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2025年3月29日土曜日

古書を巡る旅(63)「セネカ道徳論集:Seneca's Morals」1685年英訳版 〜古代ローマの哲人の言葉が繰り返し引用される訳〜

表紙 哲人政治家セネカの悲劇的な最期の姿が描かれている

幸福な人生、怒り、寛容について



セネカの出身地スペイン・コルドバに建てられた像

   Sir Roger L'Estrange (1616-1704)


セネカ: Lucius Annaeus Seneca (BC1(?)~AD65)は、ローマ時代の政治家、元老院議員。ストア主義哲学者。第5代皇帝ネロの幼少期の教育係でのちにブレーンになる。最後はネロに自死を命じられ従容として冥界に旅立った。この悲劇的な死は日本人にとっては秀吉と利休の物語を彷彿とさせる。セネカは多くの著作を残している。本書は、そのセネカのラテン語の論文集、書簡集を英訳、要約した "Seneca's Morals by way of Abstract":「セネカ道徳論集要約版」である。翻訳者は17世紀のイギリスの文筆家、言論人、ロジャー・エストランジェ卿:Sir Roger L'Estrange (1616-1704)である。本書は5部構成になっており、今もオックスフォード版や岩波全集版として現代語訳されている名著ばかりである。1685年刊行の稀覯書である。

1)恩恵について 

2)幸福な人生について 

3)怒りについて 

4)寛容について 

5)書簡集

英訳者のエストランジェはノーフォークの貴族の出で、17世紀イギリスの王政復古期の著述家。政治パンフレットやThe Observatorを出版した言論人で、イギリス最初の新聞発行人でもある。根っからの王党派で、反王党派の言論弾圧を行いその功績で王政復古後のジェームス2世に爵位を授けられた。いわば「王室報道官」あるいは「検閲官」のような立場であった。またトーリー党の議員としても活躍したが、名誉革命でジェームス2世が王位から追放されると、新たに即位したウィリアム3世により彼は投獄され政治生命を失なう。それからは古典の翻訳に勤しみ、本書の他にも「イソップ物語」(1692)の英訳も手がけた。後世、17世紀イギリス出版界、言論界における彼の評価は高いとは言えず、長くあまり注目されてこなかったが、最近になって本書のような古典の翻訳本、とりわけイソップの英訳者として注目されるようになった。その文学界への影響力の軽重は別にして、どこか前回紹介した王室桂冠詩人ドライデンの人生に似てないか?(2025年1月18日「古書をめぐる旅(60)ジョン・ドライデン)この時代の王権に対する言論人、詩人、文学作家の葛藤と挫折。やがてその能力の発揮場所を古典作品の翻訳に求めた人物がここにもう一人いた。

古代ギリシャのストア主義哲学はローマ帝国繁栄の時代(パクスロマーナ)にセネカやキケロ、エピクテトスなどによって論じられた。五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニウスも「自省録」でストア主義を説いている。ストア主義は、人間は「理性」:ロゴス(logos)によって「感情」:パトス(pathos)を制することで「不動心」:アパティア(apatheia)に達することができると考える。人間の自然的本性は「理性」であり、故に「理性」に基づき自然体で生きることよって「自己を確立」「心の平穏」を果たすことができると述べている。不安が渦巻く世の中で、個人はどうすれば幸福になれるか?これには、自己のコントロール下にあることだけに集中するべきであるとする。相手が何をどのようにするかではなく、自分が何をするべきかのみに集中する。また未来の苦しみに対する恐怖と、過去の苦しみの記憶から解放されることだとも言う。すなわちストア主義によれば、自分がコントロールできない過ぎ去った「過去の呪縛」や、まだ起きていない「未来の不安」から脱し、「現状への怒り」や「他人への憎しみ」などの受動的な感情がら脱して、理性によって自分を確立することが心の安定と幸福をもたらすと言う。なかなか「言うは易し行うは難し」である。ストア主義、すなわち禁欲主義(「ストイック」の語源となった)は、セネカなどの現行録や書簡集の読むと、哲学と言うよりは道徳論、人生訓のようでもあり、ある意味中国の老荘思想や、孔子・孟子、論語の教えに通じる点を感じる。そのため現代でも難しい哲学書よりも、多くの格言集、名言集にセネカの言葉が引用され、その思想が伝えられている。

昨今、セネカの理性に従ったストイックな生き方を提唱する「ストア主義哲学」が見直されている。経営書などにもたびたび引用されるケースが見られる。現状への怒りと先行きの不安。感情のコントロールがままならないような事態が毎日のように起きているという現実。SNSが広げる根拠不明で何が真実なのかカオスな世界に、精神状態を平静に保つことが出来なくなっている人も多い。まさに他人の言動に一喜一憂する。人に振り回される。そんな時に、感情:パトスではなく理性:ロゴスに基づく行動を中心とする生き方が不動心:アパティアに導いてくれるという考え方が、時代を乗り切る知恵として取り上げられるのである。しかし、どうしても人生訓的な取り上げ方が多くて、物事の本質に迫る哲学的な深みがない。したがって「言うは易し行うは難し」になりがちである。

差はさりながら、アメリカ繁栄の時代、パクスアメリカーナ時代の終焉を迎えようとする21世紀、2000年前のパクスロマーナ時代の言葉を噛み締めるのも一興だ。これまで培われてきた価値観、道徳観、倫理観に対する反動が起こり、ありとあらゆるものがひっくり返り、何が正義で、何が真実なのかわからなくなってしまう不安。人間の理性が信じられなくなっている時代だ。怒りと憎しみと対立を煽り、言動は支離滅裂だが「我欲」だけはブレない現代の「皇帝」。彼はその国の繁栄と世界の平和を、そして人々の心の平和をも毀損する。そもそもそんな古代の専制君主のような人物を「皇帝」に選んでしまう民主主義とはなんなのか。しかも専制をコントロールするはずの仕組みが全く機能しないのはなぜなのか。信じてきた価値観が揺らぎ始める不安。信頼を寄せていた社会システムに裏切られる失望感。そんな時こそ理性:ロゴスによる不動心/心の平安:アパティアに立ち戻ってリスタートするしかない。怒り、憎しみ、対立、そして専制主義への「へつらい」は人間のロゴスを破壊する。ロゴスが破壊されるとアパティアも失われる。

このセネカ道徳論集は、本書がそうであるように17世紀イギリスの王政復古期に英訳されて人々に読まれた。この時代のイギリスはまだ繁栄の時代(パクスブリタニカ)の前夜であったが、内戦で王政、共和政、王政と目まぐるしく政治体制が変わり、カトリック、国教会、非国教会と宗教対立が起き、外に目を向けるとスペインやオランダとの海外覇権争いという苦悩の時代であった。この時も価値観や道徳観の混乱が起き、専制君主への「へつらい」で生き延びようとする「賢人」も続出した。人々は「信頼」「共感」に疑いを抱き、ついには自己を見失った。そして古代ローマの哲人セネカが読まれた。時代は繰り返す。そして先人の知恵もまた繰り返し引っ張り出される。「困った時のセネカ様」というわけか。結局人間は同じことを繰り返して永遠に心の平安:アパティアを得られないようである。宗教/信仰も相対化され、また理性も相対化されてしまう。そうした中で自己の確立と不動心は他人の言説によってなすものではなく、自分の理性の絶対化によりなすものだ。セネカの言葉、ストイックな姿勢から学ぶことはそれだろう。それは単なる言葉による人生訓ではなく、まさに哲学なのだ。自分が育て支えた暴君ネロに、最後は自死を命ぜられ、従容として死に向かった。それは自分自身のロゴスに対する絶対的な自信があったからだ。それがアパティアというものだろう。セネカとネロ。利休と秀吉。その生き方は歴史が評価し、その言行は時間による熟成によって哲学に止揚される。


セネカの言葉:

“It is not that we have a short time to live, but that we waste a lot of it. Life is long enough, and a sufficiently generous amount has been given to us for the highest achievements if it were all well invested. But when it is wasted in heedless luxury and spent on no good activity, we are forced at last by death’s final constraint to realize that it has passed away before we knew it was passing. So it is: we are not given a short life but we make it short, and we are not ill-supplied but wasteful of it… Life is long if you know how to use it.”

