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2026年1月15日木曜日

Quo Vadis Domine ? 〜21世紀の世界は何処へ向かうのか?〜



Where are you going, Uncle Sam? 

A democracy that forgets the people. A tyrant to be revived. Monroe's principle of forgetting the democratic republic. The world order that has forgotten its national self-determination. Interests rather than human rights. Change the status quo by force. World division by tyrannical states. New imperialism.

Is it the 19th century now? Will time be rewinded? I don't think so, but is it real? The world is getting worse day by day. Where is the world of the 21st century heading?

Quo Vadis Domine? Lord, where are you going? Where will you lead the stray sheep ?




Taro Urashima is traveling through time and space with a camera in one hand again this year.
Now I'm warped to the world of the 19th century.





2026年1月10日土曜日

日本文化とは何か? 〜外来文化の受容と変容の歴史(2)〜

 

鉄道という西洋近代合理主義の産物を受容し日本的な精緻さで変容するとこうなる?
河鍋暁斎の鉄道絵図(神奈川県立歴史博物館蔵)

「西洋近代合理主義」はどのように受容され変容していったのか?

前回のブログ(2025年12月27日 日本文化とは何か?〜外来文化の受容と変容の歴史(1))では、紀元前10世紀頃に始まると言われる稲作農耕文化の流入。5〜6世紀の儒教、仏教の伝来と受容と変容。16世紀のキリスト教の伝来と排除。そして19〜20世紀の西洋合理主義思想の受容。日本文化の3000年の歴史を駆け足で見てきた。明治期の「文明開花」と戦後の「民主化」。これもいずれも外からやってきた文化である。いわば西洋からやってきた「近代合理主義」教の伝来である。明治維新から150年、終戦から80年。このインパクトはまだ我々日本人には生々しい歴史体験として記憶されている。「惟神の道」「儒教」「仏教」という東洋思想に、「近代合理主義」という西洋思想は、どのように受容され変容してきたのか。歴史的時間軸で見るとまだ口に入れて味わいつつ咀嚼している途上にあると言わざるを得ない。伝統だと思っている東洋的な価値観や習俗と、最近入ってきた西洋的な価値観、習俗との間のギャップはまだ解消されていない。少なくともこの変容は、既存文化を置き換えるフェーズ転換ではなさそうだし、徐々に上書される漸変的転換であろう。いや、日本独特の「習合」なのかもしれない。

ヨーロッパにおける神学から哲学へ、神の摂理から人間の理性へ、経験主義的思考を経た哲学や科学の進化。さらに産業革命の中から生まれた科学技術。そこから生まれた社会契約概念、法の支配、議会主義、民主主義、人権、自由平等、そして市場主義経済。このような近代合理主義思想は、西欧諸国の長い歴史の中から生まれてきた。そしてその具体的な成果は市民が戦いの中で獲得した権利であり理念であり市場である。それが19世紀の日本に、科学技術、法律、政治・経済・社会制度という形で怒涛の如く入ってきた。戦後はアメリカから民主主義と個人主義、グローバル・スタンダードと称するルールが入ってきた。いわば歴史的闘争を経験せずに結果だけがもたらされた。奇しくも21世紀の世界ではその西洋的合理主義価値観が大きく揺らぎ始め、歴史を巻き戻す動きが出現。先行きを見通すことは難しい状況になっている。正月早々、まさかという驚天動地のニュースが飛び込んでくるご時世だが、敢えて少し立ち止まって歴史を振り返り、あの外来文化の「受容」と「変容」の実相にふれ、来し方行末に思いを馳せてみるのも一興だろう。

ということで話を明治に戻そう。伝えた本家である西欧諸国の側から見た日本の「近代化」「文明開花」はどう見えたのか。「文明開花」とは「キリスト教化」することである。と信じて疑わなかったヨーロッパ人にとって、日本の「キリスト教化」しない「文明開花」はどのように見えたのか。受容し変容させたという日本文化、それを行った日本人の特質をどう見たのか?今回は明治期のお雇い外国人、ジャパノロジストのバジル・ホール・チェンバレンとラフカディオ・ハーンの「彼らが見た日本とは?」を取り上げてみたい。前回と同様、彼らの「神と人間」という視点を「日本的なものとは何か」を考える縁(よすが)にしてみたい。


' Things Japanese ' 『日本事物誌」by Basil Hall Chamberlain in 1905

' Japan An Interpretation ' 『神国』by Lafcadio Hearn in 1904


(1)バジル・ホール・チェンバレンの Things Japanese:『日本事物誌』

以前のブログでも紹介した1905年版の『The Things Japanese:日本事物誌』序文で。チェンバレンは、現在(1905年当時)の日本を「古い日本は死んで去ってしまった」「日本は静かな家長制の中からやかましい西洋の競争の中に移された」と評している。1905年といえば革命(明治維新)から37年、日清、日露戦争に日本が勝利し世界を驚かせた時期である。これまでの西洋人の日本観は、「妖精の住む小さくて可愛らしいロマンチックな国」であり「繊細な芸術品に満ちたエキゾチックな国」であり、「素晴らしい進歩が起きている国」「このまま変わってほしくない国」だった。しかし気がつくと急激な大変化に直面、「日本は軍事的にも経済的にも西洋の脅威になるのではないか」と心配し始めた時である。「黄禍論」が叫ばれたのもこの頃である。チェンバレンは、「同じ人間が、ある時は日本の進歩を激賞したかと思うと、今度は日本がやり過ぎないかと心配する」。勝手なものだと。西洋人の日本に対する「エキゾチックな幻想」へのこだわりを批判するとともに「急速に変わってしまった日本」の脅威論にも異議を唱えている。もっと日本を冷静かた客観的に観察せよというわけだ。「教養ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人(部分的には今も過去の日本人なのだが)とは別の人間になろうとしている」と評しつつ、一方で「日本は捨てた過去よりも、残している過去の方が多いことは極めて明瞭である。革命(明治維新)そのものが極めてゆっくりと成長し、成熟していっているのだから」。そして「国民の性格は依然としてそのままであり、本質的には少しも変化していないのである」。「昔の武士階級の知的訓練は儒教の古典を暗誦することであった。その素養を育んだ彼らの息子達は、今日では西洋の科学の教えを受けている」。また「日本人の外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向は、12世紀前の行動を今日も同じく大規模に繰り返しているに過ぎない。あの時は中国文明に飛びついたが、今日では我々に飛びついている」。古書を巡る旅(12)2027年7月10日チェンバレン著『The Things Japanese:日本事物誌』

「日本は昔の日本ではない。しかし日本人の性質は昔のままである」。こうしたチェンバレンの論評はヨーロッパ人読者に向けられている。「日本に対して昔の幻想を抱くのではなく、日本の西洋文明の受容と変容の実態を良く見よ!そしてヨーロッパがより深く日本について研究をできるよう、本書で諸問題に対する考え方を提示したい」としている。一方で日本人にとっては、「外来文化の受容と変容」という「日本らしさ」の本質とはどのようなものなのか。ヨーロッパ人研究者の目という写鏡で己の姿を見る機会が与えられたのである。まさに今まさに「激動の時代には何が起きるのか」「自己を見失わないようにするためにはどうすれば良いのか」を考えるための示唆に富む分析が散りばめられている。

チェンバレンは「日本事物誌」の中で「神と人間」という視点で日本文化について論評している。前回ブログでの折口信夫の「神と人間」論評と対比して読むと面白い。要約して紹介したい。

神道:

神道は宗教として言及されるが、宗教に値するものではない。まとまった教義もなく、聖書、経典もなく、道徳規約もない習俗や慣習あるいは政治的儀礼と言って良い。最初期には神道という呼称すらない自然崇拝、祖霊崇拝であった。仏教が入ってきた6世紀以降に、(仏教に倣って)宗教的な形態(文字化された祝詞、拝殿を伴う神社建築)をとり始めた。そして仏教と習合していった。18世紀の江戸中期になると仏教や儒教などの外来宗教を排した「日本古来の」宗教として神道を位置付けようとしする動きが起こり、古事記注釈などの国学盛んになる。これがのちに幕末の尊皇攘夷、明治の国家神道の源流となる。しかし、神道が儒教や仏教の影響を受けていない日本古来の宗教であるという主張には無理がある。近代の神道は仏教と儒教に深い影響を受けているし、神道の聖典とされる古事記すら中国文明の影響が色濃く見られるのは明白である。

儒教:

