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2025年1月18日土曜日

古書を巡る旅(60)『The Comedies, Tragedies, and Operas』John Dryden 〜「ドライデンの時代」の劇詩集〜

 

ドライデン肖像と表紙


今回紹介する古書は17世紀イギリスのジョン・ドライデン:John Drydenn (1631-1700)の劇詩全集である。「ドライデン『喜劇・悲劇・オペラ』全集 揃2巻 ロンドン刊」出版・販売元はロンドンのジェイコブ・トンソン:Jacob Tonson。35*22cmの大型フォリオサイズでエンボス加工された豪華な総革装の古書である。貴重な1701年の初版である。イギリス文学史の一時代を築いたドライデンのオリジナル劇詩集という内容はもとより、その書籍自体が醸し出す風格は歴史的な工芸品と言って良いほどのオーラを放っている。初版から320年。21世紀の東京、神保町の北澤書店で「発掘」された。


総革装エンボスの大型本


第1巻表紙
第二巻表紙
ドライデンの真骨頂「劇詩論」

「アンボイナ事件」を題材にした悲劇

John Dryden (1631-1700)

ジョン・ドライデンとは

著者のドライデン:John Dryden(1631-1700)は、17世紀後半、イングランドの王政復古時代に文壇の大御所として名声を博した人物である。多くの詩・韻文、戯曲、批評、翻訳を発表し、この時代はのちに「ドライデンの時代」と称されるようになる。1668年には王室桂冠詩人に、また1670年には王室年代記編纂官に選ばれる。しかし、彼はその時代の権威者のもとで主流となる政治信条、宗派を信奉するなど、日和見主義者との批判も受けたことでも知られる。クロムウェルが護民卿となりイギリスで初めての共和制を引いた時には、ケンブリッジを出たばかりのドライデンは、彼自身がピューリタンの家系に生まれたこともあり、クロムウェル政権を熱烈に支持しその共和制政権に加わった。1658年にクロムウェルが亡くなると、彼の葬儀に共和主義者であったジョン・ミルトン:John Milton (1608-1674)と共に参列し、彼を礼賛する頌徳文「Heoique Stanza」を捧げている。しかし1660年に王政復古でチャールズ2世が亡命先のフランスから帰国しイングランド王に即位すると、今度は新国王に祝意を表すため「Astraea redux」を献辞している。そして、チャールズ2世の弟で、カトリックを信奉するジェームス2世が即位すると、カトリックに改宗している。しかし、1688年のいわゆる名誉革命でジェームス2世がフランスへの亡命し、代わってオランダ統領であったオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)とメアリー2世が即位すると、イギリスにおける政治体制が「権利章典」による立憲君主制へと移行し、国教が英国国教会となる。ドライデンはカトリックから改宗しないまま王室桂冠詩人の地位を失う。政治と宗教と文筆活動が密接に結びついていた時代である。ただドライデンはその政治的キャリアを失い、失意の人となったが、その後も強かに作品を発表し続けた。