「人生が短いのではない、我々がそれを浪費しているのだ。人生は長い。使い方さえ誤らなければ、どんな偉業をも成し遂げられるだけの時間を我々は与えられている。しかし、それも、ぼんやりと無益なことばかりに時間を浪費していれば、我々は最後に死という最終期限をもって、気づかぬうちに人生が過ぎ去っていたことを突きつけられることになる。人生が短いのではなく、我々がそれを短くしているということ。時間が与えられていないのではなく、我々がそれを浪費しているということ。人生は長い、その使い方さえ知っていれば」

“It is not the man who has too little, but the man who craves more, that is poor.”

「ものを持たぬ者が貧しいのではない、ものを求め続ける者が貧しいのである」

“Every new beginning comes from some other beginning’s end.”

「新しい始まりは常に何かの終わりによってもたらされる」

“All cruelty springs from weakness.”

「全ての残酷な行為は弱さに起因する」

“There is no great genius without some touch of madness.”

「天才は必ず微量の狂気を有す」

“Time heals what reason cannot.”

「時間は理性が癒やせぬ傷を癒やす」

“Time discovers truth.”

「時は真実を見つけ出す」


2025年3月19日水曜日

皇居東御苑のサンシュユが満開に!

春の皇居東御苑は、梅や桜、椿はもとより、マンサク、ハクモクレン、ヒューガミズキなど、色とりどりの花がつく樹木が次々と開花して美しい。サンシュユ(山茱萸)は梅から桜へと移り変わる時期に満開を迎える樹木で、その黄色い花が気分を明るくしてくれる。中之門・大番所前と平川門のサンシュユが特に見事である。サンシュユは元々は江戸時代中期に中国から伝来した木で、漢方薬の原料になった。秋に赤い実がつき、その実を干して煎じて生薬として服用すると、滋養強壮、強精、気鬱の改善、頻尿改善などに効くそうである。中高年の友、八味地黄丸などの主原料である。黄色い色からして元気が出そうだ。

しかしこのサンシュユ、満開で見事な樹相にも関わらず、なぜかそれほど人気がないようでカメラを向ける人が少ない。今日も大勢の外国からの観光客で賑わっている東御苑だが、早咲きの寒緋桜や河津桜の前で記念写真を撮る人は多いが、サンシュユの前で記念写真撮る人はまず見かけない。目立つ色なのに人が群がってはいない。ということで独り占めでゆっくり鑑賞、撮影できる。もっとも写真撮り始めると、なぜか結構人が集まってきてみんなスマホで撮り始めるからおかしい。よく行列のできないヒマな饅頭屋で買っていると、必ずと言って良いほど客が集まってくる。不思議だ。私には招き猫効果があるようだ。

今日(3月18日)は、ちょうどメジャーリーグ開幕戦(MLB TOKYO SERIES)、ドジャーズ対カブス戦が東京ドームで始まる。対巨人と対阪神とのエクシビション・ゲームは昨日までで終わったが、どのゲームもチケットが高騰していて手に入らないようだ。そのせいかドジャーズのキャップを被ったり、カブスのTシャツ着たりした観光客を多く見かけるように感じる。大谷、山本、佐々木、そして鈴木、今永の活躍を楽しみにしている。日本人もどんどん海外へ出て自分の実力を発揮してほしい。「日本一」じゃなくて「世界一」を目指せ!ウチに閉じこもっていてはダメだ。

今年2月、梅の季節の東御苑探訪ブログ:2025年2月22日「皇居東御苑の梅」


平川門のサンシュユ




中之門


中之門、大番所前のサンシュユ









二の丸庭園

諏訪の茶屋

巽櫓(桜田二重櫓)


百人番所

左手は「皇居三の丸尚蔵館」

(撮影機材:NikonZ8 + Nikkor Z 24-120/4)

2025年3月15日土曜日

古書を巡る旅(62)「ピクチャレスク」''Picturesque'とは何か? 〜「インスタ映え」のルーツは18世紀イギリスの William Gilpin?〜

 

William Gilpin (1724-1804) (Wikipedia より引用)

Gilpinの「ピクチャレスク旅行記」三部作


私は趣味として風景写真を撮ること、鑑賞することを大いに好むのだが、どうしたら「良い」写真を撮れるのか。「良い」写真とは何か。この問いに常にぶつかる。これは写真を愛するものの永遠の問いだろう。敬愛する写真家、入江泰吉が古代大和をめぐり、歴史という時間をカメラで写しとる。古代人の心情を写しとる。心象風景を写しとる。この不可能を何とかならないかと一生をかけてやってきたがなかなかうまく行かないと自評している(2016年12月20日「入江泰吉旧邸訪問」)。カメラという文明の利器を使って時空を超えた景色を切り取る。現代のカメラはよく写る。誰でも「綺麗な」写真を撮ることができる。しかしその技術的合理性を超えた「美」を追いかける求道者の道を極めることの難しさ。マエストロの言葉には重みがある。風景写真は、文字通り風景をそのまま切り取ればばそれで良いのだろうか。それには何か特別なテクニックが必要なのか。高解像なレンズが必要なのか。確かに「絵のように美しい」風景写真を目にすることは多いが、そこには何が表現されているのか。表現者の心や訴えかける思いが写っているのか。その美学に感動するか。写す側も、鑑賞する側も悩むところだ。まさに「絵のように美しい」:「ピクチャレスク」とは何なのか?という問いである。

ピクチャレスク:Picturesqueとは?

18世紀末ごろ、イギリスで盛んになった美的概念、あるいはそれを追い求めるムーヴメントである。まさに文字通り「絵のように美しい」と言う意味である。しかし、そこにはどのような「美」が表現されているのか。それはどういう芸術としての感覚を持つのか。それを追いかけたのがウィリアム・ギルピンである。彼は、自然の景観に、17世紀の風景画家クロード・ロランに代表されるような風景画の美をみいだすことを目的とした「ピクチャレスク旅行」を唱導した。そしてイギリス全国を旅して回った。その中で「ピクチャレスク」を新たな美的感覚と認識するようになった。ロランは風景が美学的に真剣に取り組むべき画題とみなされる事がなかった時代に、ローマを中心に風景を主題とした作品を多く生み出した。ギルピンはこれに触発され、イギリス国内の風景にそれを求めた。すなわち荒々しく恐怖さえ覚えさせる山の風景や廃城の佇まいに「崇高」さを感じ、これに「美」的感覚が結合すると考えた。これに影響を受けたユヴデール・プライスが、哲学者、美学者であるエドモンド・バークの提唱した美的範疇としての「崇高」と「美」という対立理念(「崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察」1757)と、これをつなぐもう一つの美的範疇として「ピクチャレスク」を加えた。これには「不規則性」「突然の変化」「想像力を刺激する力」などの特質があることを指摘した。このようにギルピンの旅行記がきっかけとなり1770年ごろからしだいに流行をみせた「ピクチャレスク」は、ターナー、コンスタブルなど多くの画家に自国の風景に対する目を開かせるとともに、ワーズワース、コールリッジなどロマン派詩人にもその詩作の「美」に大きな影響を与えた。そしてリージェントパークや多くの宮殿建築、庭園を設計した建築家ジョン・ナッシュは、プライスにインスパイアーされて「ピクチャレスク」を庭園に実践しようと試みた。すなわちフランスの庭園のような幾何学的人工的な造園よりも、非対称で自然を生かした庭園を好む、いわゆる「イングリッシュ・ガーデン」の基本思想を生んだ。「ピクチャレスク」は多様な哲学的、美学的な要素を内包し、芸術のジャンルを超えて多方面に発展的に生成されていった概念であった。

