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2025年12月1日月曜日

ご近所の秋 〜蘇峰公園、養玉院如来寺、荏原法蓮寺、旗岡八幡社、戸越公園〜

 


毎年この時期になるとカメラ小僧は忙しくなる。そう、紅葉や黄葉を求めて定点観測地点の色づき具合を観察しながらカメラ担いで出かける。日本には紅葉スポットがたくさんある。しかし、京都なんぞは最近はトントご無沙汰だ。オーバーツーリズム状態で人を見に行くのか紅葉を見に行くのかわからない状態。このシーズンの京都の混雑は別に今に始まった話でもないが、外国人ツーリストが日本に押しかけるブームが続いていて、紅葉の名所は凄まじい混雑。かつての経済大国の面影もすっかり薄れた日本。どんどん「安くなった」日本に来てお金をいっぱい使っていって欲しいが、地元民が入り込む隙間もなくなるほどだとチト困る。中国政府が「日本では中国人に対するテロの危険があるので渡航しないように」などとプロパガンダフェイク流しても、中国人民の皆さんは政府の言うことなぞ信用しない人たちなので、続々と押しかける。それで良いのだ。政府同士の喧嘩なぞ我関せず。民草は民草同士、仲良くやろう。

まあしかし京都は控えるとしよう。遠出するのも億劫だし東京で紅葉見物?日比谷公園、後楽園、六義園、皇居東御苑、皇居乾通通り抜け。こっちはこっちでいつも人ばかり。神宮外苑の銀杏並木もすごい人で大混雑、とニュースでやっている!東京という街は普段から人でごった返している。いやいやご近所で紅葉見物と洒落込むのが賢い選択だ。歩いて行ける所に感動的な紅葉スポットがあるじゃないか。地元住民も気がついていないだけ。ほとんど観に来る人もなく、紅葉独占状態。カメラアングルを考えながら試行錯誤していてウロチョロしていても誰の邪魔にもならない。曇ってきて光の具合が悪ければ出直せばいい。秋の紅葉見物。春の桜見物は地元に限る。幸せの青い鳥は遠くまで探しに行かなくても自分の住んでいるところにいるのだ。


蘇峰公園























大井大仏 養玉院如来寺












荏原法蓮寺/旗岡八幡社


















戸越公園












街角の秋













(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA20-200/3.5-6.3 DG。最近入手したSIGMAの10倍の高倍率ズーム。比較的廉価ではあるが、解像度も高く、広角から望遠まで様々な収差も良く補正されており、かつハーフマクロレンズとしても使える万能レンズ。Leica SL3の6000万画素センサーにも十分に応えてくれる。何より小型軽量なのが嬉しい。SIGMAの気迫が感じられる「お道具」だ。ありがたやま)

2025年11月19日水曜日

カール・ポパー『歴史主義の貧困』:Karl Popper ” The Poverty of Historicism” 〜歴史の行く末は予測できない?〜

 

Karl Popper (1902~1994)


歴史をめぐる旅人「時空トラベラー」としては避けて通ることのできない著作がある。カール・ポパーの『歴史主義の貧困』である。「歴史は未来を予測できない」と断じた著作である。

カール・ポパーは、オーストリア出身で、ナチ政権の弾圧を逃れてニュージーランド、イギリスへ渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス:LSEで長年教鞭をとった20世紀を代表する哲学者の一人である。ファシズム批判、コミュニズム批判など全体主義批判で知られる。本書は戦前から戦後の冷戦時代に盛んに読まれた哲学書である。90年代のソ連崩壊以降の世界で最近はあまり読まれなくなったようだが、その科学哲学における「反証主義」理論の衝撃は今も衰えることはない。そして今再び注目を集めている。

私は、80年代初頭LSE修士課程在籍中に、一度だけこの著名な哲学者の講義を聞きに行ったことがある。せっかくLSEにいるのだからこのカール・ポパーの顔くらい見ておきたいという、まるで有名人を見に行くような軽薄な関心であった。今から思えばなんとも恥いるばかりの浅学非才の若造の行動であった。講義は「社会科学における合理性とは」と言った内容だったように記憶するが、どんな講義であったかしっかり覚えてもいないし、今回取り上げる『歴史の貧困』を読んだのもずっと後の、あの91年のソ連崩壊の時のことだ。「なぜ共産主義、社会主義は破綻したのか?」と言う分析、評論が相次いだ時だった。なんたる大馬鹿者!もったいないことをしたものだ。しかし若き日のあの出会いの思い出が、時空を隔てて我が記憶の底から蘇り心に強く響き始める。もう少し人生の前半で知っておくべきであったが、今からでも遅くはない。いや、歴史の反動や科学的合理性への懐疑など、21世紀の今(再び)起き始めた大きな哲学的思潮のムーブメントを考える時にこそ本書を読み返す意味がある。

