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2016年4月5日火曜日

大和路桜紀行(2)春雨にけぶる當麻の里に桜を愛でる


當麻寺護念院のしだれ桜
背景は二上山

 大和路桜紀行の二日目は雨であった。暖かい春の雨であった。ネットで調べると、長谷寺(長谷寺の桜)も大野寺の枝垂桜(大野寺の枝垂桜)も満開になったとの報。しかし、雨の似合う桜はやはり大宇陀の又兵衛桜か當麻寺の枝垂桜だろう。長谷寺も大野寺も両方ともこれまで毎年訪れているので今回はパスしよう。大宇陀の又兵衛桜も一昨年訪問して、雨に佇むその孤高の美しさに息を呑んだ。さらに人知れず咲き誇る天益寺の枝垂桜の華麗さにも心奪われた(大宇陀の又兵衛桜)。しかし、今回は、まだ満開には間があるのと、十分な観賞時間が取れないことから見送ることにした。

 そこで満開となった當麻寺のしだれ桜を訪れることとした。當麻寺は飛鳥古京から見ると西の方角、東の三輪山の真西の二上山の麓に建立された。しかしその建立の由来、伽藍配置、ローケーションに謎が付きまとう不思議な寺だ。もちろん中将姫の曼荼羅伝説もミステリアス。曼荼羅浄土信仰が盛んになり、真言宗寺院でありながら浄土宗共立の寺になった。その詳細については以前書いた下記のブログを読んでいただきたいが、私の大和古寺巡礼の中でも最も心静まる寺の一つだ。なんといっても飛鳥人、みやこ人が憧れた西方浄土を望む土地、夕日の沈む二上山山麓、大和国と河内国の境というその立ち位置、そして里の佇まいがなんともよい。今の季節は有名な枝垂桜だけではなく、美しい花のご坊、西南院のシャクナゲも咲き始めた。護念院のハクモクレン、花蘇芳、椿、山茱萸と桜のコラボレーション。やがては中之坊庭園の芍薬、牡丹... どれを取っても心洗われる。

 そして何よりも里の春。大和路の古刹にはその周辺になつかしくなるような美しい里がある。ここ当麻の里は當麻寺を中心に二上山の麓に美しく静かに佇む村里だ。ようやく春を迎えて田植えまでまだ時間がある。静かな田園風景はこれから始まる豊穣の時を迎える準備が静かに進行しているのだろう。あたりは野の花が咲き乱れ、木々の芽吹きの季節を迎えている。山桜、スモモ、花桃、レンギョウなどが雨にけぶる二上山を背景に咲き誇っている。あまり自我を主張しないこれらの花々は、日本中が桜満開に沸くの桜狂騒曲の裏方だ。私はこうした裏方の楚々とした美しさに心惹かれる。やがて桜が散ると、瑞々しい新緑の季節を迎える。ワクワクする季節だ。

 追記:今回は、近鉄當麻寺駅前の中将餅をめでたく入手できた。いつもだと帰りに買おうと思って店に寄ると売り切れていることが多い。この店で自然素材だけでの手作りなの人気がある。この素朴だが豪華なよもぎ餅を食すたびにこの當麻の里を思い出す。

参考:2014年9月のブログで「當麻寺の謎」について解説しています。

   當麻寺の謎 〜豊穣の時を迎えた當麻の里を散策〜 




日本最古の三重塔二基
西南院庭園より


雪柳

白木蓮

雨に濡れて

椿
花蘇芳
石楠花
なんとカラフルな...
西南院庭園
山茱萸(さんしゅゆ)
護念院庭園
雨にけぶるしだれ桜
護念院

護念院


護念院庭園
枝垂れ桜



護念院全景

當麻寺曼荼羅堂(本堂)

當麻寺境内

當麻寺参道

竹内街道
ツバキ

當麻の里の春

雨にけぶる二上山
レンギョウ

葉牡丹

スモモ

二上山



2016年4月4日月曜日

大和路桜紀行(1)氷室神社・東大寺・若草山・春日大社

氷室神社のしだれ桜
奈良で一番に満開となる


 3月下旬から4月初め、毎年この季節になると、慌ただしくて心が落ち着かなくなる。木の芽時で精神状態が不安定になるからではない。年度末と新年度開始という会社人間にとって節目の時期であるという理由でもない。そう、今年は桜がいつ開花するのか?いつ満開になるのか?雨は降るのか?人出は如何に? ニュースと天気予報に食い入る毎日だ。桜を堪能できる時間は短い。その限られた時間で最大限桜を楽しもうという忙しさ。まさに桜狂想曲の始まりだ。連日SNSは桜の話題が満載だ。

