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2023年1月25日水曜日

(続)古書を巡る旅(29)アダム・スミス全集 〜理念と秩序なき現代資本主義に警鐘を鳴らす(つづき)〜

モノ言わぬ黒い集団はどこへ向かっているのか?




時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(29)アダム・スミス全集初版 〜理念と秩序なき現代資本主義に警鐘を鳴らす〜: アダム・スミス肖像と全集表紙 Adam Smith (1723~1790)のサイン  年末に、貴重な古書を手に入れることができた。アダム・スミス全集5巻の初版本だ。1812年、スミスの死後20年ほど後に出版されたものである...


前回ブログでのこの著作を巡る考察の続き...

「神の見えざる手」「自由放任」の前提としての「他者への共感力を持つ人間」「公平な観察者を胸中に持つ人間」という理解は、「理念と秩序なき資本主義」「欲望の資本主義」の問題への答えを導き出してくれるのか?


論点1)新自由主義経済への批判と反省

ミルトン・フリードマンのマネタリズム、金融資本主義、市場原理主義が導いた「新自由主義経済」。7〜80年代に始まるサッチャリズム、レーガノミクスなど、すなわち小さな政府、規制緩和 民営化 市場競争促進をキャッチフレーズとした政策を打ち出し、経済の低迷に苦しんだ英国病を克服したイギリス、金融資本の全盛、双子の赤字(財政赤字、貿易収支赤字)を克服したアメリカで、すっかり時代の潮流をうみだした経済政策となった。日本も、戦後経済の高度成長を支えた官主導の「護送船団方式」と言われる独特の「資本主義」から脱皮して、規制緩和、民営化、市場競争促進を推し進めた。まさに「レッセフェール」「神の見えざる手」の原点に帰れ!と。これは戦後の経済復興期のケインジアンモデルに依拠した修正資本主義、福祉国家政策(雇用重視、ゆりかごから墓場まで、公共投資、国営化、大きな政府)への反動であった。また、その後のソ連の社会主義実験の崩壊が一層それを確信させた。この「自由化政策」は、さらに企業活動の多国籍化、生産活動の国境を超えた水平分業、サプライチェーンのボーダレス化という経済のグローバル化へと突き進んだ。続いてきたデジタル革命の進行で、情報が瞬時に世界を駆け巡る。情報が価値を生む。情報を制するものが経済を制するという新しいパラダイムへ転換していった。

資本主義の世界は産業資本主義から金融資本主義、デジタル資本主義へと激しく変化していった。すなわち 富の源泉が労働からマネーへ、さらに情報へ。その一方で、トップ1%の富裕層が全体の富の30%を保有する社会を生んだ すなわち超格差社会と化してしまった。それが社会の分断を生む。「持てる者」と「持たざる者」「AIを使う者」と「AIに使われる者」という分断化が進む。マルクスやエンゲルスが言う「階級闘争」、「持てる者」から生産手段を「徒手空拳のプロレタリアート」が奪い返すという形での問題解決は失敗したが、それに代わるものは生まれていない。さらに経済のグローバル化に伴い国内産業の空洞化 サプライチェーンの地政学的なリスクという脆弱性にさらされ、働き方の多様化という名のもとに非正規雇用の増大。ますます格差が広がった。産業資本主義からデジタル資本主義への転換に失敗しただけでなく、そこには秩序とルールが確立されていない混沌とした状態が続いている。すなわち「利己的」で「強欲な」資本主義が生まれる。こうして沸き起こる新自由主義経済政策への批判と反省。さらにはアダム・スミスの資本主義は不完全で間違っていると言う批判まで生まれてきた。果たして間違っていたのだろうか。


論点2)ケインズが再評価される?

