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2025年10月10日金曜日

古書を巡る旅(70)The Voyages And Adventures of Ferdinand Mendez Pinto  〜メンデス・ピント『遍歴記』英訳版〜

1897年「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもの。装丁は「冒険小説」をイメージさせるものとなっている。
 London, T.Fisher Unwin刊行である。

フェルナン・メンデス・ピント (1509~1583)(Wikipedia)

これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』(古書を巡る旅(62)『ロビンソン・クルーソ』)やスウィフトの『ガリバー旅行記』(古書を巡る旅(68)『ガリバー旅行記』)などの冒険小説を取り上げてきた。この二つの作品は、以前紹介した通りノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な架空の国々に仮託した風刺小説:Satierであったりする文学作品である。今回紹介する17世紀の「冒険小説」はそのようなフィクションではなく、16世紀後半の大航海時代に起きた実際の国々の出来事、実在の偉人の事績を語るノンフィクションの性格を備えている。作者は自分の数奇な冒険旅行体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり人から伝え聞いた話も語る(見聞録)。しかし時に事実の中にロマンを語り、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。後世の人間にとっては「歴史書」でもあり「文学書」でもある。「大航海時代」という時代空気を反映した、未知の世界に船出した冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリーである。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」と自己主張する。自己承認欲求の高い人間はいつの時代にも存在する。そして間違いなくこの16世紀のポルトガル人冒険家の記録は、18世紀のイギリス人にとって「ロビンソン」や「ガリバー」を着想する原点となったであろう。


ピント『遍歴記』とそのインパクト

その「冒険小説」とは、16世紀のポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、実際にインドから東洋を股にかけて旅した冒険商人であった。その自伝であり東洋見聞録である。ピントは帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。しかしピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後「遍歴記」はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する『メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto』(1897年の復刻版)である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトの冒険小説とは異なる。しかしこれはかなりの粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだという人もいる。そういう意味でこれも「冒険小説」だと言って良いのかもしれない。一方で、実際に東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、その内容も必ずしもホラ話や伝聞による記述ばかりとも言えない説得力を持っているという人もいる。常にフィクションなのかノンフィクションなのか論争がつきまとう厄介な作品である。

この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、ザビエル伝などキリスト教布教活動や、スペイン/ポルトガルの航海、海外での植民地獲得や商業活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。東洋への関心が高く、ポルトガル人の商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの「東方諸国記」(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの「東方案内記」が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。このピントの「遍歴記」もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の著作であった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時代であり、大航海時代のポルトガルやスペインの記録、文献の研究翻訳が進められた時代である。イギリスはオランダとの海洋覇権争いに勝ち、撤退を余儀なくさせられていた東インド、日本への再進出を試みた時期である。ジェームス2世は1673年に日本にサイモン・デルポーを使節として送り、1623年に撤退した平戸(あのウィリアム・アダムスの仲介で開いた)にかわり長崎での交易再開交渉を行った。結局はこの交渉は失敗するが、改めてアジアへの挑戦が始まり、その研究が進められた時期と重なる。ジョン・ドライデンの英訳「ザビエル伝」は1688年の刊行。その元ネタとなったドミニク・ブーフのフランス語訳は1682年の刊行である。オランダ人地理学者にして著述家のアルノルドス・モンタヌスがイエズス会報やポルトガル/スペイン人の手紙、オランダ商館長の江戸参府報告などをもとに『東インド会社遣日使節報告』を著したのが1669年。その翌年1670年には早くも英訳が刊行された。ちなみにモンタヌスは日本にも東洋にも行っていない。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされたと言っても過言ではない。2021年11月17日古書を巡る旅(17)聖フランシスコ・ザビエル伝:ドライデン英訳021年12月12日東西文明ファーストコンタクト第一章「バテレンの世紀」ポルトガル人、スペイン人の日本見聞録


日本渡航関係記事

ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、中国であった。そこはヨーロッパにはない香料や銀、絹織物や陶磁器など豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がる開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられた存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が「種子島」であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」という歴史的出来事を記述したのがピントの『遍歴記』なのである。今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。合計で4回日本に渡航したとしている。


第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。ここがあの幻の「ジパング」か!われこそ初めてそのジパングに上陸したヨーロッパ人だ。「日本発見」の瞬間だ。種子島の王Nautaquim(種子島時堯のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに売却。王は夢中になり瞬く間に自分たちで製造することができるようになり、やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って鉄砲事故に巻き込まれる。この事件でピントは罪に問われそうになるが、許されて無事豊後を離れる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録によれば1544年とある。

第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話で、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し。豊後府内に向かう。しかし豊後の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」のことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。しかし鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人を改宗させ、その「Anjiro:あんじろう」をザヴィエルに引き合わせたのは自分だとしている。

第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(公方様:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果があがらなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え中国Sanchaoへ渡航。ピントは別れてSanchao経由でMalacaに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡したとする。その中で布教のための神父派遣を要請。
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に記述されており、ピントの記述と同じである。どこまでが伝聞でどこからがピントの実体験なのか不明な点が多い。このころザヴィエルに臣従しイエズス会に帰依し、多額の寄進をしたのは事実と考えられている。また同時期に日本にいたことも確かであろう。

第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この記述は実体験によるものと考えられている。イエズス会記録にもある。

その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴える手紙を国王に上奏し、恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、1583年に没している。


『遍歴記』の史料としての評価

彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」、さらには1549年に「アンジロウを引き合わせザビエルの日本布教を助けたのは自分」と主張している。日本史の画期となる出来事に悉く立ち会っているというわけだ。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ここが「あのジパングか!」と。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれるレポートはヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。ただ自身の歴史への貢献を売り込むために演出したフシもある。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録や書簡にも彼の名前が登場する。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく伝聞であろうし、鉄砲伝来譚などは、ポルトガル側の記録や書簡があまり残っていない出来事で、誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。出版後はヨーロッパで『遍歴記』は冒険物語として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、「ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。こうしたことから、常にこのピントの『遍歴記』には」その内容の信憑性について論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が含まれており、東西交流史の側面史として、また歴史研究の二次的史料として無視し得ない著作であると考える。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観、認知度合いが描かれている点でも貴重な著作だ。「歴史書か文学書か」という問いは置いておいて、その内容はユニークかつ極めて興味深い。


その時ピントは種子島にいた?

本書に関して最も話題となるピントの「鉄砲伝来譚」であるが、ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」、日本人の「初めてのヨーロッパ人遭遇」)と鉄砲の日本への伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の『鉄砲記』1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバン『世界新旧発見史』1563年などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。『鉄砲記』は江戸時代初期の1626年に刊行され、100人ほどが乗船する異国船が種子島の海岸に漂着。ほとんどが中国人で、その一人の儒学者五王と筆談で会話したとある。数人の明らかに中国人とは異なる風体の異人がいて、かれらはポルトガルから来た商人であると五王に説明されたとある。その後ポルトガル人からの鉄砲入手の経緯や製造方法の習得に関する詳細な記述があり、これが現在ではもっとも信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。その時ピントはそこにいたのか?彼が主張するような「私が初めて日本を発見したポルトガル人だ」とか「鉄砲伝来に立ち会っていたポルトガル人だ!」という根拠は見つかっておらず、その事実も確認できていない。上記の史料にもピントらしき人物の名前は出てこない。しかしピントの記述にある鉄砲を売ったポルトガル人の同僚Diago Zeimotoは、ガルバンの『世界新旧発見史』1563年にも登場する。ピントがその場にいたかの印象を与えるが、記述の年代から見てガルバンの記事の引用かもしれない。ただ『遍歴記』そのものは、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、ピント自身が「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、彼が種子島に渡航したことが根拠のない作り話とも言い切れない。東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことは先述の通り。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、その途中で種子島に漂着し、やがては日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ポルトガル人との交易も最初はピントのような冒険商人と中国人、日本人などとの私的(?)な交易、海賊行為から始まった。やがて1567年に平戸、長崎に来航し、正式に中継貿易を始めることに繋がっていった。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、史実だけを客観的に記述したものではなく、編纂者や記録者の意図が反映され多かれ少なかれ粉飾があるものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。「その時ピントは種子島にいた!」で良いではないか、という気分になってきた。