こうしたムーヴメントは、美学の世界においては18世紀イギリスのプロテスタント全盛時代に起きた、カトリックの懐古的世界へ回帰しようとする動きの一つであると捉えることができる。中世ゴシック世界を舞台としたホレス・ウォルポールの「オトラント城奇談」(1764年)など18世紀怪奇小説もここから生まれた。すなわちプロテスタント的な人間の理性に基づく経験主義的、啓蒙主義的合理主義への反動。換言すれば科学的合理性、理性による認識よりも、カトリック的な超自然的世界、中世的な非合理性世界に美的価値を見出す。例えば美的な世界にゴーストや幽霊、悪魔の存在も否定しないで受け入れる。またバークが言うように「崇高」には人智を越える「恐怖」の感覚すらが含まれる。不完全なもの、意表をつくもの、これらもある種の想像力を掻き立てるものとして評価する。そのようなムーヴメントであった。時あたかも産業革命の進展、科学万能の時代であり、それへのある種の反動が沸き起こった時代でもあった。神秘主義的な詩人ウィリアム・ブレイクが、あの有名な長編叙事詩「ミルトン」の一節「エルサレム」で歌った、「緑の沃野に‘悪魔の工場‘が屹立した」時代であった(2021年9月8日古書を巡る旅(14)「ブレイク詩集」)。ギルピンやプライス、バークが言う「美」と「崇高」といった審美感は、科学的合理性を有した美意識や、人間の理性から来る感覚ばかりではなく、むしろゴシック文化や、さらにはケルト主義といった審美的文化観を共有するものなのである。特に視覚表現はゴシック文化と密接につながるものであり、そこにある種の想像力を刺激する「ピクチャレスク」が「美」と「崇高」に次ぐ第3の審美概念として登場しする余地があった。「ピクチャレスク」は18世紀に新たに出現しつつあったロマン主義的感性の一部をなしていた(下記参考1)。


William Gilpin:ウィリアム・ギルピン(1724−1804) 

カンバーランド地方出身でオックスフォードに学び、聖職者・教育者、文筆家であったウィリアム・ギルピンは、バークやプライスらと共に美学運動を主導した人物として知られ、イングランド、ウェールズの風光美を、自らスケッチし銅版画として掲載した旅行記をシリーズで発表した。これが18世紀後半から19世紀初頭にイギリスにいわば「ピクチャレスク国内旅行」ブームを引き起こした。そしてたちまちターナー、コンスタブル等の風景画家、ワーズワース、コールリッジ等のロマン派詩人にも深い影響を与えた。また、ギルピンの思想は、「ピクチャレスク旅行」ブームをもたらしたというのみならず、その後の美学・美術史学、文芸理論、英国ロマン主義文学研究、さらに近年は 環境学、風景学、景観学、都市論の視点からも高い学術的関心が寄せられている。しかしながら、ギルピンは日本ではほとんど取り上げられることがなく、翻訳本も研究書も少ない。最近になって風景論や環境論などで学術的な関心が高まりつつあり、彼の思想、著作が、いくつかの研究論文や評論集に引用され、取り上げられるつつあるが、ギルピンの主要著作の原典はほぼ国内では入手困難な状況である。今回は彼の著作の中から3冊の原本(下記参照)を入手することができたので紹介したい。さらにエドモンド・バークの著作、「崇高」と「美」に関連したものを一冊紹介したい。バークは18世紀イギリス政治思想史、哲学史のなかで取り上げられ、特にフランス革命を批判した著作は歴史的にも重要著作である。本書も後世の研究家による復刻版である。


ピクチャレスク旅行記

イギリスでは貴族階級を中心に盛んであったヨーロッパ大陸を巡るグランドツアーに対して、先述のようにイギリス国内の大自然、荒涼たる風景を巡るツアーがブームになっていった。背景にはフランス革命による政情不安で大陸のグランドツアーが困難になったことがあると言われている。しかしアルプスの雄大な景観やギリシア、ローマの遺跡を楽しむのでなくても、この機会にイギリス国内のまだ開拓されていない景観を見直そうという動きである。この時期は産業革命の進展で工業化が進み、都市に中産階級と労働者階級が生まれ、産業資本家などの都市富裕層も現れた。また都市と田園地帯の二極化が明確になりつつある時期で、都市住民を中心に田園地帯や丘陵、荒涼な山岳自然や遺跡への憧れも広がっていった。その一方で地方にも工場ができて自然や景観破壊が進みつつある時期でもあった。さらに前出のような科学的合理性全盛の時代への反動、中世的非合理性への懐古、ロマン主義への憧れもあり、そんな時代背景の中、この国内ツアーブームに火をつけたのがこのギルピンである。南ウェールズ、ウェイ川紀行を嚆矢として、ニューハンプシャー・ニューフォレスト地方、スコットランド・ハイランド地方、サセックス、ケント地方などを周り紀行文を出した。、特にギルピンの出身地であったカンバーランド、ウェストモーランド、湖水地方の紀行が人気である。彼独自の湖水地方の「景観保全」の視点からの「ピクチャレスク」論は、現代の環境保全運動にも通じる考えとして学ぶべき点が多い。現在、ワーズワースの詩とともに湖水地方が世界中の人々が訪れる人気の観光地となっている原点はここにあった。しかし、彼の一連の旅行記は単なる旅行ガイドブックではないところに着目すべきであろう。彼の美意識:picturesque-eye、風景観が披瀝されている、いわば「美学論集」と言って良い。

ギルピンは自然の風景に「美」を感じ、そこに「芸術」を見出すのであるが、彼の風景観は独特である。それは森を見るにしても、自然の樹木による造形美を愛で、伐採で荒廃した森の植林などの人工的な規則性による修景を嫌う。たとえ景観の一部に人工的な構造物(古城や修道院廃墟など)があっても、その「人工的規則性」を打ち消すものとして「時間」という要素を重視した。すなわち朽ち果てた樹木、岩にまとわりつく雑草や、岩山に屹立する古城、丘に佇むカトリック修道院の廃墟など、時代の移り変わりの中で経年変化して自然と同化するものの中に「美」を見出す。人工物の介在も「時間の経過(ageing)」による「自然との調和」を「芸術」として鑑賞する。これは、冒頭に紹介した入江泰吉「大和古寺巡礼」に見られる、「時間の経過」を「歴史の心象風景」の重要な要素として表現することに通じるものでありとても興味深い。また当時、こうした旅行では、クロード・グラスという表面に色を付けた楕円形の凸面鏡を持参し、風景鑑賞に用いることが流行した。これは現代における旅行の友、カメラやスマホの元祖と言っても良いかもしれない。風景に背を向けてクロード・グラスを覗くと、風景が楕円形に切り取られ、しかも凸面鏡によって構図がデフォルメされて写し出され、まるでクロード・ロランの風景画のような視覚効果が得られるというものだ。このような視点、作法で自然の風景を鑑賞することによって「ピクチャレスク」な美的感性を得るのである。ギルピンの挿画は、下記に掲示するようにこのクロード・グラスの楕円のフレームに収められている。

当時は写実的な風景絵画や版画といったヴィジュアル芸術が盛んになり始めた時期でもあり、旅行に出かける時も、事前に絵画や版画を見てから後に、現地へ出かけてその風景を体感する。現地ではクロード・グラスを通じて生の風景を鑑賞する。そしてそれをスケッチに写しとるという、風景を新しい「メディア」を通じて鑑賞する一種の「作法」あるいは「プロセス」が生み出された時期でもある。こうした動きは19世紀以降、写真(ダゲレオタイプ)、映画(ルミエール)の発明と、それに続く作品が一般にも普及するに至って、写真や映画で事前に名所や絶景を見てからを現地を訪れる。あるいは写真に収めるという、現代の旅行ブーム、観光地巡りにも見られる体験につながってゆく。クロード・グラスはその先駆けであった。カメラやスマホで写真撮って、家に帰ってから見る。インスタでフォロワーに共有し自己承認欲求を満足させる。それを見てまた観光地に人が押しかける(あの富士山/ローソン、富士山/五重塔など、そうして生まれた観光地である)という。「ピクチャレスク」は現代の誰もが体験している「インスタ映え」に通じる美的感性の始まりであったともいえよう。