儒教は仏教より早い時期に日本に伝わった。孔子はあらゆる形而上学的飛躍を避け、宗教的な陶酔(神秘主義)に陥ることがなかった。宗教というよりは、主君への忠誠、親への孝行といった社会秩序を重んじる道徳観を説く、いわば政治の細部にわたる実践と道徳倫理の思想であった。日本の社会は今でもこの「忠」と「孝」という二本の基本的徳目で組み立てられている。仏教思想が広まっていった時期以降は、儒教は休眠期となり影を潜めていたが、江戸時代に徳川家康が儒教を重んじ、徳川幕府が儒学を官学としたことで復活した。支配者や親への盲目的服従という教えが古い封建的な思想に完全に適合したからだ。この頃には多くの著名な儒学者(伊藤仁斎、新井白石、荻生徂徠などの)が現れたが、儒教思想体系を発展させたり修正、変更したり、いわば日本的に「変容」する独創性はもたず、ただ忠実な解説者に過ぎなかった。したがって日本人の著した翻訳書や注釈書で読むに値するものは一つもない。明治以降の学校教育の改編までは教育の主要な伝達手段として続いたが、現在ではほとんど顧みられなくなってしまった。

仏教:

日本では長く国教的に扱われてきたが、不思議なことに一度も仏典の和訳が試みられた形跡がない。僧はサンスクリット語原典の漢訳のまま経を唱える。一般信徒は仏典を読めないし僧の読経に唱和するのみである。これは聖書が各国語に翻訳され誰でも読み親しむことができるキリスト教とは異なる点である。仏教は信仰というよりは哲学的な思想を持っているのだが、日本人は仏教の複雑な形而上学にはほとんど興味を示さなかった。しかし長く日本における文化形成と教育に大きな影響力をもった。哲学を除き。信仰という点ではキリスト教と大きな違いがある。仏の恵みは無常を知って悟りを開くことによって受けることができる。キリストが身代わりとなって(救世主となって)受難したから人は救われるというものではない。仏道は、ただ自己滅却(煩悩解脱)により涅槃の境地に入ることが目的であって、キリスト教のような永遠の生命が目的なのではない。仏教の教えによれば絶対最高神や宇宙の創造神を否定する。日本に伝わったのは多神教的な仏教(大乗仏教)である。これが日本古来の神々との習合が進んだ理由である。

キリスト教:

16世紀にイエズス会ザヴィエルによって布教された。苦難の布教活動の成果が実り、一定規模の信者を獲得したが、結果的にはキリスト教は排除され受け入れられなかった。日本は禁教令を出し長い鎖国という微睡の時代に入った。この間日本でキリスト教は新しい信者を獲得することができなかった。明治になって禁教令が解かれ再びキリスト教が日本に入ってきた。カトリックだけでなく聖公会やプロテスタント各派が競って布教伝道活動を行っている。日本の近代化に大きな影響を与えたのは近代合理主義(科学や産業主義)とキリスト教である。しかし、伝道者たちの努力にもかかわらず現代でもキリスト教信者が増えないのは、布教活動がアジアにおける帝国主義的支配の先駆けとなることを求める本国の姿勢によることが大きい。これは16世紀におけるイエズス会やフランシスコ会などの布教活動が、本国スペイン・ポルトガルの異民族の搾取、略奪、異教徒の文明破壊という領土拡大野望に利用されたのとあまり変わっていない。

日本人の信仰心について:

「日本人には信仰心がないのではないか」。これは多くの西洋人が異口同音に語ってきたことである。これにラフカディオ・ハーンは猛烈に反対している。日本人は神社参拝と葬式仏教を何の違和感もなく日常的に行なっている。西洋キリスト教文化圏の信仰では考えられない事だ。しかしこれが直ちに日本人に信仰心がないということにはつながらない。ただ一神教的な信仰の形がないだけで、我々には習慣とか習俗、儀式としか思えないような形で信仰心が表されているのだ。日本には「八百万の神々」がおり、一木一草にも神が宿っているのである。

「武士道」という新宗教:

チェンバレンは、日本が西洋文化礼賛、一等国へと突き進む中で、やがて日露戦争を境に、徐々に西欧文明一辺倒への懐疑に転じ、やがて、ひょっとすると西欧人よりも日本人の方が優れているのでは、強いのではという国粋的、愛国主義的ムードを高めてゆく。そういう変化を読み取っている。一心不乱に富国強兵、殖産興業に突き進み「一等国」を目指した先に見えた西洋文明への幻滅、不信感。そこから沸き起こり始めた「新たなる尊王攘夷」「国粋主義」「帝国主義」「民権から国権」というムーヴメント。その中で話題となりもてはやされている「武士道」は、つい数年前までは語られたことのない新思想であると彼は分析する。元々は武士の精神であったものが、革命(維新)で武家政治を否定し、武士を廃止し、その忠誠心を天皇に向けたにもかかわらず、新たに天皇(武人ではなく文人であるはずの)への忠誠心のために、「忠君愛国」「軍国主義」に向けた精神として、(武士でもない)庶民に「武士道」精神を押し付けている。これは西洋文化に対抗するために生み出された新たな「宗教」である。この「新宗教」を唱導したキリスト教徒の新渡戸稲造はそうは考えていなかったようだが、彼の意図とは別に受け止められ動き始めている。

西洋近代合理主義の受容と「日本人の特質」:

「日本人の特質」という章の中で、西洋近代文明に直面した日本人について観察、論評している。チェンバレンは「日本を批評することは感謝されない仕事である。そこから生じる自分への非難を避けるために、ほかの西洋人の論評を引用することにする」と皮肉を込めて言い訳している。この頃政府は言論に対する規制を強化し始めていた。これまでに日本に関する評論は数知れぬほど巷に溢れていた。東洋的な美術品に溢れるエキゾチックな国とする一方で、文明開花を西洋の猿まねだとする偏見に満ちた批判(ビゴーの風刺画のような)など、御雇外国人やヨーロッパからの商人、ジャーナリスト、短期旅行者、流れものまで、さまざまな外国人によるジャーナリスティックな日本観察が、これまたさまざまな書籍や新聞に掲載されている。センセーショナルに描けば描くほどどんどん売れる。今も昔も変わらぬ商業主義だ。しかしチェンバレンは、日清・日露戦争を経た「現代日本」についてもう少し現実的で冷静な観察がなされるべきであると指摘する。彼が選んだ評論には共通性がある。これが他者に代弁させた彼の日本観であることは間違い無いだろう。彼自身もこう言っている。「日本人は総合的に雄大なものを作るのに必要な素質も、幅の広い考え方も欠けているように思われる。それらは小さなもの、こぎれいなもの、孤立した物、小さな飾り物に表現されるにとどまる」。以下に本章で引用されたコメントをいくつか紹介したい。

W.アストン『日本文学史』:「日本人は、単に借用することで決して満足しない。美術においても、政治組織においても、宗教においてさえも、他国から取り入れたものは何でも広範囲に渡って修正を施し、それに国民精神の刻印を押すという習性を持っている」

C.ミュージンガー『日本人』:「特殊の才能(talent)は大きいが、創造的才能 (genius)は小さい」

P. ローウェル『神秘的な日本』:「並外れて明敏であるが、深く黙想的ではない」「高度に倫理的ではあるが高度に宗教的ではない」「日本人は創造性がかけているにもかかわらず、強い個性が目立つ。そして、外国からの輸入品がいつまでも外国のままの姿でいることに満足していない。」「抽象的思想を受け入れる能力を持たぬ」「礼儀正しさは、その奥底に精神的な活動が欠けていることを示す。活気にあふれた精神の持ち主なら、極めて厳格な礼儀作法に縛られていることはとてもできないであろう」

E. ケンペル『日本史』:「学問や文芸といった面で日本人に欠けているものは哲学的思索、音楽の調和、それに数学の論理である。道徳的には優れているが、思索的には無知で無頓着である」等々

このほかにもザヴィエルからウィリアム・アダムスなど16〜7世紀の先人たちの「日本論」を紹介している。明治期ではウィリアム・アストンとラフカディオ・ハーン(後述)の論評を激賞していることにも注目したい。また当時話題となったピエール・ロチの論評については「これが日本の全体の真相なのか?」、間違っているのは日本ではなく、悪口を言っているフランス人(ロチ)の理解力の欠如ではないか、とこき下ろしている。

日本人と中国人:

またヨーロッパの貿易商や銀行家による、中国人と日本人の比較論では、中国人の誠実で、信頼感のある商取引への賞賛に対し、日本人の不正や非能率、優柔不断な態度を嫌悪する評論が興味深い。チェンバレンは以下のように評している。「日本は観光客にとっては天国であるが、貿易商にとっては墓場である」。ただ、中国人と日本人に共通する特色がある。それは実利主義である。また「中国人は民族的誇りを持ち、日本人は国家的虚栄心を持つ」。すなわち、中国人はその悠久の歴史と文明に対する誇りを持つが、政治的単位としての国のために命を捧げるという理想には少しも関心がない。日本人は1000年の間に二度も自国のもの(文化)は全て捨ててしまったにも関わらず、抽象的には強烈な愛国主義者である。したがって、いざという時には実際の必要以上に勇敢である。中国人は名だたる現実主義者であるから「三十六計逃げるが勝ち」である。