「歴史に学べ」「歴史は繰り返す」「愚か者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」。人はよくそう言うが、確かに人間は過去に犯した過ちに学ばず、同じ過ちを犯す。歴史は様々なことを現在の我々に教えてくれる。また未来を予測すらしてくれる。前車の轍を踏まないよう未来を歩む、それが歴史を学ぶことの意義だと信じている。おそらくそれは間違っていないのだが、歴史の発展に何か普遍の法則や理論があるのだろうか。だから未来は予測可能だと信じているのか。社会科学は自然科学のような科学なのか。歴史学は科学なのか? 本書でポパーは「歴史の行く末は予測できない」「歴史的運命への信仰は迷信である」「歴史学は反証不可能であり科学ではない」と論証してみせた。理論物理学はあっても理論歴史学は存在し得ないと。社会科学の諸分野で、経済学を除いては、すべて物理学的な方法論を試みて成功したものはなかった。そうした自然科学的方法論の適用可能性を論ずるなかで、「歴史(法則)主義:Historicism」が適用可能な方法論であるかの如く扱われ、それが自明のことであるかのようにさえ考えられてきたことを批判した。さらにこの「歴史(法則)主義」がファシズムやナチズム、コミュニズムのような全体主義を引き起こしたと批判している。

歴史を学ぶことの意義を考えるにあたって、ポパーはこのような重要な問題を提起しているわけで、私にとっては衝撃的であった。本書の元となった論文の上梓は1944年である。そして英語版の初版刊行は1957年である。世界がファシズムと戦い、やがて勝利し、あらたなコミュニズムという全体主義の脅威にさらされた時期の著作である。彼は本書の献辞で、「歴史的運命の不変の法則というファシズム的、共産主義的信念の犠牲となったあらゆる信条の、あらゆる国の、あらゆる民族の無数の男たち、女たち、子供たちを偲んで」としている。彼の反「歴史法則主義」はこうした全体主義に結びついてゆく危険性への批判から始まっていている。これはもちろん歴史に学ぶことの重要性を否定するものではないが、歴史に科学的な法則を見出そうとする、一見合理主義的な考え方の落とし穴、あるいは科学哲学上の矛盾を指摘しているのである。

本書の序文で、「歴史主義」の矛盾を次のように指摘して批判する。

(1)人間の歴史の道筋は知識の成長に大きく影響される。

(2)合理的または科学的な方法により、人間の知識が将来どのように成長するかを予測することはできない。

(3)従って、人間の歴史の将来の道筋を予測することはできない。

(4)このことは、理論物理学に対応する歴史の社会科学である理論歴史学が成立不可能であることを意味する。歴史の発展に関して、歴史的予測の基盤となりうる科学的理論というものはありえない。

(5)それゆえ、「歴史的発展の理論」、すなわち歴史主義の方法の根本目的は誤って構想されている。歴史主義は破綻する。

論点の根本は(2)で、「成長する人間の知識というようなものがあるとするなら、明日にならなければわからないことを、今日予知することはできないのである」。まさに予測不能な未来を論理的に予測することの矛盾を説いている。歴史の法則というようなものが未来に起きる必然を言い当てることはできないのである。こう言い切っている。

振り返ってみると、学生時代に学んだマルクス経済学。まずは入り口でフリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』を読まされる。社会や歴史の発展には法則がありそれに従って進んで行く、それはまさに空想ではなく科学であると。そしてカール・マルクスは、上部構造は下部構造が規定する。すなわち経済が政治活動や思想、宗教を決定付けると。資本主義が成熟すると、「持てるもの」と「持たざる者」という階級間の矛盾が生まれ階級闘争が起き、やがて資本主義は「徒手空拳のプロレタリアート」が生産手段を所有するという共産主義へと移行すると論じた。ヘーゲルの弁証法、唯物史観による「歴史法則」を説いたのである。「そうか、世の中は科学的な法則により動いているのか、歴史には発展理論があるのか」。ナイーヴな学生の頭には魅力的で理路整然とした説明であった。世の中の仕組み、歴史理論が分かったような気がした。若者が熱狂するはずである。また、自然科学の新発見であるダーウィンの進化論に触発されたハーバート・スペンサーの「社会進化論」にも「適者生存論」にも、社会や歴史の発展段階を科学的、合理的に説明する説得力を感じたものだ。