ギルピンの「ピクチャレスク」とバークの政治思想

こうしたギルピンの美意識はバークの哲学、政治思想に通じる。先述のように、景観についても自然を壊して、人工的に新たに作り直すことへの抵抗感が強い。いわば自然を征服するが如き幾何学模様の庭園を嫌悪する、といった傾向である。すなわち古典的なシンメトリーな均衡を保った「美」ではなく、あるいは近代合理主義的な理屈っぽい「美」ではなく、むしろ、「千古斧を入れぬ」悠久の時間を誇る荒涼とした山、かつては栄華を誇った古城、宗教改革で失われたカトリック修道院趾、朽ち果てる樹木、自然の風景の中での人々の昔ながらの日常の営みにも、ある人々にはそれ等が完全で合理的な美的鑑賞対象でないとみなされていたにも関わらず、時間の経過の中で生み出される「美」「崇高」そして「ピクチャレスク」に共感する。ギルピンはそういう美意識を愛でた。こうした美意識、思想はをエドモンド・バークは早くも1757年、27歳にして、先述の「崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察」で著したのだが、のちに彼の政治思想、哲学にもそれが色濃く反映されている。バークの有名なフランス革命批判(「フランス革命に関する省察」1790年)である。彼はフランス革命を「歴史」と「未来」を断ち切る思想と行動であるとして批判した。一切を壊して更地にして新しい平等世界を作るより、王権と議会との長い時間をかけた闘争と調和(マグナカルタ:Magnacartaから権利章典:Bill of Rightsへ)の中から生まれた自由や民主主義、慣習法の積み上げであるコモン・ローを尊重する。不完全で矛盾すら含む歴史的な残滓を引きずるものであっても、バークはフランス革命よりイギリス名誉革命を評価する。現にフランスはこののち、異様な形の独裁政権とナポレオンの帝政復活、共和政と帝政の繰り返しによる混乱を味わう。一方のイギリスは、アメリカ植民地を失ったものの大英帝国への道を歩み始める。この「急進主義的」:radicalismよりも「漸進主義的」:gradualismな思想、感覚がある意味でイギリスの伝統であり、イギリスの保守主義、いや古典的自由主義の源流なのである。一般にバークは「保守主義」の代表的政治思想家と見做されるのだが、果たしてそうなのであろうか。ちなみに彼はアメリカ独立戦争を礼賛している。歴史や時間の経過を尊重し、不完全であっても試行錯誤する人々の着実な歩みを尊重する。まさにバークの美学、「ピクチャレスク」な歴史観と言っても良いかもしれない。ゼロ・クリアー、リセットでは解決しない事どもの多さを考えると、これは存外、現代の我々が抱える問題を解く鍵にもなるかもしれない。少なくとも「変容」と「習合」を受け入れてきた歴史を持つ日本人には共感するところがあるように感じる。一方で景観論的視点に立ち戻れば、日本の都市で進行する何の変哲もない経済合理性一本槍の「再開発」という名の「リセット」が、歴史ある都市景観の「時間の経過」を消し去り、「ピクチャレスク」な美的センスが感じられない風景を生み出してゆく。今の日本こそギルピンの「ピクチャレスク」風景論的視点が必要に違いない。


ギルピンの旅行記三部作

(1)『ワイ河と南ウェールズ各地紀行』:Observations on the River Wye, and several parts of South Wales, &c. relative chiefly to Picturesque Beauty; made In the Summer of the Year 1770;London:, the First Edition 1782 ギルピンの「ピクチャレスク紀行」の第一号であり、単なる旅行ガイドというより、風景論、「ピクチャレスク論」を展開する理論書となる書である。特にワイ川流域に佇むティンターン修道院の廃墟(現存する)に強い感動を抱き、自然と人工的な景観の調和の美を説く。初版。



Tintern Abbey

Tintern Abbey

Dinevawr Castle

Wye河流域のNew-Weir



(2)『イングランド各所、特にカンバーラントとウェスト・モーランド地方の山と湖水紀行』:Observations on Several Parts of England, Particularly the Mountains and lakes of Cumberland and Westmoreland, Relative Chiefly to Picturesque Beauty, made in the Year 1772;London, the Third Edition 1808 ワーズワースなどロマン派詩人に影響を与え、現代でも人気の「湖水地方」:Lake District 旅行ブームを湧き起こした紀行文である。湖水地方の景観保護の観点からのさまざまな分析と提言は、現代の環境保護運動の原点を見ることができる。ギルピンの出身地でもある。第3版1、2巻合本版。




Ullefwater

Warwick Castle

Windermere湖

羊飼い



(3)『ハンプシャー・ニューフォレストの森林景観』:Remarks on Forest Scenery, and other Woodland Views (relative chiefly to Picturesque beauty), illustrated by the Scenes of New-Forest in Hampshire, 2 vols London 17791~94 荒々しいハンプシャー、ニューフォレストの森林景観を取り上げ、「崇高」と「美」と「ピクチャレスク」を論じた書である。山容、樹々の樹形、枝ぶり、地元の馬や牛などの固有種についても風景論、美学の立場から紹介、分析している。第二版1、2巻分冊版。





New Forest地方地図



樹形に関する分析

自然の木々が生み出す「美」

おすすめネット「ピクチャレスク紀行」

今はGoogle Mapで検索することで、上記で紹介されたイギリス各地の現在の様子を確認し、掲載された写真で風景を楽しむことができる。驚くのは、こうした「ピクチャレスク」な景観は、今でもよく残っており、川の流れ、森、丘陵、山、そして古城や修道院廃墟もギルピンの挿画の通り保存修景されていることが確認できる。イギリスの自然保護、遺跡保存、街並み景観の保全は見習うべきことだ。日本の自然や田舎も美しいが、いかんせん風景の中に現代的人工物や周囲の景観と不調和な人の手が入り過ぎている。ギルピンの言う「時間の経過が自然との調和をもたらす」景観が失われすぎているのは誠に残念だ。高度経済成長による破壊が終わった日本には、これからの時間が風景の熟成の時間なのだろう。産業革命の只中に自然と風景の美の保全を意識したイギリスに学ぼう。ギルピン始めとする「ピクチャレスク」運動が現代までイギリスでは生きていることを知ろう。

それにしてもなかなか現地へ足を運ぶことが出来なくても、こうして日本の自宅にいながらネット上でギルピンの美意識の一端を(サンプル的であるが)垣間見ることができるようになった。便利なものである。



(参考1)Edmund Burke:エドモンド・バーク (1729−1797)

『崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察』:A Philosophical Enquiry into Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful 1757

『フランス革命に関する省察』:Reflection on the Revolution in France 1790

18世紀イギリスの哲学者、美学者、議会ホイッグ党議員。グラスゴー大学学長。絶対王政を批判、議会政治を擁護した。アメリカ独立戦争を支持。フランス革命を批判。ルソーと対立した。保守主義の元祖とも評されているが、ホイッグであり反王権擁護の立場であり古典的な自由主義者とも言われる。イギリスのように長い時間をかけて王権と議会が闘争し、和解し、再び闘争する歴史の中からマグナカルタに始まり、権利章典で結実する自由、民主主義、コモンロー/法による支配が生まれた。そうした歴史的なプロセスを重んじる。フランス革命のように、全てを壊して更地にして新たな民主主義、自由主義、平等主義を作り直すという思想と行動に反対。ヒューム、ロックにも影響を与えた。彼は哲学者、美学者としても著作を残しており、「崇高」:Sublimeと「美」:Beautifulについて論じた。これがギルピンやプライスなどとともにイギリスロマン主義に大きな影響を与えた。同時代のサミュエル・ジョンソンにも高い評価を得ている。本書は1958年にノッティンガム大学教授ジェームス・ブルトンによる再版である。







(参考2)Sir Uvedale Price :ユヴデール・プライス (1794)

『ピクチャレスク論 崇高と美の比較論』An Essay on the picturesque as compared with the sublime and the beautiful: and on the use of study ictures for the purpose of improving real landscape 1794

イギリスの貴族、造園家 ギルピン、バークとともに「ピクチャレスク」唱導者の一人。バークの「美」(the beautiful)と「崇高」(sublime )に加えて「ピクチャレスク」Picturesqueという美の領域を提唱したと言われている。リージェント・パークを設計したジョン・ナッシュなどのイギリスを代表する建築家に影響を与えた。