チェンバレンの総評:

これらの批評を整理すると、チェンバレンは、日本の長所としては、清潔さ、親切さ、洗練された芸術的趣味。短所としては、国家的虚栄心、非能率的習性、抽象概念を理解する能力の欠如である。日本人の模倣性については長所か短所か迷う。独創性がないと言えば短所だが、実際的(実用的)知恵の現れである、あるいは模倣が手の込んだ細部にまで浸透していることに驚嘆するという意味では長所だ。そして最後に、数々の雑誌や新聞に投稿されている付和雷同的な誇張と偏見に満ちた「特質」論が、あたかも日本国民全体の特質であるかの如き論調に強烈な皮肉をのべ違和感を示している。「これは歴史が示しているように、この国民が現在経つつある不安定な時期の特徴にすぎない。(中略)ヨーロッパが封建体制から抜け出した時も、全く同じ兆候を示したものである」と締めくくっている。うまくまとめたものだ。

チェンバレンは「歴史と神話」の章で、歴史と神話が区別なく語られる古事記の思想と背景を論評している。日本人の思想、日本文化の背景について、初めて古事記の英訳をなしたチェンバレンならではの鋭い切り込みである。興味深いのでぜひ以下を参照願いたい。古書を巡る旅(64)2025年5月17日 チェンバレン 英訳『古事記』


(2)ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のJapan An Interpretation:『神国』

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、本書で「神と人との関係」という視点で日本を論評している。本書は1904年の刊行で彼の最後の著作であり、日本論の集大成とも言えるものである。本書についての詳細は次のブログを参照願いたい。2025年7月5日古書を巡る旅(66)ラフカディオ・ハーン Japan An Interpretation:「神国」

ハーンの目線(要約):

これまで述べてきたチェンバレンの考察との対比で少し要約すると、日本の神道は宗教というより古来からの習俗、霊的感情を表したののである。儒教や仏教もうまく受け入れられていった。仏教が祖霊崇拝を否定しなかったことが大きい。ここが祖霊崇拝を排除しようとしたキリスト教との大きな違いである。また日本人が個人よりも家族や社会を大事にする性質を持っているのは、こうした古来からの祖霊崇拝による親や一族の祖先への感謝、恩恵を感じているからである。この点でチェンバレンが儒教の「忠」と「孝」の二大徳目が日本人の家族や社会を重視する性質の根源とみなしているのと異なる。ハーンは外来の仏教や儒教の影響を否定はしないが、より古来からの祖霊崇拝、自然崇拝に注目している。またハーンは近代合理主義一辺倒で日本の古来の伝統や精神を蔑ろにする傾向を嘆いている。これは、ヨーロッパ人が抱きがちな東洋的、日本的なエキゾシズムへの懐古趣味からではなく、かといって日本人の急速な欧化に対する反発からくる極端な皇国史観や国家神道に傾倒する国粋主義からでもなく、人間の根っこにある霊的な感性、自然への畏怖と敬意といった素朴な心情、そして、人種、民族に関わらず共有する普遍的な価値観が失われてゆくことへの哀惜の念からである。すなわちこれは日本のみの問題ではなく西洋文明の現実に潜む問題である、というのがハーンのメッセージである。ちなみに、ハーンが暮らした日本の街の中で最も愛したのは松江であった。勇ましい軍都熊本でも、華やかな開港場神戸でも、まして帝都東京でもなく。たった一年、そして初めて住んだ日本の街であった。そこは文明開花の波に洗われることもなく、古よりの日本人の心が西洋文明に曝されずに生き残っている街である。杵築の大社に守られた「八雲立つ出雲」、まさに「神国」である。

ハーン・チェンバレン論争:

ハーンはチェンバレンとは生涯にわたって交友関係を結び尊敬しあった。特にハーンはアメリカにいるときにチェンバレンの英訳『古事記』を読み、インスパイアーされて日本にやってきた。またハーンを東京帝国大学の英文学教師に推薦したのもチェンバレンであった。が、晩年には批判の応酬もしている(エリザベス・ビズランド『ラフカディオ・ハーン往復書簡集』)。ハーンはチェンバレンの日本人の「神と人との関係」論は、アングロサクソンやキリスト教視点でのそれであり、キリスト教や仏教などの伝来以前からある、人類に共通する霊的感性や精霊、自然や祖先を神として崇める心を思い出すべきである。それは洗練された教義や聖典として継承され信仰されるものでは無いが、未開の習俗や邪教として排されるべきものではない。まさに我々が忘れかけている人間の始原的心である。日本にそれを発見したのだ。と批判している。

一方、チェンバレンは、ハーンはあまりにも日本的な感性に共感を寄せ過ぎていて、日本人の心に流れる美しい精神を讃えるときに、ヨーロッパ人を比較対象に持ち出して悪者にする。それが公平な観察を歪めていると批判した。しかし、ヨーロッパ人は、幸いなことにそんな悪口にはへこたれない精神と復元力を持っているので何も心配していないと自己弁護している。チェンバレンは別の章でヨーロッパ人の不行跡について批判しているので彼一流の皮肉である。これに対してハーンは「私は東洋的、日本的というよりはケルト的なだけだ」「教会よりも森に霊的なものを感じるのだ」とコメントしている。

ハーンの「日本的なもの」に対する観察は、確かに多面的な事象の観察という点では偏りがあり、チェンバレンが批判するように日本への共感が客観的な(アカデミックな)分析を妨げていると言えるかもしれない。チェンバレンは、多くの資料や文献にあたり言語学的、比較文化論的に考察する、いわば比較研究アプローチを取った(いわゆる「書斎学派」)のに対し、ハーンは、文字資料や書籍によるだけでなく、伝説、怪談など民間説話など、その土地に伝わる伝承をその土地の人々から聞き、実際に現地を見て歩く。そこに「日本的なもの」を感じ取った再話作家であり、在野のジャーナリスト視点を持つ批評家である。ハーンもまた、いわば柳田國男や折口信夫のような民俗学的なアプローチを重視したと言っても良いかもしれない。そういう意味においてはハーン(小泉八雲)も官学、アカデミズムの人というより在野の人であった。


(3)私的総括

この西洋文明側から見た日本の「近代化」への戸惑いと違和感は、おそらくかつて儒教や仏教を伝えた中国文明の側から見た日本にもあったのだろう。文化・文明の「受容」と「変容」は本家から見ると異様なもの、あるいは滑稽なものに見えるのだろう。それにもかかわらず「日本化」は、もはや本家を離れ日本固有のものになろうとしている。あるいは岡倉覚三(天心)が『日本の目覚め』で述べたように、本家のインドや中国で失われてしまったものを日本で保存し、今に残して預かっているものもある。あるいは、既に日本に内包されていた変化の兆しが、西洋の「近代合理主義」文明の流入で一気に顕在化して加速的に進化したとも言えるかもしれない。いずれにせよ問題はその日本化されたものが普遍的な価値を持ち、世界に発信して受け入れられるまで昇華されたものかどうかだ。かつての軍事大国としての日本は潰えた。経済大国としての日本も衰微しつつある。これからは文化大国としての日本が花開く時代に入る。日本に西洋文明を伝えた本家の欧米諸国が、その近代合理主義、なかんずく民主主義、自由主義という歴史的な理念と価値観を毀損させ始め、時代を逆行しつつある今、日本が、その西洋文明が失いつつあるものを保存し、東洋文明に内包される理念と「習合」し、再び世界に戻す時期が来るであろう。文明・文化は相互に行き交うものである。これからは日本文化が世界で「受容」され「変容」される時代がやってくるに違いない。それこそ日本の新たな役割であり文明国の歩む道、新たな「文明開花」である。

最後に、岡倉覚三(天心)のあの言葉をここでも掲げておきたい。

「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国とよんでいる。」......「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとすれば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう」(『茶の本』より)古書を巡る旅’47)2024年3月29日 The Awakening of Japan:『日本の目覚め』



2026年1月5日月曜日

2026年年頭にあたって 〜「日に日に世界が悪くなる 気のせいかそうじゃない」〜


夕焼け富士山と新幹線(1月4日Uターンラッシュ)


