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2019年9月18日水曜日

天王洲アイルというパラダイムシフト 〜第四台場/御殿山台場の今〜



 1853年のペリー来航に慌てた鎖国日本。急遽、徳川幕府が江戸防衛に備えて品川沖に砲台/台場を築いた話は有名だ。当初は11箇所設置する計画であったが、予算の都合がつかなかったのか実際には7箇所となった。そのうち現在でも残っているのは、お台場の海岸線とつながっている第三台場と、レインボーブリッジの下の第六台場の2箇所だ。しかし、もう一つの人気のウォーターフロント地区、天王洲アイルが第四台場跡であることを知る人は意外に少ない。こちらは完成しないうちに不要となり、現在では天王洲アイルのシーフォート地区(第一ホテル辺り)に当時の石垣がわずかに残されているのみである。さらには御殿山の海岸べりに陸続きの「御殿山下台場」設置された。こちらは現在周辺が埋め立てられて、かつての敷地の半分は小学校となっている(品川区立台場小学校)。その小学校を取り巻く周辺道路に五角形の台場の痕跡を残している(当時台場に設置されていたという洋式灯台のレプリカが小学校前に置かれている)。ここは江戸時代には品川宿の漁師町、須崎であったところで、目黒川河口の半島状の洲になったところの沖を埋め立てて造成された(下記の地図を参照。広重の浮世絵にはまだ表されていない)。このさらに沖に第四台場(現在の天王洲アイル地区)が完成するはずであった。しかし、ペリーが1854年、開国の返事をもらうために再び江戸湾に来航した時には、すでに幕府は開国の方針を決めていて神奈川条約(日米和親条約)を結んだ。結局、第四台場を完成させる必要もなくなり、かつ砲台が火を吹き、「異国船打払」により首都防衛機能を果たすことはなかった。

 第四台場跡は、明治に入ると民間に払い下げられ、徐々に周囲や沖合いが埋め立てられていった。戦後は東京湾の重要な港湾倉庫街として戦後復興と経済成長を支え発展してきた(現在の京浜運河、天王洲運河に囲まれたエリア)。ここが「天王洲アイル」として再開発され、東京モノレールの駅が出来、やがてりんかい線の駅も出来た。殺風景な倉庫街が、新たなオフィス街や、さらにはオシャレなアートディストリクトに変身して行くことになる。こうした動きは、世界の大都市の例から見ても不思議ではない。かつて住んだことのあるロンドンや、ニューヨークのウォータフロント地区の再開発のケースが、天王洲アイル再開発のストーリーとオーバーラップした。


 (ケース1)ロンドン バトラーズ・ワーフの場合

 ロンドンのテムズ川南岸のタワーブリッジ麓にあるバトラーズ・ワーフ(Butler's Wharf)も、かつては殺風景でちょっと危険な波止場地区、廃墟となった巨大な倉庫であった。それが今やロンドンでもオシャレな地区になっている。日本でもコンランショップで有名なテレンス・コンラン卿(Sir Terence Conran)のレストラン、La Pont de la TourやChop Houseがある。またデザインミュージアムも彼の手になる。私がロンドン勤務していた90年代には、観光の定番のロンドン塔、タワーブリッジに加えて、橋を渡ってテムズ南岸にちょっと足をのばせばたどり着く新しい観光名所として脚光を浴び始めた時期だった。コンラン卿プロデュースのこうしたモダン.ブリティッシュのレストランがオープンしたばかりであった。日本からの来客をもてなすには話題性もあって最高であった。今では巨大な赤煉瓦の倉庫の廃墟がショッピングモールになっている(横浜の赤レンガ倉庫のような開放感はない)。古いドックがあったセント・キャサリンズドック(St. Kathryn's Dock)趾も新しいビジネス&エンタメ地区に変身し、我が英国法人オフィスもシティーからここへ移った。かつてテムズ南岸のサザーク(Southwark)やランベス(Lambeth)、キルバーン(Kirburn)地区は北岸のシティー(City)やウェストエンド(West End)のような華やかなロンドン中心街とは異なり、ディケンズやマルクス、オーウェン、ウエッブ夫妻が描く世界、すなわち階級闘争に喘ぐ労働者が集まる地区であった。しかし、これをさらに南へ下ると、夏目漱石が下宿していた閑静な住宅街や、ガーデンオブイングランドと呼ばれるケントの高級住宅街が広がる。川と道路隔てて天国と地獄が共存する町ロンドン。これはニューヨークも同じだが。産業革命以後の急速な経済発展と人口の都市への集中、植民地からの移民の急増、大英帝国の光と陰をまざまざと見せつけられるこの貧富の差である。これは現代にも通じる課題で解決されているようで何も変わっていない。最近は再開発と都市化の波で町の様相が大きく変わったものの、新たな移民流入で再び格差が広がっている。バトラーズ・ワーフはその境目に咲いた華なのかもしれない。


