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2020年9月25日金曜日

古書を巡る旅(6)〜「エルギン卿遣日使節録」" Elgin's Mission to China and Japan "〜




前々回のブログ「古書を巡る旅(5)」で、アメリカのペリー提督の「ペリー艦隊日本遠征記:Narrative of The Expedition to China Seas and Japan」を紹介したが、今回はイギリスのエルギン卿の「エルギン卿遣日使節録:Narrative of Elgin's Mission to China and Japan」を紹介したい。ペリー艦隊の来航/日米和親条約締結に遅れること4年、1858年に日英修好通商条約締結のため来日した大英帝国の全権代表エルギン卿の記録だ。原題は " Narrative of The Earl of Elgin's Mission to China and Japan in the year 1857, '58, '59." Vol. 1, 2 by Laurence Oliphant in1859。手元の本書は1970年にOxford University Pressから出版されたリプリント版である。

まず人物プロフィール:

ローレンス・オリファント :Laurence Oliphant (1829-1888)
本書の著者である。エルギン卿の秘書官としてミッションに同行。のちに1861年に初代駐日公使ラザフォード・オルコックから駐日英国公使館の一等書記官に任命されとして駐在。しかし江戸着任早々同年7月の攘夷派浪士の襲撃(第一次東禅寺事件)で負傷し帰国を余儀なくされた。帰国後は下院議員となり、薩摩藩英国留学生の相談相手にもなった。
のちには神秘主義者になっていった。

エルギン卿ジェームス・ブルース、第8代エルギン伯、第12代キンカーデン伯:James Bruce, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine (1811-1863)
スコットランド貴族。下院議員。のちにイングランド貴族となり貴族院議員に。
ジャマイカ総督、カナダ総督を歴任。
1857年特命全権使節として清国へ派遣。アロー戦争(1856ー1860年)の遠征軍司令官として清国と戦い、終戦交渉。天津条約締結。
1858年来日、「日英修好通商条約」締結。
1859年帰国、パーマストン内閣閣僚に。
1860年、特命全権施設として再び清国へ。英仏連合軍で北京無血開城。北京条約締結。
1862年インド副王兼総督、1863年インドで死去。


エルギン卿全権使節団のミッションとは?

日本で翻訳され出版されているものは「エルギン卿遣日使節録」新修異国叢書 雄松堂 1978年 岡田章雄訳 で、このタイトルだけ見るとエルギン卿の全権使節は日本に条約締結を目的として送り出されたように見えるが、次に述べるようにそうではない。今回入手した本の英文のタイトルは「Elgin's Mission to China and Japan:エルギン卿の中国と日本への使節団記録」である。なんと言っても中国へのミッションが先なのである。アロー号事件を発端とするアロー戦争(第二次アヘン戦争とも呼ばれる)の勝利と清国との終戦条約締結がエルギン卿全権使節団の主目的であった。1840年のアヘン戦争、それに伴う1842年の南京条約締結後の大英帝国にとって、重要な外交案件の一つは、東洋における帝国の利権拡大、なかんずく清国との戦争である。同時期にはインドでセポイの乱が起き、こちらの鎮圧も大きな課題であった。もともとの書籍ははこうした大英帝国を取り巻く外交環境とそれへの対応の記録なのである。原書は二分冊になっており、第一巻には中国清国政府との交渉の様子が克明に記述されており、第二巻の前半に日本徳川幕府との交渉の様子、日本見聞記が出てくる。もちろん日本語版は、此の第二巻を中心に、日英修好通商条約交渉と、彼らにとっての未知の国、日本の観察の記録がまとめられている。幕末外交史を研究する上での重要な資料であるから、我々日本人からすると、この頃の「大英帝国は日本をどう見たのか?」という点が大いに興味をそそられる。しかし大英帝国の視点で眺めると、当時の清朝支配下の中国(清国)における危機的な状況が帝国の権益にとっての不安定要因であり、かつアメリカやフランス、就中ロシアという列強諸国間の帝国主義的利権争奪戦への対処策が核心的課題であった。その辺縁部にある日本の徳川幕府との関係構築は中国情勢と不可分ではあるが、喫緊の課題ではなかった。大英帝国はアロー号事件をきっかけとした清国との戦争の収束のために武装艦隊を派遣し、有利な条件で講和条約を締結するという重要ミッションをエルギン卿に託した。アヘン戦争以後、多発した外国人排斥運動の広がりと、それを収拾できなくなっている清朝政府への圧力。かといって弱体化し統治能力を失いつつある清朝政府を打倒してしまっては、より事態は不安定化すると考え、微妙な関係を保つよう苦慮する様子が描かれている。その主題の一方で、すでにアメリカ合衆国のペリー艦隊の後塵を拝してしまった日本との関係を構築すべく日本との通商条約を締結する役目も与えられていた。こうして清国との天津における終戦条件交渉のさなかの1858年に日本に寄港。同年、日英修好通商条約(安政五カ国条約の一つ)を江戸にて締結する。その足で再び中国へ取って返して広州を占領し、天津を制圧して同年に天津条約を結ぶ。まさに戦争している真っ最中に、その戦場から一時離脱して軍艦で日本にやってきて「修好通商条約」を幕府と締結したというわけだ。本書はそういった大英帝国の一連の東洋における活動の記録なのである。