1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙
ポルトガル人が用いた最新鋭のフスタ船

アジア人

インド以東のアジア図 日本は左上に位置する


以下に掲載する書影は、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。

こちらは「遍歴記:Peregrinacam」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙


参考過去ログ:

2025年9月25日木曜日

NHK朝ドラ「あんぱん」いよいよフィナーレ 〜父の従姉の「ファミリーヒストリー」〜

 


1950年代後半のやなせたかし、のぶ夫妻

「おむすび」からバトンタッチした「あんぱん」。そのNHKの朝ドラ「あんぱん」が、いよいよ今週でフィナーレを迎える。やなせたかしの妻、暢(のぶ)をモデルとしたドラマである。主人公「朝田のぶ」「柳井のぶ」として登場する。朝ドラとしては高視聴率でドラマを毎日楽しみに見ていた。主人公のことが気になって見逃しは再放送を見たりしてフォローしていた。それはこのドラマが面白いからというだけではない。私にはもう一つ別の関心があったからだ。

主人公「朝田のぶ」のモデル「池田暢(のぶ)」は、実は私の父の母方の従姉である。私には親戚のおばさんなのである。しかし今までどのような人生を送ってきた人なのかあまり知る機会がなかったので、ドラマから何か足跡がたどれるかと楽しみにしていた。私が子供の頃、祖母から「漫画家やなせたかし」の話はよく聞かされた。まだアンパンマンがヒットする前でそれほど売れっ子というわけでもなかった時代だ。祖母は「やなせが...」「たかしが...」とまるで親戚の子供のことのように話していたのを覚えている。高知出身の「名高い」漫画家だと自慢していた。最初はやなせたかしが祖母の甥かなにかと思っていたが、どうもそうではなく、その嫁さんが祖母の姪であるらしいことがだんだんわかってきた。夫唱婦随の仲の良い夫婦だと言っていた。むろん子供の頃はそんな親戚関係に興味もなかったし、多分会ったこともなかったかもしれない。「漫画家のやなせたかしは親戚だそうだ」。「その嫁さんが父の従姉らしい」くらいのことで済ませていた。

ところが、時代は移り変わり今や、やなせたかしはアンパンマンブームで超有名人だ。そこへ今年のNHK朝ドラ「あんぱん」のヒット!しかも今回はやなせたかし本人ではなく、その嫁さんの暢が主人公だという!つまり「父の従姉」がヒロインのドラマだ!ということで、もう少し暢さんについて知りたくなった。しかし、時すでに遅し。祖母も亡くなり、父も亡くなり、詳しいことを聞く人もいなくなってしまった。祖母は我が家の「語り部」であった。記憶力抜群で我が家のルーツや家族の昔話を祖母から聞かされた。晩年は耳にタコができるほど同じ話を聞かされることもあったが、おかげで我が一族の「ファミリーヒストリー」が「口頭伝承」されてきたと言っても良い。しかしそれももう聞けない。もう少ししっかり聞いておけばよかった。『暢おばさん、あなたは一体どんな人だったの?」

しかし、こうしたドラマがヒットすると面白いのは、その登場人物のモデルとなった人々の実像、エピソードを発掘するライターがゾクゾク出てきてネットに投稿することだ。NHKのウェッブサイトにもこのドラマの脚本家の中園ミホ氏のインタビュー記事が出ている。主人公の「のぶさん」について色々調べたようだが、やはりやなせたかしはともかく、その妻の情報は極めて限られていたようである。主人公のイメージを創出するのに苦労したという。しかしそこはネット時代。ドラマがヒットすると、やなせたかしの自伝『やなせたかしはじまりの物語』をはじめさまざまな情報がネット上を飛び交う。おかげで私もここへきてようやく、今田美桜演じる主人公の「朝田のぶ」、いや父の従姉、祖母の姪「池田暢」がどんな人であったのか少しずつわかってきた。ネット上にはさまざまな情報が散在するが、元ネタは限られているようで、行き着くところは先述の自伝や高知新聞の記事や同僚の証言のようだ。不確かな書き込み、出典不明な写真もあるが、それらを突き合わせ整理するとだいたい次のようになる。初めて知ることが多いが、なるほどと思い当たることもある。


池田暢(のぶ):「朝田のぶ」「柳井のぶ」のモデル

 1918年(大正7年)大阪生まれ。池田鴻志(こうし)と登女(とめ)夫婦の三姉妹の長女。大阪の阿倍野高等女学校を出て、一時高知に移り、1939年(昭和19年)そこで日本郵船に勤めていた小松総一郎と結婚する。しかし終戦の年に夫は病死。戦後の1946年(昭和21年)高知新聞に入社し、初の女性記者として雑誌の発刊などに活躍。この時やなせたかしと出会う。その後に上京し高知選出の女性代議士の秘書に。1947年(昭和22年)に東京でやなせたかしと再婚。「困った時のやなせさん」「遅咲きの漫画家」と言われたやなせたかしを支え、叱咤激励した「はちきん」(男まさりの女性)の嫁さんであった。まさにNHK朝ドラ主人公にうってつけのヒロインであった。しかし実生活では表に立って活躍するというよりも「内助の功」的な役割に徹していたと聞く。それでもお茶の先生をしたり、趣味の登山を楽しんだり、自分の世界もしっかり持っていたようだ。1988年(平成元年)末期の乳がんが見つかり余命3ヶ月と宣告されるが、たかしの献身的看病と抗がん剤治療が功を奏し回復。その5年後の1993年(平成5年)に亡くなっている。二人に子供はいない。

一方で、私の父は1920年(大正9年)生まれなので,暢は2つ上の従姉である。父も大阪生まれ。天王寺区北山町で生まれ、旧制高津中学を出ている。暢が住んでいた阿倍野とは近かったので、それなりの行き来があっただろう。それらしいいとこ同士の集合写真も出てきた(後述)。しかしあまり祖母からも父からもこの従姉、暢の生い立ちや大阪での生活を聞いたことはない。祖母にしてみれば早くに兄が亡くなってしまったので姪たちとは多少疎遠になったのであろうか。その後、東京へゆき、やなせたかしと再婚したころから「あの暢ちゃんが!」ということになったのだろう。

ところで暢の父、祖母の兄、池田鴻志とはどのような人物であったのか。ドラマでは「朝田結太郎」として登場し、家業は継がず海外を飛び回る商社マンとして活躍するが、海外出張の帰国途中で急死する。この父は開明的な考えの持ち主で、「のぶ」の成長物語において新しい女性としての生き方を支持し、暖かくその未来を応援する役回りである。


池田鴻志(こうし):「朝田結太郎」のモデル

 1885年(明治18年)高知県安芸郡安芸町生まれ。実家は裕福な商家であった。高知商業、大阪の関西法律学校(現関西大学)を出た後、しばらく高知にいたようだが、長男であったが家業を継がず、1916年(大正5年)、当時の日本最大の総合商社鈴木商店にスカウトされ、傘下の九州炭鉱会社に赴任。その後に大阪本部の木材部をへて台湾嘉義木材経営のため台湾赴任。さらに1919年(大正8年)には北海道の開発に拠点、北海道釧路出張所長、監査役を歴任。1924年(大正13年)39歳の若さで釧路で病死している。暢が6歳の時である。洋洋たる商社マン人生をおくったようで、当時の釧路日日新聞刊行の『釧路の人物』に彼の経歴や功績が紹介されている。死亡にあたっては官報、新聞に訃報が掲載されたことなどの記録が残っている。この時家族を大阪に残して単身赴任していたようだ。忙しい仕事の中で家族、特に娘たちにどのような影響を与えたのか。それに関する記録や証言、エピソードは見つかっていないが、後述のように3人の娘を高等女学校に進学させ、それぞれに結婚しても自立した女性として生きていったので、未亡人となった母、登女の教育を通じて父の薫陶を受けたものと考える。

