ページビューの合計

2025年6月27日金曜日

「重商主義」とは? 〜革新か反動か?〜


(ロイターより)


トランプの関税政策、自国優先主義、保護貿易主義を見ていると、「この道はいつかきた道」。こんな時代、歴史の教科書で習ったような気がする。そう、17世紀から18世紀のイギリス絶対王政と結びついた重商主義政策を見るようだ。デジャヴというやつだ。それが絶対王権に抵抗し独立し自由貿易主義の旗手であり続けたはずのアメリカで、21世紀になって起きていることに思わず目を疑いたくなる。重商主義は帝国主義的な植民地主義や覇権主義に結びつくのだが、やがてその中から、絶対王権や特権階級に独占される経済利権に反発し、自由貿易主義を主張する新しい社会階層(新興の都市ブルジョワ、ジェントリー)が現れ、やがて現在につながる自由貿易体制が生まれた。戦前のブロック経済体制など、幾たびかの反動を繰り返しながらも、WTOやPTTなどの多国間協定により自由主義貿易、グローバル経済システムが発展していった。ちょっと歴史を端折り過ぎたが、こうして歴史の発展段階の中で消えていったはずの重商主義は、21世紀になってトランプによって墓から掘り起こされてゾンビのように復活する。グローバリズムへの反動としての重商主義的ナショナリズムとでもいうべきか。議会の優位も法の支配も自由と民主主義も認めない絶対君主の登場と言うべきか。確かに富の偏在と格差が顕在化し、分断が進んだアメリカで、彼はこの自由主義体制、グローバル経済の恩恵から取り残された人々の声を背景に大統領になったというのだが、問題はその恩恵を最大限享受してきた富豪の彼が、彼の対極にある人々の救済という「高邁な」志と革新的ビジョンを持っているのかということだ。彼のこれまでの行き当たりばったりの言動と朝令暮改を見ているとそれは甚だ疑わしいだろう。そもそも彼に歴史の理解とそれに基づく戦略、ビジョンがあるとは到底思えない。歴史の反動は、時としてこのような独善的で自己承認欲求の高い人物を担ぎ出す。そして取り巻きにより神輿に乗せられ反動のシンボル化されてゆく。ポピュリズムである。彼自身に我欲と自己顕示欲以外の確固たる理念、戦略とそれを実現する方法論があるわけではない。世界の強かなリーダーに太刀打ちできないのも仕方ない。彼の出現は歴史修正主義、反知性主義、反動の現象の一部に過ぎない。ちなみにアメリカ独立戦争の発火点となったボストン.ティーパーティ事件は、イギリス本国の重商主義、保護主義的な関税政策に反発して起きた植民地の抵抗だったはずだ。彼はそのアメリカ建国の歴史を学ばなかったようだ。それとも彼はアメリカを絶対君主が支配する王国に先祖返りさせる、アンシャンレジームを目指しているのか。


Boston Tea Party


重商主義:mercantilism:マーカンテリズムとは?

経済思想史の教科書を復習してみると、意外に重商主義を正確に定義することは難しい。また誰を重商主義者と呼ぶかも諸説ある。学生時代にあまり重商主義について関心を持って勉強した記憶もないので改めて研究する必要を感じる次第である。とりあえず通説的な解説に従って簡単に振り返っておきたい。

16世紀後半〜18世紀、絶対王権と結びついた経済政策。一般的には、金銀の蓄積と国外流出を抑え、特権的な商人による独占的な商業活動を保護し、対外貿易を重視して輸出を最大化し、関税障壁で輸入を最小化するという保護主義、管理貿易主義をとる経済政策である。歴史の発展段階としての、封建主義社会(封建領主による土地、荘園経営を主体とする)から、商品経済の伸長に伴う商業重視の都市資本主義社会への移行過程で生まれてきた。また絶対王政にとって不可欠な官僚制と、常備軍を維持、増強する必要から国富の極大化は必須であった。したがって絶対君主制と重商主義は表裏一体であった。重商主義と言ってもその形態は大きく二つに分けられると言われている。

