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2022年8月19日金曜日

品川駅と品川宿 〜今も昔もお江戸の玄関口〜

 

歌川広重「東海道五十三次・品川」


発展著しい品川駅。東海道新幹線の品川駅が開業して久しいが、それに加えて現在2027年東京、名古屋間の開業を目指してリニア新幹線の品川駅が地下に工事中だ。また昨年は旧品川操車場内に「高輪ゲートウェー」駅も開業。地下鉄延伸計画も持ち上がるなど周辺の再開発が急ピッチで進み、新たな新都心になりつつある。この品川駅にまつわるウンチク話も面白い。まず品川駅の住所は品川区ではなく港区高輪であることはもはや周知の事であろう。これは明治の鉄道開業時に、品川宿を避けて、その北側の高輪に駅を設置することになったことに起因する。その際、高輪の薩摩藩邸や海軍施設を避け、高輪海岸を埋め立てて線路(高輪築堤)を通し「品川駅」をつくった。ではなぜ「高輪」駅でなく「品川」駅と命名したのか。もともと東海道の重要な宿駅である品川宿に新橋から最初の駅を設置するつもりであったため、品川宿の北の高輪を品川と称した。もう一つのウンチク話は、京浜急行で品川駅から各駅停車で南行して横浜方面へ向かうと、最初の駅は「北品川」である。待てよ、品川の南が北品川?!と違和感を感じた人も多いだろう。これは先ほどの「品川」駅開業の経緯と関係がある。すなわち京浜急行電鉄が開業したときに高輪にある「品川」駅を起点としたので、その南に位置する旧品川宿の北側入り口に「北品川」駅を設けた。「品川」駅の「北」という意味ではない。北品川は旧東海道第一番目の宿場町、品川宿の入り口に当たる歴史的にも由緒ある地名だ。

鉄道ウンチク話はこれくらいにして、品川宿の話に入ろう。旧東海道の品川宿は北から「品川歩行(かち)新宿」「品川北本宿」「品川南本宿」と三つの宿場が連なった宿場町であった。「歩行新宿」は、幕府による参勤交代の制、1601年の品川宿指定ののち、享保年間に拡大された新しい宿場地区で本陣は設けられなかった。北南双方には本陣が設けられていた(江戸中期には北本陣だけになった)。品川宿全体は、江戸末期には総戸数1600戸、人口7000人という大きな街であった。また宿場町というだけでなく、近くには桜の名所、御殿山もあり、江戸郊外の行楽地としても賑わった。幕府公認の遊郭も軒を連ねていて、吉原と共に岡場所として栄えた。また江戸前の魚や海苔が名産で、将軍家御用達や江戸町衆の台所ともいうべき「猟師(漁師)町」が海岸べりにあった。日本橋から二里という東海道第一番目の宿場町であったため、多くの歴史的な出来事を見てきたし、その舞台となった。忠臣蔵の物語のステージの一つとしても登場したし、幕末には、桜田門外ノ変の首謀者たちは北品川の旅籠(土蔵相模)に集まり決起した。その後、尊王攘夷の浪士たちもここに集結し、高輪に建設された英国公使館を焼き討ちにした。北品川は幕末動乱期の攘夷派の集結点であった。一方で新撰組は南品川品川寺山門前の幕府御用「釜屋」を定宿とし、戊辰戦争で敗走した新撰組は、ここを「品川屯所」と定め再起を図った。