こうした中、かつて批判されたケインズが再び脚光を浴びているという。ではジョン・メイナード・ケインズはどのように資本主義の抱える問題を解決しようとしたのか。分配の公平性と秩序の保証が求められるようになった時、政府の役割を見直す動きが出て来るのは不思議ではない。市場の自由競争にだけ任せるのではなく、リスクのソーシャリゼーション社会的分担、競争のルール作りという政府の役割を再評価し、かつ社会的投資の重要性、すなわちイノベーション=民間投資+公共投資 と考える。すなわち経済のビルトイン・スタビライザー」は「レッセフェール」「神の見えざる手」だけでは不十分で、公益・公共善・公共の福祉の視点からの政府の調整、公共投資が必要だという。戦前のアメリカ金融恐慌後に登場したルーズベルトのニューディール政策や、戦後のケインジアンモデル、「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家政策がそれである。

確かに今、資本主義は、経済膨張(expansion)の時代の市場競争による効率性と成長率優先から、持続可能(sustanable)な社会、事業の発展へとその基本的な価値観が変移してきている。個人的な利益追求が、社会全体の利益につながるには、共通善、公益の実現が伴わなければならない。すなわち分配の公平性、社会の分断ではなく協調が重要と考える。また、株主だけでなくステークホルダー(社会、顧客、取引先、従業員)に分配が行き渡ることが「公益」という、ステークホルダー資本主義へと広がりつつある。しかしそうした新しい事態にケインズが言う政府の財政出動による景気の刺激や、官主導の投資、富の再配分施策が分配の公平性や、持続可能な成長につながるのだろうか。個人の利益追求が社会全体の利益につながってゆくというダイナミズムは失われないのか。

社会主義的様相を帯びてきたケインズ主義政策への反動が、新自由主義を生み出したのだが、今度は行き過ぎた新自由主義が、再びケインズを叩き起こす。こうした輪廻転生する資本主義論争をアダム・スミスはどのように見ているのだろう。アダム・スミスは本当は何を語ったのか? 彼は、絶対王権や国家による重商主義への批判から始まった自由主義経済、「レッセフェール」「神の見えざる手」。労働価値説、個人の自由な経済活動が、社会全体の富を生み出すと言う考えを語ったわけであるが、しかし「利他的」で「他人への共感力」を持ち、「胸中に公平な観察者」を持つ人間の存在が前提となっていることを同時に語っている。また人間には「賢明さ」と「弱さ」があり、「賢明さ」は社会の秩序をもたらす役割があり、「弱さ」は社会の繁栄をもたらす役割がある。しかし「見えざる手」が十分に機能するためには「弱さ」が放任されるのではなく、「賢明さ」によって制御されなくてはならない。すなわち正義によって制御された野心、その下で行われる(フェアーな)競争だけが社会の秩序と繁栄をもたらすと言っている。皮肉なことに、こうした「利己的な」「制御されない」新自由主義への懐疑の中から、アダム・スミスの「国富論」の本当の姿は、これまでないがしろにされてきた「道徳感情論」の中に見出される、とする「再発見」がなされた(スティグリッツやムハマド・ユヌスなど)。理念も秩序も失った資本主義に対する批判と反省に対する答えを「新自由主義」か「ケインジアンモデル」か、という二項対立に求めるのは間違っている。そのどちらかしか答えがない、という思考の罠に陥るからだ。このようなアダム・スミス原点回帰の中から、新たな答え、資本主義像が見い出せるとの希望を持ちたい。