 今年は3月20日頃に開花したものの、寒の戻り、冷たい雨などで、結局満開は4月に入ってから。2、3日の週末に一気に気温も上がり満開となった。しかし例年よりも遅い満開である。しかも、冷たい雨が金曜日に降った。花見宴会組には厳しい状況であった。

 私の今年の「日本の原風景、桜を求める旅」は奈良大和路と決定。いつも「桜紀行は京都へ」を考えないわけではない。今年も当然考えたがこの季節に京都の桜の名所は凄まじいことになることは想像に難くない。関西在住時には醍醐寺や嵐山、三尾の桜を楽しんだものだが、桜を見に行ったのか、人を見に行ったのかわからない混雑ぶりに突入するなら、何も京都くんだりまで足を伸ばさなくても東京の桜の名所で十分だ。基本的に、人出を避けて静かに桜花を愛でる、というこの時期相矛盾した条件を満たそうとするからいつも苦労する。大勢の人が出てワイワイやってる花見を楽しむのも一興だが、理想は人知れず咲き誇る山里の桜観賞なのだ。

 新大阪行きの新幹線車内、そして到着した京都駅構内、その外国人観光客の怒涛のような有り様を見れば、この時期に限って京都が私にとっては「心の旅」を求めて出かけるところではないことが理解できる。今話題の爆買い中国人御一行様ほか、韓流カップル韓国人御一行様、そしてナイコンを首から下げたバックパック欧米人御一行様も、今年は半端でなく発生している。新幹線のグリーン車はほぼ「欧米か」に占拠されていた。ちなみにめでたく「ジパング倶楽部会員」となった私は、3割引料金で「ひかり」のグリーンに乗れる特権を享受しているわけだが、考えることは皆同じ。シニア世代の団体、カップルが大勢グリーン車の客となっている。しかも訪日外国人はジャパンレイルウェーパス(昔ヨーロッパ旅行に必須の一等車に乗れるユーレイルパスと同じ)を持っているので、これまた団体、個人を問わず大挙して「ひかり」グリーン車に押しかけてくるというわけだ。

 この一団が申し合わせたように、ドット京都で下車する。「京都の桜も捨てがたい」という未練がましい迷いを振り払うことにする。ということで混雑「想定内」の京都を避け、やはり奈良大和路へ。京都駅から近鉄に乗り換えた。しかし、チと「奈良は意外に穴場」想定が甘かったことにすぐ気づかされることになる。今年の奈良はいつもと違った。奈良公園、大仏殿、春日大社などの定番スポットは、これまた外国人観光客に占拠されている。東大寺の駐車場には大型観光バスが列をなしている。道という道は大渋滞。いつもなら幅を利かせている関西弁も、ナンチャッテ「東京弁」も影を潜める。聞こえてくるのは北京語、広東語、台湾訛りの中国語、韓国語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、それに不可思議なヨーロッパ諸国語ばかり。とうとう訪日外国人が年間2000万人を突破したというから、奈良ももはや「意外な穴場」ではない。観光客がみんな京都に吸い取られる時代は終わったようだ。いや京都から溢れ出始めたのかもしれない。経済効果としては嬉しいことだし、日本ファンが増えることも嬉しい。

 しかし、私の密やかなる楽しみ、心の大和路紀行が「観光客」に踏み荒らされるのはいやだ。外国人かどうかに関わらず、そもそも「観光客」というもの自体が、けたたましくも品がない。旅は人を開放的にするし、それはそれで良いのだが、ともすれば「旅の恥は掻き捨て」。受け入れる側もそんなこと分かっていて、「おもてなし」「Welcome!」「歓迎光臨!」といいながら、「金落とせ!」「Spend more money!」と、これまた品がない。日常を離れて非日常の世界を楽しむためにやってきたこの私、品格が服着てカメラ持っているような(!?)この私としては物欲煩悩の世界をここでも見せ付けられるのは楽しくない。旅という非日常の中、その土地の日常をひっそりと楽しみたいのだが。桜の季節は限られているだけにこうしたジレンマに苛まれることになる。どこかから「勝手な観光客はお前だろ!」という声が聞こえたような気がした。