今日は仕事始め。9連休という長い休みで弛緩した気持ちとアタマを奮い立たせてまた頑張りましょう。頑張らなくていいんだよ、とか、自分さえ楽しければ良いんだ、とか言わずに世のため人のために、自分に出来ることで良いから頑張りましょう。東京の正月はいつもカラリと快晴になるが、今年も晴天でしかも多少暖かい正月です。今年こそ穏やかな一年となる事を祈りたいものですが、世界では正月早々とんでもないことが起き、どうやら多難な年明けになりそうです。内向きに閉じこもって居れる呑気な時代はまもなく終了かもしれませんね。

ともあれ新しい年の活動開始の日にあたって皆様のご多幸と繁栄をお祈り申し上げます。

そして本年もまた『時空トラベラー』をよろしくお願いいたします。

こんな時です、私の大好きなハンバート ハンバートの「笑ったり転んだり」を一緒に歌いましょう。https://youtu.be/1_P2MT39VJ0?si=qwB_D-Qvyfy7KZMS


A面:

「笑ったり転んだり」ハンバート ハンバート 作詞・作曲・編曲:佐藤良成 毎日難儀なことばかり 泣き疲れ眠るだけ そんなじゃダメだと怒ったり これでもいいかと思ったり 風が吹けば消えそうで おちおち夢も見られない 何があるのかどこに行くのか わからぬまま家を出て 帰る場所などとうに忘れた 君とふたり歩くだけ 日に日に世界が悪くなる 気のせいかそうじゃない そんなじゃダメだと焦ったり 生活しなきゃと坐ったり 夕日がとても綺麗だね 野垂れ死ぬかもしれないね 何があるのかどこに行くのか わからぬまま家を出て 帰る場所などとうに忘れた 君とふたり歩くだけ 黄昏の街西向きの部屋 壊さぬよう戸を閉めて 落ち込まないで諦めないで 君のとなり歩くから 今夜も散歩しましょうか




B面:

正月早々の3日、アメリカのトランプはヴェネズエラの首都カラカスに陸軍精鋭部隊デルタフォースを送り爆撃して民間人を含む多くの死傷者を出したのち、マドゥーロ大統領夫妻を拘束してアメリカに拉致した。「麻薬を使ったアメリカへのテロ」の主犯だという理由で。1990年のパナマ侵攻、ノリエガ拉致の時と同じ理由である。もちろん石油利権回復と中国の影響力排除が本音だ。いかに問題の多い独裁政権だとはいえ一国の国家主権など無きが如き傍若無人な振る舞いだ。そもそもヴェネズエラ国民を守るための行動ではないし、民主主義を回復することが目的だとは一言も言っていない。これじゃあロシアのウクライナ侵略戦争と同じで、その和平調停などできないわけだ。もちろんイスラエルのガザ侵攻など止められない。今や世界は、専制主義的な指導者が競って軍事力を使って「力による現状変更」を公然と行う。利権と自己名誉欲を実現するために他国を侵害するという構図がはっきり見えてきたようだ。世界の平和、民主主義、法の支配、基本的人権などという「理念」で動く世界では無くなってしまった。市民が死のうが苦しもうが子どもが飢えようが意に介さない人たちが政治を動かしている。今年も、ウクライナやパレスチナに平和が来るどころか、新たな戦争が拡大する兆しが見えてきた。次はコロンビアだ!キューバだ!メキシコだ!グリーンランドだ!カナダもだ!同盟国なんて関係ない!そうなると中国の「次は台湾だ!」も時間の問題か。朝鮮半島も中国とロシアで山分けだ。どうするニッポン。振り向いてもそこにかつてのアメリカはない。かれらは「民主主義の守護者」の看板を下ろし、モンロー主義の時代に戻ろうとしていて自分のテリトリー、西半球で手一杯なのだから。日本が置かれている地政学的リスクは日清・日露戦争から太平洋戦争の時代と少しも変わっていない。専制主義的な隣人と対峙して民主主義を守るというなら日本はこれまでのアメリカ一辺倒の姿勢から脱却しなければならない。どうする?

トランプは、この2026年「新年のメッセージ」で世界の専制主義的リーダー達にエールを送った。

「門松やデストピアへの一里塚」


2025年12月27日土曜日

日本文化とは何か? 〜外来文化の受容と変容の歴史(1)〜

 

宇佐神宮の神仏習合(宇佐市公式観光HPより)


日本文化は外来文化の「受容」と「変容」の歴史の中で形成されたと言われる。そもそも日本列島にどのようなことが起きたのか。どのような外来文化の受容が日本文化を特色づけているのか。年末恒例のクリスマスを祝い、正月を寿ぐこの季節に、「神と人間」そういう視点で「日本的なもの」とは何かを考えてみた。まずは外来文化の受容、変容の歴史を駆け足で振り返ってみよう。稲作農耕文化の流入。そして儒教と仏教の伝来。キリスト教伝来。そして黒船来航、すなわち「神の摂理から人間の理性」に基づく新宗教「近代合理主義」の伝来である。そして最後に知の巨人、折口信夫の「日本的なもの」について触れてみたい。またラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、バジル・ホール・チェンバレンの「日本的なもの」論については、次回に触れてみたい。


外来文化の受容と変容の歴史 〜「神と人間」の視点で〜

1)稲作農耕文化:

最近の研究では、稲作農耕文化の列島流入は紀元前10世紀頃と考えらられている。それまでの狩猟採集生活から農耕定住生活へと変わっていった。これはパラダイムシフトとも考えられる大きな社会的、文化的転換である。しかし急激に変化したり、征服などで民族が入れ替わったりしたのではなく、長い時間をかけて移入民と在来民とが融合していったと考えられている。この農耕定住生活は新しい文明・文化を列島にもたらすことになる。一年をかけた耕作と収穫には、労働力、土地、水、農耕器具、余剰生産物、資源の分配管理などを取り仕切るオサ(首長)が必要であり、一族がウジに 集落はムラへ、ムラはクニへと社会単位の規模がが大きくなっていった。やがては支配者と被支配者という身分、階級ができ、「王」が生まれ「国」ができる。マルクスの言うところの経済的な「下部構造」の形成だ。ここに自然崇拝(縄文的神) 祖霊崇拝(弥生的神)が生まれ、八百万の神々、一木一草に神宿るという多神教的信仰、霊的観念、そして習俗が発生した。この頃はまだ「神道」と呼称される宗教とは認識されていなかった(のちに「神道」概念が生まれると、その源流という意味で「古神道」と)。やがて王の上の王、大王や国が形成される過程で、建国神話が編まれ、大王は天皇を称し、太陽神を最高位の皇祖神とする神々の序列化、体系化が行われる。やがて古神道は皇国史観による神道へと変遷してゆく。

2)儒教:

5世紀に百済の王仁が論語10巻を伝える。やがて中国から四書五経 文選が伝わり、聖徳太子は仏教に帰依するとともに儒教に基づき十七条憲法に官僚の心得を記述した。7世紀末には古事記にも影響を与え、万葉集にも漢詩が(元号「令和」の起源も)取り入れられる。何よりも漢字が文字として伝わり、平安時代にカナ文字が発明されるまでは漢字を和語に用いる(万葉仮名、変体漢文)ことで公文書の作成、歴史書や神話、詩歌が生まれた。平安時代には漢詩、漢文が貴族の基礎的な素養として定着し、文章博士菅原道真のような漢籍の最高権威が重用される。和漢朗詠集などの文学作品も生まれた。いわゆる「和魂漢才」の時代だ。陰陽道が分かれて神道と結びつく。日本は漢字文化圏の一員となった。江戸時代には儒学(朱子学)が幕府指定の公式学問となる。諸藩の藩校では儒学が基礎科目となり、庶民の寺子屋でも論語の素読、習字が識字率を高めるのに役立った。一方で、朱子学から発生した陽明学は異端の思想として幕府からは禁止された(寛政異学の禁)が、体制維持や秩序を重んじる朱子学に対し、「知行合一」により自己の心を重んじる陽明学が反体制思想として在野で支持され、幕末の討幕運動のイデオローグたちに支持された。儒学を基本とする漢学は 日本の文化の基礎となり、知性と道徳の基本になった。すなわち宗教というより秩序を重んじる学問、倫理道徳として定着していった。主君や国家への、滅私奉公という忠誠心、家、親孝行、長幼の序などの日本人の道徳的価値観の根源となっている。

3)仏教:

