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2022年1月16日日曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第三章「ドクトルの世紀」 〜「出島の三学者」の日本見聞録〜

 

ケンペル「日本誌」掲載の「長崎出島図」

将軍謁見図
立っているのがケンペル


「ドクトルの世紀」とは?

「バテレンの世紀」から「カピタンの世紀」へと変遷してきた日欧のファーストコンタクトは、いよいよ第三章へ。その主役は、布教を目的とした宣教師(バテレン)や、交易/商業活動を目的とした商館長(カピタン)から、未知の世界の観察/研究を目的とした研究者、博士(ドクトル)となる。これを「ドクトルの世紀」と名づけておこう。人間の止まるところを知らない「欲望」は、ついにキリスト教による世界制覇や、莫大な貿易利潤による市場支配といった野望を超え、人間の知的好奇心の充足へという、より高みに立つ「欲望」に止揚される。しかしてその実情は、出島という監視された閉鎖空間にて、細々と珍しい動植物を観察収集し、珍しい風俗、風土を研究するしかなかった。しかし、その成果は日欧双方にとって大きな意味を持つものとなっていった。彼ら「出島の囚われ人」には協力者がいた。それは日本人のオランダ通詞であり、また蘭学を志す若者達であった。また監視役であったはずの長崎奉行所の役人や、長崎勤番警護の肥前藩や筑前藩でもあった。こうした情報交換や研究協力関係は、オランダ人にとっての一方的便宜であるより、むしろ日本側に大きな意義を持っていた。医学、植物学(本草学)、地理、天文学は双方に関心のあるテーマでもあったし、「オランダ風説書」でもたらされる海外の最新動向は、オランダというフィルターがかかった情報であるが、日本にとって垂涎の的であったことはいうまでもない。幕府の周到なコントロール下での情報交換と協力関係ではあるが、それだけではなく、知的好奇心と探究心に満ちた若き日本の蘭学者や、通詞による自発的な交流が実は重要であった。例えば、ケンペルの「日本誌」の多くは若きオランダ通詞、今村源右衛門による協力がなければ成立し得なかった。テュンベリーの「日本植物誌」は桂川甫周や中川淳庵などの若き蘭学者との交流がなければ成立し得なかったし、こうした協力関係が後の杉田玄白の「解体新書」を生み出していった。特にシーボルトの時代になると、より一層の日欧の研究交流が盛んになり、幕府の許可により出島外に設立された鳴滝塾が蘭方医学、蘭学の研究センター/教育機関となった。ここから高野長英などの多くの有為の人材が生み出されたことは知るとおりである。さはさりながら、基本的には色々と制約の多い出島での「幽閉生活」を強いられる彼らにとって、年一回の江戸参府はまたとない日本見聞の機会であったし、それだけにその旅は新鮮であったことだろう。彼らの江戸滞在中は、宿所の日本橋本石町の長崎屋には、幕府の牽制、規制にもかかわらず江戸の蘭学者が大勢訪問し、質疑応答をおこなった。これが将軍謁見という外交的な儀礼よりも、日欧文化交流におけるより実質的な意義を持っていた。こうした日蘭の知的交錯がこの時代を特色づけることになる。

このように見てくると、日欧関係発展のモチベーションは、「グローバル宗教」の野望や「グローバルエコノミー」の野望という側面よりも、未知の世界の探検、未知の文明との遭遇という「知的好奇心」へと移り変わった。ファーストコンタクトで新しく「発見された」日本は一度は行ってみたい魅惑のワンダーランドになった。これは皮肉にも日本側が、ヨーロッパ側による「信仰の、市場の世界征服」の野望を挫いた結果だったと言えるのではないか。一方で、「鎖国」日本にとって出島のオランダ商館は、西欧諸国の最新情報を得る唯一のウィンドウとして貴重であった。時代が降るにつれてむしろオランダ側よりも、日本側にこうした交流にメリットがあったといえよう。日本が国を海外に向けて閉ざしている間に、ヨーロッパでは啓蒙主義の時代、科学の時代、産業革命の時代へと進み、その動向をわずかに開かれたウィンドウから覗き見る時代になっていった。