このように、エルギン卿全権団一行は交戦中の清国上海から、1858年7月に4隻の艦隊で日本の長崎に到着。8月に江戸湾品川沖に停泊した。しかしイギリス東インド艦隊司令長官のシーモアは本国の訓令に従わず、エルギン卿に同行するはずの10隻以上の威容を誇る艦隊を日本には向けず、上海から香港へ帰還させてしまう。そのためエルギン卿の艦隊は4隻の蒸気フリゲート艦だけという、大英帝国の全権団としてははなはだ寂しい陣容であった。その一隻は女王陛下から江戸幕府に贈呈した快速船エンペラー号であった。此の時期、日本はアメリカ、フランス、オランダ、ロシアとも条約交渉をしており、大英帝国も遅れるわけにはいかなかった(米英仏蘭露各国と締結した安政五カ国条約と呼ばれる一連の修好通商条約)。

しかし日本の幕府との交渉は想定以上にスムースに進み、日英修好通商条約を無事締結できた。エルギン卿にしてみれば清国との戦闘や交渉に手を焼いていた分だけ、なんと楽な交渉であったことか。幕府側のエルギン卿使節団への接遇も良く、よほど嬉しかったと見えて、清国と違って日本は文化程度の高い東洋の文明国であると称賛している。こうして日本に好印象を持って帰っていった。だからといって喜んではいけない。この時締結した安政五カ国条約(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシア)の一つ。こののち明治日本がその解消に向けて苦しむいわゆる「不平等条約」である。江戸幕府の置き土産、新生日本の、弱小明治政府の最大の外交課題となる。この状況は清国における南京条約、天津条約、そしてのちの北京条約と同様、一連の「不平等条約」であるという本質において変わるところはない。そして国内に排外的なムードが高まり、外国人排斥運動や襲撃事件が頻発した清国の状況は、日本の尊王攘夷を唱える討幕派にとってデジャヴそのものであった。

教科書でも学んだように、不平等条約の中心的な問題は次の二つである。1)関税自主権なし。当時の幕府はむしろその必要性よりも関税額に固執したという。2)領事裁判権を認める。いわゆる「治外法権」である。これも当時の幕府は面倒な外国人の犯罪や紛争は外国人自身でやってほしい、という考えであった。また、排外主義的な考え方が基層に有って、天皇のいる京都や、将軍のいる江戸には外国人を入れないことや、外国人居留地を港に近い一定の場所に指定するなど、清国政府の排外姿勢と共通する点が見られる。近代的な独立主権国家としては当然に主張すべきであったにもかかわらず、十分な国際法(万国公法)上の権利や義務に関する理解と意識が欠如したまま押し切られて締結した結果である。しかし清国政府との交渉でも理解されず縺れた案件が、日本では比較的スムースにクリアーしたわけだ。エルギン卿は条約内容に満足して帰ったが、こうした「(不平等条約の)問題点にいずれ気がついて文句言ってくる勢力が出てくるだろう」とコメントしている。

エルギン卿はその後1859年に帰国し、第二次パーマストン内閣の閣僚となるが、その翌年の1860年、再び中国へ特命全権使節として派遣される。英仏両国は天津条約履行をしない清朝政府に最後通牒を突きつけ、英仏連合軍を中国に差し向けて北京を無血占領。そうした軍事力を背景に1860年に北京条約締結した。此のように、彼が率いるミッションは決して平和的な目的を帯びた使節団とは言えず、エルギン卿は大英帝国のアジア進出の先兵として豪腕を発揮した「伯爵」として記憶されているのである。