(参考3)平凡社「大百科事典」では「ピクチャレスク」を以下のようの説明している。

主として18世紀イギリスで用いられた美学上の概念。イタリア語のピットレスコpittoresco(〈画家に関する〉の意)より借用されたフランス語のピットレスクpittoresqueの派生語で,今日一般的には,絵のように美しい,きれいなという意味である。しかし18世紀後半には,この語が庭園芸術や自然の景観,建築,風景画に関してもつ意味の定義をめぐって,錯綜した論議が繰り返された。まず,ギルピン:William Gilpin(1724-1804)は,彼自身の手になるアクアティント挿絵入りの多くの著作や〈ピクチュアレスク・ツアー〉と呼ばれる〈ピクチュアレスクなるもの〉を求めての旅行の実践によって,ピクチュアレスクを一つの美的範疇として人々に認識させた。ついで造園家プライス:Uvedale Price(1747-1829)は,バーク:Edmund Burkeが1757年に提示した「崇高」the sublime〉と「美」the beautiful〉の二つの美的範疇には含まれない,複雑さ,多様さ,不規則性,荒削りさ,好奇心の喚起などの性質を含む「ピクチュアレスク」の観念を定義した(《ピクチュアレスク試論》1794-98)。プライスの影響下にナッシュ:John Nashが建築において,またレプトン:Humphrey Repton(1752-1818)が風景式庭園においてピクチュアレスクを定義すべく試みた。さらに芸術愛好家ナイト:Richard Payne Knight(1750-1824)は,《風景画》(1794)や《趣味の原理の分析的研究》(1805)で,ピクチュアレスクについて論じている。ことに後者においてナイトはプライスに反論して,ピクチュアレスクが,対象がある客観的条件を備えていることによって生ずる美的価値であることを否定し,それが対象の純粋に視覚的特質から触発される鑑賞者の連想によって生ずる感動であると主張した。いずれにせよこれらの人々のピクチュアレスクの定義に共通するのは,ピクチュアレスクが,理性によって認識されうる合理的な比例や均衡によって生ずる美的快感とは対照的に,想像力を刺激するある種の不完全さ,意外性にもとづく美的価値であるという思想である。...(中略)... ロマン主義の先駆的美意識といえよう。(下線は筆者による)

執筆者:鈴木 杜幾子 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 





2025年2月28日金曜日

古書を巡る旅(61)『The Life and Strange Surprising Adventure of Robinson Crusoe』by Daniel Defoe 〜 ダニエル・デフォー著「ロビンソン・クルーソー」〜




1891年版表紙

難破して座礁した船からたった一人で多くの資材を陸揚げする
苦闘の始まり

一人だけの世界に他人の足跡発見 危機感と希望のないまぜ

助けたフライデーに英語とキリスト教を教える


今回取り上げる本は、ダニエル・デフォー(1660〜1731年)の『ロビンソン・クルーソー』: The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner, as Related by Himself。初版は1719年である。この物語は誰も子供の頃に一度は読んだり、漫画やアニメで見たりしたことがあるだろう。子供心にもワクワクする心ときめく冒険物語であったことを思い出す。手元にある本書は、1891年にロンドンのCassel and Companyによって出版されたもので、著名なイラストレータであるウォルター・パジェット:Walter Pagetによる120点もの挿画が収録されている。表表紙にも金押しのイラスト付き。これまでもイラスト入りの版はあったが、これほど多様な挿画が散りばめられた版は珍しい。茶色のハーフ・モロッコ革装、レイズドバンド、三方金という豪華装丁の、いわば愛蔵版である。

話は2部構成になっている。第1部が冒険者、商人としての航海と遭難。そして28年間の孤島での生活の物語。第2部はイギリスに生還し、再び冒険と商売に出かけるという話。インド、中国、日本に向かう話も出てくる。しかし、なんと言っても『ロビンソン・クルーソー』といえばこの第一部であり、最も人気があるパートである。

話の冒頭はクルーソーの子供時代に遡り、父に無謀な航海に出ないよう諭されるところから始まる。結局は家を出て船乗りの道を歩む。しかし、初航海でヤーマスから外洋に出た途端難破し命からがら引き返す。もう懲り懲りだ、船乗りには向いていないと悟るが、しばらくするとそれを忘れて今度はアフリカを目指す船に乗る。ベルデ岬沖でトルコの海賊に襲われ、捕虜となりムーア人に奴隷として売り飛ばされる。そこを小舟で脱出し、航行中のポルトガル船に助けられる。親切な船長と共にブラジルへ向かい、農園を開き、経営して軌道に乗せる。あるとき生産拡大のための労働力確保のためにアフリカから奴隷を連れてこようと、再び航海に出る。そこで嵐に合い遭難する。今度はただ一人孤島に漂着する。南米オリノコ川河口の無人島であることが後でわかる。「1659年9月30日 我ここに上陸す」と記録。ここから28年間の無人島での一人暮らしが始まる。難破船から一緒に上陸した犬と猫。そして島で捕まえて言葉を覚えさせた鸚鵡だけが友達。最後の4年は、人喰い人種の生贄として島に連れてこられた、殺されそうになった現地の若者を助け、フライデーと名付け僕(しもべ)にする。

この漂流譚は、モデルとなった出来事(スコットランド人アレクサンダー・セルカーク(1676〜1721年)の漂流記)はあったものの、デフォーのフィクションである。全てがクルーソーの一人称による伝記体で書かれている。このようにあたかもノンフィクションの記録であるかの体裁をとった理由には、小説や物語は嘘(虚構)を書き連ねるもので卑しいもの。神の意思に反するもの。歴史や詩に比べる文学作品としては劣ったものであるとする当時の受け止めがあったからと考えられている。したがってロビンソン・クルーソー自身が書いた記録(as related by himself)という形をとり、初版には著者デフォーの名前すら載っていなかった。しかしデフォーはそれだけの理由でこのような実録風の伝記体をとったのではないだろう。そこには彼の歴史に対する想いがあったと考えたい。彼はコロンブスの探検航海のような大きな歴史や、ハクルートやリンスホーテンなどの公式航海記録に名を残す航海者ばかりが歴史ではなく、海に散っていった多くの名もなき航海者、冒険商人、海賊がいたはずである。こうした名もなき個人のいわば「自分史」「体験記」、すなわち「小さな物語」の積み上げが、「大きな歴史」を形作る。また「大きな歴史」を多面的に描くことができると言いたかったに違いない。彼らの物語(narratives)にこそ歴史を物語る真実があると。源氏物語の中で紫式部が、虚構であるはずの「物語」の方が、事実の記録であるとされる「歴史書」よりも多くの真実を語るものだ、と述べている部分を思い出す。古今東西、小説家はその作品に歴史に対する使命感と矜持を共有するのだろう。それにしてもデフォーのリアリティーに満ちた表現力、行ったことも見たこともない島の、まるで現地を見てきたかのような詳細な記述と情景描写に驚かされる。ノンフィクションを遥かに超えるフィクションである。


この物語の時代背景:

17世紀のイギリスは「イギリス革命の時代」と呼ばれた激動の時代であった。国の政治体制が大きく揺れ動いていた。しかし王権が変わろうと、清教徒革命で国王が処刑されて共和政になろうと、王政復古が起ころうと、名誉革命で王権が移行しようと、変わらず航海に出て商業活動に勤しむ商人がいた。新しい中産階級、都市商工業者層である。これはのちに産業資本家、商業資本家として力をつける大事業家から、中小の商工業者まで幅広いが、彼らに共通するのは「利潤の獲得のための惜しまぬ努力」「勤勉」「自己向上心」という資質であり、「天から与えられた職業」としての商業、生産活動に精を出した点であろう。そして「勤労」によって生み出された価値を「消費」するだけではなく「余剰」を「貯蓄」し、「再生産」に回す。彼らは非国教会プロテスタントである。これまでも王権に庇護され従属する冒険商人、冒険資本主義者、植民地経営者はいたが、職業としての営利活動に徹する「ピューリタン的」中産階級が生まれたのがこの時代であった。マックス・ウェーバーのいう「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の実践者である。「ロビンソン・クルーソー」はまさにそのモデルだった。1760年代以降の産業革命、大規模な産業資本家の登場の前史に生まれた「産業人」の姿であった。政治的には王党派のトーリー党と、都市中産階級庶民派のホィッグ党の争いの時代であるが、彼らの商業活動は、そうした政治闘争とは別に、ピューリタン精神と経済的欲望に基づいて着々と進められていった。まさに、のちにアダム・スミスのいう「神の見えざる手」に導かれた自由商工業者たちの登場である。