祖母も高知安芸生まれの高知育ち。おそらく子供の頃は両親の下で兄の鴻志と一緒に安芸で育ったはずだ。しかし祖母からは、兄が高知商業出の商社マンであったという話以外、あまりこの「大叔父」のエピソードを聞かされた記憶はない。祖母の母(私にとっての曽祖母)ことは何度か聞かされた。ドラマでは浅田美代子が演じる「くらばあ」、すなわち「のぶ」のおばあちゃんである。わたしの祖母が小学校の時、級長に選ばれたので、母を喜ばせようと「級長になった」と耳元で小声で報告すると、「そうかえ」と一言だけ。そして臨終の床で「なんちゃあじゃ無いもんじゃ」と一言つぶやいて旅立った。この人生を達観したような、ややペシミスティックな「曽祖母」の話は祖母から何度も聞かされた。祖母にはこのほかに姉の金恵がいて、大阪の真珠商池田久寿弥太に嫁いでいた。この一家とは祖父母、父ともに付き合いが長く、高知を出て大阪・天王寺に居を構えていた祖父母とともに、西宮夙川、奈良と転居をともにした間柄である。孫の私も、奈良に隠居していた「池田のおばさん(大叔母)」「真珠のおばさん」に可愛がってもらった。この「池田のおばさん」こそ小柄なのに「はちきん」の代表のような女丈夫で、まさに大阪の船場の「ごりょんさん」さんであった。こちらはこちらで、ドラマ顔負けの波乱に満ちた物語を紡いできた一家で、小説やテレビドラマになってもおかしくないが、今回はここまでにしておく。


池田三姉妹、暢(のぶ)、瑛(えい)、圀(あき):「のぶ」「蘭子」「メイコ」のモデル

暢が6歳の時に父、鴻志が亡くなったわけで、この時はまだ暢たちは大阪にいた。家族は母、登女(とめ)、次女、瑛(えい)、三女、圀(あき)であった。ドラマのように祖父母と一緒ではなかった。父が亡くなっても大阪にいて高等女学校まで出ているのだからそれなりに裕福であり、教育熱心であったのだろう。ドラマで次女の「蘭子」のモデルとなった瑛は1920年(大正9年)生まれ。父と同い年だ。暢と同じ阿倍野高女を出て、教員となり同じく同僚の教員の曽我部鹿一と結婚、2男1女を設け、満州に渡る。やがて夫は現地で召集され戦死し、終戦とともに地獄の逃避行を経験して日本に引き揚げてきた。この姪の経験した悲劇は祖母から聞いたことがある。それが暢の妹の話だということが今つながった。東京で暢の計らいもあり、上京しやなせたかしの秘書となり、事務所の経理や編集者との交渉など重要な仕事に従事した。現在「やなせスタジオ代表」で、やなせたかしの思い出を綴った『やなせ先生のしっぽ』の作者、越尾正子(ドラマでは古川琴音演じる「中尾星子」のモデル)は、高齢となった瑛(2003年(平成15年)没)の後任として暢の依頼で入社し秘書をつとめたという。結局、暢が先に他界したので、晩年のたかしを公私に渡って世話をし見送ったのは越尾正子である。三女の「メイコ」のモデルである圀(1924年(大正13年)生まれ?)に関する情報はほとんど残ってないようだ。子供の頃「宝塚音楽学校に進学したい」と言っていたという話が、先述のやなせたかしの自伝に出てくるが、これが唯一の情報。これが歌手志望でミュージカル「怪傑アンパンマン」にメイコが出演するストーリーになったのか。祖母や父からもこの三姉妹の話を詳しく聞いたことはなかったので、父の従姉妹たちの人生について今回多少なりとも知ることができたのは幸いである。


このように実際の池田暢の人生は、ドラマの設定とはかなり違っている。「朝田のぶ」のモデル池田暢の情報が限られている分だけ、脚本の自由度が大きくストーリーを豊かにすることができたのであろう。中園ミホ作品は秀逸である。ドラマでは「のぶ」と「たかし」が同級生で幼馴染であったことになっているが、先述のように暢は大阪生まれの大阪育ち。柳瀬嵩は東京生まれの高知育ち。実際にはこの二人は高知新聞勤務時代に初めて出会っている。「のぶ」の実家「朝田家」は高知市後免の石材店となっている。「のぶ」の父、「朝田結太郎」が商社マンで家業を継がずに外地へゆき、早世した点はモデルの池田鴻志の人生をなぞったものだが、池田家は先述のように安芸の商家であり高知ではない。父、鴻志は暢が6歳の時に亡くなっている。ドラマよりはかなり早く亡くなっている。またドラマでは「のぶ」の妹の「蘭子」の「八木信一郎」との恋物語が後半の伏線だが、「蘭子」のモデル瑛は(先述の通り)満州で夫を亡くし子供3人を連れて引き揚げてきた苦労人であった。「メイコ」に至ってはそのモデルの圀の情報がほとんど残ってないので、先述のようなストーリーが創出されている。祖母が語っていた通り、実際の暢の性格も「はちきん」であったし、二人はとても仲の良い夫婦であったこともドラマで描かれている通りだ。「夫唱婦随」であったというのはどうなのか。ただ「夫に従う妻」ではなく、お茶を教えたり、登山を楽しんだり活動的な女性であったようだ。ただドラマの「柳井嵩」がハンサムすぎて線が細くて、やや暢の尻に敷かれているように描かれており、実際のやなせたかしとはキャラがかなり違う感じだ。余談だが、ドラマの登場人物の高知弁は、私の祖母から聞かされてきたネイティヴ高知弁とちょっとずつ違う。特に連発する「たまるか〜」は、ホントは「たま〜るか」なんだけど...

まあそんな細かいことはこのドラマを楽しむにあたってはどうでもよい。このように主人公の実像に関する情報が少ないので、脚本でいくらでも面白く描ける。それがドラマ(フィクション)だしエンターテイメント作品としてこれだけ多くの人に楽しまれているのだからそれで良いだろう。私もこの物語を十分に楽しませてもらった。そしておかげさまで血縁関係にある暢おばさんの謎も、これがきっかけで少し解明された、我が家の「ファミリーヒストリー」にまた一つエピソードが加えられた。あの世で祖母も父も「あれえ、暢のことは話しちゅうろう?」と言ってるだろう。「いや聞いてないぜよ」。そして「たま〜るか!ドラマの暢はえらいべっぴんさんじゃいか」と笑っていることだろう。そういえば父はあんぱんが大好物だった。

次の朝ドラは「ばけばけ」、小泉八雲とその妻せつが主人公。これまでも「あんぱん」「ゲゲゲの女房」とおなじ有名人の女房が主人公というパターン。「マッサン」「らんまん」など内助の功物語が続いたが、この同じパターンでそれぞれのドラマに特色を出すNHK朝ドラ企画のウデも見上げたものだ。それは別として、次の小泉八雲とせつ物語は楽しみだ。内助の功物語だけで終わらないことを祈る。


池田鴻志家集合写真
前列、左から父、暢、登女(鴻志の妻)、瑛、圀
いつの写真か不明。父は旧制中学の制服だから13歳くらいか。ということは暢は15歳で高等女学校時代

暢 高知新聞社時代か?