 ともあれ、奈良で一番に開花、満開となる氷室神社のしだれ桜を観賞し、東大寺大仏殿脇の、いつもの二月堂への道を歩く。そこからは勝手知ったるルートで若草山、春日大社、春日若宮、禰宜の道をぬけて新薬師寺、高畑町界隈を散策。入江泰吉記念館は本日休館日。残念。ということで足早に奈良市内を後にして、翌日は当麻寺、明日香へ向かうつもりだ。さすがにここまでくると外国人観光客はいないだろう。もっとも近鉄桜井駅で、欧米観光客の一団がガイドに伴われて移動するところに遭遇してしまった。すごいな!何見に来たんだろう。まさか邪馬台国ツアーじゃないよな?! こうしてやがては穴場は穴場として有名になり、もはや穴場で無くなって行く。

柳の新緑が美しい大仏殿

大仏殿参道

二月堂へ向かう道
コブシの巨木

二月堂へ向かう道
南大門、大仏殿の喧騒を離れて静かに散策できる

若草山から大仏殿

興福寺五重塔が

春日若宮
椿が盛りだ


春日大社の燈籠
新薬師寺への道
レンギョウの黄色が桜と良いコントラスト
ここまで来るともはや観光客の姿はない







2016年3月14日月曜日

私の「三都物語」 〜「青い鳥」を求め Tokyo、London、New York、そして... 〜

 夢を求めて故郷博多を離れた私は東京へ。そしてそこからロンドンへ、ニューヨークへ。まさに「昨日、今日、明日」の「三都物語」が書ける人生であった。今思えばそれは長い旅路であったような、短い一瞬の出来事であったような。グローバルな24時間ノンストップ金融市場、その三大センターを渡り歩いた訳だ。その間、金融市場としての東京の地位は大きく低下したものの、それでも世界を代表する経済センターの一つであることにかわりはない。その三都というステージで広い視野を養い、日本のICTをworld class serviceとして世界視野で展開するという、高い目線で仕事をすることができた。とりわけ、あの高度経済成長の時代が終焉を迎え、少子高齢化が急速に進むなか、日本国内市場の成長の先行きが見えた。不可避的に海外市場への進出を選ばざるを得ない事業環境。加えて基幹サービスのコモディティー化に伴い、高付加価値サービスを求めて異なるレーヤーのサービスへの進出し、ビジネスモデルイノベーションに挑戦することが求められる経営環境。その双方の要請からもグローバルな事業展開を20年前にいち早く着手したことは、先見性があったものと自負できる。そういう意味ではビジネスマンとしての幸せの「青い鳥」に出会うことができたと言って良いだろう。

 しかし、私の「三都物語」は何の予告もなく終わりを告げる。ニューヨークにいた私は、突然日本に引き戻された。一本の事務的な電話で。

 帰国後の会社人間としての人生は、これまでのような膨らむ勝利への期待と、それに付随するリスクがないまぜとなるようなワクワクするものではなかった。いわばリタイアーに備えた閑職。しかも帰国するとまもなく大阪へ異動させられた。もちろん大阪が国内事業の重要な拠点であることは間違いないが、海外事業畑の私にとって「なんでやねん」の転勤だ。周囲の人々の驚きもモノかわ、人事異動は淡々と進められてゆく。経済的には定年までのサラリーマン人生を不自由なく過ごさせてもらったので文句言う筋合いではないのだろうが、もはや新しいプロジェクトを企画し、事業を起こし、それをリードする立場にもなく、新任地はそういったロケーションにもない。海外で築きあげた人脈や経験を生かす術はもはやない。結局、「組織人」たるサラリーマンは「ビジネスロジック」だけで動かされるのではない。組織には経済合理性だけではない様々な確執が存在し、そこには別の「えも言われぬロジック」が働くものだ。従っていまさらそれを理不尽だとか、不合理だとか言って嘆くつもりもない。