「ドライデンの時代」とは

「ドライデンの時代」は、王政復古:Restration後の文芸、演劇が活況を呈した時代である。その中心にドライデンがいた。クロムウェル共和政時代は、清教徒的な禁欲主義政策で劇場や演劇が衰退した時代であった。エリザベス朝の精華とも言うべき、シェークスピアやベン・ジョンソンすらも演じられなくなる。しかし、チャールズ1世の帰国と王政復古により、停滞していた演劇を中心とする文芸活動が一斉に復活し、音楽界ではヘンリー・パーセル:Hnery Purcellのような天才が見出される時代であった(古書を巡る旅(59)Orpheus Britannicus by Henry Purcell)。むしろ贅沢三昧の宮廷の風潮を背景により享楽的な風刺詩や劇が生まれるなど一種の反動の時代と言って良いかもしれない。こうした時代にドライデンは多くの叙事詩や英雄詩や、時代を辛辣に語る風刺詩:Satierで名声を博した。また劇詩論:Dramatic Poesiesにより演劇評論を展開し、この時代の文壇の大御所の名を欲しいままにした。そうした活躍から1668年には「王室桂冠詩人」に選ばれた。60年代から70年代にかけては劇場用作品の執筆が中心で、彼の作家としての主な収入源となった。「当世風結婚」:Marriage A-La-Mode1672のような喜劇や、当時のオランダとの海洋覇権をめぐる戦争を背景にした歴史悲劇「アンボイナ」:AMBOYNA 1673、「全て恋ゆえに」:All for Love1677などの悲劇が代表作で成功を収めた。また敬愛するミルトンの叙事詩「失楽園」の劇詩化に取り組み、The State of Innocent 1674~1677を発表する(古書を巡る旅(21)ミルトン「失楽園」)。一方で劇作家としての名声が高まるとともに、むしろ劇場外で詩人としての名声を得ようと努力した。「アブサロムとアキフェルト」1681のような風刺詩において秀逸な作品を残した。1682年には国教会の立場からイエズス会とカルヴィニズムの両極端を批判する風刺詩「平信徒の宗教」:Religio Laiciを、また、当時シャフツベリー卿により主導された反王党派のホイッグ党を批判する風刺詩「メダル」:The Medalを出している。ドライデンは王党派の詩人である。しかし彼が開いた独特の風刺詩の境地は、同時代のアレクサンダー・ポープ:Alexander Pope (1688-1744)や、後世のサミュエル・ジョンソン:Samuel Johnson (1709-1784)に大きな影響を与えた。ジョンソンは彼を「イギリス文学批評の父」と賛美した。また当時の作曲家によりオペラや歌曲として後世に名を残すことになるドライデンの頌歌も忘れてはならないだろう。同時代のヘンリー・パーセルとの共作であるオペラ「アーサー王」:King Arthur 1691年のほか、ヘンデルが1736年にドライデンの詩を原作とした「アレキサンダーの饗宴」:Alexander's Feastを作曲。これは「メサイア」に並ぶヘンデルの代表作の一つとなっている。

このように「ドライデンの時代」とは、王政復古後のイギリスの文学の一つの頂点の時代であった。それはシェークスピアやミルトンという時代の画期を成した人物の次に現れたドライデンのそれであった。しかし、先述のように、彼の評価はその時代の政治情勢や宗教対立と無縁ではなかった。ミルトンに心酔しクロムウェルを支持したピューリタンのドライデンは、王政復古とともに王党派の詩人となった。そしてカトリックに改宗する。ゆえに名誉革命で失脚する。まさに「ドライデンの時代」は「イギリス革命の時代」と表裏一体であった。同じく激動の時代に巻き込まれた哲学者/大法官ベーコン(徹底して王権に追従し、ポープが「最も偉大で最も卑しい」と評した)や、詩人ミルトン(ピューリタン、共和主義者として王政復古後悲惨な晩年を送った)のような後世に受け継がれる名声をドライデンは勝ち得たのだろうか。時代の寵児、ビッグネームがのちにイギリスで久しく忘れられることになった理由は何か。


日本におけるドライデンの受容

我々日本人にとって、ドライデンは比較的馴染みの薄いイギリス作家である。シェークスピアやミルトンの作品は知っていても、現代まで語り継がれる彼の代表作は何かと問われると思いつかないだろう。なぜなのか?イギリスにおいてもドライデンは、19世紀ビクトリア朝時代には評価されなくなり、取り上げられることが少なくなっていた。その再評価がなされたのは20世紀になって、T.S.エリオット:Thomas S. Elliott (1888~1965) が、ドライデンの政治的、宗教的変節にもかかわらず「ドライデンの存在が全ての18世紀のイギリスの詩の元祖であり、彼なくしてイギリスの数百年に及ぶ詩の歴史を正しく評価することはできない」と礼賛したことによると言われている。したがって19世紀後半(明治期)に欧米の文化を盛んに取り入れた日本では、御雇外国人教師でドライデンを取り上げることも稀であったことだろう。ドライデンの作品や業績があまり伝わることもなかった。したがって翻訳者も研究者も少なかった。英国留学で多くの英文学作品を研究し、持ち帰った夏目漱石もドライデンをほとんど取り上げていない。シェークスピアの翻訳を手がけ、日本の近代演劇の祖ともいうべき坪内逍遥もドライデンの劇詩、演劇評論を取り上げていない(翻訳論でドライデンの影響を受けたとする研究がある。「坪内逍遥におけるドライデン受容の研究」佐藤勇夫1981年)。ビクトリア朝イングランドのドライデン評価が端なくも明治期の日本の文学界に映し出されている。今でも日本におけるドライデン研究者は多くない。最近では、ドライデンを翻訳論や演劇評論の研究対象として取り上げる若手の研究者がいる。彼は詩人、劇作家としてだけではなく、先述のようにギリシア、ローマなど古典の翻訳家としても活躍し、また演劇評論やジャーナリズムのなかった時代に演劇批評家としても活躍した。現代の演劇論、演劇批評のルーツとして、あるいは古典翻訳方法論の開拓者として評価する研究が進んでいるようだ。今回の書籍を「発掘」していただいた北澤書店の先代の店主、北澤龍太郎氏は、東京帝大英文科出て、お茶の水女子大学や都立大学で教鞭をとった英文学者で、日本では数少ないドライデン研究者であった。今回、そんな北澤書店にゆかりある由緒ある古書を手にすることができたのは誠に光栄であり、この歴史的な書籍を後世に次いでゆく責任を痛切に感じる。