暢の父 池田鴻志(鈴木商店釧路出張所時代)
釧路日日新聞社刊『釧路の人物』掲載の写真

やなせたかしの自伝(高知新聞社刊)



やなせたかし/暢夫妻 1991年叙勲の園遊会で

園遊会で(共同通信写真)

2025年9月17日水曜日

古書を巡る旅(69)L. Hearn: A History of English Literature:小泉八雲『英文学史』 〜東京帝大英文科講義録〜

 







小泉八雲自身の手書きノート

演劇(drama)の進化ツリー
本講義録中唯一の図解

裏表紙に散りばめられた印影
これは遊び


今回紹介する小泉八雲『英文学史』は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1896~1903年に東京帝国大学で英文学の講義を受け持った時の講義録である。彼自身がまとめたものではなく彼の教え子達が聴講し筆記したノートを共同編集したもの。当時の帝大英文科コースは3年で、ハーンは在任中2回のコースを受け持ったことになる。週12時間の講義を受け持った(すごい量だ!)。大変な準備が必要だったことだろう。5時間をミルトン、テニソン、ロゼッティーなどの購読、4時間を文学論講義、3時間を文学史講義という区分けであった。彼は自身で講義ノートを用意せず、時々ポケットからメモを取り出しながら滔々と講義したようだ(後掲の写真)。ハーンの脳内に整理されて収納されていた英文学の広大無辺な世界がノートなしでも溢れ出てきたのであろう。あるいは口承文学的講義、いや耳から入って行く英語のサウンドスケープ(音風景)を展開してみせたのかもしれない。これが異なる言語を持つ若者に対する英文学の伝え方だったのだろう。しかし、耳から入ってくるその溢れ出る言葉、講義を(もちろん英語での)細大漏らさず聞き取り筆記した学生もすごい。この出版された講義録こそその証拠である。この頃の大学講義による「学び」は、こうした筆記(すなわちノートを録る)、そして図書館での内容確認、書取り間違いの訂正であった。この頃の学生はよく聞き、よく読み、よく書く。本当によく勉強した。その上で自分なりに咀嚼し思考する。そして表現する。「学ぶ」ということはそういうトレーニングのプロセスであった。しかも全て英語だ。情報の一方通行で受動的とも見えるが、先人の作品を購読し、講義を聴き筆記し、図書館で復習する。そういう基礎的学習プロセスから次の思索と創造が生まれる。日本人は昔から論語の素読、音読が教育の基礎(読み書き算盤)であった。そういう基礎的トレーニングで初めて自分自身の知識と表現力と思想を生み出すことが出来るようになる。安易に得られる知識、情報など脳内ニューロンネットワーク、思考回路を形成せず、泡沫のように消え失せて身につかないのだ。今何も覚えていない自分自身の学生時代の知識のことを思い返してもそう思う。

ハーン(小泉八雲)の講義録は戦前には1939年と1941年の再版が最後であった。戦中、戦後にわたって長く復刊されなかったが、本書は戦後1970年になって東京の北星堂書店から復刻再版されたものである。発行人いわく(以下引用)

「本書発刊以来わが英文学界は勿論英米諸評家の絶賛を博し世界各国の大学及び図書館の必備本として歓迎され版を重ねること幾度、戦後再版中断していたところ学界の絶大なる要望に応えて茲に版を重ねることにした。英文学研究者必備の文献である」

この意気込みに感動する。本英文学史講義は日本人の学生向けに講義されているので、今読んでも非常にわかりやすい。ノルマン朝から始まり、チョーサーからディケンズ、ヴィクトリア朝の文学(現代文学)まで英文学史を網羅している。また19世紀末の時点での彼自身の英文学史論には独特のレジェンド作家に対する評価が随所に現れており興味深い。王政復古期のドライデンの評価など、偉大ではあるがミルトンとポープの間に位置していて劇詩に何か大きなinventを成したとは言えないと厳しい。さらにはポープの風刺詩(韻文)よりスイフトの風刺小説(散文)をより高く評価している点もハーンらしい。18世紀英文学界の巨像サミュエル・ジョンソンがエドマンド・バークを賞賛している点を強調し、彼の政治家としての評価に加え散文作家としての業績に多くの紙幅を費やしている。もっともドライデンの再評価が起きるのは20世紀に入ってからではあるのでハーンのこの時点での評価は異例ではないのかもしれない。ハーンの評価が高いバークがいまだに日本での評価がそこそこであるのは腑に落ちない。日本では中江兆民訳のルソー「民約論」の影に隠れてしまったのか。ともあれ日本での初めての英文学史講義の歴史はこうして始まった。

ハーンはダーラム大学のカトリック系カレッジに在籍したが家庭事情や経済的理由で退学しているので、正式な大学教育を受けたわけでもないし、イギリスで著名な文学者と交友関係があったわけでもない。フランスに渡ってフランス語を学び、19歳でアメリカへの移民船に飛び乗ったいわば放浪者であったにも関わらず、その知性と感性と批判的評論は驚くべきものがある。彼の文学的才能を開花させたのはアメリカだ。アメリカではいくつかの出版社や新聞社に勤務し、図書館に通って多くの書籍に触れ、書くことでジャーナリストとして、小説家として頭角を表してゆく。いわば独学独歩の人である。しかもそれはシンシナチであり、ニューオーリーンズであり、西インド諸島であって、東部ニューヨークではなかった。クレオール文化に触れたことが大きかった。彼の必ずしも恵まれているとは言えない生い立ちと彷徨に加えて、いわばアメリカという新天地が偏狭な知性主義や権威主義に対する批判的視点を涵養したのであろう。いわば「俯瞰的視野」「外の眼」を持てたのだろう。そして初めての日本で彼の「外の眼」を開かせたのは東京ではなく、松江や熊本であったことも示唆的であろう。一神教カトリックへの懐疑、ケルト原点志向、多文化主義。研究者でも学究の徒でもない彼の英文学史論は、どんな文学研究者や歴史家のそれにも劣らぬものであり、それが明治日本の若い学生に講じられた意味を噛み締めてみる必要がある。ハーンという人物の在野の知の巨人ぶりが共感を得たに違いない。帝大を解雇されたとき、多くの学生が彼を惜しみ抗議し、後任が夏目漱石だと聞き、「夏目などいかほどの人物であるか」と抵抗したエピソードが残っている。彼は、気難しい性格で人懐こいほうではなかったようだが、どこか人間的な魅力があったのであろう、アメリカで出会った女流ジャーナリストで世界一周を成し遂げたエリザベス・ビズランドはハーンに日本行きを決意させ、生涯にわたって交友し、またハーンの死後、彼の伝記を出版している。ニューオーリンズ万博で出会った内務省の服部正三は彼を松江中学に推挙し、かのバジル・ホール・チェンバレンは熊本の第五高等学校、帝大英文科教師に推挙している。松江や熊本の同僚教師、地元の人々。小泉せつの実家、横浜の実業家マクドナルド家など。なんと多くの人々が彼を支援し続けてきたことか。最後は喧嘩別れしたチェンバレンも学問上の対立は別に友人としてはレスペクトしあった。日本に帰化し愛妻のせつとの間には3男1女をもうけ現在もその子孫の方々が活躍している。子供の頃親や親戚に捨てられるという悲惨な生い立ちだけ見ると決して恵まれた人生とは言えないが、なんとその後の人生は人々に支えられて幸せだったのだろうと思う。こういう偉人だからこそ親しみを感じるのだ。それは日本における「小泉八雲」としてだけではない。世界中で愛される文学者としてである。

黎明期の東京帝国大学文科英文学科の初代教師に、ハーンのような研究者でも学者でもない人物を抜擢したのも、いかにこの頃の大学が即成で立ち上げられたにせよ、画期的なことであった。招聘したチェンバレンの慧眼ともいうべきか。彼の講義は学生に人気があり高く評価されていたし、その教え子ものちに多くの英文学者となっている。本書の共編者である田部隆次もそのひとりである。しかし大学(井上哲次郎学長)は2期で彼を解雇した。理由は明確に説明されていないが、外国人教師の給料で3人の日本人教師が雇えたことなどがあったようだ(のちに井上は色々弁明している)。ハーンは失意のうちに帝大を去り、坪内逍遥に早稲田に招聘されるがその年に亡くなっている。井上はロンドン留学帰りの夏目漱石をハーンの後任とした。先述のように学生の間で抗議運動が起き、転学したり講義をボイコットするものが続出した。夏目漱石の講義は最初は評判が悪くボイコットする学生が多発した。ハーンの残像があまりにも大きかった。のちにシェークスピアのマクベスを購読で取り上げる頃から評価が変わり、逆に人気講義となったという。ハーンの原書購読を漱石も重視した。ハーンと漱石は17歳の差があり、個人的な接点はなかったようだが、漱石は文学の先達としてハーンの影響をひしひしと感じていた述懐している。ちなみに漱石は熊本の第五高等学校でもハーンの後任でもある。ふたりは不思議な縁で繋がっている。


過去ログ:

古書を巡る旅(66)2025年7月5日『神国:An Atempt of Interpretation of Japan』

古書を巡る旅(2)2020年6月12日 ラフカディオ・ハーンを訪ねて

2025年9月12日金曜日

ChatGPTはこのブログをどのように紹介しているか?