 いずれにせよ、時差をモノともせず広い世界を飛び回る生活、異なるメンタリティー、多様なビジネススタイルの人たちとのつばぜり合い生活は突然終わった。これまでしゃにむに走り続けていた自分が、前のめりに転びそうになるほどの急ブレーキであった。毎日定刻に出社して定刻に帰るという、「スーダラ」サラリーマン生活の経験はこれまでない。昭和型「モーレツ」サラリーマン生活(その時はそうは思わなかったが、振り返って切るとアレが「モーレツ」だったんだと)と、多くの時間を空港と機内で過ごす「国境なき」サラリーマン生活を過ごしてきた。その落差は急激なものであった。大阪本社ビルの最上階に役員個室が用意され、毎日秘書が運んでくれる新聞を読み、お茶を飲み、法令で求められる形式的な会議に出席する。文字通り「窓際」から大阪の街を展望するのを心の癒しとする。マンハッタンのオフィスから展望する都会の景色とある意味で重なる部分もないではないが、その心象風景は大きく異なる。ぽっかり空いた心の空白。なんと平和で居心地の良い「座敷牢」生活...

 しかし、そうして心のカタルシスを強制され、煮えたぎっていた血肉、熱き心が冷めて行くにつれ、私の脳は戦時モードから徐々に平時モードへリセットさてれていった。そう、彼らの筋書き通りに事は運んだ。そこで私は、新しい世界を発見した。路傍に咲く雑草のたくましさ、名も無き花の美しさに気づいた。いや、普段見慣れたはずの風景に今まで気づかなかった新しい価値、美を再発見した。関西という土地柄はそういうリハビリには誠に適切な時間を提供してくれる。ここはなんというculture richな土地柄だろう。ここに佇み、たっぷりとした時間を過ごすと、日本という国・社会の成り立ち、世界史の中での立ち位置が見えてくる。そのはるか時空の線上にはナニワ、ヤマト、ミヤコ、そして遡ればはるかにツクシが見えてくるではないか。稲作農耕社会たる弥生倭国の姿が浮き上がってくる。美しい風景はただ美しいだけでなく、それは長い時間の経過のなかで熟成され、そこに育まれた文化と、人間の欲望に基づく闘争の歴史によって形作られた原風景なのだから。そこには短い時間の中で移ろいゆく栄枯盛衰の繰り返しではなく、変わらぬ不動の時間が確かに存在している。

 こうして日本の文化と歴史というこれまで当たり前で、振り返ってみようともしなかった世界をふと垣間見てしまった。「日本の心」などという日本観光のキャッチフレーズのようなキーワードがリアルに蘇ってきた。そうだ、これからは使用言語を英語から関西弁に切り替えて、大阪、京都、奈良という新たな三都物語を紡いで行こう。それはその先にある博多・太宰府という筑紫倭国の世界へと繋がってゆく。こっちは博多弁、ネイティヴ言語だ。ユーラシア大陸の東の果ての海中に存在する日本、倭国という小宇宙。それは私の人生にとっての「新しい冒険のパラダイム」。再び「ワクワク」の世界が広がってきた。

 幸せの「青い鳥」は遠くの見知らぬ異国にいるのではなく、この日本という身近なところにいた。故郷を出て「青い鳥」を探す旅路の果てに夢半ばで帰り着いた故国に、それを再発見した。だが、話はそこで終わらない。 メーテルリンクの「青い鳥」は、最後には自宅のカゴから逃げ出していなくなってしまう。結局は、この話はよく解説されているような「遠くの幸せを夢見るのではなく日常の生活の中で幸せを見つけよ」という単純な教訓話ではない。真理の探究心はとどまるところを知らず。やはりハングリーに新たな三都物語を目指して旅立つしかないのだ。

追記:

 これまでの自己意識は、戦闘モードに耐え抜き、結果を出して他人に認められる(認めさせる)、すなわち他人による「承認」を求める精神構造に基づいている。しかし、過ぎさって見ると「他人の承認」ではなく、「自己の承認」という自らの普遍の価値の発見に向かう自己意識があることに気づき始める。それは人との競争、共存やコミュニケーションからではなく、自らの内面の観照から生まれるものである。それは時として孤独な世界に引きこもることになりがちではあるが、人が認めるものが良いものなのではなく、自分が良いと思うものが一番良いという意識、精神構造に基づく自己意識である。これは煩悩からの解脱とも違う。唯我独尊とも違う。まして価値絶対主義でもない。普遍的価値というものも実は相対的なものである。人が認める普遍性と、自分が認めるものが異なっていることは常にある。しかし、いわば人の評価に依存せず、自分の評価に基づいて自分の普遍的価値を見出すよう物事を意識して行こうということだ。



我々日本人はどこから来てどこへ行くのだろう
過去から未来へという時の流れの「今」という一瞬を切り取ることはできるが...

