混乱している)を除くと、ミナミも賑やかだが街中にも余裕がある。確かに人と人との距離は近い感じがするが、それは東京と違って知らない者同士のコミュニケーションが成り立っていることを意味しており、それが大阪の魅力にさえなっている。

こうした東京(首都圏)で、3.11の時は電車が止まり「帰宅難民」が路上にあふれた事は記憶に新しい。この私も帰宅を諦め会議室で一晩過ごした。分刻み秒刻みで動いている東京の交通システムは、ちょっとしたことでたちまち機能不全に陥る。すると駅から人が溢れ出す。動いてないと死んでしまう回遊マグロのようなものだ。このトラウマのせいか、今回のコロナ騒ぎで「外出自粛」と言っても、渋谷、新宿、銀座が100%無人になる事はなく、パリのシャンゼリゼやニューヨークのタイムススクエアーのようにホームレスを含めて「人っ子ひとりいない」ことにはならない。減少率が60%とか70%とか言って、それで町は「人っ子ひとりいない!」かのような報道がされる状況であり、私的には結構人が出てるじゃないか!と感じてしまう。そもそも外出自粛と言いながら交通機関はほぼ定時運行(世界に冠たる時間に正確な頻発サービス)。ガラ空きでも走らせているのだから乗る人は乗る。どだい出るなと言っても無理で、堰を閉めてもどうしても溢れ出るものは溢れ出る。動いていないと死んでしまう街なのだ。都市封鎖:Lockdownと自粛要請の違いだけではない。そもそも人が多いのである。

「家に居ろ(Stay Home!)」といっても、狭い3DKの集合住宅や庭もない狭小戸建てプレハブ住宅などの「ウサギ小屋」に何ヶ月もじっとしてられない。学校も閉鎖されていて子供たちも所在なげにぶらぶらしている。ニューヨークの学校のようなオンライン授業が毎日あって自宅にいても勉強で忙しいわけでもない。そもそも「元気な子供達」が部屋でじっとしてるわけもない。通りや街角公園でたむろし騒ぎ回っている。面倒みる親もたまらない。この東京の住宅事情をみれば、「社会的距離:Social Dstance」をとれ、「三密を避ける」など無理であることがわかる。隣の家との隙間もない密集住宅街で、社会的距離:Social Distanceなどという欧米的な尺度は当てはまらないことはすぐわかる。だからなのかオンラインで自宅で仕事するテレワーク:Teleworkも、以前から語られていた割には気がつくと全然定着していない。狭い家にいるよりも混んだ電車に乗ってでも会社へ行くことが息抜きになっているからだ。飲食店だってそうだ。そもそも狭い店内で、テーブル数を減らさなけりゃ(収益を減らすことを意味する)テーブル間の距離を開けるなんて無理だ。まして「袖触れ合うも多生の縁」の居酒屋やラーメン屋では、親密さが売り物というその業態そのものが否定されることになる。

それでも日本の感染率が低く、死亡率が極めて低いのはどうしてなのか?感染者数が少ないのはPCR検査数が他国に比べて圧倒的に少ないからで、実数はもっと多いだろうが、死者数が少ないのは何故なのか。ある人は「日本人の清潔好きのなせる技」と言い、また「自粛要請を守る民度の高さ」と言い、「高度な医療体制のなせる技」と言う。しかし世界のメディアはこの「日本の奇跡」は本当なのか? 懐疑的に断ずる論調もない代わりに、称賛する論調もない。日本で起こっていることをどう評価すれば良いのか考えあぐねているように見える。少なくとも台湾やドイツ、ニュージーランドのような成功例として取り上げるには躊躇があるようだ。政治リーダーの市民の評価についても、クオモニューヨーク州知事や蔡英文台湾総統、メルケルドイツ首相(台湾を除けば多くの感染者を出し、死者を出しているにも関わらず)は高い評価を得ている。一方、日本(感染者数、死者数共に低いにもかかわらず)は、吉村大阪府知事と小池東京都知事の評価が高いものの、安倍さんの評価はいまいちだ。日頃の言動から来る信頼感が祟っているのだろう。国民はよく見ている。もっともアメリカのように非常時にヒーローを求めたがる国民性による評価もあるのだろうが。

東京に住んでる住民の立場から言わせてもらうと、「三密を避けろ」はかなり非現実的な要請だ。なぜなら常に「三密」の中で暮らしているからだ。社会的距離を取れ:Social Distancingも有名無実。列を作って2mも間を空けているとすぐに割り込まれる(というか並んでいると認識されない)。広大なお屋敷に住んでいるわけでもないので密閉空間は避けられない。ラーメン屋に行って個室があるか確認するわけにも行くまい。仕事をしている以上公共輸送機関で通勤せざるを得ない。医療も平時には機能しているが非常時にはほんの少数の重篤患者発生で崩壊しそうになる。もともと狭くて小さな病院内での院内感染が多発する。自主休業要請を守らないパチンコ屋は朝からギャンブル依存症の症状緩和の場になっている。メディアが取り上げる渋谷、新宿、銀座は人出が減ったが、戸越銀座商店街や近所のスーパーは子連れ家族でごった返している。メディアが取り上げない世界では全く異なる光景が現出しているのだ。「民度」という尺度は絶対的なものではない。さらに常々問題となっている官僚の縦割り行政と事なかれ主義の仕事ぶりはこうした非常時には機能しないばかりか、意思決定の遅延、行動の遅延を引き起こしている。中央政府トップと自治体、そして医療や検査の現場の意識のズレも甚だしい。ここはもっと「三密」でやってほしいところだが。国民の自粛に期待するだけではなくこここそ政治のリーダーシップが求められるところだ。