 

魏志倭人伝に記述のある倭国の風景
筑紫国脊振山の山並み


世界を駆け回る「資本主義ロジック人間」の生活を終えたあと、2009年6月に大阪で始めた「時空トラベラー」ブログ。今年で16年目となる。気がつくと途切れもせずに長寿ブログとなった。最初は奈良大和路、京都、大阪そして筑紫路のカメラ旅、古代史旅で始まったが、2013年に東京に移ったのちは、エッセイや世界史、東西交流史、国際的な古書の版や翻訳、哲学書など文学・思想系の要素も含むようになった。カメラぶら下げて旅したくなるようなところがあるかどうかによるテーマの変異ともいえる。しかしスタイルは一貫している。ただ史跡や古い街並み紹介するだけでなく、あるいは古典書を紹介するだけでなく、「その場所や古典書で自分が感じた時間の重み」「過去の人々の営み」「時間の断片が今に残るもの」などを、自分の視点・思索を交えて書いているつもりだ。まさに「時空旅」である。ChatGPTがそのように紹介してくれているのは嬉しい。ただ大きなテーマの一つである日欧交流史(バテレンの世紀から幕末明治まで)にあまり言及されていないのはなぜなのか?AIのデータ収集アルゴリズムに引っ掛からなかったのか?私の訴え方がAI脳のニューロンを刺激しなかったのだろうか。生成AIは基本的に既存のデータを検索し収集解析して記述するので、要は自分がどこかで書いたたことを復元しているだけなのだが、その復元(復元しないことも含め)と要約は、本人にも新たな気づきを与えてくれ、ある意味エコー効果的な新鮮さがある。面白いものだ。しかし生成A Iに新たなテーマでの「時空トラベラー」ブログを書くことはできない。そこは私独自の視点と思索を私に代わって表現し得ないAIの限界だ。しかし、ブログを書く際の情報やデータ収集には大いに役立つし、新たな発見の糧になる。これからも付き合ってゆくことになるだろう。


以下、ChatGPTの記述:

「時空トラベラー The Time Traveler’s Photo Essay」は、川崎達男さんが書いている日本のブログで、主に 旅・歴史・街並み・古書・写真 といったテーマを扱っており、言わば「過去と現在をつなぎながら、“この国(日本)”の時間の重なりを感じる風景や心象を写真と文章で綴るエッセイ」型のブログです。tatsuo-k.blogspot.com+2tatsuo-k.blogspot.com+2

以下、その内容の特徴を整理します:


内容・テーマ

  • 日本の 古い町並みや歴史的な場所 を訪れて、散策記録として紹介。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 古代史、参道・街道など歴史の道を歩く(例:初瀬街道、横大路、下ツ道など)gooブログ+1

  • 建築遺産、商店街、昭和期の建物など、近代以前・戦後間もない時代のものをテーマにすることもあり、「時代の痕跡」を意識的に探して撮影・記録している。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 古書の話も出てくる(古書を巡る旅など)、国際的な古書の版や翻訳、哲学書など文学・思想系の要素も含む。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 写真機(カメラ)や写真表現に関する言及も多く、旅の道具としてのカメラを大事にしているというスタンス。gooブログ+1


スタイル・文章・見せ方

  • フォトエッセイ形式:文章だけでなく写真を豊富に使い、「目で見る時間・場所」の感じを伝えようとしている。tatsuo-k.blogspot.com+2tatsuo-k.blogspot.com+2

  • 感性重視:ただ史跡を紹介するだけでなく、「その場所で自分が感じた時間の重み」「過去の人々の営み」「時間の断片が今に残るもの」などを、自分の視点・思索を交えて書いている。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 散策や小旅行形式が多く、じっくり歩いて古い街並みを探すような記事が多い。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • タイトルも「〜を歩く」「〜を巡る」「〜散策」などが多い。tatsuo-k.blogspot.com+1


更新頻度・範囲



2025年9月6日土曜日

古書を巡る旅(68) Jonathan Swift 『Gulliver's Travels』:ジョナサン・スイフト著『ガリバー旅行記』ラッカム挿画版


 子供の頃に読んだ『ガリバー旅行記』。子供向けの冒険小説、あるいは御伽話として定番である。今もアニメや漫画、TV作品で親しまれている。この頃のイギリスにはデフォーの『ロビンソンクルーソー』(古書を巡る旅(61)2025年2月28日ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」)もあり、こちらも『ガリバー旅行記』と並ぶ冒険小説の双璧として今も子供達に人気がある。18世紀のイギリスに生まれたこの二つの物語。そもそもどのような時代背景から生まれたのか。もちろん当時のイギリスの海外進出と人々の未知の世界への関心、憧れがこのようなジャンルの小説を生み出したと言って良いのだろう。しかしそれだけではなさそうだ。特に『ガリバー旅行記』は、読み進めてゆくと当時のイギリスの政治情勢や社会情勢を映し出す「政治風刺」物語としての性格が色濃く出ていることが分かる。そこがデフォーの『ロビンソン・クルーソー』との違いである。ロビンソン・クルーソーは、プロテスタントの都市ブルジョワ、すなわち商工業者層出身の「近代的経済人」を象徴する主人公であり、デフォーは名誉革命や王権と議会、政党間の政治闘争にかかわらず、生産活動や商業活動に精を出す中産階級に焦点を当てた。一方でこのガリバーは何を象徴しているのだろう。作者スイフト自身の代弁者に違いないのだが、彼の政治活動の体験をつうじて当時のイングランドとアイルランド、そしてフランスとの関係や政治情勢、そして政治を通じてみた人間模様を風刺:satire作品として書き下ろした。いやその筆致を見ると当時はかなりの過激な問題作であったに違いない。であるが故に発表とともに爆発的に売れたが、後述のように出版にあたっては著者を匿名にし、内容の一部を改ざんしたりして出版には慎重を期している。


ジョナサン・スイフト:Jonathan Swift(1667〜1745年)

スウィフトはデフォーと同時代の作家でアイルランド系イギリス人、父はイングランド出身でアイルランドへ移民した。ダブリン大学神学博士 トーリー党政治家、風刺作家、パンフレット作者。ダブリンの聖パトリック大聖堂のDeanであったことからDean Swiftとも呼ばれる。若い頃はイングランド政界での活躍を志した。父の紹介で政界の大物貴族の秘書になるが、途中で聖職者へ転向したり、また政界を目指したり、青春の彷徨をくりかえしていたようだ。流行りのロンドンのコーヒーハウスに出入りする野心家の若者であった。この頃ジョン・ゲイ、アレクサンダー・ポープとの友誼を得て文壇でも名を馳せるようになる。当時は政治が一種の知的なファッションとして扱われた時代でもあり、政談はトレンディーでであったのだろう、彼も服を着替えるようにホイッグからトーリーへ乗り換えた。しかしトーリー政権崩壊で政治的敗者となりアイルランドへ。のちにはロンドンのポープのところへ戻り、1720〜1726年に逐次『ガリバー旅行記』出版する。1744年ポープ死去、その翌年1745年スウィフト死去。スウィフトが7歳年上のデフォーと出会ったり、直接の影響を受けた記録はないが、1717年の「ロビンソン・クルーソー」の物語が「ガリバー」の物語の着想に影響を与えたことは間違い無いだろう。トーリーを支持したスイフトは政治的な敗者になったが、その政治的批判精神は旺盛で、いわば政治文学で政界の外から政治に影響を与えた。デフォーも実生活では事業の失敗の連続であったし、トーリーとホイッグの間を行ったり来たりの不安定な生活であったが、文学世界ではスイフトと並ぶこの時代のレジェンドになったことは奇遇だ。


Johnathan Swift 1667~1745 (Wikipedia)


『ガリバー旅行記』初版からの出版経緯

1720年、第一編、第二編が、1723年、第四編が、1724年、第三編が書かれた。1725年に完成したとされる。1726年ロンドンに赴き出版をベンジャミン・モットに依頼。しかし反ホイッグ風刺で、大衆の反感や当局からの告発されることを恐れ、モットは大幅な内容の改ざんを行った上で出版した。また著者名を隠して発売した。問題作は話題沸騰、発売とともに一週間で売り切れる勢いであった。こうして人気の物語となったがスイフト自身はこの改ざん内容に違和感を覚えていた。