縄文遺跡「大森貝塚遺跡」にて





2016年2月25日木曜日

妙心寺退蔵院再訪 〜そして太宰府観世音寺の兄弟梵鐘に再会〜

妙心寺山門


 京都花園の妙心寺は、室町時代の1342年、花園天皇が落飾して法皇となり、花園御所に開基した寺である。山号を正法山という。臨済宗妙心寺派の総本山。全国の臨済宗6500ヶ寺のうち3500ヶ寺を有する最大の宗派の総元締めだ。鎌倉時代に栄西が中国から臨済禅を持ち帰り、最初に我が国に創建した禅寺が博多の聖福寺である事は以前のブログでも述べたが、この「扶桑最初禅窟」聖福寺も、のちの江戸時代に筑前藩主黒田家の意向で、建仁寺派から妙心寺派に変わっている。

 妙心寺は七堂伽藍、40余の塔頭からなる広大な境内を有する京都でも有数の大寺院である。しかし、京都五山の一画を占める禅寺ではない。室町幕府は主要な臨済宗の禅寺を庇護・統括するために五山十刹を指定した(南禅寺を五山の上位に置き、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山といい、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の鎌倉五山とは分けて定めた。)。これらの寺は禅林と呼ばれた。一方これらとは別に林下と呼ばれる禅宗寺院があった。幕府の統制下から離れ、在野にあって厳しい修行を旨とする禅寺で、妙心寺や大徳寺はこの林下である。



堂々たる甍の伽藍群


法堂
ここに狩野探幽の雲龍図と国宝の梵鐘がある

(1)退蔵院

 妙心寺境内には40数か院の塔頭があり、広大な寺域はさながら寺内町の様相を呈している。石庭で有名な京の観光スポット、龍安寺も妙心寺の域外塔頭だと今頃知った。しかしそのなかで一般に公開されている塔頭は退蔵院、桂春院、大心院の三院のみだ。

 学生時代、わが故郷の筑紫太宰府の観世音寺にある日本最古の梵鐘と兄弟鐘が京都妙心寺にあると知り、歴史好きの私としては是非一度見ておく必要があると考えた。やはり冬の寒い時期であったと思う。博多から列車を乗り継いでの京都旅行でようやく訪問できたわけだが、肝心の梵鐘の方はあまりしっかり鑑賞した記憶が残っていない。たしか鐘撞堂に、観世音寺と同じ形の鐘を見て「ああこれか...」と思っただけだったのだろう。むしろその折に訪れた塔頭の一つ、退蔵院の枯れ山水庭園のシンプルで静かなな佇まいに心奪われてしまった。それ以来ずっと京都の侘び寂びイメージの原点として心に残り、いずれまた訪ねてみたいと思っていた。今日、ようやく45年ぶりの再訪となったわけだ。

 現在は結構有名な観光スポットになっているようで、この時も「京の冬の旅」と銘打ったツアー(シニア層ばかり)の一団で賑わっていた。となりの普段は公開していない霊雲院が限定特別公開中で、こちらはさらに賑わっていた。しかし境内に一歩入ると、建物内、庭園すべて撮影禁止。縁側や襖絵や柱にまで「撮影禁止」の張り紙がベタベタと貼られていて少々興ざめ。マナーの悪い撮影者から場の雰囲気を守ろうということなのだろうか。それとも... 何を守ろうとしているのかよくわからないが、結果的には禅寺の雰囲気が「張り紙」という雑念に邪魔されてしまった感が有る。残念だ。