1)重金主義: 初期の重商主義。金銀の獲得と蓄積が国家としての重点事項となる。鉱山開発や海外での金銀の獲得(略奪)など、大航海時代初期のスペインやポルトガルの海外進出モデル、南米の「黄金郷」探検/奪取やポトシ鉱山開発、日本の石見銀山の銀の獲得などがその例。フランスのルイ14世時代のコルベールや、イギリスのトーマス・グレシャムも重金主義的重商主義者と見做されている。香辛料のような金銀に匹敵する価値を有する換金作物商品の獲得/蓄積もこれに相当する。

2)貿易差額主義: 端的に言えば輸出を増やして、輸入を抑え貨幣収入を増大させる。そのために輸入関税を引き上げ、自国産業を保護するという国家による保護主義的管理貿易である。産業革命以前のイギリスの東インド会社のトーマス・マン、共和制を引いたオリバー・クロムウェルなどがその中心と見做されている。ジョサイア・チャイルドもその一人であるが、彼は初期の自由貿易論者(リベラルな重商主義者?)とも位置付けられている。現代における自国優先の保護主義的な政策や非関税障壁なども重商主義的と見做されてる。かつての日本の「護送船団方式」による輸出ラッシュによる貿易不均衡が貿易差額主義的重商主義であると批判されたことがある。

3)対抗概念としての自由貿易主義: やがて植民地の搾取や、保護主義的管理貿易、特権商人の王権との癒着などから生じる問題が顕在化して、新興の都市ジェントリー層からの自由主義的な貿易が待望されることとなる。また産業革命、資本主義の進展に伴い「富の拡大/蓄積」という観点からも、航海条例に象徴される自国優先/保護主義的な重商主義政策の限界が指摘されてゆく。もっとも自由貿易政策は、独占に代わる自由競争が生産性の向上と富の拡大に寄与したが、植民地の搾取や富の偏在や権力との癒着の問題を解決したかどうか疑わしい。「自由貿易体制拡大」の名の下に植民地化はますます加速化され(自由貿易帝国主義)、植民地における富の収奪は止まるところを知らない。これは20世紀の第二次世界大戦終結の時代まで続いた。また本国でも「持てるもの」と「持たざる者」の格差は広がる一方であった。18世紀の重商主義者の代表格と目されるジョサイア・チャイルドも東インド会社の大株主、総督という特権的地位を利用して巨万の富を得ていながら自由主義的な貿易を主張していて、初期における「レッセフェール」の提唱者であるとも評されている。なぜこのような評価がなされるのか不可思議であるが、「重商主義貿易政策」と初期の「自由主義貿易政策」はそもそも絶対的な二項対立概念ではなく、フェーズ転換を伴わない斬変的、相対的な概念であるような気がしてならない。本格的な自由貿易体制は戦後のWTOやTPPなどの多国間協定を待たなければならなかった。


日本における「重商主義」 田沼意次の時代

ちなみに、日本で重商主義的な経済政策が姿を現したとされるのは、江戸時代18世紀後半の老中、田沼意次の時代だと言われている。今年の大河ドラマ「べらぼう」に登場するあの渡辺謙演じる田沼意次だ。江戸時代の日本にヨーロッパの重商主義的経済思想が伝わっていた形跡は無いが、封建社会の農業と荘園を中心とする経済システムが行き詰まると、洋の東西を問わず人が考え出す知恵は同じだということなのか。しかし、日本の歴史においては田沼流重商主義経済政策はあまり芳しい政策としては記憶されていないようだ。幕府財政の逼迫を受けて、それを立て直すための革新的経済政策であったはずだが、「質素倹約」「緊縮財政」「商業活動抑制」を旨とする、八代将軍吉宗の「享保の改革」や、松平定信の「寛政の改革」が、武家らしい「清く正しい」ご政道で、田沼時代はその合間に咲いた仇花。われわれの学校の歴史教科書では、武家政権にあるまじき、卑しむべき商売や金銭を重視した負の歴史、あるいは「賄賂横行の政治」として扱われていた記憶がある。