論点3)資本主義と民主主義の危機

そこへ登場するもう一つの危機。「真の民主主義があってこその資本主義」?という人類が到達したはずの「真理」が揺らいでいる。現代の世界にはアダム・スミスが聞いたら卒倒するような「資本主義」が生まれ、我が物顔でその存在の正当性を主張している。その第一は、共産党一党独裁の資本主義である。資本主義を否定し労働者が支配するはずの共産主義政党が最大の資本家となり、国営企業を所有し、経済をコントロールする。その支配は政治的には独裁的強権主義であり、選挙権もなければ言論の自由もない。経済的には党が支配し、労働者を搾取するし、失業者のいないユートピアではない。これはまさに歴史上の最大の論理矛盾である。その第二は、独裁者・治安機関と癒着した新興財閥による、いわば「ヤミ市」資本主義である。資本主義も共産主義も破綻した混迷の社会で、独裁者と、彼を支える秘密警察と怪しげな新興財閥(私的な軍事組織を持つ)が手を結んで労働者と資源を支配する。こちらは、経済、政治が未成熟で不安定な途上国で起こりがちな歪んだ資本主義もどきであるが、世界の民主主義と平和への驚異と直接つながっている軍事大国のそれである点が大きく異る。いずれも、民主主義体制を前提とせず、独裁的、強権的な統治機構と密接に結びついた国家資本主義である。むしろアダム・スミスが批判した絶対王権による重商主義的経済体制を彷彿とさせる。民主主義(Democracy)と専制主義(Autocracy)の対立が再び21世紀に出現した。

「民主主義が根付かないところに真の資本主義は育たない」。あの天安門事件の時に欧米の経済学者や政治学者が、鄧小平の改革開放路線の行く末への危惧表明と共に、共産党による民主化武力弾圧を非難して述べた予言は当たらなかった?今や世界第二の経済大国となり、さらに海洋進出、「一帯一路」世界制覇を目指す覇権国家の姿が今ここににある。しかし、「偉大なる中華民族!」「大ロシア主義!」といった時代錯誤で誇大妄想的なスローガン(昔どこかで聞いたことがあるだろう)を掲げる国の実態は、人民を蔑ろにした強権的支配と富の独占、そして戦争である。これがかつて帝国主義、ナチズム、ファシズムと戦った国の現在の姿である。それでも経済成長し富の再配分のおこぼれに預かっているうちは、人々は搾取されているとは思わない。マンションが買えて車が買えて海外旅行ができるなら選挙権も言論の自由もなくて良い、などと豪語させている。しかしいつまでも経済成長し続けることはできない。既に失業者が増大し、超格差社会を生み出しているというのに。これがほんとに「資本主義」なのか?少なくとも「利他的」で「人への共感力」を持ち「公平な観察者の目」を有した人間を前提にしているとはとても思えない。まして正義によって制御された野心、そのもとでのフェアーな競争とも思えない。


論点4)日本はどうする?

日本に近代資本主義は本当に存在しているのか? 西欧流の個人主義にかわる、日本人が得意な協調、協同、共助は現代の資本主義が抱える問題の解決策になるのか? しかしその前に、日本にとっては危機的状況の少子化対策の遅れ、人口減少が喫緊の課題である。日本人の海外永住も始まっている。日本という国は消滅するだろうと予言する文明論者さえいる。日本に提示された選択肢は、1)経済大国から経済小国へ。グローバル・エコノミーから撤退する第二の鎖国?縮小均衡。しかし資源のない国のそれは衰亡への道に他ならない。2)経済大国の復活。経済成長を目指すのであれば、まず少子化対策を早急に実行させねばならない。それができないなら移民や外国人を受け入れ労働力不足を補う必要がある。 二項対立の図式は人々の判断を誤らせるものであるが、いよいよこの二択に絞られてきたと言わざるを得ない所まで来ている。人口減少して繁栄した国は歴史上存在しない。「人」は国富。アダム・スミスが言うように、基本的価値と富を生む源泉は「人」そして「労働」。中国も人口減少へ転じたことが大きな話題になっている。他人事ではない。そのはるか先をゆく「失われた30年」の日本である。


論点5)「失われた30年」というが何が失われたのか? 

