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パーセル肖像と第1巻表紙 |
私はクラシックの中ではバロック音楽が好きだ。これは高校生の時のヘンデルのオラトリオ『メサイア』の演奏会に合唱団の一員としてフルオーケストラとともに参加した体験に由来している。あの時の打ち震えるような感動が生涯忘れられない。あの経験をして自分が音楽の世界に行かなかったのが不思議なくらいだ。確かにあの瞬間、救世主が降りてきたのだが、音楽の守護聖人St. Cetiliaは現れなかったからだろうか。この『メサイア』はアイルランドのダブリンが初演で、アリア、レシタティーボ、合唱はドイツ語ではなく英語で歌われる。私も英語歌詞なので歌いやすかった。もっとも古英語表現が至る所にあって、それがまたワクワクした。若い心に響くヘンデルであった。それからというもの、ヘンデルはもちろん、バッハ、ヴィヴァルディ、テレマンなど、後期バロックの音楽、さらには初期、中期バロックのモンテヴェルディ、カブリエリ、コレッリ、クープランなどの音楽を渡り歩き、古楽器による演奏やイムジチ合奏団やパイヤール弦楽四重奏を聴きまくった。ある時ヘンリー・パーセルに出会って、イギリスにもバロックの作曲家がいたんだと知る。彼はヘンデルやヴィバルディの前の世紀、17世紀に活躍した中期バロックに属することを後になって知った。フランスやイタリアバロックの影響を受けているものの、フランス語、イタリア語、あるいはラテン語ではなく英語の宗教曲や頌栄歌を多く発表した。英語の歌詞は、単純にイギリス人にわかりやすい、ということだけではない。宗教改革でイギリスではジェームス1世の時代に欽定訳聖書(1611年)、すなわち聖書が英訳された。讃美歌や聖歌、頌歌が英語で吟じられることはプロテスタントにとって重要なことなのである。パーセルもヘンデルもそうした欽定訳聖書を典拠とし引用して作詞、作曲をおこなったのである。
その後しばらくはパーセルを忘れていたが、イギリス留学中にウェストミンスター大聖堂とノーリッチ大聖堂でパイプオルガン演奏を聴き、それがパーセルだと知り感動したことをきっかけにハマり始めた。そもそもパーセルはかつてウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者であった。その後90年代のロンドン勤務時代には、ちょうどパーセル没後300年で記念コンサートがイギリス各地で開催され、記念のCDが出たので夢中で聴いた覚えがある。トレバー・ピノック:Trevor Pinnockのイングリッシュ・コンサート:The English Concertが多くのバロック作品を演奏し、CDのコレクションを出した。パーセルの曲はポール・マクリーシュ:Paul McCreeshのガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ:Gabrieli Concoert & Playersであった。いずれもドイツグラモフォンのアルヒーフシリーズ:ARCHIV ProduktionのCDで、トッテナムコート・ロードのHMVに通って買い集めたものだ。ロンドンの自宅に英国製オーディオセット(ArcamのバイアンプシステムにMission, B&Wのトールボーイスピーカ)を置いて、Hail, Bright Cecilia, Harmonia Scara, Fairy Queenなどを聴き、17世紀のイングランドに時空トラベルしたものだ。至福の時であった。
リタイアー生活を送るようになって、いつもお世話になっている神保町北澤書店で、なんとパーセルの「Orpheus Britannicus:オルフェウス・ブリタニクス」歌曲集の初版本を見つけた。2024年の「稀覯書フェアー」に出展されていたものである。ロンドンでは出会わなかったこのパーセル本との出会いは、時空を隔てた偶然といえば偶然だが、必然といえば必然、出会うべくして出会ったような気もする。ロンドン時代の心の友との30年後の神保町での再会。出会いとはそんなものだろう。
今回入手した「Orpheus Britannicus」はこれまでに作曲した一声、二声、三声のための歌曲を集めた初の歌曲全集である。1695年11月、パーセルのあまりにも突然の死にロンドン中がショックを受け、多くの弔辞や頌歌、詩が寄せられていた時期に、その偉業を顕彰しようと出版されたものである。2巻からなる合冊本で、第1巻は1698年初版(彼の没後3年目)、1706年第2版(新しく発見された曲を追補)である。第2巻は1702年初版で、第1巻(初版)を補完するものとされている。大型、フルカーフ革装の重厚な書籍で、まさに稀覯書と言って良いだろう。第1巻にはパーセルの肖像画とともに、未亡人フランシス・パーセルの献辞、ジョン・ドライデンのパーセルへの頌歌:Ode他、彼の師であったジョン・ブロウ、多く友人の弔辞が掲載されている。第2巻にはロンドンの著名な音楽出版人であったHenry Playfordの献辞がある。この後も1711,1712,1721年と改訂が続けられた。本書は彼を悼む人々によって生まれた、いわばパーセルメモリアル歌曲集となっている。彼の34年という短い生涯における作品の全てが明らかになっているわけではない。特に初期の作品はほとんどが散逸しており、今回紹介する「歌曲集」も、晩年の5年分の作品を集めたものだと言われている。本書も先述のように、追補、改訂が繰り返されており、いまだに研究者のあいだで。作品の発掘と整理が行われていている。Zナンバーでパーセル作品の整理を図ったアメリカの音楽学者フランクリン・ツィンマーマン:Franklin Zinmermanの研究が有名だ。彼は新たに発見された作品にはZNを付している。これからもZNナンバーの作品が次々と世に出ることを期待したい。