明治に入り、1872年(明治5年)には徳川幕藩体制下の宿駅制が廃止となり、また新たに鉄道が開通して品川宿はその役割を終えた。明治以降はレンガ工場やガラス工場などが周辺にでき、旅籠やお茶屋跡であったところは工員の宿舎に転換されたり、その周辺は商店街として賑わった。戦後は、残っていた北品川の遊廓が売春防止法施行とともに廃止され、歓楽街としてのかつての賑わいはすっかり影をひそめる。今では東京にある普通の商店街になってしまっている。本陣や大きな宿や、水茶屋などの建物の遺構も消え去り、品川宿の面影をそこに見出すことは難しい。しかし、地元の商店街や有志方々の地道な活動で、品川宿ゆかりの歴史的なスポットや建物跡には案内板が整備され、街歩きを楽しむ人や歴史愛好家向けに休憩所や案内所も設置されている。建物や街の景観は失われたが、旧東海道の痕跡はその道幅に残されている。北品川から南品川、青物横丁、鮫洲、立会川、鈴ヶ森刑場までは、往時のままの道幅を今に残している。

品川宿を町としてみると興味深い構造をしている。本街道を一歩入ると。西側にはずらりと寺社が立ち並んでいる。東海寺や海晏寺といった将軍家にゆかりの大寺だけでなく、各宗派、大小の寺院、神社が軒を連ねており、さながら寺社町の様相を呈している。これは江戸の守りを固めるために東海道の玄関口に寺社を集めたことに始まる。大坂における大坂城防備に対する平野町や下寺町の役割と同様だ。また城南の桜の名所、御殿山へ向かう横道も残っている。元々は将軍家の御殿であったが、吉宗の時に庶民の行楽の場所として開放し、桜の季節には大勢の江戸っ子たちが御殿山で花見をして品川宿でどんちゃん騒ぎ、という行楽のスタイルを生み出した。さぞや賑わったことであろう。1853年の米艦隊ペリー来航を機に、江戸防衛が急務となり、品川沖に台場(砲台)を造成することになった。このため御殿山が切り崩されてその土砂が台場建設に使われた。品川宿に隣接する海岸にも台場(品川台場)が造成され、埋め立てられてしまった(現在の台場小学校あたり)。明治になると、先述のように鉄道建設のために、御殿山はさらに東西に開削されてしまい消滅する。品川宿も、先述の通り宿駅制廃止に伴い、かつての賑わいを失ってゆく。

今品川宿跡を歩くと、こうした往時の街の区割りがよく残っていることに気づく。東海道を軸にして東西に横丁が伸びており、一部は先述の寺社仏閣への参詣道になっている。この辺りの通りや横丁は今でも確認できる。また東海道はかつては海沿いに通っており品川宿の東は漁師町であった、しかし幕末のお台場建設や、明治期の工場用地埋め立て、港湾整備に伴い漁師町品川の面影も失われてゆく。戦後の高度経済成長期には品川沖は次々と埋め立てられて、天王洲アイルや品川シーサイドなどとして再開発も進み、すっかり品川宿は内陸の街になってしまった。もちろん京浜運河、天王洲運河のほか海は見えない。このように品川宿を歩くと、その道筋や区割りに往時を偲ぶことはできるが、以前訪れた鈴鹿の関宿のように、歴史的な街並みがまるでタイムカプセルのように現存し、そこに現代の日常生活が息づいているようなわけにはいかない。まして伝統的建物群保存地区(伝建地区)に指定されているわけでもない。何しろここは東京なのだから。スクラップアンドビルドが日常の街なのだから。心の中でかつての殷賑な街を妄想するしかない。メタバースの世界に蘇る歴史的景観になってしまうのだろう。


江戸切絵図(嘉永3年版)の東海道品川宿
品川歩行新宿、品川北本宿、品川南本宿の地名を見える

ケンペル「日本誌」に掲載されている東海道品川宿付近の地図(17世紀頃)
オランダ商館長の江戸参府に同行したケンペルが描いた
Takanawa, Shinagawa, Suzugamori,Omoriの記述が見える

開業間もない頃の品川駅(鉄道古写真集より)

(同上)


