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2025年7月5日土曜日

古書を巡る旅(66)Lafcadio Hearn『神国 Japan An Attempt At Interpretation』〜小泉八雲の日本論〜

 

表紙


1904年の初版

神道の巫女


1906年の第9版



初版と第9版



今年後半のNHK朝ドラ「ばけばけ」はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻、小泉セツが主人公。ハーンに日本の古い伝承話を数多く伝え、彼の著作に大きな影響を与えたと言われている。ドラマの展開がどうなるのか楽しみにしている。アイルランド出身のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の晩年の著作に『神国 Japan An Interpretation』(1904年)がある。これは彼のいわば日本論の集大成ともいうべき著作である。1904年9月にニューヨーク、ロンドンのThe Macmillan Companyから刊行された。ハーンは同年4月に東京にて没しており、この初版本を見ることはできなかったが、これ以降も多くの人々に読み継がれた人気の著作で、重版を重ねている。和訳本が「神国日本」として昭和7年に第一書房から戸川明三の訳で出版されている。


「神国」とは?

ハーンは、日本が「八百万の神々」の国であり、人々が自然や祖先を神聖視する文化を持っていること。日本人が生まれながらにして宗教(神道的感性)と共にあるということ。彼はこうした日本の特性に驚き、敬意を込めてこの文化を「神国」と呼んだ。特に「死者は生者の中に生き続ける」という祖先崇拝の思想に着目し、それが社会の秩序や道徳を支える基盤となっていると評価している。ややショッキングな表現であるが「死者が生ける者を支配する国」とも表している。すなわち人は死ねば墓に埋葬されて肉体は土に還る。しかし霊魂はその体から抜け出て天界に行って神になる。その神は常に生ける家族、部族、国家と共にあり守護神となる。だから祖霊を厚く敬い、家に位牌を祭り、祖霊の教えに従って生きる。かつてローマ・カトリック教会が、異教徒への布教にあたって、家族での位牌などの個人の祭祀を禁じ、破却を命じた。全知全能の神が唯一の神で祭祀の対象であるとしたが、ハーンはこれは全ての世界で受け入れられるものではないと主張する。神道においては祖霊を祀ることそれは宗教ではなく、その精神構造に根付いた習俗であり霊的体験である。これを否定してはいけないと。これらをハーンは合理主義的な研究者や客観視する批評家としてではなく、「外から見た愛ある観察者」として書いている。日本の精神世界を敬意と共感を持って世界に紹介しようと試みた。ハーンは次のように述べている。

1. 神道の本質
神道を「宗教というより習俗・感情の体系」とみなす。
祖霊崇拝には、1)家族の祖先の礼拝、家庭の祭祀 2)氏族/部族の祖先の礼拝、鎮守の神、産土神の祭祀 3)帝国祖先(皇祖神)の礼拝、国家の祭祀、がある。 その中心となるのは家族の祭祀でありこれは習俗である。そして自然物(山、川、木など)に神が宿るとされるアニミズム的感性が自然なものとして受け止められ、自然や日常の中に神聖さがあると感じている。神道は「信仰」というより日本人の精神構造、霊的体験に深く根付いた習俗である。

2. 祖先崇拝と死生観
日本では死者は消え去る存在ではなく、「家」の中に残り、子孫と共にある。
先祖は守護霊として日常生活に影響を与え、祀られ、感謝される。
これは「個人」より「家」や「共同体」を重んじる価値観と結びついている。

3. 西洋キリスト教との対比
西洋のキリスト教は「個人の救済」を重視するが、日本では「家」や「社会との調和」が優先される。西洋近代の合理主義・科学主義とは異なる「霊的直感」が日本文化の中核をなすと述べる。

4. 文化的持続力と秩序
日本人の秩序や道徳の根底に神道的世界観(目に見えないものへの敬意)があると考える。この世界観が、長い歴史の中で日本の社会的安定や美意識を育んだと評価する。そして仏教は神道とうまく習合して日本人に取り入れられた。この点が習合が起こらず受容されなかったキリスト教との違いである。


ハーンのキリスト教観 ケルト文化への共感

キリスト教を抑圧的・排他的・権威的な宗教と見ている。特に、善悪二元論的な世界観、罪と罰、地獄・救済といった構造に違和感を覚えていたようだ。またキリスト教が霊的多様性を否定し、他宗教を異端視する傾向を持つことに批判的である。「神を信じなければ永遠に地獄に落ちる」という唯一絶対神的な考え方は、彼にとって非寛容で人間的ではないと映ったのであろう。

またキリスト教的道徳観がしばしば「他者への支配の道具」になっていることに懸念を示している。こうした教義や道徳感の押し付けは、スペインやポルトガルがキリスト教布教を領土的征服、民族支配の道具として用いた事例として理解されるとしている。彼にとって本来の宗教とは、人々の感情や生活に自然に溶け込むものであり、上から押し付けられるものではないと考えた。

ハーンはアイルランドや古代ケルトの神話・妖精譚などに親しんでおり、その霊的多様性、自然信仰、死者との交感に強い親近感を持っていた。日本の神道や民間信仰、伝承を理解する際にも、このアイルラン人の心の古層に息づくケルト的感性が彼の内面で共鳴していたと考えられる。この、いわば「ケルト回帰」は年少期にカトリック教育を押し付けられそれに違和感を持ったことがきっかけとしている。さらに子供の頃から木、石、水などに霊が宿るとするアニミズムの感性を自然なものとして受け入れており、それが日本文化との親和性を高め、「一木一草に神宿る」「八百万の神」的世界観は、彼が「子どもの頃に感じていた世界の神秘」に近いと感じた。日本においてもアイルランドにおいても、大陸周縁部の島国には大陸の文明、宗教を受容する以前の、その土地古来からの宗教、習俗がありそれが人の心の古層に今も息づいていると納得したであろう。単に日本が好きだ、という以上に、自らの心のルーツやオリジンに触れる感覚を得た、という方が当たっているかもしれない。

彼は文中で「私の心は東洋的であるよりも、むしろ古代ケルト的である。私は教会よりも森に神を感じる」と書いている。


「イエズス会禍:The Jesuit Peril」という一章

ハーンのこうしたキリスト教観と日本の歴史への眼差しにおいて注目すべき一章が本書に掲載されている。題して「The Jesit Peril:イエズス会禍」である。イエズス会の伝道活動、キリスト教の布教は日本にとって大きな厄災であったとする。キリスト教化することが征服の前提であったアメリカ大陸の先住民やその文化をキリスト教布教で抹殺し征服した歴史を日本で繰り返さなかったことは、家康の国と文化を守るための冷静で賢明な政策であったと、その功績を高く評価している。弾圧や島原の乱で大勢のキリシタンが殺害されたは、これをイエズス会のあやまった活動のせいであり日本が被った厄災であると断じている。この一文は、明治期の欧米人が見た「キリシタン弾圧、禁教令、鎖国」史観としては衝撃的だ。これほどまでにキリスト教伝道(特にイエズス会、フランシスコ会、ドメニコ会の誤った方針)が日本に災いをもたらし、それを家康が賢明にも見抜いてそれを防いだ、という歴史観を欧米人側から表明した評論は少ないだろう。大抵は異教徒によるキリスト教殉難の歴史の一環として取り上げられる。スペイン、ポルトガルによるキリスト教(カトリック)布教の失敗の原因は、やはり日本人の祖霊信仰、多神教的宗教観を理解しなかったこと。あるいは容易に「奇跡」で信仰を獲得できると信じたこと。また天皇の存在(家父長的な神の体系のトップに位置している)の意味を軽視したこと、日本の為政者の力量を見誤ったことだとする。そこにプロテスタント国のイギリス、オランダが現れ、家康に宗教対立の実相、世界各地の植民地化が報告されたことだ。少数の派遣軍部隊で軍事的にあれよあれよという間に征服されたアメリカ大陸の諸文明のようなわけにはいかなかった。またハーンは明治になって、禁教令が廃止されてもキリスト教信者は増えていないのはなぜか?と問うている。

こうした彼の主張を今見てみると、皇国史観、神道至上主義、家父長制度礼賛、個人より国家、というふうに見えるかもしれないが、これは一面的な見方であると感じる。たしかにバジル・ホール・チェンバレンの「Sympathetic understanding of Japan」ような批判(古書を巡る旅(12)チェンバレン「日本事物史」)もあったが、彼の主張は、一神教、キリスト教至上主義への懐疑が第一義であって、こうした自然と祖霊を礼拝する霊的、多神教的な宗教観がその一方に厳然としてあることを西欧諸国に知らせたかった。そしてそうした「一木一草に霊が宿る」「祖先の霊魂の存在」「聖霊の声を聞く」という宗教観はヨーロッパにおいてもキリスト教布教以前にヨーロッパ諸民族の心の底にあった霊的観念ではないか、ということを思い起こさせることであった。ハーンは読者として欧米人を想定しており日本人に向けて日本を論じたつもりはない。「神国」の真の意味も日本人が受け止めがちなそれとは異なるメッセージがそこにある。ハーンの宗教というもの信仰というものには初源的で普遍的な共通する心があるはずという指摘は、現代の一神教の教条主義者たちの寛容性を欠く終わりの見えない血生臭い対立に一石を投じるものとなると考える。宗教とは何か?宗教、信仰の原点に立ち戻れ!ちなみに、本書にはアーネスト・サトウ、ウィリアム・アストンなどの引用言及はあるが、バジル・ホール・チェンバレンに関する引用がない。なぜか?