しかし、最近ではその評価が見直されつつある。田沼意次の政策は、封建制社会の土地と米中心の重農主義経済から、商業活動による富の増加と蓄積を旨とする商品経済、貨幣経済、すなわち重商主義経済への転換を図ろうとしたものであったという評価である。幕府財政立て直しのために、印旛沼の新田開発も実行しつつ、山師を使った鉱山開発にも手をつけ、質素倹約だけの縮小均衡型の経済政策ではなく、既存の閉鎖的な商業組合である「株仲間」を解体し、新規参入を促進、公認し、活発に商業活動をおこす。文化面でも新しい出版、芸能を奨励し、お金を回す政策を打ち出した。また「鎖国」下にあっても幕府の管理による海外貿易(蝦夷地におけるロシアとの交易)を拡大しようとした。いわば拡大再生産政策である。また江戸と大阪の金本位、銀本位の決済システムの二本立てが国内商流活性化の阻害要因となっていることから、貨幣統一(小判1枚と銀8枚を等価とする)をおこなうなど金融政策を実行した。これらは庶民を助ける「仁政」というわけではなく、絶対王権である徳川幕府を財政的に立て直そうという幕臣による「忠義」の経済政策であった。この絶対王政と結びつくという点においてもイギリス重商主義経済モデルの日本での出現と言って良い。いっぽうで海外進出や植民地主義には結びつかない、いわば「内向きの」重商主義とも言える。

しかし、この革新的な経済政策への守旧派からの反発もはんぱではなく、やがて天明の飢饉や政治スキャンダルによって田沼意次は失脚させられ「日本の重商主義政策」は敢え無く崩壊する。その後の松平定信の質素倹約を旨とする縮小均衡型の「寛政の改革」というあらたな反動の時代を迎えることとなる。田沼の政策には、幕藩体制という政治システムと、それを支える武士と農民という社会システム、重農主義経済システムを打ち破る(すなわち「近代化」に向かう)インパクトはなかった。この革命は明治維新を待たねばならなかった。当時のオランダ商館長イザーク・ティチングの記録に「田沼の失脚で日本が諸外国と交易を拡大する機会は失われたのは残念である」と記しているように、田沼政策は蝦夷地を皮切りに日本の海外貿易拡大の画期との受け止めもなされたようだ。そしてその60年後、その重商主義の次のフェーズである自由貿易主義がアメリカやイギリスによって日本にもたらされ、開国と共に幕府による管理統制貿易体制「鎖国」、さらには幕藩体制そのもの、封建制システムは崩壊することとなったわけである。

とここまで書いて、大御所様、徳川家康のことをふと思った。田沼意次を遡ること150年前の初代将軍徳川家康。田沼にとっては神である「東照大権現」「神君家康公」である。家康こそ、佐渡や石見の金銀開発を進め、スペイン、イギリスなど海外との貿易に力を入れ、国富の増大化を試みた絶対君主であった。朱印船貿易による海外交易を奨励した。彼こそ日本初の重商主義者であったのではないだろうか。まさにユーラシア大陸の向こう側では、エリザベス1世が絶対君主として重商主義的な経済政策を始め、東インド会社を設立し海外に進出していった時期である。そしてあのウィリアム・アダムス(三浦按針)という大航海時代のアイコン、重商主義貿易政策の落とし子が、エリザベスのイギリスから、はるばる(意図せずにではあるが)徳川家康のもとにやってきた。これは単なる歴史上の偶然なのであろうか?家康亡き後、秀忠、家光の時代には国を閉ざす「鎖国」になってしまうのだが、この「鎖国政策」とて初期においては一種の幕府主導の統制貿易体制であり重商主義経済政策の変種であるとも言える。のちには「外国船打払」「攘夷」といった排外的な「鎖国」へと変質してしまうのだが、家康の対外進出促進的な重商主義政策が受け継がれていたら江戸時代は、日本はどうなっていたのだろう。これはまた別途稿をを改めて妄想しなければなるまい。