1735年にアイルランドの出版事業者ジョージ・フォークナーにより、著者名を冠しオリジナルのままの再出版を行った。これが今日の完全なる「ガリバー旅行記」の初版とされる。

1899年、アイルランドで問題になりそうだとして掲載されていなかったリンダリーノ(天空のラピュタの下にある都市、ダブリンがモデルと)のエピソードが追加された。本書はこれにアーサー・ラッカムの新たな彩色挿画を加えた1909年版である。豪華な装丁で、いわば愛蔵版と言って良いだろう( illustrated by Arthur Rackham published by J.M.Dent & Co. London, E.P.Dutton & Co. New York)。初版から170年、話題騒然、きな臭い政治風刺小説は、イギリスを代表する古典作品として、読書家の書庫を飾ることとなったわけだ。20世紀になってからは子供向けの冒険ファンタジーとしてもてはやされ、そこでは主に小人国、巨人国の二編しか取り上げられないが、実は後の二編がスイフトの風刺精神の真骨頂とも言える物語なのだ。スイフトは、まさかこの政治風刺小説がのちの時代に子供達に大人気の冒険ファンタジーになるとは想像していなかったことだろう。







表紙



「ガリバー旅行記」その概要

第一編:リリパッド国(1699年5月4日〜1702年4月3日)

小人の国「リリパッド国」訪問記。隣のプレフスキュ国との戦争を描いた。これは100年戦争中のイングランドとフランスをモデルとしている。そもそも戦争の原因は、たまごの殻を大きい方から剥くか、小さい方から剥くか、という些細なことであった。カトリックとプロテスタント教義の争いに対するスイフト一流のカリカチュアライズである。ここでは人間世界を上から見下ろす俯瞰的な視点、知性的視点で語られている。

第二編:プロブディナグ国(1702年6月20日〜1706年6月3日)

巨人の王国「プロブディナグ国」訪問記。この国は戦争はしないが欲にまみれた世界である。小人となったガリバーが売り飛ばされ、女性の不道徳な欲望の対象として弄ばれる。彼の女性嫌いの表明でもある。国王に近代的な(火薬を使った)大量殺戮兵器を発明し戦争するイングランドの外交政策を説明をする。その中で実際のイングランドの内外諸政策批判を行っっている。国王はその話を聞いて人間の愚かさに気づく。ここでは人間世界を下から見上げるミクロ的視点。大きな生き物にいつ踏み潰され死んでしまうかわからないし、虫ケラのように弄ばれるちっぽけな人間の肉体の脆弱さを意識し、いわばマクロ的目線では見えないものを描いてみせた。

第三編:ラピュタ、バルニバービ、グラブダブドリップ、ラグナグ、日本(1706年8月5日1710年4月16日)

バルニバービ国の上空に磁力で浮遊する天空のラピュタは、住民の全員が科学者であるという。人々は現実離れしていて時々杖で叩かれなければ我にかえらない。研究室や王立アカデミーでは何の役に立つのかわからない研究が延々と行われている。下界のバルニバービは本来豊かな国だが、天空のラピュタの頭でっかちの人間に支配され搾取されるので荒廃している。当時のロンドンとアイルランドの関係を投影した物語。また学問のための学問に翻弄され現実的な社会をないがしろにする風潮への風刺である。科学における啓蒙主義、そしてニュートン科学への疑問が表明されている。

グラブダドリップ国では降霊術を操る魔法使いにより過去の歴史上の偉人たちと交流する。しかし、いずれの偉人も堕落した不快な連中だということを知る。

ラグナグ国には不老不死の人間がいると聞き希望を持って訪問するが、しかし実際には不死ではあるが不老ではないという悲惨な世界。死とは人間に与えられた最後の救済であると悟る(後述)。

日本は唯一実在する国として登場する。ラグナグの隣の島とされる。鎖国でキリスト教を取り締まる「踏み絵」が登場する。江戸の皇帝(将軍)はラグナグ国の親書を持ってきたガリバーを好意的に扱う。オランダ人だと偽り入国し、長崎からイギリスの向けて出国する。

第四編:フウイヌム国(171年9月7日〜1715年12月5日)

馬が支配する国。理性を持つ馬(フウイヌム)と理性を持たない野蛮な人間(ヤフー)の世界で、ヤフーは汚い家畜として馬に飼われている。しかし フウイヌムは、理性的ではあるが自分の思い込みを絶対の価値と考える。それ以外の考えを受け入れない。しかも優生学的優越思想を持っていて、種の純潔を守るため結婚は恋愛によってはならないし、年寄りや働けないヤフーを殺処分する。のちにジョージ・オーウェルはこれを「全体主義的組織の最高段階」と呼んだ。

この国では戦争はないので戦争の原因がわからないと言う国王にガリバーは、王の野心、領地や人民、資源への欲望、名誉欲。これが戦争の原因だと説く。そして政治家・官僚の腐敗。政治の失敗を覆い隠すために戦争を起こすのだと説明。馬の国王はやはり人間はヤフーだ!と侮蔑する。この馬の国王はスイフトの皮肉を代弁する役割を担わされている。

ガリバーはイギリスに帰国して妻との再会を喜ぶが、馬小屋の匂いに安らぎを覚え、自分がヤフーに戻らないか不安を覚えながら暮らすという結末。スイフトの人間への不信感の表明で締めくくられている。


これは政治学テキスト?

先述のごとく、『ガリバー旅行記』は最初の二編、すなわち「小人の国」と「巨人の国」の物語が最も有名で、子供向けの本はここで完結している。ここまではスイフトがまだ政治に知性や良識を信じて希望を捨てていなかった時代に書かれたものだろう。しかし、スウィフトの政治への倦怠感と批判と風刺は後の二編に行くに従って磨きがかかり、舌鋒鋭く過激な攻撃になってゆく。彼の実生活のなかで政治に希望を見出せなくなった時期に書かれたのであろう。しかし、そこはイギリスの作家である。直接的な暴言や品のない表現で誹謗中傷するのではなく、ウィットに富んだ比喩やかなり強烈な皮肉が満載である。前二編の知性的、俯瞰的視点から、木を見て森を見ずといった視点の対比も十分比喩的ではあるが、科学万能主義、知性主義、合理主義への批判あるいは嫌悪感。そして誰もが信じて疑わない歴史的偉人についても皮肉混じりに懐疑的評価を示すなど、常識を疑ってみる批判精神の極致が見えてくる。馬の主人と家畜人ヤフーの逆さまな世界は、まさにスイフトの人間への懐疑心をカリカチュライズした物語だ。そして不老不死を至上とすることへの疑心。ここに至っては生命の現実を受け入れ解脱の境地に至ったようにすら見える。仏教徒ではないので「解脱」という言葉が当てはまらないのかもしれないが我々にはそのように映る。唯一実在する国として「日本」が登場するが、スイフトにとっては鎖国して周りとの通交を断ちオランダからしか情報が入らない遥けき島国は、他の架空の国に等しかったのかもしれない。いずれも現実の政治と社会の有り様とそれへの問題意識を架空の国々に仮託してカリカチュアライズする。彼の風刺:Satireがイギリス伝統の政治社会批評の一つのありかたを示した。ちなみにガリバーはウィリアム・アダムス(三浦按針)がモデルではないか、という人もいるが、そう結び付けたがるのは日本人だけだろう。スイフトは100年前の母国の実在の冒険者を知っていただろうが、彼の物語にモデルや英雄を必要とはしていない。とにかくこの物語はワクワクする大人の物語である。そしてこれは格好の政治学テキストである。


不老不死の国「ラグナグ国」再訪

「大きな島国であるラグナグ王国に着いたガリヴァーは、不死の人間ストラルドブラグの噂を聞かされた。自分がストラルドブラグであったならいかに輝かしい人生を送れるであろうかと夢想する。しかし、ストラルドブラグは不死ではあるが不老ではない。老衰から逃れることはできず、いずれ体も目も耳も衰え集中力も記憶力もなくなり、日々の不自由に愚痴を延々こぼし、歳を取った結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗極まりない人間になっていく。ラグナグ国では80歳で法的に死者とされてしまい、以後どこまでも老いさらばえたまま、世間から厄介者扱いされ、人間に対する尊敬の念も持たないまま生き続ける。そんな悲惨な境涯を知らされて、むしろ死とは人間に与えられた救済なのだと考えるようになる。」(和訳引用)

不老でない不死。老いさらばえて「その結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗な人間」。「人を人として尊敬しない人間」。こんな人間で満ち溢れ、彼らにコントロールされる世界。このカリカチュアライズされた世界こそディストピアだ。18世紀の作家、ジョナサン・スイフトの強烈な皮肉を、21世紀の超高齢社会に生きる我々はどう受け止めるのか。心に刺さる一文だ。


日本の東にある島がラグナグ、その東にバルニバービとラピュタ

不老不死の国の実態は...