ハーバート・スペンサーの日本への助言書簡

ハーンの著作は人気を博し、1904年の初版以来、2年間で9版を重ねている。手元にはもう一冊、1906年2月の第9版がある。出版社はニューヨークのGrosset & Dunlap社である。興味深いのは、初版にはないハーバート・スペンサーから金子堅太郎あての日本に関する助言書簡が追録されていることである。

当時ダーウィンの進化論に影響を受け、それを社会に適用した社会進化論、適者生存論がスペンサーによって唱えられた。これは一世を風靡し、欧米だけでなく日本でも盛んに研究され取り入れられた。モースや森有礼がスペンサーについて著作を発表し、帝国大学で講義した。ハーンもおおいに影響受けたと思われ、たびたび彼の社会進化論的な解釈を本文中で展開している。初版には間に合わなかったが、このスペンサーの書簡を追補しようと考えたにちがいない。

条約改正が外交課題として佳境に入っていた時代、伊藤博文、森有礼ら政府高官はスペンサーなど欧米の有識者に日本の外交課題や進むべき方向についての意見を求めた。そうした政府の意を受けて金子堅太郎はハーバード留学ののちルーズベルトなどの人脈を活用してアメリカ、イギリスの重要人物との接触を試みていた。ロンドン滞在中にスペンサーに会おうとしたが、結局は書簡を送ることにした。これに1892年8月26日にスペンサーから返信があった。スペンサーは日本について強い興味を抱いており日本にとっては格好の知識人(知日派)であった。しかし彼は、日本は西欧制度を一挙に入れる(replace)のではなく、日本古来の制度に接木(grafting)するように導入すべし」という保守的な助言をした。例えば外国資本を無闇に入れてはならない。土地を外国人に売ってはならない。外国人との結婚を奨励してはならないなど、極めて保守的な内容であった。憲法(1889年)も国会(1881年)も出来たばかりの未熟な国に、治外法権、関税自主権撤廃は時期尚早と。社会の発展段階、国家の成熟度に合わせて徐々に進めるべしと。

ハーンはこれを読み、予想通り保守的な助言だとしつつ、スペンサーに共感している。ハーンは日本の伝統的な文化や思想が西欧化することで一気に失われることを恐れていた。たとえ日露戦争で日本の軍艦がロシアの軍艦を轟沈させたとしても(この時点ではまだ日露戦争の結果は分かっていなかった)、軍事的成功と産業的成功は別であると主張。当時の日本の富国強兵ムードに危機感と違和感を抱いたハーンの警鐘と言って良いだろう。しかしハーンは「やがてそんな心配をしなくても良い時代がやってくるだろう」、「その時には(スペンサーのいう)保守主義を捨てても危険はない。しかし現在一時だけは保守主義を救済の力としなければならない」と締めくくっている。スペンサーの死後、The Timesに公開された書簡をハーンの著作「神国」に掲載する予定であったものと思われる。この時ハーンはすでに亡くなっていた(1904年4月)ので、出版社は彼の遺志をついで改訂版で追補した。ちなみに金子堅太郎は、スペンサーの助言に謝意を示した上で、日本は古来、外国文化を受容し上手に変容してきた歴史を持つので心配ご無用、と返信している。

この追補は、日露戦争開戦と富国強兵に傾斜してゆく日本、伝統的な考え方や価値観が崩壊してゆく日本。急速に変わりゆく日本の行末を危惧するハーンの心情を表すものとして重要であると考える。いわば本書「神国」全体に通底するハーンの観察、主張を最後にスペンサーが追認してくれると考えたに違いない。自由民権運動が国会開設、民選議員制度で懐柔され、日清戦争に伴う三国干渉への反発、「臥薪嘗胆」、むしろ「民権」より「国権」優先の空気が漂う時代であった。明治政府はただ一途に「一等国」への道を直走った。スペンサーの助言を横目に、ハーンの懸念をよそに、条約改正、富国強兵の道をつきすすんだ。1894年の日英、日米通商航海条約で初めて幕末以来の懸案であった「不平等条約」解消、「平等な改正条約」が調印された。しかし日本政府は市場を開放し、外資の導入、外国人の土地所有、外国人との結婚は認めたものの、実態は厳しく外国に規制を設ける保守的なものであった。ハーンはスペンサーの保守的な助言はここに生きているとしている。しかしハーン自身も日本人と結婚し日本に帰化し、小泉八雲と改名したが、その子孫は、その「保守主義」のせいで高級官僚や高級軍人などへの登用に制約が設けられた。急速な変化で古き良き日本の伝統が破壊されてゆくのは忍びないが、「保守主義」が守られたことで家族には思わぬ制約ができてしまった。日本を愛し帰化したハーン、いや小泉八雲は複雑な心境であったと思う。




参考:古書を巡る旅(2)ラフカディオ・ハーンと尋ねて

2025年6月27日金曜日

「重商主義」とは? 〜革新か反動か?〜


(ロイターより)


トランプの関税政策、自国優先主義、保護貿易主義を見ていると、「この道はいつかきた道」。こんな時代、歴史の教科書で習ったような気がする。そう、17世紀から18世紀のイギリス絶対王政と結びついた重商主義政策を見るようだ。デジャヴというやつだ。それが絶対王権に抵抗し独立し自由貿易主義の旗手であり続けたはずのアメリカで、21世紀になって起きていることに思わず目を疑いたくなる。重商主義は帝国主義的な植民地主義や覇権主義に結びつくのだが、やがてその中から、絶対王権や特権階級に独占される経済利権に反発し、自由貿易主義を主張する新しい社会階層(新興の都市ブルジョワ、ジェントリー)が現れ、やがて現在につながる自由貿易体制が生まれた。戦前のブロック経済体制など、幾たびかの反動を繰り返しながらも、WTOやPTTなどの多国間協定により自由主義貿易、グローバル経済システムが発展していった。ちょっと歴史を端折り過ぎたが、こうして歴史の発展段階の中で消えていったはずの重商主義は、21世紀になってトランプによって墓から掘り起こされてゾンビのように復活する。グローバリズムへの反動としての重商主義的ナショナリズムとでもいうべきか。議会の優位も法の支配も自由と民主主義も認めない絶対君主の登場と言うべきか。確かに富の偏在と格差が顕在化し、分断が進んだアメリカで、彼はこの自由主義体制、グローバル経済の恩恵から取り残された人々の声を背景に大統領になったというのだが、問題はその恩恵を最大限享受してきた富豪の彼が、彼の対極にある人々の救済という「高邁な」志と革新的ビジョンを持っているのかということだ。彼のこれまでの行き当たりばったりの言動と朝令暮改を見ているとそれは甚だ疑わしいだろう。そもそも彼に歴史の理解とそれに基づく戦略、ビジョンがあるとは到底思えない。歴史の反動は、時としてこのような独善的で自己承認欲求の高い人物を担ぎ出す。そして取り巻きにより神輿に乗せられ反動のシンボル化されてゆく。ポピュリズムである。彼自身に我欲と自己顕示欲以外の確固たる理念、戦略とそれを実現する方法論があるわけではない。世界の強かなリーダーに太刀打ちできないのも仕方ない。彼の出現は歴史修正主義、反知性主義、反動の現象の一部に過ぎない。ちなみにアメリカ独立戦争の発火点となったボストン.ティーパーティ事件は、イギリス本国の重商主義、保護主義的な関税政策に反発して起きた植民地の抵抗だったはずだ。彼はそのアメリカ建国の歴史を学ばなかったようだ。それとも彼はアメリカを絶対君主が支配する王国に先祖返りさせる、アンシャンレジームを目指しているのか。


Boston Tea Party


重商主義:mercantilism:マーカンテリズムとは?

経済思想史の教科書を復習してみると、意外に重商主義を正確に定義することは難しい。また誰を重商主義者と呼ぶかも諸説ある。学生時代にあまり重商主義について関心を持って勉強した記憶もないので改めて研究する必要を感じる次第である。とりあえず通説的な解説に従って簡単に振り返っておきたい。

16世紀後半〜18世紀、絶対王権と結びついた経済政策。一般的には、金銀の蓄積と国外流出を抑え、特権的な商人による独占的な商業活動を保護し、対外貿易を重視して輸出を最大化し、関税障壁で輸入を最小化するという保護主義、管理貿易主義をとる経済政策である。歴史の発展段階としての、封建主義社会(封建領主による土地、荘園経営を主体とする)から、商品経済の伸長に伴う商業重視の都市資本主義社会への移行過程で生まれてきた。また絶対王政にとって不可欠な官僚制と、常備軍を維持、増強する必要から国富の極大化は必須であった。したがって絶対君主制と重商主義は表裏一体であった。重商主義と言ってもその形態は大きく二つに分けられると言われている。

1)重金主義: 初期の重商主義。金銀の獲得と蓄積が国家としての重点事項となる。鉱山開発や海外での金銀の獲得(略奪)など、大航海時代初期のスペインやポルトガルの海外進出モデル、南米の「黄金郷」探検/奪取やポトシ鉱山開発、日本の石見銀山の銀の獲得などがその例。フランスのルイ14世時代のコルベールや、イギリスのトーマス・グレシャムも重金主義的重商主義者と見做されている。香辛料のような金銀に匹敵する価値を有する換金作物商品の獲得/蓄積もこれに相当する。

2)貿易差額主義: 端的に言えば輸出を増やして、輸入を抑え貨幣収入を増大させる。そのために輸入関税を引き上げ、自国産業を保護するという国家による保護主義的管理貿易である。産業革命以前のイギリスの東インド会社のトーマス・マン、共和制を引いたオリバー・クロムウェルなどがその中心と見做されている。ジョサイア・チャイルドもその一人であるが、彼は初期の自由貿易論者(リベラルな重商主義者?)とも位置付けられている。現代における自国優先の保護主義的な政策や非関税障壁なども重商主義的と見做されてる。かつての日本の「護送船団方式」による輸出ラッシュによる貿易不均衡が貿易差額主義的重商主義であると批判されたことがある。

