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2021年11月17日水曜日

古書を巡る旅(17)「聖フランシスコ・ザビエルの生涯 インド、日本への布教」(ジョン・ドライデン英訳版):The Life of St. Francis Xavier of The Society of Jesus Apostle of The Indies, and of Japan

 





先日、神田神保町で久しぶりに開催された「洋古書市」を訪ね、その帰りにぶらぶらと古書店を覗いて回った時、面白い本を見つけた。今回はいつもの北沢書店ではないが、出会いとは不思議なものだ。探していたわけではないのだが、ふと書棚にある本と目があった。いやむしろ探している時には見つからないが、出会う時には出会うものだ。フランシスコ・ザビエルの評伝である。今更いうまでもなくザビエルは我々日本人には馴染みの深いローマ・カトリック、イエズス会の宣教師で、日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られている。彼の生涯と事績についての評伝、研究は後世にさまざまな聖職者や研究者、歴史家などによりなされているが、この本は興味深い。なぜならば、ローマ・カトリック教会の聖人となっていたザビエルの生涯と、彼が率いるイエズス会宣教師のインド、日本への布教活動(1549年)という事績が、約130年後に英国国教会の国であるはずのイギリスで紹介されているからである。しかもこの翻訳者がイギリス文学史上の大御所の一人であるジョン・ドライデンであるからさらに驚いた。しばらく立ち読み、というか、ページのあちこちを繰りながら舐めるように見回した。なんと1688年にロンドンで出版された初版である。紙質はかなり古色蒼然としており脆い状態(1750年以前の古書に用いられるいわゆる「すのめ入」手漉き紙)で、印字もスペルも古英語の雰囲気を残している。図版は日本を含むアジア地図が一枚入っている。ザビエルの肖像図が失われていて、代替のコピーが挿入されている。革装丁もかなり年季が入ったものであるが、これはおそらく後世に改装されたものだろう。それにしても1688年といえば、日本では江戸時代、第五代将軍綱吉、そして側用人柳沢吉保の時代である。あの先日訪問した湯島聖堂が開設された時代だ。井原西鶴が「好色一代男」「日本永代蔵」「世間胸算用」などヒットを連発し、松尾芭蕉が「奥の細道」旅の道すがらという時代である。また、前回紹介した長崎オランダ商館のケンペルが江戸参府して将軍綱吉に謁見する2年前である。そんな同じ時代にロンドンで出版された書籍である。図版が一枚欠損しているという理由でバーゲンプライスになっていた。早速入手した。私のコレクションのうちでは最も出版年代が古い書籍となる。

この1688年初版の「イエズス会 聖フランシスコ・ザビエルの生涯 インド、日本への布教」:The Life of St. Francis Xavier of The Society of Jesus, Apostle of The Indies and Japanは、フランスのイエズス会司祭で、当時のフランス随一のエッセイストで評論家の、ドミニク・ブウール:Dominique Bouhour(1628−1702年)が1682年にパリで出版した、La vie de Saint Francois Xavier de la Compagnie de Jesusの英訳版である。イギリスのこの時代の文学界の雄であるジョン・ドライデン:John Dryden(1631−1700年)が翻訳したものである。これだけでもなかなかの英仏の豪華配役だと言えよう。この本の献辞にもあるように、ジェームス2世の王妃に献納したものである。ドライデンは17世紀後半のイギリスの最初の王室「桂冠詩人」である。その詩はもとより、劇作、評論で名声を得たが、このザビエル伝で表されるように、翻訳家としても活躍した。意外にも日本ではあまり知られていないが、イギリスでは、チョーサー、シェークスピアー、ミルトン、のちの時代のジョンソンなどとともに英文学上の画期をなす人物として知られている。