清国の状況と日本

清朝政府は、外交に関しては古代からの華夷思想(朝貢/冊封)の考え方から、基本的には抜け出ておらず、19世記になってもイギリスやフランスなどの欧米列強諸国は(その国力、武力の差は歴然としていたにもかかわらず)「蛮夷の国」として、対等な条約を締結する相手ではないとのスタンスであった。したがって排外的な攘夷思想が根強くあり、とにかく北京に外国人を絶対に入れるなというスタンスに終始(外国公使館の開設を頑なに拒否し続けてきた)。もちろんイギリスのアヘン戦争における理不尽かつ不正義の要求は、欧米列強の帝国主義的な植民地主義の象徴的なものであるが、これを拒絶し排撃できない清国政府の弱体化が欧米列強の横暴を許す一因となった。アヘン戦争後の1842年南京条約による英国への香港割譲に加え、広州、廈門、福州、寧波、上海の開港と、次々と開国させられ、不平等条約による市場開放を武力で迫られる。これが過激な排外運動、外国人襲撃事件を誘発し(後述のように、日本や朝鮮でも同様な攘夷思想による排外運動が起きていることに注意)、こうした排外的な暴動は、列強諸国に「在外公館保護」「居留民保護」という相手国内での武力行使や排他的な租借地要求の口実を与え、さらなる植民地化への道筋をつけてしまった。事態はエスカレートし、1856年のアロー号事件(清国官憲がイギリス国旗を掲げた船を臨検拿捕した事件)が起こり、これを口実に英仏連合軍が広州を占領、天津を制圧する事態にエスカレートする。これは第二次アヘン戦争とも呼ばれ、最終的には英仏連合軍はついに北京へ侵攻した。

こうしたアヘン戦争と南京条約の理不尽さに気づき、その後の天津、北京と続く不平等条約、清朝中国の弱体化、中国人の悲惨なありさまを見て、欧米列強によるアジアの植民地化への危機感を抱いたのは隣国の日本であった。欧米列強の中国清朝への強圧的な態度と戦争、これに反発する中国側の排外主義、外国人襲撃、その結果さらに武力制圧を繰り返し次々に不利な条約を締結させられるという悪循環を見せつけられた。日本は、1854年のペリー来航による幕府による日米和親条約締結、ハリス来日以降、日米修好通商条約締結、その後の激しい尊王攘夷思想による排外運動を経て、やがて旧態依然たる東洋の中華世界秩序から抜け出て、欧米流の近代化を目指すことに国家の存亡の合理性を見出した。1858年の安政五カ国条約締結以降、清国と同様な「攘夷」がスローガンとなる。英国公使館を襲撃する東禅寺事件(1861〜62年)、米公使館通訳ヒュースケン暗殺(1861年)、その決着もつかぬうちの生麦事件やそれに続く薩英戦争(1862−63年)、長州藩による四国艦隊下関砲撃事件(1863−64年)などの幾多の尊王攘夷派による排外的なテロ、外国人の殺傷、武力行使が起きる。しかし、そうした「攘夷運動」がかえって、先述のように列強の武力介入を助長する結果となった清国の有様を知り、また欧米の国力や軍事力を目の当たりにして、そうした排外的なテロでは列強諸国に対抗できないことに気づいたのも日本であった。結局、清国という反面教師に学び、西欧流の近代化、すなわち「文明開化」「殖産興業」「富国強兵」へと舵を切っていったのである。これが1867年の徳川幕藩体制を打倒し、あらたな政治体制を生み出した明治維新である。中国で旧体制である清朝打倒の辛亥革命が起きるのは日本の明治維新から44年後の1911年を待たねばならなかった。もっとも、日本の「国家近代化革命」は天皇を担ぎ出す「王政復古」で、中国のそれは皇帝を引きずり下ろす「帝政打倒」であったことは歴史の皮肉であろう。