6世紀にインドの宗教が中国・朝鮮を経由して伝わる。538年(または552年)百済王が黄金の仏像と仏典を贈ったのが始まりとされる。当初は古来からの神道崇拝者(神祇職にある豪族)との激しい「崇仏・廃仏」論争があったがやがて有力豪族、大王(天皇)が受容。7世紀末〜8世紀には「近代」国家建設にあたって、この外来宗教・思想は統治理念 国家の基礎理念として取り入れられた。東アジア的グローバルスタンダード、すなわち「鎮護国家」思想である。やがて難解な密教の導入を経て、支配者階級の思想哲学であった仏教は、平安時代には来世の救済を説く阿弥陀信仰、浄土信仰となる。さらに鎌倉時代になると多くの宗派(鎌倉新仏教)が生まれ。現世利益や、儒教と結びつき道徳的な「教え」を説く信仰として広く武士や庶民にも浸透していった。仏教は 明治の「神仏分離令」「廃仏毀釈」までは、奈良時代以降、連綿と天皇・将軍も帰依する国教的な宗教であり、天皇は神道祭祀の最高位に位置しながら、退位すると出家して仏教僧となった。日本の仏教に特徴的な点は、日本古来の神々との習合が進み、平安時代に広まった「本地垂迹説」により神道との神仏習合が定着していったこと(写真の宇佐神宮における神仏習合)。大陸風の壮麗な仏教寺院建築は、(もともと山、岩、樹木などの自然物を神の依代としていた)神道にも影響を与え神社建築を促した。仏教寺院に鳥居や神社が設けられ、一方で神社には神宮寺が祀られた、こうして仏僧と神官が相互に宗教儀礼を行う独特の「受容」と「変容」が行われた。日本に伝わったのは大乗仏教で、ブッダ一神教ではなく、いわば多神教的な仏教であった。

4)キリスト教:

16世紀にポルトガル、スペイン人から伝来。初めての西洋文化である。仏教の退廃、戦乱による疲弊、南蛮貿易利権から、当初は宣教師の布教活動により西日本の領主、庶民に一挙に広まる。領主の改宗により、領民が一斉に改宗させられることがあった。全知全能の神、唯一絶対神であり、多神教を異端、未開の習俗として排除した。仏教(Bonz)とも敵対し、寺院の破壊、仏像の破却などが起きた。これに対する反発も起きるが既存宗教勢力との融和、習合の動きなく、本国の領土的野心と一体化。やがて国の指導者からの布教への疑念を持たれるようになる。そこへ本国でカトリックと対立するプロテスタント(イギリス・オランダ)の到来で宗教戦争が日本で再現される。彼らは貿易を優先しキリスト教布教は行わないと宣言した。こうして、ついには宣教師の国外追放、禁教令、鎖国へつながって行く。多神教の日本では結局キリスト教は根付かなかった。ただ禁教下で信仰を守り続けた日本人キリスト教徒(潜伏キリシタン)がいたことを忘れてはならない。一方で、西洋文化は、キリスト教布教に関心の無い、長崎の出島に押し込められたオランダ人からわずかではあるが流入してきた。蘭学である。日本人の知的好奇心を大いに刺激した。

5)近代合理主義思想:

これまでの東洋的思想(儒教、仏教)から西洋的思想(キリスト教)が流入する過程で、キリスト教は排除されたが、やがて 西洋的思想や文化は宗教から哲学、思想へと変遷してゆく。すなわち 19世紀になると、ヨーロッパにおける16世紀以降の「神の摂理から人間の理性へ」という、宗教と一線を画す哲学思想と科学が日本に入ってきた。すなわち人間の理性から始まる啓蒙主義哲学、あるいは経験主義哲学であり、ここからスタートする諸科学の発展、自由主義政治思想であり資本主義であり市場経済であった。東洋の儒教的、仏教的秩序、道徳観、政治思想に変わる西洋の「近代合理主義」思想の登場である。この受け入れをめぐって、中国や朝鮮など東洋的旧体制の隣国の激しい葛藤の時代に、日本はいち早く旧体制を捨ててこれを受容した。インドや中国における西欧列強の帝国主義的植民地支配の実態を目の当たりにし、その恐怖が背景にあった。そうしたアジアの危機的状況を反面教師とした西洋流の「近代化」、すなわち近代合理主義の受容を急速に進めた。幕末から明治にかけて「文明開花」「殖産興業」「富国強兵」など(四文字熟語のスローガン)が急速に展開された。「和魂洋才」を謳ったのもこのころである。そしてついに西洋流の「帝国主義」に抵抗するかわりに受容して我がものとし、彼らと競争しながらアジアに出ていったがその試みは破綻する。終戦後は、民主主義、自由主義、個人主義、物質主義というヨーロッパ列強諸国とは一味違う「アメリカ教」文化が怒涛の如く流入しどっぷり浸る時代へと転換した。その明治維新から150年、終戦から80年。「東洋的なもの」と「西洋的なもの」の習合はどれほど進み「日本的なもの」に変容したのか。まだ変容プロセスの途上にある。


日本文化は多様性の賜物?

このように振り返ると、大陸周辺部に位置する日本列島の住人は、海の向こうからやって来る実に多様な外来文化を、長い時間をかけて受容し咀嚼して「日本化」してきたことがわかる。いやそもそも列島外からの人の流入がそれを進めた。外来文化は人の移動に伴って入ってきた。すなわち日本文化あるいは「日本的なもの」とは「多様性」がキーワードとなることに気づく。もっともこれは特に日本文化に関してのみ当てはまる特殊な文化史というわけではない。世界史的に見ても、異文化や異民族との交流(戦争、征服も含め)による文明・文化の興亡と進化は、むしろ普遍的事象であったし、隣の中国、朝鮮を見るまでもなく、いわば「多様性」の相剋が持続可能な文化、民族、国家を産んだことは一様に理解するところである。人類10万年の歴史をさかのぼれば、屈強と言われたネアンデルタール人が絶滅して、肉体的に弱いホモサピエンスが生き残った理由の一つは、生存に適した土地を求めた移動と冒険心、その過程で人種的多様性、文化の多様性を受け入れたことだと言われている。日本人は列島の外の各地から移住してきた人々と列島人が代々混ざり合って形成された集団、民族であることは最近のDNA分析の結果からも証明されている。その人の移動に伴ってもたらされた文化がブレンドされて新しい文化が生まれたのである。日本は単一民族国家だ、日本古来の「やまとごころ」「惟神の道」の国だと言っているその本質は、このように多様性のプレンド文化が基底となって生まれたものである。そして日本人はそうした外来文化に対する寛容さと、それを独自のものにする強かさという特質を有している。それが外来文化の「受容」と「変容」の中身なのだ。


「やまとごころ」「からごころ」

江戸時代の国学の勃興を考えてみよう。この時代的な思潮の流れはとても示唆的に思える。仏教が国家宗教 儒教(朱子学)が国家の公式学問であり、知育、徳育科目であった時代である。さらに主に医学、本草学など科学科目としての蘭学が盛んでもあった。一方で、日本古来の「やまとごころ」「もののあわれ」を復興し、蘭学、漢学など外来文化や思想、すなわち「からごころ」を排した日本古来の精神を学ぼうというムーヴメント、すなわち国学が盛んになった。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、契沖である。本居宣長は古事記の研究注釈や源氏物語、古今和歌集などの古典講釈が盛んに行なった。こうした運動の中で、徳川幕府が統治の基本に据えていた仏教や儒教でなく、神道が「惟神の道」として重視され、その典拠となる古事記を聖典化した。これは日本の支配者は将軍ではなく天皇である、という政治思想、「皇国史観」の表明である。のちに水戸学、そして幕末の尊王攘夷思想、討幕運動へとつながる。しかしこれが明治維新の西欧列強に対峙する国家近代化の「革命思想」の原点となったのは皮肉だ。しかものちには天皇への忠誠心を求める「武士道」精神(武家を否定しておきながらこれもまた皮肉だ)、さらには「忠君愛国」「八紘一宇」「偉大なる大和民族」という国粋主義へと変異していったことは改めて解説の必要もないだろう。しかし、国学者が重視した「やまとごころ」の聖典、古事記にも、「もののあはれ」の源氏物語にも、そもそも儒教、仏教の影響(「彼らが言う「からごころ」)が色濃く現れていることは否定できない。何よりも用いられている文字は中国からの漢字である。日本古来の思想、精神の中にインド、中国などの外来文化の影響を拭い去ることはできない。神話においてすらそうである。これはちょうど西洋文化の思想、精神の基礎にギリシア、ラテンがあるのと同じだ。日本文化を愛する気持ちに変わりはないが、その文化に外来のものを排した国粋的なものを求めることは合理的ではない。多様性の受容と変容。それが「日本的なもの」なのである。それを指摘した人物の一人が折口信夫だ。


折口信夫の「日本的なもの」とは?