ところで不思議なのは、なぜ17世紀、プロテスタント英国国教会のイギリスで、カトリック・イエズス会のザビエルの評伝、日本への布教活動に関する評論を翻訳出版したのか、ということである。当時のイギリスは、国王ジェームス1世が処刑され、1653年クロムウェルによる共和制移行(いわゆるピューリタン革命)。そして1660年チャールス2世が即位する「王政復古」へと政治体制激変の時代であった。その次に即位したジェームス2世はカトリックを復活させ、専制的な政治を行った。しかし1688年、カトリック王ジェームス2世は亡命を余儀なくされて、再びプロテスタントのオレンジ公ウィリアムが即位する(いわゆる名誉革命)。王政、共和制、再び王政、と目まぐるしく体制が変わり、国教が英国国教会から、一時的ではあるがカトリックに戻った時代であった。一方で、はるか極東の国である日本は、1549年のザビエルによるキリスト教布教活動、ポルトガル、スペインというカトリック国との交易、布教活動の時代から、17世初頭のオランダ、イギリスというプロテスタント国による交易へと変遷していった時代である。17世中庸にはキリスト教を禁じる徳川幕府の「鎖国」時代に入る。イギリスは対日貿易ではオランダとの競争に負けて、1623年には、平戸のイギリス商館を閉鎖して日本から撤退している。その日本撤退から60余年。こうした時期にイエズス会宣教師ザビエルによる日本布教活動を伝える書物がロンドンで翻訳出版されたわけである。この頃のイギリスは日本からは撤退したものの、東インド会社による東洋貿易はポルトガルをはるかに凌ぐ勢いとなっていた。オランダ東インド会社の貿易活動も勢力を伸ばし、イギリスと各地で対立する事態も起きていた。そしてイギリスで航海条例が1651年に制定され、オランダとついに交戦状態になった。この戦争はイギリス優位のうちに停戦となり、以降、幾たびかの英蘭戦が繰り返され、オランダの海上覇権が揺らぎ始めた時期である。イギリスが撤退した日本においては、ポルトガル人が追放されてオランダが交易を独占するに至っていた。この時期、イギリスにおいて日本に対する再評価機運が盛り上がリ、再び進出の企てが始まっていた。この日本に関する関心が高まり、研究が進められていた時期に、この書が英訳され王室に献呈されたというわけである。そして1673年、イギリスのリターン号を日本に派遣し、長崎入港、交易再開の要請をおこなうが、結果的には幕府に拒絶され失敗にに終わった。

訳者のドライデンは、先述のように17世紀後半、イギリスにおけるクロムウェルの共和政から王政復古の時代の文壇の大御所として名声を博した。しかし、彼はその時代の権威者のもとで主流となる宗派、主義を信奉するなど、日和見主義者との批判も受けたことでも知られる。クロムウェルが護民卿となりイギリス初めての共和制を引いた時には、ケンブリッジを出たばかりのドライデンは、もともと彼自身が清教徒(ピューリタン)の家系に生まれたこともありクロムウェル政権を支持し、その共和制政権に加わった。1658年のクロムウェルの葬儀には共和主義者であったジョン・ミルトンと共に参列し、彼を礼賛する文章「Heoique Stanza」を捧げている。一方で、1660年の王政復古で英国国教会のチャールズ2世が即位すると、今度は新王権に祝意を表すため「Astraea redux」を献辞している。そして、次のカトリックを信奉するジェームス2世の治世になると、自らカトリックに改宗し、カトリックの聖人にして、歴史上の偉業を遂げたザビエルの評伝を翻訳し王室に献納している。しかしこのあとジェームス2世の追放、フランスへの亡命と、オランダ統領であったオレンジ公ウィリアムの即位(1688年、名誉革命)により、イギリスにおけるカトリック復活はなくなると、ドライデンも王室桂冠詩人の地位を失い落魄の人生を送ることになる。さらに王権を制限する「権利の章典」が出されるなど、歴史上の大事件が続く。そうした背景を考えると、先述のイギリスの海外進出、「大英帝国」への黎明期という時代背景だけでなく、本書が本国における政治体制、国教の激変の時代のなかで生まれた産物であるということが見て取れるであろう。