エルギン卿遣日使節団の日本観察

エルギン卿ミッションはそうした事態の中派遣されてきた。言うまでもなく決して友好親善だけをめざして日本にきたわけではないことがわかるだろう。血生臭い中国での戦争の合間に、束の間の安息を得た日本での接遇。それは彼らにとって心地よい時間であっただろう。しかし、彼らに日本での滞在を楽しんでいる余裕はなかった。再び戦場へと帰っていった。こうして読んでいくと本書はペリー艦隊の日本遠征記とはその背景と目的、そしてその意義を異にしていることが理解できるだろう。何しろインドや中国で盛大に植民地獲得闘争を展開中で、あちこちで戦争をしている「七つの海を支配する」大英帝国の日本派遣団なのである。その大英帝国の後塵を拝しながら、太平洋に捕鯨船の補給基地を求め、中国へ向かう太平洋航路上の寄港地を日本に求めた新興国アメリカのペリー。しかし、日本開国に関してはアメリカの後塵を拝した大英帝国のエルギン卿。欧米列強の帝国主義的拡張競争の中での中国、日本である。そして、共通するのは、ペリー提督が、エルギン卿が、憧憬にも似た好意を抱いて帰っていったその後の日本では、彼らに続き来日した初代英国公使ラザフォード・オルコックやアーネスト・サトウなどが尊王攘夷派の手荒い歓迎を受けることになる点である。近代国家に生まれ変わるための一種の通過儀礼であった。

この本の著者、ローレンス・オリファントは著作の中で、ザビエルからペリーまでの日本と欧米諸国との外交史を振り返っている。もちろん英国の「偉大なる先達」ウィリアム・アダムスの事績について詳説しているのは言うまでもない。また、幕府との条約交渉もさることながら、日本の長崎や江戸の賑わい、人々の生活、風俗、文化、等々、非常な興味を持って観察している様が見て取れる。用意された宿舎にじっと留まるのでなく、街へ出て、買い物をしたり食事をしたり、好奇心旺盛な観光客然とした振る舞いがある意味微笑ましい。本書の第一巻(清国との交渉の記録)にはほとんど図版が挿入されていないが、第二巻の日本滞在記には多くの浮世絵や版画が挿入されており、見聞記としての興奮が表現されている。長崎は世界で一番美しく清潔な都市であると激賞している。下田に寄港し、アメリカ公使タウンゼント・ハリスに会った後、江戸に向った。江戸についてもロンドンにも劣らぬ世界にも稀有な清潔で殷賑なミヤコ(京都のことではない。京都へは行っていないので言及はない)と評価している。誰しも初めて訪れた異国や街の第一印象は心に残るものであるにしても、やはり戦乱の上海や天津からやってきただけでも長崎や江戸は高得点を得たのかもしれない。ともあれ日本を様々な点で称賛している。世界の植民地を巡ってきた彼にとって、日本は別世界に見えたようだ。激動する世界にあって日本が秩序が保たれ、平和で文化レベルが一定に保たれた状態であったことは一種奇跡に見えたのであろう。中国、インドだけでなく、故郷のイギリスと比べても驚嘆に値するものであった。世界の果てにもう一つの文明国があったという受け止め方。これは1600年に日本に初めて到達したイギリス人ウィリアム・アダムスや、ペリー提督一行が抱いた感想と同じものがある。もっとも、どうしても受け入れられない習俗もあったようで、その一つが既婚女性の「お歯黒」であった。なぜ世界でも屈指の美人の国で、此のような異様な風習があるのかと書いている。ペリー艦隊の日本遠征記にもこの衝撃が記述されている。ペリー艦隊のもう一つの驚きはあの下田で見た「混浴の公衆浴場」であるが、オリファントはそれに言及していない。下田で見る機会がなかったのか。

オリファントはその後、念願かなって日本の英国公使館の一等書記官として日本に戻ってくる。しかし着任の年(1861年)に、攘夷派浪士が江戸高輪の東禅寺に設けられていた英国公使館を襲撃(第一次東禅寺事件)。その際、彼は果敢に応戦したが重傷を負い、やむなく本国へ送還される。このとき負った怪我の後遺症に一生悩まされた。親日家の不幸な離日である。彼が長く日本に滞在していたら、アーネスト・サトウのようなジャパノロジストになっていたであろう。そのサトウはオリファントのElgin's Mission to China and Japanを読んで日本に憧れ、英国外務省に入り通訳として日本にやってきた。そして日本人と結婚して家庭を持ち、通算すると日本に25年滞在した後、特命全権公使の要職を最後に日本を去った。オリファントの夢を継いだのかもしれない。



Elgin's Mission to China and Japan Vol.I, II
Oxford University Pressのリプリント版

第二巻の表紙
左にはエルギン卿全権代表の幕府代表との会見の図が描かれている


第一巻に出てくる清国との天津条約調印式
双方の緊張感が伝わってくる


第二巻に出てくる江戸における両国代表の条約交渉
何か和気藹々として雰囲気に描かれている

幕府との公式会見
後ろ向いて土下座している侍は何をしているのだろう?

収録されている江戸湾の地図
お台場と品川周辺しか描かれていない


エルギン卿

ローレンス・オリファント