主人公のクルーソーはそうした中産階級、都市商工業者出身という設定である。17世紀イギリスを代表する文壇の大御所ベーコンやミルトン、ドライデン、ポープの作品には登場しないキャラクターである。物語の冒頭でクルーソーが父に諭される場面が、この時代の精神を映し出し象徴的である。父は彼に「人生の不幸を背負っているのは上流階級と下層階級の人間に限られている」「我々の家系は上流階級でもなければ、下層階級でもない。幸いなる中流である。中庸と節制と平穏を重んじ勤勉に働いていれば危険に晒されることもなく誰よりも幸せに暮らせる階級だ。これこそ神が我々に与えてくださった恩寵である」と。だからわざわざ危険な航海や冒険の旅に出ることはない。上流階級になろうと欲を出したり、下層階級の荒くれ者になったりしてはならないと。そこに神のご加護はないと。これは現代の中間層の父親にもありがちな息子への処世訓であろうが、この時代の空気をよく表している。しかし若者はそれでも家を飛び出して危険を顧みず航海に出る。中産階層を生み出した時代は、父の警告とは裏腹に一攫千金を狙う冒険商人も生み出した。のちに孤島での悲惨な生活に直面した時、父の言葉と神の恩寵を無視した自分を恥じている。しかし、その逆境の中でもで神は我に寄り添い、その「神の恩寵」に感謝しより信仰を深めている。むしろこの逆境こそが、新しい富を創造し、価値を生み出す源泉であったし、神もそれを見守った。

17世紀のイギリスは、土地に縛られ貴族や地主に使われる小作農民中心の「中世的イギリス社会」から、自営農民や、毛織物工業の発達に伴う多くの新興商工業者を生み出した近代社会への移行期であった。さらには大航海時代を経てイギリスやヨーロッパを超えた「巨大な国際市場」「未知の開れた世界」へ向かうというパラダイム転換の時期に入っていた。もの新しい世界に踊り出していったのが海を自由に行き来する「貿易商人:Traders」あるいは「海賊:Pirates」である。ある研究によれば、こういう海を舞台にした商人はリスクも大きいがが、当時の中産階級の中では年収が一番大きかったと言われている。こうした「未知の開かれた世界」に中流下層の若者が憧れたのは故無しとはしない。ロビンソンの物語はこうした時代背景のもとに生まれた。それは、同じ中産階級出身の作者デフォーの憧れでもあった。デフォーは漂流者ロビンソン・クルーソーに理想の中間層イギリス市民のモデルを見つけ、描き出したのであろう。


この物語の2つの読み方

「ロビンソン・クルーソー」は、そうした時代背景のもとで生まれたいわば「時代小説」であるのだが、後世、この物語は思わぬ読者によって思わぬ評価を受けることになる。それは著者であるデフォーにとっても想定外であったかもしれない。主人公ロビンソン・クルーソーはどのように受け止められたのか。

1)冒険物語の主人公としてのクルーソー、

まずは、ワクワクドキドキの冒険小説の主人公としてである。無人の孤島という逆境に身を置きながらも、知恵と勇気と信仰で逞しく生きる一人の人間、クルーソーの物語。プロテスタント・中産階級の親が子供に読ませたい冒険小説として評価され、ジャン・ジャック・ルソーは教育論「エミール」の中でこれを取り上げ、人生において読むべき一冊、子供に読ませるべき一冊としている。やがて世界中に受け入れられてゆく。確かに自分自身も子供の頃にそうした児童文学書としてこの物語に接したものだ。しかし、元々子供向けの冒険物語として描かれたものではない。イギリス激動の時代の世相を描く文学作品として書かれたもので、読者は大人を想定している。デフォーも子供に人気が出るとは考えても見なかっただろう。しかし長らく文学作品としては評価を受けなかった時代もある。この物語が見直されるのは20世紀初頭のバージニア・ウルフやブルームズベリー・グループによる17世紀イングランド文学の再評価がなされたときだ。デフォーはイギリス近代小説の先駆けとみなされるようになる。かの大御所ドライデンも20世紀になってT.S.エリオットにより再評価された。

2)社会科学・経済学の物語の主人公としてのクルーソー

その一方で、冒険譚とは別に「近代的経済人ロビンソン・クルーソー」「ピューリタン的人生訓」の物語として読まれるようになる。文学作品としてではなく社会科学的、経済学的に読み解かれる。19世紀から20世紀初頭にかけて、中産階級出身のクルーソーの孤島での自立生活は、カール・マルクスによって「合理的経済人」のモデルとして、また「労働価値説」の根拠として「資本論」の中で論じられた。また、ピューリタンのクルーソーは、マックス・ウェーバーによって「祈りと労働のうちに暮らす、同時に伝道もする経済人」のモデルとして論じられた。日本では大塚久雄がマルクスやウェーバーを研究する中で「社会科学における人間の問題」1977年で、中産階級の経営者モデル、生活様式モデルとしてクルーソーを取り上げて有名になった。大塚も「私はこれを文学作品としてではなく、社会科学の研究テーマとして読んだ」と言っている。クルーソーが、いわば「ホモ・エコノミクス」の原型であるかのような扱いを受けており、今でも多くの経済学者や社会学者が「ロビンソン・クルーソー問題」として取り上げている。デフォーが想定していなかった読者たち、評価である。今回はそういう観点で「ロビンソン・クルーソー」の物語を読み直してみたい。


「社会科学的」に読むと何が見えるのか?

では物語ではどのような「合理的経済人」「信仰と労働」の姿が見て取れるのか。視点を変えてみると確かにそこには、一発屋の「冒険商人」から、堅実な「産業人」へ成長してゆくクルーソーの様が描かれていることに気づく。また「商業の時代」から「工業の時代」へ、さらには「情報の時代」へと向かう発展段階を想起させる思考様式、行動パターンの変遷が表現されているようでもある。その前提として、この頃の中間層がいかに博識で実践的知識を豊富に持っていたかについても詳細に描かれていて、認識を新たにすることができる。こうした合目的的知識と実務能力、合理精神と勤労意欲を持った中間層が、時代の発展段階を次のフェーズに押し進める大きな原動力になったと言っても過言ではないだろう。そういう観点で読み返してみると、それを象徴するエピソードが、確かにこの物語には随所に散りばめられている。物語の中からいくつかのエピソードを拾ってみよう。

難破船から陸上げした限られた資源(食料、火薬、道具、衣類など)を計画的に、合理的に配分し将来に備える。島で自給できる資源(水、木材、山羊、鳥、果物、薪など)を組み合わせて持続可能な生活を送るための「生産」と「消費」の経済モデルを提示している。ここには優れた経済家としてのロビンソン、さらには工業化社会における合理的人間の生き方が描かれている。ちなみに船にあった大量の金貨はここでの生活には全く役に立たないと苦笑する場面には、世俗の金銭欲に対する皮肉が込められていて面白い。ここは貨幣や金が仕事しない世界である。もっともイギリスに帰還する時にはしっかりと持って帰る。そこは貨幣や金が仕事する世界だから。

さらに「消費」と「貯蓄」のバランスをとり、「余剰」でできた「貯蓄」を「投資」にまわし「労働」により拡大再生産してゆく。例えば食料は、一時の空腹のために食べてしまう(「消費する」)のではなく、籾や種子として蓄えて将来の食糧増産に充てる。農耕、栽培により持続可能な生活を実現する。また島で生息する山羊も同様、鉄砲で狩猟すれば火薬や弾丸が無くなるし、山羊が絶滅する恐れがある。子山羊を捕獲して飼って育てれば、乳も取れるし肉の安定供給が可能になる。そうした作業に自分の労働時間を振り分け、限られた資源を最大限に増やす生産活動を行う。まさに勤勉を旨とするプロテスタントの合理的生き方を示す。