彼は、先述のように多くの詩や、時代を辛辣に語る評論で名声を博しただけでなく、ミルトンの「失楽園」を舞台脚本を出すなど劇作にも力を入れた。このような時代を文学界では「ドライデンの時代」と呼んでいる。サミュエル・ジョンソンは彼を「イギリス文学批評の父」と賛美した。しかし、現代まで語り継がれる彼の代表作は何か、と言われるとあまり思いつかないだろう。特に日本ではあまり知られていない。イギリスにおいてもドライデンは、19世紀ビクトリア朝時代にはあまり評価されなかったと言われ、その再評価がなされたのはT.S.エリオットによると言われている。19世紀後半(明治期)に欧米の文化を盛んに取り入れた日本では、ドライデンの作品や業績があまり伝わることもなく、研究者も少なかったからかもしれない。ドライデンは桂冠詩人の地位を失ってからは、翻訳家としても活躍し、ウェルギリウス、ホメロス、ボッカチョなどの古典の翻訳、またチョーサーの古英語作品の「現代語」訳などを手がけた。むしろ日本では、彼を、翻訳論の研究対象として取り上げる研究者がいる。また、彼はさまざまな名言、警句を残している。この辺りもイギリスの伝統で、のちのサミュエル・ジョンソンやオスカー・ワイルドなどに大きな影響を与えたのだろう。お気に入りの名言をいくつかご紹介しよう。

 「So poetry, which is in Oxford made. An art, in London only is a trade.」

「詩はオックスフォードで生まれたが、ロンドンでは芸術すらただの商売だ」

「ことの成り行きを運命の女神に任せるのは心得違いだ。彼女自身は無力で、分別の神に支配されているのだから」

「如何なる悪事も虚言より始まる」

「初めは人が習慣を作り、その後習慣が人を作った」


ここまでお読みいただいて、1549年のザビエルとイエズス会の日本での布教の話を期待した方々にとっては、思いもよらぬ展開となっただろう。話が17世紀後半のイギリスに終始したことをお許しいただきたい。私自身、「ザビエル」の名に引き付けられて本書を手にとったのだが、むしろこの本が出版された時代背景の方に惹きつけられてしまった。ドライデンがザビエルの日本布教に大いなる関心を持ったことから彼の評伝を翻訳し、ザビエルとカトリック・イエズス会の日本での布教活動を紹介すべくイギリス王室に献呈した事実もまた歴史である。ザビエルの日本布教、そこから始まる日本とヨーロッパの邂逅。これについては、改めてブログで取り上げたい。


St. Francis Xavier (1506~1552)
日本で描かれた肖像画

John Dryden, 1631-1700)

Diminique Bouhours, 1628-1702)

(上記3点の肖像画はWikipediaより引用)



風格ある革装丁であるが、これは後世の改装であろう。

1688年ロンドンでの出版である。
ザビエルの肖像ページ(左)が欠落しているためコピーが挿入されている。

カトリックのイングランド王妃への献辞

ザビエルが巡ったインド、日本の地図
大航海時代のオルテリウス、テイセラ、ヤンソンなどの
オランダ、ベルギーの地図製作者のものが起源なのか。


日本列島の形状は独特、過去の時代の地図とも異なる。
鹿児島(Cangoxima)、豊後(Bungo)、平戸(Firando)、山口(Amanguchi)、みやこ(Meaco)の地名が記されている
ザビエルの布教活動の足跡だ
ザビエル:Xavierがゴアで初めての日本人:Japponese、「アンジロウ」:Angerと出会った場面。鹿児島の出身。裕福な上流階級出自の35歳くらいの人物。放蕩者。日本で罪を犯したためポルトガル船で脱出してゴアにやってきた等々が語られてる。
日本人として初めて洗礼を受けクリスチャンとなった。
ザビエルはこののち「アンジロウ」と共に鹿児島に上陸し日本での布教を開始する


第五巻から日本での布教活動に関する記述が始まる