折口信夫はある講演の中で、「和魂漢才」「和魂洋才」とは、和魂を生かすために主体的に漢才や洋才を取り入れることだと言っている。内なるものにこだわらず外から取り入れたものを改良してより良いものにするのが日本文化の特色だと。それが「日本的なもの」だと。したがって外国文化を排除するのではなく、どんどん取り込んでより大きな和魂の日本になれ、と言っている。これは戦前の講演であるから「やまと魂」的なトーンが読み取れるが、当時としては画期的であったろう。古事記や万葉集にも四書五経や文選などの漢籍の影響を読み取っている。欧米文化も含めて外国のものを排除せず取り入れて咀嚼して「日本的なもの」に変容する。これが彼の「和魂」、すなわち「やまとごころ」の理解であり、学としての国学、民俗学(新国学と称していた)への取り組み姿勢の基本であった。

折口はまた「神と人との関係」から日本文化を考えた。キリスト教の神は全知全能の唯一絶対神であり、宇宙の創造主である。もちろん人も神が作った。その絶対神に選ばれ「契約」を結んだものだけが神の愛に包まれ救済される。一方の日本の神々は、絶対的な創造神ではなく、生まれては消える神々で、遥か彼方の他界、異界からやってくる客人、すなわち「まれびと」である。その姿は見えない。人々は山や岩や樹木などの依代に神の存在を感じ、それを迎え祭りでもてなす。祖霊神は親子関係、一族のもので天界に魂は住んでいるが家にも帰ってくる。それを迎え祀る。日本では神が人を創造したとは考えられていない。人は「自然になる(生る)」ものである。すなわち最初から自然の一部として存在している。神が人を選ぶのではなく、人が神を選ぶ。その関係は唯一絶対でも契約関係でもない、次々に生まれ出てくる多様な自然神、祖霊神である。仏教ですらブッダが唯一絶対神ではない。阿弥陀如来や大日如来や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩、不動明王など、さらには法華経が信仰対象となることもある。人は死ぬと仏になる。お盆になると家族のもとに帰ってくる。古神道の祖霊信仰と融合している。日本に伝来してきたのは北方仏教(大乗仏教)で多神教的な仏教である。折口は、人と神は「契約」ではなく「和」でつながると言う。

折口の言う多神教の神々には外来の神も参加する。ただ一神教的「契約」ではなく「和」を持って貴しとなす「神と人の関係」という文化は、「唯一絶対」を主張する神に対しては不寛容であるようだ。それが一神教が根付かない理由かもしれない。「外来文化の受容と変容」と一口に言っても、それほど単純明快ではない。取り入れたいものと取り入れたくないもの、消化できるものとできないものがある。「受容」と「拒絶」の葛藤の中で取捨選択した結果の「日本的なもの」なのだ。折口の研究アプローチは、文献資料を中心とする歴史学ではなく、人々の間を歩き回り、見て周り、聞いて回るフィールドワークを重視する民俗学アプローチである。この点で柳田國男と双璧をなす民俗学者である。地方の民間の伝承や、祭り、芸能、習俗など中心に「神と人間の関係」を見つめたもので、その中に「日本的なもの」を見出した。そしてそこに一神教の絶対神の姿を見ることはなかったのであろう。折口の「国学」は、本居宣長が古典の研究というアプローチで「やまとごころ」を見出そうとした手法とは異なっている。だからこそ民俗学を「新国学」と称したのであろう。

日本に伝来した「近代合理主義」が、本家の欧米文化圏で混沌としてきた現代、外来文化の受容と変容により文化を形成してきた日本。これからどのように「日本的なもの」を見出し、リアル空間、サイバー空間に溢れる「文化」を取捨選択するのか。さらに能動的に発信して独自の文化を築いてゆくのか。次の文化パラダイムに転換する歴史的な岐路に立たされているように思う。


参考:上野誠「日本を見つめる巨人折口信夫」NHK R1「心を読む」

この他の「日本的なもの」の論考は下記を参照

2024年3月29日 古書を巡る旅(47)The Awakening of Japan:岡倉覚三『日本の目覚め』

2024年6月10日 古書を巡る旅(51)Bushido : 新渡戸稲造『武士道』



2025年12月14日日曜日

古書を巡る旅(73)Roosevelt and the Russo-Japanese War:『ルーズベルトと日露戦争』 〜戦争を終わらせるということは?〜

 






アメリカ大統領、セオドール(テッド)・ルーズベルトと言えば、我々日本人にとっては日露戦争の終結に向けて和平調停を行いポーツマス条約締結を仲介した馴染みの深い大統領だろう。その功績が認められ1906年にはアメリカ人で初めてノーベル平和賞を受賞した。アメリカの歴史に名を残す大統領の一人だとされている。現代のアメリカ大統領ドナルド・トランプの国際関係の歴史や経緯に関する見識も乏しい「和平調停」策と対比して大きな違いがあるように見える。トランプ氏にとって「戦争を終わらせる」ということは、アメリカが(あるいは自分が)経済的な利権(鉱物資源、不動産開発など)と名誉(ノーベル平和賞という)を獲得することであると考えている節がある。理想主義、人道主義をかなぐり捨ててこうした物欲、名誉欲で動く様はアメリカも落魄れたものだと考えがちだ。しかしそうだろうか。ルーズベルトとトランプの間にはそんなに大きな違いがあるのだろうか。実は、今回紹介する本書を読むと、今のアメリカの姿はこのテッド・ルーズベルトの時代とあまり変わっていないことがわかる。いやあの時代に戻りつつあると言った方が良いかもしれない。アメリカが「理想主義的な外交」に転じたのは、20世紀に二つの世界大戦に勝利して、さらに米ソ冷戦にも勝利して以降のことである。民族自決、自由主義経済、民主主義、法の支配という普遍的価値を広め守ることが国益にもかない、かつその自由と民主主義の守護者としての「理想主義外交」こそがアメリカのレーゾンデートルであり、パクスアメリカーナの源泉だと考えるようになった。しかしやがてそういう時代が終わりを迎える気配を見せると再びあの時代に戻ってゆくようだ。すなわち自国優先の「エゴイズム外交」の時代である。トランプの姿は100年前のルーズベルトのそれである。Make America Great Again、America Firstはトランプオリジナルではない。そう言うとテッド・ルーズベルトを敬愛し、親近感を抱く大方の日本人、そしてアメリカ人は驚くかもしれないが、この日露戦争とその戦後処理の有り様に現代のアメリカを重ねて見るとさまざまのことが見えてくる。本書はそれを気づかせてくれた。

今回紹介する" Roosevelt and the Russo-Japanese War":『ルーズベルトと日露戦争』は、その日露戦争終結とその後のアメリカ大統領セオドール・ルーズベルトの対外政策、とりわけ日本、朝鮮、中国政策を分析評価した重要な書籍である。そして戦後処理とその後のアジア情勢、アメリカの立ち位置を示している。1925年の刊行なので第一次世界大戦は経ているが、世界恐慌、第二次世界大戦に入る以前のアメリカ外交政策に関する分析である事に注意する必要がある。いわゆる「ルーズベルト・ペーパー」や国務省の外交資料、議会図書館や数多くの研究者の論文などを網羅的に調査しまとめた大作だ。著者はTyler Dennett(1883-1949)という外交史家で国際関係論の研究者、ジョンズホプキンズ大学やプリンストン大学で教鞭をとった。日露戦争、東アジア政策に関する著作がある。本書は1925年の初版で、著者がジョンズホプキンズ大学から博士号を得た論文が元になっている。研究者らしい徹底して文献資料に基づいて評価分析を試みているので、ジャーナリスティックな「読み物」ではないが、正確で公平な検証姿勢には敬意を表したい。1934年には、著作『ジョン・ヘイ:詩から政治へ』でピューリッツアー伝記・自伝賞を取っている。


この著作のサマリー:日本はアメリカの同盟国であったのか?