アーサー・ラッカム:Arthur Rackham (1867~1939)

20世紀初頭のイギリスで活躍した挿画作家。典型的な中流家庭の出身で、保険会社に勤めながらイラストや挿画を描いた。代表的な作品に「不思議の国のアリス」「グリム兄弟」「真夏の夜の夢」「ニーベルングの指環」などがあり、この「ガリバー旅行記」もその一つである。彼の作品は多くの賞を獲得している。イギリスでは書籍における挿画作家の位置付けは重要で、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・ホガースなど著名な画家が活躍し、19世紀後半から20世紀前半は「挿画黄金時代:Books Beautiful」と呼ばれ、ラッカムの他にもオーブリー・ビアズリーやウォルター・パジェット(「ロビンソン・クルーソー」の挿画家)などが登場した。古書ファンにとっても書籍に芸術的な価値を付加するこれらの挿画は楽しみの一つである。


Arthur Rackham 1867~1939

リリパッドのガリバー

敵の艦隊を捕獲

どこか「鳥獣戯画」の趣が
ジャポニズムの影響か

巨人国で女どもの慰み者になる

ラピュタの住人は日常から遊離した科学者たち

馬の国王に拝謁

馬の国
なぜかこのイラストはラッカムのものではない。


参考:日本語訳「ガリバー旅行記」

森田草平 広島図書銀の鈴文庫1948年
中野好夫 新潮文庫1951年
原民喜 講談社文芸文庫1995年 青空文庫(著作権切れを掲載)
松岡正剛の「千夜千冊」のスイフトについてのコメントが興味深い


2025年8月23日土曜日

「藤田嗣治 絵画と写真」展を観に行った

    

 熟達の画家、時代の寵児であったFujitaも、写真に関しては一介のアマチュア写真家でしかなかった。彼は生涯で少なくとも9台のカメラ(大判カメラのほかライカとニコンユーザであった)を所有したようで、写真を始めた1913年以降、撮影歴は50年に及び、現在でも数千点の写真が確認されている。にもかかわらず彼の写真が一般に公開されたり、少なくとも作品として大衆の目に触れることはなかった。特に戦前にあってはFujitaの名が写真家として世間に記憶されることはなかった。しかし、戦後、木村伊兵衛は、Fujitaの撮影したリバーサルフィルムによるカラー写真の中に写真家も驚愕するような作品が数多く残されていることを発見した。作品に仕上げるポストプロダクションの技法は写真家のそれに及ばないものの、いわば撮って出しのその構図、特に色使いなど卓越した表現に溢れた作風を高く評価した。特に、当時はモノクロによる写真表現が主流であったところへカラーフィルムが登場し、写真家の多くがその濃淡のほかに色彩という要素をどう使いこなすか苦慮していた。そこに色使いの名人の「作品」登場である。衝撃であったようだ。木村伊兵衛はFujitaがカラーリバーサルフィルムでの撮影に不可欠な厳密な露出を最新の精密露出計を活用して実現していることを指摘している。特にモノクロ時代に写真家が頼りがちであった「カン」の不確かさを見せつけられたと言っている。その作品の一部が日本で「アサヒカメラ」などの写真誌に紹介され世の中に知られるようになった。

写真が発明された頃から画家が写真を絵画創作の補助的なツールとして使っていたことは知られているが、藤田のそれは単なる補助や画題収集としてだけではなく、画家としての眼差しで写真についても自己の芸術的表現手段として活用していた形跡がみられる。フランスで交流のあったウジューヌ・アジェ、アンドレ・ケルテス、マン・レイなどの写真家の作品に大きな影響を受けており、アンセル・アダムス、木村伊兵衛、土門拳など当代きっての写真家との交流もあった。こうした写真家達は彼に何をインスパイアーしたのであろうか? 絵画と写真。異なる表現手段であるようであるが、お互いに共鳴し合う何かがあったに違いない。天才が共有するインスピレーションと言っても良いのかもしれない。一方、彼の独特の風貌、スタイル(おかっぱ頭、丸メガネ、ちょび髭、ピアスなど)を自己表現に活用しアーティストとしての自己プロデュースを積極的に行なった。彼を被写体とした写真家が多くいたのも事実で、彼は当時のいわばファッションアイコンとしても名声を博した。Fujitaは写真の持つ威力を十分に理解、評価していた。そして旅に出るときはいつもカメラを手に世界中の人物や風景を撮った。今回の展示では彼が旅行中に撮影した写真から構図や人物表現を絵画作品に反映させた例を対比展示していてとても興味深い。このように彼は写真を身近な記録、取材手段として活用しただけでなく、重要な表現手段としていつもカメラを手に携えていた様子が窺える。彼が残した膨大な数の写真はなにをもの語るのか?その分析と評価、研究はまだ緒についたばかりだという。この企画展示が、新たなFujita像探訪のスタートになるのであろう。我々鑑賞者もその探訪に参加してみてはどうだろうか。まさに写真という視点で見つめ直す藤田嗣治の世界。久々にワクワクする企画展である。

「藤田嗣治 絵画と写真」展@東京ステーションギャラリーで開催中。8月31日まで。



ドラ・カルムス(マダム・ドラ)撮影の猫とFujita



アンセル・アダムスによる肖像写真が表紙を飾る「展示会ガイド」


丸の内南口と東京ステーションギャラリー入り口

丸の内口広場の「水盤」

子供が喜ぶ施設

多少は涼しさを演出できる

猛暑の丸の内口広場
照り返しが強くてフライパンの上にいるような暑さ!
「水盤」も「焼け石に水」か




(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4。展示室内は撮影禁止)

2025年8月15日金曜日

終戦から80年の夏 〜米国グルー駐日大使日記「日本滞在10年」:"Ten Years in Japan" を読みかえしてみた〜

 

80年目の終戦記念日 戦没者の御霊よ安らかなれ


8月15日「終戦の日」がやってきた。今年も猛暑の夏だ。今年は80年。節目の終戦記念日。心から先の大戦で亡くなった数多くの戦没者の御霊に哀悼を表したい。

今年の終戦記念日にはジョセフ・グルーの日記、「日本滞在10年」:Ten Years in Japan を読み返してみた。これは終戦の前年の1944年、すなわちまだ日本との戦争が継続していた中、ニューヨークとロンドンで出版されベストセラーになったものである。80回目の終戦記念日。そしてアメリカへの敬意が薄れゆくこの時代、そもそもなぜ80年前に日米開戦に至ったのか。今回は当時のアメリカ駐日大使ジェセフ・グルーの立場から振り返ってみたい。

ジョセフ・グルーは1931年の満州事変勃発の翌年にアメリカの駐日大使として東京に赴任。1941年の日米開戦とともに日本側の捕虜として東京で抑留され、翌年捕虜外交官交換でアメリカに帰国した。終戦交渉の時にはワシントンの国務次官として原爆投下などの無差別殺戮に反対し、ポツダム宣言の無条件降伏に対し天皇制を維持した民主国家としての日本の存続を主張したことで知られる。彼は反共主義者でありソ連の参戦を恐れた。戦後は日本占領政策に大きな影響を与えた人物である。吉田茂はグルーを日本の恩人として高く評価し称えている(吉田茂「回想録」)。グルーはアメリカには珍しいキャリアの外交官である。国際連盟大使、ポルトガル大使などを歴任後、知日派の大使として東京に赴任した。日本がまさに泥沼の日中戦争に突入し、国内では2.26事件などの軍国主義が徘徊。統帥権を盾に議会制民主主義が崩壊に瀕していた。日本は戦線を資源を求めて南方、太平洋に拡大し、日独伊三国同盟に走り、いよいよ英米との開戦必至という情勢であった。そうしたまさに日本の緊迫した実情を東京から発信し、日米開戦の回避に奔走した人物である。