職業作家と出版事業者の出現

ところでドライデンは王室桂冠詩人という栄光の座を追われてから、どのように著作活動を継続できたのだろう。桂冠詩人は国や宮廷のためにかなりの量の詩作を求められる代わりにその名誉と収入が確保(大した額ではなかったとも言われるが)されていたわけだが、桂冠詩人の地位を追われるということは、作家として詩人として収入の途が閉ざされることになるわけだ。この頃から詩作から離れて戯曲、翻訳(翻案)作品に力を入れた。しかし、戯曲の方はあまり成功せず、収入が乏しかったようだ。そこで転じて古典作品の翻訳家として、1697年ローマ時代の「ウェルギリウス全集:the Works of Virgil」、ホメロス、ホラチウス、ボッカチョ、チョーサーなどの古典の翻訳、というか韻文で翻案した「古今寓話集:Fables, Ancient and Modern」1700年を出す。以前のブログ(古書を巡る旅(17)「聖フランシスコ・ザヴィエル伝」)で紹介した「ザビエル伝」1688年もこうした翻訳作品の一つである。こうした作品を世に売り出せるようになった背景に、新たに台頭してきた出版事業者の存在がある。

この時代には出版事業が発達して、文筆を生業とするいわば職業作家が生まれた時代である。それまでの17世紀中葉(清教徒革命以前)は、詩や散文などの文芸作品は貴族や聖職者などの上流階層の嗜み、あるいは政治的な意思表明の文書として書かれ、出版人は存在したが、限られた上流階級コミュニティーに配布されるにとどまり、それを多くの人々が読むことはこと稀であった。また印刷法という出版を統制する法律やそれを執行する星室庁などの言論統制機関があって、文芸作品を誰もが自由に印刷したり出版したりすることはできず、出版事業は宮廷や教会とそこにつながる印刷、出版人(組合)が取り仕切る世界のものであった。詩作や論文、そして出版は密接に政治や宗教にリンクしていた。しかし、これを壊し「出版・言論の自由」の空気を生み出したのが1649年の清教徒革命であった。この革命は、先述のようにピューリタン的な禁欲主義の影響で、演劇や音楽、文芸活動の衰退を招いたが、一方で、皮肉なことに王政復古後、いわば「出版の自由」の勢いに火がつき、結果的に読者層も新興のジェントリー層や都市富裕層などに拡大し、商業活動としての出版事業が成長産業になっていった。先述の印刷法も星室庁も1696年には廃止される。こうした規制緩和と宮廷や貴族といったパトロン、政治や宗教といった束縛からの脱却により、作家にも自由な著作活動と出世のチャンスが生まれ、いわば新たな「文芸復興」の時代になっていった。同時代の詩人、アレクサンダー・ポープなどはその一人であったと言われる。彼はドライデンに影響を受けた当代一流の詩人であったが、桂冠詩人でも、宮廷の官僚の地位にあったわけでもないので、自由な立場から批判的詩作、彼独自の視点による古典翻訳に取り組み評価を得るようになっていった。当然、有力なパトロンも少なく経済的には困窮していた。しかし、ポープは「イリアス・オデッセイ集」の翻訳や、「シェークスピア全集」の編纂などの大作を出したことでも知られている。これを可能にしたのは出版・販売事業者:Publicher/Booksellerの存在である(この頃は出版と書店が未分化であった)。ポープは出版事業者と手を組み、作品の原稿を書くときに、事前に予約を募りお金を集め、出版時に予約者に本を渡す方法をとった。出版人にとっても事前に出版費用が手に入るし、それを元に印刷業者:Printerに発注できる。また出版人に代わって作家自体が売り歩くわけで、富裕層を新たな読者層として開拓できるメリットがあった。17世紀のクラウド・ファンディングと言っても良いかもしれない。