3)対抗概念としての自由貿易主義: やがて植民地の搾取や、保護主義的管理貿易、特権商人の王権との癒着などから生じる問題が顕在化して、新興の都市ジェントリー層からの自由主義的な貿易が待望されることとなる。また産業革命、資本主義の進展に伴い「富の拡大/蓄積」という観点からも、航海条例に象徴される自国優先/保護主義的な重商主義政策の限界が指摘されてゆく。もっとも自由貿易政策は、独占に代わる自由競争が生産性の向上と富の拡大に寄与したが、植民地の搾取や富の偏在や権力との癒着の問題を解決したかどうか疑わしい。「自由貿易体制拡大」の名の下に植民地化はますます加速化され(自由貿易帝国主義)、植民地における富の収奪は止まるところを知らない。これは20世紀の第二次世界大戦終結の時代まで続いた。また本国でも「持てるもの」と「持たざる者」の格差は広がる一方であった。18世紀の重商主義者の代表格と目されるジョサイア・チャイルドも東インド会社の大株主、総督という特権的地位を利用して巨万の富を得ていながら自由主義的な貿易を主張していて、初期における「レッセフェール」の提唱者であるとも評されている。なぜこのような評価がなされるのか不可思議であるが、「重商主義貿易政策」と初期の「自由主義貿易政策」はそもそも絶対的な二項対立概念ではなく、フェーズ転換を伴わない斬変的、相対的な概念であるような気がしてならない。本格的な自由貿易体制は戦後のWTOやTPPなどの多国間協定を待たなければならなかった。


日本における「重商主義」 田沼意次の時代

ちなみに、日本で重商主義的な経済政策が姿を現したとされるのは、江戸時代18世紀後半の老中、田沼意次の時代だと言われている。今年の大河ドラマ「べらぼう」に登場するあの渡辺謙演じる田沼意次だ。江戸時代の日本にヨーロッパの重商主義的経済思想が伝わっていた形跡は無いが、封建社会の農業と荘園を中心とする経済システムが行き詰まると、洋の東西を問わず人が考え出す知恵は同じだということなのか。しかし、日本の歴史においては田沼流重商主義経済政策はあまり芳しい政策としては記憶されていないようだ。幕府財政の逼迫を受けて、それを立て直すための革新的経済政策であったはずだが、「質素倹約」「緊縮財政」「商業活動抑制」を旨とする、八代将軍吉宗の「享保の改革」や、松平定信の「寛政の改革」が、武家らしい「清く正しい」ご政道で、田沼時代はその合間に咲いた仇花。われわれの学校の歴史教科書では、武家政権にあるまじき、卑しむべき商売や金銭を重視した負の歴史、あるいは「賄賂横行の政治」として扱われていた記憶がある。

しかし、最近ではその評価が見直されつつある。田沼意次の政策は、封建制社会の土地と米中心の重農主義経済から、商業活動による富の増加と蓄積を旨とする商品経済、貨幣経済、すなわち重商主義経済への転換を図ろうとしたものであったという評価である。幕府財政立て直しのために、印旛沼の新田開発も実行しつつ、山師を使った鉱山開発にも手をつけ、質素倹約だけの縮小均衡型の経済政策ではなく、新興の商業組合(株仲間)を奨励、公認し、活発に商業活動をおこし、新しい出版、芸能を奨励し、お金を回す政策を打ち出した。また「鎖国」下にあっても幕府の管理による海外貿易(蝦夷地におけるロシアとの交易)を拡大しようとした。いわば拡大再生産政策である。また江戸と大阪の金本位、銀本位の決済システムの二本立てが国内商流活性化の阻害要因となっていることから、貨幣統一(小判1枚と銀8枚を等価とする)をおこなうなど金融政策を実行した。これらは庶民を助ける「仁政」というわけではなく、絶対王権である徳川幕府を財政的に立て直そうという幕臣による「忠義」の経済政策であった。この絶対王政と結びつくという点においてもイギリス重商主義経済モデルの日本での出現と言って良い。いっぽうで海外進出や植民地主義には結びつかない、いわば「内向きの」重商主義とも言える。

しかし、この革新的な経済政策への守旧派からの反発もはんぱではなく、やがて天明の飢饉や政治スキャンダルによって田沼意次は失脚させられ「日本の重商主義政策」は敢え無く崩壊する。その後の松平定信の質素倹約を旨とする縮小均衡型の「寛政の改革」というあらたな反動の時代を迎えることとなる。田沼の政策には、幕藩体制という政治システムと、それを支える武士と農民という社会システム、重農主義経済システムを打ち破る(すなわち「近代化」に向かう)インパクトはなかった。この革命は明治維新を待たねばならなかった。当時のオランダ商館長イザーク・ティチングの記録に「田沼の失脚で日本が諸外国と交易を拡大する機会は失われたのは残念である」と記しているように、田沼政策は蝦夷地を皮切りに日本の海外貿易拡大の画期との受け止めもなされたようだ。そしてその60年後、その重商主義の次のフェーズである自由貿易主義がアメリカやイギリスによって日本にもたらされ、開国と共に幕府による管理統制貿易体制「鎖国」、さらには幕藩体制そのもの、封建制システムは崩壊することとなったわけである。

とここまで書いて、大御所様、徳川家康のことをふと思った。田沼意次を遡ること150年前の初代将軍徳川家康。田沼にとっては神である「東照大権現」「神君家康公」である。家康こそ、佐渡や石見の金銀開発を進め、スペイン、イギリスなど海外との貿易に力を入れ、国富の増大化を試みた絶対君主であった。朱印船貿易による海外交易を奨励した。彼こそ日本初の重商主義者であったと考えざるを得ない。まさにユーラシア大陸の向こう側ではエリザベス1世が絶対君主として重商主義的な経済政策を始め東インド会社を設立し海外に進出していった時期である。そしてあのウィリアム・アダムス(三浦按針)という大航海時代のアイコン、重商主義貿易政策の落とし子が、エリザベスのイギリスから、はるばる(意図せずにではあるが)徳川家康のもとにやってきた。これは単なる歴史上の偶然なのであろうか?家康亡き後、秀忠、家光の時代に国を閉ざす「鎖国」になってしまうのだが、この鎖国とて初期においては一種の幕府主導の長崎統制貿易体制であり重商主義経済政策の変種であるとも言える。のちには「外国船打払」や、排外的な「鎖国」へと変質してしまうのだが、家康の対外進出促進的な重商主義政策が受け継がれていたら江戸時代は、日本はどうなっていたのだろう。これはまた別途稿をを改めて妄想しなければなるまい。


革新としての田沼重商主義、反動としてのトランプ重商主義

見てきたように18世紀の田沼の重商主義政策は、封建的な土地と米本位の経済、重農主義経済からの脱却を目指した革新的な政策であった。それだけに保守反動勢力からの強い抵抗に見舞われ、その大胆な試みは潰えた。革新としての田沼政策は時期尚早であったようだ。田沼がこれを日本の近代への移行プロセスと意識したとは思わないが、結果として日本の近代化はここで一旦止まった。そしてその近代化プロセスが再び始動するのは19世紀後半になってアメリカとイギリスからもたらされるまで待たねばならなかった。開国と明治維新である。

しかし、この時日本に開国を迫り自由貿易をもたらしたアメリカは、その150年後には17〜8世紀的(貿易差額主義的)な重商主義政策(保護関税、自国産業優先)を持ち出してきた。日本にも高関税の受け入れを迫っている。「自由貿易体制はアメリカにとって不利益だ!」「われわれはずっと同盟国に搾取されてきた。」「これからは自国優先:America Firstでゆく」「こうしてふたたびアメリカを偉大にするのだ:Make America Great Again:MAGA!」と。しかしこの勇ましいスローガンがなぜか「既成概念を打ち壊す革新的」な響きがないのはなぜだろう。巨額の財政赤字と貿易赤字を抱えるアメリカにとっては、一見革新的なようでアメリカの一定の層から喝采を持って支持されているが、その実は自由主義経済とグローバル経済に対する反動政策であるからだろう。いわばアメリカの「鎖国」と言っても良い。17世紀ならいざ知らず、高関税政策と移民排斥でどうやって国内製造業が復活するというのか。関税収入増で財政赤字が解消すると言うのはいかにも楽観的すぎる。労働力不足は建国以来の課題のはずだ。それを移民が支え今のアメリカを生み出した。関税による値上がり分は物価に反映され高いツケを払うのは国民である。20世紀型製造業(モノ)の貿易収支は赤字だが、むしろアメリカが圧倒的な強みを持っているハイテク、サービス産業収支は大幅な黒字である。アメリカの多国籍企業(GAFA)は世界中で市場を圧倒し独占に近いメガパワーとなっている。しかし、グローバルなサプライチェーンが関税で破壊され、移民排斥で労働力が不足し、大学研究機関の予算削減で世界に冠たる研究開発が力を失い、よって同盟国の対米投資も止まってしまうと話は違ってくる。