ここで、これまでのブログで取り上げてきた日欧の「ファースト・コンタクト」時代の変遷を整理してみたい。これらはあくまでも、敬愛する渡辺京二氏の著作「バテレンの世紀」をパクった筆者の勝手なネーミングに基づく時代区分であり、歴史学としてのそれではない。言わずもがなではあるが念のため。

(1)「バテレンの世紀」16世紀後半〜17世紀前半

        目的:キリスト教布教/交易がセット

        主役:宣教師(バテレン)/ポルトガル商人

        主たる情報源:イエズス会記録(ローマ教王庁)

(2)「カピタンの世紀」17世紀 

        目的:商売/交易

        主役:オランダ/イギリス商館長(カピタン)

        主たる情報源:商館長日記、手紙、報告書(オランダ公文書館、大英図書館)

(3)「ドクトルの世紀」 17世紀終期〜19世紀前半

        目的:動植物学/博物学研究 日本の総合的研究

        主役:商館付きの医者/植物学者/博物学者(ドクトル)

        主たる情報源:研究報告書、刊本著作(大英博物館、ライデン大学、ウプサラ大学)


「出島の三学者」とは?

(1)ケンペル(1651〜1716)

    滞在期間:1690〜1692年 江戸初期(元禄3〜4年)

    主要著作:「廻国奇談」、「日本誌」1718年

    ヨーロッパにおける「日本学」の開祖。かれの「日本誌」は、長く日本を知るための体系的手引書として重用され、ディドロの「百科全書」にも引用された。幕末のペリー来航時にも指南書となった。オランダ通詞の今村源右衛門の役割が大きいと言われている。

(2)テュンベリー(1743〜1828)

    滞在期間:1775〜1776年 江戸中期(安永4〜5年)

    主要著作:「日本植物誌」1784年 

    スウェーデンの世界的植物学者リンネの高弟。帰国後は母校ウプサラ大学の教授、学長になる。わずか一年ほどの滞在であったが、桂川甫周、中川淳庵、多くの蘭学者との交流、オランダ通詞が植物学、薬学、医学の習得するなど、多くの若き知性に影響を与えた。杉田玄白「解体親書」へとつながる。

(3)シーボルト(1796〜1866)

    滞在期間:1823〜1830年 江戸後期(文政6〜12年)、2回目の来日(1859〜1862年)(開国後、安政6〜文久2年)

    主要著作:「日本」1832、51,52、58、59年分冊出版、「シーボルト日記」

    ドイツの医学の名門の家系に生まれる。日本の総合的/科学的調査研究が使命/目的 セカンドコンタクトへの橋渡し。2度の来日経験。高野長英など多くの門弟を輩出し、日欧交流に大きな影響を与えた来日外国人の第一人者。

「出島の三学者」については、以降のブログを参照願いたい。2017年5月30日 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト:  

3人の共通点は、オランダ商館付きの医者、植物学者。博士号を保有する「ドクトル」であること。しかもオランダ人ではなく、ケンペルとシーボルトはドイツ人。テュンベリーはスウェーデン人である。彼らは医学の専門家であると同時に、植物学者であり、本草学(薬学)や博物学の研究者であった。医者としての勤め、動植物研究にとどまらず、日本および日本人を総合的、学術的に調査研究することが主要な目的と使命であった。したがってヨーロッパにおいては「日本学」の権威となった。この歴代の三学者は、日本学の開祖、ケンペルに始まり、植物学の泰斗テュンベリー、そして幕末の日本に大きな影響を与え、セカンド・コンタクトの扉を開いたシーボルトへと、その経験と成果が引き継がれていった。しかし、先述のように、彼らだけでそのような成果を上げられたわけではない。その陰には多くの日本側の協力者や弟子たちがいた。すなわち、彼らの周囲にはオランダ通詞や門弟となった蘭学者がいた。また医者であることから、日本人の患者を見ることもあり、漢方医学が主流であった日本に西欧流の医学を持ち込み、治療に効果を上げ(テュンベリーによる梅毒治療の例)、評価され、それが蘭方医学として日本に受け入れられたことも大きい。また3人ともいわゆる学級肌で、若い頃から哲学、地理学、医学、薬学、植物学、博物学を学び知識欲旺盛な人物であり、高い洞察力と理性を併せ持つインテリ、知性派であった。しかし彼らの研究姿勢は実践的で、「象牙の塔」に閉じこもる学究の徒に止まるのではなく、大いに旅行し現場へ出かけ、危険を顧みず未知の世界の探検に志願して出ていった。いわゆる「行動する知性」であった。当時、オランダ東インド会社は、そうしたヨーロッパの「行動する知性」のファシリテーターとしての役割を果たしていたと言えよう。特に医官のポジションはまさにうってつけであった。

