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2022年2月7日月曜日

古書を巡る旅(20)Treatise of Foods and Drinks:「食料/飲料総覧」 〜貝原益軒「養生訓」との奇妙なリンク?そして古書の謎解き?〜





今回取り上げる古書は、1702年にフランスの王室医師であり、ロイヤルアカデミー会員であったルイ・レメリー:M. Louis Lemery(1677〜1743年)が著した「食料/飲料総覧」を英訳したものである。タイトルは、A Treatise of All Sort of Foods, Both Animal and Vegetable: Also of Drinkables:というもの。人間の食糧となり得る動物や植物、そしてあらゆる飲み物について、その種類や特色、効能を詳細に記述し、健康に良いもの悪いものを明らかにして、どのように選ぶべきかを解説している。176項目を網羅しており、それぞれの食物について過去、現在における著名な医者や栄養学者の分析、評価などを紹介している。当時のいわば健康ブームを引き起こしたベストセラーであったとも言われている。また一種の栄養学全書でもあった。1702年、パリで初版が、そしてその英訳版初版が1704年にロンドンで出された。本書は1745年の英訳版の第二版である。パリ大学自然科学学部、ロイヤルアカデミー、ロンドン医科大学の出版許可:imprimatureに基づく書籍で、現在では入手が難しい稀覯書の部類に属する。著者のルイ・レメリー:M. Louis Lemeryの父は、この時代のフランスの著名な化学者、ニコラス・レメリー:Nicholas Lemery(1645〜1715年)である。

今回は、これまで紹介した文学作品や詩集、評論集、歴史的な人物の評伝、記録とは異なる趣向の古書である。


歴史の同期なのか?

フランスやイギリスでこの本が出版された時代、日本は江戸時代初期。奇しくも貝原益軒(1630〜1714年。筑前福岡藩士で儒学者)が、中国の植物生薬学の体系である本草綱目を和訳、解説した「大和本草」1709年(宝永6年)や、現在にも読み継がれる名著「養生訓」1712年(正徳2年)を著した時期と重なる。薬草、医学、健康と食生活について詳細に記述し紹介し、ベストセラーとなり、一種の健康ブームが起きた時期と一致する。なにかこのレメリーと貝原益軒戸を結ぶ糸があるのだろうか?色々と妄想が膨らませてみた。

考えられるのは蘭学の発展である。日本ではこのころから蘭学が盛んになり始め、長崎経由で入ってきたオランダの医学書を中心に、桂川甫筑がその和訳に取り組んだ時期である。桂川甫筑はのちの桂川甫周を生み出す蘭学者、蘭方医の家系、桂川家の始祖である。また日本における蘭学に大きな影響を与えたケンペル来日の時期(1690〜92年)から10年ほどが経過した時代で、彼の周りで影響を受けた出島出入りの和蘭通詞や若い学生が、蘭学者として育ち始めた時期でもある。しかし、まだまだ日本における蘭学/蘭方医学は黎明期で、日本では圧倒的に漢方医学、本草学が主流であった。貝原益軒の「養生訓」はこうした漢方医学、本草学の知識に基づく著作であることにに加えて、彼自身、朱子学の儒学者であり、儒教的な視点よる健康観、人生観、それに基づく心構えを表したものである。レメリーのようなルネッサンス的な「自然科学」としての医学という観点で分析、評価された食物、健康概念とは異なっている。貝原益軒がこうしたヨーロッパ由来の書籍を入手したり参照した形跡はなく、ましてフランスの医師の著作を目にする機会はなかったであろう(またその逆もなかっただろう)。むしろ貝原益軒の本領は、その儒教的な人生観である。そして人生の晩年の82歳になってから、自らの実践を「養生訓」に著し、その2年後の84歳で亡くなっている。当時としては極めて長寿に属する人生であった。そういう意味においては実証的な記述に徹しているのだが、それはヨーロッパにおける近世前期に起こった自然科学的実証主義ではなく、より東洋的な道徳価値観の実践による実証であった。それが、現代の世の中にも受け入れられ、読み継がれているところが、時空を超えた普遍性を有する所以であるが、それは近代合理主義につながる西欧流の実証主義とは別物であろう。残念ながらレメリーと貝原益軒をつなぐ「糸」があったとは考えられない。

しかし、そうした「糸」は妄想だとしても、全く同じ時期に、全く同じ食物と健康についての書籍が発表され、それぞれの国でベストセラーになったとたことは、単なる偶然とも思えないような気がしてならない。以前のブログで、イギリスと日本での国の形成と文化の発展が、あたかも同期して起きてきたことを見てきた(2020年7月12日「世界史」と「日本史」の遭遇)。ヨーロッパではフランス・ブルボン朝の絶頂期が訪れ、これに対抗したイギリスではエリザベス朝の絶対王政がようやく確立した時期であり、日本では、長く続いた戦国乱世が終わり徳川幕府の成立を見た時期である。そして安定した政治体制に伴い、新しい文化が花開いたことも共通である。そのように、ユーラシア大陸の東の果ての島国と、西の果ての島国で、同じような文化受容と変容と発展あったことは偶然ではない気がする。世の中が多少とも安定しそれなりの平和が訪れると、人は健康や人の生き方に関する関心が高まる。食物が単なる生命維持のための「餌」でないという理解、食べ物が健康や幸福感に直結しているという認識は、やがては食そのものを「文化」の重要な要素に仕立て上げてゆく。文明の発展段階に応じてこうしたことは世界で同期して起きるのだろう。このレメリーの本を古書店で見出したときに、ふと貝原益軒を思い出したのも宜なるかなである。残念ながら歴史的な事実としての「糸」の存在は妄想であろうが、歴史の「水平同期」事象の一つであるのではないかとの「ヒラメキ」は妄想ではないと信じる。