一方で、人は「絶対君主」に媚び諂っても、市場はポピュリズムに影響されない。金融政策は独立した組織が行い「絶対君主」が脅しても動かない。彼らの意思決定ロジックは政治ではなく市場だ。これは人類が生み出した「知恵」なのだ。このまま時代錯誤な保護関税政策「重商主義政策」を続けるなら、国内のインフレは収束するどころかますます増進し、失業率も下がらず、賃金も下落、株価は下落し、ドルも下落。市場はここでも正直に反応する。アメリカの財政赤字・負債の多くの部分を占める米国債は利率が急騰し、放置すると信用不安から売浴びせられて国家としての財政破綻(デフォルト)につながりかねない。ちなみに最大債権国は日本だ。ここでは人為的「ポピュリズム」ではなく「神の見えざる手」が働くのだ。

結局、21世紀型「重商主義」とも言われる時代錯誤な政策は問題の解決にはならない。革新的:Innovativeでも革命的:Revotutionalでもない。強いアメリカが復活することはない。格差も解消しないし財政赤字も解消しない。むしろ衰退を加速する方向に働くだろう。そもそも歴史を辿れば重商主義の矛盾と弊害が自由貿易主義を生み出したのだ。重商主義的ナショナリズムと選挙で選ばれた「絶対君主」の登場という時代逆行は、アメリカの信用と国富を大きく毀損しつつある。ましてそのやり方が乱暴で粗雑なら尚更だ。私はアメリカの知性と理性を信じたいが、ひょっとするとアメリカにその威信を維持する体力がもはやなくなっているのかもしれないという不安もよぎる。悲しいことだ。どうやらわれわれは今、大きな歴史の転換点に立っているようだ。


田沼意次(Wikipediaより)

2025年6月8日日曜日

古書を巡る旅(65)Samuel Butler's『Hudibras』〜『ドン・キホーテ』にインスパイアーされた17世紀英国王政復古期の風刺詩〜


 




17世紀イングランド(英国)は激動の時代であった。清教徒革命、王政復古、名誉革命、三王国戦争に、カトリック、国教会、ピューリタンの宗教対立。この混沌の中から現代の民主主義、資本主義、自由貿易主義が生まれた。そう現代社会の揺籃の時代と言える。いまそれが300年経って揺らぎ始めているのだが、その話は別としよう。今回は王政復古期の英国の文芸の話だ。

1660年にチャールズ2世が亡命先から帰国して王位についた王政復古:Restrationの時代は、イングランド王国の文学、演劇界にとっては画期的な時代であった。クロムウェル共和政時代には禁欲的なピューリタン主義により、「退廃的な」演劇や、風刺詩、音楽が禁じられ、シェークスピアすら上演されることが少なくなった。イングランドが文芸的、演劇的に不毛な時代であった。それが演劇好き、文芸好き、いや贅沢好きな王様が帰ってきて一斉に文芸復興が起きた。いや度を越した退廃的な文化すら沸き起こる。ピューリタン共和政時代の反動である。

この時代はまた転向の時代でもある。ピューリタンで共和派のジョン・ミルトンが王政復古で投獄の憂き目に遭って失明しても、節を曲げなかったのに対し、ジョン・ドライデンはピューリタン、クロムウェル礼賛から一転して王政を礼賛し、王室桂冠詩人となる。もっともこの時代の変節は普通のことで特に道徳的に非難されるべきことでもなかったようだが、現代の道徳観から見るとやはり尊敬に値しない姿勢と言わざるを得ない。晩年にイソップ物語やセネカ論集を英訳したロジャー・レストランジェが、王党派の立場から新聞や政治パンフレットを発刊し、国王のために言論統制を行い、王政時代の言論人として活躍した時代でもある。こんな時代にもう一人ピューリタンを徹底して風刺した長編詩を発表し、チャールズ2世の愛読書となる『ヒューデブラス』:"Hudibras"を産み出した男がいた。その男はサミュエル・バトラーである。

このサミュエル・バトラー:Samuel Butler (1612−1680)、生まれはそれほど高貴な家柄でもなく、教育もケンブリッジに短期間在籍しただけの、いわば家系や知性をバックグラウンドとして持つ人物ではなかった。地方官や貴族の秘書や執事として働くうちに頭角を表し韻文の世界に入っていった。セルバンテスの『ドン・キホーテ』を翻案したとも思える風刺詩『ヒューデブラス』1662年が大ヒット。王政復古で帰国、即位したばかりのチャールズ2世の愛読書となり、国王から爵位と年金を得ることになるという幸運に恵まれる。時代が産んだ寵児と言って良いだろう。これはピューリタンや革命に対する風刺、揶揄を込めた韻文作品であり、愚人を英雄に仕立てたいわゆる「擬似英雄詩」である。主人公のピューリタンの騎士ヒューデブラスが、従者のラルフォーを伴って諸国行脚の旅に出る。そこで巻き起こる騒動を、ピューリタンの偏狭さと偽善と狂信を痛烈に皮肉る長編の韻文で表現している。のちに、人気の画家ウィリアム・ホガース(1697−1764)がこれに彼独自の風刺の効いた挿画を提供するに至って、さらなる人気を博することになる。

今回紹介する本書は、バトラーの初版から約100年後の1744年版で、英国国教会の保守派スポークスマンで反ピューリタンの牧師ザッカリー・グレイ:Zachary Grey(1688-1766)が、「イギリス革命」の時代の歴史考証をもとに膨大な注釈を加えて再編集した、いわばGrey版とよばれるものである。先述のホガースの挿画を大幅に取り入れ読みやすい書に仕立てている。ケンブリッジ大学印刷でロンドンの複数(あのドライデンと組んだJ.Tonsonを含む)の出版人から出された。サブスクライバーのリストがある。グレイがこの時期にバトラーの『ヒューデブラス』を取り上げたのは、清教徒革命から100年経過し、王政復古から80年余りが経ち、名誉革命を経て政治的には立憲君主制の時代である。英国国教会の正当性を改めて論じることが目的であったようだ。時代はニュートン科学やそれに続く産業革命の進行や、近代合理主義の萌芽期でもあり、イングランドやスコットランドで啓蒙主義が盛んになっていった時期である。一方でそうした時代の大きな流れに対する「保守反動」が台頭した時期でもある。また芸術的にはカトリック的な中世ゴシック文化へのノスタルジア、ロマン主義が沸き起こった時期でもある。グレイ版ヒューディブラスは、そうした歴史評価の相剋の中で復刊された。しかし、これ以降『ヒューデブラス』がイギリス文学界で脚光を浴びることは少なく、次第に忘れられた存在になっていった。ちなみにほぼ同時期に、国教会ブリストル大司教のトマス・ニュートンがピューリタンで共和派のジョン・ミルトンの『失楽園』を復刻した(1749年)(古書を巡る旅(21)ミルトン『失楽園』)。ミルトンは長く人気があったが、王政復古期の文芸はドライデンですら看過された時代が続き、20世紀になってようやく再評価の機運が高まったくらいだ。バトラーの作品は、18世紀のグレイの復刻にも関わらず、イギリス革命期を物語る歴史的資料としてはともかく、文学作品としては評価されなかった。ちなみに日本での翻訳出版は、2018年松籟社刊「ヒューデブラス」(飯沼万里子他)がある。しかし日本人に馴染みのある詩人とは言い難いだろう。

王政復古期はこうした文芸復興の空気がみなぎっており、多くの詩や劇作が発表された。また先述の通り、時代の流れを敏感に読み取り、共和派だった人物が王党派に転向したり、ピューリタンから国教会やカトリックの宗旨替えしたり。時の権力者や主流となる動きに迎合する人物も多く出た時期でもある。一貫してピューリタン、反王政を貫いて投獄されたミルトンは別にして、ドライデンもレストランジェも、そしてバトラーも王権に寄り添う「文化人」であった。彼らはみな名誉革命でその政治的地位と名声を失うことになる。しかしドライデンは失脚し桂冠詩人の地位を追われるが、その名声を生かしてギリシャ/ラテン古典翻訳(エルギウス詩集)や劇作に精を出し(古書を巡る旅(60)ドライデン『喜劇、悲劇、オペラ』)、レストランジェも、失脚後はまた古典翻訳作品(イソップ寓話集、セネカ論集など)を発表して名を残すことになる(古書を巡る旅(63)レストランジェ『セネカ論集』)。詩や演劇作家はこれまでの王侯貴族というパトロンとは訣別し、新たに台頭してきた出版人(Jacob Tonsonのような)とともに物書きとして生き残っていった。いわばジェントリー層や都市富裕層をターゲットとした出版ビジネスモデルが創出され職業作家が生まれた時代だった。ただバトラーは、生前にこの人気作品があったにも関わらず彼自身には金銭的な実入がなかったと言われ、貧困のうちに没している。これ以外の目立った作品が残っていないようだ。もっとイングランドの激動の時代が産んだ風刺詩作品の一つとして注目されても良いのではないだろうか。


 ドン・キホーテとサンチョ・パンザよろしく、中世風騎士を気取るヒューデブラスが従者ラルフォーを伴って旅に出る冒頭シーン(以下、全てホガースの挿画)

熊いじめとバイオリン弾きの村人と出会い揉める

一人勇ましく村人と戦うが、捕えられて晒し者にされてしまう。

当時はやっていた「スキミントン晒し者行列」に遭遇する

金持ちの未亡人に取り入ろうとするヒューデブラス



追記:

本書には蔵書票が添付されている。Sir Stafford Henry Northcote. Bart(準男爵スタッフォード・ヘンリー・ノースコート卿)とある。彼は19世紀ヴィクトリア女王治世で活躍したディズレイリ、グラッドストン首相時代の保守党政治家で、Chancellor of Exchequer, Secretary of State for Foreign Affairs, President of the Board of Trade, First Lord of the Treasuryなどの重要閣僚ポストを歴任した人物である。