Butler's Wharf

Butler's Wharf

コンラン卿プロデュースのレストラン「Chop House」
テムズ川に臨むテラス席が人気だ

Design Museum



 (ケース2)ニューヨーク ハドソンエリアの場合

 ニューヨークのハドソン河畔のチェルシー(Chelsea)、ミートパッキング・ディストリクト(Meat Packing District:その名の通り食肉加工場や倉庫があった)や旧高架貨物線跡ハイライン(High Line)は、かつての工場や倉庫が連なる汗臭い町から、今や、アートギャラリーやスタジオ、しゃれたレストランやショッピングモールが次々オープンするトレンディーな地区に変身している。もちろん観光客が大勢訪れる人気エリアである。ホイットニー・ミュージアムの新館もオープンした。つい最近ミッドタウン寄りのハイライン終点(ペンステーションの西側)には巨大なショッピングコンプレックス、ハドソン・ヤーズ (Hudson Yard's)がオープンした。あのランドマークとなる巨大なオブジェ、ベッセル(Vessel)が辺りを睥睨している。こうしてハドソン河畔はミッドタウンからダウンタウンにかけて、今やニューヨーカーだけでなく観光客にとっても憧れのおしゃれエリアとなっている。ハドソン河畔のマンハッタン側はかつては大西洋航路の大型客船や貨物船が頻繁に出入りする港湾地区であった。外航船が何隻も接岸できるピアー(波止場)が河畔に沿って並び、欧州からの移民が自由の新天地アメリカへの一歩を印した玄関口であった。船が自由の女神を見ながらニューヨーク港に入り、やがて大桟橋に着岸する。新しい人生の始まりを祝福する舞台装置が用意された場所であった。そして沖合のエリス島に移民局があった(現在は記念館になっている)。川沿いに大型の倉庫群が軒を連ね、大型船の煙突からは黒煙がいく筋も上がる。貨物線は南北に走り物資を運ぶ。アメリカの歴史と繁栄を支えてきた地区である。しかし、戦後は、航空機の発達とともに港は寂れ、この地域は衰退しスラム化していく。私が最初にニューヨークにいた80年代後半から90年代はじめは、犯罪が多発する危険な場所として、立ち入りが憚られる地域であった。もちろん行く用事もないところであったが。今や再び時代は巡り、新しい価値を創造する地区として再開発され、新しいニューヨークのアートやポップカルチャーの発信地となっている。ちなみに2004年にはミートパッキングディストリクトのレンガ作りの市場の建物の二階には野球のメジャーリーグのスタジオ(MLB Studio)があり、何度か訪ねたことがある。一見、古色蒼然たる古建築だが、一歩中へ入ると最新設備が配置されたオシャレなオフィスとスタジオが広がっていてびっくりしたものだ。こうした地域の再開発のキッカケはロンドンのバトラーズ・ウォーフとは少し異なる。市当局は再開発に当たって、古い建物を取り壊して、高層のコンドミニアムやオフィスビルを誘致しようと考えていた様だが、その前に古い倉庫や、工場跡に若いアーティストやミュージシャン達、さらにはベンチャー創業家たちが住み着き、ロフトとして使い始めた。ブルックリンのBUMBOも同じ様な経緯をたどっているところがニューヨークだ。特に、ハイラインはその高架鉄道橋全体の撤去が決まっていたが、地元の住民の地道な保存運動が、当時のブルンバーグニューヨーク市長を動かし、この廃線の保存と再開発を促した。2013年に一般公開されて、ダウンタウンからハドソン川を展望しながらチェルシー、ミッドタウンのハドソンヤーズを結ぶ回遊性ある新しいニューヨークの名所として生まれ変わった。もちろん地域一帯の治安も著しく改善された。


Chelsea Market

内部


1950年代の港湾風景

High Line
旧高架鉄道跡の緑化も大きな景観変化を生み出した


High Lineの夜景

High Lineから見るMeat Packing District
やや古い写真なので廃墟感も漂う


Hudson YardsのVessel

内部は階段を歩いて登る展望台になっている



 (ケース3)東京 天王洲アイルの場合

 ロンドンやニューヨークから遅れて経済成長し、繁栄を経験し、やがては産業構造の急速な変容で寂れゆく道を歩む東京ウォーターフロント。まだまだ港湾機能の重要性は失われていないとはいえ、先達の経験と軌跡に学ぶことは大きい。スラム化や治安の悪化に伴って放棄され、廃墟化する道を歩まずにうまく転換を進めることは後発の都市として望ましいことだ。