また手元にある有り合わせのナイフや手斧などの道具や、難破船から運び出した材木、石材、鉄材、帆布などを用いて、木材を切り出す斧や、穀物収穫の鋤、鍬、鎌、煮炊きの器、衣服やテント、さらにはそうした道具を作るための溶鉱炉(吹子)や研磨機などの生産材を作る。こうした「生産材の生産」活動が更なる「生産の拡大」を生み、そこから生まれる「余剰」を「貯蓄」に回すことにってさらに拡大再生産へ投資するという循環をもたらしてゆく。その例外は銃で、重要な狩猟道具であり自分の身を守る道具であるが、再生産できないので、限られた「希少資源である」火薬、鉄、鉛を貯蔵し、消費を抑えて計画的に使用する。

保険概念が孤島生活でも発揮されている。リスク分散 不確実性への保険(住居の分散、火薬保管場所の分散、狩猟に代替する生産方式の創造など)。むしろ常にリスクにさらされる孤島であるがゆえに保険の重要性が意識されている。

孤島生活の不安をただ嘆くのではなく、Pros & Cons(長所・短所)をBalance Sheet(貸借対照表)に書き表し、会計処理手法を用いて合理的に労働時間や資源配分の評価、意思決定する。会計監査の発想はまだ見えないが、貸借対照表が日常生活に用いられている。

居住地をフェンスで囲い込み、野蛮人や猛獣の襲撃に備える。ヤギを飼育する牧草地を囲い込む。大麦の栽培地を囲い込む。本国で盛んであったエンクロージャーである。しかしここでは自分しかいないので他者との争いや軋轢を生じることはない。ただ安全と安定を確保することが目的であるが、そこには一種の「所有権」主張が見て取れる。

暦を記録する(1959年9月30日の上陸以来、28年間の滞在日数をほぼ間違いなく記録、認識している)、安息日、断食日を守る。日記(やがてインクが無くなるが)をつける、暦と記録を取ることで時間管理と情報管理ができる。これが将来この島を脱出できる時に役立つ。脱出できなくてこの地で果てても、後から来るかもしれない漂流者の役に立つ。 

ある日、家畜の飼料であった雑穀の中から大麦が発芽しているのを見て何かに打たれた。これぞ神の恩寵であると深く感動する。神は苦難を与えても自分を見捨てずいつも傍に立ち続けてくれる。父の言葉にも神の教えにも無頓着であった自分への反省と感謝。聖書を読む(イギリスを出る時に渡してくれた友人に感謝)。ピューリタン的な信仰に支えられた労働と生活の実践が描かれている。

人食い人種から蛮人を助けてフライデーと名付け、従僕とする。 やはり一番の渇望は人とのコミュニケーション、外部情報の獲得であった。英語を教え聖書を読み聞かせクリスチャンに改宗させる。これで労働や生産における役割分担という協業ができるようになった。二人ではあるが小さなコミュニティーができた。二人は最良の友となる。ただし主人と従僕という上下関係は厳然として設けている。ここでは異教徒=野蛮人、キリスト教徒=文明人という二項対立観念が明確に意識されている。「野蛮人(異教徒)」を教化して「文明人」にすることはキリスト教徒の使命であると考えている。しかし野蛮人/人食い人種であっても、クリスチャンになれば「人」として扱う。これがヒューマニティーであると考えている。

やがて船の叛乱で捕縛されたイギリス人船長たちを救助して、クルーソーが「総督」として10人の「従者」を持つ「王国」を形成する。これは武装した叛乱部隊と戦い、降伏させるための「擬制」「演出」なのだが。事実、この島は自ら探検し、28年にわたって開拓し、所有、支配しているクルーソーの「植民地:Colony」「王国:Kingdom」なのである。所有と支配は後から来たものが投資し労働することで生まれる、という植民地支配の論理が示唆されている。


「冷静沈着なリーダー」としてのクルーソー

一方で、「合理的経済人」だけでは解決し得ない問題も提示されている。こうした一人だけで暮らす孤島では人との遭遇、接触は、希望でもあり恐怖でもある。海岸に人の足跡を見つけた時のクルーソーの反応が印象的である。敵(人食い人種)なのか、味方(救助者)なのか、緊張が走る瞬間である。その結果として、複数の人喰いの「野蛮人」の上陸を知ると、向かってくる彼らを銃で殺し撃退し、捕虜であったフライデーとその父、スペイン人を助ける。しかしその時、彼らは唾棄すべき「人喰い」習慣を持つ「野蛮人」であるのだが、なぜ私に銃で殺されなければならないのか。彼らはただ彼らの習俗に従って生きているだけではないのか。私に危害を加えない限り殺す理由はないのではないか。ふと他者に共感を持つ近代人の片鱗を見せる。しかし、すぐに次に訪れるであろう事態への不安と恐怖(この島に人がいることを知って「野蛮人」が集団で反撃してくる)に支配される。一方で人がやってきたということはこちらから人いるところへ脱出できる可能性があるとも考える。スペイン人漂流者が蛮族と平和に暮らしているところが近くにあるという情報を聞いて、そこへ脱出できるよう手を打つ。この時の彼の判断と行動が冷静沈着である。撃退した蛮族が嵐で帰還できなかったことを確認したのち、助けたスペイン人とフライデーの父を味方の居る集落がある陸地に送り出す。限られた情報でたった一人で状況判断、意思決定する。またイギリス船の反乱者が上陸してきた時の対応も印象的である。最初に島に近づくイギリス船を発見した時には狂喜乱舞する。今度は人喰い人種ではなく、母国語を話す同胞が現れたのだ。しかしすぐに反乱者に乗っ取られた船だと理解する。懐かしさに我を忘れることはなく、次に何が起きうるかを冷徹に予測する能力の高さを示している。監禁されていた船長と船員を救出して味方につけると、この島の「総督」として少人数で多数の武装反乱グループを制圧する。こうして母国へ生還する。こうした点は「合理的経済人」クルーソーよりも、「冷静沈着なリーダー」クルーソー像が勝る。結局、「合理的経済人」も、同時に「冷静沈着なリーダー」でなければ、生きて帰還できないのだ。


イギリスへの帰還と財産の保全

冒険譚のいわば「後日談」あるいは「余談」として驚くのは、ロンドンに残したクルーソーの財産管理が留守中に一人の女性によってなされていること。また漂流以前にブラジルで手に入れ、事業として軌道に乗せた農場が、クルーソーを救助したポルトガル人船長によって財産として権利が保全されていること。土地や財産が、28年間行方不明で生死不明でも保全されていることに驚く。相続が遺言により誠実に実行されることにも。文書記録と管財人の存在が鍵なのだろうか。財産信託を任された人間の倫理観。神に誓って誠実に執行するのが当たり前であったのだろうか。そしてイギリスに生還した後、あの孤島に残してきたイギリス人の反乱者、スペイン人にその土地の所有権を認め分与したこと。こうした権利関係を認め合い、それを担保する仕掛けがどのようになっているのだろう。裏切って横領することも、うやむやにしてしまうことも容易にできるはずなのだが。個人の財産権を担保する仕組みが、距離と時間を隔てても確実に機能していることに驚く。これが大勢の冒険商人たちが海外への進出を可能にした仕組みの一つであったのだろう。

第2部で、再び冒険の旅に出かける。めげない不屈の精神と行動力の物語であるが、今回はここまでとする。


漂流譚:Castawayの系譜

漂流譚:Castawayといえば、この物語の設定年代の60年ほど前に、1600年、実際に日本に漂着したオランダ船リーフデ号イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の実話が思い出される。彼の場合は、無人の孤島、野蛮な人喰い人種の未開の地への漂着ではなく、地球の裏側の異教徒(彼らから見れば「野蛮人」であることに変わりはなのだろうが)のもう一つの「文明国」に辿り着き、そこで支配者、徳川家康の知遇を得て貿易と日英交流に活躍するという、歴史的な役割を果たした。このロビンソン・クルーソーの物語やガリバー旅行記を生むきっかけの一つとも言える歴史的出来事である。しかし、架空のクルーソーの物語と違って、この実在のイギリス人航海士の物語:narrativeは、歴史学者の研究対象として取り上げられても、経済学者や社会学者の研究対象にはならなかった。史実は相対化、抽象化されて理論モデルにできにくい。むしろ「青い目のサムライ」ウィリアムズ、三浦按針のロマンとして「物語」化され文学や映画の作品になっていった。フィクションが社会科学的研究モデルとなり、ノンフィクションが文学作品モデルとなる。ともによくある話ではあるが面白いものだ。