しかし、ほんとにそうなのか。社会科学は検証可能な出来事が繰り返される「合理性」を持った科学なのか。普遍的法則で歴史上の出来事は説明できるのか。そして未来を予測できるのか。この疑問はやがて、現実の社会では理論や法則に従ったとは思えない、検証不可能で再現性のない事象が出現し、むしろ矛盾に満ちた歴史が紡がれてゆくことを知ることとなり、より深まっていった。矛盾が取り除かれない事象は科学的に検証不可能なのではないか。ポパーが言うように確かにそこには「歴史(法則)主義」の落とし穴、矛盾があるのかもしれない。そう気付かされた。

なぜマルクスが言うように資本主義が極限まで発展したイギリスではなく、資本主義すら経験も成立もしなかった農奴制国家、帝政ロシアがいきなり共産主義国家に移行したのか。なぜプロレタリア階級の理想政治のはずが独裁者による恐怖政治になったのか。なぜ歴史の発展段階における必然とされた社会主義、共産主義は100年も経たないうちに崩壊し世界から消えたのか。なぜ中国では共産主義崩壊後もプロレタリア独裁政党は生き残り、しかも専制的な国家資本主義国家に変質したのか。マルクスやレーニンの理論と矛盾するではないか。理論的に実証されたはずの出来事が次々と瓦解する、あるいは非合理的な変質を遂げ、矛盾したまま存在し続ける。歴史は科学なのか。

一方でファシズムやナチズムはどうか。歴史法則に則った合理的必然なのか。いやむしろ歴史法則の必然性を否定し、カリスマ的な独裁者による「意思」と「行動」により「人種的競争」における勝利を勝ち取り、「優越人種」が「劣等人種」を淘汰するといった「非合理的歴史観」いや「空想」に立っている。すなわちコミュニズムのいう「合理的歴史観」の台頭に恐れをなして沸き起こってきた、いわば恐怖の対抗概念である。現代の「陰謀論」のルーツと言って良い。たしかに両方(いわゆる極左、極右)とも、民主的な討論を嫌い、反対者を弾圧する独裁主義、あるいは全体主義である点は共通するが。ポパーの言う、歴史(法則)主義、歴史的運命の不変法則が全体主義を生み出す危険性があるという主張。それはコミュニズム(マルクス・レーニン主義)の歴史観には当てはまってもファシズム、ナチズムの非合理的歴史観には当てはまらないのではないか。そもそも科学的な「実証」も、ポパーが言う「反証」も不可能な「空想」に過ぎないのだから。あるいはダーウィンの「適者生存」理論を誤って解釈、借用したに過ぎないと言って良い。

再び世界は今、陰謀論を振りかざす極右(ファシズム、ネオナチ)の台頭、選挙など民主主義的システムを利用して全体主義的な思想、体制が生み出される事態に直面している。民主主義やリベラリズムの衰退を懸念するそんな歴史の反動の時代を迎えている。一方で、経済的格差が極大化する社会に於いては、イデオロギーの左右の対立よりも、中間層の失われた所得階層ピラミッドの、ほんの一握りの上層と大多数の下層の対立がより大きな問題となっている。新たな「階級闘争」である。そんななかで新自由主義経済システムの矛盾を指摘し、富の偏在から再分配を実現しようという「社会主義」が見直され始めている。ここでは「全体主義的な社会主義・共産主義」ではなく「民主的な社会主義・民主社会主義」を目指そうという、保守主義への対抗思想である。またAIの進化に伴い発生する雇用機会の喪失、労働価値の低下、それにともなう格差社会、すなわち科学的合理性への懐疑、経済合理性への強烈な疑問が湧き起こっている。専制主義・権威主義と民主主義・リベラリズムの分断。経済成長、科学技術発展の果実を独占するトップ・オブ・ピラミッド(TOP)と富を享受できないボトム・オブ・ピラミッド(BOP)の分断。さらに言えばAIを使う人とAIに使われる人の分断。こうした分断と対立の構造も変化し始めている。