こうして、本国においても、当代一流の若手学者、研究者が、日本を目指し、滞在し、そこでの体験、研究成果を提げて帰国した。西欧諸国における絶対主義の時代から自由主義の時代、啓蒙主義、さらには産業革命、アメリカ独立戦争、フランス革命の時代へと続く近世西欧文明に新しい風を吹き込んだ。ちなみにイエズス会は1773年に解散している。一方でアダム・スミスが「国富論」1776年を出し、重商主義から自由主義市場原理を示し、産業革命という「技術イノベーション」と「神の見えざる手」が資本主義の時代を生み出していった時代である。1810年にオランダはナポレオンのフランスに併合される。こうした動きに乗じて1810年には海外植民地がイギリスに奪われるが、やがてナポレオンの嵐がすぎると英蘭は条約を結び、1814年にはオランダ領東インドは返還された。このようにオランダが衰退してゆく中、長崎オランダ商館だけはオランダの旗を掲揚し続けた。シーボルトの役割は、オランダが日本との貿易関係を再構築するために、総合的に日本を研究することであった。日本側も、西欧事情の収集と蘭学を通じた最新の思想や科学技術の習得が喫緊の課題であり、オランダとの関係は以前にもまして重要であった。19世紀になると日本近海にはロシアやアメリカなどの新たな異国船が頻繁に来航し、世界情勢が大きく変わっていることが肌身で実感された。これに対応するべく、海防、外交上の情報分析と的確な判断が喫緊の課題であったことは言うまでもない。こうしたことから幕府はシーボルトを重用するが、シーボルト事件で彼は国外追放となり、大事な「外交顧問」を失ってしまう。一方、シーボルトは帰国後は「日本学」の権威の一人として各方面から信頼を寄せられ、アメリカのマシュー・ペリー提督は日本への航海を前に、ケンペルの「日本誌」を事前に研究するとともに、シーボルトから多くの助言を得ている。

ケンペル、テュンベリー、シーボルトと続く「知の系譜」は、ヨーロッパに多くのものをもたらしただけでなく、日本にとっても重要な西欧文明研究の底流となった。そして多くの蘭学者、蘭方医を育てた。そのオランダ語による蘭学の系譜と知識の受容が、のちの幕末、明治の時代の英語やドイツ語、フランス語によるそれへの道筋をもたらした。ヨーロッパの意欲に満ちた若き知性と、日本の意欲に満ちた若き知性の遭遇。これがこの「ドクトルの世紀」を特色づけたと言える。そして、忘れられた「ファースト・コンタクト」の時代を、衝撃の「セカンド・コンタクト」の時代へと繋ぐ道筋が、「鎖国」の時代に、細々とではあるがしかし確かに形作られていた。


追記:

歴史資料として見るとこの頃の「日本誌」などの記録は、その前の時代(バテレンやカピタンの時代)の記録とは異なる性格を持っている。すなわち、バテレンやカピタンによる布教活動や貿易/商業活動を通じた組織内の報告書、あるいは個人的な見聞録としての記録から、学者、研究者としての目で見た「客観的」な観察、分析と評価に基づいた記録となっている。形式としては日誌や報告書等の時系列記録というよりは、テーマ別、項目別の事物、出来事の記録である。逆に言えば、市井の人々の日常の生々しい記述や、筆者の情感のこもった描写やその印象記録は影を顰める。再び、そうした視点での日記や紀行文が出てくるのは、セカンド・コンタクト以降の、幕末/明治の来日外国人(お雇い外国人、横浜の貿易商、ジャーナリスト、旅行者など)の「日本見聞記」「旅行記」が盛んに出版される時代になってからである。



ケンペル「日本誌」に掲載されている動植物
日本の茶


日本の鳥類
架空の鳥「鳳凰」

日本のセミ

日本の貝類


テュンベリー「日本植物誌」
(Wikipediaより)

シーボルト鳴滝塾
(長崎大学図書館蔵)



参考:過去のブログ

                                      

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