日本はこの30年、産業資本主義から金融資本主義、そしてデジタル資本主義への転換、あるは脱工業化に失敗し成長の機会を失った。AIやIT分野の成長力は周回遅れとなり、気がつくと「モノ造り」、製造業分野でもイノベーションを起こす力が無くなり、むしろ追いつけなくなってしまった。「成長戦略」という「お題目」だけは何度も掲示板に高く掲げられた「思考停止の30年」であった。すなわちこの間に本当に失われたのは、歴史に学び、来たるべき時代を想像する力、全体を見渡す俯瞰的視野、問題を直視して理解する力であり、そして・したがって 新しい社会システムを構想しデザインする力である。「人」の力が失われた。一方で、「空気を読む」という独特の思考様式が生まれた。それは主に「自己保身のため」である。「やむを得ない」「何かあったらどうするんだ」という責任回避的消極姿勢、そのうちなんとかなるだろうという「根拠のない楽観主義」が蔓延し、物事を決めない、意思決定しない、問題を先送りする「思考停止」状態が続いた。この30年の時間の空費は、「人財の払底」という取り返しがつかない損失を生むことになった。自分の頭で考え、新たな問いを生み出し、その答えを見つける力が失われてしまった。成り行きに任せ、自分さえ楽しく生きればそれで良い、という人ばかりになってしまったのか。

こうした先行きの見えない不確実な時代に、なお従来型の「欧米型先行モデルを追いかける」(幕末・明治維新モデル)、「過去の成功体験に固執する」(戦後高度経済成長、モノ作りニッポン、ジャパン・アズ・ナンバーワン)思考パターンに活路を見出そうとする。いっぽうで、失敗には学ばない(世界トップクラスの日本の半導体はなぜ30年後には消滅したのか?なぜデジタル化で周回遅れになってしまった?等々)。成功体験は時として進化の足かせになり、思考停止を生むことにもなる。不都合な「失敗」は無かったことにして封印する。「成功体験の呪縛」「失敗体験からの逃避」から抜け出て、自分で考えて新しい社会システムを構想し創造する力をつけなければ未来はない。日本古来から続く外来文化の「受容」と「変容」だけではもはや未知の時代を切り開けない、変化のスピードは速く、海外から輸入すべき先行モデルもないのだから。

そのためには教育が最重要。少子化対策で人口を増やすとともに、その人への投資が喫緊である。日本の大学の衰退など目を覆うばかりである。新自由主義的競争原理を大学経営に持ち込んだせいだ。科学研究費もアテにはできなくなり、研究者も大学教員も有期雇用の「非正規教員」ばかりで中長期に渡る研究などできなくなってしまった。研究開発だけでなく、新しい思考様式とインテリジェンスを持つ人材を育てなければその国は滅びる。「答えがある試験問題を解く力」、ではなく「自ら新たな問いに気づき、その答えを導き出してゆく力」を持った新しい人。あるべき姿を構想する力、人のやらないことを生み出す創造力、失敗を恐れず実行する突破力、失敗したら間違いを認めて撤退する勇気、責任取る勇気、再挑戦それを許容する社会。そしてなにより人間理解、他者への共感力を持った人が増えなければならない。政治においても行政においても企業においても、そしてアカデミアにおいても、とりわけリーダーにはこのような資質が不可欠だ。遠回りでも100年の計を持ってこれをやらなければならない。

また、政治も行政も企業経営も「資本主義」の意味を問いなおすことが求められる。まず、もう一度近代資本主義とはなんなのか学び直してみることだ。そして「資本主義的合理性」とはなにか?何が合理的(理にかなっている)なのか?分配の公平性、社会課題の解決、地球環境の保全、ソーシャル・イノベーション、ソーシャル・ビジネスを評価するなど、経済活動のパフォーマンス成果測定のベンチマークも変えてゆかねばならない。そこには日本人が得意な「道徳・経済合一」の思想が生きる新しい「利他的資本主義」が見えて来るはずだ。まさにアダム・スミスが容認するところの「徳への道」とともに歩む「財産への道」、フェアプレーのルールに則った競争である。

こうした論点、問いに対する明快な答えはまだない。ただ、「人」は資源であり豊かで幸福な人生は国富である。少子化対策と教育。時間がかかるが今から取り組むべきことはこれらに尽きる。