ドライデンとトンソン

桂冠詩人の地位を失ったドライデンもこのモデルを取り入れて、すでに得られていた名声を生かして第二の創作活動人生を歩んだ。ロンドンの著名な出版人で、のちに「近代出版事業の父」と呼ばれたジェイコブ.トンソン:Jacob Tonson(1655-1736)と組んで、ミルトンの「失楽園」舞台版などを売り出した。先述の「ザヴィエル伝」もトンソン出版だ。今回紹介する本書もドライデン没後の1701年にトンソンにより出版、販売されたものである。この二人は新しい出版編集企画を生み出し、まず共同作品とも言うべき「英国詩歌集」全6巻:The Dryden-Tonson Miscellanias 1684-1709を世に出す。これはドライデンを編集者としたアンソロジー集である。続いて先述の「ウェルギウス全集」「古今寓話集」といった古典の翻訳、翻案作品の出版を手掛け、トンソンはドライデンを著名編集者として売り出し、複数の訳者を集め、連載シリーズで出版する。いわばサブスク型の出版物を生み出した。こうして出版が商業的にも成功を収めることができる事業であることを証明した。もっともドライデンの方は自分の取り分が少ないとトンソンにクレームする手紙が残っているようだ。ともあれトンソンは著名作家や編集者と組む出版事業の新しいビジネスモデルを作った人物と言われている。またシェークスピアの版権を買い取るなど事業を拡大し、当時の文化サロン「Kit-Cat Club」を創設したことでも知られる。これまでの宮廷や教会、それと結びついた出版事業者というクローズドな世界、パトロン依存の芸術や著作活動から脱却する、いわばイギリスにおける新たな出版文化の開花といっても良いかもしれない。ちなみに今年の「大河ドラマ」で話題となっている江戸の出版人、蔦屋重三郎出現の100年前の話である。


Jacob Tonson (1655-1733)


参考:本書収蔵内容

(巻1)

An Essay of Dramatic Poesie :劇詩論 1668

The Wild Gallant 野生の色男  1663

The Rival Ladies

The Indian Emperour, or The Conquest of Mexico 1665

Secret-Love, or The Maiden Queen

Sir Martin Marr-all, or The Feign'd Innocence

The Tempest or The Enchanted Island  テンペスト 1667  シェークスピア作品の翻案

An Evening's Love, or Mock-Astrologer 1668

Tyrannick Love, or The Royal Martyr 1669

The Conquest of Granada グラナダの征服 1670

Marriage A-la-Mode 当世風結婚 1672

The Assignation, or Love in a Nunnery

AMBOYNA  アンボイナ事件 1673

The State of Innocence and Fall of Man ミルトン「失楽園」のオペラ台本 1677


(巻2)

Aurenge-Zebe or The Great-Mogul ムガールの大王 1675

All of Love or The World well Lost 1677

Limberham or The King Keeper

OEDIPUS 1679

Troilus and Cressida, or Truth Found too Late

The Spanish Fryar, or The Double Discovery

The Duke of GUISE

ALBION and ALBANIUS 1685 オペラ台本

Don SEBASTIAN King of PORTUGAL 1690

AMPHITRYON 1690

CREOMENES The Spartan- Hero

King ARTHUR, or The British Worthy  アーサー王 1691 ヘンリー・パーセル作曲セミオペラ

Love Triumphant, or Nature will Prevail




次回に続く:

1)劇詩論:Dramatic Poesies

オランダとの英仏海峡での海戦、という政治情勢下での演劇議論
四人の人物が、古典劇、フランス劇、英国劇についてその長所を討論を交わす

2)アンボイナ事件:AMBOYNA

1623年に東インド(現在のインドネシア)のジャワ島のアンボイナで起きたオランダとイギリスの商館をめぐる事件。
イギリス商館長とイギリス人、日本人、ポルトガル人20名がオランダ人によって虐殺された。これをきっかけにイギリスは東インドから撤退、日本の平戸商館も閉鎖する。
当時海外で日本人傭兵が活躍していた様子が描かれた貴重な作品