革新としての田沼重商主義、反動としてのトランプ重商主義

見てきたように18世紀の田沼の重商主義政策は、封建的な土地と米本位の経済、重農主義経済からの脱却を目指した革新的な政策であった。それだけに保守反動勢力からの強い抵抗に見舞われ、その大胆な試みは潰えた。革新としての田沼政策は時期尚早であったようだ。田沼がこれを日本の近代への移行プロセスと意識したとは思わないが、結果として日本の近代化はここで一旦止まった。そしてその近代化プロセスが再び始動するのは19世紀後半になってアメリカとイギリスからもたらされるまで待たねばならなかった。開国と明治維新である。

しかし、この時日本に開国を迫り自由貿易をもたらしたアメリカは、その150年後には17〜8世紀的(貿易差額主義的)な重商主義政策(保護関税、自国産業優先)を持ち出してきた。日本にも高関税の受け入れを迫っている。「自由貿易体制はアメリカにとって不利益だ!」「われわれはずっと同盟国に搾取されてきた。」「これからは自国優先:America Firstでゆく」「こうしてふたたびアメリカを偉大にするのだ:Make America Great Again:MAGA!」と。しかしこの勇ましいスローガンがなぜか「既成概念を打ち壊す革新的」な響きがないのはなぜだろう。巨額の財政赤字と貿易赤字を抱えるアメリカにとっては、一見革新的なようでアメリカの一定の層から喝采を持って支持されているが、その実は自由主義経済とグローバル経済に対する反動政策であるからだろう。いわばアメリカの「鎖国」と言っても良い。17世紀ならいざ知らず、高関税政策と移民排斥でどうやって国内製造業が復活するというのか。関税収入増で財政赤字が解消すると言うのはいかにも楽観的すぎる。労働力不足は建国以来の課題のはずだ。それを移民が支え今のアメリカを生み出した。関税による値上がり分は物価に反映され高いツケを払うのは国民である。20世紀型製造業(モノ)の貿易収支は赤字だが、むしろアメリカが圧倒的な強みを持っているハイテク、サービス産業収支は大幅な黒字である。アメリカの多国籍企業(GAFA)は世界中で市場を圧倒し独占に近いメガパワーとなっている。しかし、それを支えているグローバルなサプライチェーンが関税で破壊され、移民排斥で労働力が不足し、大学研究機関の予算削減で世界に冠たる研究開発が力を失い、よって同盟国の対米投資も止まってしまうと話は違ってくる。

一方で、人は「絶対君主」に媚び諂っても、市場はポピュリズムに影響されない。金融政策は独立した組織が行い「絶対君主」が脅しても動かない。彼らの意思決定ロジックは政治ではなく市場だ。これは人類が生み出した「知恵」なのだ。このまま時代錯誤な保護関税政策「重商主義政策」を続けるなら、国内のインフレは収束するどころかますます増進し、失業率も下がらず、賃金も下落、株価は下落し、ドルも下落。市場は正直に反応する。アメリカの財政赤字・負債の多くの部分を占める米国債は利率が急騰し、放置すると信用不安から売浴びせられて国家としての財政破綻(デフォルト)につながりかねない。ちなみに最大債権国は日本だ。ここでは人為的「ポピュリズム」ではなく「神の見えざる手」が働くのだ。すなわち「絶対君主」と「ポピュリズム」は経済で足元を掬われるのだ。

結局、21世紀型「重商主義」とも言われる時代錯誤な政策は問題の解決にはならない。革新的:Innovativeでも革命的:Revotutionalでもない。強いアメリカが復活することはない。格差も解消しないし財政赤字も解消しない。むしろ衰退を加速する方向に働くだろう。そもそも歴史を辿れば重商主義の矛盾と弊害が自由貿易主義を生み出したのだ。重商主義的ナショナリズムと選挙で選ばれた「絶対君主」の登場という時代逆行は、アメリカの信用と国富を大きく毀損しつつある。ましてそのやり方が「朝令暮改」という乱暴で粗雑なものならば、政策の信頼を大きく揺るがすことになり尚更だ。私はアメリカの知性と理性を信じたいが、ひょっとするとアメリカにその威信を維持する体力、復元力がもはやなくなっているのかもしれないという不安もよぎる。悲しいことだ。どうやらわれわれは今、大きな歴史の転換点に立っているようだ。