なぜそんな著名人の蔵書が今私の手元にあるのか?英国から日本への旅路は不明であるが、本書はとある関西の大学図書館の除籍本である。ここにヒントはあるのだろうか?日本人研究者が英国で手に入れて大学図書館に寄付した... あるいは日本の古書市場に現れるようになった「流転の経緯」に何か奇なるストーリーがあるんじゃないか。なんて妄想を膨らませることも古書を巡る旅の楽しみの一つである。



Sir Stafford Henry Northcote. Bart (1818~1887)
Wikipediaより




2025年6月2日月曜日

「MAGAだよ!」と君が言ったから6月2日はファントム記念日 〜あれから57年、九州大学も米軍板付基地も、そしてパクスアメリカーナもどこかへ行っちまったねえ〜

 あれは今から57年前の1968年6月2日の出来事だった。九州大学に建設中の大型電算機センターに板付基地に着陸しようとした米軍のファントム戦闘機が墜落炎上したのは。人的被害は出なかったのが不幸中の幸いであったが、ベトナム反戦運動、70年安保反米闘争、大学紛争真っ只中の時期に、学生運動の炎に油を注ぐ出来事であった。まさに「飛んで火に入る夏の虫」。それ見たことかと一気に反米闘争が盛り上がった。そもそも九州大学は(戦後にできた)米軍板付基地の侵入路の直下にあって、離発着機の騒音でしばしば授業が中断されるという全国、いや全世界でも稀な環境の大学で、いつこういうことが起きてもおかしくなかったのだが、よりによってこんなタイミングに!

その後、米軍基地は1972年に返還されたが、板付飛行場は民間の空港へと変身。都心に近い日本一発着密度が高い福岡国際空港になり、今年には滑走路も2本に増えて騒音と危険度は以前にも増して高まるばかり。とうとう九州大学はこの建学以来の伝統あるキャンパスを放棄して糸島の田舎に移転してしまった。かくして更地になってしまった旧帝国大学跡地にはぺんぺん草が。くだんの電算機センターも綺麗さっぱり取り壊され痕跡もない。

それにしてもあの頃の学生運動のエネルギーはすごかった。「孤立を恐れず連帯を求めて」。その学生が社会に出て企業戦士に。「24時間戦えますか」。そうして高度経済成長、グローバル化の嵐の中で悪戦苦闘し、「世界に冠たる経済大国!」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。やがてバブル崩壊で思考停止の30年。あの時の血気盛んな学生も、いまや燃え尽きた「昭和老人」に成り果ててしまった。あの大学キャンパスは「夏草や兵どもが夢の跡」。あのアメリカはもうファントムを他国で飛ばす余力も気力もないだろう。「オレは同盟国に搾取されてきた!」などと喚きながら、「自分さえ良ければ良い」America First! そして混乱を世界中に撒き散らしながら、関税というオモチャで遊び旧友を痛めつけてドヤ顔。MAGA引き篭り老人に成り果てる。さらばアメリカ帝国主義、さらばファントム、さらば憧れのアメリカ。

「MAGAだよ!」と君が言ったから6月2日はファントム記念日

「諸行無常」「驕れるものは久しからず」



1968年6月2日夜 米軍ファントム戦闘機、九州大学に墜落炎上(西日本新聞)

一夜明けて(朝日新聞)

突き刺さったままの米軍機(毎日新聞)


2025年5月17日土曜日

古書を巡る旅(64)The Kojiki or "Record of Ancient Matters":初の英訳「古事記」〜生成AIによるチェンバレンの評価は?〜





1906年の日本アジア協会紀要第10巻補遺の表紙

1906年リプリント書籍版の表紙

Basil Hall Chamberlain (1850~1935)

W.G.アストン注釈版「古事記」1982年ペーパーバック初版
(表紙デザインと中身は関係ありません!)


バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlain(1850-1935)のThe Kojiki or "Record of Ancient Matters"は、世界で初めての「古事記」英訳として、1882年(明治15年)4月12日、5月10日、6月21日に日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)で講義:read、発表され、翌年に出版された。本書は1906年(明治39年)2月に、同協会の紀要の第十巻補遺に再掲され、同時に同協会から書籍として刊行されたものである。チェンバレンが海軍お雇い外国教師の時代の著作である。革装、マーブルボードの美しい装丁である。また日本アジア協会紀要のオリジナルの表紙(1906年版)が挿入されるなど、おそらく所有者がリバインディング、再製本を手がけたもののようだ。かなりの部分がアンカットのままで、読まれた形跡がない。愛蔵版あるいはオリジナルの保存版として所蔵されたのであろう。現在Tuttle社から出版されている1982年の英訳新版(ペーパーバック版)は、ウィリアム・アストン:William George Aston(1841-1911)の注釈、解説による、いわば「アストン注釈版」である。出版社巻頭言によれば、1923年の関東大震災の時に、1882年の原本と残部数の多くが消失したため、アストンがチェンバレンから譲り受けたとされる手持ち原稿を元に復元再販したとある。またオリジナルの「日本アジア協会版」は1919年と1920年に再版されているとあるが、しかし1906年版には言及されていない。存在が確認されていなかったのかもしれない。書誌学的には不明な点があるが、この1906年版が関東大震災以前の最も古い「日本アジア協会版」であるとすれば貴重な「生き残り」書籍である。ちなみにわずかに現存するオリジナルの1882年版コピーは東大図書館に収蔵されている。


チェンバレンの翻訳の特色

チェンバレンは、古事記を文学作品、あるいは神道の聖典としてではなく日本、日本文化の源流を知る上での「古代の出来事:Ancient Matters」の「記録:Record」、すなわち文献史料として取り上げた。したがってその翻訳にあたっては客観性と正確性を重視するよう心がけている。彼は本書の巻頭言で、この古事記英訳の目的と方法論を明確に述べている。これがチェンバレンのいわば「古事記」研究総論であると言って良い。その姿勢は文学者、言語学研究者というよりも、むしろ文献史学者的ですらある。したがって、物語や叙事詩のように読んでいて面白みがある訳ではない、ないしはあまりにも素朴な文体で表されているとして、後世の研究者,特に文学研究者から批判される所以である。先述のように、のちにウィリアム・アストン(「日本書紀」の翻訳がある)は、チェンバレン訳に、注釈、補筆、修正を加え、よりわかりやすい解釈を加えている。また20世紀のドナルド・キーンなどの新訳ではそうした物語としての魅力が表現されるようになる。しかしチェンバレン自身は、そもそも古事記の表現に、文学作品のような文体の美しさがない。したがって素朴な響きを感じるのは元々そうだからだと言っている。彼の翻訳にはさまざまな議論があるが、日本古代史の画期となる歴史書で神話の体系である「古事記」を英訳し西欧に伝えたことは、翻訳史上,学術的に画期的な成果であった。チェンバレンはまた、巻頭言でこの翻訳にあたって、その前提となる日本の古代思想や宗教、習俗、政治思想の起源、古伝説などについて解説している。インドアーリア語族のものとも異なり独自のものであること。中国文化と同一視しがちな西欧人向けに、日本古代文化は、中国から多くの思想、宗教、文化を入れているが、使われている文字(漢字)以外は、日本が受容し変容した独自の世界観が表現されていると評している。もっともそう説明しながらも、そこに表されている神話や世界観に、古代中国やギリシアなど西欧神話などとの共通性も指摘している(後述)。翻訳にあたっては、まず日本文化を深く理解するため古事記だけではなく、日本書紀、続日本紀等の史書や、そのほかの多くの古典にあたり、万葉集、古今和歌集、和名類聚抄など、48種の古書籍を参考にしている(巻頭言の最後に参照文献リストが掲載されている)。古事記注釈書である本居宣長の「古事記伝」をしばしば引用、言及している。またチェンバレンは本文中で、訳文に細かく注釈をつけて、登場する神々の名前、天皇の系譜と事績、日本古語の意味、そのように解釈した理由、その背景などを逐語的に解説している(したがって本文よりも注釈に多くの紙幅を費やしている)。また追補で本文中の和歌のローマ字表記、歴代天皇を紹介し、索引は46ページにわたるものである。これが人名辞書、地名辞書の役割を果たしてくれており、外国人が日本の古代文化、日本を学ぶ上で役に立つ、一種の注釈書,コンメンタールとなっている。こうした本書の構成を見ても、この翻訳作業が、極めて学術的、まさに書斎学派的な営みであったことがわかる。