そういう時代にポパーから何を読み取るのか。今は200余年前の「フランス革命前夜」「産業革命」の時代の状況に似ており、「歴史は繰り返す」とする世のコメンテータの論調がある。これは一聞するとわかりやすいように思える。しかしそれは「歴史のアナロジー」ではあっても、そこに「歴史の法則」を見出すことはできない。ポパーの「反証主義」が現代においても答えを導き出す手立てとなりうるのか。私はこの著作から、新たな思考のための視点を得ることができたが、まだ確たる答えをそこから得ることはできていない。しかし歴史に「法則」は見出せなくとも、少なくとも「教訓」は見出せるに違いない。ゆえに歴史を学ぶことの意義は失われることはない。ポパーもそれを否定しているわけではなく、それを「理論」「法則」と主張して誤った答えに到達することに警鐘を鳴らしているのである。いわば「理路整然と結論を誤る」。本書についての世の読書人の評価を聞きたいものだ。


1989年アメリカでのペーパーバック版

日本語訳は2013年初版 日経BP社刊
岩坂彰訳、黒田東彦解説


ポパーの「反証主義」Falsificationism

ポパーの科学哲学思想の基本は「反証主義」である。すなわち科学における「実証主義」:Critical rationalism、「帰納法」:inductionに対する、「反証主義」:Falsificationism、「演繹法」:deductionである。

彼は、科学的理論の正当性は、それが正しいことの証拠を挙げる「実証」ではなく、それが間違いであることの事例の検討、すなわち「反証」により決定される。反証事例が挙げられない理論は科学ではない。科学と非科学を線引きするものは「反証可能性」である。ポパーは、経験主義:Empiricismの系譜上にあるベーコン、ロック、ヒュームの「帰納と実証」ではなく、「演繹と反証」によって科学の当為(あるべきこと:Sollen)を基礎付ける。すなわち「反証可能性」がない理論は科学ではないとする。

「科学的真理」とは、現段階であらゆる反証事例の検討に耐え抜いた「仮説」であり、それはいずれ反証される「暫定的な真理」である。ニュートン物理学が光速度と量子の発見によって否定されたように。科学の進歩は「実証」ではなく「反証」により実現されると考えた。

ポパーの「歴史法則」「社会進化の法則」「歴史発展の理論」などが科学的な理論ではないという指摘は、すべて彼の「反証主義」から自然に導き出される結論である。

ちなみにポパーの言う「歴史主義」は、哲学史でいうところの「歴史主義」すなわちHistorismと区別する意味でHistoricismと称している。日本語訳としては「歴史法則主義」とした方が理解しやすい。



2025年11月15日土曜日

御殿山、八ツ山橋界隈のイチョウ並木 〜第一京浜は黄葉のドライブコース〜




東京と横浜をつなぐ産業、生活の大動脈、国道15号線。通称「第一京浜国道」。普段は季節感を感じることが少ない忙しい道路だが、この季節になると品川、八ツ山橋界隈の銀杏並木が美しく色づき、普段とは異なる景色が広がる。三菱開東閣の森、そして反対側の延々といつ終わるともしれず続く品川駅再開発のクレーンを背景に、目にも鮮やかな銀杏並木が出現する。都会に秋の訪れを感じる一瞬だ。











御殿山下のJR回廊。 新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線が走り抜ける大動脈。江戸時代には将軍家の御殿があり、庶民にも開放された桜の名所であった。江戸名所百景にも取り上げられた。しかし幕末のお台場建設の土取りで山が切り崩され、維新後は鉄道開設のため、さらに開鑿され御殿山は消滅した。ここも「近代化」の犠牲になった名所の一つである。




現在の御殿山庭園。わずかに残された江戸の桜の名所「御殿山」の痕跡。春には桜が今も美しく咲き誇る。秋は紅葉の名所でもある。しかし東京都心の紅葉シーズンはたいてい12月初旬。ここもまだまだ紅葉には早い。

紅葉はまだまだ先だ


庭園の滝の紅葉もまだ緑





(撮影機材:Leica SL3 + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG このSIGMAの高倍率ズームは比較的廉価なレンズであるが、広角側が20mmから始まる便利なレンズ。非常に解像にも優れており高画素機SL3でも遜色ない、歪曲収差、周辺光量落ちもうまく補正されている。28~85mm域ではマクロ的撮影も可能な万能レンズ。軽量で取り回しにも優れブラパチの友としては最高だ)