コロナ以後の「新しい平常状態:New Normal」が唱えられ始めている。ワクチンや治療薬が開発されてもコロナが完全に消滅する事はない可能性があるし、近い将来に新たな感染症がまたぞろ猛威を振るう可能性も高い。そういう「感染症ウィルス」と共生する社会の到来に向けて、東京は何よりも一極集中を見直すのが先決だ。社会的距離:Social Distanceを確保し、「三密」を避けるためには、論理的には限られたスペースから一定の人口を減らして密度を減少させるしかないだろう。繁華街や満員電車だけでなく、首都東京の住宅街を歩いてみたらわかる。こんな密集、密着している密閉空間をどうにかしなくてはと考えるはずだ。地震や火事など大規模災害時には消防車も救急車も入れない狭くて曲がりくねった道。東京都が緊急時には「人命に危険が及ぶ可能性の高い地域」と指定している地域でも、それでもなお一軒の住宅跡地にさらに4〜5軒の狭小住宅を密集して建てるということが繰り返されている。これでも人と人との感染が爆発しないのはコミュニティーや隣人同士の行き来がなくて「隣は何をする人ぞ」状態という冷たい人間関係のせいかと皮肉を言いたくなる。スペースを開けるということは関東大震災の時も、3.11の時にも言われた。すべて「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。そうやってなんとなく「持続可能な社会」を形成してきたのが島国日本なのだろう。何かあるたびに議論された首都機能移転も、本社機能移転、大学移転も進まない。ネットショッピングは始まっているが、オンラインによるテレワークも進まない。遠隔医療も常に「実証実験中」だし、ディスタンスラーニングも進まない。別に「パソコンが家庭に普及していないから」でも「インターネット環境がない」からでもない。そんな言い訳は世界に誇るICT大国には通用しないのではないのか。やはり「何か」にこだわる価値観。それに基づく仕事スタイル、学習スタイル、生活スタイルが、これらを阻んでいるのだろう。その「何か」の象徴が「東京」なのかもしれない。それを考え、行動を起こす時期が来た。と今はパニックの真っ只中だからそう言っているが、やっぱりやがて忘れるのだ。



住宅地密集化の実例

ここは都内某区の住宅街。江戸時代にはこのあたりは朱引外で、明治維新以降、戦前、戦後を通じて、高級住宅街とは言わないまでも、都心に勤める会社の幹部社員、高級官僚や軍人、大学教授や文人墨客のが好んで邸宅を構えた地区であった。現在も、広大な邸宅(大きな会社の所有になっているが)や、有名人の住処や官舎、社宅が残る閑静な住宅街である。しかし、最近、街の様相が大きく変わり始めている。こうした邸宅は主人を失うと、相続税対策なのであろう、売却されて、次々と瀟洒な住宅(純和風や擬洋風の古民家)が取り壊され、緑生茂る庭が破壊されてゆき、その跡地には複数の狭小プレハブ住宅が所狭しと建てられる。このパターンの「再開発」が急速に進んでいる。極端な場合、ある著名人の旧邸宅跡が10軒のプレハブ狭小住宅で隙間なく埋め尽くされてしまったところも出てきている。マンション化されるところもあるが、第一種低層住宅地域なので高層化できない。で不動産ディベロッパーとしては、土地を細かく分割して一戸あたり売却単価と利益率の高い「戸建」にして売り払う。こうすれば買い手から見ると土地全部は買えないものの、分割すれば土地購入単価が下がり購入しやすくなる。その上に「日本の建築技術の粋」である擬似三階建てプレハブ狭小住宅を建てれば立派なマイホームになる。こうして市場経済的合理性が働く売買が成立するというわけだ。もっともこうした個人の資産としての「不動産」価値が将来にわたって維持できるのかは疑問だ。少なくとも上物の償却期間は短く(不動産というより「耐久消費財」)何年か経つと資産価値はなくなるだろう。後は残された狭い土地だけだが、初期投資を回収できるだけの価格でこれからも売れる保証はない。地域住環境の悪化という悪循環が起きれば尚更だ。したがって中長期的に見ると資本主義的合理性(投資に対するリターンの最適化)が買主に働くかは疑問と言えよう。いずれにせよ昔ながらの(車の所有を想定していない時代の)狭い道路と、一定の広さの庭を有し、外塀に囲まれたセキュリティーのしっかりした邸宅が立ち並ぶ住宅街は、道は狭いままで塀もなく、庭もなく、隣地との境もほとんどない、例外なく一階が車庫スペースとなっているような擬似三階建狭小住宅で埋め尽くされる密集住宅地域に変貌を遂げる。必然的に人口密度は急速に上がっている。社会的距離:Social Distanceを取ることなんぞそもそも難しい街にどんどん変貌している。


かつて春になると白木蓮と桜が美しい庭があった

冬は雪景色...

しかし、空き家になって取り壊しが始まる。
桜も白木蓮の樹も切り倒されてしまった。
あっという間にすっかり更地になってしまった
不動産デベロッパーが土地分譲をはじめた
スペースがあるうちに奥の家も建て替え
一軒分の土地が四軒に分割されて分譲されることになった。
すぐに売れたと見えてたちまち建て始める

それぞれの敷地にそれぞれ違う業者が別々に施工。
こんな狭い土地に器用なものだ!

そして完成。
見事に一軒の邸宅跡に四軒の家が建った
これが東京の住宅街の社会的距離:Social Distance