(1)「三国干渉」から日露戦争へ

ルーズベルトの外交政策は、ヨーロッパへの関与も重要だが、アジア太平洋方面でのアメリカの権益を拡大確保することがより重要であると言う考えが基礎にあったようだ。19世紀末から20世紀初頭のアメリカは、まだ二つの世界大戦も起きておらず冷戦もなく、ヨーロッパ覇権国の紛争への関与にも関心もなく、外交方針がまだアメリカ中心主義であった頃だ(1822年のモンロー主義の延長線上)。帝国主義的な海外進出ではヨーロッパ諸国に対して出遅れていた。海外進出といえばまずアメリカ周辺、そしてアジアが念頭にあった。彼はアジア重視ではあったがその世界観は、アジア太平洋地域の出来事、とりわけ日本、朝鮮、中国の不安定な情勢はヨーロッパにおける覇権争いの反映であるとの認識に立つものである。すなわちイギリスとロシア、ドイツ、フランスの帝国主義的な覇権争いである。彼らはヨーロッパにおいて相互に手を結んだり、敵対したり、その争いが、朝鮮半島や満州に表出していると。そういった観点からヨーロッパ情勢にも注意を払っていた。特に日清戦争後の1895年の下関条約による遼東半島の日本への割譲に反対し清国に返還させた、いわゆるロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」が象徴的である。その結果ロシアが、日本が返還した遼東半島、旅順(Port Arthur)を手中に収めるなど、日本側から見ると日本の勝利による「獲得領土」をロシアが横取りした「臥薪嘗胆」事件であるが、ヨーロッパ側から見ると中国における帝国主義的利権争いであった。ロシアと対抗するイギリスはこれに参加せず、また日本寄りだったアメリカも局外中立の立場をとった。また、賠償金問題が、これまでイギリスが優位な立場にあった中国で、ヨーロッパ帝国主義の中国分割植民地化を加速した。すなわち清国は日本に対し莫大な賠償金を支払うことになり、ロシアとフランスから多額の借金をした。この見返りとしてロシアは満州へ、フランスは仏印から華南へ進出。ロシアは先ほどの旅順のほか大連を占領するなど満州への領土的野心をむき出しで進出してきた。さらに朝鮮半島北部への侵攻を企画した。こうしたなかその後イギリスは日本と1902年に日英同盟(Anglo-Japanses Allience)を締結し、ロシアとの対決姿勢を明確にした。しかしアメリカは、こうした中国における帝国主義的争いに警戒感をいだいていたがまだ明確な立場表明をしなかった。この「三国干渉」とロシアの遼東半島横取り、そして朝鮮侵攻が10年後には日露戦争につがなっていった。ルーズベルトのロシアの南下政策への懸念という東アジア情勢認識はここから始まっていた。


(2)ターゲットはアジア太平洋

ルーズベルトは、アジアにおけるアメリカの立ち位置をどのように考えていたのか?どのような戦略でアジアを見つめていたのか。イギリスがインドを植民地化し、中国でアヘン戦争(1842年)やアロー号事件(1855年)で、領土割譲や開港の強制、租借地権益を拡大していった、いわば帝国主義的、植民地主義政策とは異なり、後発のアメリカは、1854年のペリーの日本開国(開港)に先鞭を切ったように、むしろアジアにおける自由貿易を主張していた。しかし、アメリカはその後、内戦(南北戦争1861~1865年)で海外戦略から一時撤退せざるを得なくなり、せっかく日本開国の先鞭をつけ、安政五カ国条約をリードして外交的成功を収めたにもかかわらず、その後の日本の近代化革命(明治維新)と自由貿易体制への組み込みはイギリスが主導することになる。アメリカは内戦が収まると海外展開を再開する。この頃いわゆる国内の「西部開拓」が一段落し、大統領となった共和党のマッキンレーは海外進出を促進した。しかしアメリカの伝統的な反帝国主義に反するとして民主党などの抵抗に合う。それでも1898年の米西戦争に勝利し、スペインのキューバの主権放棄、プエルトリコ、フィリピン、グアムの割譲でカリブ海、太平洋地域で領土の拡大を果した。セオドール・ルーズベルトはこの時軍人として参戦し、のちにカーネル・ルーズベルトと呼ばれた。さらに1898年にはハワイ王国を併合した。


(3)朝鮮における権益

マッキンレーが暗殺され、1901年に副大統領であったルーズベルトが大統領になると、さらに東アジアへの進出を目指し、まず朝鮮半島や満州に着目した。しかし、その戦略は領土的な領有や植民地化ではなく、地元の事業への出資、資本参加の形での経済的利権獲得を目指した。この頃ロシアはヨーロッパ、アジア両方で南下政策を取り、領土拡大、不凍港獲得の野心を隠さず、アメリカにとって危険な敵対勢力であった。一方でイギリスのインド、中国における植民地主義的政策もアメリカにとっては受け入れられないものであった。そこで新興国の日本を(非キリスト教国であるにもかかわらずと注釈付きである)東アジア進出のパートナーとして選んだ。まずはルーズベルトは朝鮮半島における鉄道事業(京釜鉄道)への資本参加をめざしていた。しかし朝鮮半島情勢は懸念材料の一つであった。朝鮮国王の統治権威と権力が崩壊し、なお弱体化した中国(清朝)への朝貢関係を続けるという朝鮮王国の不安定さには強い危機感を持っていた。特にその清朝の弱体化の隙を狙ったロシアの朝鮮への領土的野心に警戒した。この懸念は朝鮮の隣国で開国まもない新興国日本こそ、より切実な危機感として共有していた。ここに日米両国の懸念と利害が一致した、こうした事態からアメリカもイギリスものちに日韓合邦、そして1910年の日本の韓国併合を容認した。ロシアの脅威は日本、アメリカ、イギリスの共通の課題であった。しかしルーズベルトにとっては結果的に朝鮮半島への進出はうまくゆかなかった。日本に独占される形となったからだ。


(4)満州における権益

朝鮮問題に加えて、満州におけるアメリカ資本の権益拡大がより大きな戦略的課題であった。ルーズベルトはこうしたアメリカの東アジア戦略の一環として日露戦争の動向を注視し、その停戦を好機と考え、講和調停に乗り出した。この戦争で国力をほぼ使い果たした日本は、ロシアに軍事的には勝利したものの国家存亡の瀬戸際にあったため、停戦と戦後処理をアメリカの和平仲介に期待した。ルーズベルトのアジア戦略を横目で見ながら、アメリカを日本側に引き寄せる工作を行なったのは金子堅太郎である。金子は同じハーバード大学ロースクール同窓生の縁を活用しルーズベルトへの接近工作を行なった。日本側の対露戦略、停戦後の満州戦略を説明し、日本への協力を交渉した。合わせて新渡戸稲造の著作『Bushido』を贈り感動させたり、柔術指南の先生を紹介したり、文化面でもルーズベルトを日本ファンにした。昨今流行りの「個人的信頼関係」というやつである。こうした外交交渉も功を奏し、ルーズベルトは親日的で、対ロシア、対イギリスという観点からも日本に肩入れした。しかし日露戦争の推移を見守る中で、やがては日本のアジアにおける軍事的、経済的な伸長がアメリカの権益に影響を与えるのではないかという危機感を持つに至る。特にアメリカがようやく手に入れたハワイやフィリピンに日本が食指を伸ばすのではないか。また中国大陸においても日本がアメリカの利益を損なう恐れがあるのではと危惧し始めた。これは日露戦争における日本側の勝利という「思いがけない」結果に対して、列強諸国が一様に抱いた驚愕反応の一つであった。対露戦略で共闘する目的で日英同盟を結んだイギリスでさえこのような危惧を持つ論調が生まれた(中国在住のイギリス人ジャーナリストPuttnam Wealeの‘TheComing Struggle in Eastern Asia'等)。いわゆるドイツ皇帝ウィルヘルム2世の「黄禍論」に象徴される反応である。ルーズベルトも講和会議でロシア側にも配慮した和平案を提示し、日本側を一方的な戦勝国としない策を講じた。日本に賠償金を放棄させたことも、ロシアを助けるとともにこの資金で日本が軍事力を強化することを阻止する意図があった。


(5)満鉄共同経営計画とその破綻

一方でルーズベルトは日本がロシアから獲得した南満州鉄道には強い関心を示した。満州におけるアメリカ進出の橋頭堡とするとともに、アメリカ西海岸からの日本経由の太平洋航路に、旅順で南満州鉄道を接続させ、さらにロシア国内のシベリア鉄道を経由した米亜欧ルートの確立を企図した。1905年のポーツマス講和条約締結と共に、ルーズベルトは友人の鉄道事業家、エドワード・ヘンリー・ハリマンを特使として日本に送り、首相桂太郎と交渉させて、南満州鉄道の資本の半分をアメリカに譲渡する約束を取り付けた。日露戦争の戦費を賄う戦時国債の引き受けなど、アメリカが日本に大きな支援を行ったことの見返りディールである。しかしこの話は、講和条約交渉から帰国した小村寿太郎外相が「条約内容に反する」との猛烈な反対したことで議論になる(ちなみに本書の著者は「これは根拠のない反論だ」としている)。また日本の民衆の講和条件に対する不満(賠償金がとれない)が爆発した「日比谷焼き討ち事件」などの暴動で日本国内の世情が騒然とし、東京に交渉で来ていたハリマン一行も危うく暴動に巻き込まれる事態にまで発展した。桂太郎もこんな情勢の中でアメリカに鉄道利権の半分を譲るなどとは言えなかったであろう。結局ハリマンとの約定は反故にされた。こうして(ルーズベルトが和平を仲介したにもかかわらず)アメリカ資本が満州から排除され、日本とのパートナシップによる進出計画は破れてしまう。ルーズベルトの思惑が外れた形だ。ここからアメリカの日本に対する不信感や危機感が増幅され、のちの日米開戦の伏線となったと考えられている。テッド・ルーズベルトの従弟フランクリン・ルーズベルト大統領の時代へと繋がってゆく。本書は将来の「日米開戦」の可能性を予見してはいないが、アメリカの対日外交戦略はこののちも「ペリー来航」以来の伝統的日米友好関係を旗印にしていたものの、日本がいつまでもアメリカにとって友好国であり続けるのかという懸念が沸き起こり始めた様子が描かれている。


歴史は繰り返す:「エゴイズム外交」の時代は何をもたらすのか?