2025年11月3日月曜日

古書を巡る旅(72)Yone Noguchi『Lafcadio Hearn in Japan』〜なぜ日本語が不自由なラフカディオ・ハーンが名作『怪談』を生み出せたのか?〜

 

「Yone Noguchi, 野口米次郎 日本人」と自筆で書かれている(Wikipedia)


なぜラフカディオ・ハーンは日本語が十分にわからなかったにもかかわらず日本人の心情や日本文化の基層を理解し、後世に残る「怪談:Kwaidan」「神国:Japan An Interpritation」などの多くの名作を生み出すことができたのか。そして日本だけでなく欧米で大きな反響を起こし、今なお読書人の愛読の書となっているのか。これは私の中では一つの謎であった。文学作品というものは普通は言語で理解し構想し、言語で表現され、言語で読まれるるものであるはずである。しかし、彼は日本語の古い伝承物語を読むことも、土地の古老の語りを聞き取ることもできなかった。にもかかわらず日本人以上に日本人の心を理解し、それを英語で表現し伝える「再話文学」の金字塔を打ち立てた。そしてそれが人間の普遍的な感性として世界中で受容された。なぜ?どうやって?

それゆえに、ハーンはほんとうに日本を正しく理解し、正しく伝えているのか?という懐疑と批判があったことも事実である。これはアメリカで出版されたハーンの伝記の中で辛辣なハーン批判が展開されたことがきっかけであった。これを受けてアメリカの新聞、雑誌の書評で批判されることもあった。すなわち、彼の日本文化論は完璧なものではないのではないか。したがって小説や文学作品としても不完全であるというもの。

これに対し、ハーンが日本文化理解の正しさとその深い洞察力と感受性を存分に備えていると、日本の立場から反論したのが野口米次郎(Yone Noguchi)である。ハーンへのこのような評価や懐疑に関する論争に、野口は、しばしばアメリカやイギリスの文学界、言論界の友人から、日本におけるハーンの評価について意見を求められてきた。彼自身、若き日に渡米しアメリカやイギリスにも長く生活し世界を巡った、日本を代表する国際人であり文化人である。Yone Noguchiとしてその作品が日米欧のみならず世界中で高い評価を受けているバイリンガルな詩人、文芸評論家である。その彼のハーン評は欧米の文芸人士にとって興味深いものであったろう。この求めに喜んで応え、世に問うたのが本書、『Lafcadio Hearn in Japan』である。1910年にロンドンと横浜で刊行された本書は、ハーンに敬意を表し、家紋入りの日本伝統の和綴本となっている。

野口は、その序文のなかで、ハーンが日本語を十分に理解しておらず、書くこともしゃべることも十分でなかったとの批判があるが、彼の日本語文献の解読は、多くのアカデミックな日本人アシスタントのサポートにより極めて正確であり、その真意や繊細な情緒も正しく理解されていること。そして夫人の小泉セツの日本の民話や怪談の口頭伝承や文献収集などのサポートが、ハーンの言語を超えた啓発、インスピレーションにとって極めて肝要であったとして、このような批判に真っ向から反論している。またハーンには小説家や詩人としての想像力が欠如している、との批判に対しても、彼のイマジネーションとそこから紡ぎ出されるロマンの世界が、我々日本人が忘れていたものを思い出させてくれた。まるで「魔法のような想像力」によってである。そしてハーンのロマンは新たな日本の伝説となり、その作品はやがては遺産となるだろう。このように反論している。

ハーンが言語としての日本語を習得していなかったことが、日本文化の理解になんら支障をもたらすものではなく、むしろ、それゆえによりハーンの人間への共通理解、共感が、日本人の基層に横たわる霊的な感性や心情と共鳴し合い、より深化された理解を得ることができたことを野口は指摘している。すなわち、心から心へと言語を介さずにストレートに伝わったに違いないと。言語化できるものには限りがある。それを超えた理解をするためにはむしろ言語が妨げになることすらあると断じている。すなわち言語化することでイマジネーションがある言葉で固定化されてしまうことがある。セツ夫人がハーンに語り聞かせた英語/日本語混じりの怪談や民話のなかに、日本人の心情や、日本文化の基層にある自然崇拝、祖霊崇拝の宗教観が漂っており、ハーンはそれを音感として鋭く受け止め、その真髄と普遍性をうまく心で掬い出したと解説している。まさに文学の持つ芸術性の一端をハーンは垣間見させてくれた、と野口は感じたに違いない。