 退蔵院の方は撮影OK。狩野元信作庭と伝わる枯れ山水の庭と、禅問答の公案を題材にした瓢鮎図(本物は京都国立博物館に寄託され、ここにあるのはコピー)が有名。この日は2月下旬のいかにも京都らしい冷え込み厳しい一日で、美しい花々や、桜、新緑、紅葉を楽しむ季節ではなかった。しかし禅寺に色彩を求める必要はなさそうだ。このモノトーンの観念的で抽象化された景色の中に様々な心象世界が見えてくる。ただ、東屋の脇に佇む紅白の枝垂れ梅と、黄色い花をつけたマンサクが精一杯に咲き誇り、控えめだが色を添えていた。なかなかよろしい風情だ。

 こうして禅寺という空間に佇み、冬枯れの庭園を眺めながら、学生の時からどれくらい成長した自分に出会えたのかはなはだ心もとない。だが、世界を駆け巡った忙しい社会人人生に区切りをつけて、資本主義のロジックと組織人のロジックの狭間で呻吟する世界から開放され、具体的かつ問題解決型(それを戦略的と言ってきた)の意思決定を強いられる日常からも離れ、抽象的な観念の世界の入り口に立ってみる。その先には、学生時代に見たものとは別の新しい宇宙が広がっているような気がした。まさに「小さな瓢箪で大きな鯰を捕まえるにはいかにすべきか」との問いは、これまで日々解決を求められてきた現世的煩悩にまつわる課題とは大いに異なることに気づかされた。


退蔵院


陽の庭

陰の庭

方丈

元信の作庭の枯れ山水
一般公開のエリアからは一部しか見えない

瓢鮎図:如拙筆
国宝 京都国立博物館蔵



(2)日本最古の梵鐘

 ところで妙心寺の梵鐘である。先ほども述べたように筑紫太宰府の観世音寺との兄弟梵鐘と言われている。鐘の銘文には698年文武天皇の時代に筑紫糟屋郡(現在の福岡市東区)で鋳造されたとの記述がある。鋳造年がわかる最古の鐘である。観世音寺の鐘と同じ型から鋳造されたものと考えられているが、最近の研究で、観世音寺の鐘の方が20年ほど古い鋳造であることがわかっている。両方とも国宝。現在、オリジナルは法堂に収蔵されており、鐘撞堂に吊るされているのはレプリカ。なんかお堂の片隅にひっそりと安置されていて、CDで音色を再生するのは寂しい気がする。老朽化が激しく保存のため致し方ないとはいえ。なぜかこれも「撮影禁止」。

 一方、太宰府観世音寺の梵鐘はほぼ創建時の伽藍配置にしたがった鐘楼に現在もつるされている。国宝が金網でこそ囲ってあるものの、風雨にさらされた屋外に普通の鐘然としてぶら下がっている。同じ年代なのにこちらは老朽化してないのだろうか?あるべき場所にある姿が、往時を思い起こさせて好きだが、ちょっと心配になる。この鐘は、毎年の大晦日の除夜の鐘としても親しまれている。また毎月15日の午後一時にも鳴らされる。「日本の音百選」にも選ばれている。妙心寺の兄弟鐘の現状を知るにつけ、1300年の時空を超えて今でも黄鐘調の音高を聞けるのは太宰府の里人の特権なのだということを知る。もちろん「撮影禁止」などの張り紙もないことは言うまでもない。


太宰府観世音寺の鐘楼。オリジナルの梵鐘が元の位置に置かれており、
毎月15日にはその音を聞くことができる。
妙心寺の鐘楼。中の梵鐘はレプリカ。
オリジナルは保存のため法堂に安置されている。

(3)兄弟鐘の謎

 考えてみると7世紀後期の飛鳥時代の鐘が、なぜ14世紀室町期に創建された妙心寺にあるのだろうか? 筑紫太宰府の観世音寺と京の妙心寺との間には距離的だけでなく時間的隔たりがあり、なぜ両寺が兄弟鐘を共有しているのか不思議だ。またどういった経緯で筑紫の糟屋郡で鋳造されたのか?そして筑紫生まれのこの鐘はどのように渡ってきたのだろう。空白の700年を辿ってみたい。