ヘンリー・パーセル:Henry Purcell (1659-1695) はいまだに謎に満ちた作曲家である。生まれはロンドン、ウェストミンスター近辺らしいが生い立ちもはっきりしていないし、あれほど人々に衝撃を与えた突然の死の原因も明らかでなく諸説ある。彼が生まれたのはイギリス激動の17世紀、清教徒革命のクロムウェルの共和制時代末期である。父と叔父がウェストミンスター大聖堂と宮廷合奏団の演奏者であったらしく、9歳頃に王室聖歌隊の一員となり音楽指導を受けたという。1674年、15歳の時にはウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者で作曲家のジョン・ブロウ:John Blowに師事し作曲をはじめた。しかしこの頃の作品はほとんど残っていない。1677年、王政復古でフランスから帰還し、即位したチャールズ2世の抜擢で、なんと18歳で王室弦楽合奏団の専属作曲家兼指揮者となる。国王の目に留まるのだからよほど才能が光っていたのであろう。また師匠であるブロウの後任としてウェストミンスター大聖堂のオルガニストにも就任。チャールズ2世は、王政復古とともに、衰退していたイングランドの音楽の復興に力を入れ、パーセルの才能を見出したと言われる。パーセルもこの頃チャールズ2世のためのOde:頌歌や、Anthem:讃歌を盛んに作曲し、さらに『Theodosius』などの大作を発表する。この時期が彼の全盛期で、主に宮廷向けの頌歌、祝祭音楽、中でもSt.Cetilia祝祭曲、宗教曲などを次々と作曲し名声を高めていった。1689年には彼の唯一のオペラ『ディドとエネアス:Dido and Aeneas』のロンドン初演が行われた。また1691年にドライデンの劇詩にパーセルが演劇、管弦楽、合唱、独唱をつけた「アーサー王:King Arthur」はセミ・オペラ作品として好評を博した。1688年の名誉革命で即位したメアリー2世には誕生日や祝祭のたびに曲を献上した。1694年のメアリー女王崩御にあたっては、パーセルはその死を悼んで頌歌を献じ、葬送曲を作曲したが、その翌年1695年に彼も新しい世紀の到来を待たず短い生涯を閉じた。17世紀イギリスの音楽界に彗星のように現れた天才は、新世紀を見ることなくあっという間に時代を駆け抜けて行ってしまった。どこかモーツアルトを彷彿とさせる天才の生涯であった。
現代においてイギリスの音楽家といえば、ビートルズが圧倒的存在感を放っているが、クラシック界では(ビートルズもすでにクラシックの域に入っているが)、20世紀のベンジャミン・ブリテン:Benjamin Britten (1913-1976)とパーセルくらいしか思い浮かばないだろう。ヘンデル:George Friedrich Haendel (1685-1759)はドイツ生まれでハノーバー朝イングランドに帰化した作曲家であり、確かに英語のオラトリオ『メサイア』の作曲家としてイギリスでも親しまれているが、厳密な意味でイギリスの音楽家とはみなされていないだろう。ブリテンはパーセルの曲を青少年向けに翻案した作品が多く、パーセルあってのブリテンと言っても過言ではないだろう。そういう意味ではパーセルこそイギリスを代表する古典作曲家と言って良い。惜しむらくは、あと2〜30年長生きして18世紀にも活躍していれば、宮廷向けだけでなくオペラや劇用音楽にその作品の領域を広げ、さらにバロックの大家としての名声を得ていたであろう。残念ながら日本ではあまり演奏もされないし歌われることも少ない。評伝や研究書も少なく評価が高いとはいえない。もったいないことだ。17世紀イギリスが産んだ天才音楽家の曲がもっと演奏され、聴かれても良いのではないかと思う。
今年はパーセル没後330年である。年末恒例の国民行事「紅白歌合戦」もほとんどが知らない曲になってしまった今、そして世界中で「神の摂理」と「人間の理性」が混沌として先行きが不安なゆく年くる年を、パーセルにどっぷり浸って過ごす。オリジナルの楽譜と歌詞を参照しながらパーセル三昧でCDを聴く。しばしの心のデトックス。亦楽しからずや。
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フルカーフ革装の大型本である 2巻合冊 |
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第1巻第2版表紙 |
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第2巻表紙 |
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ジョン・ドライデンの追悼詩:Odeが掲載されている |
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歌曲リストと楽譜 |
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Jill FeldmanによるOrpheus Britannicus歌曲集CD |