工芸品としての古書

そうした時代の妄想はともかくとして、一方の古書コレクター視点で見ると、この書籍自体が何とも美しい工芸品のような逸品である。産業革命以前の家内手工業時代の手仕事の産物である。この本を手に取った理由は、実はその中身よりは、1700年代という古書としても古い時代のものであることと、その美しい総革の装丁に惹かれたからであった。18世紀前半といえば、日本では、江戸時代徳川吉宗(1716〜1745年)治世、蘭学の発生、先述の貝原益軒のほか、関孝和、西洋紀聞(新井白石)、桂川甫筑、青木昆陽、近松門左衛門などが活躍した時代である。そんな時代のユーラシア大陸の向こうっ側のイギリスで出版されて270年も経過した「骨董」である。書誌学的観点からも、本の装丁の歴史という観点からも興味深い書籍だ。なめらかな仔牛革:Half-Calfの背表紙と表紙/裏表紙に金の文字入れと縁取りという総革の外装。背表紙:Spineと、綴じ:Bindingに独特の処理を施した製法とその結果としてのデザイン。「簀(す)の目」、「すかし」の入った手漉き紙に古い活版印字。全体的に職人が手間をかけて丁寧に仕上げた手作り感満載の工芸品となっている。特に用いられている紙は大量生産が始まる前の家内手工業製品であった時代のもので、リネン、亜麻、木綿などの使い古されたボロ布を溶かして漉いた紙である。むしろ工業製品化され薬品処理された木材パルプ紙に比べ、酸化が少なく丈夫であったと言われている。「簀の目」とは、日本の手漉き和紙と同様、漉きの工程で用いられる簀と糸の模様が紙に写し出されたもの。また「すかし」は、当時の紙漉き職人の印章、または落款のような役目を持っている。この「簀の目入り」「すかし入り」という紙は重要な書誌学的なメルクマールになる。すなわちこれは1750年以前の出版物に使われているもので、出版年代が記載されていなかったり、隠滅している書籍でも、その出版時期を特定する上での重要な判断ポイントとなるほか、後世のコピー本、復刻版、改装本とオリジナル版を見分ける手がかりの一つとなる。それ以前は、書籍には仔牛皮紙:Vellumや羊皮紙:Parchmentが用いられていたが、高価で、書写が中心の時代には修道院や大学で重用されたが、印刷/出版革命をもたらしたグーテンベルクの活版印刷には向かないことから、こうした手漉き紙に置き換わっていった。こうした本の制作過程に用いられる紙素材や、バインディングの形式、活字体、インクなどが、その内容とともにこの書籍が成立した時代を物語る重要な要素になっている。

洋古書の外装は、よく後世に改装されていることがある、外装や綴じは痛みやすいので、その経年劣化を補修したり、蔵書家が貴重な書籍を後世に引き継ぐために換装したり、あるいは書棚を飾る見栄えの良い装丁に作り替えたりしたりした。むしろオリジナルの初版本は簡素な装丁の書籍であることも多いようだ。無論、貴重な古書を修復、復元することも大事な文化財保存活動の一環として行われる。こうした書籍装丁の専門業者がヨーロッパにはあったし、今でもその伝統の技を引き継いで、古書の修復、装丁直しを手がける専門家がいる。イギリスのCraft Bookbinderと呼ばれる業者がそうだ。彼らが換装した古書が、オリジナルよりも高価な本に生まれ変わることすらある。こうなるとまさに「本」という伝統工芸作品工房、アート・アンド・クラフト活動と言って良いだろう。ちょっとジャンルが違うかもしれないが、日本の伝統工芸の一つである「金継ぎ」の(リユース)発想と相通じるものがあるのかもしれない。本書の場合、おそらく外装はオリジナルではなく、後世に換装されたものであろう。しかし、先ほどのもろもろの要素を勘案すると、外装の仔牛皮素材やバインディングの形式、また裏表紙に用いられているやや新しい紙素材(これも「簀の目」「すかし」入り)から見ると、比較的古い時代(18世紀中)に換装されたと考えられるのではないだろうか、ないしは、所有者がオリジナリティーを尊重して、わざわざ古紙となっている「簀の目」「すかし」入り紙を注文し、バインディングも当時も様式を指定したのかもしれない。数寄者はいろいろこだわるものだ。しかしそうして歴史的な価値のある書籍を後世に残し、文化価値の繋いでゆくことも数寄者の役割と言って良い。その古書の成り立ち、推移を辿りながら色々と推理し、妄想するのもまた古書の楽しみの一つだろう。


表紙
19世紀以降の書誌事項:Colophon表記デザインと大きく異なる




総革張りに金文字


バインディング(綴じ部分)とトップエンドの処理は18世紀書籍の特色の一つ


黒と赤のインクで印刷している珍しい物


「簀の目入り」「すかし入り」手漉き紙を用いている
すかしの方は紙の職人が自分の製品であることを示す印章、花押のようなもの