 鎌倉時代の吉田兼好の徒然草にこの鐘のことが触れられている。それによればこの鐘は京の淨金剛院という寺の鐘で、その音色は雅楽の黄鐘調である、と記されている。やがて時代は下り、室町時代に入ると淨金剛寺は後述のごとく廃寺となる。その鐘を地元の民が売りさばこうとして荷車で運んでいたのを、妙心寺の僧が見つけ引き取ったと言い伝えられている。

 ではその淨金剛院とはどのような寺なのか? 鎌倉時代、後嵯峨天皇が嵯峨離宮に創建した浄土宗の寺院だという。1272年の後嵯峨天皇崩御後はこの寺院に葬られた。またその子亀山天皇も崩御後はこの寺に埋葬された。そののち室町時代に入ると、寺域は足利尊氏が天竜寺を造営するために再開発され、その際に淨金剛院は廃絶された。さらに時代を下り、江戸時代になって幕府により山陵の特定作業が進められ、後嵯峨天皇陵、亀山天皇陵が現在の地に定められた。すなわちこの天皇陵があるところがかつての淨金剛院跡であるということになる。

 また鎌倉時代に著された「とわずかたり」という後深草院に使えていた女官の日記がある。ここに後深草院が淨金剛院の鐘の音を聴き、かつて平安時代に太宰府に流された菅原道眞が観世音寺の鐘の音を聴きながら読んだ漢詩「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繋/何為寸歩出門行(『不出門』)」の一節を口ずさんだとするエピソードが記されている。京の淨金剛院の鐘の音が、筑紫太宰府の観世音寺の鐘と同じ黄鐘調の音高であることを当時のみやこ人は知っていたのだ。この飛鳥時代の鐘の黄鐘調は「無常感」を表す音色であるという。後世に創建された京のみやこの他の寺の鐘の音と聞き分けられたのであろう。

 さて、この鐘の歴史を鎌倉時代までさかのぼることはできたが、淨金剛院に至るまでの500年余の旅路は依然として謎だ。そもそもどこの寺に奉納するために鋳造されたのだろう。7世紀末期に創建された筑紫太宰府の観世音寺は、天智天皇が筑紫で崩御した母である斉明天皇を菩提を弔うために創建した勅願寺であり、奈良時代には鑑真によって戒壇院が設けられるという「官寺」である。そこに奉納された梵鐘の片割れはどのように山城国葛野(かどの)の地(7世紀後期は飛鳥時代でまだ平安京も京のみやこもない)に運ばれたのであろうか。あるいは飛鳥京や近江京、藤原京、平城京あたりを転々とした挙句に平安京にたどり着いたのだろうか? 後嵯峨天皇はどこからどのような経緯でこの鐘を入手して淨金剛院に奉納したのか? 歴史の糸はここで再び途切れてしまった。ドラマのフィナーレじゃないが「この謎解きの挑戦はまだ始まったばかりだ。終わりのない旅はまだまだ続く」だ。

 2010年に太宰府にある九州国立博物館で両方の鐘を並べて鳴らし比べをする、といういイベントがあった。こんな機会はもう二度とないだろうと思うと行けなかったのが残念だ。YouTubeで聴き比べができる。デジタル化された音でどれくらいノイズ、倍音、揺らぎが再現されているのかわからないが、この兄弟鐘の黄鐘朝の音高が同じであるような気がする。ぜひ本物の聴き比べをしてみたかった。

妙心寺/観世音寺両方の鐘が一堂の展示され鳴らされるのは貴重だ
(九州国立博物館HPより)
九州国立博物館「妙心寺鐘、観世音寺鐘 鳴鐘会』


YouTube名鐘会での聴き比べ



妙心寺/退蔵院の点描写真集


紅白の枝垂れ梅
退蔵院余香苑

マンサク


白梅

境内の道
背景に衣笠山が

幼稚園児のお散歩

佐久間象山の墓所へ向かう道
特別公開中の霊雲院

西田幾多郎墓所(霊雲院)
歴史上の人物の墓所も多い。
(写真は引用写真以外はSONYα7II+FE3.5-6.3/24-240OSSで撮影)