田沼意次(Wikipediaより)

2025年6月8日日曜日

古書を巡る旅(65)Samuel Butler's『Hudibras』〜『ドン・キホーテ』にインスパイアーされた17世紀英国王政復古期の風刺詩〜


 




17世紀イングランド(英国)は激動の時代であった。清教徒革命、王政復古、名誉革命、三王国戦争に、カトリック、国教会、ピューリタンの宗教対立。この混沌の中から現代の民主主義、資本主義、自由貿易主義が生まれた。そう現代社会の揺籃の時代と言える。いまそれが300年経って揺らぎ始めているのだが、その話は別としよう。今回は王政復古期の英国の文芸の話だ。

1660年にチャールズ2世が亡命先から帰国して王位についた王政復古:Restrationの時代は、イングランド王国の文学、演劇界にとっては画期的な時代であった。クロムウェル共和政時代には禁欲的なピューリタン主義により、「退廃的な」演劇や、風刺詩、音楽が禁じられ、シェークスピアすら上演されることが少なくなった。イングランドが文芸的、演劇的に不毛な時代であった。それが演劇好き、文芸好き、いや贅沢好きな王様が帰ってきて一斉に文芸復興が起きた。いや度を越した退廃的な文化すら沸き起こる。ピューリタン共和政時代の反動である。

この時代はまた転向の時代でもある。ピューリタンで共和派のジョン・ミルトンが王政復古で投獄の憂き目に遭って失明しても、節を曲げなかったのに対し、ジョン・ドライデンはピューリタン、クロムウェル礼賛から一転して王政を礼賛し、王室桂冠詩人となる。もっともこの時代の変節は普通のことで特に道徳的に非難されるべきことでもなかったようだが、現代の道徳観から見るとやはり尊敬に値しない姿勢と言わざるを得ない。晩年にイソップ物語やセネカ論集を英訳したロジャー・レストランジェが、王党派の立場から新聞や政治パンフレットを発刊し、国王のために言論統制を行い、王政時代の言論人として活躍した時代でもある。

こんな時代にもう一人ピューリタンを徹底して風刺した長編詩を発表し、チャールズ2世の愛読書となる『ヒューデブラス』:"Hudibras"を産み出した男がいた。その男はサミュエル・バトラーである。このサミュエル・バトラー:Samuel Butler (1612−1680)、生まれはそれほど高貴な家柄でもなく、教育もケンブリッジに短期間在籍しただけの、いわば家系や知性をバックグラウンドとして持つ人物ではなかった。地方官や貴族の秘書や執事として働くうちに頭角を表し韻文の世界に入っていった。セルバンテスの『ドン・キホーテ』を翻案したとも思える風刺詩『ヒューデブラス』1662年が大ヒット。王政復古で帰国、即位したばかりのチャールズ2世の愛読書となり、国王から爵位と年金を得ることになるという幸運に恵まれる。時代が産んだ寵児と言って良いだろう。

これはピューリタンや革命に対する風刺、揶揄を込めた韻文作品であり、愚人を英雄に仕立てたいわゆる「擬似英雄詩」である。主人公のピューリタンの騎士ヒューデブラスが、従者のラルフォーを伴って諸国行脚の旅に出る。そこで巻き起こる騒動を、ピューリタンの偏狭さと偽善と狂信を痛烈に皮肉る長編の韻文で表現している。まさにイギリス版「ドン・キホーテ」である。のちに、人気の画家ウィリアム・ホガース(1697−1764)がこれに彼独自の風刺の効いた挿画を提供するに至って、さらなる人気を博することになる。