比較神話学の視点

古事記の英訳は、古事記が日本の神話体系、宗教的伝統のルーツとなっている点を紹介したことで、ヨーロッパでは比較神話学的な観点からも大きな反響を呼んだ。すなわちヨーロッパ人は東洋にもう一つの新たな神話の存在を知ることになったわけである。ただ、チェンバレンは古事記の神話体系は、日本独自に創造されたのものではなく、世界各地の神話に共通する要素が散りばめられており、例えば混沌/カオスから天地が生まれたする点、人間的な多くの神々の登場し、さまざまなストーリーが生まれるなど、例えばギリシア神話との共通点も多いと指摘。また古事記に描かれた神話と神代と区分なく人代の王権(天皇)の歴史(皇祖神の存在とその子孫による、万世一系の天皇系譜など)を語るストーリー展開も、これは何も日本だけが誇る独自の世界観ではないとしている。世俗の王の統治権威が、聖なる神に由来する天から与えられたものである。こうした説、理論は西欧(”devine right of Kings”)にも中国(天帝思想、易姓革命)にも認められるという。しかし、そのこの地の統治者(天皇)自体が天から降臨した神の子孫である、という「皇孫思想」は中国の「天帝思想」とは異なる。また西欧の「王権神授説」とも異なる。いずれも天帝、神から統治権威を与えられる地上の「王」は神の子孫ではなく人である。したがって、神の承認を得られなくなると王権交代が起きる(いわゆる「易姓革命」)。古事記では、こうした中国の「易姓革命」の思想は取り除かれ、神の子孫による万世一系の皇統が主張されている。この点でチェンバレンが分析したような「共通性」には注釈と修正が必要となっている。8世紀の創出された古事記の世界観は、当時の東アジア情勢を反映して中国の世界観(中華思想)に対抗する意図を持って創造された思想(小中華思想)である。これが現代の定説になっている。ただ、チェンバレンの分析、考察は戦後になって皇国史観への批判、古事記/日本書紀の批判的研究が解禁になってもたらされた研究成果の先駆けとなるものであったと言える。また古事記のストーリーが一貫せず矛盾に満ち満ちた筋立てであるのは、太平洋諸島、中国などの大陸諸国に伝承された神話の数々を8世紀の編纂当時に取り入れた結果であり、必ずしも日本独自の神話だけで統一性を確保できているわけではないとも分析している。たしかに各国に伝わる神話が世界的に類似したエピソードを共有していることや、それらが地域を超えて交流していたことは最新の神話学、民俗学的研究でも証明されてきている。この分析、考察も当時としては画期的であった。これまで西欧諸国においては、ギリシア神話やキリスト教創世神話、北欧神話中心の比較神話学であったが、これに新たな素材を発掘提供し、一石を投じた影響は大きい。また神道という日本古来の宗教的伝統の存在とそのルーツを西欧に紹介した意義も評価されるべきものだろう。


チェンバレンの日本観 ハーンとの比較

チェンバレンの日本観はよくラフカディオ・ハーンのそれと比較される。二人はともにジャパノロジストとしては著名であり、ともに親交があり、その記録として「往復書簡集」が残っている。しかし、日本への向き合い方には違いがあり、それが激しい論争にも発展する。ハーンがジャーナリスト、文学者の視点に立ち、人々との接点を重視するフィールドワークの民俗学的、実証主義的であったのに対し、チェンバレンは学者の視点、すなわち書籍、文献資料を通じた研究者の視点、研究アプローチ(いわゆる「書斎学派」)をとる。そこには西欧文明と対比する比較研究的(comparative study)な姿勢が根底にある。チェンバレンはマルチリンガルでコスモポリタンであるが、基本的にはアングロサクソンの視点に立脚し、ラテン言語圏の文学作品を評価の基点としている。まずギリシア哲学、キリスト教を底流とした西欧文明があり、これに対比される「異教徒の文明」という東洋観、日本観になっている。この頃の来日外国人の中にあった「文明開花とはキリスト教文明化することである」という暗黙理解が底流に潜んでいたが、チェンバレンもその一人であった。この点はハーンが、キリスト教世界観と西欧的価値観への懐疑に立脚して、むしろケルト的原点回帰、多民族主義的視点、心情で日本を理解していたのとは大きく異なる。ハーンは、日本の文明を観察、研究の客体ではなく、むしろ共感(Japan sympathy)の対象として捉えた。

チェンバレンは「日本事物誌:The Things Japan」の中でも、ヨーロッパ人の日本への理解の浅さと、西欧中心的な価値観に基づいた一方的観察、あるいはエキゾチシズムから来るロマン主義に警鐘を鳴らしている。しかし一方で、日本の文学についてこう述べている「日本文学は、その文学性において、英文学の詩歌と比べ劣るものである」「古典作品においても、想像的才能、思想、論理的な把握力、深さ、幅、多面性に欠けている」「総じて狭小で偉大ではない」と。たとえば「古事記」の世界観においても、ギリシア神話の神々は世界を見渡しているのに対し、古事記の神々は日本の支配者のルーツとその統治正当性しか語っていない。このチェンバレンの日本の文学への評価を、ハーンは西欧文明とは異なる日本独自の文明に根ざした文学の基層を理解しない言説であるとして異を唱えている。そしてその背景には、日本の文学作品はキリスト教世界観、思想に裏打ちされておらず、所詮は「異教徒」の文化の限界がそこにある、という理解があると批判している。また神話の共通性についても、ハーンはギリシア神話やキリスト教創世神話に基づく世界観を前提とした理解であり、それ以外の文明を十把一絡げにして論じていて、その多様性、独自性を見ていないと批判している。チェンバレンがヨーロッパ人読者に「無理解による誤解」や「ロマン」を戒めていることを考えると皮肉に見える。おそらくチェンバレンのこの視点と評論は、短期間に西欧文明を取り入れて消化したと称する明治期日本人の高揚感への皮肉と、一方でも選民意識の拠って立つ「皇国史観」への盲信に警鐘を鳴らし、西欧文明(キリスト教とギリシャ/ラテン文明の上に成り立つ)の範を示すべき西欧人としての反応、そして反論であったのかもしれない(アーネスト・サトウの日本観にも共通するものが散見される)。過去のブログ:古書を巡る旅(12)Things Japanese:「日本事物誌」チェンバレン


「古事記」に出てくる固有名詞の英訳例

先述の通り、チェンバレンは「古事記」を「the Record of Ancient Matters」と訳している。すなわち、これは物語や聖典ではなく、記録であると捉えた。したがって翻訳にあたっても、記録としての正確さの復元を目指し、意訳を避け直訳をもちいた。例をあげよう。

天照大御神:the Heaven-Shining-Great-August-Deity

伊邪那岐神:the Deity of the Male-Who-Invites

伊邪那美神:the Deity of Female-Who-Invites

大国主命:the Deity Master of the Great Land

高天原:the Plain of High-Heaven

葦原中国:the Land of the Middle of the Reed-Plains

根之堅洲国:Distant Land(本居宣長の解釈は翻訳不能としている)

「神」を「god/goddess」ではなく「deity」と訳している。これはキリスト教でいう、あるいは聖書に記された「god」とは異なる「神」であることを意味しているほか、「神性;divine nature of gods」を表す言葉として使われる。ギリシア神話のゼウス、アポロンなどの不死身の人格神に近いが、古事記の人格神には人と同じ寿命があるので同じではない。悩ましいところだ。記録としての古事記に用いられた変体漢文の文字を逐語的に英訳しているので、英語として理解しにくい訳であろう。むしろこれらの名前の由来を知っている日本人には「神性」を持った「人格神」の英語名として理解しやすいかもしれない。いわば意訳を極力廃し直訳を用いたので、逐語的な注釈が必要だった。地名についても同様で、「天空に広がる平原」「地上に広がる葦の平原」「木の根っこの国(地中の国)」と直訳しているので、聖書に出てくる神の存在と「天国:Heaven」と「地獄:Hell」の観念との関連が掴みにくいだろう。このように英語読者にとってはそれぞれの言葉が解説を必要とする上に、全体のストーリーとしては想像力を掻き立てる物語というよりは、客観的、具体的、硬い論文を読むようである。学術的史料解析に徹していて古代史や神話のロマンは感じにくい。チェンバレンの英訳「古事記」の再和訳が出ると面白いと思う。日本にはチェンバレン「古事記」の研究者も結構いるはずだが、むしろ上代日本語と英語の翻訳論的研究が主流なのだろうか。昨年話題となったアーサー・ウェイリーの英訳「源氏物語」再和訳と比べ、読者を掴みにくく出版事業としては売れないだろう。余計なことだが。ドナルド・キーンの現代的解釈で編纂された「日本文学史」で取り上げられている「古事記」解説が興味深い。



参考: 生成AIはチェンバレンの英訳をどのように評価するか?

今回初めてGoogle GeminiとChatGPTを使ってみた。結果は双方ともよくまとまっていて、ほぼ同じコメントである。が、いずれも可もなく不可もない回答。質問が一般的なのでこうなるのだろう。もう少しキーワードを挙げれば詳細かつより多くの回答が得られるのだろう。更問いでアストンを入れてみた結果が二番目。ネット上で出回っている多くの評論、紹介を総合的にまとめるとこうなる、という例みたいなもので、驚き、感動はない。優等生的な回答だが、試験の論文:thesisとしては「可」がいいとこか。

質問「バジル・ホール・チェンバレンの「古事記」英訳の評価と意義について」

以下原文のまま引用。

 Google Gemini:

1)バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850–1935)による**『古事記』の英訳**(1882年刊行)は、近代初期に日本の古典文学を英語圏に本格的に紹介した、非常に重要な業績です。その評価と意義について整理します。


評価

  • 先駆的翻訳

    • チェンバレンの『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、欧米で初めて古事記を体系的に紹介したもので、翻訳史上きわめて画期的でした。

    • 彼の翻訳は、日本語原文への忠実さを重視しつつも、英語話者が理解しやすい形でまとめられています。当時の水準としては非常に学術的かつ高品質なものでした。

  • 学術的正確さ

    • チェンバレンは原文の微細なニュアンスや神話体系をできるだけ丁寧に説明しようと努めました。脚注や補足解説も豊富で、単なる翻訳にとどまらず、日本神話の背景知識までカバーしています。

  • 限界も指摘される

    • ただし、当時の日本学(Japanology)の限界もあり、誤訳や文化的誤解が一部存在するのも事実です。

    • さらに、彼は古事記を**「文学作品」というより「資料集」**として扱う傾向があり、物語性を重視した現代的な翻訳とはやや異なります。


意義

  • 西洋への日本神話紹介

    • 西洋社会にとって、日本の神話世界はきわめて未知の領域でした。チェンバレンの翻訳を通じて、欧米の学者や知識層は初めて、日本の神話・古代史に本格的に触れることができました。