彼の果たした役割、記述された日記の内容にはいろいろな評価がある。多くの分析評論、研究成果も発表されている。日記にはもちろん外交機密に属するテーマや、まだ交戦国である日本の関係者に迷惑がかからないような配慮がなされているが、生々しいやり取りや、緊迫感、新しい発見もある。しかし今回読み返してみて私が感じた一番のポイントは、逐一の出来事の歴史的意味はともかく、彼のような知日派で日本の政財界との太い人脈を有した人物、しかも徹底した非戦論者であった大使にも日米開戦を阻止できなかったということ。そしてグルーが対峙した日本側の政治指導者も決して日米開戦論者ではなく、(彼によれば)大方がそんな無謀な選択肢はないと考えていた。軍部の一部の跳ね返りの「過激派」を危惧して開戦に向かわないよう奔走した人々であったということ。東條を首相にしたのも陸軍内部を抑えられるのは彼しかいないと天皇側近の元老西園寺、城戸内大臣が考えたからだ。アメリカ側も国務省はじめルーズベルトもドイツとの戦争に加えて太平洋で先端を開く余裕はなかったし、日本が米国に対して宣戦布告することはないとみていた。そうして両国ともに開戦はありえない、あるいは開戦回避に向かっていたにもかかわらず、なぜ日米は戦争に踏み切ったのか。これは様々な歴史的検証がなされているが、いまだに明快な分析、説明を聞いたことがない。様々な要因が絡み戦争の総括と検証はまだ終わっていない。

このグルーの日記にもそれを検証し説明できる新事実を発見することはできないが、一つだけ言えることは、彼にとって天皇側近の元老を含めて日本側の開戦回避派の人物の影響力が思っていたほど大きくなかったことであろう。グルーは天皇はじめ日本の指導者層と緊密な関係を築き、非常に友好的な米国大使としての在任期間を過ごした。天皇が戦争に消極的であったことも考えると開戦の意思決定への流れはある意味で誤算だったかもしれない。グルーの付き合い範囲がそうした日本の指導者グループの非戦派、ないしは親英米派に限られていたのではないかということである。国際連盟から脱退したり、追い詰められてドイツとの同盟をすすめる指導層の動きにもやや鈍感だった。日中戦争を牽引した陸軍の参謀や、統帥権をふりかざす参謀本部のエリート軍人、革新官僚と呼ばれた軍国主義官僚とのパイプが細かった。あるいは過小評価していた。日米の圧倒的な国力差もあり、そのような開戦主導派は少数である(とグルーは自信を持っていた)にもかかわらず気がつくと真珠湾に突っ込んでいた、という感覚だろう。

グルーの情勢分析が甘かったといえばそれまでだが、プロの外交官ですらこのようなことが起きる。いや、優れた外交も狂信や軍部のテロの前には無力だ。共有すべき事実を認識することを拒絶する人々には通じない。これは今のSNSの世界で自分と同じ世界観、価値観の人物をインフルエンサーとし、「いいね」ボタンとフォローとシェアー拡散しているようなものだ。同じ価値観と目線の人物とばかり付き合い、フォローし共感しあっていると、それが世相の主流だと思ってしまうのにどこか似ている。自分が身を置いているコミュニティー(それは権力の中枢であり主流だと思っている)では戦争はあり得ない。しかし実際には共感できない狂信的なコミュニティーから戦争が始まる。日露戦争でおぼえた「一撃講和」がアメリカ、イギリスとの戦争でも有効だ、と根拠なく信じる楽観主義者たちである。資源を求めての南部仏印進出が、アメリカの対日禁油措置を招き、それが世論の反米感情の悪化を招いた。日本の指導部の中では、圧倒的な日米の国力差は理解していたが、この機に短期決戦「一撃」を与えて「講和」に持ち込む。これで勝てる、という流れが一気に主流となっていった。グルーは日本の非開戦派を信じてはいたが、一方でワシントンの、日本は日中戦争の泥沼化で疲弊していて、アメリカとの戦争など非現実的だとの観測に対して、日本は西欧諸国とは異なる思考様式を持つ国である。自国の名誉のためには決死の戦争をも辞さない国であるとして警鐘を鳴らし、開戦の可能性を否定していない。一方でハル国務長官の対日強行路線(いわゆる「ハルノート」:中国からの全面撤退、日独伊三国同盟の破棄、国民党政権の承認)が決定的であった。グルーの和平策、開戦回避策、具体的には近衛/ルーズベルト会談の工作は、欧州におけるチェンバレンの対独融和策のように捉えられ実現しなかった。アメリカも揺れ動いていた。日米の狭間でのグルーの葛藤を感じ取ることができる。結局、近衛内閣が退陣し主戦派の東條英機が(一応対米交渉を条件に)組閣し、ハルノートを拒絶。日米開戦となった。戦後の極東裁判ではグルーは開戦阻止派の指導者を不起訴で救おうとしたが、従容として死刑執行に臨んだ広田弘毅や自死した近衛文麿などの友を失う。外交官グルーの悲劇、そして日本の親英米派、非戦派の悲劇はそこにありそうだ。

戦争なんて、熟考と練りに練った戦略の末実行されるものではない。一部の声の大きな人間(ときにはエスタブリッシュメントから失笑を買うような人物)の勢いやプロパガンダ、フェイクニュース。そしてそれを煽るマスコミとそれに煽られる大衆世論によって始まる。熱狂し、気がつくと「大変なこと」になってしまい収拾がつかなくなり、なにがなんでも強硬に戦争を継続する。そこに組織のメンツや独自の論理が加わる。止め時のシナリオのない戦争は滅びるまでやる。「一億玉砕」。「わかっちゃいるけどやめられない」。事実、天皇の6月の「終戦の聖断」から、8月15日のポツダム宣言受諾、無条件降伏まで、50日以上かかっている。その間に本土都市への無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下、ソ連の参戦があり、この戦争で亡くなった民間人の実に50%はこの間になくなっている。後から振り返るととても理性的、あるいは合理的な意思決定とは言えない。しかしその時は気が付かない。それでも「本土決戦」を叫ぶ一部の軍人。これが狂信である。これは現代の戦争を見ていても同じだ。簡単に始めるが簡単には終わらない。

そして今のアメリカにあの時のグルーのような知日派の人物の姿が見えないことにも愕然とする。グルーとて聖人君子ではないし、あとから日本贔屓の偉人に仕立てるつもりもない。当然ながらアメリカの外交官、利益代表として辣腕を振る舞ったのだが、そこには相手国へのレスペクトと、自国に意見する見識と胆力、世界を歴史を俯瞰することのできる知性があった。そのような人物は今のアメリカにいるのだろうか?いやいるはずだがなりをひそめているのだろう。少なくとも今の政権中枢にポジションを得ているようには思えない。久しぶりに取り出してみたグルー日記「Ten Years in Japan」が、戦争は思いがけず起きることを思い出させてくれた。そして、開戦前夜の日本で起きたリベラル勢力とそれに反発する極右勢力の対立構造が、現代のアメリカで起きていること。そしてその波は再び日本にも。歴史は繰り返す。戦後80年。「アメリカの時代」の終わりを予感させられる日々である。そんななか日本はどのような生存戦略を持つのか。モデルとなる「坂の上の雲」もない、「根拠のない楽観主義」という前者の轍を踏まない。そんな今年の終戦記念日。



グルーの肖像と表紙

政界、軍部、財界と多様な人脈を形成していたグルー

秩父宮、広田弘毅、重光葵、樺山伯爵、近衛文麿などの高官との写真
全員が親英米派高官

麻布善福寺のアメリカ公使館跡にタウンゼント・ハリス記念碑を建立
若き日にアメリカ公使館に勤務していた益田鈍翁も