今回紹介する本書は、バトラーの初版から約100年後の1744年版で、英国国教会の保守派スポークスマンで反ピューリタンの牧師ザッカリー・グレイ:Zachary Grey(1688-1766)が、「イギリス革命」の時代の歴史考証をもとに膨大な注釈を加えて再編集した、いわばGrey版とよばれるものである。先述のホガースの挿画を大幅に取り入れ読みやすい書に仕立てている。ケンブリッジ大学印刷でロンドンの複数(あのドライデンと組んだJ.Tonsonを含む)の出版人から出された。サブスクライバーのリストがある。グレイがこの時期にバトラーの『ヒューデブラス』を取り上げたのは、清教徒革命から100年経過し、王政復古から80年余りが経ち、名誉革命を経て政治的には立憲君主制の時代である。英国国教会の正当性を改めて論じることが目的であったようだ。時代はニュートン科学やそれに続く産業革命の進行や、近代合理主義の萌芽期でもあり、イングランドやスコットランドで啓蒙主義が盛んになっていった時期である。一方でそうした時代の大きな流れに対する「保守反動」が台頭した時期でもある。また芸術的にはカトリック的な中世ゴシック文化へのノスタルジア、ロマン主義が沸き起こった時期でもある。グレイ版ヒューディブラスは、そうした歴史評価の相剋の中で復刊された。

しかし、これ以降『ヒューデブラス』がイギリス文学界で脚光を浴びることは少なく、次第に忘れられた存在になっていった。ちなみにほぼ同時期に、国教会ブリストル大司教のトマス・ニュートンがピューリタンで共和派のジョン・ミルトンの『失楽園』を復刻した(1749年)(古書を巡る旅(21)ミルトン『失楽園』)。ミルトンは長く人気があったが、王政復古期の文芸はドライデンですら看過された時代が続き、20世紀になってようやく再評価の機運が高まったくらいだ。バトラーの作品は、18世紀のグレイの復刻にも関わらず、イギリス革命期を物語る歴史的資料としてはともかく、文学作品としては評価されなかった。ちなみに日本での翻訳出版は、2018年松籟社刊「ヒューデブラス」(飯沼万里子他)がある。しかし日本人に馴染みのある詩人とは言い難いだろう。

王政復古期はこうした文芸復興の空気がみなぎっており、多くの詩や劇作が発表された。また先述の通り、時代の流れを敏感に読み取り、共和派だった人物が王党派に転向したり、ピューリタンから国教会やカトリックの宗旨替えしたり。時の権力者や主流となる動きに迎合する人物も多く出た時期でもある。一貫してピューリタン、反王政を貫いて投獄されたミルトンは別にして、ドライデンもレストランジェも、そしてバトラーも王権に寄り添う「文化人」であった。彼らはみな名誉革命でその政治的地位と名声を失うことになる。しかしドライデンは失脚し桂冠詩人の地位を追われるが、その名声を生かしてギリシャ/ラテン古典翻訳(エルギウス詩集)や劇作に精を出し(古書を巡る旅(60)ドライデン『喜劇、悲劇、オペラ』)、レストランジェも、失脚後はまた古典翻訳作品(イソップ寓話集、セネカ論集など)を発表して名を残すことになる(古書を巡る旅(63)レストランジェ『セネカ論集』)。詩や演劇作家はこれまでの王侯貴族というパトロンとは訣別し、新たに台頭してきた出版人(Jacob Tonsonのような)とともに物書きとして生き残っていった。いわばジェントリー層や都市富裕層をターゲットとした出版ビジネスモデルが創出され職業作家が生まれた時代だった。ただバトラーは、生前にこの人気作品があったにも関わらず彼自身には金銭的な実入がなかったと言われ、貧困のうちに没している。これ以外の目立った作品が残っていないようだ。もっとイングランドの激動の時代が産んだ風刺詩作品の一つとして注目されても良いのではないだろうか。


 ドン・キホーテとサンチョ・パンザよろしく、中世風騎士を気取るヒューデブラスが従者ラルフォーを伴って旅に出る冒頭シーン(以下、全てホガースの挿画)