本書はこうした「ハーン論争」に対して一石を投ずるために、元々はNew York Sun, JapanTimes, Atlantic Monthlyに投稿した評論に、野口の評価を裏付ける論拠として、さらにハーンに関するエピソードを新たな章として加えて一冊にまとめたものである。

第1章「A Japanese Appreciation of Lafcadio Hearn:ラフカディオ・ハーンその日本における評価」では、野口はハーンを日本文学における現代(1910年当時)の上田秋成であると評している。上田秋成は江戸後期に活躍しや読本作家で、あの怪奇小説「雨月物語」の作者として後の山東京伝や曲亭馬琴などの職業作家に大きな影響を与え、日本の文学史にその名を刻んでいる。野口は、その日本文学界における巨匠、上田秋成に準え、ハーンは「耳なし芳一」の作者として長く後世に記憶され、日本の文学界に影響を与え続けるだろうと書いている。ハーンの日本文化理解に懐疑的な論評や、小説家、詩人としてのイマジネーションの欠如云々、といった批判に真っ向から対峙する一文である。

また第2章「A Japanese Defense of Lafcadio Hearn:ラフカディオ・ハーン日本からの弁護」では、アメリカで出版されたハーンの伝記がハーンの姿を正しく伝えていないと批判している。そもそも野口は「伝記」というものには明と暗があり、とくにその暗部として、伝記作家の悪趣味が、読者に本人への共感をしばしば妨げることがあるとして、「伝記」と言う形態で評論すること自体に不快感を示している。ハーンの友人であったとするジョージ・グールド:Dr, George M. Gouldが刊行したハーンの伝記、『Concerning Lafcadio Hearn』を取り上げ、個人の手紙を無断で公開するような暴露趣味は、本人の実像を歪めるだけでなく、筆者の意図するハーンの評価を貶めるものとはならず、むしろ筆者 自身の評価を貶めるものとなっていると痛烈に批判している。

野口はまた新たな章を付け加え、小泉セツ夫人による「夫ハーン」、そして子供たちの「父ハーン」の思い出、ハーンが夏に子供を連れて海水浴によく訪れた焼津の漁師、音吉(「音吉だるま」のモデル)の思い出、ハーンの松江時代の教え子で帝国大学英文科在学中の助手、のちに著名な英文学者、俳人として活躍する大谷繞石(ぎょうせき:正信1875〜1933)との交友エピソードを紹介している。さらに帝大研究室でのハーン、そして帝大最後のあの感動的な最終講義について紹介する中で、ハーンの文学、芸術の背景にあるいわば人的ネットワークのユニークさ、アカデミックコミュニティーの誠実さ、そしてハーンがいかに日本の庶民や若者に感動を与えたかを紹介している。そしてその豊かなイマジネーションと想像力は死してなお止まることを知らぬげに溢れ出ようとしているのだと。セツ夫人の回想録の最後に述べられている言葉が象徴的である。「ハーンの未完の物語は彼が亡くなった後もまだまだ彼の書斎の机の引き出しに暖められている。少なくとも彼の心の中にはまだまだ多くの物語が未完のまま仕舞われているはずだ」。ハーンの物語は生前の既出の書籍や原稿、書簡にとどまらないのである。

特に、野口は、先述の通りアメリカで盛んに試みられていたハーンの書簡集や伝記を出版することに懐疑的であった。これにはハーンの生涯の友人であったエリザベス・ビスランド:Elizabeth Bislandによる、現代でも定番とされるハーン書簡集や伝記:『The Life and Letters of Lafcadio Hearn』についても同様であった。ハーンの書簡を掲載してプライバシーを侵害したり、それによって誤ったイメージを定着させることを懸念している(注:ビスランドは出版後に日本のハーンの家族を訪ね、以後交流を続けその伝記の印税収入を家族に送っていることもあり、その内容についても「ハーン伝」の定本として現在では肯定的に受け止められている)。上述のグールドの暴露本的な伝記出版については、ハーンとその家族の日本での支援者であるミッチェル・マクドナルド(アメリカの退役軍人で横浜グランドホテルの創業者)も同様に不快感を示しており、ハーンに関する手紙や原稿を返還するよう交渉を行なったと言われている。ハーンとグールドは最初は友好的な関係で書簡の交換を行なっていたが、徐々に考え方の違いが明らかになり、最後は没交渉となった。そのような人物がなぜハーンの伝記や書簡集を出そうとしたのか。野口は、本書を刊行するにあたって、その序文で「わたしは伝記を書くつもりはない」と断っており、「ハーンの様々な人的交流のエピソードを紹介する中から彼の「人となり」や文学/芸術的な感性の背景にあるものを描くことが目的である」としている。本書が「ラフカディオ・ハーン伝」と位置付けられることを嫌った。