 外国人観光客にも人気のお台場地区は戦後高度経済成長期の埋立地であるが、先述の通り天王洲アイルは幕末の第四台場跡。その後大正時代には造船所が設けられたり、さらには倉庫街に変身した街である。沖合はさらに大規模に埋め立てられて、重要な港湾施設、物流センターである品川埠頭地区になっている。1985年に地域事業者、地権者22社が集まり「天王洲マスタープラン」を作り、モノレールの天王洲アイル駅開設など町の再開発が進められた。今や運河沿いにはオフィスビルや商業ビル、マンションが林立する新都心的な景観を生み出している。現在でも倉庫やセメント工場があるが、うまくアーティスティックな街づくりに参加している。というより、この地元の企業でマスタープランメンバーの一社であるある寺田倉庫は率先して、自社倉庫をミュージアムやギャラリー、スタジオ、ブルワリーやレストラン、さらにはデータセンターに転換して、新しい街作りをリードしている。この様に地元企業が地域再開発に取り組んでいる点がロンドンやニューヨークの再開発ストーリーと異なる点だと感じる。特に、寺田倉庫:TERRADAは会社の理念として「モノを預かる」から「価値を預かる」へ。「文化創造企業」へ。地場の既存企業が自ら事業モデルのパラダイムシフトを主導して街を変えていく。そのため多様な企業、団体、個人とパートナリングを進めてゆくとしている。これからは「共創」の時代であり、これは一つのオープンイノベーションだ。廃墟になった巨大倉庫が、デザインプロデューサー、コンラン卿によって、全く違う性格のコンプレックスにコンバートさせられた歴史を持つバトラーズ・ワーフのケースと異なる点かもしれない。また地元住民が主体となって廃線となったハイラインを保存再生させ、若い起業家やアーティスト達がロフトかしたりしたニューヨーク・ハドソン地区のケースとも異なる。。日本の企業は、衰退、廃業する前に事業モデル転換ができる力と知恵を備えている様に見える。

 (寺田倉庫:TERRADAのHPからメッセージを引用)

 社会はいまだ、ダイバーシティ実現の手前で足踏みしている。私たちは文化創造企業として、この刻を進めたい。文化を豊かに花開かせること。それは、他の価値観を認めること。異なる考えに排他されることなく、それぞれの道を自由に歩んでいけること。これまでTERRADAが歩んできた道。保管する「モノの価値」の創造から、モノが生みだす「余白の価値」の創造へ。次の行き先は、人とつながり「共有知の価値」を創ること。築き上げてきたストレージ、IT、天王洲という場。これを意志あるパートナーと共有して未来をつくりたい。ともに学び、創り、成長する。文創を加速していく。
さあ、常識に縛られずに進もう。自分が自分でありつづけられる世の中を創ろう。


 素晴らしいメッセージだ。まさに今、企業のビジネスモデルイノベーション、持続可能な成長がどの企業にとっても重要な経営課題になっているのだが、「物」の流通である港湾倉庫業から、「情報」と「価値」の流通事業へと転換する。キーワードは多様性と共創。こうした事業パラダイムシフトを経営理念とし、それをその企業が持っている既存のリソースと融合させて次の成長戦略とする。見事だ。そこへ若い感性が共鳴して新しいカルチャーを共に創造する。それが今の天王洲アイルの魅力と活気を生んでいる。「鎖国/攘夷の砲台」、「貿易立国を支える港湾倉庫」、「新しい付加価値共創の拠点」。こういった天王洲という土地(いや海か)の変遷の歴史に学び、持続的に成長してゆく。これぞ賢者の道だ。天王洲は面白い!


レストランシップの波止場


オフィスビルや商業ビルが立ち並ぶ

クラシック専門チャネル「Ottava」のスタジオはここ

ボードウォーク



セメント工場の壁面

京浜運河

ライカ使い









東京都の「運河ルネッサンス構想」に基づき寺田倉庫が展開する「水上ラウンジ」Waterline



倉庫門扉を利用したファサード



人気のレストラン

倉庫壁面もおしゃれ

ふれあい橋
対岸は東京海洋大学



場所柄かランチタイムのカフェはビジネスパーソンが多い




首都高速とモノレール


広重「品川州崎」
まだ「御殿山下台場/も第四台場も描かれていない

幕末の品川宿地図
御殿山下台場が設けられている
この沖に第四台場が造営される


明治の品川町地図

現在の品川区北品川の地図
御殿山下台場は周りを埋め立てられてしまっている

(撮影機材:Leica Q2 Summilux 28/1.7。ロンドン、ニューヨークは一部ウェッブサイトから、また私個人の古写真アーカイブから引用)