熊いじめとバイオリン弾きの村人と出会い揉める

一人勇ましく村人と戦うが、捕えられて晒し者にされてしまう。

当時はやっていた「スキミントン晒し者行列」に遭遇する

金持ちの未亡人に取り入ろうとするヒューデブラス



追記:

本書には蔵書票が添付されている。Sir Stafford Henry Northcote. Bart(準男爵スタッフォード・ヘンリー・ノースコート卿)とある。彼は19世紀ヴィクトリア女王治世で活躍したディズレイリ、グラッドストン首相時代の保守党政治家で、Chancellor of Exchequer, Secretary of State for Foreign Affairs, President of the Board of Trade, First Lord of the Treasuryなどの重要閣僚ポストを歴任した人物である。

なぜそんな著名人の蔵書が今私の手元にあるのか?英国から日本への旅路は不明であるが、本書はとある関西の大学図書館の除籍本である。ここにヒントはあるのだろうか?日本人研究者が英国で手に入れて大学図書館に寄付した... あるいは日本の古書市場に現れるようになった「流転の経緯」に何か奇なるストーリーがあるんじゃないか。なんて妄想を膨らませることも古書を巡る旅の楽しみの一つである。



Sir Stafford Henry Northcote. Bart (1818~1887)
Wikipediaより




2025年6月2日月曜日

「MAGAだよ!」と君が言ったから6月2日はファントム記念日 〜あれから57年、九州大学も米軍板付基地も、そしてパクスアメリカーナもどこかへ行っちまったねえ〜

 あれは今から57年前の1968年6月2日の出来事だった。九州大学に建設中の大型電算機センターに板付基地に着陸しようとした米軍のファントム戦闘機が墜落炎上したのは。人的被害は出なかったのが不幸中の幸いであったが、ベトナム反戦運動、70年安保反米闘争、大学紛争真っ只中の時期に、学生運動の炎に油を注ぐ出来事であった。まさに「飛んで火に入る夏の虫」。それ見たことかと一気に反米闘争が盛り上がった。そもそも九州大学は(戦後にできた)米軍板付基地の侵入路の直下にあって、離発着機の騒音でしばしば授業が中断されるという全国、いや全世界でも稀な環境の大学で、いつこういうことが起きてもおかしくなかったのだが、よりによってこんなタイミングに!

その後、米軍基地は1972年に返還されたが、板付飛行場は民間の空港へと変身。都心に近い日本一発着密度が高い福岡国際空港になり、今年には滑走路も2本に増えて騒音と危険度は以前にも増して高まるばかり。とうとう九州大学はこの建学以来の伝統あるキャンパスを放棄して糸島の田舎に移転してしまった。かくして更地になってしまった旧帝国大学跡地にはぺんぺん草が。くだんの電算機センターも綺麗さっぱり取り壊され痕跡もない。

それにしてもあの頃の学生運動のエネルギーはすごかった。「孤立を恐れず連帯を求めて」。その学生が社会に出て企業戦士に。「24時間戦えますか」。そうして高度経済成長、グローバル化の嵐の中で悪戦苦闘し、「世界に冠たる経済大国!」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。やがてバブル崩壊で思考停止の30年。あの時の血気盛んな学生も、いまや燃え尽きた「昭和老人」に成り果ててしまった。あの大学キャンパスは「夏草や兵どもが夢の跡」。あのアメリカはもうファントムを他国で飛ばす余力も気力もないだろう。「オレは同盟国に搾取されてきた!」などと喚きながら、「自分さえ良ければ良い」America First! そして混乱を世界中に撒き散らしながら、関税というオモチャで遊び旧友を痛めつけてドヤ顔。MAGA引き篭り老人に成り果てる。さらばアメリカ帝国主義、さらばファントム、さらば憧れのアメリカ。

「MAGAだよ!」と君が言ったから6月2日はファントム記念日

「諸行無常」「驕れるものは久しからず」



1968年6月2日夜 米軍ファントム戦闘機、九州大学に墜落炎上(西日本新聞)

一夜明けて(朝日新聞)

突き刺さったままの米軍機(毎日新聞)