ラフカディオ・ハーン:小泉八雲は、国や文化や人種、民族を超えて、近代文明が忘れさせてしまった人々の心の底流に潜む神、精霊、あるいは妖精や迷信の存在を思いださせ、その普遍性を表現した。彼はカトリックでもプロテスタントでもなく、キリスト教布教以前から欧米文化の深層にある霊的なもの、アニミズム、自然崇拝の心を思い出させ、それを霊的な経験として異文化の人々とも共有することがでることに気づかせた。そのハーンの原体験は幼少期のケルトであり、またニューオーリンズで体験したクレオールでありブードゥーであり、その旅の終着点で出会った日本の民間信仰、習合した神や仏であった。それは言語化された知識として「理解するもの」ではなく、「感じるもの」であった。しかし、ハーンが偉大であるのは、その「感じるもの」をさらに言語化して人々に伝えたことである。それこそ野口が言うように「魔法のような想像力」によって文字として残し後世に伝えた。彼はケルトの語り部でもなければ、ブードゥーの司祭でもない。そして神道の巫女でもない。しかし彼らの口頭伝承や民間の伝承から得られたストーリーや「感じたもの」すなわち「感性」を言語化して「知性」として定式化した。しかしそれは民俗学や宗教学の論文としてではなく、文学作品としてであった。そうすることで国境を超えた人々に繰り返し読み継がれることができるようにした。そこが比較言語学者でキリスト教徒として日本を見つめたバジルホール・チェンバレンの日本理解と異なる点であろう。ハーンは単なる日本贔屓のジャパノロジストではない。「私は日本的なのではなくケルト的なのだ。教会より森に霊性を感じるだけなのだ」。著作『神国』でハーンはそう述べている。そういう意味で野口米次郎も同様の感性を共有できたのだろう。ゆえにハーン共感した。ゆえにハーン批判に反論した。この著作を通してそれを強く感じた。そして私の中にわだかまっていたハーンの謎が少し解けたように思う。


参考過去ログ:

2025年9月17日 古書を巡る旅(69)小泉八雲「英文学史」講義録

2025年7月5日 古書を巡る旅(66)「神国:Japan An Attempt of Interpretation」

2020年6月12日 古書を巡る旅(2)ラフカディオ・ハーンを訪ねて


野口米次郎:Yone Noguchi (1875〜1947)

明治、大正、昭和初期に活躍した英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の日本への紹介、海外への日本文化の紹介に貢献し大きな足跡を残した。

英語での作品、著作を数多く発表して、岡倉天心、新渡戸稲造、内村鑑三と並び、欧米諸国において日本の知性を代表する人物の一人として知られている。

1893年、慶應義塾を中退して18歳で渡米 サンフランシスコ、パロアルト、シカゴ、ニューヨークで多くの文人に教えを受け、スピリチュアルなコミュニティーにも参加した。その交流の中で多くの詩や評論などの文芸作品を発表し、才能を開花させて行った。さらには1902年にはロンドンへ。イエイツやロゼッティ、バーナード・ショーなどと交流。1905年帰国後には慶應義塾の英文科教授 1913年に再渡英、1914年オックスフォード講師 1919年アメリカ全土で講演旅行 1935年頃からアジア研究に傾斜、インドに滞在 各地でタゴール、ガンジーなどの多彩な人物と出会い、交流を深めてきた。

野口米次郎自身は、生前のラフカディオ・ハーン:小泉八雲とは直接の交流はなかったようだが、ハーン没後の小泉家とは交流があり,第3章「Mrs. Hearn's Reminiscences:小泉セツ夫人の回顧」にその様子が描かれている。野口のアメリカ人のパートナー、レオニー・ギルモアは、一時期ハーンの長男の英語の家庭教師を務めていたことがあるようだ。ちなみにアメリカの著名な建築家、彫刻家であるイサム・ノグチ(1904~1988)は野口米次郎とレオニーの子供である。

2016年11月15日 イサム・ノグチ美術館探訪記





ケース(左)付き日本伝統の和綴本
小泉八雲家家紋「下げ羽の鶴」