現在の品川駅

JR品川駅港南口
こちらは品川区だ

京浜急行「北品川」駅

旧東海道品川宿


品川北本宿の本陣跡



京都から江戸へ下った明治天皇もここを行在所としたことから
「聖蹟公園」と呼称されている。今は広場になっている


目黒川にかかる品川橋
品川北本宿と品川南本宿の境

南品川の青物横丁から鮫洲方面




建築物コレクション

ほとんどの古い町屋建築物は消滅しており、街並みはマンションとプレハブ建築が連なる今風の「商店街」の風情である。地域おこし活動で地元の人々が品川宿由来の場所に表示板を出したり、案内所や休憩所を設けて、訪問客をもてなしている。かろうじていくつかの古民家、町屋が残る。しかし江戸時代のものではなく、明治、大正、昭和初期のもの。多くは関東大震災後の防火建築、看板建築である。伝建地区指定もないので、建物の修景保存の補助金も出ない。資本の論理かまかり通る中での歴史的街並み保存がいかに困難な取り組みであるか思い知らされる。


昭和初期まであったという北品川「相模屋」いわゆる「土蔵相模」の古写真
(品川観光協会HPより)
その後ホテルとなっていたが、昭和50年に取り壊され現在はマンションとコンビニになった
尊王攘夷の志士たちの集結宿になっていたところで史跡となるべき建物であった

現在の「土蔵相模」跡(品川観光協会HPより)

看板建築の代表例
古い町屋を改造し、防火壁面とした例

丸屋履物店 創業150年
建物が慶応年間のものかどうかは不明だが古い町屋構造がよくわかる例


お休み処
いかにも古民家風に再現しないところに何か主張があるのだろう
ちなみにお盆休み中。

昭和4年のコンクリート建築の交番を利用した観光案内所

珍しく二軒が続いて残っている
かつてはこのような平入りの町屋建築の連なりが街の景観を形成していたのだろう

これも断面が町屋建築の構造をよく表している
下屋は改造されているが平入り商家建築の典型だ。
両側の建物は鉄筋コンクリート化されている

畳屋さん
これは二階がない
大正時代の創業だそう

耳鼻科医院
明治40年の洋風建築

立会川にある老舗の煎餅屋「大黒屋」さん
建物は改装されているのだろうが平入り町屋構造を踏襲している

看板建築
関東大震災後にできた類焼防止の建築様式
こうした戦前の家並みもわずかしか残っていない。

昔のアパートなのか

こうなると品川宿の面影とはほど遠くなるが、これも今に生きる街の姿


寺社町の景観

こうした寺社街の形成には江戸の西の守りを固める目的があったのであろう。品川宿周辺には大小の神社仏閣が建ち並んでいる。本街道に面して山門を開く寺もあるが、多くは本街道から一歩外側に分け入ったところに山門を設けている。神社も同様である。今でもほぼ往時の面影を残しているのでタイムスリップすることができる。


一心寺 1855年創建 井伊直弼公創建
街道筋に面している

荏原神社


目黒川にかかる荏原橋
荏原神社の参道になっている
「海徳寺」
街道筋を一歩入ると寺が立ち並んでいる

本街道からはこのような参道が続く

天妙国寺参道(鎌倉時代からの古刹)

八幡神社

品川寺(ほんせんじ)
東海道本街道に面している




南品川「品川寺」山門向かいにあった幕府御用「釜屋」跡
新撰組の定宿で、戊辰戦争では「品川屯所」となった

海晏寺の塔頭の一つ「海雲寺」(1251年創建の古刹)




品川の路地

東海道を軸に東西に横丁と路地が伸びている。かつては東側の路地を抜けると、もうそこは海であった。今でも防波堤の名残が数カ所見れるが、かつての海岸線は道路になり「元なぎさ通り」と命名されている。現在ではこの路地の先が海であったことを感じさせる景観はない。埋立地は天王洲アイルや品川シーサイドといった再開発も進み京浜運河と天王洲運河に囲まれた人工的な街になってしまった。西側の路地を進むと、先ほどの寺社が立ち並ぶ地区となる。この横丁と路地に下町の風情を感じるのだが。





路地の突き当たりは神社だ

(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)