    • これは、日本文化への関心(特に明治期以降の「ジャポニスム」現象)をさらに後押ししました。

  • 比較神話学への貢献

    • 同時代のヨーロッパでは、比較神話学(インド=ヨーロッパ神話などの研究)が盛んでした。チェンバレンの翻訳は、日本神話を比較神話学の枠組みで分析するための重要な素材となりました。

  • 日本学の発展への基礎

    • チェンバレンは日本文化・言語の研究者としても知られ、彼の業績は後の日本学(特に神道・古代文学分野)の発展に大きな影響を与えました。


まとめ

チェンバレンの『古事記』英訳は、
▶ 「日本古典の国際的紹介の礎
▶ 「比較神話学・文化研究の素材提供
▶ 「近代日本学の出発点のひとつ
と位置づけられます。学術的な限界を抱えつつも、その意義は今日でも非常に高く評価されています。


2)チェンバレンの古事記英訳の評価とアストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンによる『古事記』の英訳は、日本最古の文献の一つである『古事記』を西洋の学術界に初めて本格的に紹介したという点で、非常に重要な貢献を果たしました。彼の翻訳は、1882年にアジア協会の紀要の補遺として出版され、その後書籍としても刊行されました。

チェンバレンの古事記英訳の評価

  • 先駆性: チェンバレンの翻訳以前にも、『古事記』の一部の英訳は存在しましたが、彼のものは全訳であり、詳細な注釈と解説が付いていたため、学術的な価値が非常に高いものでした。これにより、西洋の研究者が日本の古代神話、歴史、文化に触れるための基礎が築かれました。
  • 学術的厳密性: チェンバレンは、当時の日本の国学者たちの研究成果を踏まえ、原文に忠実であろうと努めました。彼の注釈は、神話の解釈、固有名詞の読み方、歴史的背景など多岐にわたり、読者の理解を深める上で重要な役割を果たしました。
  • 文体: チェンバレンの英文は、当時の学術的な文体に特徴的な、やや硬質なものでした。しかし、その一方で、物語の持つ詩的な要素や劇的な展開を伝えようとする意図も見て取れます。
  • 限界: 後の研究者からは、チェンバレンの翻訳にはいくつかの限界も指摘されています。例えば、神話の解釈において、当時の西洋的な視点や進化論的な考え方が影響を与えている可能性や、一部の性的な描写をラテン語で記述している点などが挙げられます。また、日本語のニュアンスを完全に伝えきれていない部分もあります。

アストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳において、**ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)は直接的な翻訳作業には関わっていません。アストンは、日本古代史や神話の研究において、チェンバレンと並ぶ重要な学者であり、『日本書紀』の英訳(1896年)**を完成させたことで知られています。

しかし、チェンバレンの『古事記』英訳が出版された後、アストンは自身の研究に基づいて、チェンバレンの翻訳に対して注釈や修正を加えています。チェンバレンの翻訳本の余白には、アストンによる手書きの注釈が残されており、これは後の版を編纂する際に参考にされました。

したがって、アストンの役割は、『古事記』の英訳そのものを行ったわけではありませんが、チェンバレンの翻訳をより正確で理解しやすいものにするための重要な貢献者であったと言えます。彼の批判的視点と深い知識は、初期の『古事記』研究の発展に寄与しました。

まとめると、チェンバレンの英訳は『古事記』の海外紹介におけるパイオニアであり、学術的な基礎を築きました。アストンは、直接翻訳には関わっていませんが、その後の研究を通じてチェンバレンの翻訳を補完し、より深い理解へと導く役割を果たしたと言えるでしょう。


ChatGPT:

バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850–1935)は、明治期日本に滞在し、日本研究に大きな貢献をしたイギリス人学者です。彼の『古事記』英訳(1882年刊行)は、最初期にして最も影響力のある英訳のひとつとされています。その評価と意義について、主な点をまとめます。


評価

  1. 画期的な初訳

    • チェンバレンによる『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、西洋世界にとって『古事記』を知る初めての本格的な機会を提供しました。

    • 当時、まだ近代的な日本学(Japanology)は発展途上であり、彼の翻訳は日本神話・古代史を英語圏に紹介する重要な役割を果たしました。

  2. 正確性と注釈の丁寧さ

    • チェンバレンは、ただ訳すだけでなく、数多くの注釈を付し、日本語原文の難解な表現や神話的背景、文化的文脈を解説しました。

    • そのため、単なる翻訳にとどまらず、学術的なリファレンスとしても高い評価を受けています。

  3. 限界も指摘される

    • 当時の言語学的・神話学的知識の限界から、現代の日本古典学や比較神話学の観点から見ると、訳語や解釈にやや時代的な偏りや誤読もあります。

    • 特に、神々の名前や儀礼の描写において、現在では異なる解釈が主流になっている箇所もあります。


意義

  1. 日本文化・宗教への関心を喚起

    • チェンバレンの訳によって、西洋の学者や読者たちは、日本独自の神話体系や**宗教的伝統(神道)**に初めて体系的に触れることができました。

    • 特に「天地開闢(てんちかいびゃく)」や「イザナギ・イザナミの国生み神話」などは、以後の日本イメージ形成に大きな影響を与えました。

  2. 比較神話学・東洋学への影響

    • 世界神話研究の中に日本神話を位置づけるための基礎資料として、チェンバレン訳は大いに役立ちました。

    • たとえば、北欧神話やギリシア神話と比較して、日本の神話の特色(生成過程、性別観、自然観)を論じるための材料となりました。

  3. 後続の翻訳・研究への橋渡し

    • チェンバレン訳を踏まえ、後の研究者たち(例:ドナルド・キーン、ウィリアム・アストンなど)が、さらに緻密で洗練された日本古典の紹介を進めました。

    • チェンバレン自身が『日本事物誌』(Things Japanese)や『日本語文典』(A Handbook of Colloquial Japanese)なども執筆しており、彼の『古事記』翻訳はその広範な日本研究活動の一部と位置づけられます。


まとめ

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳は、「学術的先駆性」と「日本文化の国際的紹介」という二重の意義を持っています。完全な訳とは言えない部分もあるものの、その影響力と歴史的重要性は今なお大きいものがあります。

2025年5月3日土曜日

今日は「憲法記念日」〜「天気晴朗なれど波高し」〜

 

仏塔と梵字と鳥居
日本は海外からの文化を受容し日本的に変容させ習合してきた国だ
これまでもこれからも


今日は憲法記念日だ。大型連休後半でお天気も良いので行楽日和だ。なぜ今日が休日なのかは誰も気にしないが連休なのでどこかへ行きたいとソワソワしている人が多い。かといって円安、インフレ、賃金安なので海外旅行での出国は少なく、観光客と言えばインバウンドばかり。日本人は近場でという過ごし方が多いようだ。今年の憲法記念日は、皮肉にも戦後日本に「民主的憲法」を教えたアメリカの民主主義が激震の真只中という、まさに記念すべき日になった。連休ボケ、平和ボケの頭を引っ叩いて、民主主義の将来と日本の将来を考えてみたい。

今のアメリカを見ていると、基本的人権尊重、三権分立、法の支配、民主主義政治、思想信条の自由、言論の自由、学問の自由、平和と平等主義。そして多国間主義、自由貿易体制という人類が長い戦いの歴史の中で勝ち取ってきた理念や価値観がどれも危機に瀕している状況だ。まるで17〜18世紀の絶対専制君主の時代に戻ろうとするが如き「歴史的反動」の嵐が吹き荒んでいる。「ホワイトハウス宮殿」の「アメリカ帝国皇帝陛下」は議会も司法も無視して支離滅裂な命令を出し続けている。こういう「反動」的動きは思った以上に一気に来るものだと改めて知らされる気がする。築き上げるのは長い年月がかかるが壊れるのは早い。そして意外にも抵抗勢力が沈黙している。議会にも司法にもエドワード・コークは現れない。おそらくこれは今の大統領が替われば元に戻るなどと言う単純なことではなさそうだ。恐ろしいことだ。

17世紀イングランドで、主席裁判官であったエドワード・コークはコモンローの優位、法の支配、司法の優位、議会の優位を説いて王権神授説を唱える絶対君主ジェームス1世と対立し、弾圧にもめげず闘った。13世紀の「マグナカルタ(大憲章)」に始まる議会と専制的な王権の戦いは、コークの「権利の請願」、清教徒革命での国王処刑、クロムウェルの共和政、そして王政復古。そして名誉革命で「権利章典」へと発展し、18世紀には議会と議院責任内閣による「君臨すれども統治せず」の立憲君主制が確立した。またジョン・ロックは「市民政府論」で、国民主権と国民の抵抗権を説いた。これはフランスのルソーの人民主権と革命権やモンテスキューの三権分立論に影響を与え、やがてはフランス革命による絶対王権打倒、共和政に繋がり、アメリカ植民地ではイギリスからの独立戦争、ジェファーソンやフランクリンの独立宣言の思想的バックボーンとなった。こうした流れがが現代の民主主義、自由主義、法の支配を標榜する憲法の歴史の基底をなしている。

一方で、18世紀のアダム・スミスの自由主義経済(「神の見えざる手」)、資本主義経済、自由貿易が、それまでの国王が一方的に定める関税で保護された重商主義的貿易体制を壊し、都市資本家の経済活動の活性化で海外進出を果たしヨーロッパの経済発展を進めた。さらにニュートンによる科学技術発展は、科学万能、合理主義の時代を到来させ、産業革命の原動力となった。こうして都市のジェントリー、ブルジョワジーによる産業資本、自由貿易の仕組みと植民地主義が組み合わさって帝国主義的世界競争の時代に向かい、覇権国とそのほかの未開発国(旧文明国)と言う格差が生まれた。