漂流譚は日本にも多い。特に19世紀の幕末、記録に残るだけでも大黒屋光太夫、山本音吉(Ottosan)、浜田彦蔵(Joseph Heco)、中浜万次郎(John Mang)、またペリー艦隊に随行してきた仙太郎(Mato Sanpachi)などが知られている。「ジョン万漂流記」などとして子供に人気の物語でもあった。しかし、いずれも19世紀、鎖国下の日本、海外渡航禁止厳罰という理不尽な環境下での不慮の漂流である。救助された船の母国であるアメリカやイギリスに渡り、彼の地での異文化体験、近代文明を見てきた鎖国日本人、その幕末・開国史における役割、と言った視点で取り上げられることが多い。たまたま自由で合理的思想に触れた庶民である日本人が、鎖国日本に戻るか否かの選択に迫られる葛藤の物語でもある。ある者は帰国を諦め彼の地の人となる。ある者は処罰を恐れずあえて日本に戻り激動の幕末・維新を逞しく生きる。あるものは日本へ戻るが処罰を恐れてひっそりと身を隠して生きる。このように19世紀の日本人の漂流譚は、鎖国という閉鎖空間から意図せず押し出された(いわば受動的)漂流の物語であり、17世紀のイギリスのそれは、国家が世界に向かって雄飛し、そこに新しい中産階級の冒険商人たちが群がり、自ら飛び出したことに伴う(いわば能動的)漂流である。この自分の意思で積極的に出て行ったか、不慮の事故であったのかの違いは大きい。実在のアダムスや架空のクルーソーような航海者や冒険的商人たちの漂流譚の中にイギリスの「近代産業社会」の萌芽を見るのであるが、19世紀日本人の沿岸漁業や沿岸流通に携わる船乗りたちの漂流譚にはそうした「社会変化」の兆候を見てとることはできない。ただ全く皮肉なことに、彼らは意図しない漂流で外洋に押し出され、その17世紀に芽生えたイギリスや、その植民地であったアメリカの「近代産業社会」萌芽の200年後の熟成の姿を目撃することになったのである。「漂流」という形の「東西文明の邂逅」第二章である。その後日本は急速に近代化を進めることになる。歴史とは「糾える縄の如し」である。


Daniel Defoe (1660~1731)

作者ダニエル.デフォー(1660〜1731年)

著作家、パンフレット(小冊子)発行人。生涯で500冊の作品を出したと言われるが、この「ロビンソン・クルーソー」が彼の代表作である。父はロンドンの蝋燭製造販売人で、非国教会系長老派の商工業者であった。 清教徒革命の挫折、王政復古、ペスト大流行(1665年)、ロンドン大火災(1666年)を経験した父に育てられた。デフォー自身も都市の商工業者・中産階級の出身の非国教会プロテスタント。爵位も学歴もない庶民であった。父は彼を聖職者にすべく非国教会系のモルトン・アカデミー(ケンブリッジ、オックスフォードでの研究、教育が禁じられた学者が創設した)で学ばせた。このアカデミーは古典よりも科学や数学、英語を指導し、これがのちの執筆活動に寄与した。王侯貴族、伝統的地主層を代表するトーリー党と、信仰の中産階級市民層を代表するホイッグ党が対立する時代であった。

デフォーは聖職者にはならず、さまざまな商売をを立ち上げ、ヨーロッパ各国に売り歩いた。しかし大儲けしたかと思うと失敗して大きな負債を負ったことも。やがて政治にも関わり、商売と政治の二足の草鞋で浮き沈みの大きい人生を歩む。カトリックのジェームス2世の即位に反対するモンマス公の反乱にも加担しオランダに亡命する。1688年の名誉革命ではウィリアム3世/メアリー2世を「非国教会の商人」として支持。批評家として活躍し、ウィリアム3世やホイッグ党政府に近づく。しかしウィリアム3世が逝去すると弁論活動が元で政争に巻き込まれて処罰され、さらし台に上げられたり。しかし貴族ロバート・ハーレー(オックスフォード=モーティマ伯爵)に引き立てで週刊誌The Reviewを発行人に。実質的な政府広報官の役割を果たした。1707年合同法でイングランドとスコットランドが合邦「グレート・ブリテン王国」誕生の際には、アン女王のスパイとしてスコットランドで暗躍したと言われるが、女王に見限られ1713年、逮捕、The Review廃刊。 ハーレーにより釈放される。1714年 アン女王死去、王位継承権を持ったドイツのハノーバー家ジョージ1世即位、ホイッグ党が政権、ハーレー追放。しかしデフォーはホイッグ政権で秘密の活動継続を条件に作家活動を継続。しかし経済的に逼迫、結局トリーとホイッグの間を右往左往する不安定な人生であった。

1719年 59歳で「ロビンソン・クルーソー」を出版。大成功する。 他に、「ロビンソン・クルーソー反省録」「モル・フランダース」「ペスト」「ロクサーナ」などの長編小説や論文や作品を発表。イギリス近代小説の先駆けと言われる。全部で500冊を超えると言われるほどの多作家であった。ただどこまでが彼自身の著作かわからないものも多く含まれる。1730年失踪、翌年ロンドンで死亡。

(参考)

ジョナサン・スウィフト(1667〜1745年)

デフォーと同時代の作家に「ガリバー旅行記」の作者スウィフトがいる。アイルランド系イギリス人 ダブリン大学神学博士 風刺作家、パンフレット作者。アレクサンダー・ポープとの友誼 トーリー政権崩壊で政治的敗者となりアイルランドへ ロンドンのポープのところへ戻り1726、27「ガリバー旅行記」出版 1744年ポープ死去、1745年スウィフト死去。スウィフトが7歳年上のデフォーと出会ったり、直接の影響を受けた記録はないが、「ロビンソン・クルーソー」の物語が、形を変えて「ガリバー」の物語の着想に影響を与えたことは間違い無いだろう。ただし、「ガリバー旅行記」の物語には世相を反映した多くの政治風刺が込められているが、「ロビンソン・クルーソー」には政治風刺がない。この違いはなんなのか。


参考文献:

和訳版は数多く出版されているがその一部を

『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳 岩波少年文庫 1952年初版

『ロビンソン・クルーソー』平井正穂訳 岩波文庫 1967年初版

新訳『ロビンソン・クルーソー』海保眞夫/原田範行訳 岩波少年文庫 2004年 本書に掲載されているウォルター・パジェットの挿画が多く引用されている。

新訳『ロビンソン・クルーソー』鈴木恵訳 新潮文庫 2019年

『社会科学における人間』大塚久雄 岩波新書 1977年

また、松岡正剛の「千夜千冊」のダニエル・デフォー論がおすすめ。

2025年2月25日火曜日

今年も池上梅園散策 〜寒気去ってようやく〜




今年も我が家恒例の池上梅園のブラぱち散策に出かけた。昨日まで列島を寒波が襲い、東京も雪こそ降らなかったものの震え上がったが、今朝はようやく気温が上がり春らしくなった。今年の梅は全体に開花が遅く、池上梅園も白梅や枝垂れ梅は見頃だが、紅梅は5〜6分咲きといった感じだ。「座論梅」もまだまだ。池上本門寺大階段の河津桜も例年よりは遅くほとんど咲いていない。2〜3分咲きといったところ。 世界に正義と平和が実現されるのか、という不安が漂う今日この頃。せめて美しい花々で春を彩って心を慰めてほしい。ウクライナとバレスチナとミャンマー、そして世界の人々に正義と平和を!

去年の池上梅園散策は雨だった。今年より一週間ほど早く観に行ったが、ほぼ満開だった。池上本門寺大階段脇の河津桜も満開であった。 2024年2月19日「池上梅園散策」














福寿草



こちらも花盛り みなさんお元気で何より!












最近は撮影スタイルも大変化




池上本門寺大階段
河津桜はまだまだ

池上会館屋上から富士山遠望


(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4 いつもの相棒だ)