2016年2月11日木曜日

Leica Vario Elmarit SL Zoom 24-90mm f.2.8-4 ASPHという怪物 〜なるほどライカがズーム作るとこうなるんだ!〜

レンズを着けるとボディーが小さく見える


 ライカSLがリリースされてから3ヶ月が経過した。予約入荷待ち状態が解消されようやく市場にブツが流通し始めたようだ。もちろん話題の中心はこのコンクリートブロックのようなミラーレスのSLボディーなのだが、私にとってはレンズが注目だ。何しろライカ初の35mmフルサイズAFズームレンズなのだから。

 ライカMの「ズームがない、寄れない、AFがない」の3無いを解消したレンズ。レンズ内手ぶれ補正つきAFレンズだ。しかしその代償は「でかい、重い、長い」。SLボディーに装着すると重厚長大の超弩級カメラとなる。コンクリートブロックの塊のようなボディーが小さく見える。というわけでとても軽快なスナップシューターには程遠い。しかしそれだけのことはある高性能ズームだ。一見、24-90mm f.2.8-4というスペック的にはよくあるキットレンズに見えるが、その解像度、階調、ボケ味、どれを取っても単焦点レンズに匹敵する性能を発揮する最高のズームレンズに仕上がっている。望遠端が90mmというのも良い。Mレンズ群が苦手とした近接撮影では広角側で30cm、望遠側でも45cmまで寄れるし、フローティング機構により解像度も素晴らしい。歪曲収差はデジタルカメラらしく上手く補正されている(JPGでは全域でデジタル補正。DNGでは24mm付近では樽型に曲がるがADOBE現像ソフトでは自動的に補正される)。これぞ待ち望んでいたライカズームレンズ!

 これまでのライカズームレンズは旧Rマウントシリーズ(一眼レフ)向けのものしか無かった。それも自社製ではなくて日本メーカーのOEM供給品ばかり。その性能も造りもソコソコで、価格もライカにしては安い。それにライカブランドつけて出すんかい?と言いたくなるような代物ばかり。あんまり評判が良いとは言えなかった。ライカはズームをやる気が無い、ということを感じさせたものだった。もっとも日本メーカーの名誉のために言っておくと、それらのOEM 供給各社は、自社ブランド向けには、極めて高性能なズームラインアップを市場投入している。ようは発注側の問題だろう。今回のVario Elmarit SLはドイツのレンズ設計部隊の作品で、かつドイツ製造だ。この少し前にTマウントAPS-Cサイズセンサー用の標準ズーム(28−80mm)を出しているが、こちらは設計はドイツ、製造はまだ日本メーカー(何処かは公表されていないが)。今回SLミラーレスと銘打ってやっと自社製に本気出した。なるほどライカがズーム作るとこうなるんだ!画質を損なわないことにこだわり抜いて設計製造したのだろう。ライカらしく金属鏡胴は気密性も高く防滴防塵。マウント部も少し硬めにキチッと装着できる。約3.5段分の手振れ補正機能を初めて入れた。

 その写りだが、ズームレンズとは思えない先鋭な解像度とアウトフォーカス部のとろけるようなボケ味がこのレンズの持ち味だ。ライカレンズ独特の立体感表現(木村伊兵衛の言うところのデッコマヒッコマ)をズームレンズでどこまで出せるか、という課題への挑戦が実ったということだろう。これならこの一本でズミクロンやズミルクスに肉薄する世界を写し出してくれそうだ。かつての首をひねりたくなるようなズームからは大きく変身。まさにパラダイムシフトした。ここまで来るのにこれだけの時間とコストがかかったということだろう。やはりライカのレンズの味に対するこだわりは妥協を許さないものがある。しかもコスト度返しでそれを追求する。数字上は一見平均的なスペックのレンズであるように見えるが、レンズ硝材やコーティングに贅を尽くし、総金属製の堅牢で巨大な鏡胴をまとい、フィルターサイズ82mmというフロントレンズの口径を誇る。これらはすべてライカテイストの画作りのためだった。

 しかしそれにしても重い。カメラと合わせると2kgになるとは。冗談じゃなく「腕力」をつけておかねばならない。


 (作例)


結像部分はシャープ。背景のボケはメロー。この組み合わせがライカレンズの「味」だ。

水平も歪みがない。隅々までクリアーに写る

かなり意図的なシーンだが階調も豊か

シャドウ部の点光源もシッカリ解像している


不思議な立体感
これが標準ズームの画なのか?!

コントラストを強調