このようにテッド・ルーズベルトの日露和平仲介は、戦争を終わらせたと言う点ではノーベル平和賞に値する業績であろうが、自国のアジア利権拡大の目論見につながっていることも明らかである。権謀術数渦巻く外交交渉で、「善意の人」が現れて世界を平和に導いてくれるなどと脳天気な物語を信じるほどおめでたくはないつもりだが、アメリカ憲政史上でも評価の高いとされるテッド・ルーズベルトでさえ「理想主義」による外交を主導したわけではない。また単純に日本贔屓であったわけでもない。国益を優先に考えた冷徹な計算の人であった。むしろ自国への利益誘導型の「エゴイズム外交」であったというべきであろう。当時はそれが別段異様なことでもなかった。帝国主義の時代であった。アメリカが「理想主義外交」に舵を切るのは、冒頭に述べたように二つの世界大戦をアメリカの介入で勝利し、さらに戦後の冷戦に勝利した後のことである。そして自国優先の「エゴイズム外交」が、成功はしなかったことは、このポーツマス講和条約後の日本との関係の破綻への道を見てもわかるだろう。この講和会議の35年後には真珠湾攻撃が起きている。日露戦争後に世界大戦が二つも立て続けに起きているのだ。トランプは前代未聞の不可解な大統領なのではなく時間を巻き戻してあの「エゴイズム外交」の時代に戻ろうというだけなのだ。しかしそれが何を意味しているか、その後の歴史を繰り返さないよう学ぶ事が肝心であろう。ルーズベルトの外交政策から学ぶべきはそこだろう。少なくとも「ノーベル平和賞のもらい方」ではない。

トランプに国家のリーダーとして国際関係の歴史的経緯やそれがもたらした後の世界の絵姿に想いを馳せるだけの歴史認識や未来への洞察力があるのかどうかは定かではない。ルーズベルトがアメリカ大統領としての一つのリーダーシップモデルを打ち立て、歴史に残る人物とみなされていることを現職大統領としてどのように評価しているのか。これも不明である。しかし、日露戦争の和平交渉でノーベル平和賞を受賞した点だけははっきりと記憶に刻まれているようだ。ことあるごとに紛争解決、戦争終結で「ノーベル平和賞が欲しい!」とあからさまに要求する。むしろ「ノーベル平和賞」のために戦争終結を急ぐ姿勢すら見せている。「歴史に学ぶ」と言うことはそういうことではないだろう。ウクライナ、パレスチナ、そしてこれから起こるかもしれない台湾。どこも平和と安定の道筋は全く見えていないどころか、ますます混迷を極めている。自国優先の「エゴイズム外交」の復活は、紛争や戦争を終結させるどころか、拡大させる危険性があることは歴史は教えている。将来に禍根を残さない「和平交渉」であって欲しい。奇しくもその和平交渉を任されている大統領特使は、政治家や外交官ではなくトランプの不動産業界での友人ウィトコフである。ルーズベルトの鉄道業界の友人ハリマンと同様、戦争の惨禍や市民の悲惨な苦しみ、あるいは民主主義の理念には関心のない経済的利権を優先する特使である。終戦後のリゾート開発、資源権益確保、半導体技術確保。そんな事が目的の終戦でトランプは望むようなノーベル平和賞がもらえるのだろうか。ルーズベルトはアメリカの国益拡大を企図したが、自己の利益と名誉欲のために和平交渉をリードしたのではない。少なくとも彼はノーベル平和賞を欲しいなどとは言わなかった。それは要求するものではなく、結果に対して与えられるものだということを知っていた。

日本は、まだ弱い立場であった「三国干渉」の時代を「臥薪嘗胆」乗り越えて、英米の後押しを得て、軍事力だけでなく外交力でもロシアに辛くも勝利した。失った遼東半島を実力行使で取り戻し、日本海、対馬海峡、津軽海峡の制海権をこれも実力で奪い、南満州鉄道を獲得しアメリカの経営参加を排除して独占する。これが満州国建国への一歩となった。日清戦争で獲得した台湾に加えて朝鮮を併合する。さらに第一次世界大戦では日英同盟により連合国として、ドイツと戦端を開き、膠州湾、山東半島、太平洋の信託統治領を獲得した。中国、満州、朝鮮における日本の権益独占に対する欧米列強の非難に対して、「門戸開放」「機会均等」をうたいながら、ある意味では米英露の自国優先「エゴイズム外交」を排除して、日本の自国優先「エゴイズム外交」を守り通したと言えるだろう。まさしく欧米列強と並んで帝国主義植民地獲得競争に日本も参戦した。これをもって欧米列強からの「アジアの解放」を謳い、のちには「大東亜共栄圏」などと言う勇ましいスローガンと共にアジア太平洋に戦禍を広げる。その結末がどうなったかはここで改めて述べる必要もないだろう。いずれの国においても自国優先「エゴイズム外交」の行き着くところは戦争なのだ。

日英同盟をカリカチュアライズした記事




ポーツマス講和会議の後のルーズベルトを囲む日露全権代表の記念写真


2025年12月1日月曜日

ご近所の秋 〜蘇峰公園、養玉院如来寺、荏原法蓮寺、旗岡八幡社、戸越公園、品川歴史館・松滴庵〜

 


毎年この時期になるとカメラ小僧は忙しくなる。そう、紅葉や黄葉を求めて定点観測地点の色づき具合を観察しながらカメラ担いで出かける。日本には紅葉スポットがたくさんある。しかし、京都なんぞは最近はトントご無沙汰だ。オーバーツーリズム状態で人を見に行くのか紅葉を見に行くのかわからない状態。このシーズンの京都の混雑は別に今に始まった話でもないが、外国人ツーリストが日本に押しかけるブームが続いていて、紅葉の名所は凄まじい混雑。かつての経済大国の面影もすっかり薄れた日本。どんどん「安くなった」日本に来てお金をいっぱい使っていって欲しいが、地元民が入り込む隙間もなくなるほどだとチト困る。中国政府が「日本では中国人に対するテロの危険があるので渡航しないように」などとプロパガンダフェイク流しても、中国人民の皆さんは政府の言うことなぞ信用しない人たちなので、続々と押しかける。それで良いのだ。政府同士の喧嘩なぞ我関せず。民草は民草同士、仲良くやろう。

まあしかし京都は控えるとしよう。遠出するのも億劫だし東京で紅葉見物?日比谷公園、後楽園、六義園、皇居東御苑、皇居乾通通り抜け。こっちはこっちでいつも人ばかり。神宮外苑の銀杏並木もすごい人で大混雑、とニュースでやっている!東京という街は普段から人でごった返している。いやいやご近所で紅葉見物と洒落込むのが賢い選択だ。歩いて行ける所に感動的な紅葉スポットがあるじゃないか。地元住民も気がついていないだけ。ほとんど観に来る人もなく、紅葉独占状態。カメラアングルを考えながら試行錯誤していてウロチョロしていても誰の邪魔にもならない。曇ってきて光の具合が悪ければ出直せばいい。秋の紅葉見物。春の桜見物は地元に限る。幸せの青い鳥は遠くまで探しに行かなくても自分の住んでいるところにいるのだ。


蘇峰公園




















12月7日追加




大井大仏 養玉院如来寺












荏原法蓮寺/旗岡八幡社


















戸越公園












品川歴史館・松滴庵(12月4日追加)











街角の秋













(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA20-200/3.5-6.3 DG。最近入手したSIGMAの10倍の高倍率ズーム。比較的廉価ではあるが、解像度も高く、広角から望遠まで様々な収差も良く補正されており、かつハーフマクロレンズとしても使える万能レンズ。Leica SL3の6000万画素センサーにも十分に応えてくれる。何より小型軽量なのが嬉しい。SIGMAの気迫が感じられる「お道具」だ。ありがたやま)