アメリカはそうした絶対君主制、植民地主義に抵抗して建国した国家であった。信教の自由を求めてピルグリムファーザーズがメイフラワー号で移民した新天地であった。そのはずだった。しかし建国250年を迎える今、アメリカはそんな初志を忘れてしまったようだ。信教の自由、思想信条、言論の自由、学問の自由を高らかに宣言し実践したのではなかったか。大量の移民を受け入れ、労働力の確保と生産性向上、多様で自由闊達な議論による知恵の創出と、フロンティアスピリットで国を発展させたのではなかったのか。奴隷制を廃止し公民権法を制定し自由と平等の国を目指したのではないのか。アメリカはそうした人類の自由と民主主義の専制主義への戦いの歴史のながで生まれた自由の申し子であるはずだ。イギリスの植民地を基盤とした帝国主義的な貿易体制を批判し自由主義的な経済システム、金融システムを主導したのは新興国アメリカであった。そのアメリカが、アジアでは植民地支配競争に血道をあげるヨーロッパ列強に先駆けて、鎖国日本を開国し、近代化を助け、日本の世界に引っ張り出した。そして帝国主義、ファシズムに走った軍国日本を徹底的に壊滅させ、戦後の経済復興と民主化を助け、アジアにおける自由主義陣営の主要な同盟国にした。冷戦下ではそうした自由主義的価値観、民主主義を守る戦いの先頭に立って、共産主義や全体主義と戦い勝利したのではなかったか。そうしたアメリカを取り巻く自由主義同盟国アライアンスができた。にもかかわらず今、ロシアや中国、北朝鮮の専制主義、全体主義陣営に、そのアメリカさえもが参加しようとしている。あの尊敬し憧れるアメリカはどうなってしまったのか。悲しい。あれは我々の祖先、祖父母がやったことで我々ではないと。まるで別人のような顔をして17〜18世紀の専制君主主義、保護主義の時代に、そして20世紀の全体主義時代に戻ろうとしている。なあんだ、アメリカ人は結局、旧世界の「王様」に憧れていたのか!ファシズムの独裁者を熱望しているのか!そんな人物を選挙で選ぶ国になってしまったのか。自由と民主主義を守る同盟国を裏切り、全体主義・専制主義国を利する国になろうとしている。しかもその「王様」の言動は朝令暮改、支離滅裂だ。もう正義の味方、良い子でいることに疲れたのか?大国の責任を果たさぬまま自宅に引き篭もろうと言うことか。それが引き起こす混乱はとてつもなく大きい。

さて、そんな今年の「憲法記念日」だ。歴史教師はこう言うだろう。「マッカーサー君、日本国憲法を起草したのは君だろう!日本人が書けない理想的な自由・民主・平和憲法。アメリカは最後までその責任を果たせよ。」日本では戦後ずっと今の憲法はアメリカから押し付けられた憲法だ。だから「自主憲法」を制定しなければならない。そう言ってきた。もっともこれは戦後保守政治勢力の共通スローガンであった。いっぽうで、民主的な憲法を自分で起案できない保守政治がそれを言う資格はない、というのが革新勢力の共通理解であった。「保守勢力は改憲」「革新勢力が護憲」という奇妙な対立関係が戦後長く続いてきた。憲法改正論議は今も続いていつ終わるともしれないし、そもそも何を改正するのか論点すら見えない。改憲することに意義があるという訳か。そんなことで時間ばかりが経過するうちに「押し付けた」アメリカはいまやリベラルで民主的な価値観から遠ざかり、その主導者、守護者の立場から降りようとしている。そして自由主義陣営の正義を守る「世界の警察」の役割も返上しようとしている。憲法九条も非核三原則もアメリカの安全保障の下での話であって、「お前らに搾取されてきた」などと同盟国に捨て台詞はきながら店仕舞いし、自宅に引き篭もろうとしているアメリカの後ろ姿を目の前にすると、これが現実的なものなのか心許ない。今こそ真剣に自国の民主主義と安全保障を考えなくてはならない。憲法改正で問題が解決するのか。戦争も放棄したかもしれないが、強かな外交もインテリジェンスも培われてこなかった。戦後冷戦構造の時代は終わり、アメリカ一極の時代も終わり、専制主義的国家を牽制するパワーバランスが壊れるG-0の時代を迎えている。世界は危険な状態に入った。

今の「王様」がいなくなってもアメリカの凋落は避けられないだろう。パクスアメリカーナは終わりを迎える。日本はこれからどうする。アメリカベッタリはもはやありえぬ。かといって背後には中国やロシアという(民主主義など意に介しない)専制国家が控えている。『前門の虎,後門の狼」だ。気が付けば少子高齢化が急速に進み人口減少、経済規模が縮小し、かつての世界第2位の経済大国もGDPで中国、ドイツに抜かれて第4位に。やがてインドやイギリスやインドネシアに抜かれて7位に転落しそうな勢いだ。軍事大国ではないし、もはや経済大国でもなくなりつつある日本。国家としての国際的な発言力、影響力の低下も避けられない。歴史を振り返れば、日本はどこともベッタリせず独自の道を歩んできた。「中国ベッタリ」(朝貢冊封体制)からは8世紀には脱した。「アメリカベッタリ」は20世紀後半、戦後のことだ。これも(否応無しに)脱する時期が来た。国家レベルの外交関係とは別に民間レベルでの近所付き合いはこれからますます重要になる。これからはアジアの国々やヨーロッパ、アフリカの国々、中南米の国々ともうまくやって行けるだろう。「アメリカか中国か」という二択の罠に陥らないよう第三、第四の選択肢を用意しておくことだ。民主主義、法の支配、自由貿易という普遍的価値観を共有する仲間作りを主導するのは日本の役割だ。だからといって中国やアメリカと仲違いするというわけはない。多くの友人や仲間、家族がいる国だ。大国の狭間で生きる国の運命だが、別に鎖国する必要はないが、大国のせめぎあいから距離を置く。争いに関わらない。どっちつかずでぬらぬらする。それは勇ましいことでもカッコイイことでもないだろうが、したたかにその狭間で生きてゆくのだ。

2025年5月1日木曜日

五島美術館探訪 〜崖の上の邸宅、庭園、茶室〜

 

古老門


五島美術館は、東急電鉄、東急グループの創設者、五島慶太翁(1882−1959)が建てた上野毛の邸宅跡を活かした美術館である。翁が戦前から戦後にかけて収集した日本と東洋の古美術をもとに構成されており、収蔵品総数は国宝5点、重要文化財50点を含む約5000点にのぼると言う。また敷地内には大東急記念文庫もある。この上野毛一帯は広大な敷地を有する豪邸が多く、この美術館もその一角をなす。敷地は6000坪である。美術館の建物は吉田五十八の設計で、寝殿作りの要素を現代建築に取り入れたもの。常設展はなく、すべてが企画展だそうだ。当日は「春の優品展」THE BESTと銘打って五島翁の銘品コレクションを一堂に展示した豪華な展示であった。中でも国宝「源氏物語絵巻」同じく国宝「紫式部日記絵巻」の写本は圧巻である。飛び石連休期間の谷間の平日であったが、お天気も良く行楽日和の一日。多くの鑑賞者で賑わっていた。やはり中高年が多かったが。

ここは多摩川が武蔵野台地を侵食してできた断崖の上に位置する。この武蔵野の面影が残る自然環境をそのまま生かし、そこに邸宅、庭園が築かれている。庭園には「古経楼」「富士見亭」の二つの茶室がある。回遊式の庭には、二つの池、大日如来など石仏、石塔、石灯籠や門が配されている。ただこれを見て回るのは結構体力を要す。断崖の庭園というだけあって高低差が35mというちょっとした低山ハイキングばりの健脚コースだ。散策は高齢者が多いことにも配慮して、階段には手すりが設けられ、遊歩道に敷石を引き詰めれれている。また本館のある台地上まで戻らなくても、一番下まで降りると、そのまま二子玉川駅へ抜けれる出口が設けられている。五島慶太翁はここで足腰を鍛えていたのであろうか。桜の古木が有名だそうだが、その季節は過ぎ、ツツジも終わりでショウブの季節の始まりである。新緑が眩い庭園をゆっくりと散策する。見晴台からは富士山も展望できるという。この日は見えなかった。都会にいてちょっとしてトレッキング気分である。

自然の武蔵野崖線と武蔵野の雑木林をそのまま生かした庭園は、まさに18世紀イングランドの美学者ウィリアム・ギルピン、ユヴデール・プライスの風景論、庭園論に現れる「崇高」と「美」、そして「ピクチャレスク」の世界である。人工物である茶室や石塔なども、経年変化による自然との融合が具合よく進み、良い佇まいである。時間の経過による自然と人工の曖昧さ。詫び、寂び、美しい古び。それが人口稠密で極度に近代合理主義的、資本主義的論理で再開発されたメトロポリス、東京に古い日本の痕跡のように残されている。こうした日本庭園の美的感覚はプライス、ギルピンにとって共感するものが大いにあるだろうが、この21世紀の東京の景観をどのように評するのか、その評価を聞いてみたいものだ。果たして「ピクチャレスク!」と叫ぶだろうか。




美術館玄関

吉田五十八設計の本館



この界隈には広大な敷地を有する邸宅が


天佑庵門

茶室「古経楼」

茶室「富士見亭」



藤の季節は終わっている


赤門










(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4 展示室内は撮影禁止)